第8章 増渕くんも抑えられない
予測していた以上に増渕の態度は頑なだった。
初めは、何か誤解を受けたことはわかったけど、それは割に簡単に解けるものなんじゃないかなとやや楽観的に考えてた。何と言っても全然こっちに不本意な気持ちはなかった。増渕だってあの瞬間は確かに自分からわたしを求めてくれてたと思う。どう思い返しても、わたしから無理にいって強行したわけじゃない。
だったら、わたしたちの間にそれなりの気持ちが互いに存在してると思っていいんじゃないか。…まぁ、もしかしたら増渕の方は実はそんなつもりじゃなかったって可能性はなきにしもあらず、だが。
そう思い当たってわたしは図らずも口許を曲げた。確かに増渕に好きだ、と言われた覚えは金輪際一回たりともない。いつも気遣って大事に守ってくれてるって実感はあるけど。それが恋愛感情だって絶対の自信があるのかって言われちゃうと…。
例によってゆっくり冷静な頭でものを考えられるのは、仕事が終わって帰宅して部屋で一人になってから。いろんなこと一遍に並行して進められないのは相変わらずだ。仕事中は余計なこと考え始めると頭も手も完全に止まっちゃう恐れがあるので一旦全部棚上げして、夜に自分の部屋でその日あったこもごもを脳裏で改めて再生してみるのが習慣になっていた。録画しておいたデータを後で改めてじっくり検証するみたいに。
そこで初めて昼間に目にした奴の表情や態度の意味を考え、意図を推測し、その感情の動きを読み取ろうとするんだけど。何しろ実際起きた時とのタイムラグが半端ないから。えっこの素っ気ない態度どういう意味?とか、なんで全然こっちに目を向けないの?とか。こんな風に夜に自分の部屋で思い出してみるといろいろとショックが大きい。
それでもって、今になってあの態度どういう意味だよとか考えても。後の祭り感がどうしようもなく拭えない。
頭がちゃんと働いてるんだったら、すかさずその場で真っ向から尋ねられたのに。何しろその時は目の前の仕事で一杯一杯だから…。
あれ以来のこの数日間、思い返してみると増渕は本当に仕事に必要なこと以外口を利いてない気がする。雑談がなく、笑顔もない。当然ご飯にも一度も誘ってくれない。最低限の話をする時だけ出てきて、あとはずっと面談室にこもってる。顔を合わせるのも嫌だ、と言わんばかりな…。
そこまで考えて愕然とする。…もしかして、わたし。完膚なきまでに嫌われた…?
歯ブラシを咥えたまま真剣に思い悩む。どうやら単なる何かの誤解というには深刻過ぎるかも。多分なにか、あの場面で絶対に言ってはいけないことを言ったかしてはいけないことをしたか。…一体どんな状況だったっけ?
自分が奴の虎の尾を踏んだというか、地雷源に突っ込んだことはわかった。でも、それが何だったのか。ちゃんと記憶してるかって言われたら正直あまり自信がない。
甘いような苦味交じりのような、複雑な気分であの時のことを一生懸命思い出してみる。
えーと、確か。ソファに並んで座ってたんだ。それで、奴が霊に取り憑かれた時にわたしが呼びかけた台詞の話になって。あいつが必要なんだ、と言ったのがわたし個人にとってなのか事務所としてなのかとか。
いやそこはまだ大丈夫だったはず。どっちでも構わない、必要としてくれてるならと微笑んで言ってくれたような。それから目が合って、どちらからともなくお互い引き寄せられるように…。
改めてしっかり思い出すと全身あちこち、あらぬところがかあっと火照る気がする。あんなに…、激しく。体重をかけて上から抑えつけるみたいに。増渕のことだから、もっと優しく触れるようなキスをしてくるかと漠然と思ってた。想像以上にすごかった…。
いやそこまではいい。キスの時の何かが奴の機嫌を損ねたとは思えない。終わったあとも愛おしげに優しく抱きしめて髪を撫でてくれてたはず。だから、問題は間違いなくそのあとだ。
わたしは何かを口に出して確認した。たしか…、自分の口からうっかりキスして、とか懇願しちゃったんじゃなかったか、って。
わたし、自分から頼んでないよね?
実際あのとき顔を上げて至近距離で増渕と目と目があった瞬間、キスしてほしいと頭に浮かんでしまってた。だから、その願望をだだ漏れに無意識に言葉にしてたら嫌だなって思ったことは事実だ。だからつい、終わったあと念押し気味に確かめた。
それに多分、わたしが自分から頼んだからしてくれたってわけじゃないよね?ってことがどっかで引っかかってたってこともあるかも。だって、そんなこと真剣に懇願されたらきっとあいつはわたしのことを可哀想に思って拒まないだろうし。そうじゃなくて、向こうの自由な意思でしてくれたことだって思いたかった。
それで思わず口にした質問だったけど。間違いなくそれが奴の地雷だったらしい。でも、何でなんだろう?
歯ブラシを動かす手が完全に止まってるのにやっと気づき、慌てて作業に戻る。全くもう、そんなことすら考えるのと同時にできないなんて。何やってもいちいち時間がかかってしょうがない。
口をすすいで歯磨きを終わらせて、ベッドの上にぱふんと座り込み改めてじっくり考える。どうやらあの場で言うべき台詞じゃなかったんだ。多分わたしが無神経だったんだろう。…とは言うものの。
何であそこまで拒絶される羽目になるのか?
キスしてって頼んでないと、あんなに嫌われなくちゃいけないんだ。でも、どうして?
両膝を立てて引き寄せ、両腕で抱えこみ顎を膝の上に載せてじとっと考え込む。それはわたしが自分から口にしてはっきり増渕に頼まなきゃいけないことだったのか。必要な手順を飛ばしたから嫌われた?
何で女の子から必ずキスを言葉でせがまなきゃいけないルールなのかは謎だけど。もしかしたら、はっきり言葉にして明確に頼まれなきゃ何もしないっていうのが増渕のポリシーだったのかも。そんな方式で一体どのくらいの女性経験が積めるのかは人によりけりだけど。普通なら下手すりゃ一生童貞だな。いやいやまぁ、増渕はそれでも何とかそこそこやってこられたのかも。
そしたらわたしはちゃんと頭を下げて懇願しなかったから奴に嫌われたってこと?でも、なんかちょっと納得いかない。その理屈も上手くあの状況を説明してないような…。
わたしは物悲しく自分の膝頭に頬っぺたを押しつけた。
あやふやではあるけど多分わたしは奴にはっきりとはせがまなかったと思う。目や表情で促しはしたと思うけど。それなのに、うっかりポリシーに反してついふらっと実行しちゃったからわたしに腹を立てたってことなのか。そんな極端なマイルールがあるならちゃんと先に説明しろよ。まあ、何の関係でもないうちに、僕は口に出して頼まれなきゃ女の子には何もしないって決めてるんです、って突如説明されたらどん引きか。その時点では知らねーよ!かどうでもいいよ、としか思えなかったと思う、きっと。
だったら結果こうして行き違って、二人の関係が終わってもしょうがない成り行きだったのかな。
そこまでやけくそに考えて、ふと別の考えが脳裏に閃いた。そんなことじゃなくて。例えばあの時わたしの言ったことが気に入らなかったっていうのは?
つと顔を上げて眉根を寄せ、目の前の空間をじっと睨む。そう、無言でキスを交わしたあと、しばらくの間わたしたちは幸せな気持ちでしっかりとお互いにしがみついて寄り添い合ってたと思う。あの時、懇願される前にうっかりふらふらとキスしちゃったよなんて後悔を奴が感じてたとは思えない。そんな空気はかけらもなかった。
明らかに奴の様子が変化したのは、わたしが口を開いてからだった。だから、問題だったのは言葉そのものだ、恐らく。
正確に思い出さないと。でも、そんなに長く喋った筈はない。ほんの短い台詞だった。
『わたし。…キスして、とか。言ってないよね?』
多分、大体そんな感じ。これがあいつを切れさせた元凶か。どこかが奴の逆鱗に触れたんだ。
言ってないよね?と問いかけて。いや言ってたよ、とか、うん言ってないよ、って返事を単に予想してたけど。そういうただの事実確認には聞こえなかったってことか。そう思い始めると、何だか不吉な感じに心臓が高鳴ってきた。…もしか、したら。
わたしがあいつを責めたみたいに思われた、とか?
頼んでもいないのにこんなことしやがってみたいに聞こえたのかな。そんなきつい口調だったはずはないんだけど。まだ余韻が残ってて、少し甘えるような声だったかと。…いや、まさか。それはそれで苛つかれた、とか。
頭がぐるぐると混乱してきて収拾がつかなくなってきた。両腕を解いて思いきりどん、と仰向けに倒れこんで天井を見上げて不満を胸の内でぶちまける。
あんなタイミングなんだから。ちょっとくらい甘い声出したっていいじゃないかよ!そんなすぐに、突慳貪な普段通りの調子になんか戻れないよ。
そんなのわたしのキャラとは似合わないからうんざりされたとか。だとしたら、結構厳しくないか?
一体奴は、あの時わたしにどんな態度を取って欲しかったんだろう。何かがあいつの思ってたのと違ってたんだ。そしてそのことが奴を傷つけた。
必要な事務手続き上の伝達事項だけをさっさと感情抜きに伝えて、足早に面談室に消えていくあの背中を思い出して不意に涙が滲んだ。わたしが一方的に悪かったのか、向こうにも何か理不尽なところがあるのかはわからないけど。
こんな毎日には長くは耐えられない。そんなつもりじゃなかったけど傷つけたならきちんと謝りたい。それでも許せないし優しい気持ちには戻れないからもう二人の間に未来はないっていうことなら。それはそれでわたしも肚を決めていかないと。
あいつとはもう恋人同士みたいなものにはなれないってはっきりわかったなら、そこは今後割り切って。仕事のパートナーとして増渕をサポートすることに徹していかないといけないんだ…。
その場合、女としての意識は封印する覚悟がないとこの先もずっと奴のそばにはいられないだろう。
ゆっくりと上半身を起こして再びベッドの上にぺたんと座り、わたしは長く重いため息をついた。
例えお互い悪気はなくて、ボタンのかけ違いが原因だったとしても。
増渕がもうわたしとはそんな気になれないっていうんならそれは仕方ない、受け入れよう。それよりも一刻も早く、仕事のパートナーとして今まで通りの関係を修復していくことに全力を傾けることのほうが最優先なんだ…。
そう思い立つとわたしは話が早い。
思いきりがいいとも言えるし、長いこと自分の胸に重たいものを納めておけないとも言える。ひとりで抱え込むことに耐えるより、さっさと吐き出してしまいたいんだ。
まあ、一言で片付けると堪え性がないとも言うな。
その翌日、出勤してから相手の様子を観察し続けた。これは大切なことだからこの際、仕事中は頭切り替えて完全に忘れてってわけにもいかない。
それに仕事と全然関係ないとも言い切れないし。だってこんな雰囲気のままじゃ、業務にだって少しずつ支障をきたし始めそうだ。事務的、って言えばそれなりに効率よく回ってそうに聞こえるけど。どう見てもわたしたちはどこかぎくしゃくしてて不自然に思える。
こんなんじゃきっとそのうち、どこか上手くいかなくなるに決まってる。顧客の皆さんにも気づかれるかもしれないし。
そう自分に言い聞かせて仕事中も増渕のことを考え続けた。相変わらずわたしに対する態度は素っ気ない。言葉も短くて最小限だし、何より目を合わせようとしない。そして伝達事項を伝え終わるとさっさと背中を向けて部屋にこもってしまう。
その背に向けて、怒ってるの?わたしの何がいけなかったの、と声をかけそうになり慌てて自制した。今は誰もいないけど、程なくして次の予約の方が来る。そんなタイミングで面倒な話を持ちかけて、変な雰囲気になったり気まずいまま中途半端で中断する羽目になったら…。
腹の底で思い直す。やっぱり、しっかり時間を取って落ち着いた状況で話した方がいい。
そうこうしてるうち、その日の最後のお客様が帰っていった。あとは本日の面談の記録をまとめて、明日の準備をして業務は終了だ。
増渕が面談のときのメモ書きを渡して気づいたことを淡々とした口調で簡潔に事務的に伝える。それを走り書きで付け加えてるわたしをちら、と見て、話し終わると例によってすっと背中を向けた。
「今日はそんな感じです。…作業終わったらあとはそのまま帰っていいですよ。僕はこっちでちょっと、明日の準備をしてますから」
帰るときいちいちひと声かけるな、って意味か。そのままそっちの部屋に入られてしまえばもうタイミングを逸してしまう。わたしは思いきって声を出した。
「あの。…増渕、くん。少し、いいかな。話さなきゃいけないことが」
増渕は足を止めた。でも、振り向きはしない。
あまりいい兆候ではない。わたしは焦り気味に付け加えた。
「手早く終わらせるから」
そう言いつつ脳内は目まぐるしく働く。わたし、言いたいこと手短にまとめられるかな?
あんまり要領よくはないんだけど。それでも、増渕だっていくら何でも話の途中で立ち去ったりはしないだろう。そこまで嫌われてたらちょっと怖い。そんなことを考え始めたらまた止まらなくなりそうなので、慌ててとにかく口を開く。
「ええと。なんか、わたし。…謝らなきゃいけないことがあるのかも。無神経だったとか。気がつかないで酷いことを言ったのかもとかさ」
「そういう訳じゃ」
遮るように小さな声で呟きはしたが、背中は向けたままだ。やっぱ怒ってるんじゃん。わたしは困惑と気後れで胸をばくばくさせながら何とか次の言葉を絞り出す。
「でも。…あれ以来明らかにおかしいじゃん。やっぱりわたしがなんか変なことをしたんでしょ?それで怒ってるの?…でも、このままじゃ。仕事にも差し支えるし」
そこで初めて増渕が振り向いた。その目の中に感情が見えてる。ただ、わたしみたいな鈍感なもんにはそれが上手く読み取れない。戸惑いのような、怯えのような。…それでいてやや苛立たしそうな色も含まれてる気もするし。
「怒ってなんかないですよ」
「嘘つけ。めっちゃ怒ってるじゃん。なんなのその態度。あれからずっと目も合わせようとしないし。いつも面談室に閉じこもりっきりじゃないよ」
突然ぶわ、と抑えてたものが胸に込み上げてきた。喉の奥に熱い塊がせり上がってくるのがわかる。
これを解き放つと何にも喋れなくなる。もういいや。そうなる前に思ってたこと全部ぶちまけちゃえ。そのあとどうなったって知るか。後の収拾はこいつが考えればいい、馘にするなり何なり。後始末なんかわたしの仕事じゃないぜ。こっちは一応元先輩なんだから。悪いか。
ここは思うようにさせてもらう。
制御できない言葉が奔流のように口から溢れ出てきた。
「わたしが考えなしだったのかも。自分から頼んだんじゃないよねって訊いたりしたら、もしかして変な風に受け取られるかもなんて思いもしなくて…。でも、不満言ってるみたいに聞こえたのかも、ってあとで気がついて。そんなつもりじゃなかった。ただ、そうして欲しいってあのとき思っちゃったから。それがそのまま口に出てたのかなって。…不安だった」
心臓がばくばく暴れ回ってる。あんまりその音がすごいから、耳の中に心臓があるのかと思うくらい。自分の震えまくってる声もよく聞き取れない。
「わたしがそうやって口に出して頼んだから、同情でしてくれたのかなって。…頼まれたから断れなくてしたんだって思いたくなかったから。増渕がそうしたいから自分からしたんだって考えたかった。だから、確かめたかっただけなんだけど。…なんか、不躾だったのかも。言い方が悪かったとか」
「そんなことないです」
食い気味に遮る。その声に必死さが滲み出てるのが混乱してる聴覚でも把握できて、ああ、やっと久しぶりにこの人の感情を揺さぶれた、と微かな安堵を感じる。それでかえってますます感情は崩壊して、わたしはむきになって言い募った。
「じゃあ何でずっとわたしの顔も見ないの?口の利き方が上から過ぎて嫌になったとか、面倒くさいこと言われそうでうんざりしたとか。あんなことのあとこんなに放っとかれたらそうとしか受け取れないよ。わたしのこと嫌いになったんなら…、それは、ちゃんと、言って。目を逸らして無視しないでよ。…理由が、知りたいから」
「タミさん」
両目が熱くなってお湯みたいなものが一気に溢れてきたのと、増渕の手がぐっと伸びてきたのがどっちが先かわからない。近づいてきた身体に抱きしめられる、と思った途端にふとためらうようにその手が行き場を失って泳いだ。…ほら、やっぱり。
「嫌いなんじゃん。触るのもやなんだ」
「違う、そうじゃないよ絶対。タミさんのこと嫌いだなんて。一度も思ったことない」
震える手がわたしの髪をそっと撫でた。少し仰向かせるように軽く支えて目を覗き込んでくる。
自信なげな掠れた小さな声がその口から出てくるのがこの目に見えてる。
「ただ、…タミさんに頼んでないよねって言われたとき。自分が理性もなんもかもぶっ飛んで、なんの断りもなくあなたに触れたんだってことに気がついて…、我に返ったんだ。どんな男もあなたに指一本触れさせないってはっきりこの口で言ったのに。勿論自分も含めて」
「それは。…その」
正直弱る。そこか。
「あの時はそういう話だったけど。…状況だって変わるし。ケースバイケースでしょ。相手にもよるし」
そう言いつつ、あの時はやだったけど今はいい理由を説明するのが難しいなと頭を悩ませる。啓太や他の人は無理だけど増渕は構わないとか。…ちゃんとこいつを納得させるにはどう言ったらいいんだろ。
案の定増渕は感銘を受けた様子もなくわたしの弱々しい抗議に取り合わず勝手にどんどん話を続けた。
「あいつがタミさんに無理やり触れたこと知ったとき。目の前が真っ赤になって…。怒りで頭がおかしくなりそうだった。女の子に事前の許可も求めないで油断させて、いきなりひと気のないとこで抱きしめたりして。好きともつきあってくれの言葉もなしで…、なんて。もっと壊れやすい、繊細なものとして扱ってほしい、そっと優しく丁寧に触れなきゃいけない人なのにって。そう思って殴りに行こうかと思ってたくらいなのに」
「そ。…う、なの?」
間近で思い出したように怒りに震えかける増渕にちょっと引き気味。あの時は結構落ち着いて冷静に見えてた気がするけど。
「そんな風には見えなかった。…よ」
奴は厳しく三角に尖らせた目をわたしに向けた。
「タミさんの前では取り乱しちゃいけないと思って。自制しました。あとであいつに電話した時は滅茶苦茶言ってやりましたよ。あれ以来話す気にもならないくらいで…。でも、我に返って気がついたんです。俺のしたことって、あいつがしたこととまるっきり同じじゃないか?…って」
「う」
そうかぁ?全然…、違う、よ。
と口にしかけて思わず上目遣いにじっと熟考する。あの時の啓太はどんな様子だったっけ?あんまりいい記憶でもないからあちこち飛んでるけど。
「タミさんのことずっと好きだったのに、そのこと伝えもしないで。大切にするからも、いい加減な気持ちじゃないもなし。きちんと自分の気持ち打ち明けずに、タミさんの瞳に吸い込まれるみたいに引き寄せられてなし崩しにそのまま…。それって、あいつのこと全然何も言えない所業じゃないですか。今ならいけそう、って思って勢いでそのまま、了承も得ずに…、なんて」
「うー…、ん。それは」
実に弱る。まぁ確かに。現象としては概ね一緒かも。
てか、今ちょっと思い出したけど、啓太もあの時は掻き口説くようにあれこれいろいろ喋ってたような記憶が。他の女の子ともう遊んだりしない、これからは君だけだとか。こんな気持ち初めてとか、絶対大切にするからとかも言われたかも。…おお、そう考えると。もしかしたら増渕の方が更に無作法だったってのは故なしとは言えないかも。
内心で感嘆する。同じような事態でも、こっちの主観で受け取り方ってこうも違っちゃうのか。なにしろ啓太はまるっきり性犯罪者扱いだったもんね、その場は。今思うとちょっとは気の毒だったかも…。
そこまで益体もないことばかり考えてふと気づく。いやそれどこじゃ。…今こいつ、結構大事なことさらっと言わんかったか?
なんか。…好き、とか。聞こえたような。
小さい部分に引っかかって足踏みしてるわたしのことなんか構わず、奴は俯いてぼそぼそながら早口でどんどん話を進めていく。
「してって言ってないよね、って確かめられた時、ああしまった、ちゃんと許可も得なかった、って思って。タミさんは怒ってる様子ではなかったけど、もしかしたらすごく傷ついてるかも。男が怖いんだって誰より知ってるのにいきなりこんなことして。タミさんは俺のこと信頼して、警戒しないでいてくれたと思うのに、そこにつけ込むような卑怯な真似…。誰よりそばにいられたのはあなたを傷つけないって言い張って安心させたからで、その立場を利用したんだ。そしたら俺はあいつや、今まであなたを傷つけた通りすがりの知らない連中と一緒だな、もしかしたらもっと悪い。最低最悪な奴かもって思ったら、…自分が、情けなくて」
「ええぇ、そんなことないよ」
仰天して声を上げるわたしを増渕はちょっと不審そうに見た。
「でも、してることは同じでしょ、あいつらと」
「え、そうは…、感じない、けど」
いきなり抱きしめて、唇を重ねて。痴漢とかセクハラは根本的に違うけど、啓太とは実際あまり変わらないのか、してることは。確かに好きとも言われてない。そういう意味では…、唐突と言えば否定しきらない、かも。
「でも。…本当に嫌ならちゃんと、押しのける時間くらいあったよ。わたし、結構待ったもん。すごく長く感じた。…だから、いきなりとか。突然って印象は、別に」
話してるうちに羞恥で耳が赤らむ。キスを待ってる時のわたし、どんな間抜けな顔してたんだろう。あまり想像したくない。
ちょっと増渕の顔を直視できず、横を向いて突っ放すような口調で弁解交じりに告げる。
「大体、啓太と増渕は違うよ。わたしにとって…、同じじゃない。そんなのフェアじゃない、あやふやな都合のいいこと言うなって言われるかもしれないけど。この人はいいけどこの人は駄目とか。よくわかんないけど、こういうのって多分不公平なのが普通じゃないの。誰でも同じに考えるなんか無理。…わたしにとって、増渕は。他の男の人たちの誰とも違うの。…そんな不平等なのは駄目って言われたら」
「駄目じゃないよ、全然」
増渕がすごい勢いで寄せてきた。今にも触れそうに近いのに触れない。もどかしそうにわたしの目を覗き込んで咳き込むようにたたみかける。
「不平等でいい。他の男なんかこれからも近づける気はないよ、タミさんに。でも、もしも。どういう意味でか全然頭が働かなくて理解できないけど。もし俺だけは他の奴らとちょっとでも違うって思ってくれるなら」
…なんでどういう意味かわからないんだよ!
お前を好きだって言ってんのに決まってるだろうが!
口を開きかけたわたしの両肩をがし、と掴みかけて奴は未だためらった。ああ、と口の中で小さく呟き、やがて両手を持て余した状態のままもごもごとわたしに問いかける。
「あの、今からでも。…僕の気持ちを伝えていいですか。遅すぎなければ」
「遅くないことないよ。遅いけど。…遅すぎはしない、へいき」
その必死な眼差しをじかに浴びてお腹の底がへなへなと溶けてしまう。素っ気ない声を出したつもりが終わりはどうにも甘くなった。
奴はわたしの肩すれすれに手のひらを浮かせたまま、掠れる声で口にした。
「タミさん。…好きです。ずっと。…本気で、誰よりも。他の男には渡したくないんです。俺なんか、あなたには釣り合わないってわかってるけど。…もし嫌でなければ。抱きしめて、…もう一度。キスしてもいいですか」
「いいです」
何を言われてもそう答えようと思ってた。例え自信がないからやっぱり別れようって言われたとしても。それがこいつが真剣に考えて決めたことなら。
だからろくに最後まで聞かずに食い気味にそう返事した。余韻がない、って文句言われるかと思ったけど。どうやら向こうももう限界だったみたいだ。
奴は速攻わたしの両肩を引き寄せ、熱っぽく唇をひとしきり重ねたあとソファに引きずるようにわたしを押し倒した。
【改ページ
切なく乱れた呼吸交じりに増渕が耳許で囁きかけてきた。ぞくり、と背筋を震わせながらなるべくなんでもない声を出す。
「なに?…いいよ、言って」
「あの。…無理なら無理で。今すぐ答えを出してとも…、言えないんですけど。僕と、付き合ってもらうのは。…駄目ですか」
なんだ。
今からここで、最後までいいか?って訊かれるのかと思った。ちょっと拍子抜けながらも、いやそれも大切なことじゃんと思い直す。
それって、増渕とわたしが恋人同士になる、ってこと。…なのかな?
なんか実感がないながらもふわふわした気持ちで口を開く。なのに出てきた言葉はこれ。
「お前、わたしが遊びでこんなことしてるとでも思ってんの?ここまでするのにわたしが付き合う気がないとでも?」
奴はわたしの上で跳ね上がるかと思った。
「いえまさか。タミさんはそんな…、その場限りのことなんて。するようなひとじゃ。…それは、ちゃんと。重々承知です」
上半身を起こしかけた増渕を押しとどめてもう一度ぎゅっとしがみつく。
「じゃあいいじゃん。誰とでもこんなことしない、絶対。…増渕だけだよ。それでいいの?納得した?」
「しました。…もう、これ以上のことって。…満足です。今世界が終わっても大丈夫」
やだよ。
何もかもこれからなのに。今死んだら化けて出る、絶対。
わたしはこれだけで満足なんかしない。やっぱり、ちゃんと、自分がこいつのものになったって実感が欲しい。もっといろいろ、知らなかったことを知って。確かなものを手にしたいの。
そんな焦がれるような気持ちを知ってか知らずか、奴は愛おしそうにわたしの首筋に頭をすり寄せて呟いた。
「俺なんか。そもそもタミさんの視界に入るのだって難しい、存在感のないつまんない男なのに。たまたま仕事で再会して、その運だけでこんな風に…、いくらなんでも分不相応じゃないかって思うけど」
「そんなことないよ」
わたしはびっくりして訴えた。
「増渕に存在感がないなんて…。全然思わない。ましてやつまんない奴なんてこと。誰も同意しないよ、ここに通ってる人たちだって」
街で人混みに紛れたら見分けのつかないことウォーリーの如しとまで考えたことは綺麗さっぱり頭から吹き飛んでたわたしは、熱心に言い募った。増渕は曖昧に唸る。
「それはまあ。ここに来る人たちは優先度というか、価値観が違うから…。でも普通に考えて、俺なんかよりいい男いっぱいいる訳だし。タミさんならどんな奴でもいくらでも選べると思うのに。よりによってこんな特徴もない地味なのを」
いやあの。…そうでもないです、以前も言ったけど。本人はもててたという実感が全くないんですけど。それに。
「それは、わたしにもっといい男を選んでそっちに行けって言ってんの?お前、わたしがやっぱ止めた、って言って今から他所へ行ってもいいのか」
奴は不意に上から抑えつけるように体重をかけ、きつくわたしを両腕で締めつけた。
「…絶対に嫌だ!そんなの…」
じゃあつまらんことうだうだ言うな。
そんな甘い会話をでれでれと交わしながら、やっぱり今日はさすがにここまでかな。今さっきやっと思いが通じて誤解が解けて。こうして抱き合ってお互いの体温を感じてまたキスもできて、その上このあと…、なんて。一気にそこまでってのも欲張り過ぎか。
ここまで来たらって逸る気持ちもなくはないけど。一方でつい先ほどまで碌に口も利けなかった状態からのこの急展開だから、思えば自分だってそんな心の準備まで当然できてる訳がない。
どっちにしろ、こっちからそこまで切り出すなんてできないし。これで充分、良しとするしか…。
そうやって内心で自分に言い聞かせ、改めてこの状況を味わおうと再び奴の背中に両腕を回してしがみつく。これが自分の声か、って思うほど甘い、優しい声が喉から溢れ出た。
「…ますぶち」
好きだよ、と続けようとした瞬間、奴は水を被った犬みたいに不意にぶるっと全身を震わせた。
「…あぁ。タミさん…」
いきなりすごい勢いでがば、と顔を近づけて唇に吸いついてきた。…ああ、もぉ。また、こんな風に。
呼吸が苦しい。口を塞がれてるせいだけじゃなくて。ここまで強く、甘く。…激しく、されたら。
「…ん、っ、…」
唇を解放されないまま不明瞭な声で呻く。なんだかじっとしていられない。身体の奥、絶対に手の届かないようなとこから未体験の疼きが湧き上がってきて。
わたしのその反応に、増渕は頭に血が上ったみたいに見えた。呼吸を荒げて堪えきれないように発情した身体を擦りつけてくる様子はなんだか獣っぽい。わたしも息を弾ませて熱くなった身体を押しつけ返しながらまとまらない頭で漠然と考えた。
こいつ、ちゃんと男の人だったんだな。いつも冷静で礼儀正しく距離を置いてて。発情した増渕の姿を見ることがあるなんて、少し前まで思いも寄らなかった。
なんか、変な夢の中にいるみたいに現実感がおかしい。身体の受けてる感覚はこの上もなく生々しいのに。
我慢できないようにわたしの上で切なく戦慄き始めた様子に気づき、慌ててそっと呼びかける。いけない、このままじゃ。この人だって生身の男なんだ。あんまり自制させるのも…。
何だか辛そう。
「増渕」
口を切ったものの、どんな言い方が適当なんだろ、と思わずためらう。何てったって自分の人生の中で、男の子に対してこんな提案をしなきゃならない羽目に陥る事態なんか全然今まで想定したこともないからさ。
あんまり露骨でもはしたなくもなく。引かれないで済む表現って一体…。
「あの。…そっちが、嫌とかでないならさ。わたしの方は、その…、いいよ?しても。別に…、最後まで。これから」
うわあ言っちゃった。思わず顔を見られないように増渕の首筋に深く埋めた。奴の身体が何かに打たれたようにびくん、となる。わたしの意図が即伝わったのがわかる。どういう意味?もなんもなし。
それはそうか。こんな状況で、今現在リアルにもわたしたちの頭の中はそれで一杯にならざるを得ないもんな。するか…、保ちこたえるか。二者択一、二つにひとつ。
奴は恐るおそる口を開いた。
「…いいの?あ、でも。…そんなに、急がせる気はないよ。ちゃんとタミさんの気持ちの準備ができるまで…、それは、いつまでも待とうと思ってるから。無理しないで」
阿呆か。
覚悟もできてないのにこんなこと切り出す訳ないだろ!舐めんな。
そう脳内で罵倒しつつ、あれそう言えば、下着大丈夫かな。当たり前だけど今朝家出るときさすがに今日こんなことになるつもりではなかったから。
一番お気に入りの下着を身につけて準備万端とはいくはずない。でも、誰に見られることなくてもわたしは習慣として上下の色柄は揃える、常に。そうしないと自分が気持ち悪いから。それにえーと、夏前くらいに全部の下着がいっぺんにくたびれてきたから一斉に新品に総取っ替えしてある(そういう替え方をするから、次もまた一斉に駄目になって一気に買い替える羽目になる。学習能力がない)。だからまぁ、そんなに酷いのを着けてきたとは考えられない。
そこまで確認して、よし、と改めて気合を入れ直した。
結局わたしから申し出ることになるのか。まぁ、こういう人を好きになったんだから。もうそれはしょうがない。
「わたしは今でいい。だって、今日でなくてもどっちみち、わたしたちそうなるんでしょ。…それともこんなこと自分から言い出す女は嫌かな、やっぱり」
「そんなわけ。…タミさん」
奴は感極まったようにぎゅう、とわたしの身体をしなるほど抱きしめた。マジ死ぬ。
「ごめんね、タミさんの口からそんなこと言わせて。…でも、自分からは。どうしても…。本当に大丈夫なの?俺のこと、怖くない?」
「増渕が?怖いわけないよ」
やっと緩んだ腕から身を捩って這い出し、気道を確保する。まあ、今この瞬間殺されるかと思わなくはなかったけど。不慮の事態であろう。
「わたしの嫌がること絶対しないってわかってるから。万が一どうしても無理なことがあればきっと言えば止めてくれるでしょ。それに」
わたしは増渕の頭を両腕でそっと抱きしめた。ちょっとまた奴がびくっとなって甘いため息をついたのはなんでだろ、と一瞬思ったけど、うっとりと胸の間に顔を埋めたのでなんだ、とすぐに苦笑いする。…やっぱこいつも男なんだな。これ、好きなんだ。仕方ないなぁ。気を取り直し話を続けた。
「増渕だけがしたいんじゃないよ。わたしだって…、どういうものかはっきりわかってるわけじゃないけど。ちゃんと、二人で一緒になりたい。何か身体で共有できるものがあるんならそれを知りたいの。あんまり、そんな…、最初からうまくはできないかも、しれないけど。そこは自信ない…、けどさ」
「何言ってんですか」
奴ががば、と胸の谷間から顔を上げた。こんな時にどういうわけかきりっとした生真面目な顔で掻き口説く。
「タミさんは何もしなくていいんです。そんな、いきなり何かさせたりとかは…。むしろ、俺の方が。タミさんを嫌な気持ちにさせないように、優しく、丁寧に。…大切に、しますから。壊れやすいものみたいに、そっと」
そう呟きつつ呼吸が乱れてきた。上体を伸び上がらせてわたしの頭を引き寄せ、再びキス。空いた方の片手が我慢できないようにわたしの胸を遠慮がちに覆った。嫌がらない、とみるとそっと少しずつ力が手のひらに込められる。
「あ…、ん」
キスを続けたまま、手の方は素早く服の中に入ってきた。直にその手の感触を皮膚の上に感じて思わず声が漏れる。増渕は息を荒げてもどかしくわたしの胸元をはだけ、そこに顔を近づける。…びくん、と身体が震え、反射的に仰け反った。
「あ…っ、やん」
目を閉じてその感覚に堪える。こんなこと、されるの。初めて、…だし。どうしよう。
自分の中に湧き上がる切羽詰まった何かに不意に恐れを抱く。増渕は怖くない。それは間違いない、けど。
…もしかして。自分のことは、少し。…怖い、かも。
ソファの上で両胸を露わにして身を捩るわたしに夢中になりかけるのを振り切るように、増渕は行為の手を止めてふと冷静な表情で提案した。
「タミさん。…もし、嫌でなければ。奥の寝室に行きませんか?…ここは、ちょっと。…落ち着かないし。狭いですから」
* * * *
「…はぁ」
心臓が耳許でばくばく鳴ってる。もう身体のどこにも全然力が入らない。
甘い余韻とずきずきする痛みにぐったりとしどけない姿で横たわる。…とにもかくにも、終わった。なんか、…思ってたより。すごかった…、かも。
わたしを抱きしめて髪を撫でていた増渕がつと上半身を起こした。生え際をかき分けて耳の近くにそっと唇を当てる。
「どうでした?つらくなかった?痛いとか、どっか苦しいとかはない?」
心から心配げな声の調子はいつもの穏やかで折り目正しいあの感じに戻ってる。最中の、ちょっとS気味の焦らしていたぶるような言動はなんだったんだ。性癖か。
でも。じんじんと身体の奥に沁みるように残る快感の名残りをうっとりと味わいながらちょっと耳が熱くなる。もしかしてわたしも、そういうの割に好き。…かも…。
衆目の一致するところ性格きつくて容赦ない上から態度なのに。まさかのM傾向があったとは。
こういうのは普段の態度とか性格って案外関係ないものなのかも。してみないとわかんないことってあるんだなぁ、やっぱり。
手を伸ばして増渕の髪に触れ、安心させようと呟いた。
「だいじょぶだよ。もう全然痛くもないし。なんか、すかすかするけど。…不思議、この感じ」
しばらく落ち着かないかも。慣れるまで時間かかるな、多分。
増渕はちょっと笑って答えた。
「その感じは全然想像がつきません。さすがに」
「そりゃそうだよな」
奴はわたしの唇に軽く自分の口を重ね、静かに立ち上がった。部屋の中にぎし、とベッドが鳴る音が重く響く。
わたしに背を向けて何か俯いてごそごそしてる。なんだろ、と思って見てると増渕はちょっと弱った声で振り向いて言った。
「あんま…、見ないで下さいよ。そんな、まじまじと」
それから何かを引き抜くようにしてくるくると口を縛って、部屋の片隅にある塵箱に捨てた。…あ。そうか。
「ちゃんと、つけてくれてたんだ」
いっぱい責められて朦朧としてたし。自分の感覚に溺れて夢中な上に目もほとんどつぶってたから(真っ暗でもあんまり関係なかった。あんな時に見えてようが見えてまいが、増渕のこと以外思い浮かぶ余地なんか結果全くなかったし)、装着する場面は目にしてなかった。…あ。さっきの、あの。ベッドの端に置いた小さな箱。
あれが、そうだったのか。
すごい、用意がいいな。ちらとそんな考えが頭をよぎる。こんなものきちんと準備してあるとは。まさかわたしとこうなること、どこかで想定済みだった?いやそれはないか。ついさっきまでの増渕の様子を鑑みるに、絶対にこうなるって自信があったとは思えない。以前使う機会があった時の残りとかなのかな。…例えば、前に彼女がいた頃とか。
ちょっと胸の奥がずき、と鳴るけど。まあそれくらいはあっておかしくない、全然。こいつも二十五くらいの一人暮らしのれっきとした男だし。そこはかとなく馴れた感じもあって、未経験とは思えなかった。それなりのことは今まであったはず。
今現在はそういう相手の影は感じられないし。過去のことならわたしがどうこう言う権利なんかないのはわかってる。
奴はウエットティッシュらしきものをボックスから引き出して軽く手を拭いそれも捨てた後、ベッドへ戻ってきてこともなげに答えた。
「だって、それは。当然絶対きちんとしなきゃいけないことですから。運よく付き合ってもらえることになったって言ってもタミさんの身体はタミさんのものだし。勝手なことするわけにいきません。そりゃ、いつかは…とは。考えなくもない、かな。…いえ、すいません。今のなしで」
何故か薄暗い中にも奴の顔が真っ赤になったのがわかる。それを誤魔化すようにわたしをばふ、と抱きしめて覆い被さったけど、頬に当たるその耳が熱い。何照れてんだ。
「ああ…、妊娠?とか、か」
何気なく相槌を打つと奴はますます腕に力を込めて伏せた顔を押し付けてきた。聞き取りにくい声でごもごも呟く。
「いや、だから。…それは。まだずっとずっと先のことで。こんな、始まってすぐにもうこんな話…。引くよね。重いし。忘れて、やっぱり」
「重くはないよ。引かないけど。…でもまあ、早いな。確かに。秒速のスピードだよ」
呆れないこともない。わたしなんか、そんなとこまで全然頭回んないよ。
「これから二人、どんな感じになるのかもわかんないのに。子ども…、かぁ。うーん、想像の彼方だな。それは」
だいいちそれって。増渕と結婚、するってこと?
思わず真剣に考え込みそうになるわたしを押しとどめるかのように、奴は顔を寄せて唇を塞いだ。本気の深いキス。
「…、んっ」
喘ぐわたしの身体をそっと遠慮がちに撫でながら唇を離して語りかける。
「いいんです。まだ、そこまでは。俺が…、勝手に、妄想してることだから。タミさんは目の前のことだけでいいですよ。むしろあんまり先走られて、思い詰めて先回りで断られたら困ります。いざそういうタイミングになるまであなたは検討しないで下さい、何にも」
「何だよそれ」
ちょっとむくれる。なんか、余計なこと考えそうとかいう意味?あんぽんたんで的外れな思い込みしそうとか。
増渕はやや甘い声を出して身体を擦りつけてきた。
「だって、タミさんてってなんて言うか。何し出すか予測がつかないじゃないですか。表情はわかりやすいし感情や考えを隠すのも得意じゃないから全部すかすかの見え見え、って思ってるといきなり何考えてるのか全然読めなくなるし。急に思考回路がどうなってるのか見失うから…。こっちは途方に暮れます」
「ああ。…それは」
多分何も考えてない時だね。と正直に打ち明ける気がせずつい口を濁す。複雑なことを頭から追い出す必要があるときとかに、スイッチぶっちり切るから。昨日までの仕事中みたいに。
増渕はわたしの上に乗って、頬や口許、髪の生え際に唇を這わせつつそっと弄ぶように手のひらで身体を弄りながらも呟くように話を続けた。
「そうやって思考が潜伏してる間に突進してる方向が、こっちがのけぞるくらい明後日の方だったりして。思いがけないとこから突然ぼこっと頭出したりするから…。ほんと、心臓に悪いんです。そんな感じで急に思い詰めて、わたし増渕とは一緒になれない、とかきっぱり頑なに断言されても…。案外頑固だから、一度心に決められちゃったら翻意させるのも大変そうだし。とにかく、勝手に思い込んで一人で何か決断とかしないでほしい」
あまりの言い草にわたしはちょっと憮然となった。
心の底から物思わしげに憂いている様子で、ふざけてるわけじゃなさそうなんだけど。いくら何でもひとのこと、とんちきな奴だと決めつけ過ぎじゃないか?
「そこまで酷いかわたし。それじゃまるっきり見当外れの激しい暴走機関車扱いじゃん」
いや話の内容を総合して判断するに。むしろ、暴走もぐら?方向音痴の。
両手のひらで胸を柔らかく揉まれながら軽く身を捩り、何とか抗議を続ける。
「そりゃところどころぽかんと抜けてるのはわかってるけど。自分ではいつもちゃんと筋道立てて考えてるつもりなのに。むしろ、結構理屈っぽい方かなって」
「だからその理屈とか筋道が…。他人には想像の外なんですよ。タミさん流っていうか。ええそっち行っちゃうの?って呆然とする羽目になりかねないから」
散々な言われようだ。悪戯がエスカレートしかける奴の両手にどう対応しようか迷いつつ、呻きながらもわたしは膨れて言い返した。
「大体さ。以前に言ってたじゃん、わたしの考えてることが多少なら見えるって。あれはどうなったの?最近の成り行きを思うに、あんまり機能してるとは思えないけど」
「え、そんな訳ないでしょ。考えてることが見える?そんなこと言ったかなぁ?」
うっかり『だめ』とか言っちゃうとかえって後が大変だってことはわかった。指でわたしをかき立てながら、奴は思案げに首を傾げる。わたしは自然と更に開いてしまいそうになる脚を何とか閉じつつ喘ぎながら返した。
「ほら、まだここに…、来たばっかりの頃。わたしの怯えとか恐怖が…、伝わるって。読もうとしなくても、オーラの色とか揺らぎが…、見えるから、って」
「ああ。あの時」
増渕はさすがにちょっと顔を引き締め、軽く眉根を寄せた。すぐに柔らかい表情に戻って悪戯は再開されたけど。
「あれはだいぶ以前の話だから。相手の表面的な情報なら、ぱっと見である程度把握できちゃうってことは実際あります。サイコメトリクスとかの癖が人間相手でも出ちゃうことがあるから。…でも、タミさんにはもうそういうのは効かない。とっくに、かなり前からそうなってますね」
「え、そうなの?」
わたしはされるままになりながらも、意外の念に打たれて顔をもたげた。こんな状況じゃ話に集中するのも難しいけど。
中途半端でやめてもほしくない。なんともじれったい状態で話は進む。
「わたしのことなんか…、増渕は、軽くお見通しなのかと。まぁ。…その割に、鈍過ぎと、思わないでも。…なかったけど。それは、でも、なんで?以前はできてた…、ってこと。でしょ?」
乱れた呼吸交じりに何とか尋ねる。そんな様子に奴も再び何かをかき立てられたのか、視線はぴったりわたしの身体に据えられて離れないけど答える声はまだ冷静だ。
「人間関係が変化したからです。距離が近くなったっていうのかな。…あの、俺たちみたいな連中って、自分のことって基本的にわからないもんなんです。まぁ当たり前だけど」
「あぁ…、そういう、もん?」
目が霞むように感じ始めた。茫洋とした眼差しを向けると、増渕はうっとりしたような表情でわたしを見返し、愛撫する手を休めないまま唇を甘く重ねてきた。
「だって、やっぱり客観的には見られないから。いろんな感情や主観が入るから判断も曇るし…。それと似た感じで、身内やごく近い関係の相手も見えづらくなります。自分自身ほどじゃないけど、ぱっと見でいろんな情報が取れるって訳にはいかない。余程集中して、慎重に見ていかないと…。タミさんはだいぶ前からもう、身内の感覚ですから。俺にとっては」
「へぇ」
喘ぎながらもちょっと驚く。だいぶ前って、いつくらい?
「あの時は、意図して見ようとしなくても伝わってくるものがあるって言ってたよ。じゃあ、あのあと変わったってこと?いつくらいから?…最近ってわけじゃ、ないんだ」
思わず視線を彷徨わせて考えを巡らせる。関係が変わった?そりゃ、今現在ドメスティックに間柄が変化を遂げたことは一目瞭然だけどさ。
それってほんの今日、もっと言うなら終業後。たった数時間ほど前の話じゃん。恋人同士ならそりゃ身内みたいなもので判断が曇るってのはわかるけど。
「今この瞬間はともかく。あの頃とそのあと、そんなにわたしたちの関係って変化があったっけ?距離感がそんなにすごい近づいたとかは」
馬鹿正直に疑問を口にして首を捻るわたしの言葉を遮るように唇を塞ぎ、本格的に腰を据えて行為に取り掛かるために姿勢を変えながら奴は答えをやや濁す。そこはかとなく頬が染まっているような。
「それはまぁ。…俺の、主観の中の話だから、距離が変わったっていっても。いいじゃないですか細かいことはもう」
「あっ、もぉ」
完全にそっちに意識を持っていかれる前にと、残った集中力を何とか結集して疑問を口にした。
「…増渕。実際のとこ、いつくらいからわたしのこと好き、なの?」
奴は更に耳を赤くして、ぶっきらぼうに誤魔化した。
「そんなこと。…もう、いいでしょ別に。だいぶ、すごく前です。タミさんが俺のことなんて何とも思ってない時からずっと…、ですよ。もうほとんど最初からです。あのあとすぐ」
わたしの感情の色や揺らぎが見える、って言ってたのは初めて霊視してくれた時だ。低級霊を寄せ集めやすい、ってことと守護霊が上手く機能してないって診断してくれたとき。後にも先にもあれ一度きりだったから、その後わたしのことが見えづらくなってるなんてこっちは思いもよらない。けど…。
奴はふと小さな声で呟くように言った。
「…タミさんのこと、見えてたのなんかほんの一瞬だった。あっと言う間に見失って、いろんなことが読めなくなって…。霊感なんかない、普通の人と同じように表情や言動から気持ちや心の動きを推し量るしかなくて。まぁそれは誰でもそうしてるものだから、別に構わないんですけど。こんなに無器用で上手く感情を隠すこともできない人なのにどうしてか何もかも全然読めないし見通せなくて…。本気で弱りました。もう懲り懲りです」
なんだそりゃ。
お前だって大概わかりづらいわ。
完全に回復して興奮した身体を抑えきれず擦りつけてくる。その欲情に思わず反応してしまうわたしの耳に、舌を這わせるように囁きかけられて更にぞくっとなってしまう。
「もうあんな…、進む方向もわからない、ジャングルの真っ只中にぽんと置き去りにされるみたいな思いはしたくないですから。やっとこうやって捕まえたんだから、そう簡単には放しませんよ。…タミさんを見失いたくない。もう二度と」
* * * *
「タミちゃん。…なんか、あったね。変化」
ふと気づくと間仲さんにじっと見つめられてる。ちょっとやばいかも。わたしは慌てて表情を取り繕い、罪のない笑顔を浮かべてごまかした。
「何にもないですよぉ。環境も今までと同じだし。顔を合わせるのもいつも同じ面子ばっかで」
「つまり、悠くんとばっかり一緒にいるってことでしょ。それでそんなに綺麗になるってことは。…相手はあの子か、やっぱり」
まっすぐ視線を顔に据えられて心から弱る。別に、間仲さんに知られてはいけないことなわけじゃないけどさ。
「うーん。…あの、別に。綺麗にはなってないです。どう考えても」
化粧も変えてないし服も買い足してない。そんな変化、絶対に外見に表れてるわけないんだけど。
でも、間仲さんの鋭い観察眼を通すと何かが違って見えるんだ、多分。それを『綺麗』と優しく表現してくれてるけど。一体どういう風に変わったんだろ。もしかして、どっかそこはかとなくエロく見えるとか。
…だったらちょっと嫌だなあ。マジで恥ずかしい。
今日は土曜日。事務所の休業日ではないけど、予約のない時は午前だけとか午後だけとか、半日勤のときもある。そこは臨機応変。
午前中は普通にいくつか予約があって事務所で仕事だったけど、午後は増渕だけ出張に出かけた。とは言っても都内でそう遠くはない。また新しい依頼内容で、あるお酒を出す夜の店のオーナーからのもの。どうも霊らしきものが度々目撃されるので、お客さんも女の子たちも気味悪がって困ってる、ちょっと見てくれないかっていう話なんだけど。
「話を聞いて判断する限りではそんなに怖いものや悪いってほどじゃなくて。ちょっと土地が絡んでるから一応その場にいって処理しなきゃいけないんですけど。…あの、タミさんは。行かない方が無難なやつ。…かも」
少し遠慮がちに申し出られて、すっかり一緒に行く気でいたわたし(だって、何だか面白そうじゃん)は不意打ちを食らって口許をへの字に曲げた。
「てことは、例の奴ら?」
「そうです。低級霊ですね、色情系の。まあ、場所柄集まってくるのはしょうがないんですけど。雑魚ばっかりで片付けるのは難しくなさそうなんですけど、たち悪い感じですから。タミさんみたいな人には接触させたくない、絶対。…近づけるのも嫌だ、タミさんが汚れる」
なんか話してるうちに頭に血が上ってきてる。かりかりする増渕をいなすようにわたしは残念がるのは止めてトーンダウンして受け答えた。
「まあまあ。行かなきゃいいんでしょ、留守番してれば。でもさ、大したことない雑魚なんでしょ。わたしのバック強化したのに、そんな程度の奴ら防御できないの?万一のこと考えるとやっぱ不安てか」
少しからかうように言うと、増渕はぶすっとむくれて言い返した。
「そうじゃないです。守りは完璧だと思うけど…。そんなとこ行くと、雑魚霊どもの視界にタミさんが入るじゃないですか。あんな連中の目にタミさんを晒したくないよ」
何言ってんだ。意味がよくわからない。
「だって、そんなの一瞬でしょ?片付けちゃうんでしょ、何処へ送るんだか散らすんだか知らないけど?跡形もなく消えちゃうんじゃないの、そんな人たち?」
増渕は以前はあまり見せたことのないガキっぽい表情でむきになって言い募った。
「それはそうですけど。消えてなくなる一瞬前にこんな綺麗なもの見せてやる義理なんかないよ。その一瞬で絶対奴ら、変なこと考えるに決まってるし。…いや、あり得ない。タミさんで変な想像する奴がいたら二度とこの世に戻ってこれない場所へ吹っ飛ばして粉々に潰してやってもまだ足りない。それじゃ気が済まないよ」
自分は想像どころじゃなく実地で変なことしてるくせに。内心呆れるわたしをむぎゅ、と大切そうに両腕で抱きしめるのだった。しかしお客さんがいない時の二人きりの会話とはいえ。わたしは脳裏でそのやり取りを思い出しつつそっとため息をつく。なんか、変な職場になっちゃったなぁ。
増渕って奴は年齢の割に落ち着いて大人びて、いつも穏やかで平静さを失わない安定した精神の持ち主だと思ってた。そういううわべの顔つきが綻びるみたいに、感情や波立ちを隠さない正直な表情が見え隠れするようになってきた。
今まで知らないでいたそういう新しい増渕を見るのは嫌いじゃない。むしろ、わたしの前で取り繕うのは止めたんだって思えば少し嬉しくもある。やきもちだだ漏れのあいつを目にすることになるとは。ほんの少し前まで想像もしなかった。
てか。実はちょっとだけ思うんだけど。密かに胸の内だけで呟く。あいつ、並より若干嫉妬深いっていうか。独占欲強くないか?ああ見えて。人って、意外。
なんてことをぐるぐると一瞬で思い返してしまい、慌てて表情を取り繕う。やれやれ、とばかりにため息ついてるくらいならまぁいいけど。黙って不気味ににやけてる可能性は否定しきらない。間仲さんの前だってば、今は。
えーと、まあそんな次第で。残念ながらわたしはお留守番と相成った。もう長いことお酒を飲むようなとこに顔も出してないし、そういう街に行く機会もあんまりないから残念といえば残念。まあ、お酒自体好きなわけではないし、もともと。尤もそれも、増渕に言わせれば守護が働いてることの表れだっていうんだけど。
「夜の街なんかに行くことがだいぶ減りますからね、アルコールが駄目だと。ああいう場所はタミさんには鬼門ではありますから。いっぱい集まってますからね、大抵は。なるべくそういうものに晒す機会を減らそうとして守護するものが体質を設定した可能性はあります」
「へぇ。案外ちゃんと働いてるんじゃん、その人たち」
わたしが感心して相槌を打つと奴はちょっと苦笑いで答えた。
「大元の存在はね。その人を守ってるいわゆる一人に一体の守護霊ってのはかなり霊格が高いので。僕とかが直接コンタクトできません、勿論タミさんのも。そういう方はしっかり揺るぎなく機能してます。わちゃわちゃしてたのはいっぱいいる実働部隊の人たちですから。彼らと大元の守護霊との意思伝達も上手くできてなかったんです。そのルートも今ではしっかり活きてますから、大丈夫ですよ」
それはどうも。ありがとう。
そうして増渕についていくのを断念したはいいが、じゃあ午後は事務所で一人で電話番でもするか、特に溜まってるPC作業もないし。と思ってたら、別に事務所に詰めっきりでいる必要ないですよ。とあっさり言われた。
「もともと午後は休みにするつもりだったから。タミさんは自由に過ごして下さい。仕事溜まってないなら、外に出かけるとか」
「じゃあ、事務所の掃除するよ。それとも、洗濯とか。あ、夕飯に何か凝ったもの作ろうかな。買い出しもしなくちゃだし」
いろいろ思い巡らせるわたしを押しとどめるように抱きしめて顔を自分の胸に押しつけ、黙らせてきっぱり言い渡す。
「そういうのはいいよ。明日休みだし、二人で一緒にやろう。協力してさ。…それより、タミさん。一人で済ませたいこと、今のうちにしておいたら?最近ずっと一緒に過ごしてるし。なんか、自由がないみたいに感じてたら…、申し訳ないから」
わたしは奴の胸から顔を上げて心配げな茶色い瞳を見つめた。
「増渕、ずっとわたしといるの疲れた?少しは自由な時間ほしい、…とか」
「そんなわけないよ。一緒にいたがってるのは俺の方だもん!」
そこからまたいちゃいちゃが。とまあ、ここもあんまりリアルに思い返してるとにやけ顔の危険が。
しかし自由にと言われても。別に特にしたいことも会いたい相手もいるわけじゃなし。どうしようかなぁ、と思ってたとこへ久しぶりに間仲さんからのお誘いがきた。
『タミちゃん、悠くんに預けたいものがあるんだけど、いくつか。何かのついでがあったら…と思ってたら延び延びになっちゃって。取りに来てもらいがてらうちに遊びにおいでよと思ったけど、忙しいところ悪いかな。なんなら事務所までわたしが持って行こうか?』
少し遠慮がちにそう言われたけど、特にわたしに否やはない。
「大丈夫、別に忙しくもないです。全然時間ありますから、もしよろしかったらお邪魔させてもらいますよ。ついでもあるし」
そう言って約束を取り付けた。ちょうどぽかんと空いた時間があってよかった。それにせっかくだから、自分の部屋に寄って着替えやら生活必需品やら少し取りに行ってこよう。事務所と間仲家の間にわたしの部屋があるから途中に立ち寄れる。
そうして間仲さんと向かいあって美味しい手作りのお菓子を頂いてる次第なのだが。時折ぽうっと心あらずの状態にならないよう気合いを入れなきゃならない。何しろ色ぼけの真っ最中、油断すると夜な夜なのあらぬことが脳裏にありありと浮かんで頬をぱっと染めたりしかねない。頭きっちり切り替えなきゃ。
自慢じゃないが切り替えは得意だ。長年の経験から、一度に二つのことをこなせないと自分のことを見限って久しい。スイッチの切り方は完全にマスターしてる。
だけど、それくらいじゃ間仲さんの見えないものもありありと見通す特殊な目をごまかすには至らないらしい。あっという間に何かに気づかれた。
彼女は複雑な表情を浮かべてわたしを見定めるように目を細めた。
「ずっとそばにいるうちに、ついに悠くんのこと、好きになっちゃった?自分の気持ち自覚しちゃったってとこかな。…それとも更にその先をいってる、か。…二人、もう付き合ってるの?」
さすが、ご自身の息子さんにわたしをと目論んでらっしゃるだけのことはある。実に目敏い。まだ何一つ打ち明けてもいないのに。それにしても、そんなにわたしってわかりやすいのか。なんか、ちょっと情けなくもない。
一応慎重に、様子を伺いつつ答える。
「それはまあ。…特に、そういうつもりでは。ただ自然な流れに任せてっていうか。…追い追い、そんな方向に向かって、ないこともない。…ですかね」
「はあぁ、やっぱり…」
間仲さんは盛大にため息をついて肩を落とした。そんなにあからさまにがっくりされると。なるべく遠回しに表現したつもりだったんだけど、考えなしだったか。
でも、あえてはっきり否定したりするのもわざと嘘つくことになるし。そこまでして隠しても、いつかは間仲さんにもきっとわかっちゃう…。
彼女はわたしのティーカップに熱い美味しい紅茶を注いでくれながら若干悔しそうに呟いた。
「まぁ、そうなるかなって気はしてたんだ、ずっと。二人で常にいつもそばで仕事してるわけだし。自然と惹かれあって距離が近づいてくのも当たり前といえば当たり前よね…」
その台詞に、以前啓太に言われてずっと引っかかってた言葉が脳裏に蘇る。思わず口が勝手に動いてた。
「それって。二人きりで密室に押し込められてたから自動的にくっついちゃうみたいな話ですか。逃げ場がなくてどうしようもなくなって結果発情するみたいな」
確かそんな言い草だったと思うけど。手近でいつも一緒にいるからってなんとなくその気になるのはやめてほしい、よく考えて決めてくれって。間仲さんはちょっと眉を上げてわたしの言葉に頭を横に振った。
「いやそんな意味じゃなくて。それだと狭いとこに二人で一緒にしとけば自然発火するみたいに聞こえるじゃない、組み合わせは何でも。そういうんじゃなく、タミちゃんと悠くんはお互いに惹き寄せ合うのも無理ない似合いの者同士だもんなぁ、と思ってさ。最初から、放っとけばこうなるのは目に見えてたからこそちょっと積極的に割り込んでいかなきゃと頑張ってみたんだけどね」
「はぁ、そんな風に見えるのかな…」
毒気を抜かれて思わず声に出して呟く。
「本人は全然そういう意識は。あいつといつかどうなるかとか、好きになるかもとかは全く思ってもみなかった」
いざ実際そうなるまでは。
「最初は男として見たこともなかったのに。周りから客観的に見るとそこは何か感じるものがあったってことなんですかね?」
間仲さんは苦笑い気味に胸を張ってみせた。
「そこはそりゃまあ、さ。一応、それなりに勘は鋭い方だから。これは外れてほしいなあとは思ってはいたけど…。似合いで相性がよくて、お互いのバックがそれぞれ相手を選ぶことに前向き姿勢だったとしても、生きてる人間本人が必ずしもその意向に素直に従うとは限らないしさ」
「へえぇ。そうなんだ」
わたしは変なところに感心して声を声を上げる。
「わたし、人間って結構自覚なく守護霊とかの言いなりなのかと思ってた。自分の意志で動いてるつもりでも案外、バックにああしろこうしろって指示されてることに気づいてないだけなのかなって」
彼女は落ち着き払ってご本人お手製のパウンドケーキを一切れ手に取った。
「そういうことも勿論あるよ。でも一方で、守護霊が何働きかけたって全然言うこと聞かない、コントロールしづらい人間もいるし。本当に強いのは生きてる本人だからね。バックの霊なんか場合によっちゃ、相手に聞こえもしないのに必死で耳元で囁きかけて翻心を促すとかがせいぜいの地道な影響力しか駆使できない時だってある。涙ぐましいもんよ」
ケーキの一切れがすごく物珍しいものみたいにまじまじと見つめ、嘆息する。
「そういうことだってあるから。バックの意向がどうだろうと、タミちゃん本人さえ前向きになってくれたら可能性は全然あると思ったんだけどな。うちのだって、あなたと相性悪くはないわけだし。むしろ、こっちはこっちで結構上手くいく組み合わせだって確信があったからこそ推したんだけどね」
なるほどそういう判断もあったわけだ。わたしは密かに得心する。やっぱ、力のある霊能者さんは息子の相手を見定めるときも目の付け所が違う。
彼女はチョコチップと胡桃の沢山入ったケーキをわたしにも勧めてくれ、素直に一切れ手にするのを見届けてからおもむろに切り出した。
「まあ、その考えは今でも変わってないし。タミちゃんがもしやっぱり悠くんとの関係がもう無理とか続かないって思うようになったらいつでもあの頼りないあんぽんたんな息子を思い出してやってよ。ああ見えて意外に真面目だし。性格だって言うほど悪くないのよ。見た目はまあ、いい加減でちゃらんぽらんに見えるけど。とにかく外見ほど酷くはない、中身は」
「勿論。そんな、中身が酷いとかは思ったこともないですけど、啓太くんのこと」
そんな理由で彼を選ばなかったわけじゃないし。無駄にイケメンだからあえて敬遠したってこともない。わたしは従順に頷きながらもちょっと内心引き気味だ。言葉を選びつつ慎重に、彼に対する今の気持ちを間仲さんに伝えようと試みる。
「うん、でも。もうそういうのは抜きのまっさらな友達と見てほしいかな。あれから数ヶ月は経ったし。向こうだってもう、わたしのことなんかそんなに考える機会もなくなってるんじゃないですかね。それぞれお互いの仕事やプライベートもいろいろあって忙しいし。顔を合わせる機会だってないし。…多分もう、新しい関心の対象だっていておかしくないですよ」
そう言いながら、本当にそうだよな。啓太だって自分の生活や普段の人間関係があるし。そんな中でいつまでも同じところに気持ちが留まってるとは思えない。毎日を過ごすうちにもうだいぶそこも変化してきてるんじゃないかな。
わたしの台詞に間仲さんは微かな苦笑いを浮かべて、カップを口許に運んだ。
「どうかな。考えようによっちゃ、まだほんの二、三ヶ月とも言えるし。そう簡単に気持ちが変わってくれるって期待するのも甘いって言えば甘いかも。うちのを見てる限りではすごい気分が変化したって様子でもないな。新しい彼女ができてハッピー、って顔はしてないことは確かだよ」
わたしはかっくり首を落とした。うーん。まぁ、そっかあ。
「そうですね…、確かに大して時間は経ってないか。でも、啓太くんの気分が浮上しない理由がわたしって決まってもいないと思う。単に女性不信に陥って次を見つける気にならないとか。…うーん、そしたらそれもわたしのせいかぁ」
腕を組み唸る。どうすりゃいいのさ。そこまで責任取りきらないよ。
わたしの苦境を察して間仲さんはまあまあ、と軽く笑って新しい紅茶を注いでくれた。
「そんな、あたしはタミちゃんに責任とってほしいなんて思ってないよ、全然。ただ人生って最後まで何があるかわからないってことと、うちのがタミちゃんのことを忘れられないでいるうちは頭の片隅に置いてやってねって言ってるだけ。それくらいなら悠くんだって気にしないかも。可能性ゼロじゃないっていうだけだし」
いや、あいつは気にすると思う。間仲さんはまだ増渕の全てを知り尽くしてはいない。当然だけど。
なかなか納得して頂けないことにちょっと弱り、わたしは首を傾げてため息をついた。
「そんなにあいつ、駄目ですかね。…わたしの選択、あまり褒められたもんじゃない?」
「いやまさか。反対してるわけじゃないし。悠くんのことだってあたしは大事だと思ってるよ、ちゃんと。半分くらいは自分の子どもみたいだと思うこともあるし。高校の時から見守り続けてるから他人って気はしない。当たり前だけど、幸せになってほしいって気持ちは持ってるから」
間仲さんは取りなすように前屈みになってわたしの顔を覗き込んだ。
「だから、こうやって言ってるからって、悠くんの幸せを取り上げようなんてつもりじゃないのよ全然。第一タミちゃんに今、悠くんと別れてくれってお願いしてるわけじゃないし。ただ彼に飽きたりもう続かないなあって気になった時にはうちの馬鹿息子を思い出してくれって言ってるだけ。…大体さあ」
何故かそこで彼女は本音むき出し、と言った表情になり、ソファにふんぞり返って思いきりむくれてみせた。
「悠くんなんか、うち啓太のと違ってさ。好きになってくれる子、みんなまともできちんとした子ばっかりなんじゃない?タミちゃんに限らず。だったら何もタミちゃんをあいつから奪わなくてもさぁ。誰とでも充分幸せになれるんじゃないかな」
「うーん、どうでしょう…」
わたしは曖昧な声で唸る。あいつの過去の女なんか一人も知らん。それに、他の人と幸せになるとこなんか見る気もないし。
「その点啓太のやつは、付き合う子みんなどうにも軽そうというか。ちゃらそうっていうか。遊び相手そのものっていうか。ちゃんとした真っ当な女の子なんか、タミちゃんが初めてなんじゃないの、好きになったの」
「そんな」
ことわかんないですよ。とか、自分が真っ当かどうかよくわからない。とか何か抗弁しようと口を開いた時、玄関の方からドアの開く音が響いた。…う、しまった。
わたしは自分の迂闊さに首を竦めた。そう言えば、今日って土曜だったか。普通に考えたら土日休の啓太が在宅してておかしくなかった。あれ以来まだ一度も顔を合わせていない。電話で一度話して、あとはLINEで連絡を何度かもらったくらい。
事務所の休日の木曜には最近も何回かここに来てるけど。その時とつい同じ気分で寛いでた。
でもまぁ、間仲お父さんな可能性も。と一縷の望みを持ってリビングの入り口に目線を向けると、そこには久々の懐かしい啓太の顔が。反射的に肩を強張らせたわたしと対照的に、啓太はぱっと明るく表情を輝かせて笑顔を見せた。…なんだ。
わたしは軽く拍子抜けした。間仲さんがまだ彼が落ち込んでるみたいに言うから。結構普通な様子じゃん。出会った最初の頃みたいだ。
どん暗い顔でいられたらどうしよう、なんて少し思ってしまった。自意識過剰だったかも。
「タミちゃん。…久しぶり。なんか、懐かしいな。あんまり変わらないね」
「変わる要素ないもん。啓太くんも、元気そうだね。今日は休みなんでしょ、会社?」
啓太はにっこり笑って片手に持った何かの袋を掲げてみせる。
「ちょっと、買い物行って来た。…タミちゃん、今来たばっかり?夕飯食べてくんでしょ?」
それを決めるのは間仲さんであって君ではないんじゃ。と思いつつ、わたしは笑みを浮かべて首を横に振った。
「今日は。…このあと、約束あるから」
啓太は何気なく片眉を上げた。
「ん?夜に?珍しいね、タミちゃん。いつもさっさと早めに帰りたがるのに」
「うーん、まぁ」
正直に言うと、約束あるから帰る、というのが正しい。増渕の仕事は夕方には終わるから、事務所(というか、増渕の家)に帰って二人で一緒に買い出しして夕食を作ろう、ってことになってる。しかしそんなこと、ここで口にするのもちょっと。
さすがに気が引ける。
啓太もそこでなし崩しに仲間に入り、三人でそのまましばらく楽しく会話する。久しぶりだったから近況報告とか。ちょくちょく増えて来た新しい仕事内容をわたしが間仲さんに説明するときは啓太はちょっと微妙な表情に見えなくもなかったけど。増渕の名前が頻繁に出ることと関係あるのかな、とふと思った。
でも、わたしと奴が付き合い始めたことはまだ彼は知らないはずだけど…。
時間が経って、そろそろお暇しようかな、と頭を下げて腰を上げる。もっとゆっくりしていけばいいのにと引き止めつつも間仲さんも一緒に立ち上がった。このあと用事があるって知ってるから、無理に止めようとはしない。
「待ってね、悠くんに渡してほしいもの持ってくるから。…これを忘れちゃったらね。一応、このために来てもらったんだし…」
そう呟いて間仲さんは奥に消えた。リビングに二人きりにされたけど、まあいいかと気にしないことにする。啓太はすっかり普通のテンションだし、変に警戒するのもおかしい気がするし。
「このあとどこ行くの?車で送ってくよ、せっかくだから」
いやいやそれは。別に啓太を信用しないってわけじゃないけど、やっぱりそこまで迂闊にはなれない。わたしは腰が引けた状態でその場を濁す。
「ああ…、電車で行った方が早いし。今日はお父さんが車、使ってるわけじゃないんだ?」
「あの人仕事だから。今も車借りて出てたんだよ。じゃあ、駅まで送ってくよ。タミちゃんと話せるの、久しぶりだし」
あくまで友好的。あの事件前の、変に馴れ馴れしい感じのない穏健な距離を保った友達としての態度を思い出す。あれですっかり安心しきってたことも。
悪気があるとは思わないけど。あの時のことを考えると、今の様子が穏当だからってそういう気が向こうにないって決めつけるわけにはいかない。
単に自然な態度を取ると、それが下心を感じさせないってタイプなだけかも。まぁ、だからこそもてるんだろうな、普段は。
「わざわざそのためにまた出るのも面倒だから、いいよ。外から帰って来たばっかりじゃん。まだ明るいし、駅まで危ない道もないし」
「うん、でも、タミちゃんうちで夕食食べてかないんなら。俺もこれからまた出かけるよ。友達と連絡取るから」
「女の子?」
なるべく軽い調子で尋ねてみると、さすがに素っ気なく肩を竦められた。
「野郎ばっかだよ。大学の時の連中」
戻ってきた間仲さんに託された包みをバッグにしまい、丁寧にお礼を言って辞去する。結局並んで歩き出した啓太がそれに目をとめ、ちょっと微妙な顔をする。
「結構大きなバッグだね。…泊まり?とか」
「いやちょっと。荷物多くて」
何かを感じられるとやっぱり対応に困る。些細なことにも敏感になってるのか、何かを考え込んでる様子なのも気になるし。
わたしは肩にかけた着替えを詰めたバッグの紐をずらして内心でため息をついた。どうせわかることだから、変に隠さない方がいいのかな。でも、こっちからあいつと付き合い始めたって切り出すのも変だし…。
「…事務所、戻るんだ。これから」
やっぱり、勘鋭い。どういう意味で訊かれたのかわからないけど、それが事実だから。わたしは素直に頷いた。
「うん、そう」
「…あいつは?そこにいるの?」
「今出張。…終わったら帰ってくる」
「…ふぅん」
それきり黙る。さっきまでの穏やかな空気はどこへやら、そこはかとなく気まずい雰囲気でわたしたちは並んでとぼとぼと歩いた。
さすがに事務所まで送ってくよ、とは言われなかった。都心の方へ向かう啓太と改札を入ったところで別れる。わたしはもう定期を持っていない。カードにチャージしているわたしを見ても彼は何も言わなかったけど。
不意に、別れ際に真正面から目を覗き込まれた。こんな人混みで、とか、もうちょい端っこ寄らないと周りに迷惑かなとか頭をよぎったけど。啓太はそんなこと思いもよらないみたいに真剣に切り出した。
「…今は、あいつのことで頭が一杯かもしれないけど。思うんだけど、このまま穏やかに幸せになれるとは限らないよ。…あいつはタミちゃんが思ってるような奴じゃない可能性だってあるよね。そういう風に考えたことある?」
「…わたしが、考えるような奴?」
意味が全然わからない。反射的に首を捻る。
「別に何とも考えてないよ。あの通りの奴だと思うけど」
「だから、それが。…見た通り、額面通りの男じゃないかもしれない。タミちゃんがそういうことで傷つくの、見るのが嫌なんだ。だからあいつは選んで欲しくなかった。…でも、そんな言葉だけじゃ納得はしないよね。自分の目で見て、確かめてみないと」
「何言ってるの?」
胸がざわざわする。…どういうこと?
啓太は肩を竦め、目線を横に逸らした。
「俺もよくは知らない。だから、何とも言えないよ。ただ、もしタミちゃんがあいつといて許容できない、受け入れられないことがあったら。…その時は俺のこと、思い出して。俺はこのまま、見た目通りで。もう裏もなんもないからさ。いつでもタミちゃんのこと待ってる。そう簡単には諦められないよ」
落ち着け。
不穏な気持ちを抑えつけ、何とか人心地つく。この人はやっぱり気持ちが変わってなんかいない。まだわたしのこと、待ってるって言ってるってことは。
それで増渕への信頼を揺さぶるようなことをあえて口にしてるだけだ。何か確実な事実を知ってるならここで切り札を出してくるはず。曖昧なことを匂わすだけしかできないのは、多分そんな実態なんかないんだ。わたしを不安にするためだけ、この場で思いついた話なんだろう。…でも。
「啓太、もうわたしのことなんかどうでもいいじゃない?啓太ならいくらでも可愛くて性格がよくて、いい女の子いっぱいいるよ。そんなに思ってもらえるほどわたしなんか、大したもんじゃないんだよ」
だから放っといてほしい。とはさすがに口にできないが。
啓太はすっと手を伸ばし、さっとわたしの頭を撫でた。思わず首を縮める。頭の天辺だけとは言えまた触られてしまった。やっぱりわたしって、脇が甘いな。
その口から乾いた声が漏れる。
「大したもんだからタミちゃんを好きになったんじゃない。言っただろ、へっぽこで危なっかしくて放っとけないから好きなんだ。君が立ち直れない時に受け止めるセーフティネットになるよ。あいつから振り落とされた時に俺ができることなんかそのくらいだから。…じゃあ、また。連絡するよ」
何のために?
くる、と背中を向けてすたすたと長い脚で去っていく後ろ姿。すれ違う女の子たちがちら、とその横顔を伺ってるのも全く意に介さない様子で、階段を降りて素早く消えていくのを、わたしは何とも言えない気分で最後まで見送ってその場に佇んでいた。
《続》