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タミルちゃんは謝らない  作者: タカヤマキナ
9/12

第9章 タミルちゃんは予測がつかない

「あぁ…、タミ、さん…」

わたしの身体の下でスプリングがきしきし鳴った。このソファ、やっぱり何処かで中古を譲り受けたものに違いない。酸素を求めて懸命に喘ぎながらそんなことを無意味に考えてしまう。

こんな造りのちゃちな代物、この衝撃でばらばらに崩壊しちゃうんじゃないか。保ちこたえられるとは思わない。

だいいち狭いし。選べる態勢だって限られてる。快適とは言いがたい。以前、初めての時にはこいつだって、ここは落ち着かないし狭いと言って自らベッドへと促してたのに。

でも仕方ない。今日に限らない、最近のわたしたちのごく日常的な風景なんだ。これが。

わたしは増渕の背中に両腕で必死にしがみつき、頭の中で切れぎれに思い返す。

リビングのソファの上なんてまだいい方。キッチンで一緒に料理や片付けをしてる最中でも奴は突然に発情する。二人で入浴してる時は言うに及ばず。果ては顧客の方が帰ったばかりの面談室に入っていったわたしを捕まえてそのまま…。

* * * *

その度あとで、獣みたいなことしてごめん、軽蔑しないでと平謝りされるんだけど。

「あたしも」

昼休みが終わっちゃうな、と心の隅に引っかかりつつも離れがたく、奴の頭を胸にしっかりと抱きしめて髪を撫でてやりながらうっとりと呟く。

「いやじゃ、ない。…から。…こういうの…」

それは事実だった。理性はともかく、こっちの身体も全然嫌がってはいない、残念なことに。こんなに毎日のように求められる事態に、うんざりするどころか歓びの方がはるかに大きい自分に内心で呆れる。わたしってこういうやつだったんだ。今まで想像もつかなかった。

二十六年間生きてきて男の人に触れたい、触られたいと思ったことすらなくて。自分は淡白なんだ、もしかして性欲なんかぽっかり最初から持ち合わせがない欠陥人間なのかもしれないなとすら漠然と考えてた。一生独身で子どもなんか持てなくても仕方ない。だって、誰ともそういうことをしたくないんだもん。

そんな風に片付けてたわたしはお気楽な呑気者だった。二十代半ばまで生きてても自分が何者かは本当にはまだよくわかってないこともあるんだ。そのことを身体で思い知らされた。

「ああ…、増渕」

すき。と呟こうとした唇を思いきり塞がれる。お前、わたしの気持ち聞きたくないんか。

* * * *

相変わらず最中は少しS気味。こういう風に反応の激しさを指摘されてからかわれることもあるけど、大抵は焦らされて息も絶えだえになってるわたしに口に出して懇願するようにと促されることが多い。

身体の反応でどうして欲しいか、絶対に承知してるはずなのに。本当にこいつ、ドがつくS性癖だ。

そして、終わるといきなりはたと優しい。愛おしげにぎゅうぎゅう抱きしめて何度も顔と言わず首筋と言わず、そこら中に唇を押しつける。甘い掠れた声で囁く。

「タミさん。…ありがと、俺なんかのそばにいてくれて。…受け入れてくれて…」

髪に顔を埋めて独り言のように呟いた。

「…こんな幸せで、いいのかな…」

よくわからない。

わたしはふかふかした等身大ぬいぐるみのように思いきり愛玩されながら身を縮める。この多幸感溢れる表情や仕草からするとお世辞言ってるようにも思えないけど。

別に、特別なことしてあげてるわけじゃないし。ただ常日頃そばにいて、一緒に仕事して、できるだけサポートして。求められればいつでも応じて、まぁそれは誰でもできることじゃないか。でもわたし本人も好きでしてることで義務感からじゃない。最近は自分の家に帰りもせず毎日一緒にご飯を食べて、お風呂に入って夜は一つのベッドでしっかり抱き合って眠る。ちょっと狭いかな、と思うからそこは安眠を犠牲にしてなくもない(充分な大きさのベッドが欲しい!とはやっぱ思う)。が。

つまりはそれ込みで仕事と全ての生活を共にしてるわけで、それって単に嫁かも。自営業で二人で同じ仕事してる。そんなカップル世界中どこにもいるだろうし。そういう奥さんたちの中でわたしが特に行き届いて気働きができる方だとも思えない。

生活と仕事を常に共にする夫婦が全部がぜんぶ、こんな風に下にも置かない勢いで感謝されまくってるわけでもないだろうし。もうまるっきり、奇跡のように天使が目の前に舞い降りた(わたしが自分で自分のこと言ってるんじゃないから!念のため)みたいに扱われるのはさすがに面映ゆい。

「あのさ。いろいろよくわからないんだけど」

夜、一日の集大成と言うべき眠る前の営みに全力で取り組んだあと、全く力の入らない身体を寄せ合って二匹の野良猫のように体温を分かち合う。まるですごくいいものみたいにうっとりとした表情で(そう、言うなればまさに猫にとってのまたたび)すり寄られながらちょっと引きつつ遠慮がちに尋ねてみた。

「増渕って、なんでそんなにわたしのこと好きなの?わたしの自惚れとか思い上がってるわけじゃないと思うけど」

奴は顔を上げ、間近から目を見返してきた。欲情の余韻でまだ火照ってる頬が更にほんのり染まる。

「…やっぱ迷惑ですか。鬱陶しい?」

「いやまさかそんな。…嬉しいよ、すごく。でもさ。ぶっちゃけ正直に言うとそこまでいいもんでもないと思うんだ、わたし」

胸につかえていた本音がそのままぽろりと溢れた。

「いちいち思い出させなくても重々承知のはずだけどさ。破壊的ぶきっちょで未だにあんまりご飯も作らせてもらえないし」

「それは。…不器用だからとかじゃないです。俺が、タミさんに何でもしてあげたいから。頑張って美味しいもの作ろう、って張り切り過ぎちゃうんですよ。…断じてタミさんをキッチンから追い出そうとしてるわけじゃ。…ないんです」

じゃあ言葉尻を濁すな。疑いはそれじゃ晴れないぞ。わたしは納得せず、尚も言い募った。

「それだけじゃないよ。掃除も物壊すからかタミさんはそんなことしなくていいですよ、ってお客さんみたいに。全然家事的には戦力になってないじゃん。実用的な役には立たない上に、どうしてもどっか抜けるし、ポカするし。一度にいろんなこと並行して考えらんないし。まあ一口でいうとぽんこつだよね、普通に。それでもって態度でかいし。口も言葉遣いも悪い」

「口が悪いの俺の前だけじゃないですか。ちゃんとお客さんの前とか目上の人相手とか、しかるべき時にはきちんとできるの知ってますよ。タミさんが自分で言うほど常識ないとは思ってないです。相手はしっかり見定めて使い分けてるんだし」

生真面目な顔で宥めるように諭すけど。それはフォローしてんのか!むしろ自分の時だけ雑な言葉を使われてるの、どうとも思わないのか?

話が明後日の方に流れかけるのを慌てて引き戻す。

「ええと、つまりさ。普通に考えたら並よりマシな女の子とはとても言えないよね?もっときちんとした、常識もあって手際がよくて有能で、性格もよくて一緒にいて安らげる子絶対いくらでもいるじゃん。単に性能だけ見たら外れとしか…。なのにそんなに下にも置かないくらい妙にありがたがるのはさ。結局、顔かね?あとは胸か、やっぱ」

「何言ってんですか」

ちょっと居住まいを正してわたしをぎ、と正面から見据えた。さすがに顔色も変わる。でも何故か、微かに耳許が赤くなった気も。

「だって、それくらいしか他人から褒められるとこなんかさ。今まで寄ってくる男、どいつもこいつもそこばっか褒めるし。まぁ胸を直接褒める奴はさすがにあんまいないけど。ちょっと視線を感じるとみんな意外にあからさまにじろじろ見てるからさ」

「殺す。そんな連中は」

増渕の眼差しが殺気を帯びたけど。わたしは肩を竦めて軽くいなした。

「そういうけど。お前だってこれ、好きじゃん。いっつもここに顔埋めたがるし。 服の上からでも直にでも、油断してるとすぐ触ってくるし…」

容赦なく指摘してやると増渕は青くなったり赤くなったりして必死に弁解した。

「それは…、だって、やっぱり。抵抗なんかできません。タミさんにいつも触っていたいし。…でも、それはタミさんの胸だからですよ。好きな人の身体の一部だから大好きだし、ずっと触れてたいし見たい、ってだけで…。断じて大きさの問題じゃないから。タミさんのだったらどんなに薄くてぺったんこだって、絶対可愛いし綺麗だと思うし、セクシーです。今と同じくらい好きだと思うしちゃんとそれで興奮する。その自信ある」

そうむきになって言い張られても。どうやってそれ、証明するんだ?

わたしは素っ気なくひと言で胸問題を片付けた。

「そうかい。たまたま好きになった子のが大っきくてよかったね。まあそれはじゃあ、置くよ。あとは顔か…。うーん、でも。ひとが褒めてくるほどのもんでもないとはわたしも思うけど。わたしなんかよか綺麗な人いっぱいいるしね」

「そんなことないですよ。誰よりもタミさんが綺麗です。僕の知ってる中では」

顔を押さえつけられてしっかり深いキスをされた。そろそろ黙れ、ってことかな。曖昧なまま落ちをつけるつもりで言葉を濁した。

「まぁ…、他人の好みだから。何とも言えないけど。わたしはこの顔あんまり好きじゃないし。だからこれ一点で男の子を惹きつけろと言われてもね。正直自信はない、確かに」

「いや意味わからない。信じらんない、こんなに綺麗なのに」

両手のひらで顔を挟んで至近距離でうっとり見つめてくる。わたしは思わずその目を見返した。密かに内心で呟く。

よく見るとお前だって結構悪くない。肌は綺麗で滑らかだし、瞳も唇もすっとして涼やかで見ていて惚れぼれする。…ってのは、惚れた欲目って奴なのか…。

うっかり欲情しそうかも。慌てて変なもやもやを振り切るように話を続けた。

「そうかぁ?本人としたら、もっと和風というか。薄ぅい、儚い顔立ちの方がよかったな。なんか、この顔、くっきりし過ぎてるというか。派手じゃない?インパクトあり過ぎじゃないか?」

奴はわたしの顔から目を離さず、そっと指先で優しく頬や唇をなぞりながら甘みを帯びた声で答えた。

「タミさんの顔、派手とかは全然思わないです。くっきりしてるというか、鮮やかでぱっと明るい印象だとは思うけど。光というか、輝きを放ってるみたい。すごくきらきらしてて、吸い込まれるみたいに目線が惹きつけられて…。ずっと、こうして見ていたいって思う。いつも」

「じゃあやっぱ顔なんだ。他の人と違う特別なところ」

浮かされたように述懐する奴は置いといて、わたしは呟くようにひとり納得する。と、増渕は急に目を三角に吊り上げて反駁してきた。

「違うよ。わかんないかなぁ、もう。…そりゃ、タミさんの顔も身体も大好きです。見てるだけで思わず震えてきて、全部自分だけのものにしたいって無茶苦茶に思うくらい…。ずっと触ってたいしいくら見ても飽きない。でも、それはタミさんのだからですよ。いくら素敵な胸と色っぽい身体とうっとりするほど綺麗な顔立ちだって、中身がこのタミさんじゃなかったから…」

がば、と上に乗って押さえつけられて滅茶苦茶にキスされる。その合間から散弾銃みたいに言葉の続きが飛び出してきた。

「外見のハイスペックさに釣り合った完璧な性格と能力で何でもできて非の打ち所がなくて。あなたがそういう人だったらきっと俺は、パーフェクトな女性だな、世の中にはあんな人もいるんだと遠巻きに客観的に思うだけだったと思う。でも現実のタミさんは…。口がぞんざいで俺に対する態度も適当というか雑で。家事は一生懸命取り組んでくれるけど、一方で手先が危なっかしくて何でもすぐ割るから危なくてとても見てられないし。いろいろ自分なりに考えて前向きな姿勢なのはわかるけど、あまりにも思考回路が独特で何でそうなるんだ、って放っとくと明後日の方向にどんどん逸れてって思わずこっちはのけぞるし。本人は至極真面目なつもりなんだろうけどどっか突拍子もなくて一本ねじが外れてて。とにかくこんな人を放置しといたらどんなことになるかと思うと。…心配で心配で。とてもじゃないけど目を離す気になんかなれない」

めたらやったら口づけて、言いたい放題一気に喋りまくったかと思うと呼吸が止まるほどぎゅうっと抱きすくめてくる。手当たり次第に投げつけられた散弾を一つひとつ手に取って確かめてみて、一拍遅れで内容が頭に入ってきた。奴の温かい腕の中で思わず憮然とするしかない。

「…あのさ。悪口言ってるよね?普通に」

奴はもどかしげに言葉を継いだ。

「えーと、そうではないです。そうじゃなくて…、つまりはちぐはぐで凸凹で予測不可能、油断すると突拍子もないことしでかしそうで目が離せない、そういうタミさんが大好きだってこと。ちょっとぽんこつなこの中身とうっとりするほど完璧な外見を分けて考えろって言われても…。どっちも俺にとってはタミさんの大切な構成要素だし。双方が渾然一体となって全部がタミさんだから」

奴は愛おしそうにわたしに優しく頬ずりした。その感触に、だんだんわたしの気持ちも落ち着いてくる。その手応えを感じたのか増渕の声の調子も平静になってきた。柔らかい小さな声で呟くように続けた。

「ただ、はっきりしてるのは。外見はどうでも中身がこのタミさんじゃなかったらこんなに好きにはなってなかった。それだけは間違いないと思う。…それじゃ駄目ですか?まだ納得いかない?」

「いやまぁ。何となく、言いたいことは。…理解できた、と思う。けど」

奴の胸に頬を押しつけつつ、照れ混じりにもぞもぞと呟く。なんか、自分のことをどんだけ好きか証明させようと必死な女みたいなことになっちゃったみたいで。結果恥ずかしい、かも。

そんな気持ちを振り切るように顔を上げ、やけっぱちに明るく付け足した。

「つまりはさ。見た目顔が整ってて胸がでかくて、でも内実はへっぽこで態度が雑でとんちきな女が増渕の好みってことだね?外見と中身のアンバランスさというか、見掛け倒しでがっくり拍子抜けなとこがあんたのツボっていうことなら。まあわからなくもないかな、と」

奴はわたしを引き寄せ、あやすように髪を撫でながら半端なく渋い表情を浮かべた。

「うーん。表現はともかく。言ってる内容はものすごく遠くもないとは思うんだけど。…でも、何なのかなぁ。言葉の選び方なのかな。…なんか、褒めてるようには聞こえないよね。そんなつもりじゃないのに、おかしいよなぁ…」

いや、そう聞こえるとしたらね。

わたしは密かに胸の内で毒づく。多分もともと半分くらいは悪口だからだと思うけどね、それが。

そう思いつつもそれは言葉に出さず納める。増渕の体温にふっかり包まれて目を閉じて、心の中だけでそっと呟いた。

こんなバランスのおかしい、不完全で不出来なわたしの方がいいって言ってくれてるんなら。それはそれで、結構嬉しい、かも。

だから。この話はこの辺でもう、勘弁しといてやろうかな…。


わたしたちはお互いにしっかり溺れた。

初めの頃は、それでもある程度距離を保とうと努力もした。初めて気持ちを打ち明けあって身体を重ねて思いを確かめたあの日から、二日三日と離れられず家に帰らない夜が続き、これはいけないとさすがに脳内で警報が点滅し始めた。こんなことしてたらマジでべったりつきっきりになりかねない。

たったの三日くらいで一体何回しただろう。当然クライアントがいる時には素知らぬふりで、今まで通りにきちんと節度ある距離を保ってはいる。だけど、予約のちょっとした隙間とか、その日の最後のお客が出て行った瞬間にはもう。

* * * *

でも、こんな風にいつもお互いしがみついて、常にすることで頭一杯なのはやっぱ不健全じゃないかな。そう反省したわたしはなるべく毎日きちんと自分の部屋に帰ろうと努力したりもした。引き留める奴を振り切り、後ろ髪引かれる思いで事務所を後にする。

そうやって一人の部屋に帰ると、世界は既にぐるんと上下を逆さにしたように一変してて、もう二度と元には戻らないことに気がついた。

この部屋、こんなによそよそしくて寒々としてたっけ?狭くて息苦しいなぁと思ってたはずなのに。がらんと広くて、余計な空間が多すぎるみたいだ。

そこに体温のある、熱い身体がない。いつでも抱きしめて頬ずりしてくれる優しい存在がいない。今夜はもうキスを交わしたり熱い指で身体の敏感なところを探られることもない。ぽつんと一人、潰さなきゃならない時間がやけに長い。明日の朝、出勤時間まであと何時間あるんだろう…。

ベッドも冷んやりと感じてやたらと広い。一人きりのためにこんな広さは要らないな。とただのちゃちなシングルベッドに対して大袈裟なことを考える。この三日間、いくら何でもあのベッドに二人で毎晩はきつくないか?と増渕の寝室に対して内心不満を感じてたくせに(ちなみに、向こうもシングル)。

おまけに朝出勤してようやく増渕と顔を合わせても、すぐにクライアントさんの予約が入ってるから当然いちゃいちゃしてる暇なんかない。わたしを戸口まで出迎えてぱっと幸せそうな明るい笑顔を見せてくれる増渕を目前にして、内心ではこいつに触ってもらえるまであと何時間待たなきゃいけないんだろうと少し目の前が薄暗くなる思いだった。

その日の仕事時間の異様な長さときたら。泊まりだったそれまでの三日間と較べると、欲求も切羽詰まっていて心の余裕ってものがない。こんなんでわたし、こいつと適度な距離を置いたりできるのかな。毎日毎日べたべたとぴったりくっつき合って隙をみてはエッチなことばっかりしてるんじゃなく、きちんと仕事の間はそっちに集中して。週に二、三回泊まったり休みの日は外で普通に会うくらいのペースを保った付き合いをするのがちゃんとした大人の恋人同士ってもんじゃないの?

盛りのついた高校生がやっと二人きりになれて見境もなく獣みたいにやりまくってる、みたいな関係って。二十五と二十六のいい歳した男と女の仲としてはなんか、情欲に打ち負かされすぎというか。理性ぶっ飛び過ぎっていうか、セルフコントロール不可能ってか。ちょっと情けない気もするけど…。

「タミさん」

その日の最後のお客様が帰っていってようやく二人きりになれた時、何かを感じていたらしい増渕は少し遠慮がちにおずおずと切り出した。

「今日も、やっぱり。…家、帰りますか。帰らないと…、駄目だよね。多分」

わたしは目を上げてまっすぐに奴の顔を見つめた。その表情のなかに何かのヒントが隠されてでもいるかのように。

「…増渕は。どうしてほしい?」

向こうに一方的に判断を押しつけてるみたいに受け取られるのは本意ではない。わたしは急くような口調で更に付け足した。

「わたし、どうしたらいいと思う?このままじゃ。…離れられなくなりそうなの。ずっとそばにいて、いつも思いきり抱きしめてほしい。仕事の合間でも…。でも、そんなのおかしくない?いつもいつも触れて確かめてないと足りない、なんて。いい大人同士なのに、発情した中学生みたいに…。ちゃんと毎日自分の家に帰って、朝出勤して。時々ご飯を食べて泊まっていくにしろ、基本は自分の生活をきちんとしないといけないと思うのに。…わたし、駄目な奴なのかも。自分を抑えられなくて。だらしなくて」

「タミさん」

増渕が両腕を広げてがし、とわたしをきつく抱きすくめた。まあ、こんなこと言われたらね。まだ付き合い始めだし、そうするしかないよな。

でも。甘えるために、駄目な自分を肯定してもらうためにこんなことを切り出したわけじゃない。このまま目を閉じて奴に全てを委ねたい気持ちを振り切って、更に言葉を重ねた。

「こうなってからまだ間もないのに。毎日触れてほしいからってこんな風に衝動の赴くままずっと溺れてたら…。わたし、すぐに増渕に飽きられちゃうんじゃないかな。実態は顔がちょっとばかりましで胸が大きい以外は別に大したもんじゃないし。美人は三日で飽きるって、まぁ自分のこと美人って言い張る気はないけど。散々して、増渕の気が済んで、この身体に飽きられたら…。実は他になんの取り柄もない、面白くもないつまんない女だってすぐばれちゃう。きっと。だから…、程よい距離を置いて。節度を保って、こんなのが長く細くずっと、続いていくようにと。二人でいられる時間が」

「何言ってんだろほんとにこの人。…だからもう。ひとりにしとくと…。碌なこと考えないんだから。しょうがないなあ」

ぼそぼそ続く独白を遮るように、わたしの髪に埋めた唇から諦めたような呻きが漏れた。そのため息が熱く感じられて、我知らずぞくんと背筋にくる。

つくづく欲求不満極まりない。わたし、今の時点で何時間、増渕としてないんだろ…。

「タミさん。…昨日、硬い表情で気持ちを固めたみたいにきっぱり帰っていった理由はそれですか。…俺のこと、いい加減うんざりしたからってわけじゃない?」

「そんなわけ。…あるか、って」

呆れた声で否定しかけて、口を噤んだ。…そうか。

考えもしなかったけど。そう受け取られても無理ない行動だった…かも。

増渕ははぁー、と大袈裟に息をついて全身の力を抜き、わたしの身体にそっともたれかかった。体重を全部かけないよう気をつけてるのはわかるけど、それでもやっぱり重いよ。わたしは背中に力を入れ、両腕を奴の背中に回してそれを受け止めて支え直した。

「俺はてっきり。…朝晩のべつまくなしに俺が触りたがって、求めるから。タミさんもうさすがに嫌になって、ひとりになりたかったんだろうなって。好きだって打ち明けて、一応受け入れてもらったくらいで自分のものみたいにいい気になって、タミさんの気持ち考えもしないで…。嫌われたのかな、と思って。正直…、不安で」

「ごめんね」

わたしは伸び上がって奴の顔をこっちに向けさせ、その口許に自分の唇を押しつけた。

「わたし、自分の心配や悩みのことばっか考えてて。増渕が不安に感じるの、思えばわかることなのに。ちゃんと説明もしないであんな風にさっさと帰ったらそりゃ何だろうと思うよね。…わたしが悪かったと思う。自分のことだけでいっぱいになっちゃって」

「いいよ、わかってる。タミさんはそういう人だもん。その時は目の前のことでぱんぱんになっちゃって他のことに気づける余裕なんかないんだ。そのこと知ってるから。…悪気があるなんて思わないよ。それより」

増渕はわたしを促して、ソファに並んで座った。今日はここでそのままするのかな。それより最初からベッドに行った方が、とか内心でつい考えちゃうわたしは心底色ぼけだな、とちょっと反省する。

今は大切な話の最中だってば。

「思うんだけど。…タミさんは、俺と毎日一緒にいて、いつも触ったり触られたりするのは嫌じゃないってことで、いいのかな?」

奴は生真面目な表情でわたしの顔を覗き込んで真正面から尋ねた。誤解があってはいけないので、わたしもはっきりと頷く。

「うん。…勿論」

「俺もだ。…まあ、予約のちょっとした合間とか、昼休みなんかまでしたがったのはさすがに反省するけど。正直、昨日タミさんが帰ってから今まで、つらくて切なくてずっと仕事に身も入らなかった。もちろん、君がどう考えてるかわからなくて不安だったせいもあるけど。…こんなこと言うと言い訳みたいに受け取られても仕方ないんだけど。その前の、充分タミさんの近くにいて朝晩触れ合ってた時の方が仕事にも落ち着いて取り組めてた気がする」

「ああ…、わかる。わたしもだ」

さっとこの数日間のことを思い返して頷く。確かに、できるタイミングを見計らって隙をみては少しずつでも触れ合えて、お客さんのいない夜や朝方は思う存分欲望をぶつけ合ってた時の方が仕事は仕事としてすっきり切り替えて集中できてたかも。

増渕はそっと遠慮気味にわたしの肩に手を添えて話しかけた。

「そう考えると。もしかしたら、この流れに逆らわない方がいいのかなって。お互い確かに今は発情期っていうか、したくてたまらなくていても立ってもいられない状況だけど。じゃあそれを何とか押し殺して無理やり間隔を空ければそれだけ生活が落ち着くのかっていうと、どうもそう上手くはいかない気がする。とにかく最低限、顧客の方の前ではちゃんとしなきゃいけないことだけは絶対だけど。それ以外、誰にも迷惑をかけない時間は。二人の思うようにしませんか?」

「そうする」

わたしはぶんぶんと頭を振って頷いた。増渕は思わず、といった様子で破顔する。

「返事早いな。まだ最後まで喋り終わってませんよ。…思うんだけど、タミさんが不安に感じてたみたいに最初から一気に夢中になり過ぎて、お互いに溺れ過ぎたから案外早く気が済んでさっぱりしちゃうことって、絶対ないとは限らないよね。俺の方だけじゃないよ。むしろ、タミさんの方がすぐにこんなこと飽きて、まだしたいの?って直球投げてくるかも、ある日突然。ちょっとリアルに想像がつく気が。その場面」

「ああ…、うー」

言葉を選びかねて唸る。確かに。思ったこと時々そのまま口から出ちゃうことあるから。

増渕は怒った風でもなく、柔らかい光を湛えた目でわたしを見た。

「まあそんな風に。ちょっと二人の間で時間差は生じるかもしれないけど。こんないても立ってもいられないほどの飢えたような欲求がいつまでも、永遠に続くとは思えない。でも、それって救いじゃないですか?こんな切羽詰まった苦しい、つらい欲情もいつかは収まる。そう思えばこれは今のうちだけなんだよ。きっと」

手を滑らせてわたしの肩を優しく宥めるように撫でた。

「多分、お互い少し気が済んだら、憑き物が落ちたみたいにすっと楽になれると思う。そしたら俺たち、そこからまた新しい関係に入っていけるじゃないですか」

わたしはぼんやりした目を奴の穏やかな顔に向けた。

「新しい、関係?」

「そう。目の前にいるのにしないでなんかいられない、頭おかしくなりそうなんて焦燥に駆り立てられることもなくなって。普通に穏やかに寄り添って、お互いの体温だけでも充分満足できるようになったらそれはそれで。週に一度か二度くらいはゆっくりしようか、なんて感じで優しく、丁寧に満たし合うとか…。そういう風になってくのもいいじゃないですか。今より余裕ができたらきっと話すことだって一杯あるし。そしたらもっと違う形でタミさんのこと、深く知ることもできる。それで更に君のこと好きになれると思うと。…いつかそんな段階が始まるのも、結構楽しみな気がして」

そうか。

そっと抱き寄せられて、従順に身体をずらしてその胸にすっぽり収まる。目を閉じて肩に頬を押し当てて答えた。

「…そうだね。お互いの身体に飽き足りたらそれで終了、って訳じゃないんだ。それからもわたしたちは続いてく…」

奴はわたしの髪を撫でながら柔らかい声で肯定する。

「そうだよ。だいいち、結婚してずっと一緒に生活を続けてるカップルなんてそれだけで繋がってるはずないでしょ。みんなそれ以外のいろんなことも二人で分かち合って暮らしてるんだと思う。…俺とタミさんもいつかきっとそんな風になれるよ。だから、今は」

不意に背中に回った増渕の手にぐ、と力がこもった。思わず身体の芯がずきん、と反応してしまう。敏感にもほどがあるかも。

「この、嵐みたいな欲情に素直になぎ倒されていようよ。こんな苦しさはいつまでも続かない。…これは今だけのことだから。二人で頑張って、一緒に乗り越えよう。朝から晩まで、お客さんの目を盗んで。いっぱい、何回でもしまくって」

「うん」

少しずつ、微かな欲情が滲み出はじめたその声にずきずきが止まらない。わたしは甘え足りない猫のように自分の胸を押しつけ、すり寄せた。増渕が小さく呻いて軽く身を震わせる。

「…ああ」

本当にこいつ、これ好きなんだから。わたしは思いきって口を切り、申し出る。

「あの、だったら。…今からでも。お互いの欲求を解消する、とかは?わたし、もう」

ぎゅうっ、と両腕で締めつけながらも少し笑い混じりにからかうように受け答える。

「早速なんだ。タミさん、早いな。大丈夫?お腹空いてないの。ご飯食べてゆっくりしてからでもいいよ。時間はまだたっぷりあるし」

わたしは意固地に首をぶんぶん振った。

「だって。昨日からもう、何時間増渕としてないか…。ずっとして欲しかった、昼間も。我慢してたんだよ。だから、もぉ…」

「…もう、可愛いなぁ…」

渇いた、欲情に溢れた声。そのまま逸るようにソファに押し倒されそうになりながら、わたしは懸命に抵抗して言い張った。

「ここじゃなく。ベッドがいい。広いとこで、全部服を脱いで、ちゃんと。…思いきりされたいの。増渕の好きなこと何でも。…ね?もう、わたし。…あんまり、待てない…」

* * * *


ほんの僅かの間、意識が薄らいでまだ変な風に鳴ってる頭を何とかもたげると、真横で増渕が荒い息をついて並んで横たわってた。わたしの目線に気づくと、力の入らない腕を伸ばして何とか頭を撫でてくれる。

「…ごめんね、タミさん。怖かった?」

「ん。…でも」

まだ奥がじわっ、と余韻を感じてる。頭というか、自意識は怯んで完全にびびってたけど。

思い返すと甘く、しどけなくへなへなと蕩けそう。身体は、すっごい、たまらなく。気持ちよかった…。

「ああいう、ものなんでしょ。『いく』って」

「うん。多分…。女の人はどういう感じなのか、本当のところは俺にはわかんないけど。嫌じゃなかった?抵抗あった?」

「どういうものか知らなかったから。さっきはすごく怖いって思ったけど」

わたしは奴の胸に自分の身を寄せた。甘えるように頬を押しつける。

「もうそんなこと思わない。平気、だよ。なんか、少しこういうのわかった気がする。だから」

そこでふと、さっきの最中のやり取りが蘇ってきて言葉に詰まる。軽く返そうと思ったのに思わずつまづいてしまった。

「増渕。…さっきの話。憶えてる?」

「へ、何?」

指先をそっと奴の頬に当てて尋ねるわたしに、きょとんとした目を向ける。あんまり意識しないで、行為に集中するなかで油断してぽろっと溢した本音だったのかもしれない。

わたしは慎重に言葉を選びつつ切り出した。

「あの。いつも、どうしてわたしに。…いろいろ、言わせようとすんのかって。気持ちいいかとか。どうして欲しいとか。自分からはっきり言わなきゃだめ…、とか」

「ああ。…それ。ほんとごめん」

増渕はさすがに首まで真っ赤に染まった。

「俺、変なのかも。してる時頭に血が上ってつい…、タミさんにまで。そんな、変態なこと。絶対嫌な気したよね。嫌いになられたら困るから。…これから、気をつける。けど」

「嫌とかじゃないよ。めちゃくちゃ恥ずかしいから、どうしていいかわかんないことあるけど。…でも、そういうことじゃなくて。増渕にはちゃんと必要があってそうなってるのかな、って」

自分が本音を打ち明けたことは殆ど意識してないらしい。わたしは思い倦ねつつ話を続けた。

「して欲しいってはっきり女の人の方から言われないと。本当にしていいかどうか気になるの?それで確信したくて何度も訊くんだ、としたら」

「…ああ」

奴は曖昧な声を出した。わたしの首筋に顔を埋める。表情をあまり見せたくない時の癖。

くぐもった小さな声が呟く。

「よくは。わかんない、けど。…そういうこともあるのかな。まぁ、自信なんかあるわけないし。自分なんかがこんなことして、相手は嫌じゃないのかなって。ましてやタミさん…。ちゃんと、こうして欲しいって口ではっきり言われた方が少しは信じられる、かも。…確かに」

「何言ってんの。こんなに」

好きなのに。何かの感情が喉元に迫って思わず声が詰まり、思いきり奴をむぎゅ、と抱きしめる。潰れた胸が苦しいけど。

「わたし、表現が足りないのかな。いつも頑張って自分の気持ちに向き合おうと思ってはいるんだけど。信じられない?こんなに…、近くに、いたいのに」

ちょっと思いきってそう言ってみると耳がかぁっと熱くなった。こんなストレートなのはわたしには向きじゃない。マジで照れるし、身の置き所がないけど。

増渕にそれがどうしても必要なら。ちょっと正直になるくらいのことは何でもない。…かな?

「身体だって。あんなに…隠しようもなく。すごく反応してるのが自分だなんて…。少し以前だったら考えられないくらいだし。あれだけの姿晒しといてその上欲しいかどうかなんて。口でわざわざ言わなくても、絶対伝わると…思うのに」

「うん。そうかも。…ごめん、いつも。意地悪に感じるよね」

増渕は思い当たったように情けない声で呟き、申し訳なさそうにわたしの髪をそっと撫でた。

「自分でもよくわからない。タミさんの声で、その口からお願いとか。して、とか欲しいとかはっきり求められた時にやっと、ああいいんだな、ゴーサインが出たって思う癖はあるかも。自分は勿論したくてたまらないから、その言葉が聞けるように頑張って、いっぱい感じてもらって…。苛めてるつもりじゃないんだよ」

「だって。こうして、ずっと一緒にいたいって打ち明けて、二人きりになって何もかも任せてるのに。最後までして欲しくないなんて…、思うわけない」

わたしは奴の顔を首筋から引き離し、両手で挟んで無理やりわたしに向き直させた。その細い、透明がかった茶色の目をしっかり見つめる。

「わたしのこと信じて。いつでも増渕のこと、何もかも欲しいんだって。何されてもいいと思ってるからここでこうしてる。そのことをいちいち言葉で確かめる必要なんてない。…わたしの気持ちを疑わないで。言葉に頼るんじゃなくて。わたしの表情や身体の反応を見て、それを感じて。味わって…」

「うん」

増渕はややほっとしたように笑い、顔を近づけてわたしの唇にキスした。

「そうだよね。言質をとってやっと安心してできる、みたいなの、やっぱり変かも。言葉がなくてもちゃんと伝わってくるものだってあるはずなのに」

奴は少し元気が出たみたいにくるりと身体の向きを変え、わたしの上に覆い被さった。体重をかけないよう両手で自分を支えて、そっと顔を寄せる。

「これからは言葉に拘らないで、タミさんの反応ぜんぶに集中することにするよ。…ああいうの、なるべく尋ねたり言わせたりしない方がいいのかな?これからは」

「うーん…」

そうだね、とすぱっと答えられずわたしは曖昧に唸った。こんななのに、欲しくないの?とか。ちゃんとその口で正直に言ってごらん、とかが全部なくなっちゃうのかと思うと。…なんかそれも。

つい思い出してしまったわたしは身体の一部を熱くしながら奴の首の後ろに腕を回しつつ、慎重に言葉を選んだ。

「えーと…、それはそれ。かも。てか別に。そういうこと言われること自体がすごく嫌ってわけじゃ、なくて。必ず言葉で保証されないと不安とか安心してできないとかいうのは…、違うんじゃないかってだけで。そこに依存しなければ特に、…構わない、こともあるかな、と。時と場合により」

「あ、なんだ。ありなんだ、あれ。タミさん」

奴は急に顔を明るく綻ばせ、唇に自分の口を押しつけて無茶苦茶に絡ませてきた。思わずびくんとなって、こっちの引き寄せる腕にも力が入る。

「んっ、…ん」

「俺はてっきり…、タミさんがああいう風に焦らされたり意地悪されるのが嫌でたまらなくて困ってるのかと。なんだ、それ自体は嫌いじゃないってことだね?よかった、だったら無理に封印することもないか」

前言撤回。早くも再び欲情が高まってきたように、片手で焦らすように感じやすい場所を探り始めた増渕に内心で呆れつつ思う。

もしかして。ああいう癖がついた初めのきっかけは、確かに本人が言った通りの経緯だったのかもしれないけど。行為の最中でぽろりと自然と口に出た様子からして、あれは奴の飾らない本音だったとは思う。

でも、多分実際にそれをやってるうちに、こいつの自分でも気づいてなかった隠された部分が呼び覚まされていったんじゃないかな。

あの言葉責めを初めて喰らったとき、なんというか、板についてて全然不自然な感じがしなかった。どんだけわたしの前に経験があるんだか知らんが、普段から絶対言い慣れてる、ああいうこと。それに思い当たるとちょっとこめかみがぴくっとなるけど。

えーとつまり、最初は自信がなくて女の子の意思を神経質に確認する、って動機で始まったことなのは事実かもしれないが。それがだんだん本人の本来の志向と合致して自然なものとして身についていったんだと思う。

ということは、わたしが察知したこいつのドS傾向は誰に強いられたものでもないただの本性なんじゃ。ということに…。

そして。わたしが自分の中に感じた今まで知らなかったMっ気も。恐らく生まれついての本物、ってことか。そう考えると。

わたしは我知らず脚を緩めながら思わず口許を曲げた。てことはわたしたち、そこはかとなくちょうどいい変態気味の組み合わせ?

そんなあれこれに気を取られてる間に、奴は発情した大型犬みたいに上からのしかかり、わふわふ尻尾を振りながら(比喩)わたしに本腰を入れて挑んできていた。

どういうわけかどこか浮き浮きとしてちょっと嬉しげ。何かが吹っ切れた様子で容赦なく手と口を駆使して既に攻めの態勢に入ってる。

「タミさん。…本当のところ、少しはこれ好き?別に、タミさんを信じてないとか、…不安に思ってるとかじゃないよ。ただ、ちゃんと深く知りたいんだ、あなたのこと。どこをどうされるといいのかとか。どこが一番好きかとか、…誰よりも。俺だけが全部、知ってないと…、嫌だから。ね?」

ね?じゃないよ。

* * * *

なんか…、かえって。こういうのありって認めて変な火点ける結果になっちゃったかも。

そうするとこのドS傾向にこれから拍車がかかるってことになるのか。ただでさえ一日に何度もしまくって毎日くたくたになるってのに。

激しく反応して身悶えながら霞み始めた意識の隅で考える。これからますます、するたびにぐったり身体の芯まで消耗する羽目になりそう…。


人目のない時間帯を思うさま互いを貪るのに費やすことにした分、わたしたちは顧客の前では気を引き締めてきちんと自分たちを律する努力をした。

ここは仕事場だし、増渕に対して期待してやってくるお客様を失望させるわけにはいかない。わたしたち二人の間の事情は勝手なこちらの都合だし。迷惑をかけないよう気配りするのは関係を続ける上での絶対条件だ。

そんなわけでクライアントがやってくる時間にはそんな気配はおくびにも出さないよう、しっかり頭を切り替える。自慢じゃないがこういうのは慣れている。スイッチの在り処を知らなかったら二十六年間なんとかやっていくこともできなかったろう。ぶきっちょなりに工夫して生み出した対処法ではあるのだ。

問題があるとすればあまりにもかっちり切り替わるので、は?増渕とわたしが恋仲?そんな事実ありましたっけ、みたいな感じになっちゃうことか。スイッチをもう一度入れるまで増渕に対してのデレは戻ってこない。わたしのボキャブラリーに中途半端って言葉はない。表か裏か、二つにひとつだ。

増渕には

「逆にそこまでいくと器用なんじゃ…。俺にはとっても真似できないよ。タミさんって根本的に非情っていうか。ドライなとこあるからなぁ…」

と嘆かれる始末。そうは言っても奴も本来如才ないから、人前で二人の内実を悟られるような行動を見せたりはしない。こうなる前と全く同じ、きちんと距離を保った上司と部下、いやそう言い張るにはちょっとわたしの態度がでかすぎるきらいはあるけど。まあそれはわたしたちの仲の変化とは関係ないもともとのスタンスだから。

逆に変によそよそしくなり過ぎてもそれでかえって何かを感じ取られるといけない。言葉遣いやなんかはちょっとあれだけど、やや気の置けないリラックスした仕事のパートナーとして今まで通り、違和感のない言動を顧客の皆さんの前では取れてた。と思う。

その日のクライアントさんは五十代の女性の方で常連さん。このくらいの年齢のお客様は割に珍しい。多分だけど、心霊とかその手のものに対してはもう少し下の年代の方のほうが抵抗が少ないのかも。あくまで傾向としての話で、実際は個人差の方が大きいかもしれないが。

彼女のご主人は早くに亡くなられて、お子さん二人を女手ひとつで育てられた。既に双方とも成人していて独立している。何でも娘さんがうちの事務所のHPを見つけてこういうのあるよ、わたし一度お父さんと話してみたい、と持ちかけてきたのがきっかけで、増渕のことを知ったらしい。お嬢さんは多感な時期に父親と死別したので、思うように話せないで終わってしまったことを心残りに思っていたとのこと。

さすがに怪しい業者だと困るので念のため調べてみたところ、娘さんは増渕の高校の後輩だった。つまりわたしとも同窓ってことになるけど。同級生で奴を記憶していた子もいて、そう言えばすごい霊感があるって有名な先輩がいた、との証言も得られたので恐るおそる連絡を入れてみたのが始まりだとか。

娘さんは最初の一回のコンタクトで充分気が済んで満足したらしいのだが、お母さんの方はマジでのけぞるくらいすごいインパクトを感じたらしい。

その頃はわたしがここに来る前で、増渕は入られたら入られっ放しの時期だった。当然背中をぶん殴って霊を追い出してくれる助手もいないから、悪意のある無しに関わらず大抵の霊は気軽に奴の身体に取り憑いて口を借りて好きなように喋ることが割に普通だったという。その口調や内容、果ては喋る時の表情までが亡き夫そのままだった。中学生の時に父親を亡くした娘さんはそこまでリアルな記憶を持ち合わせていなかったからまだ冷静だったけど、母親の方はこれは本物だ、本当に夫がここにいると深い確信を抱いたとのこと。

以来、彼女は時折こうして夫を呼び出し、いろいろ報告したり相談を持ちかけたり、あるいはただ単に愚痴をこぼしたりして過ごす習慣になった。想定していたよりかなり早くに離ればなれになってしまったってこともあるんだろうけど、死後十年経ってもまだちょくちょく夫と言葉を交わしにいそいそやってくる様子を見てると、きっと仲のいい御夫婦だったんだろうな、と推察できてちょっとしんみりする。

その日はお嬢さんの新しい交際相手のことを報告がてら相談したいとの主旨だった。ちなみにもう一人のお子さんは男の子、いやもうそんな年齢じゃないから男性で、既に結婚していてお孫さんもいるらしい。

「なんだかね、お仕事がものすごく忙しい人みたいなのよ。生活が不安定な人も困るけど、今どきは多忙過ぎるのも…。過労死とかちらつくしね」

やはりお嬢さんの年齢的に結婚した場合のことも心配になるのか(思えばわたしの方が歳上だけど)。それにしても過労死。そんなことまで早くも考える?てのと、どういう経緯でこの旦那さん亡くなられたのか知らないが、話題としては大丈夫なのか。

「そんな風で碌に会う暇もなかったら、ちゃんとお付き合いが進展するのかな?とかも気になるし。…それに、もしかして、仕事が忙しいなんて嘘で、あんまり会えないのは浮気してる言い訳かもしれないし…」

増渕を前に切々と訴える彼女に内心で少し苦笑する。そんなことまで想定するんだ。半分呆れるけど無碍に否定もできない。母親って大変だな、もう成人した娘のことなのに。いつまで経っても親の心配って尽きないもんなんだな。

実家の母が脳裏をよぎる。うちのもこういうこと、案外言いそう。そう言えば、夏に一度日帰りで帰ったきり連絡もしてないや。たまには電話くらいしてみるか…。

増渕は何かに耳を澄ますような表情を浮かべ、しばし黙り込んだ。この様子だと中に入られてはいない。最近はよほど不測の事態が起こらない限り(例えば、招ぶつもりのないのが勝手に乱入してくるとか。この間の駆け落ち母みたいに)取り憑かれることってあまりないけど。以前に較べたら背中をばんばんすることもだいぶ減ってきた。本人の言い方を借りると、鍵のかけ方ちょっとは学べてきてるのかもしれない。

「…ご主人によると。そのお相手の方の仕事が相当忙しいのは事実だとのことです。会えない口実として持ち出してるわけじゃないと…。多分その方、就職されて間もないですよね?お嬢さんと同級生ですか?」

「はい、そうです」

増渕は自分の台詞も交えながら、ちょっと遠い目をしてご主人の声に耳を傾ける様子で更に続けた。

「だったら、お仕事に慣れて要領よくなっていくともう少し落ち着いてくるのかも。…ご主人は、これは今だけのことでもう少し辛抱すると好転する話だ、と仰ってるんですね。どのくらいこういう状況が続くのか、彼の異動があるまでなのかあるいは転職することになるのか。そこははっきりとは言えないようですが。…二人がこの時期を自分たちの力で乗り越えられるかどうかに今後はかかっているのでそこは口出しできることじゃないと。本人たちに任せて周囲は見守るべきだ、と言ってます」

「それはそうなんですけど。尤もなこと言っちゃってさ…」

何故かちょっと悔しそうな依頼者。ご主人に親ばかを窘められた、みたいのが気にくわないご様子だ。

「このまま見守ってていいのか、人間性は大丈夫なひとなのかってことを知りたいんだってば。それさえわかればわたしだって、あとはあの子が自分で何とかできる子だって知ってるし。自分は岡目八目だかなんだか、ちょっと物事が見通せるからってそういう言い方」

増渕は柔らかい表情を浮かべて彼女を宥めた。

「いえまぁ。それはご主人も理解してらっしゃいますよ。お相手の人柄を判断する材料がないと不安に思いますよね。…その男性はきちんとしたまともな人で、お嬢さんに対しての気持ちも真剣のようです。なかなか会えないことをお二人もつらく感じて、悩んでるご様子ですので。どちらかというとあれはどうなってるの?とこちらから尋ねるというより、そっと見守る感じで様子を見て。お嬢さんから話があった時は質問したりこちらの意見を述べるより、ただ頷いて話を聞いてあげて」

突然、ぶつっと回線が切れた。としか言いようがない。

言葉が途切れただけではない。表情も一瞬、電源が落ちたみたいに何もなくなった。わ、やばい。これ。

「増渕。…大丈夫?」

「入りましたね」

依頼者の彼女は冷静に呟いた。ここの常連さんとしては年季が入ってるし、こういうのも何度か見ているからか余裕だ。

わたしはちょっと慌てる。最近はそんなにこういうこともないし。強引なタイプの霊だったり逆上して攻撃的になってたり、あるいはたちの悪いのが招びもしないのに割り込んだりとかじゃないと中に入られることも滅多にない。てことは。

この旦那さんは全然、そんな性格じゃないし。展開から見ても特別急に怒り出すようなところでもなかった。だから、何か変なものが割り込むように降りてきたとしか…。

増渕の身体を借りた何かがく、と目を見開いた。まるで今この瞬間目が覚めたとでもいうように。それからおもむろにぐるりと首を巡らせて視界を確かめ、依頼者に頷いて合図を送ったかと思うとしっかりわたしを見据えた。

『…すみません、急に入り込んで。やっぱり、人づてはまだるっこしいもんで。佳代子、元気そうだな。思ってたよりあんまり変わらないもんだな。いくつになったんだっけ』

「それここで訊くの?」

彼女、佳代子さんは思わず怯んだように口ごもった。わたししか聞いてる人間もいないけど(増渕はどの程度外のことを把握してるかは不明)。それでもいきなり人前で歳を訊かれた女性としては普通の反射的な反応なのかも。

会話の内容はともかく、彼女がスムーズに夫の霊との直接のやり取りに驚くこともなく移行できたのは、思い起こせば初期の増渕の降霊では割とよくあることだったらしいので慣れてるからなのか。一方でわたしの方は何か今日はイレギュラーな要素があったのか?と内心で焦って口をぱくぱくしてる状態だから。そう落ち着いてもいられない。

それを察した旦那さんがわたしに目を向け、宥めるように増渕の口を開く。

『まあまあ…、タミルさん、ですよね。赤崎タミルさん。よろしくお願いします』

急に名前を呼ばれて面食らう。でもまあ、表面的な程度の情報なら増渕に取り憑いた霊は奴の頭の中から読み取れるらしいので。特におかしなことではない。慌ててわたしも頭を下げる。

「あ、はい。初めまして。助手の赤崎です。今後ともよろしくお願いします」

増渕の顔を使って彼は柔和な表情を見せた。

『別に、何か特別なことや異常が起きたわけじゃないんですけど。ただまあ、せっかくの機会なのでできたら直接こいつと話したいなと。何となく細かいニュアンスとか表現しにくいので。…増渕くんの身体を借りると表情や声色も使えるから。やっぱり話しやすいんですよ』

まあそれは。…そうだろうけど。

思わず立ち上がったまま奴の身体を借りた彼をぽかんと見つめるわたしの隣で、佳代子さんが恐縮して謝った。

「すみません、わたしが変に拗ねるような口を利いたから。心配して表に出てきちゃったのかも。…隆彦、増渕さんのお身体を勝手に使うなんて。そりゃ前は割と普通というか。毎回こんな感じだったのは覚えてるけど」

口では謝ってるけど当時を懐かしむ様子。そうか、やっぱり本当のとこは増渕の頭と言葉を介した口寄せよりも、取り憑いた夫の霊とダイレクトに言葉を交わせた方が実感が湧いて嬉しい気持ちがあるのかも。わたしは思わず肩をすぼめた。

「すみません、この人。あんまりお話の伝え方上手くなかったですかね。本人なりにいろいろ考えて言葉を選んでるとは思うんですけど。…直接口を借りて話すのに較べると、もどかしいし行き届かないところがあるかもしれないですが」

増渕の身体の中の隆彦さんは柔らかい眼差しで首を振った。

「そんなことないです。増渕くんはいつもちゃんとこちらの気持ちを気遣って一生懸命伝え方を考えてくれてますし。勝手に出しゃばってきちゃって悪かったかな。最近はあまり身体を使われるのは本意でないみたいで、ここ、蓋されてて入りづらいことが多いから。今ちょっとどういうわけか油断してたのか、お、入り口開いてるなと思ったんで。つい、以前の感覚ですっと。…ごめんなさいねタミルさん。心配なさったでしょ』

「そんな、勝手なこと。最近は以前と違うのよ、霊媒はおやりにならないんだから。増渕さんに失礼でしょ」

あっけらかんと笑う隆彦さんに対して佳代子さんが少し焦ったような声で注意した。わたしは首を横に振る。

「いえまあ。この人が油断したのがいけないので。そもそも悪意のある人や話が終わっても出て行こうとしない人に入られるのを防ごうと鍵をかけるようにしてたんですけど…。隆彦さんみたいに終わればちゃんと出てくれるってわかってる方なら、多分大丈夫かと」

ちょっと思案しながらもともかく了承する。勝手に許可しちゃってよかったのかな。許せ、増渕と内心で呟く。

でもまあ思えばそもそもこいつが気を緩めて鍵をきちんとかけなかったのが悪い。無情にもそう断定する。多分、何度も降霊したことがあってご本人の性格が穏健なのも知ってるし、依頼者のバックグラウンドにややこしい因縁や念を残して亡くなった身内や知り合いもなく、生霊、死霊に取り憑かれる経緯もないから変なものが割り込んでくる危険性も低いってことであまり真剣にガードしなかったんだろう。しょうがないなぁ。

わたしは苦笑い気味に嘆息する。ま、このお二人が増渕の身体をゲットしたことで浮かれて今から駆け落ちするような人たちとも思えないし。わたしもこうしてそばについてるし、問題ないでしょ。と腹をくくる。

そんな心の動きを感じ取ったのか、隆彦さんは感謝に満ちた笑みを浮かべてわたしを見た。

「ありがとうございます。なるべく短い時間で済ませますから。増渕さんを疲れさせても困りますからね。これって、悪気なくてもやっぱり消耗させますから、身体借りた相手を」

へえ、そういうものなんだ。わたしはちょっと感じ入る。思えば身体を乗っ取ろうと目論む奴とか居座ってごねる奴、増渕を思い通りに操ろうとするような連中しかこうやって相手したことないし。

そんな連中だから増渕も抵抗するし、それでいつもぐったりなるのかと思ってた。悪意なくても他の人の魂に身体に入り込まれるのって案外負担かかるのかも。そう考えると霊媒って実は大変なんだ。

でも、隆彦さんは自分の口からそう宣言しただけあって約束通り手早く済ませてくれた。

娘さんのことだけじゃなく、ご長男の家庭の話だとか。佳代子さんのお仕事で近々ちょっとしたトラブルが起こりそうだとか。それを回避するために今から言うことをやっておけとか。かなり細々した伝達事項や相談が交わされ、確かにこれだと人づてはまだるっこしいかも。直接やり取りした方が早そうだよね。『あれ』とか『こっち』とか指示代名詞だけで通じてる部分も多い。外すわけにもいかないから遠慮しつつ片隅で見守ってるけど、耳にしても他人には全部は理解できそうもない。

『…とまあ、こんなことろかな。ありがとうございます、赤崎さん。黙認して下さって』

話がひと通り終わったところで増渕の中の隆彦さんが振り向いてわたしに優しく声をかけた。わたしは丁寧に頭を下げる。

「いえ、そんな。席を外せなくてすみません。一応、安全確認のためとはいえ。二人きりでゆっくりお話ししたいこともおありでしょうに」

佳代子さんが少し照れたように口を挟む。

「そんな、今更。大丈夫よ、聞かれて困るようなことなんかないから。事務連絡や相談ばっかりよ。この歳になるとね」

その口ぶりから、彼女が旦那様と死別したこの十年の間もずっと、お二人の関係は夫婦として続いてるんだな、と漠然とした感触を抱く。

例えばわたしと増渕はいつかそんな風になれるのかな。何かで離ればなれになったら、さすがに十年なんか気持ち保たなかったりとかね。まあ、こればっかりは。いざそうなってみないと何とも言えるもんじゃない。

『大丈夫、あなたと増渕くんだって。ずっと末長く仲良くいられますよ。僕らみたいに派手に喧嘩したりとか案外ないんじゃないですか。お互いを思いやる気持ちが強いみたいですからね。羨ましいくらいですよ』

「いえそんな。単に付き合い始めだから…。そのうち自己主張し始めてぶつかります、きっと。最初だけなんじゃないですかね、遠慮し合ってるのは」

照れ交じりにそう受け答え、一拍おいて気づく。…しまった。

ここ、否定するとこでした…。

あまりにスムーズに持ち出されたから何の違和感もなく。普通の世間話のように素直に応じてしまった。なんか、まるでわたしたちが周知の公認カップルみたいに言われてもさ!

慌てて佳代子さんの方を振り向いてその表情を伺う。隆彦さんはわかる、どうせ増渕の脳内情報からわたしのことを読み取ったに違いない。それを当然のように口に出してくるのはどうかと思うけど。でも佳代子さんはうちの事務所のクライアントさんだし、霊みたいに物事を見通せる視点も持ち合わせないからこんな事実は青天の霹靂のはず。男女二人きりの職場で、見境もなくくっついたりしてだらしないって思われちゃうよ…。

意外にも、彼女は平然とした顔つきでわたしに軽く頷いた。あっけらかんと励ますように声をかける。

「気にしないで。わたしがどう思うかなんて、どうでもいいことよ。それより、ごめんなさいね、この人が無神経で。一応、ここに来る相談者には秘密なのね、お二人の仲のことは」

「ええまぁ。…やっぱり。みっともない話なので」

毒気を抜かれてぼそぼそと答える。そうね、この方の立場からしたら。ここの所長と助手が男女の関係だろうがどうだろうが。どっちだって全然構わないか、そりゃ。

佳代子さんは何故か瞳をきらきらさせて僅かに身を乗り出した。

「どして?全然みっともなくなんか。素敵なことじゃない、よかったわよね。増渕さんもやっとお幸せになられて。まさかのこんな綺麗な、可愛い方をゲットして。ずっとお一人でお仕事されて、寂しそうだなぁと思ってはいたのよ、実は」

そう思われていたのか、哀れな奴。

「正直、うちの娘にどうかなぁと。温厚で誠実な方だし、穏やかな性格だし。こんな人がうちの子をもらってくれたらよかったのに。…あ、でも、増渕さんはきっと、最初からタミルさんがずっと好きだったのよね。あの子じゃああなたみたいなとびきり素敵な女性とは勝負にはならないわぁ、確かに」

「いえそんなことは。…絶対」

圧倒されて口ごもる。なんで佳代子さん、そんなに嬉しそうなんですか…。

『まあまあ、ちょっとカヨちゃん。少し落ち着いて…。恋バナはあとでゆっくり女二人でしたらいいだろ。すみませんね、この人つい浮かれちゃってはしゃいで。でも、確かに見てるだけでふわっといい気分になるカップルだよね。お似合いだし初々しいし。…なんかね、僕たちの知り合った頃を思い出したり。ちょっと甘酸っぱいような、懐かしい気持ちになるよね』

文字に起こすとそうでもないけど。これらの台詞が増渕その人の口から次々と飛び出してくる奇天烈ぶりときたら。いくら声と話し方はまるで他人のものだったとしても。

そこで不意に、増渕の中の隆彦さんは改まった表情を見せた。声の調子も少し落ち着いて、大人の口振りが戻ってる。

『今回こうして増渕くんの口を借りたいい機会なんで。赤崎さんに直接、伝えておきたいことがあるんだけど…。君たちはまだ付き合い始めて間もないし。これから先、いろいろなことが起こると思うけど。二人の関係が安定するより前にも』

「そう。…なんですか?」

ちょっと腰が引ける。そんな風に言われちゃうと。やっぱりつい身構える。

隆彦さんに限らないけど、霊になった人は大抵見える世界というか視点が変わるせいなのか、先を見通せる力が備わることが多いようだ。増渕の説明によると、霊の世界では時間軸がこっちと違うからっていうんだけど。その表現で何かを説明したつもりになられてもね。さっぱり原理が理解できない。

そういうわけで、口寄せの場面でも身内の間でこういうことがあるからとか、しばらくこれに注意しろとか、何年後には解決するからとか言わば予言的な内容の話が出るのは日常的によくあることだ。さっきも佳代子さんに対してそういうアドバイスもあったし。そして顧客の方からのその後のフィードバックによると概ねそれは当たってることが多い。

てことは。わたしは腹の底に少し力を込める。今回のこれも、実際に何かがこれから起こる確率が高いってことになるんじゃ…。

わたしたちの間が安定して落ち着くより先に、これからいろいろごたごたが起こる。…ってこと?

わたしの顔が強張ってたらしい。増渕の中の隆彦さんは少し口調を和らげ、宥めるように付け足した。

『そんなに構えなくても大丈夫だと思うけど。君たち二人ならきっと乗り越えられることだと思うよ。っていうか、それを言おうと思って、赤崎さんには。君と増渕くんなら切り抜けられないはずはないから。相手を信じて絶対に手を離しちゃ駄目だよ。そうすればちゃんと未来に繋がっていくから、全部が』

それでもわたしは不安げな、情けない表情を浮かべてたのかもしれない。彼はぱっと顔を輝かせて(てか、それ、増渕の顔だけど。無論)明るい目つきでわたしを励ました。

『平気、だって。そんなとんでもないことが起こったりするわけじゃないから。怖がったり怯えたりする必要はないよ。何かが起こるというより、より深くお互いを知る過程のひとつっていうのかな。多少思ってたのと違うってことになっても、君の好きになった増渕くんを信じるんだよ。何かに惑わされたり迷ったりしたら負けてしまう。…言いたかったのはそれだけだよ。年配者のアドバイスだと思って心の片隅に留めておいて。君と彼を見てたら、このまま二人幸せになってもらいたいっていう気持ちになったんだ。だからつい、お節介な真似をね』


「ごめんなさいね、あの人が余計な差し出口を利いて。びっくりしたでしょ?」

「いえ。…まあ」

降霊が終わって、隆彦さんはいずこともなく帰っていった。彼は言いたいことを伝え終わると佳代子さんにじゃあ、また時間のある時にねと優しく声をかけてすっと増渕の身体から抜けた。増渕はすぐには頭がはっきりしないようで、

「タミさん。…すみません、俺、今どんな状態でした?隆彦さんが喋ってたのかな。変な話になったりしませんでした?」

と回らない口で真っ先に確かめてきたのは、どこか無意識のうちにさっきの会話を認識していたせいなのかもしれない。

「そんなことないよ。佳代子さんと細かい相談がしたかったみたいで。あんた、ここ油断して蓋が開いてたみたいだよ。すごく謝ってくれてたけど、以前の癖でついって。も少し気を引き締めてよ。結構消耗するんでしょ、これ?」

腰の両側に手を当てて仁王立ちで奴の正面から言い募る。すみません、と恐縮して頭を下げる増渕を佳代子さんがまあまあ、と宥めた。

「うちの人が悪いのよ。入れそうだから、なんて軽い気持ちで…。本当にごめんなさいね。これからはこんなことがないように言っておいたから」

直接話したいときでも前触れなしは絶対にやめて、増渕さんの了解を得るようにしてねと最後に言い含めていたのはわたしも聞いていたので深く頷く。確かに、悪気はなくても今後はそうしてほしい。

まあただ、今日のところは奥さんと直接話したいって動機だけじゃなく。わたしに伝えたいことがあったから、ってのが実際の話だったのかもしれない…。

「彼に、さっきの話はしなかったのね。あとで二人になってから伝えるの?」

程なくして次の予約の方が来て、わたしと佳代子さんは面談室を出た。増渕とクライアントさんが話している間わたしは外で待機する。降霊する段階になったら中から呼ばれるので、そこから参加すればいい。

少し話し足りない様子の佳代子さんにリビングのソファを勧めて、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。増渕が淹れるのみたいに美味しくはないけど。わたしが手ずから淹れるよりはまあましだと思う。

早速声を落として尋ねてくる彼女に、わたしは曖昧に答えつつ向かいに腰を下ろした。

「うーん、そうですね。…ちょっと、かえって心配かけると。いけないから…」

佳代子さんはその答えを噛みしめるようにじっと一瞬考えてから頷いた。

「…まぁ、そうね。増渕さんの口を借りてたとはいえ、隆彦だって本気であの方に伝える気があればいくらでも方法はあったと思うから」

そこで言葉を切ったが、言いたいことはわかる。ごぽごぽ、という大きな音と共に良い香りに満ち始めた空気の中でわたしは神妙に頷いた。

「そうですね。…多分。何かが起こるとしたら、わたしの方についてなんだと思う。つまりは」

気を引き締め、心構えをしておく必要があるのは主にわたし。そのことがそういう形で表れてたんだろう。

考えに沈みかけるわたしを励ますように佳代子さんは顔を覗き込み、明るい声を出した。

「そんなに思い悩まなくても大丈夫よ。あの人も言ってたじゃない、何かが起こるっていうより多少思い違いや行き違いが生じるかもってことだって…。だから、そういうことに惑わされないで、増渕さん本人をしっかり見失わなければきっと問題ないでしょ。あの方を信じてるんでしょ?」

素直に頷きつつも、こんなところでこんな話、お客さんと。声は抑えてくれてるから面談室の中までは聞こえないとは思うけど。わたしは戸惑いつつ思わず問いかけた。

「佳代子さん、あんまり驚かないんですね。わたしたちのこと。…もしかして、うっすら気づいてました?ちょっとは」

彼女はふと悪戯っぽい可愛い表情を浮かべ、しっかり頷いた。

「それは、まあね。薄々とは」

「わあ。まじかぁ」

わたしはいつものお客様の前での取り繕った態度も吹っ飛んで呻いた。あんなに頑張ってスイッチ切ってたから絶対大丈夫って思ってたのに。何だったんだよ!

何の意味もなかった…。

「あなたたちの態度はちゃんとしてたわよ。変にべたべたしてたり、緩んだところはなかったと思うわ。ほかのお客さんもそんなにみんながみんな、気がついてるとは思わないけど。…でもね、なんだか。空気が違うのよ、今までと。お二人が付き合い始めたのって夏が終わって秋になりかけの頃あたり?」

わたしは観念して認めた。

「…はい」

「やっぱりそっか。ほんとに微妙にね、ふわっと柔らかかった。お二人の表情とか。なんか、満ち足りて何かが自然と溢れてる感じ」

…全然隠せてないじゃん!

わたしはがっくり肩を落として力なく白状した。

「ちゃんと切り替えできてるつもりになってたんですけどね。結局周りに伝わってるとは…。職場でそんなことになって、けじめないなぁと思われてただろうなぁ。他のクライアントさんたちにも」

「大丈夫、態度や言動に変化はなかったから。表面だけ見てたら大抵の人はわからなかったと思う。現に、今のところあんまりそういう突っ込みされないでしょ?」

慰め気味にフォローしてもらい、曖昧に頷いた。

「それはまぁ。…今日初めてです、こういう話になったのは。お客様と」

「もし万が一、二人の空気の変化に気づいた人がほかにいても、素知らぬ振りでそっとしておこうと思ってくれるわよ。下手に触れちゃいけないかなって…。そこは皆さんわきまえてらっしゃるでしょ。お二人が大っぴらにする気がないのならこのままでいいと思うわ。あの人くらいよ、あんな風に空気も読まずにはっきり突っ込んでくるなんて。…そこはごめんなさいね。増渕さんもタミルさんも、せっかく慎ましく隠してらしたのに。容赦なくずけずけと踏み込んだりして」

「はは」

済まなさそうに謝られ、ちょっと気が楽になって思わず笑う。

「あんまり自然に持ち出されたから。何の違和感もなく普通に認めちゃいました。でも、わたしの方は案外平気かも。佳代子さんが不快に感じないで下さったんなら…。自然とわかっちゃう分にはもう、仕方ないのかな、と。それに。隆彦さんがあえてその話をしたのは、わたしに忠告したいって気持ちがあったからなんだろうし」

別に野次馬的な好奇心とか。からかうつもりではなかったのはわかるから。

カチ、と思いの外大きな音がキッチンから聴こえてきてちょっとびくっとなった。慌てて立ち上がり、コーヒーを淹れに赴く。

「あら、お気遣いなく」

「いえ、どうせ中のお客様にもお出しするし。それに淹れたのはわたしじゃなくてコーヒーメーカーですから。味はそれなりですけど」

そっと客用のカップに注いで、そろそろとお盆で佳代子さんの前まで運ぶ。それからがちょっとわたしには大仕事、未だに。軽く呼吸を整え、改めて二つのカップを載せたお盆を持ってキッチンから面談室まで慎重に慎重に進む。その状態から何とかノックしようと苦心惨憺するわたしを見かねて佳代子さんが背後から近づいてきて、軽くノックして中からの返事のあとにそっとドアを開けてくれた。どうにかコーヒーを増渕と中のお客様にサーブして、面談がまだ終わってないことを確認してから頭を下げて退出する。

「ありがとうございます。ほんと、どうしようもないぶきっちょで」

「いえいえ。お互い様よ。熱いものを運んで間違いがあっちゃいけないしね」

彼女は包容力溢れる笑顔で答えてくれた。再びリビングの応接セットに掛けて向き合う。まだもう少し時間の余裕ありそう。わたしは一瞬の躊躇ののち、思いきって気になっていたことを尋ねてみた。

「…あの。隆彦さんって、ああいう風に先のこと、忠告したり注意を促したりされること、時折ありますよね。今日とかも」

「ああ、わたしの職場でトラブルがあるって。…そう言われちゃうとしばらく気が重いのよね。まあ、親切で言ってくれてるのは勿論わかるんだけど。実際、最悪の事態は回避できることもあるし」

つい顔をしかめる案外正直な佳代子さん。わたしは恐るおそる畳み掛けた。

「てことは、やっぱり事前に予言されたことについては何か実際に起こることが多いですか。的中率は高い?」

彼女はちょっと表情をあらためて、まっすぐわたしの方を見返した。やや慎重に考えながら言葉を選ぶ。

「アドバイスされた件については、多かれ少なかれ何かしら起こるのが普通ね。思ったほど大したことじゃないじゃない、とかは割にあるけど。ま、それも、前もって言われたらこっちも気をつけたり何らかの対処をしておいたりするわけだから。彼の忠告のお陰で結果軽く済んでる可能性はあるかも」

今度はわたしがずん、と気重になる。…そか。じゃあ、程度や内容はともかく、これから増渕との間で何かしらの試練らしきものが発生するって心構えはしといた方がいいんだな。

まだ付き合い始めて充分な時間が経ってるとは言いがたい。何があっても大丈夫な自信なんか毛ほどもないのに。安定する前に何か否応なく起こるなんて。

確かに特に事前にこんなこと、知らなければ知らないでいた方がましかも。知らされたってどうせ、具体的なことは何も判明してないんだから。対策なんかどうにも立てようがないし。

思案に沈むわたしを心配そうに見守る視線に気づき、重くなった雰囲気を吹き飛ばそうとあえて明るい声を出す。まだ壊滅的なことが起きるって決まったわけじゃない。今からどん暗くなってたら、増渕にも気づかれるし。旦那さんの差し出口に責任を感じてる様子の佳代子さんにも申し訳ない気が。

「隆彦さん、予言ができるってことですよね。それってすごくないですか?ここで口寄せして初めてそれが的中したときは驚きませんでしたか?それとも、隆彦さんはもともと生前からそういう特技があったとか」

そこはちょっと以前から気にはなっていた。今回に限らず割と普遍的に口寄せの際にちょくちょく出てくる予言的アドバイス。ああいうのする人って、やっぱり亡くなる前からスピリチュアルな傾向とかがあったのかなとか。

佳代子さんは苦笑い気味に首を横に振った。

「まさか、ぜんっぜん。がちがちの即物的リアリストだったのよ。人間は死んだら何もかも消えてなくなるんだから霊魂なんかあるわけないだろ、非科学的なこと言うなとかさ。すみれ…、娘がパパを招び出して話したい、って言い出した時そういう意味で半分楽しみだったくらい。ほんとに消えてなくなってるのかなって。もし霊になって出てきたら、あの台詞は何だったの、想像と違ってた?って思いっきり訊いてやろうと」

ちょっと意地悪な笑みを浮かべて話す。思いの外阿漕なお方だ。

「それで、本当に訊いてみたんですか?」

話が逸れ気味なのにも関わらず思わず身を乗り出して尋ねると、彼女は軽く肩を竦めた。

「それがまあ、初日はやっぱりね。いろいろ驚愕することも多くてそれどころじゃなかったし。だいぶ経ってからふと思い出して訊いたわよ。そういえば、死後の世界なんかないって以前は主張してたけど。あれはどうだったの?って。まあ、その頃にはこれは本物の彼だなって自分としては確信が持てるようになってたからそんなこと訊けたんだと思うけど」

なるほど。

「そしたら、なんですって?」

佳代子さんは思い出すようにやや遠い目を宙空に泳がせた。

「いろいろと、思ってたのと違うって。実際になってみないとわからないことがあるから、何でも知る前に決めつけるもんじゃないなって苦笑いしてたわ。まあ、死んでからどうなるかなんて生きてる時に考えるほどのことじゃない、死ねばどうせわかることだからとも言ってたけど」

さすが、即物的リアリスト。

そうなってしまえばその時は潔く認めるってことね。

「予言については、普通の霊なら特別なことじゃないって。なんていうか、時間の流れが違うからって…。なんでも過去か未来かに関わらず、全てがばん、と平面的に見えるみたいなことを言ってたかな。そのどこにでも行けるんだ、とかさ」

「はぁ…、どんな状態かわからない」

思わず戸惑って呟くと、彼女も笑って相槌を打った。

「わたしもわからない。まあ、あまり深く考えなくていいみたい。自分もいつかその時になればわかることだし…。そんなわけで、とにかくあの人の『予言』についてはそれなりの信憑性はあります。それは間違いないけど」

「…はい」

また少し気重になって俯いてカップの縁に唇をつけるわたしに、彼女は力づけるように重ねて言った。

「でも、いつもちゃんと回避や軽減のためのアドバイスとセットで伝えてくれるわ。タミルさんの場合は、心構えをしておけって言ってたでしょう。不意打ちを食らうよりそれでだいぶましになるってことよ。それを知らせるためににわざわざ増渕さんに迷惑をかけてまで表に出てきたんだから…。二人の仲はそれでちゃんと持ちこたえられるって確信があったからこそよ。そこは、信じてもらっていいと思うわ」


しばらくは不意打ちに備えて身構えた気分で過ごした。

増渕はあの時のことをほとんど記憶してないらしかった。佳代子さんも言ってたけど、奴の身体の中に入った隆彦さんは伝えようと思えばいくらでも手段はあったはずなので、あえて増渕には知らせなかった可能性が高い。ということはやっぱり主にわたしの身に降りかかってくることなんだ。そう確信して少し警戒して周りに注意を払う。

しかし、一週間経っても二週間経っても何事も起こらない。その辺りまでは気も張っていたが、なんといっても集中の続かない鳥頭のことではあるし。徐々に彼のアドバイスを忘れている時間が多くなり始め、一ヶ月も過ぎた頃には殆ど普段通りのわたしに戻ってしまった。

そのことに気づいて肩を竦める。まぁ、隆彦さんも何が大きなことが起きるっていうより、より深く相手のことを知ることによって起きる変化みたいな表現をしてたし。そういう意味では気持ちや心構えの問題だってのは正しいのかも。

事件や事故でさえなければ、その時になって考えても大丈夫かな。とにかく回避するやり方ってのはないみたいだから、ただ変化が起きるのを甘んじて待つしかないわけだし。

思い悩んでもそれだけ時間の無駄ってことだよね。

結局そう割り切ることにした。

そうなるときっぱりスイッチを切るしか手段を持たないわたしのことだから、忘れるのも早い。いつも通りの生活の中に心配事はすぐに紛れていった。

相変わらずわたしたちは人目が切れるなりぴったりくっついて過ごした。自分の部屋には荷物を取りに行くときしか帰らない。増渕も一回一緒についてきて、上がり込んでそのままなし崩しにそこでえーと、何かしてしまったりとか。殺風景かつ狭苦しいあの部屋のベッドで男性とあんなことをする日がやってくるとは想像だにしなかった。さすがに泊まるにはきつきつなので、そのあと二人してまた事務所まで戻ったけど。

仕事も一緒、プライベートも一緒。夜も休みの日も二人で身を寄せ合って過ごす。それでもなかなかもうお腹いっぱい、結構ですってならない。少しは一人になりたいなと感じたりは全然なかった。

思ってた以上にわたしは長く続いた孤独に飽きていたのかもしれない。自分のお腹の奥にぽこっと空いた飢餓感を埋めるにはまだまだ充分じゃない。しばらくはこれからもこんな状態が続くようだった。

夜中、ふと目が覚めて隣の温かい身体の存在に気づき、胸の内がぶわとあったかくなる。ああ、よかった。もう一人じゃない。いつもわたしのことを考えてくれてる人がそばにいる。わたしが欲しいのと同じくらい、この人もわたしを求めてる…。

そう安堵してぴったりと身を寄せて再び目を閉じる。どう考えても眠ったままにしか思えない増渕が、無意識に伸ばしてきた腕の中にわたしを収めてきゅっとしがみつく。

こんな毎日がずっとこれからも続けばいい。そのためには何だってできる、きっと。

わたしの気持ちさえぶれなければ乗り越えられることなんだって確か隆彦さんは言ってたと思う。だったら、増渕へのこの思いさえ変わらなければきっと問題ないはず。

その自信はちゃんとある。奴の体温に包まれてわたしは心を決め、深く顔を埋めた。

何があっても大丈夫。ここから離れる気は絶対にない。

その時は、実際そういう確信があったんだけど…。


その日、お昼前の最期のクライアントさんの仕事がどういうわけかいつもより早めに終わった。

常連さんだったから面談を詰める必要がなくて、それで手早く済んだのかな。でも、普段は世間話とか雑談が多くて割になかなか帰らないタイプの人だ。増渕に尋ねると、

「ああ、今日はお昼にママ友たちとランチの約束があるって…。だからちょっと早めに出るって言ってましたよ」

とのこと。ふぅん。

軽く首を傾げた。なんか、珍しいな。あの人にしては。

それより少し時間に余裕ができたから、とわたしを抱こうと両腕を伸ばしてくる奴を退けてきっぱり言い渡した。

「こんな中途半端な時間ではちょっと、無理。それよりお昼買ってきます。ついでに買い物して…。増渕、何食べたい?」

増渕は若干恨めしそうにわたしを見た。

「そうやって、タミさんは割り切れるから。本当に無情なんだよなぁ…。じゃあ、俺も一緒に行くよ、買い物。夕飯何にしようかまだ決めてないし」

「駄目、増渕は留守番してて。今のお客さんの内容まとめて、午後の準備も済ませておいてよ、 せっかく時間が空いたんだから。…何でも手早く済ませておけば終業後の片付けも早めに終わるでしょ」

すっと顔を寄せて奴の頬に唇を軽く触れる。

「そしたら。二人きりになってからの時間がそれだけいっぱい取れるじゃん…」

それを聞いて興奮した増渕に捕まり、がっちり抱きすくめられてキスされるが何とかそれを振り払って事務所を出た。冗談じゃない、こんな時間に。変な気分になっちゃうよ。

肩を竦めてエレベーターのボタンを押す。本当はこういうちょっとした空き時間に深い行為をしたくないのは、中途半端に刺激されるのが身悶えるくらいつらいから。奴は少しの時間にちょっとでもわたしに触れたらそれはそれで嬉しいらしいんだけど。

こっちは変なところに火が点いちゃってそれどころじゃ済まない。するなら時間をかけてじっくり、全身奥まで満足させてもらって終わりたい。どうしても隙を見てするとなると、手抜きというか。いろいろ省略されたりすっ飛ばされて手短にされるのが嫌なんだもん。

小さくため息をついてやってきたエレベーターに乗る。最近気づいたことだけど、やっぱり全てを隠し通すのはなかなか難しいみたいで。帰って行くときにそっとわたしの方にだけ

「よかったわね」

と囁いていく方とか、小さなお菓子の包みなど手渡して

「おめでとう。お幸せにね」

などと言ってくれる方が時折現れるようになった。最初は、ん?どういう意味?とぽかんとなったけど。佳代子さんに言われたことも鑑みるに、どうやら雰囲気でわかる方にはわかるらしい。

今のところふしだらな、とか乱れてるとか不快に感じてるお客さんはいないみたいだけど。そう思う人が絶対いないとも限らない。祝福して頂けるのは有難いことだけど、やっぱりこれ以上クライアントさんの前で緩んだ空気を出すのはよくない。

下降する箱の中で気を引き締め、背筋をしゃきっと伸ばす。この関係を長く続けていくためには。だらしないことせずにしっかりしたペースを保っていなくちゃ。

…不意にポケットに突っ込んであったスマホが鳴り、びっくりして跳ねそうになる。音量を上げてあるから結構どきっとするし。言うまでもなく事務所の代表番号の方のだ。基本的にどんな時でもそっちはわたししか出ない。事務所に置いてはおかず、外出の時にも持ち出すようにしてる。

慌てて表示を見ると、さっきまで事務所にいたあのお客さんの名前だ。ママ友とのランチがあるからって珍しく早く切り上げて帰った。何だろう、忘れ物したとかかな。それとも、次の予約を入れ忘れたから?

ちょうど下に着いてエレベーターのドアが開いた。わたしは電話に出ながら外へさっさと踏み出した。

「はい、増渕心霊研究所です」

看板の表示は丸無視でわたしは最近そうやって電話に出てる。『増渕』と『霊』って言葉さえ入ってれば大体みんな納得してくれるから。超常現象研究所、とか口にした日にゃ

「は。…間違えました」

とかいそいそと切られる、ということもゼロじゃなかったし。

『…タミル、さん?』

さっきまで耳にしてた聞き慣れた常連さんの声。心なしか低い気はするけど、電話しづらい場所なのかな。外とか。

「はい、赤崎です。どうなさいました?さっき、何か事務所にお忘れものでもありましたか」

なるべく明るい気さくな声を出そうとする。彼女はちょっと笑ったようにも聞こえた。

『いえ、あの。今、大丈夫ですか。手離せないことない?…お邪魔じゃないかな』

最後の表現に引っかからないこともなかったけど、気のせいだ、とスルーすることにした。何の気なしに答える。

「いえ、平気ですよ。今ちょっと、外出したところですが。何なら事務所に戻りますし。まだエレベーター降りたくらいの場所なんで」

『…ああ、本当ね。ちょうどいいわ』

その声の含むところと、声の聞こえ方に何だか違和感があって眉をしかめる。マンションの自動ドアがふっと開いたのに反射的に目線をやって思わず目を見開いてしまった。

今さっき、事務所で目にしたその姿が。ママ友とのランチにいそいそと赴いた筈の彼女が開いたドアの間に立っているのが視界に入った。

意味がわからずぼうっと立ってるわたしに、彼女は可愛らしい、と表現できなくもない悪戯っぽい笑顔を向けた。それからスマホの通話を目の前で手早く切るとバッグの中にしまい込み、改まって話しかけてきた。

「お取り込み中だったら何とか理由をつけて呼び出そうと思ってた。…お話があるの、赤崎タミルさん。なかなかこういう機会もなくて。…少しだけ今から。お時間、いいかしら?」


《続》









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