第6章 タミルちゃんは経験値がない
人生でそれまで一度もわたしを悩ませなかった問題が、じりじりとリアルな実感を持って目前に迫りつつあった。
何とかそちらに目を向けないようにして日々自分をごまかし、やり過ごすけど。もしかしたらそういつまでも放っとける話でもないかもしれないな、と何処かで半分覚悟を決めたような、諦めた気持ちもある。それにしてもとにかく経験がないから。何とも判断しかねるけど。
恋愛ってこんな、屠殺場に引かれていく日を怯えながら待つ家畜みたいな感じなんだ?まるっきりドナドナだ。いつかその日が自分にもやってくるんだ、って否応なく目の前に突きつけられる。いやそれだけならまだしも。
わたしは我知らず小さな重いため息をつかざるを得ない。ただ腹を括って待ってればその日が恙なくやってくるって風にはわたしの場合はいかないのは確実だ。
多分、どうやら、自分の方から何か具体的なアクションを起こさないと。ドナドナな日はいつまで経ってもやって来ない。おそらく永遠に。
だって思えば、全ての男の人たちから不本意な接近を受けないよう、真剣かそうじゃないかに関わらず片っ端からはねのけて構わないと奴にお墨付きを与えてしまった。
どういうわけか増渕はすごく張り切ってやる気を見せてたけど。誰とも恋愛する気はないからそれでいいってわたしも念押しに答えちゃったし。
以前自分があいつに詰め寄った言葉を今更ながら思い出す。自分で自分を制御して抑えることくらいできるんでしょ。あんた自身からわたしを守ることもできないの?
増渕の奴はちょっとむくれつつ、それはできるしちゃんとやりますけどね、と答えてた記憶が。きっとあの時の言質は今でも生きてるはずだ。てことは、例えあいつが何かの拍子にとち狂ってほんのちょびっとでもわたしに変な気起こしたとしても、それはわたしを脅かす有害なものとして絶対に表には出さずにどっかへ押し込めてしまうってことだよね…。
そこまで考えて本気で途方に暮れてしまう。だってここまで二十年ほどの間ずっと、男の人を警戒して遠ざけることについてはあれこれ試行錯誤の上実践を積み重ねてきた(それでも残念ながら達人の域に達したとは言い難い!)。でも。
特定の男の子がどうやったらガードを解いてわたしの方に接近してくるよう仕向けられるのか、なんて。そんな努力を自分の方からしなきゃならないシチュエーションに陥ることなんか、万に一つもないとばっかり思ってたから…。
もしそういう事態が自分の人生に起こるなら。それは向こうから押しに押されてやむなく折れる、って形なんだろうなって漠然と予測してた程度だった。そういう受け身の状態ならただ成り行きが展開していくのを待てばいいから、何の準備も心構えも必要ないし。その時その時の臨機応変、場当たり的に対応してけばいいんだろうけど。
自分から動く、なんて。…わたしみたいないい歳して経験値ゼロ以下、マイナス座標の女には、いくら何でも荷が重過ぎる気がするんですけど。
「タミちゃん、どうしたの。なんか今日はため息ばっかじゃない?」
わたしは我に返った。
ここは間仲さんちのリビング。少し間が空いたけど、久しぶりに連絡をもらってお宅にお伺いしてる。悠くんに渡してもらいたいものがあるから、取りに来るついでに遊びにおいでよ、とお誘いいただき拒むのもなんかなと思って承諾した。招ばれたのは平日の木曜の午後、会社勤めの啓太とはおそらく顔を合わせずに済むだろうと踏んだのもあったし。
ドアを開けてわたしを見るなり、にっと笑みを浮かべるその表情からすぐに察した。どうやらこの人、わたしと息子さんの間に何かあったことは既に知ってるみたい。
「ごめんね、タミルちゃん。うちの奴、なんかとんでもない無作法なことでもした?嫌な思いさせたんだったら本当に申し訳ない」
部屋に通されて丁重にお茶を出して頂き、苦笑い混じりに謝罪される。まさか啓太のお母さんにわたしたちのことが知れてるとは思わないから。青ざめたり赤くなったりしつつ口ごもって尋ねる。
「何か…、言ってらっしゃったんですか。啓太くん」
彼女はいつもの美味しい濃く煮出した麦茶をわたしに勧め、自分も一口飲んでから肩を竦めてみせた。
「まさか、親子の間でそんな話。でもここ数週間くらい目に見えて凹んでるっていうか。がっくりしたままなかなか復活してこないみたいだし。ここまで弱るってことは、きっと当たって砕けたっていうかまず間違いなくタミちゃん絡みだろうなぁって思って…。どうなの、告白して振られたの?結局あの子」
そんな身を乗り出して訊かれても。むしろわくわくしてるように見えるのは一体何故なんです、間仲さん。
わたしは半身引きつつ注意深く答えた。
「…間仲さんはわたしと啓太くんが上手くいくといいって思ってるんだとばっかり」
彼女はお茶受けにとテーブルの上に並べたお皿の上からクッキーの小袋を手に取りぴ、と開封しつつあっさり言った。
「それはそうよ、そりゃ。あいつが今まで付き合ってたような遊び相手みたいな女の子とうっかり子どもでも作っちゃったりしてさ。それ自体は自分の息子の失態としても、そんな成り行きで嫁が決まったりしたら…。絶対あたしが仲良くなれそうもない、気が合わない女の子がやって来そうだもん。せっかく家族になるんだから、あたしや旦那とも楽しくやってけそうな人がいいじゃない?」
ちょっと面映ゆい。そういう風に思ってもらえるのは素直に嬉しいけど。
「いやそんな。…わたしなんか。手先は不器用だし粗忽者で何でも必ず壊すし。頭はぽかんと抜けててろくに気も利かないし。態度も言葉遣いも雑この上ないし。こんなのが嫁に来たらストレス倍増ですよ。どんなイメージなのかわからないけど。…多分、間仲さんが思ってるのとはだいぶ違うんじゃないのかな、実像は」
残念な事実を正直に打ち明ける。彼女は全く怯む様子もなく泰然と頭を振った。
「うん、でもさ。そういうとこもあたしは結構いいと思ってる。なんて言うかね、完璧な子なら嬉しいってもんでもないのよこれが。お互い不完全なとこあるよねって思えば和むって面もあるじゃない。…そりゃま、一緒に住んでみたら案外、こんなこともできないの?って驚愕する可能性はないとは言えないけど」
「まさにそれです」
わたしは憮然とした。規格外のぶきっちょたる自分自身に。
「見た目はあんまり手際悪そうに見えないみたいで。大抵ギャップに驚かれます。わざとやってんの?とか言われて」
「てきぱき要領よさそうに見えるもんね。気持ちはわかるけど、大丈夫だよ。こっちはそういう内実も何となくだけど読めるし。わざとだなんて絶対思わないし、タミちゃんが本気で一生懸命精一杯なことはちゃんと伝わるから」
自信ありげなその声に思わず間仲さんの方をまじまじと見やる。
「霊感って、そんなこともわかるんですか」
「霊感と表現していいかわからないけど。相手の情報を読み取るやり方はサイコメトリクスとかと同じ感覚かも。無断で他人の内面や過去を洗いざらい読み取ったりはしないけど、あえて読もうとしなくても伝わってくるものもあるのよ。あなたの正直さとか裏心のなさとか。ぶきっちょで一本気な生真面目さとかがわかると…。こういう子と暮らしたいな、近くにいるとほっとするって思うんだ」
悪いとこに全部蓋するような優しいものの見方に恐縮する。一方で内心、霊感でわたしのそういうとこがもし見えてるんだとしたら。増渕ももしかして同じようなものを感じ取っているのかな、と漠然とお腹の底が温かい思いがした。
間仲さんは機嫌よくわたしに麦茶のお代わりを注ぎつつ続けた。
「そうは言ってもまだ完全に勝負が決まったとも思ってないけどね。どんなみっともない真似仕出かしたか知らないけど、あの子が。あの悄げきった様子見てたらまだタミちゃんのこと諦められないでいるのは明白だし。今回は大失態で嫌われちゃったかもしれないけど、気持ちを入れ替えて一からやり直して挽回すれば可能性はゼロじゃないでしょ。思い続けてれば何かをきっかけに道は拓けるかもじゃない?」
「…うーん」
わたしは言葉を濁し、曖昧な声を出してとりあえず麦茶のグラスに口をつけた。そんなこと、正面切ってはっきり言われても。
「お気持ちはありがたいです。でも、この先のことまでは…。お約束はできない、かも」
しどろもどろながらお断りに近い言葉を何とか絞り出す。間仲さんは堪えた風でもなく平然と受け流した。
「んん、まぁ、そりゃそうよね。一度振られたのに諦めず待ち続けてたら何とかなるかもなんて言われてもね。女の子からしたら何回断ればいいんだよ!としか思わないかも…。でも、本当のところどうなのかな。もう絶対二度とあいつの顔も見たくないほどのことだったとしたら」
何を想定したかはわからないけどふと眉根を寄せて顔をしかめる。顔を上げてわたしの方に向けた目の中には心配そうな色が滲んでいた。
「そしたら、もう一度チャンスを与えてやってとか気楽に言えないよね。母親としてはいたたまれないし、ひたすら平謝りするしかないけど…」
「いえあの。そんな、とんでもないようなことは。多分、わたしの方も…、世間知らずだったと思うし」
二十代半ばの男女としてあり得ないほど非常識なことでもなかったんだろう。てか、ああいう振る舞いが受け入れがたいなら、わたしもひと気のない夜の公園に二人で足を踏み入れたりしたらいけなかったってことなんだろうな。いくら友達と思い込んで相手がこっちに変な気ないって安心してたとしても。
「結果、勉強になりました。世の中の人間は自分に危害を加えるかもしれない警戒の必要な相手か、信用しても大丈夫な安全な人のどっちかだって漠然と思い込んでたとこがあったかも。そんな風に全面的に油断されても男の人も困ることもあるかもしれないですよね。年齢考えたら、もう少しわたしも大人にならないと…」
真面目に反省したつもりだったが、それを聞いた間仲さんはかくんと肩を落としてしまった。
「てことは、やっぱりあいつ、タミちゃんに何かしら変なこと仕出かしたってことよね。…あーあ、一体なんてことしてくれたんだろ。本気で大事に思うならきちんと順序を踏んで相手の気持ちを考えろって。そんなこと、まさかオヤに教えられなきゃわからんような馬鹿もんだとは思わなかった。あいつが普段相手にしてるような向こうも遊びのつもりの女の子たちと一緒に考えたら駄目だっていうのに」
「いえいえ。大人同士ですから一応。それに、一般常識から言ってもそんなあり得ないほどのことじゃなかったです」
慌てて口を挟んで話を遮る。たかが抱きしめられてキスされただけ、とは。思いづらいがそう受け止めるしかないのは自分でもわかってる。
「なかったことと割り切れば何でもないですから。わたし、忘れることにしたんです。そうすればいつかはまた、啓太くんとも友達に戻れるかもしれないし」
手持ち無沙汰にクッキーの小袋を破るでもなく弄ぶ。気心の知れた友人としての啓太のことは今でも好きだと思う。向こうが女としてのわたし以外に用はないっていうんじゃなければ、ずっと先でもいいからまたあんな風に気楽に喋ったり笑い合ったりできる仲に戻れたらいいのになあって気持ちはある。
俯いてぼそぼそと続けた。
「わたしあんまり友達いないから。啓太くんといろいろ話したり出かけたりするのは楽しかった。まるで何もなかったみたいに元通りになれないのはわかってるけど…。このまま気まずくなって二度と顔も合わせられないで終わるのもどうなのかなとは思ってます。すぐには無理でも、また以前みたいに普通に笑って話せるようになればいいなって」
「タミちゃん」
間仲さんは少し胸に迫るような声でわたしに呼びかけた。
「そんな風に言ってもらえて。本当にあんな馬鹿息子には勿体ない…。うん、そうね。付き合ってもらえるとか好きになってもらうより、今はまた友達として自然な関係に戻れるかどうかだよね。そう考えてこっちも気長に見守ることにするわ。急がないから、いつかまた普通にみんなでご飯食べたり出かけたりできるようになるといいよね。…ああ、そうだ」
何かいいこと思いついたとでもいうように声が明るくなり、麦茶のお代わりを勧めながらわたしの顔を見やる。
「今度セッティングするからさ。あいつと顔合わせて、謝る機会与えてもらうのはどう?二人で会うのはしばらく嫌だろうし。ここで、わたしも居合わせてでもいいからさ。肝心の話のときは席外すし、ちゃんと」
いえいえ。
わたしは少し用心深く引いて言葉を探した。急がないとか言いつつ。油断してるとどんどん来るじゃないですか。
正直、友達に戻ることは勿論できるとは思うけど、わたしの方は。それ以上気持ちが恋愛方面に進むことはもうあんまり考えられないと思うんだよな…。
そのことはやんわりとでも、きちんと伝えといた方がいいんだろう。
「お気持ちはありがたいですけど。啓太くんと顔合わせて話す時は、自分も立ち会うって増渕…、所長にきつく言われてるから。勝手に一人で謝罪を受けに行ったら駄目だって。だからまぁ、あいつ…、所長が了承して一緒にその場に居合わせるなら。そういう機会も持てるかもしれないです、けど」
思い起こせば最初は自分か間仲さん立会いで、と言ってたから。信頼できる人がその場にいればそれが増渕じゃなくてもいいってことなのかもしれないけど。
でもあの様子だと。そんな場を設けるならあいつも一緒に来るって言い出しそうだ。どっちみち黙って勝手に啓太と会ったら後で文句言われることは間違いない。例えそれが間仲さんの家で、ご家族がその場に居合わせてだとしても。
その答えに、彼女は思わずといった様子で腕を組んで椅子の上で身体を反らし、半端なく口許を曲げてみせた。どうやら何かお気に召さない要素がそこには含まれていたみたいだ。
「やっぱり悠くんはそうきたか。今後は遠慮なく介入してくるだろうなとは思ってたけど…。それにしても、自分の目の届くところでなきゃ会っちゃ駄目とか、まるで束縛彼氏だよね。単なる事務所の所長と所員の関係としたらさ。…なんかちょっと、深く立ち入り過ぎじゃない?そういうのはいいの、タミちゃんは?」
その晩、あれ以来初めて啓太と電話で話した。
多分帰宅してからその日のわたしの様子を母親の間仲さんから知らされたんだと思う。特別怒ってるとか不快感を持ってるようじゃなかったとか。落ち着いて冷静に話してて思い出すのもつらそうな感じじゃなかったとか。それで思いきって、とにかく連絡して謝るだけでも謝ろうと勇気を奮ったみたいだ。
初めはLINEでトークが送信されてきた。アプリを開いて啓太の項をタップすると、例の夜の公園事件以来ずらりと並んでた未読がまず現れる。蘇る生々しい記憶に閉口しつつ手早くそれをスクロールして一番下を目指す。
あの日、わたしがその場を逃げ出した直後から啓太からの着信やメール、LINEの履歴がびっしり入ってたのを覚えてる。なんとか連絡を取ろうと必死になってくれてたんだろう。パニックだったとはいえ、無事なことだけは早めに知らせなきゃいけなかったなとそこは今更ながら反省する。
それとなく見ていくと事件当日の深夜を境にぱたりと送信が止んでいる。多分ここあたりで、増渕が彼に連絡を入れたに違いない。
無事は確認できたし、今は直接謝るタイミングじゃないことを飲み込んでくれてその場は収まったんだろうと思う。
やっとさっき受信したばかりの新しい文面にたどり着いた。ちょっと眉をしかめつつもそれに目を通す。
『すごく間が空いて今更と思われるだろうけど。やっぱりタミルさんにきちんと謝りたいんだ。こんなLINEでと思われるかもだけど、いきなり電話で声聞かせるのも悪いし。俺のことなんか思い出すのも嫌かもしれないけど』
うーん。内心でちょっと参る。どう答えていいかは難しいけど。でもここで既読スルーしたりしたら拗れて二度と顔合わせづらくなるかもしれないな。
直接会うのは増渕の了承得ないと駄目だけど。LINEでのやり取りくらい、事後報告でも大丈夫かな。そう踏んで、思いきってどきどきしながら震えがちな指先を使って返事を送信した。思ってたより緊張する。
『そんなことないです。っていうか、わたしの方こそ。すぐに返事しなくてすみません。あんな別れかたしたら、無事に帰宅できたかどうか気になって確認したいと思うよね。そこは伝えるのが遅くなって無駄に心配かけてしまい申し訳なかったと思います』
あれこれ推敲しつつやっと送る文面が決まった。冷たくなった指でタップして送信する。
速攻既読がついた。まあそれはそうだろうけど。やや間があったのち(返信する文をあれこれ検討していたと思しき時間)、また新しいトークが表示される。
『返信してくれてありがとう。すごくほっとした。あんなことしといて、許してくれとか言えた話じゃないけど。もし嫌じゃなかったら、今から電話してもいいかな。声聞いて直接謝りたい』
う、そう来たか。どう返事しようか一瞬はたと迷う。まあこうやって慎重に文章をあれこれ推敲しつつやり取りするより断然話が早いことは確かだ。別に声聞くのもぞっとするというほどトラウマが残ってるわけじゃない。だいぶあの時の記憶も薄れてきた。半月ほど経過してるし、もうリアルな感触はほとんど思い出せないくらいだ。
しかし増渕はなんて言うかな。勝手に電話越しとはいえ直接会話を交わしたらやっぱり駄目なのか。それとも同じ空間に二人きりになりさえしなきゃまあ問題ないか?
もうここはさっさと済ましてしまいたい気持ちもあり、ためらいはあったけど吹っ切った。あとで増渕にぶちぶち文句言われるかもしれないけど。
『了解です。わたしの方は大丈夫』
短く返すと、すぐにLINEの通話の着信があった。うえ、本当に反応早い。ええいもうやけだ。憂鬱なことは早く終わらせよう。そう思って覚悟を決めて応答をタップする。
久々の啓太の声は当たり前だけど何も変わっていなかった。
『タミルさん。本当にごめん。君のこと、勝手にいろいろ思い込んで。なんの承諾もなしにあんな風に踏み込んだことして』
でもかなりうち萎れてて、今まで彼の声の中には耳にしたこともない神妙さが溢れている。あれ以来数週間、こんな思いをさせて放置しといたのはやっぱり悪かったかな。当時のショックがだいぶ遠ざかったせいか、相手の気持ちを慮る余裕も出てきたらしい。わたしは素直に言葉を返した。
「うんまぁ。あの時はさすがにびっくりしたけど。今はもう平気だよ。だから、お互い忘れよう。わたしもなかったことにするから」
なるべく明るい声でそう提案すると、ちょっとの間沈黙があった。多分、なかったことにすると言われるのはやっぱり複雑な気持ちがしたのに違いない。けど。
わたしだってあんなの正直受け入れがたい。ノーカンにでもしなきゃやってられないもん…。
『俺はやっぱり今でも君が好きだから。なかったことにはできないけど』
想定したよりどストレートで来た。そんなこと電話越しに言われても。どう返していいのか。
『タミルさんにも忘れてほしくないなんて言えた義理じゃないし。むしろ、君の気持ちも考えずにあんなことして、忘れてくれるっていうのは優しさだっていうのはわかるから、ちゃんと。…ありがとう、それは』
「いえあの。…うん」
そうですね。
謝罪が受け入られた、という事実を確認したところでやや以前の調子が戻り、啓太の口調は少し滑らかになった。やっぱりそこはどう受け取られるかっていう不安が彼を硬くしていたに違いない。
『なんか、今更言い訳しても何にもならないけど。俺勝手にタミルさんのこと、俺なんかよりずっと大人で恋愛の経験も豊富だと思い込んでて。高校の時も野郎どもがみんな君のこと気にしてそわそわしてて、高嶺の花で手が届かないってイメージだったから。タミちゃん先輩と付き合いたいって奴は沢山知ってたし。あの頃も誰ともどうにもなってないって思いもよらなかった』
「ああ、うん。…そうなの?」
よくわからない。そんなこと言われても。
電話のこっちで思わず首を捻る。自分がもててたって実感が全然ない。
『きっと君に申し込んだ中から一番スペックの高い奴を選んで彼氏にしてたんだろうなぁと想像してたし。大学時代も、社会人になってからも…。だから恋愛なんて興味ないって言われたら、もういろんな経験一杯したから今更って意味だとしか思わなかった。男のことで嫌な、つらい思いしてたなんて本当に…、考えもしなくて』
絶句する。わたしは反射的に思わず眉根を寄せた。
「増渕から何か聞いたの?」
『具体的なことは何も。…でも、いろんな事情があって男が怖いんだって話だけは。それ知って、あんなこといきなりされて君がどんなに辛かったかって思ったらもう…。あんな風に、泣かせて。自分が本当…、最低だなって』
何か思い出してるのか言葉に詰まった。わたしの方もちょっとあの時の感覚が蘇って来そうになって慌ててそれをかき消すように明るい声を出す。
「もう、いいよ。わたしも過剰反応だったのかも。嫌な、酷い思いさせられたことと啓太がしたことが一瞬重なっちゃってそっちからしたら訳わからないくらいすごいパニックになっちゃって…。びっくりさせちゃったね、ごめん」
『そんな。謝らなきゃいけないことなんか…。タミちゃんの方には全然ないよ。俺こそ、つらい思いさせて。考えなしだった。今になって思い返すと本当あり得ないよ。頭に血が上っちゃって…。もう二度と怖い思いさせないから。それで』
不意に彼の声が硬く、重くなった。真剣な、やや思い詰めた調子で続ける。
『今後のことなんだけど。…すぐにとはさすがに言えないし。まだずっと先のことでいいんだけど。もう一度、以前みたいに戻れないかな。普通の友達みたいに。しばらくは無理で当然だけど。…本当にいつか、もっと将来には』
「それは」
口ごもらざるを得ない。わたしだって勿論啓太と友達ではいたい。純粋な、異性としての意識がお互い全然ない気楽な友人。
でも、それって『以前みたい』ではないんじゃないかな…。
わたしがあんぽんたんにも気づかなかっただけで、啓太の方はわたしのことを女の子として見てた。それで自分の気持ちを表明できるチャンスを待ってたんだとしたら。
「わたしの方は問題ないと思う。…でも、異性同士としてこの先があるかも、みたいなことなら。それだと本当に何でもないただの友達とは言えないし」
なんて表現したらいいのかな。まさかあなたとは金輪際生涯の終わりまで全然可能性ゼロとも言えないし。いや実際そこんとこどうなのか、人生に絶対はあるのかどうか。自分の口にした言葉に後日復讐されないとは限らないけど。
可能性があるかも、と思われてそばにいられるのはしんどい。期待しないでほしいってことをどう伝えたらいいんだろう。
でも、言いあぐねるわたしの逡巡から啓太の方は意図を悟ったようだった。さすがに萎れて従順に請け合う。
『それは…、当然。承知してるよ。好きでい続けてればいつかは、とか思われて友達でいられたら重いもんな。それはちゃんとわかってるから。…自分の気持ちが整理できて、コントロールできるって自信がついたら。ってことになるのかな。そしたら今すぐはきついか』
まだコントロールできないのか。それはさすがにちょっと。
軽く引きつつ、確かに重いなこのスタンス。知り合った頃のイメージからすると、啓太ってこういうタイプじゃないと思ってた、と内心驚く。思わず正直な感想が口からぽろりと溢れた。
「啓太って。もっとあっさりしてそうというか、切り替え早そうとか。あんまり一人の子に執着するようには見えないのに。それとも本当はいつもこういう感じなの?」
恋をすると。とは口にしないが。
そこを突かれて向こうも苦笑い交じりに自嘲気味に答える。
『そうだな、ほんとだ。俺も自分がこういう奴だって全然予想もしてなかった。今までむしろ友達だと思ってた女の子が急に同じようなこと言い出したら、面倒だし重いし困ったもんだなって思ってた。なんか、今考えるとその子たちには悪いことしたな。人でなしだったかも、俺』
やっぱそっか。まあわたしも他人のこと言えない。人でなしの範疇に入るんだろうな、どっちかというと。
「まぁ、仕方ないよ。わたしもだけど、経験してないことはやっぱり実感持って想像できないもん。今後はそういうことがあったらもっと相手に優しくなれるんじゃない?こっちはまだその域に達してなくて申し訳ないけどさ」
『そうか。…そうだよね』
何故か噛みしめるように電話の向こうで小さく呟く啓太。どういうニュアンスなのか。今ひとつよくわからない。
急に気を取り直したように明るい声を出す。
『思えばまだ誰も好きになったことないってことだよね。だとしたら、この先どういう男がいいって考えるようになるかはまだ君本人にもわからない訳だから…。いつか初めてタミちゃんが好きになる将来の相手が俺って可能性だってゼロではないしさ。そう思えば希望も湧いてくるよね』
…いやいや。
口には出しづらいが閉口する。そんな話じゃなかったじゃん。半分呆れてしまったのを上手く隠しきれず、辟易した感情も露わにため息交じりに呟く。
「なんかさ。…啓太、ほんとにキャラだいぶ違うよ、初めて会った時と。女の子ならとりあえず気軽にちょっかいかけるって感じだったのに。そもそもあの時だって、わたしの外見が気に入ったからちょっと興味持ったってことでしょ?」
電話越しに何か言いかける彼に構わずさっさと言いたいことを言う。
「そんなきっかけなのに何も、わたしにこだわる必要なんかないと思うけど。言っとくけどわたし、見た目と中身かなりバランスおかしいよ?」
『そんなことないよ』
フォローする啓太。まぁそうだけど、とは言えはしないだろうが。甘いねやっぱり。わたしは半ば憤然と言い募る。
「寄ってくる男の人はみんな顔とかスタイルばっか褒めてくるけど。そんなのいざ付き合えばあっという間に見飽きるでしょ。自慢じゃないけど内実は正直大したもんじゃないから。手際悪くて何でも壊すクラッシャーだし、気は利かないし常識はすっぽ抜けてるし一人暮らし歴長いくせに家事全般まるで駄目だし。外見もわたしより上で能力もあって性格もいい子だって間違いなく普通にいると思うよ」
『そんなの関係ないよ。家政婦さんとか事務の女の子探してるんじゃないんだから。優秀な人材かどうかなんて考える訳ない。外見ばっかりやたらとゴージャスで実態はへなちょこでぽんこつの見掛け倒しでも全然構わないよ、そういうタミちゃんがいいんだ俺には』
熱を込めて力説されても。わたしはあまりの言われように思わず呆然となった。
「それは。…褒めてないよね」
思わず向こうに聞こえるかどうかの低い声でぼそっと呟く。興奮した彼の耳にはあまり響かなかったみたいで意に介さずそのまま熱心に言い立てる。
『タミちゃんが自分の不器用さや抜けてるとこ気にして居心地悪く感じてること俺だってちゃんと知ってる。だから日常のいろんなことについて俺だってフォローできるよ、友達としてでいいから頼ってくれたらって思ってるんだ。…何もあいつだけが君を見守りたいって考えてる訳じゃないんだから』
いきなり『あいつ』の話になり何か足許で蹴つまずいたような感覚になる。向こうには見えないながらも思いきり口許を曲げてしまう。
「…何でここで。いきなり増渕の話?」
啓太は微妙な声色で微かに唸った。
『悠のこと言ってるってすぐわかるんだ、ちゃんと。まああの密着ぶりじゃ…。なんか、今回のことをきっかけにして君のガードを固めると称して俺や他の男を全部追い払おうとしてるみたいだけど』
「なんで。…そんなこと知ってるの?」
ちょっと眉をひそめる。間仲さんから何か聞いてるのかな。
啓太はあっさり説明した。
『悠本人の口から聞いたよ。今後は真剣だろうが真面目な気持ちだろうが君に近づこうとする男は片っ端から追い払うって。今の彼女はそんなの必要としてないんだから…。当然おまえは真っ先に駆逐されるってきっぱり言い渡された、こないだ電話で』
「あーうぅ…」
曖昧な声が喉から漏れる。なるほどね。わざわざ連絡してじかに牽制した訳だ。あいつ、意外とマジだな。
啓太は承服しかねる、と言わんばかりの口調で憤然と続けた。
『でも、君本人に拒まれるのは勿論仕方ないとしてもさ。一方で君に近づく男をあんな嬉々としてスイープする権利があいつにあるってどう考えても納得できないし。何で俺が悠なんかに害虫みたいに駆逐されないといけないんだよ?』
それは油断した抜けてる女の子の隙を突いて手を出したからでは。とかはわたしの口からはとても突っ込めない。
『なんか君のためと言いつつ私情で動いてるようにしか見えないよ。あんなの受け入れていいの、タミルさん?』
またさん付けになった。どうも二人称が一定しない。いやそんなことに気を取られてる場合じゃないか。
「別にそんな。私情なんてことないと思うけど。だって、増渕にはそんなの何の得もないじゃない?単に同情からのボランティアなんだと思うよ」
何気ない口調でそういなすけど。胸の内がごとごと鳴り出して耳の辺りが熱く感じるのは何故なんだ。
わたしは自分を落ち着かせるよう呼吸を整えて肝に銘じる。失言しないよう注意を払う必要がある。どうもこの辺の話、我ながらあえて目を逸らしてるだけでいろいろと気づくとやばい要素が含まれてそう…。
わたしの素っ気ない喋り方に何か白々しいものを感じたのかもしれない。急にその声にやや不審げな響きが混じった。
『タミちゃん。…思うんだけど、そうやってあいつの言うこと疑問も抱かずにそのまま素直に受け入れていいの?俺や他の男たちのことは問答無用で全部撃退するってのは同意したのに。実は君の身近にいる奴がもしかしたら一番下心あって危険かもしれないよ。そしたらガードなんか結果として意味なくない?』
「えーと、それはないな」
食い気味に遮る。ここだけはきっぱりと自信ある。
すごくぶっちゃけた話をしちゃうともしかしたら増渕の内心としてはわたしのこと、全然絶対なしとは思ってないかもしれないって漠然とした感触はある。どういう意味合いでかはわからないけど、好意みたいなものは多かれ少なかれ持ってもらってるとは思う。それにどの程度異性としての意識が含まれてるかは置くとしても。
でも確信を持って言える。多分、おそらく、間違いなく。増渕がそういう気持ちを表に出して、自分の方から何かわたしに仕掛けてくることはまずないだろう。
この先ずっと一緒に仕事して。誰よりそばにいて、長い時間を二人きりで過ごす中でわたしたちの間に何らかの化学変化が起きたとして。
結果どんなに心の内側で悶々する羽目になったとしてもあいつの言動にはがっちりロックがかかってる、残念ながら。わたしは半ばやけっぱちに思う。だから奴の前でまるっきり、全然油断しきってても何の問題も起こらない筈だ。
そこはかとなく割り切れない思いを振り切って、余裕たっぷりに断言する。
「そういう心配は必要ないよ。あいつはどんな相手からもわたしを絶対に守るってはっきり誓ってみせたんだから。当然増渕本人だってその対象に含まれてるんだよ。そこは向こうもわたしも度外視してない。あいつが男だってこと、二人とも忘れてる訳じゃないんだから。…その上であれだけ自信持って断言するんだからさ。わたしに変なことはしないって絶対の自信があるってことでしょ」
なんか、得々と説明を続けてるうちに何とも虚しい気分に満たされてきた。胸が塞がれるような、重いため息が自然と押し出されてくるような。…あーあ。
わたし一体、何やってんだろ。本当にこのままでいることが、自分の望んだことなのかな…。
図らずもずん、と重苦しい憂鬱が押し寄せててきてそれに気を取られた。ふと我に返ると電話の向こうで啓太がじっと沈黙してる。それに気がついてちょっと背筋に嫌な予感が走る。…何だかわからないけど。微妙にまずい感じ、かも。
啓太がおもむろに口を開く気配に首を竦める。あんまり面倒くさいこと言い出さないでいてくれたらいいが。
『…あのさ。タミルさんはきっと、自分は全然そんな気はないって怒るに決まってるけど。もしかしたら自覚も今ひとつないのかもしれないし』
「何がよ」
ぶっきら棒に短く返す。どうしても突慳貪な無愛想な声になってしまう。頼むから、これ以上本質を突かないでほしい。
もう、自分でもどっかでちゃんと微かにわかってはいるから。あまりそこを刺激せず、陽の光の下に晒さないでいてくれたらありがたいんだけど…。
啓太は少しためらいながらも黙ってられない、とばかりにはっきりと告げた。
『もし、万が一だよ。タミルさんがいつかどういう訳か、なんかの気の迷いにでも悠なんかのこと、いいとでも思い始めたりしたら。…いや悪い奴じゃないのはわかってるけど。それでも、タミちゃんはいくらでもハイスペックな選択肢選り取りみどりなのに』
いえいえ。
実態として案外そうでもないですよ?
『そんな中で何であんなぱっとしない意思もはっきりしない男を、とは正直思わずにはいらんないんだけど。だからあくまで仮の、仮定の話としてなんだけどね』
「やけに慎重な言い回しだね」
わたしはちょっと腹の底で用心深く構えながら表面上の口調では軽くまぜっ返した。
「別にいいよ、気にしない。何の話する気か知らないけど。だって架空の話でしかないんでしょ?現実のことでもないのにわたしいちいち怒ったりしないよ。わたしと増渕が付き合うことになったらとかそんな仮定についてでしょ、どうせ?」
先制攻撃でかわしたつもりだったが。次に啓太の口から出てきた容赦ない台詞にさすがに唸る。
『いやむしろ、タミルさんの方がもしあいつを好きになったとしたらって話。…悠の方はちゃんと自分を抑えられて今まで通り同僚として仕事を一緒にやっていけるスタンスなのに、一方で意外に君の方が、ずっとそばにいるうちにあいつに対して気持ちが変化していくかも。…人間同士のことだから、そういうのも絶対ないって言い切れないし』
「あー…。まぁね」
力なく相槌を打つ。なんか、げんなりした。
やっぱりどっか本質を突いてくるじゃん…。
わたしが電話のこっちでがっくりとめげてしまったのにも気づかず、啓太は自分の考えに捉われたかのように熱心に更に言い募った。
『もしそんなことになったらさ。君の気持ちが向こうに伝わるだろ、多分。はっきり言葉で打ち明けるかそれとなく態度でわかっちゃうのかは知らないけど。そしたらあいつ、どんな反応すると思う?』
わたしは不意に話の雲行きを察して黙り込んだ。我知らず眉根をぎゅっと寄せる。
啓太は静かな口振りでわたしに尋ねた。
『…あいつが「断れない男」なのはタミルさんももう知ってるよね』
もう啓太の言いたいことははっきりわかる。わたしは拳をきつく握って内側にそっと爪を立てた。
「それは。…『断れない』んじゃなくて『断らない』んだって言ってたけど。本人は」
明るく軽い口調で混ぜかえす。大したことじゃない。
そんなのわたしだってちゃんと承知してるもん。
その場の雰囲気を変えようとするわたしの意図に彼は乗らなかった。事実を告げる、とでもいうように淡々と言葉を続ける。
『タミルさんがもしあいつを好きだってわかったら。あいつは自分の気持ちがどうであれ絶対に断らないんだよ。必ず受け入れてもらえるってわかってる。…それって一見いいことみたいだけど。タミちゃんはそんなんでいいの?女の子からの申し出は断れない。相手が誰であっても、あいつ本人の方はそれほど相手のことを好きじゃなくても。そんなことはおくびにも出さずに従順に言われるまま受けるに決まってる。…そんなの嬉しいって思う、タミルさん?自分じゃなくてもあいつのこと好きでさえあれば誰でも受け入れる男なんか。そいつと本当に付き合っちゃっていいの?』
わたしは啓太に呪いをかけられたことを知った。
仕事中も、自分の気持ちをこいつに察知されればもしかして即受け入れられるのかとふと頭に浮かんだりすると。何だか不自然に全ての動作がぎくしゃくしそうになって慌てて気を引き締める。そんなの絶対に嫌だ。
増渕がわたしのこと別に好きじゃないのに、同情みたいに付き合ってくれたりしたら最悪。わたしが欲しいのは勿論そんなもんじゃない。そう思って何かがうっかり伝わらないよう慎重に振舞っていた。
ただ、そんな毎日が続くにつれあまりの変化のなさにやがてわたしの警戒も薄れていったが。こっちがぎくしゃくしようが意識過剰だろうが事実、増渕の態度は大して変わらなかったから。そのことを認識してからわたしはようやくやや安堵して緊張を緩めていった。
そりゃ、そうだよね。理論上は『断らない男』を好きになったらどんな女の子でも百パーセント受けてもらえるってことになる筈だけど。
現実の人間ってそんな風に原理原則に従って動くもんじゃない。実際は普通の男の子と同じで、自分の好みじゃなかったり気持ちが伴わなければちゃんと断るに決まってる、いくら何でも。
そうじゃなきゃ奴の周りは女の子だらけになっちゃう。というほどもてて仕方ないとは思わないが。
そういうことなら思えば彼女の一人や二人くらい既にいても良さそうなもんだ。増渕が終業後や休日どう過ごしてるかまで知ってる訳じゃないけど、急にイレギュラーな用件が入っても特に困る様子を見せたこともないし。わたしと時折ご飯を作って事務所で食べることも問題ないみたいだ。そういう際にはわたしも台所に入るけど他の人が食器や調理器具を使った形跡もない。
大体、奴の住居でもある事務所の中に恋人というか、プライベートのパートナーがいる気配を感じたことがない。人にはいろいろ事情があるだろうから自分の家に一度も彼女を招んだことがないカップルだって絶対いないとは限らないが。やっぱりそれもちょっと極端な気がする。
おそらく増渕には今は決まった特別な相手はいない。と考えるのが妥当だろう。
そこまで考えてわたしはやっと肩の荷を下ろした。ちょっとでも自分の気持ちを悟られたら即受け入れられるなんてさすがに考え過ぎだ。そういう方式ならこいつには既に彼女がいるに決まってる。増渕が見た目よりは女性に人気あることは顧客たちの態度や振る舞いからして何となくわかってるもん。
短い期間での取っ替え引っ替えか、複数の同時進行になるのは目に見えてる。そんな様子を感じたことがないってことは、過剰に受け入れられることを恐れる必要はそれほどないってことじゃないかな。
そのことを納得してからは啓太の脅しのような仮定の話も見る間に頭の中で薄れていき、いつしかさほどわたしも警戒しなくなっていった。意識の何処かに仕舞われていただけで完全に消えはしなかった、ってことは後ではっきり知ることになったけど。
その後の局面局面で不意にその言霊は表面にぷかりと浮かんでくることになる。思えばそれこそが『呪い』たる所以かもしれない。
尤もそれはだいぶ後のことで、今この時点で問題になるのはやっぱりわたし自身の気持ちのことだった。結局そこに話は戻ってくる羽目になるけど。
『そういうことだから、タミちゃん。一時的に気持ちが高まったりした時にそのまま一息に思いを打ち明けたり、勢いで突撃したりしないで。立ち止まって冷静になって、慎重によく考えてよ。でないと自分のこと、大して真剣に好きでもない男に責任感や同情で付き合ってもらうことになりかねないよ』
あの時啓太は一度口にしたら何かが吹っ切れでもしたかのように遠慮なくきつい現実を目の前に突きつけてきた。意識の表面でぼんやりとそれを聞き流しながら、どうやら彼が「タミルさん」と言うのは改まって真面目な話をするとき、「タミちゃん」と呼びかけるのはその場の空気を軽くしてちょっと雰囲気を和らげたい時って無意識にか使い分けてるらしいな。とかなりどうでもいいことを考えた。しかしそれにしても。
そこまではっきり言うのか。同情とまで言われるとそれだけでも結構凹むものがある。…でも。
「いやあの。…突撃するとか。正直なとこ…、そこまでは」
黙ってられず思わず抗弁した。確か最初はあくまで仮定の話だったはずなのに。まるでわたしがあいつに滅茶苦茶惚れ込んでるみたいな前提になってるのは遺憾だ。
その不満を感じ取ったらしく、厳しかった啓太の口調がようやく和らいだ。
『そう?…タミちゃん、自分から積極的にあいつに行くほどではない?今のところは』
「今のとこも何も。…わたし、増渕のこと好きだなんてひと言も言った記憶ないよ」
つい自分の潔白を証明するかのように、強い調子で言い張ってしまう。口にした瞬間、言葉でそう表現するともうそれが事実となって残っちゃうな。って気がつくけど。曖昧ではっきりしない要素は全部きっぱりと切り捨てられてなかったことにされてしまう。
それも本当のこととは言えない気がするのに…。
そういう迷いを振り切るように更に言葉を重ねた。
「わたし、誰のことも当分好きになんかならない。そのことは向こうも承知してるし。だから啓太も余計な心配は必要ないよ。わたしとあいつは職場の上司と部下でそれだけの関係でしかないから。わたしが抜けてて隙だらけなのを見かねて親切でしてくれてるのに過ぎないよ。啓太は神経質になり過ぎじゃないかな」
もうそういうことでいいや。別にわたしは増渕のこと意識なんかしてない。向こうもわたしとそうなろうって気は全然ないってことで。
そう考えた方が日々の生活も仕事もシンプルになるし。
わたしから言質を取ったと思ったか、啓太の声からやっとシリアスな雰囲気が消えた。懐かしいいつもの軽い調子が戻ってくる。
『そうか。…そうだよね、放っといたら君とあいつがこのままどうにかなるかもなんて。考え過ぎだよな。人間って、二人きりにしとけば当然くっつくっていうような簡単なもんじゃないし』
…言うなぁ。つまり、わたしと増渕が万が一どうにかなったら、密室に男女二人で閉じ込められて互いに発情した結果ってわけ?
半端なくぶんむくれる。人のこと、まるで盛りのついた猫みたいに。
『ちょっと、やっかみ気味で勘繰り過ぎてたかも。思えばタミちゃんはそんなに簡単な女の子じゃないもんね。そこは信じていいよね?』
「いや別に。どうもならなくても、それは啓太くんのためって訳じゃないけど」
気軽な口調ながらそれとなくプレッシャーをかけてくるのをはぐらかす。啓太が電話の向こうで肩を竦める気配がした。
『大丈夫、それはちゃんと承知してるから。タミちゃんは誰のことも好きにならない。でも、それで構わないよ、今は。俺だけじゃなく誰のものにもならないって思えばそれはそれで安心できる。…そう考えると、あいつが君に近づく男全てをはねのけるっ断言してるのも悪くないかな、案外。職場にいる間のことは任せてられるってことだもんね?』
そうね。
「そういうことになります。…多分」
わたしはやけくそで請け合った。
ようやく安堵の色を見せた啓太が納得して電話を切り、わたしは反動でぐったりとなった。なんか、いろんなことが一遍に押し寄せてきた上にぼろが出ないよう取り繕うのに必死で最後は頭が追っつかなかった。疲れた…。
会うのはしばらく無理でも時々LINEするね、と啓太に最後に機嫌よく言われたことを思い出し、ああ、今回彼と電話で話したことはちゃんと増渕にも報告しなきゃとまた軽く憂鬱な気分に捉われる。勿論話した内容を何から何まで教える必要なんかないけど。
接触があって謝罪を受け入れたこと自体は黙ってるわけにはいかないだろう。一応の関係の修復はできたっていうことで、今後は少なくとも間仲さんか増渕が立ち会っていれば普通に顔を合わせても問題なくなるだろうし。
表面上、トラブルは少しずつ解決に向かって事態は落ち着く様相を見せてはいるけど。わたしはスマホを充電しつつ肩を落としてため息をついた。
傍から見れば何の問題もないところにこそ、これから起こる面倒の素が潜んでる気がする…。
「ああ…、そうなんだ。向こうから連絡があったってことですね?」
増渕は動じず冷静な口振りで相槌を打った。まあ、大抵の時のこいつは慌てず騒がず、ちょっとやそっとでは感情の乱れを見せることはないけど。
それでももしかしたら啓太のこととなると不快げな、拗ねた表情を浮かべないとも限らないと恐れてたわたしがあんぽんたんにも自意識過剰だった。単に事実を確認するといった調子で奴はハンドルを慎重に握り直しつつ重ねて尋ねた。
「LINEでやり取りするだけでなく通話で会話したんですね。…大丈夫でしたか」
「は?何が」
あまりにも平坦な声で問われて全然内容が頭に入ってこない。わたしはちょっと怯みながら助手席で身を縮めて進行方向に目を向けた。
「だから。…あいつに何か、変なこと言われませんでしたか?自分も悪かったけどタミさんもどうだとか文句言ったり。あるいは反省するからもう一度友達としてゼロからやり直させろとか。言葉巧みに言いくるめてきて向こうのペースに乗せられて、気がつくともう二人で会うことになってたりとか。…なんて言っても口先滑らかで調子いいヤツだから」
視線を全くこちらに向けずに淡々と並べ立てられても。しかしまあ、一応これでも心配してくれてるってことなのか。声に全然感情がこもってないから事務連絡かと思うわ。
「そこはさすがに…。ひたすら謝ってはくれたよ。会うのもしばらくは無理だろうからわたしの気持ちが落ち着くのを待ってくれるって。…あ、あの、信号。ちょ…、停止線、気をつけて」
「あ。…やば。ちょい越えちゃったか」
増渕が慌ててがん、と深くブレーキを踏み、わたしたちはがっくんと上体を前につんのめらせる。やっぱ危ない。わたしは焦り気味に奴に問いかけた。
「ねえ、やっぱりあんまり運転中、話しかけない方がいいかな。気が散るでしょ。そっちに意識集中した方がいいんじゃない?」
そう、増渕の態度がどうにも上の空な理由はどっちかというとこれかも。今日は事務所を半日閉めて、レンタカーを借りて奴の久々の運転で依頼人の自宅まで二人で出張なのだ。
「間仲さんからもサイコメトリクスと口寄せばっかに偏らず、いろいろ幅を広げて経験値を上げた方がいいとは言われてるので。今回は土地を買って家を建てたけど、どうも雰囲気がおかしいから場所や建物の造りが大丈夫かどうか知りたいっていうお客様が口コミで相談を持ちかけてきたんです。…いい機会だから土地を見る仕事も少しずつ手がけてみようかと思って」
そう言われて、ちょっと面白そうだなと思って一も二もなくアシスタントとして同行するのに同意した。相談内容自体はそれほどハードではないと聞かされてはいたんだけど。
「実はこっちの方が結構怖いことになるかも。…すいません、しばらく運転してないから」
朝、予約してあったレンタカーの店に行き、用意された車に乗り込みながら奴は少し恐縮しつつそう告げた。それが誇張じゃないことは間もなくわたしにも理解できた。
「…わたし、運転してもいいんだけど」
緊張で肩に力が入ってがちがちな増渕を横目に、少し気の毒な思いで口にする。
「正直なとこあんまり所長と変わんないかも、運転のレベル。実家に帰ると車なしじゃ不便でしょうがないんだけど、なにぶん卒業以来あんまり帰ってなくて。神奈川中途半端に近いから、日帰り帰省なんだよね。…それに、都内と地元の運転全然違うし。高速乗ったこともないから」
「大丈夫です、タミさんに負担かけるのも。…こういうのも慣れですから。単に久しぶりなだけで特に運転が苦手って訳では…。実家にいる時はたまに家の車を使ってはいたんですけど。当時もそんなにしょっちゅう乗る必要ってなかったしなぁ」
「都内、あんまり車じゃなきゃ行けないとこないもんね。むしろ停めるとことか考えると不便かも」
相槌を打ちつつ、そうは言っても啓太は無闇に運転が上手かったな。彼だって都心育ちで車なんかそんなに必要な生活って訳でもなかったろうに。やっぱ向き不向きがあるから…、とそこまで考えて、そうか、啓太の場合は多分女の子と出かける時に必要があったから否応なく車に慣れたって経緯に違いない。一方で増渕の方は、きっとデートに自宅の車を持ち出す習慣がそんなになかったからかもしれないな、とふと思い当たった。
そんなところにこの差が生じてるのかも。
今回依頼されたお宅は、駅から遠いのもさることながら上手い具合に高速のインターチェンジが近い。どう考えても断然車を使った方が効率がいいのは目に見えてた。そうすれば午後には事務所に戻れて他の予約にも対応できるし。
「ちょっと最初は錆び付いてるけど。しばらくすれば勘も戻ります、多分。…えーと、高速の入り口ってこっちだっけ?」
慌ててナビを確認する。奴は前方から目線を外すのも怖いのか、信号で停まるとき以外あまりそっちに目をやることもできずにいるらしい。
「もういっこ先だよ、曲がるの。…ああ、まあ、そっちからでもどうにかなるかも。ナビもちゃんとリルート検索してくれるから」
曲がっちゃったもんは仕方ない。わたしはフォローしつつ本当にこれ、なかなかスリリングだな。自分で運転するのとどっちが恐怖かいい勝負かもと密かに内心で思う。
ようやく無事高速に乗って、人心地ついた。あとは安全運転で流れに乗って、降りる場所を間違えさえしなければ何とかなりそうだ。増渕もそう思ったのか、さっきより身体の強張りも緩んで話し方もだいぶ自然になる。
「さっきの話ですけど。あいつとあの直後に話した時、今すぐあなたに謝りたいって言い立てるのを多分まだ顔も見たくないだろうからって止めておいたんで。…声だけとはいえ嫌な記憶がフラッシュバックしたり何か不快な思いはされませんでしたか。きついことなかった?」
視線は相変わらず前に向きっ放しだけど(そうじゃなかったらその方が怖い)、声にはわたしを気遣う親身な思いが感じられる。ちょっと胸をじんとさせつつ、わたしは請け合った。
「うん、あれからそれなりに時間も経ってるし。それにあの時はパニックだったからなんだと思うけど、実はあんまり細かい記憶って残ってないんだ。実際フラッシュバックの方がきつかったから…。意外に声聴いても何でもなかったよ。ご心配おかけしてすいませんでした」
明るい声でそう言うと、増渕は何故か不興げに眉をしかめた。
「フラッシュバックが起きるような仕打ちをタミさんに仕掛けたこと自体が正直許しがたいんだけど。まああいつとの間にあった具体的なことを忘れてくれてたらそれはありがたいです。きっとショックで頭真っ白になって全部吹き飛んじゃったんでしょうね。そのまま思い出さないでいいですから、二度と」
平日午前中、下りの高速は幸い空いていた。交差点も信号もない見通しのよい道路に余裕を取り戻した増渕の口調は打って変わって滑らかに、自分の友人に対する痛烈な皮肉を言い放った。わたしは苦笑い気味にそれに答える。
「まあね、わたしも別に思い出したくはないな。もうこのままノーカンにするんだ。なかったことにしちゃうつもり」
増渕は注意深く目線を進行方向に向けたまま、もの思わしげに小さく頷いた。
「それができたら一番…、やっぱり、そういうのは。好きな相手と合意の上でじゃないと」
そういう相手がいればね。と、ほんの少し以前のわたしならあっさり思い浮かぶままに口にしてたと思うのに。
どうしてかすんなりとその台詞が喉から出てこない。頭に浮かんだ瞬間、もやもやしたためらいに紛れてやがて意識の底にゆっくり沈んでいく。
「それはまぁ。…そうだね」
やっとの思いで口にした相槌がこれ。気の乗らないおざなりな台詞に違和感を感じたのか増渕がこっちをちら、と伺った気がした。何か言われるかな。今タミさんは好きな人とかいないんですか?とか。…そしたら、どう答えたら自然に聞こえるだろう?
身構えたけど話はそこでぷつりと途絶えた。ちょっと拍子抜けしつつ助手席から窓の外に目をやる。まぁね、考えてみたら恋愛に興味はない、誰のことも好きになるとは思えないって既に言っちゃってあるんだから。あれからまだ大して時間も経ってないんだし、変化があったとは思われてないかも。
変化。…あったのかな?実際には。
なだらかに曲がる広々とした道に車を走らせながら、増渕は不意にぶぅん、と軽くエンジンをふかした。どうやら一旦落ち着いたことに効果があって運転の勘は戻りつつあるようだ。最初のひやひや感が強かっただけにわたしも密かに胸を撫で下ろす。これなら何とか安心して乗っていられそう。
安堵の気持ちに満たされると、やっとこの状況を味わうゆとりが出てきた。幸い天気はよく、両脇には鮮やかに濃い緑の木々が生い茂っていて、見渡す限りずっと先までゆるやかに道は続いてる。なんか、訳もなくいい気分。
わたしの頭の隅っこをふと、この人と二人きりでドライブ、と変な浮かれた言葉がよぎった。すぐ隣にいる奴にうっかり何かが伝わらないよう慌てて打ち消す。何なんだその馬鹿っぽいフレーズ。
今日のわたしは何だかおかしい。どこかふわふわした気分で落ち着かない感じ。この開放感溢れる景色のせいかな。高速道路を快調に走る車のスピードが影響してるのか。それとも。
やや余裕が出てきたとはいえ、それでも生真面目な顔つきでがっちり前方を見据えて運転に没頭している増渕をそっと見やる。自然と頬が緩んでしまうのを気合いで表情を引き締めた。こいつを見てにやけてるなんてばれたら恥ずかしいことこの上ないし。
それでも胸の内はことことと鳴り、微妙にほわっと温かい。ちょっとくらいならこの状況を楽しんでもいいかな。ほんの少し、すぐそばの増渕には伝わらない程度なら。
ドライブデート状態を腹の底で存分に楽しむわたしのふわふわ気分をよそに、運転にほぼ全部の集中力を持ってかれてると思しき増渕は、言葉少なに真剣な表情でそのまま目的地まで車を走らせ続けていった。
依頼者のお宅は見晴らしのよい丘の途中の坂道沿いに建っていた。新しくて綺麗でなかなか広い。見ため的には申し分のない物件に見えるけど。
「ここは、何か問題のある土地なんですか?」
仕事で『所長』としての増渕に対する時は思い出したようにたまに丁寧な口調が戻ってくる。なるべく邪魔にならないよう車通りのほとんどない路地の端に駐車して、外側から家を眺めて何気なしに尋ねると、増渕は先生よろしく真面目くさった声で訊き返してきた。
「どんな感じを受けます?タミさんの思った通りでいいですから」
うーん、もしかしてこれは『勉強』なのか。要らんこと気軽に訊くんじゃなかった。わたしはそれでも素直に目を閉じてじっと集中し、そこの空気を感じ取ることに意識を傾けた。
「…よくわからないけど。あんまり嫌な感じはしないです。怖いとかも…。でも、何でだろ。ここに住みたいかって言われると…。なんか、腹の底がむずむずするっていうか。落ち着かないですね。うーん、周りから丸見えで開けっぴろげだから?」
「でも、それは視界が開けてて見晴らしがいいってことですからね。そういう物件がどれも周りから見られてて落ち着かないって感じる訳じゃないでしょ?」
それはまぁそうだ。実際住んでみたらわからないけど、普通こうやって自分が住むことを検討するときこっちから見える景色は想像するけど、住んでるところを周りから見られることについては割に意識しないかも。
『先生』は何故か得々として僅かに嬉しげに話を継いだ。
「それがヒントなんですよ。そうやって第一印象で素直に感じたことって案外馬鹿にならないんです。…タミさん、ここって人通り多いですか?雑然としてる?」
改めて問われて気づく。
「いえ。…むしろ、人っ子一人見えない。すごい静かで、人の気配もない…」
平日の午前中の小さな住宅密集地は、分譲されたばかりの綺麗な家が立ち並んでいるばかりで人間の姿が見えない。まあ、たまたまなのかもしれないけど。
「住んでる人以外には用事のないとこだから。よそから入ってくる人もあんまりいないと思うとこれくらいが普通なのかもね」
「なのに、タミさんは『落ち着かない』って思った」
指摘されてみれば。確かに変かも。
普通に目の前の眺めを見てみれば、閑静で小綺麗な真新しい住宅街があるばかりだ。ざわざわして落ち着かないって、どこから来た感想なんだろう。
増渕はやや楽しそうにわたしを見て話を続けた。
「タミさん、なかなか見どころありますよ。案外思ってたより感受性高いじゃないですか。…今の第一印象を意識の端っこに留めておいてください。あとで話を聞いたらそういうことなのか、って納得するものがあると思います」
依頼者は遠藤さんという方で、この家の奥様だった。旦那様は会社勤め、ご本人は普段は昼間のパート。お子様二人は小学生。お話を聞く限りはごく普通の地方都市の郊外の平和なご家庭だけど。
「分譲された土地を買って、ここに家を建てたんですけど。当たり前かもしれないけど更地の状態では特に何も感じるところはなかったんですが…。いざ完成して住んでみると、なんていうか、落ち着かなくて。人の気配みたいなものがあるのはしょっちゅうで…。最初はわたしが精神的に疲れてるのか、おかしくなったのかなって思いました」
丁寧な物腰でお茶を淹れ、お菓子を勧めて下さる。お構いなく、と言いつつありがたくお茶を頂きつつお話を伺った。
「そしたら、下の子が今小学校の二年なんですけど。玄関の脇に男の子が見えるとか、キッチンに男の人が立ってたとか言い始めて。上の子は姿は見えないらしいんですけど、物音が聞こえるっていうんです。わたしだけじゃないならこれは何かあるのかなって…。夫だけは何も感じないみたいなんですけど。あまりこういう話をするのも嫌がるし」
霊能者を頼んだと知ったら不機嫌になること請け合いなので、夫の耳に入らないよう子どもたちもいない平日の午前中を希望したのだという。いろいろ気遣いが大変そうだ。
「頑張ってせっかく建てた家の悪口を言われてるみたいに感じるのかなとは思うんですけど。でも、そんな意図は全然なくて。子どもたちも最初はちょっと面白がる風もあったんですけど、最近はさすがに薄気味悪がって。なんか落ち着かないねって」
面白がってたんだ。子どもって結構逞しいもんなんだなぁ。
増渕はわかります、というように柔らかい笑みを浮かべて頷き、彼女の方に問いかけた。
「そうですね。…どうです、あまり怖い感じしないでしょ?」
遠藤さんはお盆を胸に抱くように座って、はっと得心したように増渕を見やった。
「そうです、はい。…思えば。普通、家の中で人の姿が見えるなんて、ぞっとしそうな話なんですけど。子どもたちも楽しそうに幽霊だ!って騒いで、初めから。…わたしも、今はこの家に自分だけの筈なのになんかざわついて落ち着かないな、平日の昼間くらいちゃんと一人きりでくつろぎたいのにとか。そういう困り感で。…普通、霊がいるかもってなったらもっと怖いとかですよね、反応」
確かに。
ちょっと不審そうではあるが、依頼者の方にも怯えたような不安さが感じられない。そこが不思議といえば不思議かも。
増渕は落ち着き払って彼女に説明した。
「ここに何もいないって訳じゃないです。そういう意味では遠藤さんとお子さんの感覚は正しいんですけど。ただまぁ、あんまり悪いものじゃないんですね。だからといってこのままって訳にもいかないからちゃんと片付ける必要はありますが。…あの、下のお嬢さんですけど。『見える』って言ってる人影、いつも違う人物じゃないですか?同じ人を見かけるって聞いたことあります?」
「ああ、はい、はい。…確かに」
彼女は感じ入ったように深く頷く。わたしは思わず増渕の方をこっそり窺った。さすが、そんなことまでわかるんだ。でも、どうして?
増渕はわたしの反応にも気づいて、それとなくこちらにも向けて説明するように顔の向きを変えて言葉を継いだ。
「ここって流動してるんです。同じのがずっと留まってる感じではない。まあ、ぶっちゃけて言うと霊の通り道なんですよ。ここでちょっと足を止めてたりすると霊感のある人には視覚的に見える。でも、恨みを抱いて亡くなったような人や強い執着を持ってる霊はほとんどいないです。割に性質のいい霊道だから。すごい影響が今すぐ出るってものではないので」
「そんなの断言できるの?いろんな霊が通るなら、中には変な人やタイプの違う人もいておかしくないでしょ。生きてる人間だって普通に見える人の中にやばいのが混じってたりするじゃん。それとどう違うの?」
つい遠慮なく考えてることをそのまま口にする。出しゃばり過ぎかな、と思ったけど遠藤さんも同じような疑問を感じたみたいで増渕の答えをじっと待つ風だ。奴は感じよく微笑んで丁寧な口調で答えた。
「うん、そうですね。そう考えるのは無理ないですけど。…死んだあとの霊って案外、性質によって分断されてるところがあって。行く場所が違ってるっていうのかな…。だから、霊道ってのも結構その霊の性質によってはっきり分けられてます。性質のいい道にはあんまり変なのは入れないんですね。死後の世界って案外平等って訳じゃないんです」
「はぁ…」
わたしと遠藤さんは素直に納得する。じゃあ、性格や考え方が下劣な奴はちゃんとそういうとこに送られるってこと?
「むしろ考えようによっちゃ厳密に平等なのか。生前の地位とか財産とか関係なく人物の性質本位ですから。まあ、要は似た性質の霊同士は親和性が高いっていうか集まりやすい訳です。ここの道を進む人たちは割にあっさりしてますね。霊界に向かう途中の通り道って感じでさっさと通過していく感じです。…かといって、このままでいるのもね。家の中をかなり人通りのある道が突っ切ってる状態ですから。落ち着かないでしょ?」
「そうなんですよ」
遠藤さんは不意に素の表情を見せ、うんざりと肩を竦めてみせた。
「怖いとかいうより…、ざわざわして住みづらいなぁ、何とかしたいって感じで。静かな家に住みたいんです。すごい嫌な感じではないって確かに思ってたんですけど、だんだんこれはずっと我慢するにはきついなって思い始めて…。それでも人の姿を見てるのは下の子だけで、わたしと上の子は物音と気配だけだし。夫は何も感じないっていうし、もしかしたら気のせいというか思い込みって絶対ないとも限らないのかと思うと…」
一気に喋って喉が渇いたのか、冷めたお茶をひと息に飲み干してまた続けた。
「頭がおかしいって思われても困るのであんまり他人にする話でもないと思ってたんですけど。友達につい愚痴をこぼしたら、確かな人を知ってるから紹介してあげるって思いがけなく言われて。…除霊は基本的にやらない人だけど、霊視の能力は確かだから本当に家に何かいるのかどうか、どんな状態なのかは教えてくれると思う。その上で除霊が必要ならしかるべき人を更に紹介もしてくれるからって…。謝礼も明朗会計でオプションや後付けの上乗せもないよって言われたから。…あ、今日は特別に出張してもらったから、交通費やお手当は勿論負担しますけど」
増渕は穏やかに請け合った。
「実費で結構ですよ。…除霊は確かに受けないことが多いですが、ここは僕で大丈夫です。ちゃんと今日片付けていきますから、もう午後からはすっきり落ち着いてすごせると思います。多分、お子さんたちも学校から帰ったら空気変わった!って言うんじゃないかな」
「え、間仲さんに頼まなくていいの」
思わず尋ねる。そこにいる霊たちをどかすんだから、それだって『除霊』でしょ?
増渕は平然と答えた。
「こういう、『個』としての霊じゃなきゃ割に平気っていうか。特別な因縁とか執着のある奴と対峙するのはちょっと、苦手分野なんだけど。これは道筋を変えればいいだけだから。全然僕でもできます。この家にかからないよう少しずらすだけ、だから。…うん、これで、大丈夫。もう落ち着いて暮らせると思いますよ」
「え、もう終わったの?」
わたしの素っ頓狂な声に遠藤さんも腰を浮かして部屋の中を慌てて見回した。
「言われてみれば。…何となく、静かな…、ような」
増渕は涼しい顔で一口お茶を飲んだ。
「我々が帰ったらもっと、はっきり違いがわかると思いますけど。この家を迂回して普通に道路を歩いてもらうようにしました。まあ、霊道自体は近所をそのまま通ってるんで、お嬢さんとか霊感のある方は時々家の外で見ちゃうかもしれないですけど。多分、そんな変なものではない筈なので気にせず無視して構わないって伝えておいて下さい。…あんまり害はないって言っても他人がすたすた家の中を常に通過していくってのはきついものですよね。長く続くと多分、神経に障ったと思います。早めに片付けられてよかったですね」
鮮やか。
遠藤さんはお盆をぎゅっと抱きしめ、感動の面持ちで増渕を見つめた。
「ありがとうございます。まさか、こんな簡単にあっさりと…。今日一日で解決は無理かなと思ってました。これで今夜からゆっくり眠れます。…あの、寝てる時も感じるんですよ、人の気配を。それで夜中に目が覚めちゃったりしてたもんですから」
奴はああ、と笑って頷いた。
「一階の奥の部屋ですか?寝室。…そこをがっちり横切ってましたからね、道が。よかったですね、あんまり変な人いなくて。みんな、割とちらっと見ていくくらいで通過していってくれたみたいです。でもまあ、通り道の脇で寝てる方はたまったもんじゃないですよね。…とりあえず、片付いてよかったです。もう大丈夫ですよ」
「予定通り半日で終わってよかった。まぁ、依頼を受けた時からそんなに大変なケースじゃないことは大体わかってはいたんですけど。…物事は見た目通りじゃないことも多いから絶対に油断はするな、って間仲さんに口酸っぱくして言われてるから」
「見た目通り、じゃない?」
お昼を上がっていってと勧めてくれたけど、午後から予約が入ってますから、と有り難く辞退して、正午よりだいぶ早く遠藤宅を退出する。肩の荷が下りて口のほぐれた増渕は、無事に依頼を解決した安堵もあってか気安い様子で駐車してある車に向かって歩きつつあれこれ教えてくれた。
「一応、これが本業でもあるし。高校の時くらいから人の相談を受け始めてそれなりに経験を積んできたから、今では依頼人が部屋に入ってきたのを見るだけでもああ、って相談内容の難易度が大体わかるんです。でも間仲さんが言うには、そのくらいからが危ないんだって」
「そうなの?」
熱がこもってとても入れない車のドアを全開にして冷房をフル回転で、しばし中の空気が入れ替わるのを外で待つ。立ち話で軽く雑談になってるけど、よく考えると結構大変な話なのかも。
増渕はあくまで何でもないようにあっさりした調子で説明を続けた。
「見ただけで大抵のものはある程度わかった気になるというか。最初から筋が読めてる、これはもう経験したからって思い始めるとつい自分の感覚を過信しがちになるから…。本当に悪意のあるやつは表面を繕って何でもないものみたいに見せかけることもしてきますからね。ダミーの原因を張りぼてみたいに置いて、その陰に隠れたりもするんです。表面だけ見てわかった気になるとそういうのにあっさりと引っかかる。ダミーを片付けて、解決した気になって終わらせちゃうんです。そうすると本星はそのままだから、ほとぼりが冷めるとまた同じことの繰り返しかもっと悪くなってぶり返してくる」
わたしは思わず増渕をまじまじと見た。まるで普通のことみたいに平然と言ってるけど。結構怖い話じゃないか?
「そんなのに当たったことあるんだ」
「自分のとこに来た依頼では今のとこそこまでは…。間仲さんのお手伝いで関わったものでは何回かあります。向こうのやり口もそれはそれは、洗練されてるというか考え抜かれてて驚嘆しますね。あんなの見ちゃうと…、実際、勉強になります」
「でも、そんなの必ず見抜けるとは限らないでしょ。本当に力のあるやつなら向こうが上手ってこともないとは言えないし。最後まで正体が見抜けなくて太刀打ちできないことってないの?」
それで、下手に関わって自分が依頼人の巻き添えを食って変な因縁を背負い込まないとは限らない。そう考えると結構リスキーというか、危ない仕事なんじゃないのか?
増渕はふと物思わしげにわたしを見て、少し考えるように視線を泳がせてつと車に軽く寄りかかり、反射的にあち、と小さく呟いて身を引いた。やっぱり車体は夏の日光を浴びてかんかんに熱を帯びてるようだ。
「だから、慎重になるしかないんです。絶対に力が及ばないものはそのことを見極めて初めから関わらないっていうのも一つの大事な選択肢ですから。下手に手を出して自分も依頼人も酷いことになったら元も子もないし。救えるのはここまで、って割り切りもこれからはできるようにならないといけない。今は自分一人の身体でもないから尚のこと…。僕にも守るものがありますから。これまでよりしっかり肚を括って本気でかからないと」
「え。…増渕、結婚したの」
がん、と頭を殴られた気がして思わず顔を上げた。奴は不審げにわたしを見返して何か言いかけたけど、そこに何を見て取ったのかちょっと微妙に表情を変えて面映そうに歯切れ悪くごにょごにょとなった。
「いえあの。…そんなわけないでしょ。ちゃんと考えて下さいよ、住居と仕事場一緒なんですよ。結婚したらタミさんにも丸わかりの筈じゃないですか。…そうじゃなくて、あの。事務所も俺一人でやってた時とは話が違うから。…一緒に働いてくれてる人も巻き込みかねないし」
「…ああ」
わかったような気になって素直に納得しかけてふと理解する。
それって、わたしのことか。
奴はこっちを見ずに事実を説明する、といった淡白な口調でややぶっきら棒に続けた。
「だから、今までより慎重になるのは当然のことだし。なるべく最初からこっちの正体は晒さずに、手の内見せずに遠隔からざっと前もって相手を見て。裏に何か隠れてないか、額面通りじゃないんじゃないかととにかく疑ってかかるのが基本です。疑い深くないとやってられない…。自分のところにくる依頼は今のところ筋がいいっていうか、あまり変な悪意のあるやつが関わってるものは少ないんですけど。それでも世の中に絶対ってないから。準備は常に怠らないようにしてます。…あとは、経験値を上げることですね」
「ああ。…それ、言ってたね」
これからは少しずつ仕事の幅を広げたいって。それで、今までとは違う依頼も受けるようにしていくつもりだって話だったよな。
そろそろどうかな、と両翼を広げたようにドア全開の車の中に少し顔を突っ込んでハンドルを触って見てる。ちょっと触れて顔をしかめて引っ込め、まだ少し熱いかも、と口の中で呟いた。
「今の事務所の状態だとそこまでマックスの力で対抗しないといけないくらいすごいのはそうそう来ないんですけど。そもそも除霊は受けてないし。やばそうだ、と思うと早めに間仲さんに相談するようにしてるから自分だけでで抱えなきゃいけないこともないんですけど…。でも、急に一人きりで対峙する羽目になっても対応できるよう、力量は上げておかないといけないから。…車って、スピードメーター見るとわかるけど、二百キロ以上出るようになってるじゃないですか、速度」
「うん。…確かに」
いきなり話が飛ぶ。目線が車内に向けられたままだからそこから連想が湧いたに違いない。
「実際には二百キロ出せる道なんか国内にはないし。ドイツのアウトバーンなんかだと速度無制限の道があるけど、そこでも奨励されてる速度は百三十キロくらいらしいし。基本まず出すことのないスピードですよね。だったら車って制限速度ぎりぎり、せいぜい百キロ超出せるように設定しとけばスピード違反もなくなるんじゃないの?って素人頭では考えがちなんですけど」
「ああ、そりゃそうだね」
ちょっと納得する。合理的に考えたらそうかも。
奴はエアコンの設定を弄りながらそろそろ、いいかな、と独りごちてわたしの方を窺った。わたしは助手席側に回って軽く身をかがめて中の様子を確かめる。シートに触れ、少し考えて頷いた。
「まだちょっと熱いけど。まあこれくらいは。走ってるうちにもっとエアコン効いてくると思うし」
「そしたら、そろそろ出ましょうか。…それで、じゃあ車って制限速度くらい出るように作っとけばいいのかっていうとそういう訳にはいかないんです。それだといざという時、危険回避しなきゃいけないぎりぎりの場面で全力で対応できないので。思いきり踏み込んで、いっぱいにハンドルを切って避ける必要がある時に車のポテンシャルが普段走ってる状態が限界だと間に合わないんですね。だから車って、普段使わないくらいのレベルまで余裕しろがあるように作ってあるんです、最初から」
「へえ」
無駄と思いつつ車の中をぱたぱた手で仰ぎながら結構感心する。これまで考えたこともなかったけど。ちゃんとそういう理由があるんだ。
奴は運転席に身体を押し込みつつちょっと顔をしかめて、頭の中の考えを何とか形にしようとするようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「それと同じで。普段の仕事で滅多に使わなくても、いざ必要な時には二百キロ以上出せるよう自分のポテンシャルを上げておくようにしておかないと。だから、いろいろ経験を積んで自分の力を上げておきたいって最近は思うようになりました。今までは自分だけだし、もし面倒なことになってもそこからでも何とかなるかなってずぼらな考えがないこともなかったんですが。…それで一緒にいるタミさんに何かあったら取り返しがつかないし。普段から備えておかないと、いざという時守れないから。ちゃんとそこは本気出そうって」
「ううん…、そうかぁ…」
何とも答えようがなく唸る。正面切って言われちゃうと。それはそれで。…でもまあ。
「そうだよね、自分の身も守れないんだもんなわたし。何となく雰囲気感じ取れるようになったくらいじゃ零感とあんま変わんないし。ガードも増渕に丸投げじゃ、負担かけるね」
二人してシートの熱さに顔をしかめつつ何とか乗り込む。ドアを閉めながら増渕が素早く否定した。
「そんなこと。…自分以外の人に一緒に働いてもらうって決めた時からそれは織り込み済みですから。最初はそれくらいは何とかなるんじゃないかな、って少し気楽に考えてたこともあったんですけど。タミさんがうちに来て、ずっとそばにいて見てるうちに…、なんか、人ひとり本気で守ろうと思ったら生半可な気持ちじゃ駄目なんだなって。そういう意識がリアルに湧いてきて…。だから、俺が勝手に思い込んでることなんです。タミさんは何も気にする必要ないですよ」
訥々と増渕の口から告げられる言葉に胸のあたりがふわふわする。なんか、これで何も感じるなって言われても、さ。
まるで、何か大切な気持ちでも打ち明けられてるみたいじゃん…。
どんな相槌を返したらいいのかわからないまま、助手席に身を滑り込ませて俯いてシートベルトを締めようと手探りでさがす。多分、この場を何とか無難に乗り切ろうと上の空だったんだと思う。つい無造作に金具をがっしり手のひらで掴んだ。…うっ。
「わっ、嘘、熱っ…!」
素っ頓狂な声で叫んで手を離す。運転席から増渕が身を乗り出して慌てた声で尋ねた。
「大丈夫ですか?金属部分はすぐには冷めないから…、注意すればよかったですね、プラの部分を掴んでって」
「いや…、まぁ。考えればわかることだから」
子どもじゃあるまいし。そこまで先回りしていちいち気遣ってもらうのも。
増渕は心配そうに眉をひそめて手を伸ばしてきて、わたしのその手首を掴んで遠慮なく引き寄せた。…心臓がごっとん、と大きな音を立ててひっくり返る。
ちょっと、これ。…やばい。
距離もなんか。すごい、近い。…んですけど。
わたしの内心のどぎまぎには全く構わず、奴は確かめるように自分の目の前ににわたしの手のひらを引き寄せて真剣に観察した。
「…赤くなってるけど。軽く火傷になっちゃってるかな。さっき車に乗る前、自販機か何かでやっぱ冷たい飲み物買っとけばよかったですね。何か冷やすものがないと…」
そう呟いて自分の手のひらでしっかりとわたしの手を包み込んだ。少し汗ばんだのが乾いて、表面が冷んやり感じる増渕の手…。
「どうですか?少しはいい?」
生真面目な表情を浮かべてわたしの顔を覗き込む。目の周りと耳が熱い。多分不意打ちで何かが隠しようもなく露わになってたんだと思う。わたしと至近距離で眼差しがかち合った。
不意に、すぐに手を放しては駄目、とわたしの中の何かが囁いた。思ってたより大きなその手を反射的にしっかりと掴んでしまった。目線が奴の目から離れない。いっぱいに見開いているその細い隙間からみて取れる穏やかな茶色の眼を見つめた。
間近でみると。…ガラス玉のようで綺麗。人間の目って、こんなに近くで真剣に観察したことなかった…。
奴の頬が面白いようにみるみるうちに真っ赤になった。慌ててぱっと手を引っ込められる。
「あの、その。…すみません。図々しくこんな…、触ったりして。…断じて変な気持ちじゃ…」
可哀想なくらいしどろもどろになられてこっちもいたたまれない。身体を縮めてちょっと顔を窓の外に向けて逸らした。
「それは。…わかってるし、全然。疑ってないよ」
変な気持ちでこんなこと、こいつに限ってするわけない。それは充分承知してる。
「あの。…車、出しますね。その方が、その。…エアコンの効きも早いし。…途中でコンビニ、寄りましょうか。何か冷たいもの買って…。それで冷やせば。多分、大丈夫かなと」
妙に早口にまくし立て、覚束ない手つきでエンジンをかけた。動揺がもろに顔に出てて、運転に影響ないかなと一瞬心の中で怯む。まぁ、仮に何かあったとしてもその要因を作ったのはわたし自身だから自業自得としか言いようがないが…。
それでもナビをちら見しながら運転を続けるうちに増渕は次第に自分を取り戻していった。その顔に浮かぶ笑顔も自然になり、何でもない普通の話題も出始めて車内はすっかりいつもの事務所の雰囲気を取り戻してしまった。わたしは平静を装って穏やかに受け答えしつつ、表には出さずとも内心でかっくりと脱力した。
こんなこと言うのも何だけど。…今のあれ、わたしとしては。結構思いきったというか。ちょっと自分でもあり得ないほど大胆に、わかりやすく態度に表したつもりなんだけど…。
駆け引きなんかしたことない。男の子に自分の気持ちを伝えようなんて人生で考えたこと一度もなかった。そもそも誰かに伝えるべき思いなんか欠片も抱いたことがない。
そんなわたしでも。手をしっかり握られて引き寄せられ、目と目が吸い寄せられるように合ったその時、本能が今だよ!と叫んだのを聞いたのに。どうしていいかわからないなりに、ぎゅっと手を握って眼差しになけなしの力を込めたのに。
あれで何にも引き出せないなら。…わたし、これからこいつに対してどんな風に当たっていけばいいんだろ?
恋愛経験ゼロのこれまでの経歴が重くのしかかる。増渕の中にわたしに対する気持ちが全くないとも思えないのに。
力なく助手席の背もたれに背中を埋めて考える。それを陽の下に引きずり出して露わにする方法が。…全くもって、天からわからない…。
《続》




