第5章 タミルちゃんは受け入れない
「…う、っ」
ある日の朝、事務所に顔を出したときのこと。いつもと同じ、変わらない動作でドアチャイムを鳴らし、事務所の住人でもある所長の増渕に一応到着を知らせる。中から返ってきた了解の反応を確認してから取り出した自分の鍵でドアを開けて半身を入れた瞬間、わたしは全身をがちっと凍らせた。
…なに、これ?
そのまま入室して平気なもんなのかどうか。しばしそこで佇んだまま息を詰めて思案する。何がどう、と問われても説明は難しいが。
昨夜、何事もなく辞したときの普段の事務所の空気とどういうわけか全然違っているんだけど。視界に映る部屋の内部は見える範囲についてはなんの変化も見当たらない。匂いや、色合いがおかしいってこともない。
なのにこの違和感。なんていうか、ゼリー状に部屋の中の空気が固まっちゃったみたい。だから一歩入るとどう呼吸していいかもわからないし、足取りも重くて進まない。身のこなし方がよくわかんないレベルだ。
てか、あいつ。よくこんな部屋の中に平気でいられるな。さっきインターフォンに応対してたから、中にいるのは間違いないと思うんだけど。
「…あ、タミさん。おはようございます」
いつまで経っても入ってこないわたしを心配したのか、増渕が様子を見に奥の部屋から姿を現した。こちらが強張った顔を向けてこれ、何?と問いかける間もなく、さっと奴の表情が変化するのが見て取れた。
「そか。…タミさんにもやっぱ、わかります?これ」
「わかるよ、そりゃ。てか、…何?これ」
奴は一瞬目を伏せて黙り込み、しばしの間があってからやおら顔を上げた。我に返ったようにきっぱりと答える。
「何って、置き土産です。昨日のクライアントの方の。サイコメトリクスの依頼があったでしょ、変な外国産の木彫りの。民芸品ぽいやつ」
「ああ、はいはい。お友達のお土産でしたっけ。その人とどうしても連絡がつかない、どうしてるかだけでも知りたいって」
頷きながら無意識に靴を脱ぎ、普段通りに上がり込んでしまい気づく。なんか、さっきともう何かが違っている。急速に身体が楽になった。普通に動けるし、息苦しくもない。
思わず奴の方に目を向けたわたしの反応を見て増渕はこともなげに説明した。
「ちょっと、タミさんの周りをガードしました。応急処置的なものですけど。これでしばらく大丈夫だと思います」
ほんとだ、もう平気で足を進めてどんどん入っていける。わたしは奴の後についてちょこちょこ部屋の奥に進みつつ重ねて尋ねた。
「それって、以前みたいに守りの人をつけたとか?」
「いやそれよりももっと物理的な感じですね。タミさんの周囲にシールドを張って真空カプセルに入れたような感覚です、言うなれば。そうすれば悪いものは近づけないので」
「てことは。…やっぱ、何かいるの、今?ここに」
リビングに到達して、振り向いた増渕はちょっと肩を竦めた。
「まあ、そうですね。あの彫刻、なんか製作した人が変な念を込めたみたいで。雑然としたものも入りやすくなってたし、単なるお土産にしては厄介な代物だったんです。あれをくれたお友達に他意はなかったみたいだし、その人が今は海外で暮らしてることも見てわかったのでそれはちゃんとクライアントさんに伝えることはできたんですけど」
わたしに座るよう促し、自分は立ったまま話を続ける。
「モノとしてあんまりにもやばかったんで、綺麗にするからって言ってとりあえずお預かりしたんです。…それで、昨日タミさんも帰ったあとに改めて開けてみたらこれがもう。ぶわっと一気に噴き出してきて、事務所中に散らばっちゃって…完全に片付くには数日はかかりそうな感じですね、残念ながら」
落ち着き払ってキッチンに入り、緑茶を淹れ始めた奴に対してわたしは追うように問いかけた。
「ちょっと待ってよ。そんな変なもんがいる場所で数日間仕事しろって?あんたは自分のこと守れるだろうからそりゃ構わないんだろうけどさ。こっちは丸腰のど素人なのに、なんでそんな状態で普通に過ごせると思ったのよ、ここで」
奴は肩をすぼめてあっさり白状した。
「だって、タミさんわかると思わなかったんですよ、これ。零感だって公言しまくってたじゃないですか?それに、割と最初の頃何回かこういう状態なことあったんですけど。今までいつもタミさん、何も感じないらしく丸っきり平然としてたから。…今回はわかるって全然、考えもしなかったんです…」
ちょっとだけ最後、気弱に言い淀む増渕に対してわたしはそれ以上責める気も失せて思わず軽く唸った。
「…むぅ」
そう言われちゃうと。確かに、当時はそうだったのかもしれないなとは思える。だとしたら、やっぱり今のわたしは零感じゃないのか。
あんなミステリーツアー、思いの外本気で効果が出るもんなのかな。半分以上遊びのつもりでいたんだけど。
「これってほとんどの人、普通にわかるもん?結構強いやつなの?」
腕を胸の前で組んで顎で部屋の中を示すと、増渕は大袈裟に首を横にぶんぶんと大きく振った。
「そんな、誰でもわかるってレベルではないですよ。だからまぁ、タミさんくらいの霊感なら黙ってれば気がつかないかなって…。あ、でも、本当にそんな言うほど悪いもんじゃないんです。接したら必ず影響を受けるってこともないですけど」
わたしの顔色を見て慌てて弁解する。
「実害以上にむしろ、不快感の方が問題な奴かな。だから感じさえしなきゃ気にするほどではなかったんですけどね。ここにいるものがタミさんに悪さしないように僕も常にチェックはしてるし。まあ、虫を追っ払うくらいの感覚で」
しっしっと。手で。
「ただ確かに、『虫』の姿が見えて音が聞こえてたら耐え難いレベルかも。大した毒とかはないんだけど気持ち悪いよねって感じです。だからタミさんをカプセルに入れて避難させるって物理的な方法を取りましたけど。…でも、本当に少し前ならこのくらいのが事務所にいても全く平然としてたんだけどなぁ。ずいぶん霊感成長してますね、どうやら」
感嘆したように呟きながら淹れたてのお茶をわたしの前に置いてくれる増渕。余談だが湯呑みは奴が選んだなかなかセンスのいい、薄手の小ぶりのものだ。増渕と二人ぶん揃いだけど当然夫婦茶碗じゃない。
わたしはその台詞に何となく納得するものを感じてつい頷いた。そうか、やっぱりね。
「霊感って成長するもんなんだ」
「それはそうです。普通のいろんな能力や感覚と一緒ですよ。使ってれば伸びてリファインされるし、逆に閉じて放置すれば錆びついて鈍ります。人間の他の感覚だってそうでしょ、味覚とか音感とか。運動能力だって」
「ああ…、なるほど」
ちょっと、実感としてはわからなくもない。わたしは自分のお茶を持って向かいに腰かけた増渕に思わず打ち明けた。
「実は、なんだけど。最近思うところあって、ちょっといろんなとこを回って見てるんだ。嫌な感じを受けるってとことか、逆に気持ちのいい場所とかを教えてもらって」
ふと、誰に?って話になるなと思い、慌てて自分からそれを先制攻撃気味に持ち出す。
「あの、間仲さんとこの啓太…くんが。こういうとこ面白いよって場所をいくつか教えてくれて。試しに行ってみたら案外自分でも何か感じるものがあるって気がついて。ちょっと楽しくなっちゃって、それ以来いろいろ実地に見て確かめてるの」
啓太と一緒に、ってことは省いた。それ以外は別に嘘ついてるような部分はない。内心でそう自分に言い聞かせ、まっすぐ顔を上げて奴を見る。
増渕はわたしのそこはかとない疚しさには気づかない様子で拘りなくお茶を口にし、頷いた。
「ああ、なるほどね。そういうのも影響してるのかもしれません。霊的な空気の溜まってる場所ってよくも悪くも感じとりやすいから。トレーニングになるんでしょうね、そういうのが」
「やっぱそっか」
何故かちょっと嬉しくなる。努力の甲斐あって伸びた、みたいに受け取っていい気になるわたし。
だけど増渕はあっさりと付け加えた。
「でも、それだけがタミさんの霊感が発達した理由とは限らないかも。なんていうか、理屈ははっきりしないんですけど。どういうわけか霊感って『うつる』ことが多いです。つまり、霊感がないって言ってる人も、ある人のそばにいて常に接してるとだんだん自分もある程度感じるようになるのはよくあることですね」
「うぇ。…そうなの?」
ちょっとがっかり。自力で鍛えて成長したわけじゃなくて、何かの病気みたいに感染しただけか。増渕やここの顧客の人たちから。
わたしの落胆があからさまだったみたいで、増渕は気の毒に感じたのかちょっと笑って取りなすように続けた。
「まぁ…、それもやっぱり、無意識に自分を鍛えてるところもあるのかも。身近な人が見える、わかるって言ってるものを一緒に理解しようとか共有しようって何処かで感じてることの表れなのかもしれないし。そう考えてるうちにきっと、感覚が少しずつ呼び覚まされていくんでしょうね。それにだいいち霊感なんか本来誰にでもあるものですから」
奴はわけもなく自分の湯呑みの表面を覗き込みつつ呟いた。
「意識して使うようにしていればセンサーがちゃんと機能し始めて能力が向上していくのは当然かもしれません。だから、どっちがってこともなく、両方が重なりあってタミさんの霊感を高めたのかも。普段のここでの仕事と、そうやっていろんな場所を見て経験を積むことと」
「そうか、無意味ってわけじゃないんだ、あれも」
やっぱりちょっと嬉しくなる。機嫌がよくなったので、わたしが増渕の世界を理解して共有したがってるとさり気なく言われたことについては不問にすることにした。
絶対そんなつもりはない!ってここであえて言い張るほど子どもではない。それに、意識はしてないけどそういう面がゼロとは言えないかも。
増渕の仕事ぶりを普段から目にして、顧客に対しての説得力のある説明を浴びるように耳にして。いつしかそういう世界があることは自明って感覚になってたのかもしれない。自分の目には見えないだけで、それは『ある』。だったら、少しでも感じ取れてもおかしくはないんじゃない、って自然と思うようになってたんだろう。
そういういくつもの変化が相互的に影響して、わたしの霊感もちょっとは開発されてきたのかもしれないな。
「まぁ、多少感じるようになっても思えば何の役にも立たないんだけど。今だって、うわぁ嫌だなとは思ったけど、その原因もわかんないわけだし。相手が本当に害を及ぼすもんなのか不快な虫程度のものなのかも判別つかないんじゃさ。中途半端なことこの上ないよね」
わたしが自嘲気味に慨嘆すると、向かいに座った増渕はまっすぐわたしを見返して生真面目に首を横に振った。
「そんなことないです。やっぱり、センサーは機能してくれた方がありがたいですよ。気持ち悪い、怖いと感じたらとりあえず避けたり踏み止まってくれるでしょ。それがどの程度有害かはともかく、危険なものを察知してくれるだけでもだいぶ助かります。何も感じてないとずかずか平気で踏み込んじゃいますからね。いつも何処でもタミさんを見守ってるってわけにもいかないから」
「ひとのこと暴走機関車みたいに言うな」
わたしはむくれて言い返す。霊感センサーが働いてない時のわたしのこと、そういう風に思われていたのか。
増渕はちょっと笑って、すっかり冷めたお茶をくいと飲み干してからおもむろに考え深げに口にした。
「まあでも、正直なところちょっと心配ではあります。何となく嫌な感じを受けるところとかわけもなく怖いところを巡るって一口に言っても。普通の人が足を踏み入れられる場所の範囲ならそんなにとんでもないことはないのかなと思うけど…」
「誰でも行けるようなとこばっかだよ。普通に参拝できる神社とかお寺。あとは十字路とか歩道橋とか。道端の祠なんかも」
ちょっと言い訳気味に説明する。
「あんなんで悪い影響が出るんだったらさ。普通にそこを通る人とかでも霊障が出ちゃうんじゃない?そしたらもっと話題になったり、騒がれそうなもんだと思うけど」
「でも、大抵のものは相性とかも重要ですから。誰でも反応するってことも案外なくて、みんなが平気な場所でも自分だけ悪影響を受けるなんて全然ある話ですし。そもそもタミさん程度でも嫌な感じを受けるってそれなりに強い可能性が高いですよね」
『タミさん程度』って思いきり言ったな。
別にこいつに霊能力が高いって思われたいとははなから思ってないが。それでもそこはかとなく気分悪い。憮然となるわたしに構わず奴は淡々と言い募った。
「嫌な感じがするってつまり、アラームが鳴ってるってことですからね。警告を受けてるわけだから、危険があるって意味だと素直にちゃんと受け取って下さい。そういう感覚を受けたら長居は無用ですし、どういうとこに行く予定か事前に一応僕に確認取ってくれたら尚いいです。これからここに行くんだけど大丈夫かとか」
「あー…、まぁね」
わたしは腕組みして唸った。そうね、わざわざあえて気分悪くなる場所に自分から行こうってんだから。
変なもの拾ってきてもおかしくはないのか…。
「明らかにやばくて知られてるとこ、ってのも都内には結構ありますから。普通にみんな通るとこでも早足で遠ざかって欲しい場所いくつもありますよ。絶対近づかないでくれって思うときはそう言いますし。でなくてもせめて守り強化するとか前もって処置しますから。…できたら、行く前に目的地知らせて下さい。LINEでいいです」
「う…、はい」
わたしはちょっと反省交じりに肩を竦め、渋々頷いた。
まあ、理屈はわかる。考えてみればわたしたちのやってることって、接近すると激しくアラームが鳴り響くとこに面白がって近づいてく度胸試しの小学生みたいなもんか。そういう馬鹿な真似を咎めるでもなく、せめて事前に相談してくれって言う奴の配慮をうるさがるより有り難く思わなきゃいけないのかも。
わたしは冷たくなってもちゃんと美味しく感じられるお茶をぐっと飲み干し、立ち上がりながらため息をついて奴に請け合った。
「わっ、…かりました。ちゃんとどこ行くつもりか前もって伝えます。これからは」
「えっ、そんなこともいちいちあいつに教えなきゃ駄目なの?」
どういうわけかその話をすると、啓太はわたしと並んで歩きつつ結構本気で顔をしかめた。
軽い気持ちでこの話題を持ち出したわたしはほんの少し内心で戸惑う。そんな抵抗感じるほどのことかな。わたしとしてはまあそりゃそうだな、と納得するくらいの受け取り方だったんだけど。
「だって、考えてみたらさ。やな感じがするって最初からわかってるとこに霊能者も連れずに行くんだから、物好きにも。なんかへんなもん拾って帰ったら結局増渕や間仲さんに迷惑かけることになるって決まり切ってるじゃん。最悪のポイントは避けて欲しいから事前に申請してって言われても無理ないと思うけど」
その日に行った事故の多い大きな交差点から近くのお寺周辺までたらたらと歩く。ちなみにその場所については、
「ああ、そこですかぁ…。うーん、事故も多いし変な噂も聞きますけど。まあ、普通に車とかに気をつけてくれれば大丈夫かな?家に帰っても変な感じがするようなら早めに連絡下さいね。夜中でもいつでも遠慮なく相談してくれて構いませんから」
と、ちょっと思案されつつも一応問題なく提案は通過した。増渕からは特別危険なポイントとして認識されてはいないみたいだ。
交差点から少し先に行ったところに目立たない横道がある。車は一台がやっとですれ違いはきついくらいの幅だ。ここに変な筋があるみたいで、調べてみたら夜にすうっと白い影が通ったりするらしいよ、と啓太に教えられてちょっと興味を持ってしまった。わたしも彼も『視る』方は未だに全然だから、正直一回くらいそれらしいものをこの目で見てみたいっていう気持ちは互いにある。
「ちょっとぞくっとはするね。…さっきまで暑かったのにこの道、妙に涼しいかも」
「まぁ、気分の持ちようかもしれないし。そこは難しいとこだね…」
そんなことを言い交わしながらお寺の山門に近づく。ひと気がなくてあまりいい感じはしないけど。
何か影っぽいものを見てみたいって意識があるから、つい約束が夜になりがちだ。さすがによほど霊感が強くないと昼間っから目視するのは無理かなって気がして。
しばらくお寺の周辺をぐるぐる回ったあと、何も見えないことを確認して諦めてその場を離れた。まあ、そう簡単に何か収穫があると期待してたわけじゃないから。
「あの交差点で変な事故が多いのはやっぱり偶然じゃないだろうって。割とその手の職業の人たちの間では有名なとこらしいよ。この道が変な感じがするって啓太くんが言ったのもどんぴしゃで、増渕も前に近くに来た時にお寺とここが筋で繋がってるって感じたんだって。事故に遭った人たちがお寺に向かうからなのか、それとも何か因縁があってお寺が土地に影響を与えてるのかまでは腰据えて本気で視てみないとわからないって言われちゃったけど」
その場からゆっくりと遠ざかりながら、もっと人通りの多い駅の方向を目指す。ちょっと駅から離れた幹線道路沿いなので、結構歩く必要がある。
いつも鷹揚な性格からは意外だが、啓太はその台詞を聞くなりちょっと神経質な感じに眉をひそめた。
「そうやって、あいつにいちいち全部説明されるのもさ。なんだか萎えるなぁ。それがちゃんとした正解なのかもしれないけど…。そういう風に、先に解説してもらいたいわけじゃないんだよなぁ。自分たちであれこれ考えて推測したり想像拡げたりするのが楽しみってもんじゃない?こういうのはさ」
不服げにそう言われて肩を竦める。そう言いたい気持ちもわからないではないけど。
「なんか…、ごめんね。わたし、余計なことしたかな」
「そうじゃないよ。タミちゃん…、タミルさんは、悪くないけど。何にも」
急に呼び方を変えられて妙にむず痒い。なんでまた急に、さん付け?
「ちょっと、近道だから。この公園の中、通っていこうか」
そんなに大きそうな公園ではないけど。夜の灯りの少ない黒々とした空間に少し怯む。正直、あんまり足は進まない。
「なんか…、怖くない?やっぱり、外側回って行こうよ」
「だいじょぶ、俺がついてるじゃん。絶対怖い目になんか遭わせないよ。何があってもちゃんと守るし。…それとも、俺のこと怖い?信用できないかな」
ちょっと気弱そうに付け足される最後の台詞に面喰らう。いつも楽天的な前向きさでお気楽、軽々と調子のいい人って印象だから。なんか、勝手が違う。
「そんなこと思わないよ、全然」
「ならいいでしょ。絶対ここ突っ切った方が早く駅に着くよ。女の子帰すのあんまり遅くなってもいけないもんね」
その時はそう言ってたのに。とあとで思ってもしょうがないけど。やっぱり誰が相手でも油断したわたしが悪いというより他ないのかな。
彼の隣でやや身を縮めながらところどころ暗闇の濃い夜の公園に足を踏み入れた。いい気分とはお世辞にも言えない。
そんなわたしのびびった様子に啓太はちょっと笑って腕を差し出した。
「やっぱ怖い?掴まる、ここに?」
「いやそこまでは。…大丈夫、子どもじゃないし。ちゃんと歩けるよ、自分で」
断って、でも心なしか寄り添って歩く。そんな雰囲気がやっぱりいけなかったのかもしれない。
啓太はやや目を伏せて、ちょっと思い切ったように切り出した。
「…あいつ、だけどさ。すごくタミルさんのことに口出してくるよね。世話焼きも甲斐甲斐しいしさ。君は奴のことなんとも思ってないの、わかってるけど。…あんまり油断しない方がいいと思うよ。ああ見えて結構本気だと思う、タミルさんのこと」
「はぅ?…そんなこと」
唐突に思いつめたように言い出され、思わず目を剥く。てか、この人。なに言ってんの、いきなり?
内心で何か溜めてたものがあったのか、堰を切ったように話し始める。
「だってさ。休みの日にプライベートで出かける場所もちゃんと報告しろとか。霊能者としてのアドバイスみたいに言ってるけど、本当のところは干渉したいだけなんじゃないの?大体、いつも君のこと大事そうにじっと見つめてるしさ。俺のことマジで鬱陶しい、邪魔だと考えてるの見え見えだし。やけに優しげな声で『タミさん、タミさん』って。野菊の墓か、っての。もうまるっきり恋する男じゃんあんなの」
「…野菊?墓、なに?」
ぼんやりと。なんかそんな小説か映画なんかあったな。内容までは全然わからない。なんでそんなんが突然出てくるのか。
「野菊の墓、読んだことない?今時ないか。民さんは野菊のようなひとだ、ってやつ。歳下の男が歳上の幼馴染の女の子に恋をするんだよ。周囲に反対されて引き裂かれて彼女は他所の家に嫁にいってそこで死んじゃうんだけどさ」
「縁起でもないなぁ…」
ちょっとげんなりする。何故に夜の薄暗い公園でそんな話題?
啓太はさすがにちょっと慌てたように急いで弁解した。
「いやタミルさんがその女の子だってことじゃなくて。君はその、野菊ってよりかはもっと華やかで、明るくて…、真っ赤な薔薇とか。大輪のダリアっていうか。全然…、そんなんじゃ。…むしろ、男の主人公の方が悠の奴そっくりだって話だよ。恋してるくせに碌に行動も起こせずに黙って思わせぶりにそばにいるだけでさ。結局好きな子を幸せにもしてあげられないんじゃ…。あの、言っとくけど。俺は違うよ。あんなどうしたいんだか自分の意思もはっきりできないような奴とは。…タミルさん」
不意に公園の真ん中で立ち止まる。すたすた先に行くわけにもいかず、わたしも必然的に足を止めざるを得ない。渋々振り向きつつ、早くこんなところは抜けたいんだけどなって考えが頭の端を掠めた。
わたしはつくづく甘かった。不穏な空気にもっと早く気づくべきだったのに。
啓太の手のひらががしっとわたしの上腕を掴み、思わず心臓が跳ね上がる。…いきなり、何?
「あの、俺。…君のこと」
わたしを掴んでいる手のひらが熱い。反射的に身体を縮ませるのを宥めるようにそっともう片方の手を肩の上に置いた。
啓太と正対するような形になる。なんか…、いくらなんでも。距離が、近い。
彼は急かされるように早口で喋り出した。
「あの、タミルさんは。俺なんかよりずっと大人で、余裕があって。いろんな経験いっぱいしてて、もう男なんかうんざり、そんなもの必要ないって思ってるのはわかってるけど」
「…は」
きつく掴まれてる手の感触とか切羽詰まった表情を浮かべた顔がじりじりと迫ってくるとか、いろいろ気になって台詞までちゃんと頭に入ってはいかないが。
それでもところどころ引っかかる。なんか、経験豊富みたいに言われなかったか?何故か。
後半の『うんざり』はまあいいとしても…。
彼はわたしに介入させることなく素早く言葉を継いだ。
「あなたから見たら俺なんか。女の子とふらふら遊んでるしょうもないガキと思われても仕方ないんだけど。そんなのは、もう…、止めたんだ。子どもっぽいことしてないで、ちゃんと一人のひとのことだけにするよ。もうその人のことしか考えられない。…こんなの、初めてなんだ。俺…」
「なんの話…」
わたしの反応は特に期待されてはいないみたいだった。ただ自分の思いの丈を一気にぶちまけたいだけらしい。差し挟もうとした口は容赦なく閉ざされた。文字通りの意味で。
いきなり引き寄せられて頭がぱん、と真っ白になる。気がつくと啓太の腕の中にきつく抱き寄せられていた。余韻のような感触が唇に残っている。…キスされたんだ、と脳が把握できるまで数秒かかった。
いきなり、こんなの…。
「タミルさん。…今日、あの。…帰らないと、駄目?嫌じゃなかったら。…このまま、俺と」
啓太の腕が背中に回って、身動きできないほど全身を締めつける。抵抗したいのにほとんど動けない。彼の体温がどうしようもなく熱い。…そして。
弾んだ呼吸、抑えきれずすり寄せられる身体。…わたし、知ってる。この感触。
…この人、欲情、してる。
「あの、俺。ぜったい、いい加減な気持ちとかじゃなくて。ほんとに、真剣で。…でもあの、確かなものが欲しいし。あなたのこと…、絶対。大切に、するから。…ええと、その」
乱れた息のまま再び顔が近づいてきて唇が重ねられた。今度は長い。頭の後ろを押さえられて逃げられない。…舌が、中に入ってきて。
身体の奥がぶるっと震える感覚。…どうしよう。
不意に、どこかに押し込めて二度と見ないよう意識を逸らしていた記憶がわっと生々しく甦る。男の興奮が伝わってくる感触。身動きできないようがっしり押さえつけられた身体。…声をあげられないよう、塞がれた口。
…反応を始める、自分の、身体。
『…すごく、欲しそうだね。…気持ちいいの?』
耳許でごく低く囁かれる知らない男の声。服の中に入ってきて、身体中を這い回る、いくつもの手。
『こんなになっちゃって。好きなんだ、こういうの。…もっとして欲しい?』
『身体は正直なんだね。可愛いよ…』
…もう駄目。
このままだと。…わたし、爆発する。
顔を離した彼が何か言おうと口を開くより早く、喉の奥から抑えきれない悲鳴の塊がこみ上げてきた。一気に吐き出されるそれに啓太はびくんと怯えたように思わず両腕を緩める。
「や、…嫌、やだあ…っ、ぜったい、もお…っ!」
涙がぼろぼろ両頬を伝い落ちるのを止めることもできない。呆然とわたしを見ている啓太の視線を振り切るように、わたしは背を向けて走り出した。
「待って、タミルさん…」
追いかけてくる。そう思うと本気で震え上がった。絶対嫌だ。もう二度と触られたくなんかない。
誰にも。
必死で全力で走った。誰かに見られたら犯罪者にでも追われてると思われただろうな。幸い相変わらず人目はほとんどなかった。駅への道はわからないから、いっそのことと思い反対側、元きた道の方へ。大きな幹線道路を目指す。
どっちにしろ今、電車に乗りたくなんかないし。
不意を突かれたのか啓太は追いついてこなかった。何とか広い道に辿り着き、手を挙げてすかさずやって来たタクシーを停める。財布の中身、足りないかも。こんな時なのに何処か冷静にカードが使えることを素早く確認して乗り込んだ。
「出して下さい。…あの、◯◯駅近くの。◯◯二丁目の◯◯マンションまで。…お願い、します」
場所を口にしたら安堵がどっとこみ上げてきて語尾が震えた。わたしは背もたれに身を埋め、自分の腕をぎゅっと抱きしめ、目を閉じてきつい記憶の洪水に一人で耐えていた。
震えで動きの定まらない指でドアチャイムを鳴らす。
一瞬中からの反応を待ってから、そうだ、夜と休日はインターフォンに応答しないようきつく言い渡してたのは自分だったとやっと思い当たる。力が入らずかくかくする手で何とかバッグからスマホを取り出し(何かの通知でいっぱいなロック画面が一瞬目に入ったが、見ないふりをして解除)、連絡先を出してタップする。
『…タミさん?どうしたの、何かあった?』
わたしが休みの日に電話するなんて滅多にないことだからだろう。いきなり急いた口調で尋ねてくる。短く息を吸い、声が震えないよう簡潔にひと息に伝える。
「あの。今、事務所のドアの前に。…チャイム鳴らしたのわたし、です。…よかったら」
開けて。と言う暇もなく目の前でいきなりドアが開いた。
戸惑いというより、切羽詰まった表情を浮かべた増渕が前のめりに身体を乗り出してきた。平凡な、何処にでもいそうな個性の薄い意志の弱そうな顔立ち。見慣れたその姿に自分でも思いがけないくらいほっとした。肩からどっと力が一気に抜ける。
わたしはどうしてここへ来たんだろう。自分の部屋じゃなく。
「…入って、タミさん。どうぞ」
そっと促すように手を伸ばしたが、わたしに触れることはしなかった。
いつもの職場なのに。何となく受ける印象が普段と違う。夜だからかな。ここに毎晩泊まってた時期だってあったんだけど。
わたしを先に中へ通し、背後からリビングまで静かについて来た。わたしは先に立って部屋に入ると、自分から勝手に力なくソファに腰を下ろす。
増渕は向かいに腰かけなかった。わたしの傍らの床に膝をつき、そっと下から顔を遠慮がちに覗き込む。
「…何か、あったんですね。どうしました?…なにか、誰かから。…酷いこと」
気遣うその声にふと思い当たる。わたしは、さっき、酷いことされたんだろうか?
いきなり抱きしめられて不意打ちでキスされた。それ自体、あまり紳士的だったとは思えないけど。
多分あの時の言動からして啓太の方には何か誤解があったようだ。つまりわたしが恋愛を拒絶してるのは沢山経験を積んだ結果、全てのことに飽き飽きして失望したからだって。だからこそいきなりあんな挙動に出ても大人の余裕で許されると思い込んでたのかもしれないけど。
でも。そんなこと勝手に決めつけられても。現に、わたし。…あれが初めてだったのに…。
図らずもじわ、と涙が滲んでくる。顔を覗き込んでいた増渕が焦った声を出した。
「やっぱり何か、…あったんですね。警察行きましょう。それとも病院が先か。どっか、痛いですか?」
「いや。…違う。病院とか、警察とかじゃ。…何か、犯罪に巻き込まれたとか。そういうんじゃ、ないんだけど」
増渕を安心させなきゃ。またわたしが誰か知らない奴に酷いことされたと考えてるかもしれない。ちゃんと落ち着いて説明しなきゃと思うんだけど。
さっきの感覚が再びわっと全身に蘇ってきてしまった。生々しいフラッシュバックに怖気を奮い、頭を抱えて身を縮める。…あの時の、わたし。
好きってわけでもない男の人に抱きしめられてキスされて。嫌悪感しか感じないのが普通だと思ってたのに。不本意に身体の奥から微かにこみ上げてきた感覚。
気持ちは嫌だって確かに思ってるのに。そう苛立つ感情にとらわれた瞬間、絶対に思い出したくなかった出来事がぶわっと記憶の表面に浮かび上がってきて、そのこと以外もう何も考えられなくなってしまって。
「…あたしは汚い」
「何言ってんです、タミさん。絶対にそんなこと」
むしろ怒ったように聞こえる増渕の強い声。わたしは顔を上げることもできずに俯いたまま頭を振った。
「汚れてるの。こんな身体…。自分が、気持ち悪い」
涙交じりの声なのに、喉はかさかさに渇いて仕方ない。変な嗄れた声で辛うじて口にする。
「…消えてなくなりたい。もう。…どこにいるのも、嫌…」
「そんなの駄目です。タミさんがいなくなったりしたら。…俺は」
はっきりした声でわたしに言い聞かせるようにたたみかける。一瞬ためらったような間があり、やがて頭を抱えてるわたしの手の甲につと温かい手のひらがそっと触れた。
「タミさん、聞いて。…何も言わなくていいから」
その手はわたしの手を握りしめるでもなく、落ち着かせるようにじっと動かずに添えられたままだ。耳に慣れたあの静かな声がしんとした部屋の中で響くように感じた。
「僕の知ってる女のひと全部のなかで。タミさんが、一番きれいな、純粋な人です。…清潔で潔癖で。表面に傷もつけられない。誰にも汚されない、綺麗な硬い結晶みたいな」
「じゃあ。…汚れてるのはわたしの中身なんだ。多分、外からつけられたもんじゃなくて」
わたしの内部に最初から存在してるもの。男の人に触れられることで、自然と奥から湧き出してきたもの…。
増渕の手のひらに僅かに力がこもったのがわかった。声に叱咤の色が滲む。
「違う、そうじゃない。タミさん、女の人には割り切るのは難しくて酷かもしれないけど。生理的な反応はあなたの本質とは何の関係もないことなんですよ。そこを混同しちゃ駄目だ。…あなたは悪くなんかないし、こんなことで汚れたりもしない。外から無理やり力尽くで関わってもタミさんの本質には触れられないし何も変えることもできやしないんだ。…必要以上に重く受け取ったらいけないんです」
自分の呼吸を感じてる。向こうも息をひそめてわたしの反応を窺ってるのがわかる。俯いたまま目を閉じ、ただ胸の上下をひたすら数えていた。
落ち着かなきゃ。改めて思う。わたしは混乱して、パニックになってる。確かに実際に起きたことよりもっと自分を卑下して、貶めて考えてしまってるかも。わたしの陥った事態は、そんなに責められなきゃならないことだったろうか?
思いきってゆっくりと顔を上げた。真剣にずっとわたしの方をひたと見据えていたと思しき眼差しとすぐに目がかち合う。
普段はどうにも頼りなく気弱なあの薄い口許が開くのが視界に映った。
「…タミさん」
野菊の墓、と不意に場違いな連想が脳裏に浮かんでちょっと笑いがこみ上げそうになる。慌てて口の端を噛むようにそれを押し殺した。
「あなたが責められることなんかひとつもありませんから。外から不本意にやってきた刺激にどう反応しようと絶対にそんなことは気に病む必要ない。それは忘れて構わないことです。その場だけの生理的な出来事で、あなたが背負うべきものじゃないんだから。…そこはわかって下さい」
「…うん」
パニックは収まりつつあった。わたしは少し迷いながらも受け入れて素直に頷く。
多分、多かれ少なかれどんな女の人でもああいう反応になるだろうとは思う。恐怖と嫌悪感以外に感じるものがあるってことは正直知りたくはなかったけど。
そこに捉われ過ぎても駄目なんだ。あれはあれ、って割り切って切り捨てるしかないってこともある。単に身体の仕組みからくる反応で、わたしの人格とは切り離して考えるしかない。
そうでもしないと精神的に耐えられはしない…。
「タミさん。…訊いてもよければ。今日、何があったんですか。相手は知らない奴ですか。それとも…?」
静かな、落ち着いた声で尋ねられて我に返る。そうか、そこを説明しないと。実際にあったことより酷い被害を想定されてるに違いないし。
でも。さすがにこいつの友達と二人で会ってて、油断しきってたとこを不意を突かれた、なんてあまり知られたいことではない。
「知らない相手ではない。…友達、だと思ってた。だから…、以前起きたこととは。全然、似ても似つかないことなんだけど」
相手が誰か知られなければ一応説明はできるかな。わたしは増渕に少し軽蔑されるのは覚悟の上でやや早口に打ち明けた。
「急に。抱きしめられてキスされた。…今日は帰らないで、このあと…、どうか、って。それまでそんなこと全然、匂わせもしなかったと、…思うけど」
最後ちょっと自信がなくなり頼りない調子になる。どうなんだろ。もしかして、わたしがあんぽんたんで鈍過ぎただけなのか?
言葉では何も伝えられてはいなかったと多分、思うけど。台詞の裏とかニュアンス読めとか言われちゃうともう…。
わたしみたいなスペックの低い女には荷が重すぎる。
「最初はちゃんともっと警戒して接してたと思うけど、こっちも」
啓太のことだ、とあまりあからさまにならないよう慎重に考えつつ口にする。
「一度この人は大丈夫、って思っちゃうともう。向こうがどんなつもりなのか全然、気にも留めなくなっちゃって。そういうとこが駄目だってわかってはいるんだけど…。気が置けないと思いつつ一応用心もする、みたいな必要があったのかも。でも、そういう相反する距離感がどうにも維持できないみたいで」
増渕は生真面目な表情で重々しく頷いた。
「タミさんみたいな人には確かにそんな器用な真似は酷かも。友達として気安くなるか、野良猫みたいに毛を逆立てて威嚇し続けるかどっちかしかないんですよね。楽しく気楽に接しながら一応警戒を続けて様子を見るみたいな複雑なことは対応しきれないのかもなぁ…」
ふざけた調子は微塵も見られないから真剣に言ってるとしか思えないが。なんか、ずいぶんなことを普通に言われたような。複雑な処理はできない単細胞な脳だって意味にしか取れない気が…。
憮然とした思いがこみ上げてきて、ついいつもの調子に戻ってつけつけときつい声で言い募る。
「てかさ。以前言ってたじゃん、わたしの守りは強化してるって。守護霊たちに仕事を教えただけじゃなくて、その上にあんたがつけたガードも更にいるんでしょ?今でも。その人たちは何してんの。わたしがいきなりそんな目に遭わないように、ちょっとも予防してはくれないの?相手の男の動きを封じるとか、わたしにもっと強く注意を促すとかさ。仮にもそこにいるんなら少しは何か、働きかけることとかできないの。何のための守りなのよ、結局?」
増渕はきゅっと目を細めた。一瞬言い過ぎたかな、怒らせたかと腹の底が強張ったけど、やや間があったあと口を開いて出てきた声のトーンからすると、別に気を悪くした様子はなかった。どうやらわたしにつけた『守り』の人と何らかの意思の疎通を図っていたようだ。
「…自分たちは霊としての立場からあなたをサポートするものなので。相手の男の背後に邪悪な霊や下賤な低級霊が憑いているのなら絶対にあなたに影響を及ぼさせはしないと。ある意味残念なことに霊からの何の干渉もなしにその手の卑怯な行為に手を出す人間もいるが、その場合でも手をこまねいて見てるつもりはない。あなたに警報を送るとか、前もって危険な場所を避けさせるとかできることはあるから。…しかし、今回の出来事は自分たちの力の及ぶところではない。というようなことを主張してますね」
「何で?…どういう意味」
思わず身を乗り出して尋ねる。増渕は一瞬半端なく渋いものを口にしたように顔をしかめ、気を取り直して再び冷静な表情に戻って淡々と続けた。
「相手の男はいかなる霊からの影響も全く受けず、自分の完全な意志で行動に出た。結果的にあなたに受け入れられず拒絶されたけど、ふざけた遊び半分の気持ちや卑猥な下心が動機ではなくて、純粋なあなたへの好意からのことだったのは間違いない。…そういう場合、霊は生きてる人間同士のやり取りにこちらから干渉はしないと。受けるにしろ断るにしろ、本人であるあなたが自分で判断するべきだと言ってます」
「…う」
わたしは言葉もなく微かに呻いた。いやそりゃ、…そうなのかもしれないけどさ。
外側から見たらそういうことなのは大体頭ではわかっていたけど。それでもわたし自身はショックを受けたし傷ついたのに。主観的にはそんな状況だったけど、やっぱり手出しはしてくれないのか。案外厳しいなぁ…。
増渕の手のひらがわたしの手の甲から離れ、そのまま宥めるようにすっと髪に添えられた。まるで子どもの頭を撫でるみたいに。
優しい声で目を見て話しかけてくる。
「タミさんにとっては以前の被害のフラッシュバックもあって、恐怖と不快な思いの引き金にしかならなかったんでしょうね。その男のやり方にも多分、問題があったとは思うんですけど。少なくとも真剣な気持ちで、あなたを粗略に扱うつもりじゃなかったことは確かみたいです。…難しいでしょうが、少し気持ちが落ち着いたら前のこととは分けて考えるようにした方がいいのかもしれません」
理屈はわかるよ、もちろん。…でも。
「わたし、初めてだったのに。…キス、されたの」
またじわ、と目許が熱くなる。碌に好きな人もいないのに、こんなにショックを受けた自分が意外だな、とどこか頭の冷めたところで考える。
増渕の目の中に揺れ動くものが見えた気がした。身体の何処かが痛いとでもいうように微かに顔をしかめ、わたしの髪に添えた手に力がこもる。
「…そうなの?」
「だって。…今までちゃんと誰かと、そういう風に付き合ったことなんかないし」
目線を外してぼそぼそ打ち明けながらさすがに恥ずかしい。増渕も呆気にとられてるだろうな。わたしはこないだ二十六になった。それでいて男の人ときちんと恋人関係になったこともない、キスもまだなんて。
でも仕方ない。そういう成り行きだったんだ。
「高校のとき、男の子と付き合いかけたのが二回くらいあって。結局それが全部かな。…両方とも、やっぱり抱きしめられたりキスされそうになった時に無理、ってなって逃げ出して終わったから」
一回は歳下。一学年下の子に真剣な顔で思い詰めたように告白されて。何となく悪い印象は受けなかったし、好きだと言われたこと自体はちょっといい気分だったので、まぁいいかと思って付き合い始めた。中学の時は全部お断りしてたけど、そろそろそういう年頃なんだよなっていう『常識』もあったし。
「一学年下?俺のタメじゃないですか。誰なんですそれ。タミさん先輩に向かって付き合ってくれなんて、まさかそんな。…図々しいにもほどがあるな」
思わず気が緩んでぽつぽつと告白するわたしに、増渕が堪えきれないとばかりにキッチンの方角から突っ込みを飛ばしてきた。自分の過去を振り返って没入してる間に奴が移動してたのに意識が向かなかったらしい。気づけばコーヒーのいい香りがリビングの方まで漂い始めていた。
わたしはさすがにちょっと口ごもる。そうか、あの子、こいつの同級生なんだ。
「それはまぁ。…あの高校も大概人数多いし。学年一緒だからって知り合いとは限らないでしょ。わたしなんか同学年の人ほとんどわからないよ」
「それはそうでしょうが。タミさんは他人に関心なんかないから。ちょっと特殊でしょ。…えー、どいつなんだろ。気になるなぁ…」
結構さらっと他人のことディスりながらもやけにそこに拘る。わたしは焦り気味に話を進めて話題を逸らした。
「いやそこまでは。…まあ、もういいでしょ。結局キスもしなかったんだから。なんか違う、こういうのは無理だってわかって。やっぱり向こうから言われていい気になってただけで、自分の気持ちが伴ってなかったから駄目だったんだって思ったの。…それで、次はちゃんと告白されたっていうより。いつもそばにいた人とちょっといい感じというか、自然にそういう雰囲気になって」
何故だか増渕は微妙な面持ちで、カップをこちらに運んで来ながらやっぱり尋ねてきた。
「…誰です?生徒会の人?」
「うーん、まぁ。…いいじゃん本当に、誰でも。終わったことだし、結局何もなかったんだから」
歯切れ悪くもなんとか誤魔化した。実はどちらもフルネームが思い出せない、なんてことは別にこいつに知らせる必要もない。
好きで始まるより、一緒に過ごす時間が長くて気心が知れてる方が上手くいくのかなと考えて、向こうが何となくその気になってるのはわかってあえて流れに逆らわずにいた。それで、二人で一緒に帰ったり休みの日に誘われるまま何処かへ出かけたりするようになったんだけど。
「いざそうなると。やっぱり無理だ、ってなって。今度も突き飛ばしちゃった。…だから次は慎重になろう、この人とそういうことできるのか?って付き合い始める前にちゃんと覚悟を決めなきゃって反省したら。…その後はもう誰も。想像するだけでやっぱり駄目ってなって、今までずっと」
キスしたり身体に触れられたりしても平気なのかって、そこから目を逸らさず相手を見定めるようになってみると。
告白してくる人もさり気なく近づいてくる奴も悉く駄目、生理的に受け付けない。これはもう、わたしは男の人とそういう関係にはなれないのかな。身体が求めてない。
かといって女性に対してそういう気も起こらず。増渕の言い草じゃないけど男女に限らず他人への関心というか、求める気持ちが薄いのかも。そう諦めをつけかけたところにもって、あの被害だったから。
「いよいよもう、絶対男の人に触られたくないってことになっちゃった。だから最初から恋愛とか抜きで相手を見る癖ができちゃってるのかも。この人はわたしに危害を加えるような人か?って警戒して接して、そうじゃないってわかればアラーム設定を解除しちゃう。犯罪的なことを仕掛けてきそうかどうかで相手を判断してて、その中間はつい忘れちゃうみたい。つまり、恋愛感情をこっちに対して抱く可能性があるかどうかとか。自分の方にはそういう感覚がからっきしないもんだから」
「一般的に言うと、好意を持たれる可能性の方が遥かに高いと思います。少なくともあなたに無理に何かを強要したいと考える連中より、できたらあなたと恋人関係になりたいと思う男の方が数的には圧倒的に多いんじゃないかと。むしろそれが普通でしょ」
わたしの向かいに腰かけてすっかり落ち着き払った様子でカップを持ち上げて縁を吹いて冷ます増渕。わたしも何とは無しに手を伸ばしてカップに触れてつと顔をしかめた。これ、まだ相当熱いな。
「そんなことあるかなぁ?こんながさつで、感情の機微もなくて。ぶきっちょ極まりなくて料理はおろか碌にお茶も淹れられないし。言葉遣いも態度も悪いし性格にも難が」
「そういう自己認識なんですね、タミさんて」
感心したように言うな。なんか、腹立つ。
だって本当の話じゃん。男の人が惹かれるような要素なんて何一つ…、ああ、そうか。顔と身体ね。
でも、それだったら変態や変質者がこっちに寄ってくる誘因と何の変わりもない気がするけど…。
「言っとくけど、タミさんの性格に難なんかありませんよ。他はまぁ…、否定しきらないというか。的を射たというか。言い得て妙ってとこもないことはないですけど」
実に腹立つなぁ。
むくれるわたしの方をまっすぐ見返して、こっちの目つきに怯むことなく柔らかな口調で話しかけてくる。
「あなたが誰も必要としてなくて、誰にも触れられたくないって思ってるのが本当なら。僕もあなたを誰からも触れられないように本気で守るつもりです。守護霊やガードに任せておくつもりはありません。彼らには及ばないところは僕の力でちゃんとカバーしますから。…真面目に恋愛感情をもって近づいてくる奴も全部はねのけてしまっていいんですよね?」
「ああ、まぁ。…必要ないから」
何故かその目の中に一種の熱を感じ取り、ちょっと怯んでぼそぼそと返答する。奴はどうしてか我が意を得たりとばかりににっこり微笑んだ。
「よっしゃ。本人の許可、頂きました。これであなたに接近しようとする男は悉く追い払えます。…霊になんか任せとけません。真剣な気持ちなら仕方ないなんて、そんなことあるかっての。言葉で申し込むより先に行動で表そうなんて輩に配慮なんか必要ないよ。ガードの連中、そういうとこ今ひとつわかってないんだから」
増渕は身体を前に傾けて、わたしの手の方にすっと自分の手を伸ばしてきた。そのまま重ねられると思ったのに、何故だか取っ手を握っているわたしの手の上ではなくカップの外側をそっと撫でる。
なんでまた。わたしはさっき重ねられた奴の手のひらの温もりをふと思い出しながらぼんやり考える。そんな場所相当熱いだろうに。意味がわからない。
奴は静かな声でわたしに囁きかけた。
「もう二度とタミさんにそんな思いはさせたくないから。どんな奴にもあなたに指一本、触れさせるつもりはありません。…どこにいてもどんな時も、いつでも僕を呼びつけてくれて構わないです。何をおいてもすぐに飛んでいくし。絶対にタミさんを守るから。…この先も、ずっと」
その晩は結局、そのまま事務所に泊まった。つまり増渕のプライベートの住居でもあるその部屋に。
「タミさん家に今から送っていってもいいんですけど。もうだいぶ遅いし、正直ちょっとこんな時にあなたを一人にするのも気がかりだし。いっそこのままここで休みませんか。明日の朝出勤する手間も省けますよ。…あの、変な下心はないです。当然のことだけど」
不意に慌てたように顔色を変えて何だか早口に弁解を始めた。
「タミさんが弱ってる時にそれに付け込もうとか。絶対に絶対にそんなことはしません。指一本髪の毛一筋だって、手を出す気なんか。…それを心配してるなら」
「いや大丈夫だよ。増渕を疑ったりはしない、それはちゃんと。…承知してるし。信頼してるから、完全に」
あまりにばたばた必死に言い訳する増渕にむしろ面喰らって首を傾げる。
「あんたに限ってわたしに嫌な思いさせようなんて。絶対にあるわけない。だから、そこはそんなにむきになって誓わなくても。…でも、迷惑じゃない?こんな夜遅くに一方的に前触れなく押しかけて、そのまま泊めてもらおうなんて」
そう言いつつ頭の中では、だからと言ってこんな時間に家まで送れっていうのも大概億劫だよな。一人で帰れるって言い張るのも現実的じゃないし。そうか、タクシー呼んで乗るとこまで見届けてもらえば何とかなるかな?
などとあれこれ脳内で算段を始めるわたしの思考を遮って奴はきっぱりと言い渡した。
「全然迷惑じゃないです。むしろ、こんな日に自分の部屋で一人きりなタミさんを想像する方がきついし。そんな思いを僕にさせる方がよほど迷惑ってもんですから。…これ以上負担をかけたくないって人間らしい気持ちが少しでもあるならそこは飲み込んで下さい。せめて今日くらいは、手の届く確実に守れる場所にいてくれたら。…助かります」
そこはかとなく押しつけがましい口ぶりな気もするが。それはまぁ、わたしに精神的な負担をかけまいとするためのポーズなんだろうと推しはかってやるくらいの度量はこっちにもある、一応。
増渕は甲斐甲斐しくお風呂に熱い湯を張り直し(本人は既に入ったあとで、浴槽のお湯はまだ落とされていなかった。それを使うからそのままでいい、と主張したけど却下された)、清潔なタオルやらルームウェアやら一式貸してくれた。当然着替えは男物だが。増渕があまり大柄じゃなくてまだよかったけど、こんなことになるんだったら以前泊まってた時に置いてた服、いくつかそのままここに残しとけばよかったなと後悔する。
何があるかわからないから、今度勝手にそうしておこう。
ベッドを使え、と強硬に言い張られて結局根負けした。ソファで充分だとは言ったんだけど。
「前にここに住んでた時にはベッドで寝てもらってた筈ですよね。でも昨日まで俺が寝てた場所はさすがに嫌か…、シーツとカバーの替え、何処にあったかな…」
「いやそんな。そのままでいいよ。こんな夜遅くにばさばさ替えるのものも大変じゃん」
慌てて口を挟んで引き出しをひっくり返し始めた奴を制する。
「本当にソファでいいのに。そんな寒い時期でもないし。むしろ暑いくらいかも。軽い毛布か何か貸してもらえたら勝手に寝るし」
増渕は知らないが、実際にはここに泊まり込んでた時にもベッドは使ってなかったから。なんかやっぱり気が引けて。結局一ヶ月以上ソファで身体をやや丸めた状態で押し通してしまった。だから奴が想像するほどつらくはないってわかってるんだけど、もう慣れてるし。
でもさすがにそうは言えない。案の定増渕は目を三角にして強硬に言い募った。
「絶対駄目です。一晩中ソファなんて。身体痛くなっちゃいますよ」
それほどでもないよ、慣れれば。
「そうは言うけどさ。じゃあわたしがベッドで寝たら、あんたどうすんの。まさか隣で一緒に寝る?」
奴は真っ青に顔色を失いつつ耳を真っ赤にするという複雑な反応を呈した。
「そんな訳…、考えもしませんでした。当然、僕がこっちで寝ますよ。タミさんは何も心配することありません」
「いやそしたら増渕が身体痛い訳じゃん?そんなのおかしくないか。本来あんたの部屋なのに。わたしのせいでベッドから追い出されるなんて」
奴は確かに男性としては小柄な方だけど、さすがにわたしよりは身体が大きい。こっちの事情で押しかけたのに、ソファで寝かせるなんて忍びない。
そう考えて抵抗したんだけど結局押し切られた。シーツとカバーを一式全部取り替えるというのは何とかやめさせたが、そしたら奴は神経質にも大きなバスタオルを敷き、枕に綺麗なタオルを巻いた。何なのそれ。
「どういうことよ。わたしが寝たあとに同じベッドで寝られないってこと?やっぱわたし、汚い?」
増渕はわたしに横になるように促しつつその台詞を耳にし、きっと目をこちらに向けた。本気で怒った声になりかける。
「だからもう…、それ二度と言わないで下さい。そうじゃなくて、俺がしばらく使っちゃってるシーツだから。タミさんに寝てもらうには本当はもっと清潔じゃないと」
「そんなの気にしないよ。増渕はちっとも不潔なとこなんかないし」
人と接する仕事ってこともあるんだろうけど、いつも感じよく小綺麗にしてるイメージだ。だから心からそう言うと、ちょっと面映そうにもぞもぞと口ごもる。
「そんなでも…、まあ、普通に風呂とかは入ってますけどそれでも、男ですから一応。寝づらかったらすみません。…明日の朝ごはん何がいいですか。タミさんてパン派、それともお米?」
わたしは促されるままにベッドに乗る。なんか、目の前で布団に入らなきゃいけないみたい。子どもみたいに寝かしつける気か?
「そんな、朝ごはんの用意まではいいよ。むしろわたしがやるから。泊めてもらったお礼にそれくらい」
奴はきっぱりと首を横に振って断った。
「そういう気を遣う必要ないです。今回は俺にタミさんのお世話させて下さい。だいいち、ひとんちの台所使いづらいでしょ、慣れてないから。要領のいい小器用な人ならともかく…いえあの。多分、俺の方が手早いかなぁと、結局」
「それを言われちゃうとさ…」
わたしは顎の下まで毛布を引き上げられながらぶんむくれた。実際は知らない台所って訳じゃない。一ヶ月以上使わせてもらった場所ではあるし。だからと言って奴より手際いいと言い張る度胸は…。
滞在してる間何でも自由に使っていいと言われてはいたけど。何か壊すのが怖くてプラ製の自分用の食器を買い込んで密かにそれを使ってたのは増渕には今でも内緒だ。
わたしが枕に頭をきちんと載せて、毛布にくるまったのを見届けると奴は何故かふわ、と柔らかく笑った。なんか、お母さんみたいだな。
大人しく横たわるわたしを見守りながら増渕は静かな口調で言い聞かせる。
「あいつのことですけど。…このままにはしておけないしやっぱり一応連絡取らなきゃって考えてるかもしれないですが。無理する必要ないんですよ。悪いのは向こうだから、絶対的に」
「…あいつ?」
ぼんやりと聞き返す呆けたわたしの頭にはなかなかその台詞の中身が入っていかない。今日はもういろいろあり過ぎて脳が飽和状態、限界かも。奴はそれはそれで構わない、とでもいうように気に留めず淡々と続けた。
「多分向こうから謝りたいって何度も連絡してくると思う。でも、事情は説明しづらいだろうから、タミさんの口からは。俺から簡単に話しておきます。どうしてもあなたと直接話して謝りたければ冷却期間を置いて待つようにって。だから、今はタミさんは何もしなくていいから。もう過ぎたことはできるだけ忘れて、ゆっくり日常に戻りましょう。二度とあんなことが起こらないように僕も気を配るようにしますから」
「…うん」
だいぶ間を置いて、次第に増渕の言ってる内容が理解できてきた。
これって。…やっぱり今日のこと、相手が啓太だってちゃんとわかってる?
そのことに対してどう反応していいか全く判断がつかず、ただぼうっと奴の顔を見上げていると増渕は不意に喉に何かつっかえたような表情を浮かべた。ためらいがちにそっと手を伸ばし、髪に触れようとするかのような素振りを見せる。
ブレーキがかかったようにその手が止まった。一瞬そのまま固まり、やがて思いきったようにわたしの顔の方にもう一度差し伸べられる。同時に奴の顔がすっと静かにわたしの方に傾けられた。
思わず目をぎゅっと閉じ、息を潜める。…キス、されるかも。
勿論そんなことにはならなかった。増渕の指先が触れるか触れないか程度にそっと、前髪をかき分けて近づいた口許から低い囁きが漏れる。
「…おやすみなさい、タミさん」
「…おやすみ」
それでもちょっと身体を強張らせたまま応えると、奴は何事もなかったかのようにすっと上体を起こして背中を向け、寝室の明かりを消してドアから出て行った。…なんだ。
毛布をきゅ、と抱きしめながら思う。額にかもしれないけど。キスされるとばっかり。
微かに額に触れた増渕の指先の感触を思い出しながら何となく物足りない、もどかしい気持ちを持て余す。そんなのどう考えても変なんだけど。今日の経緯を考えるに、奴がこのタイミングでわたしにキスなんかするわけないじゃん。他の男にそれをやられてショック受けて駆け込んできたのに。自分がしたら何にもならないだろ、そりゃ。
なのに何で思わず目なんか閉じちゃったんだろ?
そこをあんまり追及してもいいことはなさそうだったので、ため息をついてシャッターを下ろす。もう今日のところはこれでおしまい。一遍にいろいろあって充分考えた。これ以上ひとつだって面倒な考えは頭に入らない。
複雑なことはまた明日以降改めて検討することにしよう。
わたしはしっかり洗濯洗剤の匂いがするタオルと枕カバーに包まれながら、唯一微かに増渕の気配が残る柔らかい毛布をしっかり抱きしめた。そこはかとなく甘い気分を胸に感じながら、安心感に満たされていつしか静かな眠りに落ちていった。
翌日、最後のお客様が帰っていったあと。
その日の事務処理もひと通り終わってそろそろ、と片付けを始めるわたしの背中にさり気なく普段の調子で増渕が話しかけてきた。
「タミさん。…あいつとちょっと話しました、あのあと」
わたしは一瞬肩を強張らせたけど、なるべく何でもない風に問い返した。
「…いつの間に?」
「あなたが眠ったあと。一応、タミさんは無事だってことは伝えといた方がいいかなって思って。ものすごく心配はしてました、自業自得だと思うけど」
最後に見た啓太の必死な表情が目の裏にありありと蘇った。逃げないで、行かないでほしい、と縋るような眼差し。
胸がぎり、と痛む。やっぱり、酷いことしたのかな。向こうは何の事情も承知してなかったんだから。突然パニックに陥って逃げ出されて、何がなんだかわからなかっただろう。
「すぐに連絡入れといた方がよかったのかな」
「タミさんは何も気にする必要ありません。絶対に悪いのは向こうだから。きちんと面と向かって言葉で気持ちを打ち明けてから交際を承諾してもらえるかどうか尋ねるべきです。どんな形にしろ、触れるのはそのあとじゃないと。…なし崩しに自分のペースに持ってこうとするから痛い目に遭うんですよ」
つけつけとした手厳しい口調。いや中高生ならそうだろうけど。こんな大人になってからきちんと告白して交際を申し込めとか。
さすがに客観的な立場から見て思わず啓太に対する同情の念が湧き上がる。やっぱり世間の大人の男女はもっとなあなあというか。成り行き任せというか。勢いなんだろうなぁ、こういうのも…。
話してるうちに憤慨してきたのか声が強くなってくる増渕。わたしは肩をすぼめてそれを聞くしかないが。
「大体、勝手にタミさんのことをこうだろうって思い込んで行動するから。何も知らないくせに…。綺麗で落ち着いてて大人っぽく見えるから、今まできっと恋人も何人もいて経験も豊富だろうなんて、ただの偏見に基づいた思い込みじゃないですか。実際は男が怖くて恋愛に対する興味もからっきしないし、落ち着いて自信持ってるように見えるのだってただ見かけだけの印象だし。ほんとのタミさんはぶきっちょであちこちぽっかり抜けてて突然訳わかんないこと始めたりとんでもないこと言い出したり、全然全く大人じゃないし。こんな危なっかしい人…」
不意にわたしの表情に気づいて勢いづいた言葉の奔流が止まった。慌てて取り繕うように言い直す。
「…ええと、それでつまり。あいつに、彼女はいろいろ事情があって男が苦手なんだ、お前の行動が引き金になってパニックを起こしただけなんだって教えたら絶句してました。やっぱり直接会って謝りたいって言ってましたけど。今のところは落ち着くまで距離を置いてくれって伝えてあります。別にお前に個人的な怒りやすごい嫌悪感を持ってはいないと思う、でも付き合うとかはどっちみち今は考えられないんじゃないかって。…そんな感じで大丈夫でしたか?」
わたしはさっきまでの腹立ちも忘れてしばし真面目に考え込み、頷いた。
「そうだね。…今はそれくらいしか、言えることもないし。他には」
「本当は沸々と後から怒りが湧いてきたとか。心底嫌いだから二度と顔見たくないとか言っといてもよかったですけど」
「いやそこまでは…。何言ってんだ」
どさくさに紛れて。生真面目な顔でとんでもないこと普通に言うな。
わたしにいなされて、増渕はちょっとむくれ気味な表情を見せた。冷静さが吹き飛んだようにガキっぽく言い募る。
「だって。どう考えてもタミさんに不意打ちでそんな所業に出るなんて。図々しいにも程があるし。そんなつもりでなかったことはわかるけど、あなたを傷つけて嫌な思いさせたことは消せない事実じゃないですか。…その時のタミさんの気持ちを考えると」
「いいよ考えなくて…」
わたしは弱り切って身体の向きを変え、奴から目線を逸らす。あんまり想像しないでほしい、その場の状況を。
増渕はキッチンに向かいながら腹立ちが収まらない、と言った様子で更に話し続けた。恐らくお茶かコーヒーを淹れてくれるつもりだろう。小まめな男だ。
「そんな気全然ない油断しきった隙だらけの女の子につけ込んで。それでいて悪気はなかったからとか言って許してもらえるなんておかしいよ、納得いかない。もしタミさんがいつかはあいつを許してやるつもりでも俺は許す気ないです。謝りに来る時も二人きりで会わないで下さいよ。僕か間仲さん立会いのもとでじゃないと駄目です」
「向こうのお母さんの前でそんな話できる訳ないだろ!」
わたしは遠慮なく声に出して呆れた。御宅の息子さんが夜の公園でいきなりわたしにキスして迫ったんです、それを謝りたいんですってとか。わたしに説明させる気かよ。
増渕はちょっといつもより荒っぽい手際でコーヒーカップを棚から出して温めつつ、怯まず言い返した。
「じゃあ、俺の立会い限定で。事情を知ってることあいつもわかってるから問題ないでしょ。とにかく二人だけで会うのはやめて下さい。甘い顔するとまたつけあがりかねないから、あいつ」
「いやいや…、大人同士のことだし。二十五、六にもなって保護者同伴?」
わたしは閉口して肩をすぼめる。実に手早くドリップを済ませたコーヒーポットを持ってリビングに戻ってきた増渕に思わず問いかける。
「事情もある程度把握したんだろうし、もう変なことするとはあんまり思えないけど。なのにどうしてまだそんなに警戒しなくちゃならないの。そこまでする必然性ある?単にひと目のあるとこで会うよう注意しとけばいいんじゃない?」
奴は俯いて温めたカップに静かにコーヒーを注ぎながらぼそりと低い声で呟いた。
「…だって。俺、タミさんに約束したんですから。絶対にあなたに二度と嫌な思いはさせないって。不本意な相手がタミさんに近づいたりしないように、指一本触れさせないように…。だから、ちゃんとそばについていたいんです。そういう時は」
「…うーん」
わたしは苦り切って思わず唸る。そんなこと正面からはっきり言われちゃうとさ…。
しばし間があり、わたしたちは微妙な空気の中各々熱いコーヒーを味わった。何か言うのはわたしの番なのか、言葉を待たれてるのかなと不意に思い当たり慌てて頭を巡らす。
「んと、わかった。それは…、じゃあ、そうする。もし啓太と会って話す機会があったら必ず増渕にも声かけるから。一人で勝手に会いには行かないよ。それでいい?」
「うん。…そうしてくれると」
わたしたちはごもごもと視線を外したまま言葉を交わす。どうしてか、少し冷静さが戻ってくると互いに照れくさいようなむず痒い気分で落ち着かない。昨日からつい無防備に思うままやり取りしてたけど、よく考えると何となく危うい雰囲気であるようなないような…、『指一本触れさせない』とか『そばにいたい』とか。いや何もそんな、ラブソングみたいな意味合いで口にされたことじゃないのは百も承知なんだけどさ。
この人は別にわたしのこと好きって言ってるわけじゃない。そういう個人的な感情で動いてるんじゃなくて、多分。
職場の部下であるわたしが傷ついたり嫌な思いしてるのが忍びなくて、二度とそんな目に遭わないよう気を配ってくれてるんだ。惨めな気持ちで萎んだわたしを見るのがつらいって考えてくれてるに違いない。何というか、共感性の高い奴だから。
そこんとこちゃんと弁えて、変な風にふわふわ浮かれないよう気をつけないと。
不意に増渕が顔を上げ、その場の雰囲気を変えるよう明るい声を出した。
「あの、そうだ。タミさん、このあと予定とかありますか?早く帰らないと駄目?」
「え。…別に、特には。なんで?」
急にそんなことを訊かれた理由がわからなくて反射的に少し身構える。増渕はそんなわたしの反応を気に留めるでもなく、てきぱきと提案した。
「いえ、もしよかったら。今日ここで夕飯食っていきませんか?一緒に。簡単なものでよかったらですけど。僕、何か作ります。あり合わせのものですけど」
「いやそれは。…そこまでしてもらうのは。さすがに悪いよ」
慌ててばたばたと手を振って遠慮する。ただでさえこいつのプライベートに勝手に食い込んで侵食してるってのに。そんなところまで甘えるのは。
本来なら昨日のお礼に何かわたしが作ります!って腰を上げなきゃいけないところなんだけど。そんなことになったらキッチンは回復不能、惨状を呈した状態になるのは火を見るより明らかだ。却って迷惑を及ぼすこと間違いなしだし…。
それでも座っていられず腰を浮かしかけるわたしを手で制する素振りを見せて奴は立ち上がる。優しい声色で言い聞かせるように話しかけた。
「いいんです、どっちみち自分の分は作るつもりでいたから。ほんの少し量を増やすだけで手間は全く同じだし。…一人で味気なく済ますより、もし迷惑じゃなければ。一緒に食べてくれたらすごくそれだけで。…嬉しいです、から」
わたしは根負けして頷いた。こんなこと真っ向から言われたら勝てるわけない。
こいつって案外こういうとこ駆け引き上手っていうか。自分のペースに持ってくの得意なんだよな。
「じゃあ、遠慮なく。ご相伴に預かるけど…。でも、わたしにも手伝わせて。大人しく座ってた方が足手まといにならないのわかってるけど、自分でも。やっぱり、少しでも何かしたいから。座って待ってるだけなのは嫌なんだ。…駄目かな?」
ちょっと様子を伺うように引いて尋ねると、奴は何故かどぎまぎした顔つきで目線を逸らして頷いた。
「そうですね。…だったら、一緒に何か作りましょうか。無理のない範囲で少しだけ手伝ってもらおうかな。洋服汚れちゃうと行けないから、エプロン出します」
「別にいいよ無印良品だし」
大抵身につけてるのは無印かGAP。ものによりユニクロってレベルだから。多少汚れても替えがきかないってほどのことはない。
奴は首を振り、甲斐甲斐しく引き出しをかき回してエプロンを見つけてきた。
「だって、トマトソースのパスタのつもりだから、メニューが。一度ついちゃったら落ちないかも。…はい、どうぞ。これ」
観念して抵抗をやめ大人しくそれを身につけるわたしを見て、何故か目を細めて感に堪えない声を出す。
「…ああ、すごく似合います、タミさん。思えばエプロン姿見るの初めてだな。なんか、いいものですね。得した」
何言ってんのこいつ。
「別に、珍しくもなんともない代物だけど…。前に喫茶店で働いてた時は毎日このかっこだよ」
「ああ、そうか。その時に店に行って見たかったかも、ちょっと。喫茶店のウェイトレスのタミさんかぁ…」
何妄想してんだ。何故かほわっとした表情の増渕に少し引く。
この分だとファミレス時代も見てみたかったとか言い出しかねない。あの時は制服だったし。ちょっと、ここでは口に出さずに置こう。
それからわたしたちはお世辞にも広いとは言いかねるキッチンに移動し、二人で何だかんだやり取りしながら夕食の用意を始めた。ぶきっちょでも何とかできるくらいの仕事を指示してもらって頑張ってこなす。どちらかというとお母さんの手伝いをすると言い張る子どもと、邪魔にならない程度にほどほどの仕事を選んで与える母親って構図だけど。
わたしとしてはただお客さんみたいに何もせず座って待ってるよりは気持ちの上では満足だった。増渕はさぞ内心迷惑だったろうなぁって知らない訳じゃないにしろ。
出来上がった料理を二人で向かいあって食べて、何となく心が満たされる思いになる。仕事のパートナーとして適正な距離を置くよう心がけてた今までの関係に不満があったわけじゃない。でも、こういうのはこれで案外悪くない、かも。
思いの外美味しくできた(まぁ、味つけとか肝心なところは増渕が担当したから当然か)トマトソースのパスタをしっかり味わいながらどうでもいい話であれこれやり取りする。こんな何でもない日がこれからも続いてくといいな、と不覚にもつい胸の内でほっこりと考えてしまった。
以来、時折そうして事務所で夕食を作って二人で食べることが多くなった。
そうなると食材が足りない、といって連れ立って近所のスーパーへ買い出しに出たりすることもある。子どものお遣いみたいな小さな袋を持たされて、大きな重い袋を運ぶ奴の隣を歩きながら新婚カップルか、と何とも微妙な気分になる。
無論そういうことではない。一緒にいる時間がぐんと増えて、プライベートな領域に食い込むようになってくると自然と話の内容にも影響して仕事外の話題が増えてくる。油断してると言葉もどんどん気安くなり(特にわたし)、リラックスし過ぎてちょっと業務時間内は気を引き締めて切り替えないとな、と真面目に考えるくらいだ。
そうして距離は縮まったと思うけど、それ以上に関わりが増えてはいかない。つまり、仕事のあとに事務所のキッチンでごはんを作って食べるのはありだけど、二人でわざわざ外で食事するとかはない。当然啓太としたみたいに休日や仕事終わりに一緒に何処かへ出かけるとかもなし。友達や個人的な知り合いとは言い難い。
わたしたちは相変わらず職場の上司と部下、それ以上でも以下でもない。いやそれが不満って訳でもないんだけどさ。
増渕が面談室にお客様と二人でこもってやや複雑な話をしているらしい時間に、わたしは一人リビングでパソコンを睨みながらちょっと頭が留守になりかける。いけない、雇用主の目がないからって。気合抜け過ぎでしょ。このあと多分、降霊のときはわたしも呼ばれて中に入る手筈なんだし。脳を仕事バージョンにセットアップしてちゃんと気持ち切り替えておかないと。
なのになんだか集中できない。仕事中も上の空になるほどわたしの生活に何かが起こったわけでもないのに。
お客様に淹れたついでにわたしもお相伴に預かった美味しい緑茶を一口飲んで小さくため息をつく。
大学卒業してからこっち、常に困難やもどかしさを抱え込んできた日々がようやく終わりを告げて。どういうわけか運よく理解のある職場に恵まれて、その上雇用主はプライベートな悩みや辛さにまで手を差し伸べてくれる。わたしに本人の自覚もない霊的な不調があればそれを解決してくれ、結局は現実世界での対人関係のトラブルまで対応してくれた。
その上これからも異性から不本意な接近を受けないようにずっとあなたを守る、とまで言われて。相手やシチュエーションによっては引く台詞なのかもしれないけど、わたしにとっては真剣にありがたいことだった。実際に今まで何度となく男の人との距離の取り方については難しさを感じてきたし、一つ間違うとまた変な事態を招きかねない。そのことは重々承知なのにいまだに正解がわからない。警戒し過ぎて不審に思われるか、アラームを解除したあとは油断が過ぎて不意打ちを喰らうかまぁ大抵どっちかに終わることが多い。
こんなんだから男の子の友達や知り合いも長くは続かないし。本当に安定して側にいられそうだって思うのは増渕が初めてかもしれない。それ自体はやっぱり嬉しい。だって、変にトラブルになったら仕事を失うことにも直結しかねないし。
増渕と気まずくなりたくない。そういう気持ちが芽生え始めてる。だったら今のまま、穏やかに上手く関係を維持していければいいんじゃない。そう自分に言い聞かせてはいるんだけど…。
わたしは何が今ひとつすっきりしないんだろう。
「タミさん。…今日は予定どうですか。早く帰らないと駄目?」
その後わたしも加わっての降霊も無事終了し、クライアントさんが帰ったあと、その日の記録を残そうと再びパソコンに向かうわたしの背中に増渕が遠慮がちに声をかける。ことんと軽く胸が鳴った。その反応の意味は自分でもよくわからない。
あんまり知りたくないってこともあるのかも。
「特に。何もないよ」
いつも通りだ。わたしは交友範囲が狭いし、普通の九時五時勤務で土日休の仕事じゃなかった期間が長かったから、自然と学生時代の友達とも時間が合わなくて疎遠になった。ある時期からは電車に乗れなくなったことも足枷になったし。たまに会うのはせいぜい自転車で行ける距離に住んでる高校時代の友人の奥野遥香くらい。あ、彼女はわたしをここに紹介してくれた恩人でもあるな。でも当然、そんなにしょっ中直接顔を合わせるわけじゃない。LINEや何かでやり取りは普通にしてるけど。
だから仕事終わりに約束入れてることなんかまずない。夕食に誘われて断る理由って特にないし。食事を一緒にするのが時折なのは、単に増渕から声をかけられるのが毎日じゃないからに過ぎない。
なんで間が不定期に開くんだろうとちょっと微妙な思いを抱きつつも、もし毎日夕食を一緒に摂ってから帰るようにと誘われたら自分はどうするんだろう?との迷いもなくはない。時々は断った方がいいのかな。でも、用事なんかないのにあえて断るのもおかしくないか。かといって毎日仕事のあとまで顔合わせてずっと一緒に過ごすのも。恋人でもあるまいし。
…そこまで考えてしまい慌ててぱたぱたと手で扇いで思考をかき乱す。ちょっと不審げにこっちを見ている増渕の方に向き直って笑みを浮かべて見せた。
「なんでもない。予定なんかないよ、何?」
食事の誘いとは限らない。間仲さんちにお遣いで何かを持っていくのを頼まれたことだって何回かあるし。まぁ、さすがに啓太とのあの出来事以来は少なくとも増渕の方から依頼されたことはないが。
奴はちょっと躊躇うように口ごもりながら例によって申し出た。そこもよくわからない。断ったことなんか今まで一度もないのに。
「あの、今日。…もしよかったら。夕飯一緒にどうかなって。駄目ですか?」
「駄目なことなんかないよ。全然大丈夫だけどさ。どしたの、今日は早いね。まだお昼過ぎじゃん?」
いつもは終業後に声をかけられるのがパターンなのに。増渕ははにかむ表情を浮かべつつキッチンに向かいながらわたしに答えを返した。
「いや、このあとたまたま予約がキャンセルになって時間が空いたから。滅多にない機会だから、何か時間のかかるものを今から作り始めようかなぁと。例えば、煮込みとか」
「ああ、いいねそれ」
ちょっと心が浮き立ち頬が緩む。確かに、いつも仕事が終わってから手早く支度できるものが多いから。パスタとか、炒飯とか麺類とか。簡単な丼物なんか。
「良さそうな牛肉があったんで、買ってあるんです。ビーフシチューとか大丈夫?嫌いじゃない、タミさん?」
「そんな良さげなもの。最近長いこと食べたことないよ」
何しろ自分で作ることもまあ覚束ないし。外で食べるとなるとそれなりに値段が張る。昼ご飯を食べてからそんなに経ってないっていうのに急に胃の辺りに空間を感じる。現金なものだ。
増渕も明るい顔色で浮き浮きとキッチンの中から言葉を返してきた。冷蔵庫を開ける音がこちらの耳まで届く。
「じゃあ、久しぶりに作ってみます。最近あまり手の込んだもの作る機会なかったから。上手くいくといいけど」
「わたしも手伝うよ」
パソコンを閉じようとすると、キッチンの入り口からぴょこっと顔を出した増渕に制された。
「いいって、タミさんは。さっきのクライアントの記録、まとめてもらわなくちゃいけないでしょう。そっちに集中してて。…それに、下拵えしちゃったらあとはひたすら時間かけて煮込むだけだから。案外そんなに手間はかからないんです。出来上がり楽しみにしてて」
「なんかいいのかな。そんな風にお客様みたいに待ってて」
奴はいつになく爽やかに笑った。
「だって、夕食に関してはお客様じゃないですか。作るのは俺が勝手にやりたくてやってることだから…。それに今は業務時間内ですしね。所員のタミさんにはまだ仕事に励んでもらわないと」
「あそうか。…増渕はいいの、ご飯なんか作ってて?仕事時間中に」
「俺はいいんです。融通効くの。だって、所長だから、一応」
「そりゃそうだ」
確かに。納得してパソコンに向き直る。むしろ、仕事に集中する方が事務所のためかも。そう割り切って頭を作業モードに切り替えた。
その日の最後のクライアントが帰っていって、片付けと事務処理が終わると増渕がキッチンから呼ぶ声がした。…途中からすごくいい匂いがそっちから漂ってきて、お腹が鳴って仕方なかった…。
午後に来たお客さんはこの匂い、何だろうと思ったろうなぁ。まぁ、事務所とはいえ所長の住居だってことは別に隠し立てしてはいないから。
「…すごく美味しい」
ちょっと感動して目がきらきらしてしまう。感情を抑えることもせずそのまま視線を真正面から奴に向けると、増渕はごみでも入ったみたいにしきりに目を何度も瞬かせた。照れたのか、少し俯いてぼそぼそと呟く。
「そんな、大したもんじゃ。誰でもレシピ見てやればこのくらいは」
それ、わたしに言ってんのか。
「肉がおっきいのにほろほろだよ。こんなの誰でも出来んの?」
少なくともわたしにはできない。言い募られて増渕の耳がふわ、と赤くなるのが見えた。
「時間さえかければそれは。…それより、食べてくれる人がいるって思うと。作りがいがあるし、楽しくなります。自分だけのために手間かける気にもなかなか、なりませんから」
「それはそうだよね」
一人暮らし歴の長くなったわたしもしみじみ同意して頷く。こっちは必ずしもそれだけが料理しない理由じゃないが。
何かの感情のこもった眼差しがわたしの顔にひたと当てられた。
「タミさん。…もし、迷惑じゃなかったら。これからも、俺と。こうやって…、食事、とか」
その台詞が発されたとほぼ同時にどん、と腹の底に響くような音が鳴る。その場の雰囲気と相まって不意打ちをくらい、思わず文字通り跳ね上がる。…わ。
「何、これ?…あ」
日付を思い出し、その音が何かを一瞬で飲み込んだのとほぼ同時に増渕も同じことに思い当たったらしい。その口から小さな呟きが漏れる。
「…花火だ」
「そか、花火大会…」
毎年この月の土曜日、ほど近い大きな川のほとりで開催されるんだった。いつも大抵忘れちゃって響いてくる音でああ、と気がつくことが多い。しかし。
「音が近いね、ここは」
「そうか、タミさんちは少し離れてるもんな」
電車の駅で二駅ほど。距離的にここの方が河川敷に近いんだ。しかしまあ。
「これくらいの音だと、だいぶ話しにくいね。これじゃあ気づかないことないな、エアコン入れて窓閉めてても」
「すいません」
いや謝ってくれっていったわけじゃないから。
そう言いかけたところで、不意に増渕がはっと何かに気づいたように顔を上げてわたしを見た。
「あ。…そうか、そしたら。土曜日のこの時間だけど。…普段より電車、混んじゃうな」
慌ててがた、と音を立てて椅子から腰を浮かす。
「タミさん。…早く帰らないと。大変かも」
「ああ。…そうだけど、それは」
ちょっと怯むような思いが胸に翳すけど。そんな弱気な気持ちを振り切って笑顔を増渕の方に向けた。落ち着かなきゃ。
別に多少電車が混んでたからってどうってことないのはわかってる。朝の通勤ラッシュじゃあるまいし、身動きできないほど混雑してるとは思えない。常にいつも、変な人が近くに居合わせるとも限らないし。必要以上に恐れることなんかない。
「今帰ったって。…多分、もう少し後だってそんなに変わんないと思うよ。だったら最後までちゃんと食べていきたいの。駄目かな」
せっかく増渕が作ってくれた料理なのに。慌てて途中で席を立ったりして台無しにしたくない。奴は戸惑いを目に浮かべつつ半分腰を下ろした。
「駄目なんて…、勿論、食べてくれたら。あ、でも、無理しないで。俺に気を使うことなんかないですよ。また機会があったら作るし、いつでも」
「あんたに気なんか使ってないから。これ美味しいし、勿体ないもん。…あ、ねえ、そう言えば。ここから花火って見えるの、ちゃんと?」
どぉん、とお腹の底に響く音に気を引かれ、思わず伸び上がってベランダの方を眺める。
「うちなんか二階だからさ。周りの建物に遮られて全然花火なんか見えないんだよ、いつも音だけ。ここは四階だから、どうなのかな。少しは見える?」
「うーん、うちも結構周りのビルに遮られてますね。この目の前のこれさえなきゃなあと思ったりするけど。…あ、でも欠けるけど全然見えないわけじゃないから。ちょっと、ベランダに出て見ます?」
自然と浮き浮きした気分が戻ってきて、二人して連れ立ってベランダにサンダルを突っかけて出る。盛夏のこの時間帯、完全に暗くはなりきってない感じ。そこにどぉん、と再び重い音が響き渡って慌てて目線を遠くに走らせる。
「あ、ちょっと見えた。…あそこ。あの建物に半分隠れて」
「え、どれ?何処よ」
増渕が手で示す方向に思いきり伸び上がる。その時、奴の腕にわたしの頭がつと触れた。その途端びくん、と怯えたように腕を引っ込め反射的に謝ってきた。
「…すみません」
「いや別に。…全然」
そんなくらいでいちいち謝るのか。わざと触ったんでもないのに。ちょっとそこは神経質すぎる気がして承服しかねる。素知らぬ振りでそのまま次の花火を待つ。何となく、一定の距離を保ちつつもすぐそばに立つ増渕の体温が微かに感じられる気がして、やや寄り添うように身を近くに置いた。
増渕はあえて位置をずらしはしなかった。二人して互いの息遣いを感じるようにそばに佇んで、次の光の爆発を静かに待っている。不意に増渕の身体の存在感が身に迫るように感じて、何とも胸が詰まって苦しくなった。
…ほんとは。もう少し。…そばに寄ってもいいんじゃないか…、って。
思う。…けど…。
「…タミさん」
どぉん、という地響きのような音に重なるタイミングで増渕がく、と上体だけ寄せてわたしの耳の近くで囁いた。こんなことされたこともなかったので、温かい息が耳にかかるようや感じるとなんとも。
実際にはそこまで距離が近くはないから、気のせいだとは思う。でも、いても立ってもいられない。身体のあちこちが焦ったく疼くような。
わたし、一体どうしちゃったんだろう。
「心配しないで。今日このあと、ちゃんとお家まで責任持って送り届けますから。混雑してる電車の中なんて、そんなところであなたを一人きりにするつもりは絶対に…、ないから」
「いいよそんな。この時間から出かけるなんて、いくら何でも億劫でしょ。別に、一人で帰れるよ。普段だって混んでること、たまにあるし。…大丈夫だって」
そう答えつつもちょっとは怖気づく気持ちはある。今まで花火大会の日の土曜に電車に乗ったことなんかないから。正直どの程度の混み具合なのか想像できない。
そんなわたしの迷いを読み取ったかのように奴は論争は終わり、とばかりにきっぱりと言い渡した。
「タミさんがよくても俺が嫌だから。やっぱりすごい混んでたんじゃないか?とか、何か嫌な思いしたんじゃないかとか、家でやきもきするくらいなら。一緒に行った方が断然ましです」
「…うー、ん」
そこに再び花火の音が。今度はまた一段と重くて、大きい。思わず期待でそちらへ関心を持ってかれる。わたしと増渕はより花火が見えそうなポジションを探して、身体の位置をずらす。期せずしてさっきより二人の間の空間が縮まったけど息を潜めてそのままでいた。
「…あ」
「綺麗だね」
ほんの少し欠けてるけど、目の前のビルの上から覗く大輪の光の花。増渕の体温と息遣いを感じながら静かに息を整え、落ち着け、と自分に言い聞かせてた。
わたしばっかりこんなにどぎまぎしてるのは本意ではない。
結局、ベランダで寄り添うように最後まで欠けた花火に見入ってしまい、部屋に戻って冷めてしまった料理を最後まで食べたらそこそこの時間になってしまった。片付けはいいから、ときっぱり言って自分も財布と携帯をポケットに突っ込んで立ち上がる。有無を言わさない感じだし、正直不安がないこともなかったので結局甘えて送ってもらうことに。
電車はやはり想像以上に混んでいた。浴衣の女の子やカップルが多いから怖い雰囲気ではなかったけど。他人の身体がくっつくのは避けられないレベルだ。増渕はわたしをドアの傍の角に立たせ、自分の身体を壁にしてわたしを庇った。ぎゅうぎゅう押されても手すりと壁に両手を突いて、絶対にわたしに触れないよう必死に距離を保っている。それでも増渕の身体が近くて、心臓の音が聞こえそう。…わたし方の心音も。
駅でぐ、と危なっかしいブレーキがかかって、人の波がわっと揺れた。反動で増渕も背中を押されて少しわたしの頭に腕が触れる。慌てて身体を硬くして引いて謝った。
「…すみません」
「いや。別に…、このくらい」
何とも萎んだ気分でぼそぼそと答える。こいつ、もう絶対にわたしに触る気ないな。
まぁ今までの成り行きを考えてみたら、当たり前っちゃ当たり前のことなんだけど…。
駅で降りて言葉少なに微妙な空気の中、注意深く一定の距離を保った奴と並んで歩く。わたしの家は駅から割に近い。あっという間に着いてしまった。
二階まで一緒に上がって、ドアの前まで来た。わたしが向き直って二人で対峙する形になる。少しわたしより背が高い増渕が俯くように顔を覗き込んだ。
一瞬何とも言えない間があく。
…普通、こういう雰囲気になったらさ。キスしろとは言わないけど、さすがに。それでもおでこにとか。いややっぱりそれも唐突感があるか。でも例えば手を伸ばして髪に触れるとか。頬に手のひらを当てるとか。頭をくしゃっとするとか、いろいろあるでしょ考えられること。…でも。
増渕の目がためらいがちにわたしにドアの方へと促した。やっぱりそんなのも全然なしか!
わたしはちょっとどよん、とした胸の内を押し隠して素直にバッグの中から鍵を探って取り出し、奴に背中を向けた。あーあ、悪い雰囲気じゃなかったのに。やっぱり今日のところはこれで終わりか。
コーヒーでも飲んでく?とかいうのも現実的じゃない。奴がその提案に乗るとは万が一にも思えないし。
「おやすみなさい、タミさん」
背後から遠慮がちにかけられた台詞に我に返る。ちゃんとお礼、言わなきゃ。慌てて向き直り、増渕の顔を見上げる。
「おやすみ。…今日はほんとに。いろいろありがと。ごめんね、こんなとこまで、わざわざ」
「そんなの」
暗い灯りの下でその澄んだ小さな茶色の目を覗き込むと、奴がまたいつもの喉に何かつっかえたような表情を浮かべた。それからちょっと焦ったように目を逸らし、じゃあ、また明日、とぼそぼそと呟いて、わたしに中に入るよう手で促す。
無事に部屋に入って内側から鍵を閉めたのを確認すると、やっと増渕が帰っていく気配がした。わたしはちょっと脱力して、思わずその場にしゃがみ込んで膝を抱えてしまう。
…うーん。なんていうか。いろいろな感情が一遍に押し寄せてきて複雑な気分。浮き立つような凹むような。湧き上がるような萎むような。
でも、はっきりと自分でもわかったことがある。今まであんまりちゃんと向き合って考えたことなかったけど。
…この先、もし万が一。いつかどういう訳かわたしがとち狂って、何故かあいつに触れてほしいとかもっと近くに来てほしいとかそんな願望を抱くことがあったとしたら。…仮の話、だけど。
自分の膝に頬をぐい、と押しつけて何ともふてた気持ちになる。まず間違いなく、自然な流れで向こうから来てくれることは絶対に期待できない。今までの経緯が経緯だから奴にはがっしりとブレーキがかかってることは確かみたいだ。
そしたら。もしもいつか、どういう訳かわたしがあいつにその気になっちゃったりしたら。…一体、どうすればいいんだろ?
何処か甘さの混じった重いため息が我知らず漏れる。…経験値が足りなさ過ぎて。
全然、想像もつかない…。
《続》