1 私は、魔物と出会いました
春めく穏やかな昼下がり。
朦朧と草むらに横たわるわたしを暖かな陽が包む。なびいる草花が頬をくすぐった。
囁く木々はサワサワと葉を揺らし、変わらない流れを続ける川の音が聞こえる。
静寂に落ち着く森で、わたしは意識を遠のけるようにゆっくりとまぶたをおろしていった。
「ティアナーっ!」
すべての感覚が手離される間際、わたしの名を呼ぶ悲痛な声が聞こえた気がした。
***
休日のランチタイムで活気づく、ファッションビル上階のレストラン街。
落ち着いた雰囲気のカフェで、二つ年下の妹と食後のお茶をゆったり楽しんでいる。
「大きな紙袋だねえ。また漫画? 買いすぎでしょ」
妹の横に置かれた荷物を見て言う。
「これは私に潤いを与えてくれる、心のサプリメントだもん! あねちも小説を大人買いしたくせに」
「まあ、そうなんだけどね」
にししと笑いながら肯定した。
その通り。あねちと呼ばれた私もつい先日小説十三冊をまとめて購入している。
就職後、一人暮らしを始めた私が妹と会うのは久し振りだけど、電話をしていたから互いの現状は把握済み。
二人とも社会人になって自由な時間は減ったが、大人だから出来る大人買い。それを実行できるのは利点だと思う。
「癒しは大事だよー。この漫画がないと頑張れない」
「言えてる。私も小説読んで萌え萌えしてるしね」
そう。きゅんや萌えは乙女たちの活力。
日々蓄積する色んなもので削がれるライフを、私は小説、妹は漫画から得る癒しで補い日常を頑張れていた。
「小説はもう全部読んだの?」
「ううん。あえて少しずつ読んでる」
今回買ったシリーズは当たりだった。一気読みしたいところだけど、楽しみの継続を優先してゆっくり飴を舐めるごとく味わっていた。
そして、いつでも脳内トリップという名の現実逃避が出来るようにと、読みかけの一冊は今日もバッグに忍ばせている。
「見てみてー。これなの、私が買った本」
私は絶賛ハマり中の小説を目の前にかかげて言った。
「『麗しの王国・恋する妖精たちの物語』って……それ知ってる! 乙女ゲームでしょ? 私、アニメで観たよ」
妹が言うように、これは本当の乙女ゲームを題材にした物語だった。
ゲームは麗恋シリーズとして、他にも麗しの学園や戦国などがあり、中でもこの麗しの王国はアニメになるほど人気を博していた。
題名の妖精は出て来ないが、ゲームの舞台である国、アンテウォルタには魔力が存在し、それが、火・水・風・地と四大精霊と同じ属性に分かれていることから、このような名前になっているらしい。
「アニメは主人公のプリンセスとメインヒーローの第一王子の恋愛話だったけど、それと同じ内容? あねちがハマってるのって異世界転生じゃなかったっけ?」
確かに。私の好きなジャンルは異世界転生もの。
中でも主人公が現実世界からゲームの中に転生する物語が大好物だった。
「そうだよ。この話も主人公がちゃんと転生するし」
「じゃあ、プリンセスになるんだ?」
「ふっふっふ、よく見て。これは乙女ゲーム公式のスピンオフ版なの。転生するのは……」
言いながら、私は小説の表紙を指差した。
「ええー! 悪役令嬢?!」
本に書かれる題名は『スピンオフ麗しの王国・悪役令嬢と恋する妖精たちの物語』だ。
「いや、絶対楽しくないでしょ。悪役に転生出来ても!」
「プリンセスよりこっちになるほうが面白いんだって」
私も初めて読んだのはプリンセスに転生する小説だった。
主人公に自身を重ねて読む物語で、夢のようなひとときを満喫した。けれど現実に戻るときに半端なく落胆もさせられたのだ。
すべてがお膳立てされ過ぎている小説と日常の間にはギャップがありすぎたから。
そして次に出会ったのが、この悪役令嬢転生もの。これは、せっかく乙女ゲームの世界に入れたのに、なぜか転生したのは悪役令嬢で。
主人公がなぜ?! と思いながらも、必死に破滅のルートを回避しようと奮闘する姿が楽しかった。
自分も頑張れそうと思わせてくれたし、何より悪役のはずなのに攻略キャラたちに好かれていく様子はきゅんする気持ちを存分に刺激した。
それはいつもの現実に戻っても継続的に心をにやつかせたのだった。
「へえ。確かにプリンセスになるより萌えるかもだね」
さすが我が妹。私が語る思いをすぐにわかってくれて嬉しい。
「でも、これって、あの乙女ゲームの悪役令嬢になるんだよね? アニメ観てないでしょ」
「うん。ゲームもやってない」
小説の最初に書かれるあらすじやネットで見た情報などで何となく内容は把握していたけど、ゲームやアニメには触れていなかった。
「やっぱり。あの子、相当嫌なキャラだったよー」
私が理解する中で、悪役令嬢は高飛車で我が儘なお姫様キャラ。
そしてすべての攻略キャラルートでプリンセスに嫌がらせをするという、行動力溢れる人物だ。このゲームの彼女は頑張り屋さんだった。色んな意味で。
おかげで最後は見事にバッドorデッドエンドを迎えるんだけど。
「うん。でも小説で悪役令嬢になった主人公は、持ち前の無邪気さと天真爛漫さでハッピーエンドに向かって行くの」
その性格は私にはないもの。でも、そんな風に自由に生きるのはいいなと思う。
現実ではそう簡単に真似できないけど、変わりにやってくれる感じが良かった。読んでいると自分がしている気持ちにもなれて、なおさら私を夢中にさせた。
「そうなんだ、面白いね。誰とくっつくんだろ? やっぱり第一王子? 一応、第一婚約者候補だもんね」
「どうかなあ? 今まで読んでたのは、みんなに愛されて終わりだったから。でも相手を決めるならルイスがいい!」
それは攻略キャラの一人である侯爵。
私がこの小説を買ったきっかけは、五巻の表紙に描かれていたルイスの絵に惹かれたからだった。
「まだ登場するところまで読めてないけど、表紙の微笑みがすっごく良かったの! 今の私の萌えは彼で出来ている」
「あはは、確かに好きそうなタイプだね。笑ったときのルイス優しそうだし」
妹は笑いながら、ついでに私の知らないことを教えてくれた。
各キャラは四大属性いずれかの魔力を持つけれど、他にも光と闇というものがあるらしい。
ゲームでは攻略キャラ五人の全ルートを終わらせた後に、闇属性のシークレットキャラもプレイ出来るそうだ。その人物がアニメに出てきていたという。
「実はその闇キャラがね……」
「え、なんかあるの? だめ、言わないで! 小説に出てくるかも知れないもんっ」
私は初めて知ったキャラの情報を聞くのは避けた。何か秘密があるなら、事前に聞いてしまっては楽しみが半減する気がしたから。
「冗談だって、言わないし。アニメは観ないの? ルイスの声が聴けるよ?」
「それは聴きたい! でも、シークレットキャラのこと聞いたから、小説読み終えたあとにするわ」
誘惑の言葉を囁かれ、すぐにでも観たくなる自分の気持ちを抑えるように答えた。
「ああー。私も転生してみたい! すでに片足は二次元に突っ込んでると思うのになあ。もうすぐ扉が開いて行けそうな気がする」
「もう。行ってもいいけど、ちゃんと戻って来てよ?」
仕方ないなあという様子で笑う妹に、私も笑顔を返した――。
***
――ところでふっと意識が途絶えた。というか目が覚めた。
……ん? 目が覚めた?
どういうことだろう。私は瞬きをして思った。
「あれ……何してたっけ?」
妹に会ってランチして……駅で別れて帰って来たんだよね? 自分がベットで横になってるという事態に、うたた寝でもしたのかと考えて身を起こす。
「……は?」
何コレ、ひっろ……。部屋? 目の前に広がる景色を見て思う。
寝惚けた頭はまだ完全に覚醒してないようで。しばし悩んでから、柔らかな感触を覚える手元に目を落とした。
「何? このふかふかひっらひらのベッド……」
そして顔を上げる視界にふと入った頭上を仰ぐ。
「天蓋つき?!」
途端にわけがわからなくなって辺りを見渡す。え、何? ちょっと待って。ここって……。
「……私の部屋、じゃない」
「――あっ!」
突然聞こえた声にびくっ! と肩をすくめた。
一人暮らしの部屋に他人がいることなんてありえないからだ。
「お嬢様がっ! お嬢様が目を覚まされましたーっ!」
振り返った先にとらえた見知らぬ人と、あげられた声、そして言葉に唖然とする。
――誰だ、そして何だ。
そのバリバリのメイド服は!
――お嬢様? 誰のことだ。…………私か?!
瞬時にベッドから抜け出し、近くにあった姿見にバンッと手をつき向かい合った。
「な、な、何じゃこりゃーっ!?」
今までに発したことない口調で叫ぶ。
全身を映し出すその鏡に見えたのは、琥珀の瞳を見開き、ウエーブする長い金髪を携えた――子供の姿の私――だった。
***
絶叫をのみ込んで静まる部屋は、時を刻む小さな音だけを響かせる。
私は先ほどの姿勢で身を固まらせたまま、対面する自分と見つめ合っていた……が。
次の瞬間、ふっと脱力した。
「うん。寝よ」
『考えることを放棄する』を選択した私は、すっと踵を返し何事もなかったようにベッドへ向かった。
再び潜り込んだ柔らかな感触に身をよじり目を閉じれば、すぐにゆらゆらとまどろんでくる。まぶたの裏に、桜が淡く色づき始める穏やかな景色が広がった。
綺麗だなあ。そう思いながら私は夢の狭間をたゆたいに行った。
***
鮮やかな緑の野を、草の匂いを立ち上げて馬を走らせる一行の映像が流れる。
彼らは平原に続く森へと木々をかき分けるように進み、しばらくすると先頭を駆けていた人物が声をあげた。
「よし! この辺りから始めよう」
手綱を引いて振り向いたのは、彫りの深い精悍な顔立ちの男性。
――私はこの人を知っている、とぼんやり思う。
そして同行する騎士が次々と馬の脚を止める中、男性は同乗していた少女を抱えながら下馬した。
「いいかい。くれぐれも私から離れてはいけないよ? 結界があるとはいえ、すぐ外には魔物が生息しているのだからね」
「はーい、お父様。わかってるわ」
――ああ。地面に降ろしながら念を押して言うのは父で、その内容を気にとめる様子なく、ただ反射的に返事するのが私だ。あの時は興味が他にあったんだよね。
そんなことがふわりと浮かぶ。
「ご主人様。それでは日が暮れないうちに視察を終わらせましょう」
――これはテオだ。執事で、父の側近でもある人。
そうだ。今日の目的は、自国にはる結界に綻びがないかの確認。だから国境付近の森まで赴いてたんだ。
そうして一行は訪れた森の結界を沿うよう歩き始め、私も後ろについていく……と見せかけて、すいっと列を離れた。
「みんなに付き合ってたら、何しにここまできたかわからないわよねー」
――そうそう。父の目を盗んで上手く抜け出せたってはしゃいでたっけ。
それから一人で別方向に歩いて行ったんだ。目当てを求めて……やがてわたしはすっかり夢へと誘われた――。
***
春草が薫る森の中。立ち並ぶ木々の間をわたしは一人ひた歩いている。
青白磁の空を軽やかに彩る葉。その隙間からこぼれる陽は微かな光模様となり、揺れる白いドレスを飾った。
「わあ、素敵ね」
ようやく木立のひらかれる場所に辿り着いたわたしは、眩しさに瞬きながら感嘆した。
「ここなら運命の場所にぴったりだわ」
目の前に広がるのはお日様の匂いがしそうなほど柔らかい緑の草原。小さな花々があちこちに芽吹き、その先にはきらきらと光を反射してそよぐ川も見える。
日差しを受けてきらめく水の流れはわたしを誘う。惹かれるままに足を踏み出した刹那、周りを影が取り囲んだ。
そそがれていた陽が遮られる様子に不思議を感じ、ふと上げた目を、わたしは見開かせる。
「あ……」
思わず声が洩れた。
眼中に映し出されたのは、頭上で迫るように浮かぶ黒い塊。
突如に現れた存在から、わたしは視線を外せずにいた。するとそれは辺りに禍禍しい気を放ち、空を浸食するように膨らんでゆく。
そうしてみるみる大きくなる中で、金色に輝く強暴な目が光った。
「……っ!」
――魔物だ――
頭をよぎると同時、本能が危険を察知する。だが、恐ろしく射抜く金に体が硬直した。
声は失われ、足も竦み、根をはるごとく微動だに出来ない。逃げなきゃ、思うより早くそれは動いた。
凄まじい猛進。眼前を覆う一面の黒。
邪気が巡る。
見据えたわたしの目が驚愕に染まる、そのとき。
――バシ――――ンッ! ――
空中でスパークした。
魔物が川岸にはられた結界にぶつかり跳ね返されたのだ。
衝撃は振動となって森に伝わる。併せて内側で弾かれたわたしは身体ごと飛ばされ、そのまま地面へと叩きつけられた――。
***
ぱちっ。私はそこで目を開いた。
……思い出した。そして、枕に頬を埋もれさせたまま呆然と呟く。
「……このちっこいのは、私……なんだ」
はっきりと覚めた頭が鮮明にする。
私はティアナ・レハール、御年十歳。宰相である侯爵の一人娘だった。