第7章 タミルちゃんは自制しない
わたしは自分の気持ちを持て余しつつ途方に暮れていた。
夏の日差しのこもった熱が残る車の座席で、手を取り合ってお互いの目の中を覗き込んだあの瞬間を胸の内で広げるように幾度も思い返す。細い切れ長の隙間を見張って大きくなった、ガラス玉みたいに透き通った増渕の茶色の瞳。何か言いたげに軽く開いた薄い唇。そして、ぎゅっと握ると微かにびくんと反応を伝えてきた、芯は温かいけど表面は冷んやりした感触の大きな柔らかい手のひら。包まれてる自分の手が細く、頼りなく感じたのは生まれて初めてだった…。
記憶が薄れてしまわないよう、脳内で繰り返し再生する。その記憶を飴玉の味を愉しむように味わってるってこともあるけど、一方であれは一体どこが駄目だったんだろう、と反省点を確認する意味合いもあった。
自慢じゃないがわたしは恋した経験がない。
だから特定の男性にこっちを見て欲しいとか、気持ちに気づいてほしい、触れてほしいって考えたこと自体がないし。そういう時どう振る舞うべきかは当然知識の外だしどうせ自分からは動けないに決まってるって決めつけてた。まるで金縛りにあったみたいにただぎこちなく身体を硬くしてるのが精一杯で。
…でもあの時。自分の本能が今だ、って囁きかけるのを確かに聞いたと思ったんだ。
まぁ常識で考えたら、周りに人ひとりいない場所で二人きり、ハプニングのせいでしっかり手に手を取り合う態勢となったらそれがチャンスなのはどんな天然ぼんやり頭でも気がつくのが当たり前なんだけど。それでも錆び付いてると思い込んでた自分の本能がちゃんと機能していてゴーサインを出した、ってのは新しい発見だった。ぽんこつなりに、わたしにも女の子としての狩猟本能が備わっているらしい。
ただ、結果として不調に終わったことは冷徹なる事実だ。
あの目の中に確かに大きく揺れた、ぐらつくものを見た気がした。そのままこちらに吸い寄せられるように惹きつけられてもおかしくないくらいに強く感じた気がしたけど。残念ながら実際に奴に行動を起こさせるには至らなかった…。
あれがわたしのあの時点での全力だったのに。ためらう手をしっかりと掴んで、いっぱいに見張った瞳でありったけの気持ちを伝えようとした。確かに手応えは感じたけど、あの程度じゃあいつを本当に動かすには至らないってことがはっきりしたわけだ。
増渕のガードは今でもしっかり生きている。それを崩すにはこれまでみたいな成り行き任せ、行き当たりばったりじゃ駄目。運を天に任せてたら多分、わたしたちはこのまま穏やかに二人並んで歳とっていくばかりだろう。
いやそれも。…案外悪くない将来の展望かもしれないけど。
わたしは自分の部屋のベッドにぱふん、と仰向けに倒れこんでやや古いくすんだ天井を眺めた。もういっそ、あいつと男女の間柄になるのはきっぱり諦めて。そういう未来を目指そうかなぁ…?
その日も何事もなく平和に仕事が終わり、例によって増渕から遠慮がちに誘われて夕食を一緒に済ませた。今日のメニューはたっぷりの野菜と半熟の目玉焼きと奴の手作りのハンバーグをがつんと載せたロコモコ丼。なんか、こいつの料理の手さばき、一段と鮮やかになってきたような…。
レタスを洗ってちぎり、トマトを切るので一杯一杯なわたしに対して、合挽き肉を手早く味付けしてまとめ、あっという間に自家製のハンバーグを焼き上げる増渕。女子力という言葉にはなんか微妙な違和感を感じてあまり好きではないわたしだが。そういうものを測る指針があるとしたら、こいつがかなりの点数を叩き出すことは間違いない。
美味しく栄養満点のご飯を頂き、本日のお客様の依頼の詳細についていろいろ教えてもらった。最初の頃に較べると心霊関係の話もだいぶ理解できるようになったので、興味深く聞ける。こうして過ごす、何でもない寛げる時間も勿論好きだけど。
誰の目も耳もない部屋の中で一人きりなのをいいことに、寝返りを打って横向きになりつつ深い長いため息を思いきりついた。…それだけで、この先もこのまま。…ずっと?って感じちゃうわたしは。
一体どうしちゃったっていうんだろう。これがやっぱり『恋』なのか。いや改めて考えると、なんでわたしが増渕なんかにそんな感情。
急に何だか途轍もなく悔しくなり、強張った顔でベッドの上に起き上がりぶん、と首をひと振りする。洗ったあと乾ききっていない量の多い髪がばさりと顔を打ち大変に鬱陶しい。思えば長いこと髪を切ってない。そろそろ憂さ晴らしに、思いきってばっさりやっちゃおうかな。そしたら少しはすっきりして気分も変わるかも。
髪を弄ぶように手でまとめながらとりとめもなく考えた。
自分で自分のことをいい女だとか高嶺の花(図らずも啓太が口走ったように)だとかは当然思ったこともない。つもりだけど、もしかしたら案外自覚してるより自分のことを高く見積もってたのかも。生まれて初めて好きになる男の人なんてもんが万一現れるとしたら、それはやっぱり良くも悪くも個性があって誰の目も自然と惹きつけるような存在感のある人。強烈な個性が際立つ他の誰にも似ていない、特別な人に決まってるって漠然としたイメージがあった。
それがまさかの。街で人波に紛れてしまったらまるでウォーリーのように見つけにくい(いやあれは実際にはかなり独特の風貌だけど。増渕とは似ても似つかない)、周囲に紛れる保護色を身につけたとしか思えない没個性的な風貌。穏やかで感じよくはあるけど平凡であまり特徴のない顔立ち。髪型は清潔に保ってはいるがまぁ適当で、服装なんかいい歳して平気でTシャツにデニムでお客さんの前に出て行く。若き所長と言えば聞こえだけは立派だけど威厳もなんもない。
夏休みの大学生にしか見えない風貌を見かねて、思わず白衣とか羽織ってみたらどう?と提案してしまったが。軽い思いつきに過ぎなかったんだけど思いの外強硬に拒否された。
「白衣なんか、僕の仕事内容に絶対必要ないアイテムじゃないですか。だったらわざわざそれを着る意味って何ですか?」
「うーん…、見た目?今のままじゃいくら何でもなんだから。…デコレーション?」
「絶対やですよインチキっぽくなる。外見だけそれらしくしようとするみたいでなんか嫌です」
「白手袋はたまにしてるじゃん、サイコメトリクスの時に」
「あれは必要があってのことです。直に触らない方がいいものもあるから」
そうかぁ?あんな薄い布一枚で防げる霊的なものなんてあるの?単に気休めじゃないか?
「…服装なんかどうでも、仕事の結果に影響ないじゃないですか。別にこのままで問題ないでしょ」
「じゃあいっそスーツ着る?」
奴は更に目を三角にして反駁した。
「それも絶対にやだ!」
案外断れるじゃん。とまぁそんなやり取りがあり、結局家でごろごろしてるバイトが休みの日の学生みたいな見た目は改善されなかった。ちょっとは所長らしく重みのある存在に見えてほしいと、所員としては思わなくはないのだが。なんせ時折、わたしの方が上司で奴が手伝いの男の子に間違われることすらある。それはこっちの態度がでかすぎるせいでもあるけど。
話が逸れた。つまりその、主張してくる強い個性がなく影が薄い。貫禄も存在感もない。自分が誰かを好きになるのも想定外だったのに、その上まさかこんなインパクトレスな。他人に強い態度も取れないから強引な相手には押されっ放し。生きてる人間はおろか霊にさえ甘く見られて、週に一度や二度は身体を乗っ取られそうになってわたしに背中をど突かれる毎日なのに。
こんなに押しに弱くて理不尽な要求もろくに断れない奴。…なのに。
ベッドの上に座ったまま、わたしは両腕一杯に枕を抱えて力任せにぎゅうと抱きしめた。狭いキッチンで並んで作業しながら、あいつの体温や息遣いを間近で感じていちいち胸がごとごと鳴るのはなんでだろう。わたしみたいなとんちきな脳でもわかりやすいよう、噛んで含めるみたいにその日の依頼や過去のケースを丁寧に説明してくれるあの独特な深みのある穏やかな声をいつでも聞いていたいと思っちゃうのはどうしてなんだ。毎日仕事が終わって事務所を退出するとき、わざわざ戸口まで一緒にきて送り出してくれて生真面目な眼差しをひたと向けてきて
「タミさん。…気をつけて。何かあったらいつでも迷わず早めに連絡して。絶対にすぐ駆けつけるから」
と真剣な声で言われるたび、ここから帰りたくないなってふと感じるのは何故なのか。
…それを『好き』っていうのかどうかも。まだ自分でもはっきり自信持って言える訳じゃないのに。
それでもこのまま微妙な距離でいるのは嫌、って脳よりも身体が主張してる。鉄が磁石に引き寄せられるみたいに、ふっと揺らいでそっちに近付きそうになって慌てて自制したり。仕事中はそれでもまだ気が張ってるけど、クライアントが帰って二人きりになった時とか、終業後に雑談したりご飯を作って食べたりしてる時は結構やばい。
恋かどうかを気持ちが受け入れるより先に、内側の衝動の方が抑えられなくなってる状態かも。
しばらくの間悩んだけど、わたしは結局奴に惹かれてるんだって事実そのものは受け入れざるを得なかった。あの、思いの外滑らかな指でそっと触れられたい。大きな柔らかい手のひらでもう一度、わたしの手をきゅっと包み込んでほしい。両腕できつく抱え込まれてあの胸の温かさを感じたいの。…それから。
想像するだけで心臓が再びごとごと騒ぎ始めた。奴の間近で、仰向いてまたあの目をまっすぐに覗き込みたい。その瞳の表面に動揺が現れて波立つのを見たい。奴の強い自制が抑えきれず外れて、その顔がゆっくりとわたしの顔に近づいてくる瞬間を実際に体感したい…。
そこでどぎまぎして、思わず妄想にストップをかける。多分このくらいが限界。この先のことまではちょっと、今は正直無理。
そんな細かいとこまでは想定できない。何がどうなってるのかも全然未知の領域、想像の域を超えてるから。
…でも。枕をぎゅうぎゅう両腕で押し潰しながら、またあの時の記憶に胸を高鳴らせながら考える。
増渕のあの時の表情、揺れ動いた瞳。…反応を思い起こすに多分あいつだって、わたしに対してそういう意識がゼロって訳じゃないんじゃないかな。
いやそりゃまあ、だからって増渕がわたしのことを好きとか言い張るつもりはない。自分で言うのも何だがこちらは二十代半ばのそこそこの見た目にそれなりの体型(察して)の女性だ。何というか、今まで接近されたことのある男性たちの言動からして顔や身体が一般的なレベルに比してそう悪くないらしいことは想像がつく。本人としてはあまり自分の顔立ちは好きとは言いかねるのでそうかぁ?とどうも今ひとつ実感しかねるが。尤もそれをいちいち口にするのも嫌味に受け取られかねないから、もう自分の外見に対する評価や賞賛めいた反応には取り合わず、全部軽くいなして黙殺してるけど。
とにかくこの顔と身体をどう考えるかは各々の男性の勝手でありわたしの決めることではない。わたしが増渕の好みに合致するかどうかは置いても一般的に男性は女性に対する間口が広いみたいなので、一定のレベルに達した女でありさえすればそれなりの反応を引き出せるのは当たり前なのかもしれない。
それと恋愛感情をその相手に対して抱いてるかどうかは当然別問題になってくるだろう。
だから、奴がわたしの真剣な眼差しにどぎまぎと揺らいだ色を隠しきれず露わにしても、反射的に吸い込まれるように唇を寄せかけたとしても、能天気にも惚れられてると自惚れる訳にはいかない。そんなの女性からの誘惑に対する単純な生理的反応かもしれないんだから。
でも。そこまで考えて俄然前向きな気持ちが蘇り、むくりと上体を起こして居住まいを正した。
わたしの存在が、多少なりとも奴を動揺させる程度の魅力なら持ち合わせてることは確認できた。眼差しで何かを訴えかけても手を握って身体をそっと寄せても、平然と落ち着き払って軽く押しのけられるほど歯が立たないとか、硬くセラミックコーティングされた表面並みに取っ掛かりもないってほどじゃない。
必ず付け入る隙はある。なんて表現だと、なんか悪いことでもあいつに対して企んでるみたいだけど。
日頃の事務所生活の中であいつを揺さぶるシチュエーションを脳内であれこれと妄想を逞しくして想定しつつ、一方で改めて胸の奥で密かに自分を戒める。
どんな作戦を実行するかはこれからの課題だけど。これだけは使っちゃいけない禁じ手ってものがある。
わたしは、言葉を使って増渕に自分の気持ちを伝えてはいけない。
例えば好き、とか。いやわたしが奴に対して抱いてる何処かもどかしいこの気持ち、これが恋愛感情なのかどうかもまだ決着はついてないから。と悪あがきしつつもそれが禁じ手たる所以ではない。
当然、正面切った告白や付き合って欲しい等の申し出に対して奴が断らなかったらどうしよう、って問題がしこりのように頭の何処かに残ってるからに決まってる。
女の人から気持ちを打ち明けられたら全部何でも百パーセント受け入れる、なんてこと、いくらあいつが断れない男でもまずあり得ないんじゃないかとはさすがに思ってる。自分に恋愛感情の欠片もないのに応じる方が余程問題あるだろ、って常識くらい備わってると信じたい。
だけど。万が一わたしが理性もぶっ飛んでとち狂って、あなたのこと好きなんです、わたしと付き合ってとか一時の昂りを抑えかねてつい奴の前でぶちまけたと仮定して。
結果として受け入られたとしたら。…その後順調に二人の仲が進んだとしても、わたしは心のどこかで疑い深い引っ掛かりを解消できないまま、ずっと引きずってしまいそうな気がする。
即ち、増渕がわたしの告白を受け入れたのは、奴が『断れない男』だから?って疑問。
それだけの理由で女の子と付き合うなんてある訳ないだろ、とは思いつつもそれは証明できない。増渕だって口では否定するに決まってるけど、そりゃまあ断れないから君と付き合うことにした、なんて馬鹿正直に打ち明けるやつなんている訳ない。そこは適当に言い繕って相手には誤魔化し続けるのが普通だろう。
ということは。そうやってめでたく奴との間が成就したとしても、わたしにはその微かな疑惑を払拭するすべがない。疑おうと思えばいくらでも疑える。考えれば考えるほど泥沼にはまりかねないのだ。
そこまで想像を逞しくして我に返り、げんなりしたため息を深々とついて肩を落とした。なんていうか、自分がそうやってうじうじと堂々巡りに陥ってる事態が情けないくらいリアルに思い浮かぶ。割にさばさばしてると評されることもある自分の性格だけど、それは大抵のことに対して深い関心がさほどないから。だから拘りも感じないで済んでるだけで、いざ感情的にもつれるときっと…。
そんな自分を目の当たりにするなんて心底ごめんだ。
やっと枕を腕の中から離し、軽く両手でぱふって所定の場所に戻した。まるでそれがすごく興味を惹かれる代物みたいにじっと目線を据えてつくづくと考える。
やっぱり正面切って何かを奴に頼み込むことは回避した方がいい。好きだからわたしの方を見てとか(いや待て。恋愛かどうかはともかく既に奴はわたしのことばっちり見てるかも。わたしのこと好きになって、という表現の方が多分ふさわしい。どっちみちそれを口にすることはできないが)、ぎゅっと抱きしめてとか…、キスして。とか。
そこまで考えてちょっと耳が赤くなる。そうね、どうせそんなことあいつの前で実際口にできるわけない。思えば最初からわたしなんかには告白や、はっきり言葉で迫るなんて無理難題。ハードルが高すぎるんだ。しかしそうは言っても。…迷いつつも諦め悪く考える。きっと何か他にもやり方があるんじゃないかな?
わたしはさっきばさばさに乱れたまま放置されっ放しだった重く縺れた髪を、指で梳いてなんとか一応整えつつ心に決めた。
このまま何もなし、成り行きに任せるってのはやっぱり止める。二人で茶飲み友達として静かに何事もなく歳とっていくなんて。
下手に拗れて駄目になるよりその方がましかもなんて、一瞬弱気になりかけたけど。思えばこれまで二十六年間生きてきて、他人に触れたいとか触れられたいって感じたこと自体一度もなかった。
だったら、これをためらってつい逃したら。再び他の誰かに同じような気持ちを持つことが必ずあるとは限らないじゃん。そう思い当たってちょっと軽くぞっとする。もしかして死ぬまで二度と、誰に惹かれることもなく人生が終わるかもしれないんだ。
わたしはベッドを降りて、洗面台の前に赴きゆらりと鏡を覗き込んだ。そこに映るちょっと重い顔色の、ばさついた髪の若い女。ゆるく着馴れた色褪せたルームウェア姿は、正直なとこ誰が何とフォローしてくれようとも魅惑的とは言いがたい気が。ややがっくりしつつもせめてもと慌てて丁寧に髪をブラッシングする。
これまであまりにも他人からどう見えるか無頓着だったかもしれない。一体増渕の目から見て、わたしってどんな様子なんだろう。
ちょっとでもいいなとか、魅力的だと感じてくれたらいい。最初はそこから始めよう。
それでふと堪えきれず奴の手が伸びて、わたしに触れたいと思ってくれたら。何とかそこまで漕ぎ着けることだけ考えるんだ。その先のことはまたその時改めて対策を講じることにする。
…そこまで気持ちが固まったこと自体はいいけど。じゃあ、まず手始めにどんなことから試してみようか?ってアイデアについては、実は全然。何にも思い浮かんでないってのが現状だ。
綺麗にさらさらになった髪をそっと手で整え、鏡の中の自分を眺める。さっきよりはだいぶましだけど。そんなに悪くはないかも、くらいには。
でも、眼差しに思いを込めてじっと見つめるのと、手をぎゅっと握るのは通用しないってわかっちゃったからなぁ。他にどんな手があるんだろ?あんまりあからさまでなくて、あのがっちりしたガードを緩めることができて、自然とわたしの方に奴を引き寄せることができるやり方。わたしが積極的に押したからと気がつかせずに、増渕が思わず自分から動いてしまったと思い込ませるような、露骨じゃない上手い方法って。
…もう寝よ。わたしはため息をついて洗面所の明かりを消した。諦めて再びベッドに横になる。頭切り替えなきゃ。こんなことに悩みながらだと、何だか眠れなくなりそう。
部屋の照明を落とし、タオルケットを身体にかけて寝返りを打ち横を向いた。とりあえず、なるべく早めに髪を切りに行こう…。
そうは言ってもすぐに何かうまい手を考えつくでもなく、結局わたしはなし崩しに今まで通りの態度で粛々と仕事をこなす毎日を続けていた。
まあな、考えてみれば。今日の顧客との面談内容や降霊の経過を記憶が薄れないうちにと個人データにせっせと書き込みつつ、口の端で苦笑いする。そもそもそんなに手早くも器用でもない。仕事時間、作業中は実際目の前のことで一杯一杯だってのに。やるべきことをそつなくこなしながらその上頭の中で違う算段するなんて。
一遍に二つの別々のこと、並行して進めることもろくにできないくせに。わたし程度のとんちきな脳でそんな複雑なことに対応できるわけないじゃん。
ともかくここは仕事をするための場なので、優先すべきがどっちかは自ずから明らかだ。そこはあっさり諦めていつも通りのバージョンにシフトする。結局普段と同じ、何一つ変わらないってことか…。
気持ちを切り替えたあとはあっという間に普段の仕事の時の意識に戻って、いつしか集中のあまり懸案事項については完璧に頭からすっ飛んでしまった。そのまま無表情に黙々と作業を続ける。自分がどう見えてるかとか、増渕が部屋の中で今何をしてるかもほぼ眼中にない。実に鳥頭というか、ひとつのことに思考回路が占領されると他のことは一遍にお留守になる子どもレベルの容量なのが我ながら物悲しい話だが。
その日の作業が終わりに近づいてきた、という安心感からかふと一瞬現実に返る。しまった、今何時だろう。首を軽く曲げて強張った肩をほぐしながら、周囲の状況に意識を振り向けた。そんなに長いこと時間かかってないとは思うんだけど。あんまりいつまでも残業してたらここの住人である増渕に迷惑だろう。明日できることは明日に回す、っていう割り切りも時には必要だ。
それにしても今日は静かだ。増渕はもしかしたら面談室にこもって、何か複雑な処理でもしてるのかもしれないが。それで向こうも時間の感覚がなくなってたら困ったことになりかねない。実は既にすごい遅い時間になってたとしたら…。
少し焦って時計を探してふと目線を上げると、やや離れた場所からじっとこっちに魅入られたような目を向けてる増渕の顔がぱん、と視界に入った。わたしが勢いよく顔を振り向けたのに即、気がついてその瞬間顔色が変化した。耳の辺りがわっと赤く染まって、その目に動揺の色が浮かんだのがはっきりわかる。
作業に集中して完全に気を取られてるわたしを、少し遠巻きにじっと見つめてたんだってことにやっとその時気がついた。
「あの、その。変なこと考えてたわけじゃ。…本当に。ええと、…髪、切りました?」
「切りましたも何も。見るからに長さが違うじゃん。それくらい見てわかるでしょ」
何をそんなに焦ってるのかは不明だが。話を逸らすのに何もそんな白々しいことを持ち出さなくても。わたしは呆れて突っ込んだ。それに、髪はあのあとすぐ切ったからそれはもう数日前の話だ。相当ばっさりいったから、その時気づいてると思ったのに。
「もう何日か経ってるのに。今更気がついたんだ」
軽く鼻で笑ってあしらうと、奴は何故かむきになって言い張った。
「ちゃんとその日に気づいてます。口にしたのが今ってだけだから。…あの、すごく切ったんだなと思って。結構長かったですよね、今まで?」
「そうね、背中の真ん中くらいあったよ」
それをばっさりいくのはやっぱり単純に快感だった。
「ずっと邪魔で上にあげてたから。そうするとかなり長くなってもあんまり気にならないもんなんだよね。面倒で全然美容院いかなかったし、最近。でも、頭洗うの楽でいいよ。シャンプーも少なくて済むしね」
「それは。…よかったです」
何となく相槌が上の空だ。雑談に興味を失ったのか、と思って何気なく顔を上げると、奴はそのままの位置から何故かうっとりした色を浮かべてこっちを見ていた。何その表情。
増渕は何かに浮かされたように心ここにあらず、といった調子で呟いた。
「俺の知ってるタミさんって、いつも今までくらいの長さだったから。高校の時も長い髪をくるくるってまとめて上にあげて…」
「ああ…、そうだね。よく覚えてるなぁ」
いつもながら、こっちは当時の奴を認識していないので。向こうに高校時代のわたしの記憶があるのは実に変な気分だ。
「まとめるのに慣れちゃうとその方が楽なんだよね。伸びても気にならないし…。それに、下ろすと襟足が暑苦しくないかなぁと心配になっちゃって。久々に肩までの長さにしてみたけど。案外平気なもんだね」
「そうなんだ。…肩までの髪を下ろしてるタミさん、初めて見たから」
「変かな。ちょっと髪が重いなぁと急に思ってさ。すっきりしたかったから衝動的に思い切っちゃったけど。似合うかどうかはあんまり考えなかったからさ。とにかく髪の量が多くて太くて黒々しいから」
「そうですか?たっぷりした艶々のみどりの黒髪って感じで。すごく綺麗だったから。…重いなんて感じたこともなかった」
何でか不服そうに抗弁する増渕。お前、切った方がよかったのかそのままがよかったのか、どっちなんだ。
「見てる側のことは知らんけど。本人は案外扱いづらくて邪魔なんだよ。だから下手に下ろしたりしないでずっとまとめてたんだけど、それも限界かなぁって。そう言ったら美容師さんが、全体を軽く梳きましょうって提案してくれてさ。あとは適当に任せちゃったから…。変かね?」
「いえ」
何でかそこだけ妙にきっぱりな増渕。きりっとした顔つきで真剣に言い募る。
「すごく、いいです。…なんか、新鮮です。可愛らしく見えて」
「え。…長いの、似合わなかったのか。本当は」
ちょっとそれはそれで。不服な声で呟くと、再びむきになって否定してきた。
「違いますって。長い髪を手慣れた感じでまとめてあげたタミさんも中身はともかく、見た目大人っぽくて素敵だったです」
ひと言余計だ、いちいち。
「でも、これはこれで。…あんまり見たことないタミさんだから。なんか、あどけなく感じるっていうか。本当に…、見飽きないです。ずっと見てられる…」
あまり見慣れないぽわん、とした表情を微かに浮かべて絶句する。わたしは対応に困って居心地悪く居住まいを正した。
どうして急にそんな激しく反応するんだ。せめて数日前に切ったんだからその時言ってほしい。何故に今日になって急にこれ?
「お前、切った時気づかなかったからそうやって強めに言ってタイムラグ誤魔化してんじゃないの」
「違います!ちゃんと気づいてました。今日までなんだか、言う機会なかったから。…ずっと思ってたんです。すごい…、可愛いなぁと」
「そうかい」
わたしは話を切り上げようと目線をパソコンに戻す。こういうの苦手だ。そんな風に手放しで言われても反応しかねる。お世辞でしょとずっと返すのも面倒だし。ありがとう、といちいち受けるのも何だかな。
作業を続けようと思って画面に視線を走らせて、時間に気づいた。そろそろ切り上げて終わらせないと。
「いつまでも残業してたら迷惑だね、ここは増渕の自宅なんだし。あとは明日にするよ。ごめんね、遅くまで。もう片付けるからさ」
肩を竦めてそう言って立ち上がりかけると、奴は目に決然とした色を見せてきっぱりと言い渡した。
「夕食作ります。タミさん、食べてって下さい」
「え、でも、もう遅いよ」
いつも夕食に誘う時は割と早め、終業間際とかお客様が帰ってすぐに言い出すのに。今日は結構残業しちゃってからだし、下拵えが済んでる様子でもないから今から作るとだいぶ帰り遅くなるかも。そう思って躊躇したけど、奴はもう決定事項とばかりにさっさとキッチンに向かって背中から声をかけてくる。
「手早くさっと作りますから。タミさん、まだ仕事終わってなかったんでしょ、実は。少しは時間かかるから、その間に切れのいいとこまで進めてて下さいよ。無理に中途半端で終わらせる必要ないです。多分、終わる頃にはちょうどいいタイミングくらいでご飯できると思うから」
「そんなん悪いよ。こんな時間から何か急に作らせる気なんか…、それに」
帰るの遅くなっちゃう。と思ったけどそのまま口にすべきか一瞬躊躇する。迷惑だ、みたいに受け取られるのは本意じゃない。
でも、奴はそのためらいの意味を違わず受け取った。姿の消えたキッチンの方から言葉が飛んでくる。
「ちゃんとお家まで責任持って送りますから。当たり前でしょ、遅い時間にタミさんをひとりで歩かせたりしません。そこは心配しなくていいから」
「だから。…こんな時間に」
悪いよ、と続けかけて口ごもるわたしの台詞を遠くからすぱっ、と何かを投げつけるかのように遮る。
「悪くありません。俺がそうしたくてしてるだけだから。ただの我儘なんです。タミさんにはそれにわざわざ付き合ってもらうみたいなもんだし」
いやそんなことないよ…。
弱って反論しようにも、奴はもう決然とキッチンで作業に取り掛かってる気配がする。顔も見えない状態で遠慮しつつ言い合いするのは非常にやりづらい。しばし考えて、わたしは素直にそれを受けることにした。もうその方が話が早い。
「…じゃあ、お言葉に甘えます」
「ありがとうございます」
何がだ。
おかげでその日の分だけじゃなくてちょっと溜まってた仕事も上手い具合に片付き、増渕が作ってくれた美味しい夕食を頂く。ちなみにその日のメニューは岩海苔や野菜、鶏天をいっぱい載せた冷たいかけ蕎麦だった。手早く作って栄養のバランスを取ろうとするとこういう具沢山のワンディッシュが多くなるみたいだ。
皿くらい洗わせろ、と掛け合ったけど、もういいからときっぱり断られてさっさと玄関まで押し出された。送ってもらう手前あんまり時間もかけられず、結局言いなりに連れ出される。わたしは夜道を駅まで奴と並んで歩きながら不平をこぼした。
「なんかさぁ。こうやって何から何まで…。わたし、何にもしてないじゃん。してもらうばっかでさ」
増渕は生真面目に返した。
「そんなことないです。タミさんには仕事をしてもらうために来てもらってるんだから。そのための環境を整えるのは僕の仕事のうちでしょ」
「うーん、そうかなぁ…?」
わたしはあやふやに唸った。なんか、言いくるめられてる感じはするが。従業員に手料理をせっせと振る舞い、挙句残業で遅くなったからと家の前まできちんと送ってくれる雇用主なんかそうそういるとは思えない。
まるでお客さん扱いだ。
結局ドアの前まできっちりついてきて安全を確認してから増渕は帰っていった。一人になってから部屋の中でようやく気づく。…今日って割といい雰囲気だったというか。チャンスじゃなかった?
ベッドの上にぽて、と腰を下ろしぼうっと思い返す。あんなに髪型の変化に反応してくれたし。ぽわんとした目で熱を込めて可愛いとか新鮮だとか、滅多にないストレートなことを。それだけじゃなく、二人きりで一緒にご飯も食べて、その上夜道を並んで歩いた。…いつになく何ともいい流れだったのに。
なんだって全然気づかずにじゃあ、ほんとにありがとね、また明日〜とか手を振って普通に帰らせるかな!
ぱたんと力なく仰向けに倒れこんで天井を見上げた。…まぁ、上がってって?と声をかけても。あいつも当然辞退するだろうけど。それもうまく持って行きさえすれば可能性ゼロじゃなかったかも。下心は全然ないと納得させて、怖がらせないよう何食わぬ顔で…。
わたしは横を向きため息をついた。それじゃ、こっちがまるで羊を狙う狼になったみたいじゃん。なんでわたしがそこまで必死になって。
それに、変な気なんかあるわけないよ、と言い張って奴を部屋に入れて。本当に清らかにも何一つ起こらない状況で終わって帰っていかれたら。…それも案外きついかも。
わたしはその日の出来事をあれこれ思い浮かべ、今更ながら心底がっくりした。冷静になって考えるとあれもこれもチャンスのもとだった気がしてくる。向こうから滅多にないサインを出してくれてたのに。
そういうの活かせなきゃ、全然駄目じゃん。自分からきっかけも作れない上に出されたパスにも気づかないなんて。あんぽんたんにも程がある。
…でも、仕事中一度そっちに集中しちゃうと。もうそう簡単に頭のモード、臨機応変に切り替えたりできないんだよなぁ…。
深々とため息をついて、とりあえずシャワーでも浴びるかと立ち上がって狭いユニットバスに向かう。ぼそぼそと服を脱いでじかに洗濯機に放り込んで、機械的に洗剤を入れてスタートボタンを押した。洗濯物は基本室内干しだ。ただでさえ狭苦しい部屋がますます鬱陶しい見栄えになるが、外に干す場所もろくにないし。防犯上も望ましくないから致し方ない。
自分から動くのはとっかかりがわからず、どうにも踏み出せずにいるのはまだしも。まさか仕事頭になってるからって理由で、向こうがちょっとそれっぽい挙動を見せても反応もできないとは思わなかった。どうやら身体のどっかにあるスイッチを手動で押さないと作動しない仕様らしい。そこまで欠陥品のぽんこつだったとは。
シャワーの温度を調節し、思いきって頭の上から被る。とりとめもなくさっきの増渕の台詞や表情を思い浮かべた。少し上気した様子で熱を込めて、すごく可愛い、ずっと見てられるなんて。…お世辞にしてもあんな熱心に言われたらさ。
今頃になって心臓がどきどき鳴り出した。高校の時からずっと見てきたけど、肩までの髪のタミさんって初めてだから。あどけなく見えてすごく新鮮ですって言ってたな。
髪を切るってのはわたしにとって風呂に入るとか服を洗濯する、とか、部屋を掃除するとかと同じジャンルの行為で、要は身だしなみを整えるエチケットの範疇に過ぎない。まさか髪型を変えることで男の子にあんな風にインパクトを与えることができるって思いも寄らなかった。だから女の子はあんなに気合充分で美容院に通うもんなのか。初めてその意義を実感した。
まあ一般的には普通、男女の意識が逆じゃないの?という気はするけど。男の方は女の子が髪を切ったことに鈍感で、一方女の子は男が変化に気づかないのに苛々するってのがお約束なんじゃないのかな。
漠然と不安になる。わたしってもしかして、どっちかというと男側なのか?意識。
シャワーを止め、シャンプーをやけくそにいっぱい手に取り軽く泡立ててから頭に馴染ませた。そこで髪を短くしたばかりなのをやっと思い出す。こんなにたくさんシャンプー必要なかった。泡が多過ぎてあとで流すのが大変だ。ちょっと前の記憶も一瞬でぽかんと脳から飛んでしまう。実に鳥頭そのものだ。
次にボディソープを泡立て、いつになく丁寧に全身くまなく洗う。身体のあちこちを確認するように、肌の表面の感触を味わうように。…自然と思考回路があらぬ方に横滑りしていく。この感覚をあいつが知ることがあるのかどうか。そんな未来が実現することなんか、本当にあり得るのかな。
…そこまで考えて唐突に赤面した。なんか今、わたし結構すごいこと考えてなかったか。それってちょっと。…生々しい話だよね?
いやいや今のなし。泡だらけの身体を誰に見られてるでもないのにぎゅっと両腕で覆い隠す。奴に抱きしめられたことも、キスしたこともないのに。好きとも言われてない。なのに何だって、そこまで妄想するの?
気持ちと期待が先走り過ぎててコントロールが不安定。だのにいざ増渕が生真面目に可愛いです、とか素敵です、とか真っ正面から言い募ってくると何言ってんのこいつ、とか防御壁越しの対応になっちゃう。多少はお世辞入ってたとしてもそっから何か足場を探せよ!と冷静になった今は思うんだけど。
もうあれだな、自分から何か仕掛けられるかもとか、そういう分不相応な野心は捨てた方がいいかも。人には身の丈ってもんがある。自分のデータ容量情けないほど小さいってことが身にしみてわかった。
だから、作戦ちょっと修正しよう。シャワーを強めにして、気持ちをさっぱりさせるために豪快に全身に浴びせかけながら思い直した。
自分から動かなきゃ何も始まらないとか思い詰めても仕方ない。多少状況が動くのに時間はかかるかもしれないけど、待ちの姿勢を堅持することにする。その代わり、エネルギー消費低めでも常に電源は入れておく。例えて言うなら待機電力使いながら常に作動可能なようにスタンバっておくってことかな。
自分で状況を打開しようとしなくていいけど、相手の出方にいつもアンテナを張っておくわけだ。それで今回みたいにあれ?って兆候があればすぐに起動できるように。ずっと気を張っておくのは無理でも、来たパスは打ち返す!って感覚を意識の片隅に忘れずに保っておくようにしよう。
しかし次に増渕があんな風に好意的な様子を見せてくれるのがいつになるのか。何ヶ月も先か、それとも年単位だったりして。わたし、来年二十七になっちゃうな。…それまで男性未経験のままか。いや別に、したい訳じゃないけどさ、あいつと。
いちいち自分の下心を否定するのがだんだん面倒になってきたが。バスタオルで身体を包むように拭きながら、どさくさに紛れてまた両腕でぎゅっと抱く。…大丈夫かな。男の人は大抵体型を褒めてくるけど。全部見せてのことじゃないからな。服の上からしかわからない範囲のことだから。わたし、この何年かで太っちゃってないよな?体重計を見る限りではそんなに変化は感じないけど、緩んでたりとか?
まあそこは焦っても仕方ない。力量がないんだから、向こうの出方に対してその場で何とかするのだって多分一杯一杯だ。何年かかかってその間にちょっと歳いっちゃうかもしれないけど。せいぜい体型が崩れないよう、肌を綺麗に保つよう気をつけるか。
大丈夫。自分を勇気づけるかのように言い聞かせる。今日のあの分なら案外まったく奴にその気がないとは言えないかも。いくら自制してるとはいえ、時々はああやって何かがだだ漏れてくる可能性が高い。そういう時にちゃんと反応するセンサーを何とか作り上げるとこから始めよう。
何か実りある地点に辿りつけるって保障はないけど。おたおたしてるうちに結構歳とっちゃうかもしれないけど。
それでも可能性は依然としてゼロじゃない。いつかあいつの体温に包まれる日がやって来るのを信じつつ。
もう一度、増渕が無意識に出してくるパスを待とう。多分わたしの実力の程度からして、そのくらいができることの限界なんじゃないか、って気は正直する…。
とりあえずわたしは目の前のことに真剣に取り組んだ。
幸いなことに、仕事も個人的な煩悶もどちらもわたしにとっては増渕と共にあることだったから。自分の領分の任務をきちんとこなしたりいろいろ工夫したりするのも全部、結局は奴の仕事を円滑にする助けとなるものだ。そう考えると、顧客の信頼を得られるように親身な応対を心がけたり増渕の仕事がしやすいように情報をわかりやすくまとめたりするのもあいつを楽にするため、快適にするためと思えなくもない。そういう風に仕事の目的が目に見えてわかりやすいのも単純なわたしには向きなのかも。
仕事中の奴に対する態度はもう完全に癖になってたから、油断すると滲み出る横柄さや上から姿勢はあんまり改善しなかった。そこは増渕の方は気にする様子もなかったので、こっちも割り切ってそのまま放置を決め込むことにした。いきなり変にしおらしくなったりする方が不自然だと思う、多分。根本的に向いてないからぎくしゃくした意味不明な言動になるのは目に見えてるし。
それでいて突然、タイミングを問わず我に返ったようにふと、ああ、この人やっぱいいなぁとぽうっと見とれてたりもする。注意して見ると真っ黒じゃなく微かに茶がかった意外に柔らかそうな髪。細い目の上に並んだ短いながら繊細な睫毛。薄い唇を僅かに開いて何かに集中してる横顔も案外綺麗。無造作に散髪された髪が伸びてかかってる、あの敏感そうな耳に触ってみたい…。
そんなことを考えて仕事の手が止まる自分に気づき、変態か。と我を叱咤する。本当にもう、何なの。それでいて一方では、顧客と二人の時に奴が押されて負けて勝手に予約を入れたといっては罵倒し、休日に仕事を入れ過ぎるといっては文句を言い。口調も我ながらつけつけと遠慮がなくきつい。これじゃ、向こうはわたしが変な好意を抱いて悶々としてるとは多分想像もつかないだろう。
「タミさんにもいつも休日出勤してもらうのは悪いとは思ってるんですよ、勿論。だから僕一人でも大丈夫です。どうせ休みの日もここにいるんだし、そんな難しいのは受けませんから」
身を縮めて戦々恐々と言い訳する増渕。わたしは腕を組んで傲然と奴を見下ろす。
「簡単なのだったらそんなに切羽詰まってないってことだよね?出張の必要もないならお客さんの自宅じゃなきゃって案件でもないし。そもそもどうして日曜に予約したいって?土曜か平日じゃ駄目なの?」
「それが。…今度の日曜日、娘さんがスイミングの検定だから。それを旦那さんに任せて、その間にこっちに来たいって」
「…普段はお仕事されてるんだ」
「いえ。専業主婦の方です」
じゃあ平日の昼間に来なよ!
というような押し問答は相変わらずで、そんな時にでれでれした表情を見せることなんかその瞬間は思いも寄らない。
突慳貪で無造作で愛想もないくせに、思い出したようにたまにため息をついてはあぁ、もっと近くに来てくれたらいいのに、なんて切なく考えてるんだから全く訳がわからない。何ともちぐはぐというか、分裂してる。これで気持ちが伝わるって思う方がどうかしてるよな。
それでも、仕事で厳しい文句を言うのも基本的には増渕の身体や気持ちを気遣う意図からなことは伝わってるみたいで、奴は絶対に煩そうな反応を見せたり嫌な顔をしたりはしなかった。ただひたすら申し訳ない表情を浮かべて、すみません、と弱気に首を縮めるばかりだ。
まるでお母さんに怒られる子どもみたいだ。わたし、こいつに何だと思われてるかな、マジで。
もしかしたら、図々しくてお節介な、口の悪い世話焼きおばさんと内心で思われてるのかも…。
時折そのように反省しつつも事態は一進一退、あまりわたしたちの間に変化はなかった。そうこうするうちあんなに暑苦しかった辺りの空気がふっと緩むように、秋の気配が感じられるようになっていた。二つ続けて本州の近くを掠めて通り抜けた台風が、湿気でずっしりした夏の大気を巻き込むように連れ去ったからかもしれない。
こっちが思い切り悪く足踏みしてるっていうのに、季節は容赦なく移ろっていくなぁ。などと益体もない感想を抱いていたそんな時期のことだった。
その日のクライアントさんの依頼内容は亡くなったお父上の口寄せ。余談だが、毎日浴びるようにこの手の話を聞き、曰く付きの物品を目の当たりにし、顧客や増渕の説明を耳にし続けるうちに図らずもやっとわたしにも僅かに勘のような感覚が備わってきた。実用的と言えるかどうかはちょっと、微妙だけど。
わたしが降霊やサイコメトリクスに立ち会っていて、単なる記録係のアシスタントで終わらずに実力を振るう展開になるケースって基本あれしかない。つまり、どういう経緯かは問わずその場にやって来た霊が増渕の中にすぽんと入ってしまって全然出て行こうとしなくなる場合に限る。
その成り行きは様々で、必ずしも招んだ霊がそんな騒動を起こす場合ばかりじゃない。降ろすつもりだったのとは違う関係者の霊がやって来て割り込んだり、情報を読み取るだけのつもりだった物品にちょっとやばいのが憑いてたり。予測できないことが起こるのはまぁ日常の一コマに過ぎない。
だから、増渕も依頼を受けた時点ではあんなのが来るのは予想外だった。と言い訳するのは度々なのだが、どういうわけかわたしには顧客の顔を見ただけで何となく、今日はやばいかな、って感じが漠然とわかる。そのお客様が穏やかな方で、降霊する相手とは親密な温かい関係でトラブルなんか起こりそうもないケースだって頭ではわかってても、なんていうか、きな臭い匂いがするのだ。
予感を察知し始めた頃は意味がわからずに、この感じ何だろ?と首を傾げるばかりだったのだが、最近はどうやら面倒くさい霊がやって来る合図らしい、と理解したのでこそっと増渕に
「今日は気を緩めないで。自分をしっかり持って、譲るんじゃないよ」
と声をかけたりするようになった。だから、奴はわたしがそれを予知するってことは何となくわかってるみたいだ。
「俺には事前にわかんないのに。なんで、タミさんの方が正確に当たるかなぁ…」
とぶつぶつ不満げに呟かれたことがある。
まぁ、それがわかってても大抵は防げないんだけど。それでもクライアントさんのプライバシーに配慮して極力面談はわたしの方は外すことが多いけど、きな臭い件の時は念のため、お客様にどう思われようとその場に平然と当たり前の顔をして最初から最後まで立ち会ったりもできるから。それなりに役に立ってないってわけでもない。
その件も、お客様の父上が予定通り降りてきて生前言い残したことや娘さんの将来について、しんみりと、でも親密な様子で言葉を交わしてるうちはよかった。不意に増渕が引きつったように顔を歪め、苦しそうに身を縮め始めた。アシスタントたるわたしは驚愕するクライアントさんを尻目に駆け寄り、遠慮なく奴の肩に手をかけて寄り添うように話しかける。
「どうした、増渕?…しっかりして。何か、入った?」
奴は咳き込むように何とか口を利こうとする。途切れとぎれに懸命に伝えてきた。
「お母さん。…花田、さんの。早くに別れて…、その後、一人で。お亡くなりになられて」
わたしはそのクライアント、花田さんを顧みた。
「そうなんですか?」
彼女は恐れ混じりに若干の苦さを浮かべて小さく頷いた。
「わたしが中学生のとき。浮気の相手と一緒になるために出て行きました。それからは一度も顔も合わせてません。…なんで、今更。わたしが結婚した時も、お父さんが病気になった時もなんの音沙汰もなかったくせに」
「連絡は取っていたんですか」
彼女は不快感を隠さず首を横に振った。
「だって、向こうから何の連絡もないのに。わざわざ探したりしません、こっちから。亡くなってたのも知らなかった」
そしたら、音信不通の期間が長かったのも亡くなった時期にもよるな。もしかしたらもうずっと何年も前に孤独に亡くなってたのかもわからないし。
いずれにせよ、面倒なことになった。
わたしは余計な刺激をしないよう、彼女の母親の霊に落ち着いた声で話しかける。
「…ここにいらっしゃるのはあなたの娘さんですか?」
増渕は明らかに奴の地声ではない、年配の女性と思しき声を唸るように出した。いつもながら、こいつの声帯、一体どういう構造になってんだ?
『…あたしを探しもしなかった。一回も、どこにいて何をしてるのか、調べようともしないで。あの男とはすぐに別れて。…そのあと、ずっと、一人で。…孤独で』
「そんな勝手なこと」
花田さんが気色ばむのを軽く手で制す。ここでお説教しても母親が劇的に反省したり性格が急に変わったりするわけでもない。
人間って、死んでもあんまり考え方とか人格は変化しないんだな、っていう身も蓋もない事実はここに来て早くに飲み込めるようになった。
「…娘さんに何か、お伝えしたいことが?元のご主人がここに来てらしたのを押しのけてしまったみたいですけど。お嬢さんがご了承下さればここで彼女と今、お話しできますよ。でもそのためにまずはその人から一度、抜けて頂けます?」
柔らかい口調で穏やかにお願いする。この霊が乗ってると、増渕は自由が利かない。まずはうちの霊能者がこの場をコントロールできるようにするのが第一歩だ。そしたらこの母親をどうするか、そこは増渕が自分で判断すればいい。
霊がその後どうしたいのかって希望を聞いてもどうせわたしにはそんな能力ないし。増渕を何とか解放して、機能するようにするとこまでで精一杯、あとは知ったこっちゃない。
そう割り切って表面上愛想よく語りかけたが、彷徨ってる霊に理屈なんてそう通用するもんじゃない。迷いが深ければ深いほど混乱もひどくて、きちんとしたコミュニケーションが取れないのが普通だ。
いつもと面相が違うので明らかに本人じゃない、とわかる増渕が強張った顔で首を横に振った。この身体に慣れてない人が入ってる、っていうのが納得できるぎこちなさで何とか喋る。
「この子はあたしのこと嫌ってる。憎んでるんだから…。二度と顔なんか見たくないって思ってた。死んだって知っても今も同情も悲しみもない。夫も同じ。この二人はもともとあたしのことなんかどうでもいいんだ。別れる前から、ずっと。…お互いさえいればいい…』
「それは」
売り言葉に買い言葉で、娘さんがむっとして何か口走ろうとするのを目で押しとどめ、なるべく静かな声で話を続けた。
「お互い少し落ち着いて、冷静になって話し合えば、誤解が解けることもあるかもしれません。せっかくの機会ですから、いろんなこと最初から決めつけずにお嬢さんともっと分かり合えたらと思うんですけど。でも、そのためにはやっぱり、うちの霊媒師の力が必要なんです。わたしじゃ霊感もなんもないので。その人があなたと娘さんの間の行き違いを正して、取り持ってくれますよ。そういう能力は確かな人なんです」
言いながら、霊能力がどんだけあってもこりゃ難しいかもな。霊と人間だから意思疎通できてないとかのレベルじゃないんじゃ。多分生きてる人間同士の頃でも理解し合うのは至難の技だったのかも。
と思ってるのが顔に出ないよう、必死で平静さを保つ。
増渕に入ってる何かはわたしの些細な気遣いなんか何とも思わず平然と無碍にした。中身はいい歳の筈なのに、子どもっぽくぶんぶんと頭を派手に振る。もしかして、歳いってもちょっとガキっぽい人だったのかもしれないな。そういう部分が案外リアルにこんな風に露出してくるのが面白いと言えば面白い、と呑気なことを考えた。
『娘なんか。…もう、いい。夫だって。あたしのこと、許してくれるとは思えない。血が繋がってたってそんなの…。それより、この子と一緒がいい。この子は優しい。…こうしてるとわかるの。わたしのこと、わかってくれる。あなたも辛かったんだね、わかるよって言ってくれてるの。…理解して、受け入れて、赦してくれる…』
一瞬意味がわからずぽけっとなって、頭がその台詞を飲み込んだのち猛然と腹が立った。…あの野郎。脳内で何、いい顔して見せてんだ!
わたしはゆっくりと両腕を組み、椅子に掛けている増渕の身体の正面に進み出てその顔を真っ向から見下ろした。
「あとで説教してやりますけどね。…そいつはそういう奴なんですよ。誰にでも優しいし、何でも受け入れる。誰でも赦してくれるんです。…あなたにだけじゃないんですよ、優しく甘やかしてくれるのは」
勿論、わたしにも。
増渕に入った得体の知れない何かは、あどけなさも露わに潤んだ目でわたしを見上げた。この女、あたしを苛める、って思ってるな、多分。
『それでもいい。あたしだけじゃなくても。…でも、ここにずっとこうしてればこの子はあたしのものだし。あんたなんかに手出しはさせない。他の女たちにも、霊にだって。…あたしがちゃんとこの子を守るから。あんたはもう要らないの、タミルさん』
…わたしの名前知ってる。
さすがにちょっとぞくっとした。見知らぬ霊に名前を呼ばれるのって実に不穏な気分だ。と思ったけど、多分増渕の意識の中からその情報を拾ったんだな、と見当がついたら少し落ち着いた。
わたしは怯まず増渕の中の誰かを睥睨し、はっきりと言い渡す。
「そいつは誰のものでもない。わたしのものにもならないし、あなたのものにもできないですよ。…それは増渕本人のものだから。ちゃんとそいつに身体も心も返してあげて。それに」
自分の目の中に柔らかい色が滲むのがわかった。そして胸の内側にほわっと温かいものが広がる。
「そいつは、いろんな人たちにとって必要な存在なんです。わたしだけじゃなく、クライアントさんたちもみんなそいつが好きなの。そいつは誰のことも否定しないし、拒まない。だからみんなを安心させてくれる。沢山の人たちが話を聞いてもらって、受け入られて、気持ちを落ち着かせるためにここに通ってくるんだから。…あなただけが増渕を独占することなんかできっこない。霊能力だけで必要とされてるわけじゃないんだよ。霊にとっても、生きてる人にとっても。そいつはみんなの大切な奴なんだから」
ふっ、と増渕の周囲の空気が揺らいだのがこの目ではっきりわかった。なんていうか、陽炎?あんな感じに。
え、何?と思って慌てて目を瞬く。視界の真ん中で柔らかい笑みを微かに浮かべた顔を上げたのはもういつもの増渕だった。
ああ、戻ってきた。そう思った瞬間無茶苦茶に腹立たしくなり、思わず手を上げそうになる。危うく頬っぺたをひっぱたくところだった。…どうどう、と自分の右手を宥めて引っ込める。こんなとこで感情に任せて暴力沙汰を起こしたら。顧客の花田さんはどん引きすること間違いなし。少し冷静になって自分を鎮めなきゃ。
「ええと。…あんたから出たんだよね?花田さんのお母さん」
「はい、もう大丈夫です。ちょっと、宥めて場所を移って頂きました。…大変お騒がせしました。びっくりしたでしょう」
これは花田さんに。彼女は目の前で起こったことに動揺を隠しきれない表情で用心深く増渕を目で探った。
「…母は。今は、どこに?」
増渕はさっきまでと似ても似つかない普段通りの声で落ち着き払って告げた。
「ちょっと、お母様はまだここであなたとお話する段階には達してないみたいですね。もう少しクールダウンして、ゆっくり心を休めて。…それからきちんとご自分の今までと向き合わないと。今より先に僅かずつでも進もうと思うならそこは避けて通れません」
「今より、先…?」
わたしが引っかかったところに花田さんも反応した。何でもない口振りで増渕は当たり前のように説明する。
「今は生前とほとんど状態も変わっていません。悩みや苦しみ、コンプレックスや他人を責める気持ちで一杯で、それに押し潰されそうなんです。そんな精神状態で二十年間も…。生きていればまだ、日々の積み重ねの中で風化したり修復されていくものもあるんですけどね。成長したり悟ったりすることも可能だし…。でも、迷いの深い状態で亡くなってしまうと、どこにも進めずその場に居ついてしまうんです。お母様は生前の意識のまま、ずっと自分の中に閉じ込もったような感じなんです。浄化とか成仏する方向に一歩も進んでない」
「二十年間…」
花田さんの目の焦点がゆらり、と合った。
「そうしたら、母はかなり前に亡くなってるんですね」
「そうですね。相手の方とは割にすぐに別れて一人で暮らしていたみたいです。でもあなたとお父さんの許に戻るわけにもいかずに、自分から連絡もできなかったんじゃないかな。ご自分でもおっしゃってたけど、探してくれるのを待ってたとかなんじゃないですかね。まぁ、何というか、置いていかれた側からするとそんなこと言われてもという感じなんだけど。ちょっと、依存心の強い方なのかな。性格的に」
花田さんがやや憤然と頷いた。
「そうなんですそうなんです。面倒くさいの、いちいち。あんたが言わなかったからわからなかったとか。こうしてくれないからあたしはできなかったとか。すごい細かいとこで突っかかってくるんです。だんだんわたしも父もあまり取り合わなくなってきて…。そういうのがいけなかったのかもしれないけど」
少し声が小さくなる。増渕は取りなすように優しく応じた。
「まあ、仕方ないですよ。誰が悪かった訳でもないと思います。…あなたとお父様は性格も似てらして、気が合うんですね。ごちゃごちゃうじうじしたことが嫌いで、すぱっとさっぱりした気性で。お父さんも最初は、お母さんのああいう人を振り回すようなところが可愛いと思って一緒になったみたいなんですけど。恋人同士の時と毎日の生活を共にする時とは受け取り方が違ってきますからね、どうしても」
「そりゃ、そうですよね」
思わず口を挟む。結婚って大変だな。好きだけじゃやっていけないものだもんね…。
「それでお母様も少しずつ大人になれればよかったんですけど。やっぱり構ってもらわないと生きてる気がしない、ってタイプの方だから」
「ああ…、はい。わかります」
花田さんは少し苦笑い気味に頷いた。でも、さっきよりは微かに懐かしむような色が目元に滲んでいる気がする。
「相手の男性もちょっと、気の毒と言えば気の毒な気がしますが。本当に好きで付き合ってもらった訳じゃないから…。あっという間に駄目になって。それで、一人で暮らしつつ、家族はわたしを探さない、見放されたとか、必要とされてないんだとか。他人を責めることをやめられないんですね。あまり体質的にアルコールが合わなかったみたいで、急速にお酒に溺れてそれでお身体壊したみたいです。ほんの数年で亡くなられてますね。この時はもう、離婚が成立されてたんですね」
花田さんは不服そうに答えた。
「だって、出て行ってすぐ、離婚届が送られてきたから。相手の人と一緒になりたいんだな、と思って、父も早目に判押して返送したんです。そのあと再婚しなかったとは思わなかった」
増渕はやや苦笑気味に頷いた。
「それも彼女からすると、家族を試したみたいな動機からだったのかも。本当、そんなこと言われてもって思っても無理ないですが。…それで、お母様の実家とはまだ繋がりがあったのかな。そちらでご遺体は引き取られて埋葬されたようです。遺族と連絡が取れたから、公的機関からはあえて離婚した家族までは知らせなかったのかも」
花田さんは納得したように肩をすぼめた。
「母の実家とはもう全然…。すごく母を甘やかす人たちで、父に不満があったみたいで。折り合いが悪かったようです。離婚してからは何の接触もなかったんじゃないかな」
増渕は少し自分の身体を馴染ませるように首や肩を軽く動かしながら相槌を打つ。
「多分、生育環境にもお母様がああなった理由があるんでしょうね。実家との繋がりが深いのはわかります。…でも、生前の意識のままそこに居ついていても浄化は難しいですから。一人で、自分の今までの人生としっかり向き合える場所に行ってもらいました。そこで落ち着いて、何年か、何十年かゆっくり考えて…。それで初めて浄化とか成仏とかの段階に進めることになるでしょう。やっぱり、亡くなったあとも成長するって大事だから。どれだけかかってもいいから自分の人生経験消化して、少しでも前に進まないとね」
「成仏するとどうなるの?前に進むって、どういう状態になるわけ」
ど素人丸出しで尋ねるわたし。増渕は呆れた風もなく、わたしを見返して丁寧な優しい口ぶりで答えた。
「次の段階に進む準備が整います。例えば、転生するとか」
「ええ?死んで生まれ変わるってこと?そんなん本当にあるの?」
今更ながら仰天する。増渕は平然と言った。
「割に普通にあります。珍しいとかは全然ないですね。でも、あんまり未浄化の状態ではそこまでいけないですから。生きてる時の迷いとか、性格の未成熟さを抱えたままで転生できるほど甘いものじゃないんですよ。だから、全然前に進めないでその辺に彷徨ってる人霊なんかいっぱいいますよ。そのうちいわゆる低級霊になって」
「ああ」
例の。わたしに引き寄せられるような連中とか。
「そうなっちゃうともう、成仏なんか望めません。固まってたちの悪い霊団になるか、風化して消えていきます。だから、転生するとこまでいくには余程志がしっかりしてないと。…お母様、少しずつでも前に進んでいけるといいですね」
「そうですね」
神妙な顔で増渕の話に聞き入っていた花田さんは、ふと我に返ったように相槌を打った。自分の声に少し驚いたみたいに顔を上げ、やがてしみじみとした口調で呟く。
「…そうですか。あのあとそんなにすぐ、亡くなってたなんて。…わたしは、あんなに元気で自分勝手な人だから。周りに迷惑かけながらもしぶとく何処かでなんとかやってるんだろうなぁと思ってたんです、ずっと。…駄目になったり暮らし向きが立ち行かなくなったら不機嫌にむくれて帰ってくるだろうとばっかり思ってたから。…連絡がないのはそれなりになんとかなってるからなんだと。…まさか、たった一人で亡くなるまで意地張り続けるような根性があるとは思わなかったから」
いや…、それって『根性』って言っていいのかどうか。と頭には浮かんだけど、何となく突っ込みを入れる雰囲気ではない。わたしは何食わぬ顔でその台詞は飲み込んだ。
増渕は穏やかな、包み込むような笑顔を彼女に向けて優しく語りかけた。
「何カ月、何年かしたら、お母様もだいぶ落ち着いて、コミュニケートできるようになるかもしれません。時々こちらで経過は観察しておきますから。変化が見えてきたらお知らせしますね。花田さんの方でご希望があればお話し合いも間を取り次ぎますし…。いつか、少しずつでも分かり合えて、お互いを受け入れられるようになるといいですね」
花田さんはちょっとやれやれ、といった感じで、でも案外すっきりしたようにからっとした笑い声を上げた。
「はは、まあ、また面倒なことぐだぐだ言われるのかなと思うとね。…でも、様子は知りたいですから。わたしと父を許してくれなくても構わないから、あの人が安らかになっていつか先に進める状態になってくれたらと思ってます。…そうか、そんなに早く死んじゃってたなんて。たった一人で」
不意に何かが込み上げてきたように言葉に詰まる。
「そんなこと知らないから。…進学した時も、就職して結婚した時も、わたしがどうしてるか全く興味もないんだ、一度も連絡してこないなんてって思ってた。そう思い込んでこっちも意地になってて。…でも、もうこの世にいなかったんなら連絡もできなかったわけだよね。…そんな風にむきになってないで、あの人がどうしてるか一回くらい調べてみればよかった。今回のことがなかったら、亡くなってることもいつまでも知らないままだったかもしれないなぁ…」
「お疲れ様でした、タミさん」
「いえ。別に何にもしてないし、大したこと」
花田さんはあのあと、仕切り直しでもう一度お父様を招んで改めて続きを済ませてから帰っていった。ちなみにお父様の霊に先ほどのお母様とのやりとりを伝えると、彼は自分の元妻が亡くなってたことも全然知らないでいた風の反応であった。そんなものなのかな。
「お互いもう亡くなってる訳でしょ。それでもよく言うみたいにあの世で顔を合わせたりしないの?亡くなった時期がだいぶずれてるから、機会がなかったのかな」
「それはあんまり関係ないですね。向こうは時間の感覚とかこっちと全然違うから」
わたしが茶器を運ぼうとしかけるのを慌て気味に手で制して僕がやります、と止めにかかる。運ぶくらいできるよと抗弁もできずに引き下がった。我ながらちょっと情けない。
「お母さんは死後もずっと頑なに自分の中に閉じこもったままだったし。お父さんの方は勿論未浄化な状態じゃないのである程度自由に動けるんですけど。自分が亡くなった時も特に元奥さんがその後どうなったのか気にした痕跡はないみたいですね。生きてればと会いに行って元気かどうか確かめる、っていう気にも特にならなかったんだと思います」
増渕は危なげない手つきで空の湯呑みをお盆に載せてキッチンに運び込む。それについていってもどうせわたしに洗い物は任されないから、素直にリビングのパソコンの前に直行する。程なくして流しの水を流す音が聞こえてきた。
手早く洗い物を済ませて台所から出てきた増渕に、わたしは微妙に気になっていたことをつい尋ねてみる。
「…お父さんって、あんまりお母さんのその後のこと、心配したりとかなかったのかな?だいぶ前に亡くなってたって知ってもそうなんだ、くらいの感じだったね」
娘さんはさすがにいろいろ感じるものがあったようだったけど、元夫の方はさほど感銘を受けたような反応でもなかったのがちょっと印象に残ったので。
次の予約まで少し間がぽかんと空いてる。それが頭にあったのでつい雑談混じりにそんなことを話しかけてしまったけど。増渕は曖昧に頷いて、リビングのソファに浅く腰掛けた。やっぱり少し話し足りない気分なのかもしれない。
「まあ、二十年近く前の出来事ですから。亡くなった時点で時間が止まったような状態だったお母さんに較べると、それだけお父さんにとっては風化した感覚なんですよ。結局再婚はされなかったみたいですけど、その後何人か女性とお付き合いもされてるし」
「うお。そりゃそうか」
ちょっと唸ったけど、まあ離婚もしてれっきとした独身だし。多感な時期の娘さんもいるわけだから大っぴらにという風にはいかなかったのかもしれないけど、そういうのあっても別におかしくはないよな。
増渕は膝の上で指を組んで淡々と話し続けた。
「どちらかというと、そっちの方たちのほうを気にかけてるみたいな感じですね。まぁ多分、元奥さんについては別れたあと再婚したんだろうと思ってもう心配しなかったのかもしれませんが…。なんていうか。さばさばしてる、とか、すぱっと割り切りがいい、とかいうと聞こえはいいんだけど」
急にちょっと微妙な、奥歯にものが挟まったような口振りになる。
「割と性格的に見切りが早いというか。この人はもういい、とか、関係ないってなっちゃうともう意識からばん、と追い出しちゃうような感じの人なんですね。…娘さんの方はそこまでではないんだけど。さっぱりしてるを超えてちょっと非情なとこもないではない、かも。…お父さんのそういうとこを結構敏感に感じてるというか。お母さんも、それで不安が強くておかしくなっちゃったみたいなとこもあるんだと思う」
「そっか…」
わたしはパソコンに向かいつつちょっとしみじみした。
「そうね、夫婦が上手くいかなくなる理由なんて完全に片方だけが悪いってこともないのかも。悪気はなくてもお互いの要因が噛み合ってそうなるってことなのかな」
わたしの独り言めいた呟きに対して増渕はやや思案気味に相槌を返した。
「うーん…。まあ勿論、このお母さんも確かにいろんな問題があるのは確かなんですけど、もともと。でも、そういう人をわざわざパートナーに選んだ訳ですから。どうして彼女がこうなったのか、自分にも一端の責任があるって意識はあってもよかったかなとは思います。これじゃ話し合ってもどうしようもないなって見切りつけたあとはもう、すっぱり切り捨てて取り付く島もないっていうか。出て行ったあとは半分くらいはちょっと厄介払いできたみたいな…、そういうのって、こういうコンプレックスの強い人は敏感だから。結構、伝わってるんですよね。それを認めたくなくて更に暴走するんだけど」
「そっか…、そういう風に考えちゃうと。なんか見方変わってくるかも」
わたしは形ばかりパソコンに向かった状態で腕を組み、思わず唸った。話につい惹きつけられて全然手許も動いてない。
「何となくお母さんは手のつけられない困ったちゃんで、お父さんと娘さんは一方的に振り回された被害者って普通思うよね。…しかし、あんたも大概、弱い人間に優しいよな。わたしなんか、なかなかそこまで寄り添って考えらんないよ。てか、増渕は寄り添い過ぎだと思うけど。正直な話」
不意にさっきの場面がありありと蘇り、リアルにあの時の怒りが沸々と戻ってきた。この当人の喉から聞こえてきたあの甘えるような女声。この子は優しいの、あたしのこと受け入れてくれる。あたしがこの子を守るからあんたはもう要らない。
霊がこいつの口を借りて勝手に喋らせたことだとわかっていても。あんなこと自由に話させられるままになりやがって。マジでお前から離れてやろうか、って一瞬真剣に思った。
立ち上がってつかつかと奴に近寄って、腕組みして上から見下ろしてお前、わたしがいなくなってもいいの?と言ってやりたいのを何とか抑える。
「確かに話を聞けば気の毒な面がないとも言えないけど。あんな風に引きずられたら駄目なんじゃないの。いちいち可哀想みたいに共感してたらさ…。そりゃ、向こうも付け入ってくるって。もっと距離を置くっていうか、客観的な立場を保てないの?」
デスク用の椅子をくる、と回転させて奴の方に身体を向け、軽くねめつけるように問いかけると増渕は済まなさそうに肩を縮めてみせた。
「すみません、てば。…それはまあ、自分でもこんなんじゃ困るな、って意識はあります。ただでさえこんな仕事をしてるのに霊媒体質で。そういう風に考えないようにしようと努力はしてるんですけど、ふとこの人も大変だったんだな、とか、同情の余地はあるんじゃないかとか感じちゃうと、どうもぱかっと入り口が『開く』みたいなんですよ。その隙にぱん、と入られちゃう」
入り口が。…開く?
「どういう状態だよ」
「説明は難しいんですけど。この辺に霊が入る場所があるんです。ここが…」
と言いつつ頭を下げて首の後ろを押さえる。思わず椅子から立って奴のそばに行き、その手が示す場所を覗き込んで確かめた。別に何の印もない。普通の状態の首筋だ。
「何ともなってないけど」
「普通に目で見てもわかりません。本当に物理的に割れたりもしないし」
そりゃそうだろうけど、じゃあいかにも見ろとばかりに指し示すなよ!
そう思ったけどあえて事を荒立てず、大人しくなし崩しにその場所で腰を下ろす。離れたデスクから椅子をわざわざ反対向きにして会話するのもやりづらい。
いざ座ってみると、ソファの隣ってのも何とも言えない距離感だなと思わなくもなかったが、話の流れを妨げたくなかったのでもうそのままで拘らないことにした。増渕はそんなこと気に留める風もなく、俯いたままぼそぼそ独白を続ける。
「間仲さんにもいつも常々言われてはいるんだけど。共感とか寄り添いが必要なとこと割り切りが必要な場面を使いわけろって。いちいちこの人もこうなる理由があったんだよな、無理ないなとか感じてたら向こうも図に乗るというか。隙を察してぐいぐい要求してくるんだから流されちゃ駄目だって。距離を保てなかったら負けだって口を酸っぱくして言われてます。性格的にも体質的にもしょうがないのかな、と同情もされるんだけど」
「うーん、それは。…否定しきらないかも」
わたしは言葉を濁す。そんなことないよとか気軽に励ますのもどうかと。
「逆に言うと、それでこんな仕事をしてるのも危ういと言えば危ういよね。そりゃ、増渕に確かな霊感というか能力が備わってるのは素人目にもわかるけどさ。これを本業にすること自体は間仲さんには反対されなかったの?」
思わず以前から微かに抱いてた疑問を思いきって口にしてしまった。ちょっと遠慮なさ過ぎたかな。増渕はさすがにちょっと苦い色を浮かべて口許を軽く曲げた。
「うーん。それについては…。僕もいろいろ事情があったというか。結果的に止む無くこうなった、ってとこもあるんです。選択したっていうより流されたっていうか」
「ああ、はい。…まぁ、わたしも他人のことは言えないから」
ここではあまり深く追及しないことにする。いつかゆっくり聞かせてもらえる機会もあるかもしれない。
増渕は感情を交えず、淡々と冷静な口調で先を続けた。
「自分でも、情報を読み取ったり事実を見極めたりする力はそんなに劣ってはないって自負はないこともないです。でも、この性格と体質だから。モノから情報を読むのは必ずしも霊がこの場に来るとは限らないから割に向いてるとは思うんですけどね。どうしてもそれに限っちゃうと件数があんまりないから。一般的には口寄せの方がずっとニーズありますからね」
「それはそうだね」
納得して頷く。実態として、サイコメトリクスの依頼は全体のニ、三割ってとこだ。残りは全部口寄せ。まあ、亡くなった身内や知り合いと話がしたいって方がそりゃ需要あるよね、誰でもはるばる恐山とかまで気軽に行けるってもんでもないし。
「だから間仲さんもそこを心配してくれて、事前にざっと様子を見てやばそうなら遠慮なくこっちに回せとは言ってくれてます。ただ、こないだもタミさんには話したけど。これを本気で職業として生きていく気ならいつまでもそれじゃ成り立たないし…。少しずつでも感情を切り離す癖をつけるとか、この入り口にしっかり鍵をかけるやり方を習得するとか。何かを変えていかないととは切実に思ってるんですけど」
何故かちょっと顔をしかめてまた下を向いた。不意に何かの記憶がありありと蘇ってきたかのよう。
「でも、ふっと緩んだ一瞬にばっと入ってこられちゃうともう…。当たり前だけどそういうことするような人って、充足してたり幸せな状態なことまずないですからね。みんな絶望とか自暴自棄とか他人への怨みや羨望、そんなんで一杯で…。ほとんど浄化も進んでないから、感覚が生っぽいんです」
「…生っぽい…。生々しい、ってこと?」
わたしは眉をしかめた。なんか、聞くだに嫌ぁな感じ。
増渕は表情を失ったみたいに機械的に頷く。
「取り憑かれるとその人が生きてた時に感じてたものがそのまま、自分にも乗り移る感じです。自分が夫にも娘にも必要とされてない、もう愛されてない。そのことを認めたくなくて気持ちを試すような賭けに出て、案の定知りたくなかった事実を目の前に突きつけられる結果になって…。それでも自分が間違えたことを認めたら崩れてしまう。向こうが悪いのにと相手のせいにしたり、結婚した時に言ってたことは何だったのとか過ぎたことを何度も脳内で蒸し返してもぽっかり穴が空いたような絶望も取り返しのつかない虚しさももう誤魔化せなくて。それでずっとアルコールで気を紛らわせるんです」
増渕の顔から血の気がすうっと引いていく。目が動かなくなり、生気のない唇が自動的に言葉を紡ぎ出す。
「常にそれで頭を朦朧とさせて。時間の感覚もなくなって、昼か夜かもわからないくらいになってやっと、何も考えずにいられる。…こんな救いのない状態で二十年間も、たった一人きりで。誰にも顧みられることもなくて」
何かに浮かされたような一本調子の語りがひたすら続いてる。それにつれて増渕の目が真っ暗な虚ろな穴みたいに見えてきた。たまりかねて手を伸ばし、その右手を強く力を込めて握る。
「もう、いいよ。それはあんたの感じるべき苦しみや痛みじゃない。どんなにリアルに感じ取れてもそれは他人のものだよ。増渕が引き受けなきゃならない謂れはないじゃん」
それにもう終わってしまったことだ。それを感じていた本人にとっても。
「そこから抜け出して前に進むためにさっきあの人を別のところへ送り出したんでしょ。彼女だってもう、その苦しみを感じてはいないよ。あんただって忘れていいことだから。…ここへ戻ってきて。いちいちそんな風に同調して一緒に傷ついてたら、増渕だって保たないよ。自分が壊れちゃう…」
近づいて必死に呼びかけ、その顔を覗き込んだ。そうしないと増渕が自分の中にどんどん深く潜っていってしまいそうだったから。握りしめる手に更に力を込めると、不意にぴく、と何かに気づいたようにそれが微かに動いた。初めて体温を感じたみたいにのろのろと視線が組み合わされた手と手に向けられる。しばしそれを見つめたのち、ようやく普段の増渕らしき掠れた声が喉から絞り出されてきた。
「…さっきもこうだった。真っ暗な中にぽつんといたら。遠くから声が聞こえてきて。…タミさんの、はっきりした声。それだけが耳にまっすぐ届いて」
顔をあげかけて何故かためらったように途中で止める。小さな、自信のない呟きが迷うように口から溢れる。
「俺のこと、必要…って。言ってた、ような。…夢だったかも。タミさんにそんな風に言ってもらえるようなとこ、僕には全然」
「言ったよ、ちゃんと。本当のことだもん。…それに、みんなにとって、って。そう言ったんだし」
慌てて言い訳すると、奴は普段の自分を少し取り戻したようにちょっとだけ笑った。
「そうか、じゃああれは本物のタミさんの声だったかも。みんなのことだったとしても、ああいう風に言ってもらえたのは。…ちゃんと、嬉しいし」
「そうだよ。褒めたよ、増渕のことすごく。そこは汲んで欲しいよ」
威張った鶏のように胸を反らすと、奴は更に笑みを広げてわたしの手を包んでぎゅっと握った。
「わかってます。ちゃんと覚えてますから、何言ってくれてたか。…今だって。すごく俺にとって大切なこと、いっぱい…」
増渕の目が思い切ったようにわたしの目の中をまっすぐ覗き込んだ。こっちも目を開いてその眼差しに応える。
いいんだ、どう受け取られても。事務所の所長として、顧客のみんなに必要だからって言ったって思われても。わたしがこいつを必要だって訴えたって考えられたとしても。
別にどっちも嘘じゃない。さっき増渕に必死に呼びかけた時も真剣だった。他人の苦しみに飲み込まれないで。わたしのいるここに戻ってきて欲しい。自分をこれ以上傷つけないで。
ひとの痛みに寄り添い過ぎて自分を見失わないで。それより目の前のわたしに向き合って。
こうして体温も、感情も持ち合わせた生きてる現実の存在であるわたしに。
そう思って眼差しに想いを込めて、吸いよせられるように奴に寄り添った。奴はわたしの目から視線を逸らさず、ゆっくりと顔を寄せてきた。
「…タミさん」
このあと何が起こるか、わたしにはちゃんとわかる。ほとんどなんの経験も持ち合わせがないくせに。いや一度だけあるか。でもあれはノーカンだ。今はほんの一片たりとも脳裏に浮かべたくはない。
こんな一世一代の大切な瞬間に。好きな相手との初めての…。
時間の感覚がおかしいのか。あ、来る、と頭の中に閃いてから実際に触れ合うまでが呆れるくらい長い。早くきてほしいような、恐れるような。間がもたない。ああ、そうだ。目は閉じた方がいいのか。それとも驚いたように慌てて見開いててもいいのか?そんなこと考えるほど時間があるもんだとは予想だにしなかった。
いや待て。こういう時って、漫画や小説ではぎりぎりで何か突発的ハプニングが起こって中断ってのがお約束だよね。触れる直前に誰か部屋に入って来るとか。電話が鳴るとか。あとは何が考えられるだろ。天災か心霊現象?
こんなにやたらと時間がかかってるのもそういうフラグなのか…。
自分がその手のスラップスティックラブコメの主人公じゃないことは一瞬ののちにはっきり証明された。奴の唇がわたしの唇にそっと遠慮がちに重ねられたのを感じて慌てて遅ればせながら目を閉じる。今更ながら心臓が耳の近くにあるのかというくらいやかましくどきどきと鳴り始めた。…唇の上に感じてるそれが、温かくて想像以上に柔らかい。
わたし、増渕とキスしてる。
そう思ったら突然たまらない気持ちになり、少しずれた唇の隙間から震える甘い吐息が漏れた。その途端、増渕が箍が外れたようにいきなり激しくなった。わたしの身体をぐい、と両腕で強く抱きすくめてのしかかるように深く、容赦なく…。
「…、んっ」
「タミ…、さん」
夢中で受けながら全身のずきずきする疼きに耐える。これが。…好きなひととの、初めての。
気がつくと奴の首の後ろに伸び上がるように両腕でしがみついていた。互いに理性もぶっ飛んで、息が切れるまで存分に貪り合う。
「…わたし、今」
ついに呼吸が続かなくなり、ようやく胸を弾ませながら離れる。増渕の胸にそっともたれて目を閉じた。わたしの髪を優しく撫でるその手を感じながら初めて感じる多幸感に包まれて、掠れる声で思わず呟いた。
「キスしてって。…言った?自分から」
単に確認したかった。あまりに待ちわびたせいで、無意識に自分の口からせがんだわけじゃないよな、って。
何も言いませんでしたよ、とか、何言ってんですかとか、そういう反応が返ってくる気でいた。そんなに深い意味を込めたわけじゃなかったし。
その台詞をきっかけに一瞬で世界は色を失ったように見えた。
つい、と増渕の両腕がわたしの肩を自分の身体から引き剥がした。現実に返った、といった様子でぼそっと低い声で呟く。
「すみません。…タミさんに、こんな。勝手なこと。…いきなり」
「え、だって。…わたしだって」
戸惑いつつ抗弁しようとする。嫌ならちゃんと拒むし。力尽くでもいきなりでもない。本気で無理なら押しのけるくらいの間はしっかりあった。
何より、反応で嫌々かどうかなんて充分わかるじゃん…。
そんな風にまだ軽く考えていたわたしは、振り切るように立ち上がって背中を向けた奴の素っ気ない態度に心底面食らった。突き放すように付け足されたその声も何だか取りつく島もなく、冷たく感じる。
「忘れてください。本当に…、申し訳ないです。謝ってもどうしようもないですけど。…もう、二度と。こんなことがないように。…しますから」
「いや増渕、そうじゃなくて。…どういうこと?」
わたしの縋る声なんか耳にも入らない、とばかりにすっと奥の面談室に向かっていった。呆気に取られるわたしをソファに残したまま、ばん、と冷酷にドアが閉まる。
まるで、二人の間はこれでお終い、ときっぱり宣告されたみたいに。
ちょっと。…意味がよく、わからない。どういうこと?
わたし、何か間違えたのかな。…無神経だった?
あのタイミングであんなこと、訊いてはいけなかったみたい。でも。…どうして?
呆然とその場に取り残されたまま、じわじわと不安が胸のうちを真っ黒に染め始める。ちゃんと話せばわかってくれるかな。どういう風に受け取られたのかわからないけど傷つけたんだったらちゃんと謝ろう。…だけど。
これでわたしたちの間は何もかも終わり、なんて。…そんなこと、ないよね?
《続》