第2章 増渕くんは断らない
第2話めです。
サブタイトルの入れ方がよくわからないので、結局章立てごとに投稿する次第。
まだだいぶ勝手がわからないことだらけですが、話の方は少し軌道に乗ってきた気がします。
今回は増渕くんの断らなさ加減と、タミさんの過去の傷がほんのちょっと好転する話がメインです。思いのほか心霊相談所っぽい話にもなりました。でも怪談的な怖さゼロです。
すごく日常的な心霊ものになりそうです。そして、恋愛展開になるのはも少し先になります。
それではとにかくどうか少しでもお楽しみ頂けたら幸いです。
次の日からわたしは猛然と活動を開始した。
あのあと、所長たる増渕弟から連絡がきたのはやっと夜七時過ぎてから。スマホの呼び出し音を耳にして、まさか今この時間まであのクライアントと一緒だったんじゃないでしょうね、と思いつつもまあ余計なことだ、と詮索する気持ちを押しやった。通話をタップして応答すると、やや緊張気味の硬い声が。
『本当にすみませんでした、赤崎さん。あんな風に面接の途中で、中途半端なことに』
恐縮する彼に微かな同情を覚えて、つい宥める声を出してしまう。
「いえまぁ。お気になさらなくても大丈夫です、お仕事なんですから。それで、あの方の依頼は無事済んだんですか?」
特別気になった訳でもないが(何故なら、どんな内容かは知らずとも彼女はどこかあんまり深刻そうな様子に見えなかったから)とりあえず尋ねると、増渕氏はやや苦笑いを滲ませて答えた。
『ええ、おかげさまで。そんなに難しい内容ではなかったですから。終わった後の世間話の方が長かったくらいで…。ただ、あの方が帰られるより先にもう次のお客様が来てしまって。途中で電話も何本か入ったりごたごたでしたので。結局今まで仕事の切れ目がなくて、こんな時間になってしまいすみません。すぐご連絡もできずに』
「大丈夫です、そのまま家に帰っただけなんで。それにお客さんの方が大事でしょう」
言いながら、そうだよな本当に。こっちは単に従業員(候補)だけど、向こうは依頼をして謝礼を払ってくれる相手なんだから、と改めて思う。断然あっちが優先で間違いない。
だからって、あれから休みなしでずっと一人でアポ無し依頼や電話連絡に対応するんじゃ。わたしは内心で肩を竦める。確かに、そういう交通整理をする人を別にちゃんと雇って、本人は本業に専念できるシステムを構築しないとこりゃ続かないわ…。
『それで、あんまり細かいお話もできなかったんですけど。明日から是非いらして頂けたら、と僕としては考えてますが。思えばうちの事務所の業務内容の説明もろくにしてないんですよね。単純に事務作業とか電話応対や接客だけなら特に問題ないんですけど。…ちょっと、特殊な分野を扱う面がなくもないので』
「てか、特殊なことだけですよね、多分」
遠慮がちかつ遠回しな表現に半ば呆れて突っ込む。今更何言いにくそうに口ごもってんだ。
「心霊関係の仕事をするって聞いてます、奥野からは。それは伝聞だけど。事実ではあるんですか?こちらは霊感てやつも全然ないし。そんなことで大丈夫なのかどうか…、それを確認したかったんですけど」
『ああ、勿論それは問題ないです。だって霊感が必要なのは僕だけですから。助手をしてもらう方にはそんなの必要ありません』
当然、みたいな声出されても。
『うちに来る依頼は主に口寄せかサイコメトリクスです。口寄せ、わかります?一般的にはいわゆるイタコとか。ノロとか。…霊と交信して何かを伝えたり言葉をもらったりするあれですね』
「ずいぶん日本の端っこと端っこの例持って来ましたね」
青森と沖縄じゃん。まあ、それぞれの土地柄で役割や内容も違いがあるだろうが。
「日本の真ん中ってことで言うと拝み屋ってとこですか。サイコメトリクス、なんでしたっけ?」
普通そっちの方がわかりにくい。彼は落ち着いた口調で説明してくれる。
『モノから情報を読み取るやり方です。亡くなった方の遺品とかもありますが、現在連絡の取れない方の持ち物を持って来られる方が多いですね。あとは、何があったかはっきりしない事故やなんかの現場にあったものを取っ掛かりにその時の状況を見るとか』
いつまた飛び込みのアポ無し訪問が向こうのドアを叩くかわからない。そう思いつつもつい、その場で疑問を口に上らせてしまう。ここはてきぱき話を進めて明日からの仕事に備えないといけないって頭では思ってるんだけど。
さっさと最低限の用件を済まさないと、結局最後まで話し終わらないかも。
「それって交通事故とか、殺人事件とか…」
『殺人事件はさすがに今までそう沢山はないですけど』
ゼロとは言わないんだ!
『交通事故に限らず、人の目のないところで亡くなった方については遺族の方はやっぱり経緯を知りたいんですね。最期の状態を教えてとかは割にあります』
「そんなの、警察だって情報欲しいって思うんじゃないですか?」
事件性のあるものなら。そう思って尋ねたけど、彼は穏便な口調であっさりと片付けた。
『でも、僕みたいなのがこういう場面が見えたって言っても、法的な証拠には全然ならないですからね。自分としてはこれは本当にあったことだって確信が持てなければ口にはしないって決めてますが。だからって警察の方がそれを信じる義理なんかないですし。でも、遺族の方にとっては実際あったことを知ることがやはり慰めになることもあるんですね、証明はできなくとも。だから、意義はあると思ってやってます。自分なりに』
「なるほど」
素直に頷く。まあな、拝み屋さんがあの人を殺したのはあいつです!とか言ったらそれだけを根拠に逮捕されるんじゃ。力がある、ないなんて曖昧な判断だし。この人の言ってることは本当だけどこっちの言うことは信用ならんとか、そんなの法治国家とは言い難い。
物理的証拠がなければ全部なし、がこの場合やっぱり正しい。警察としては。
でもこれだけ依頼人が押し寄せるってことは、やっぱりそういう隙間的なニーズは絶えずいつでも存在してるってことなのか…。
『あなたがあまりにも霊的な影響を受けやすいとか、取り憑かれやすいとかだと…、まぁ、全然問題がそこら辺ないとは言えないんですが』
「えぇ?」
反射的にぎょっとした声が喉から飛び出る。二十五年以上生きてきて全然聞いたことない、そんな話。
『いえまぁ今はその辺、細かいことは。ちゃんとそのうち落ち着いたところでお話ししますけど。一般的に言うと次から次へと霊を吸い寄せるような体質って訳でもないし。まあ普通レベルの範囲内ですから、特に一緒にいて危険ってことはないかな、と。むしろ僕の方が問題あるかもです、そこは。また改めてご相談しますが』
うえ。どういうこと。
「何を…」
と言いかけたところで。電話の向こうで微かなピンポン音が。また例によって切羽詰まった慌ただしいやつ。
『あぁ…、来ちゃった。また』
口ではそう言いながらもあんまり参ってない様子。平然と当たり前のようにわたしに向かって告げる。
『すいません、ちょっと、続きは明日でもいいですか。予約はもう入ってなかった筈なんですけど…まぁ、いるのに出ないのもなんですし。細かい待遇みたいなことは朝話し合いましょう。割に午前早めの時間はアポ無し訪問が少ないですから。…朝九時出勤、早いですか。九時半?』
「九時でいいです。…あの、ピンポンすごいですよ。じゃああの、お話はまた明日ってことで」
実際、連打と言っていい。あれじゃあ居留守も使いづらいな。事務所と住居を兼ねてるとこにも問題があるんだろうけど…。
どうやって防波堤になるべきなのか、これは悩みどころだ。
『ああ…、まあ、少し待ってもらっても多分帰りそうもないですから。じゃ、明日お待ちしてます。一応印鑑だけ。他は特に必要なものないですよ。住民票とか戸籍謄本とかも要らないし』
泰然とつけ足すと、焦る風でもなくそれでは、と呟いて静かに電話を切った。全然急いでないし。
わたしは深々とため息をつき、スマホを充電器に繋いだ。多分だけど。
霊なんかより遥かに、生きてる人間の方が難物な職場なのは間違いなさそう…。
前の晩からあれこれ考えあぐねたわたしが翌朝まず最初に提案したのは、彼の電話番号を変更することだった。
「え。…スマホ、なんですけど。普段も使ってる」
躊躇する気持ちはわかるけど。わたしは肩を竦めた。そもそもこんなことに私用の携帯番号を使うこと自体が抜かってたとしか言いようがない。いろいろ不都合は生じるとは思うが。
「会社名義の携帯を購入させてもらおうと思うんです。代表番号としてわたしが管理する分と、増渕さんが仕事上で使うのと。てか、顧客と話す用事ができたときももう個人の携帯使わないで下さい。業務用の携帯なら時間外は電源落とせるでしょ」
「ああ…、なるほど。そりゃ、そうですね」
何感心してんだ。
「いやそれくらいは。普通考えると思うけど。…てか、事務所開くとき思いついて下さいよ、それは自分で」
だんだん口調がつけつけとしてくる。別に悪感情はないのだが。彼は全く気にする風でもなく目を瞬かせた。
「いや、個人的に相談を受けてるうちにだんだんこんなことになって。最初の頃は起業することになるなんか想像もしなかったから…」
それはそうか。初めは普通に自分の個人の番号でやり取りするしかなかっただろうし。それが次第に収拾がつかなくなっていった訳で、仕方ないといえば仕方ない。わたしはそこは拘泥せずさっさと説明を済ませようと話を継いだ。
まだ午前中の早い時間とはいえ、いつまで二人きりで打ち合わせを続けられるかも不確かな状況だ。手早く終わらせるに限る。
「今から番号変えても既に知ってるお客さんは前の番号で連絡取ろうとするでしょうから。やっぱり、きっぱりプライベートの番号も変えるしかないと思う。面倒かもしれないけど、もし大変なら必要な相手にはわたしから変更をお知らせしてもいいです。忙しいところに余計な手間で申し訳ないし」
「いや、大丈夫です、それは。身から出た鯖だし…。仕事絡みの顧客の方を除けば、そんなにたくさん友達いる訳でもないから。大した手間でもないかも」
そんな悲しげなこと明るい顔できっぱり断言するなって…。うん、でもまぁ。自分のことを省みても。思えば番号変わったことを絶対に知らせなきゃいけない相手って、案外そんなに人数いないかも。学生時代の友達だってもう何年も連絡取ってないのは割に普通だし。そのうちの全員に番号の変更知らせる気には意外にならないかもな…。
わたしの場合、過去の職場の知り合いにつき合いの続いてる相手がほとんどいないから多分平均より世間が狭い。そこまで考えてふと思った。この人がどのくらいプライベートで社交的か実態は知らないけど。もしかしたら親しい知り合いの数についてはわたしとどっちこっちでもそんなにおかしくないかも。思えば就職して早い段階で退社して独立を余儀なくされたって話だし。今まで事務所は自分一人でやりくりしてた訳だし、仕事仲間だって碌にいないに違いない。
わたしもそうだけど。自分の周囲の世界を拡げる前にそこからドロップアウトしちゃったから、未だに狭いとこに閉じこもったままなんだよな。
「でも、せ…、赤崎さん。お得意さまや、今まで仕事引き受けた方たちにも番号の変更伝えなきゃいけないですよね?前触れなしにいきなり電話が使用不能になったら、今より更にみんな直接押しかけて来ちゃうかも」
そう話しかけられて我に返った。…そりゃまあ、そうだ。どんな混乱と阿鼻叫喚の沙汰になるか、朧気ながら目に浮かぶ気が。
わたしはぶっきら棒に肩を窄めた。仕事とは言え他人様がこれまで放置してた状況の後始末。実に面倒なものだ。
「ホームページ、あるって言ってましたよね。そこでまず今から周知して。…増渕さんの携帯に登録してあるお客さんには、それぞれ個別にお知らせしましょう。新しい代表番号を」
しばらくはひっちゃかめっちゃか、事務所がようやく落ち着きを見せるまでは数日を要した。
取り急ぎ販売店が開くなり速攻赴いて新しいスマホを二つ契約し、一つをわたしが常に管理する事務所の代表番号用とする。もう一つは彼がお客さんと電話で直接連絡を取り合いたい時に使うためのものだ。そっちは積極的に番号を公開して周知する必要はないが、普段の彼のプライベートの携帯を使えばまたそこに直に連絡をもらうサイクルに戻ってしまう。私的領域に侵入されない防波堤として仕事専用の電話はあるに越したことない。
それから彼が現在使っているスマホの番号を変えてもらった。事務所に戻ってPCサイトに載せてる番号を書き換え、彼の個人携帯に既に登録済みの顧客に新しい代表番号を通知するメールを送り、その後個人的な知り合いの皆さんに新しいプライベートの番号をお知らせして…。
程なくしてわたしの手許にある事務所代表番号用のスマホが鳴り始めた。番号変更通知のメールを見た顧客からの問い合わせが次々とかかってくる。その度作業を中断し、今後はこちらの番号におかけ願います、予約は私が承りますと丁寧な口調(出来るだけ)で説明した。
『今まではいつ行っても結構融通利かせてもらってたけど』
不満げに漏らすお客様に、申し訳なさそうな声(可能な限り)を出してみせ、
「大変申し訳ございません。このところ、一気にお問い合わせやご予約が増えまして。今まで通りでは立ち行かなくなっておりましたので。きちんと予約管理して、その通りに滞りなくご依頼承る方がお客様の便宜を図る意味でも今後よろしくなっていくかと」
と頭を下げると、大抵の人は渋々ながら
『まぁ、予約時間に行っても誰かが先に割り込んでたりして結局待たされることが多かったから。それなら自分も予約取る必要ないやって最近なっちゃってたかも。ちゃんと約束の時間守ってもらえるんならそりゃ、その方がいいわよね』
と納得してくれた。…よかった。
そうか、イレギュラーな方々は初めはほんの数名でも、それで割りを喰った顧客はそのあと順番守ろうとか思わないよね。そうやってだんだんルールが崩壊していったのか。なんか、わかる気がする。
そうしてかかってくる電話に応対しているうち、予約を入れたいんですけど…、との申し出もぽつぽつと混じり始めた。メールをもらってとにかく状況を知ろう、と取るもとりあえず問い合わせてきた人ばかりでなく、依頼をしたいクライアントからも連絡が入ってきたのだ。
その場合わたしに顧客情報はない(増渕くん、何らかの形でカルテみたいな記録を取って置くように!と言わないと、忘れずに)から、所長に取り次ぐより他ない。どれくらいの時間や手間がかかる内容かとか、判断の基準がないし。まあ、直接彼のプライベートの携帯にがんがん電話がかかってくるよりは防波堤として一定の役割は果たせそうだ、この調子なら。その時、不意にドアチャイムの音が鳴りわたしは図らずも飛び上がった。
「…お客さんですかね?」
電話をちょうど終えた増渕くんがわたしに声をかける。わたしは首を竦めた。
「まぁ。…何かのセールスってこともなきにしもあらずですけど。ちょっと、見てきます」
立ち上がって玄関に向かう。思えばまだこの変更をして間もないし。PCのサイトも送られてきたメールもチェックしてない人だっていておかしくない。そしたら今まで通りに予約なしにふらっと尋ねてくるのがまだ当然って感覚でいるだろう。
レンズを覗くと、見た目は大人しそうなごく普通の女性だ(しかし、女の人多い!たまたまここまで平日の昼間ばかりだったから?フルタイムで働いてる人はやっぱり夜とか土日に押しかけてくるのか。そうするとそこは若干でも男性率高くなるのかな)。わたしの誰何におずおずと名乗り、肩を窄めた。
『すみません、朝からメールチェックする暇なくて。空き時間ができたのでつい、いつも通り慌てて出てきたんですけど』
「…どなた?」
背後から増渕くんの問いかけが。わたしは振り向いて声を落とす。
「佐伯さんって方です。メールはお送りしてたんですけど、今朝方以降見る機会がなかったみたいで…。どうしましょう。お受けします?このあと予約ってどうなってますか」
増渕くんはにっこり笑い、温厚な表情で頷いた。
「ああ、問題ないです。さっき午後の予約はいくつか入れたけど。昼までは何もないから…。そうか、佐伯さんだったら多分口寄せだろうな。そしたら先輩にも立ち会ってもらおうかな…」
「え、誰?」
突然の登場人物に慌てる。ここって、まだ他に人いたの?それとも外部から誰か呼ぶの?
わたしのぽかんとした顔つきに増渕くんは我に返ってちょっと焦った様子で弁解する。
「あ、すいません。ちょっと、タミさん…、じゃなかった、赤崎さんのこと、実は高校で先輩だった時のイメージが強くて。頭の中ではつい先輩って呼んじゃうんですよ。ちょっと、油断すると時々口にしちゃうかもしれないんですけど。…嫌でしたら今後もっと気をつけるようにします、が」
「いやまぁ。…それはいいよ別に」
調子狂う。ぼそぼそと呟きつつ内心ちょっと参る。歳下だけど一応上司だし、と思ってなるべく敬語を使おうと苦心してるけど。こっちも相手のあまりのふわっとした頼りなさについ、心の中で『くん』付けしてる始末。そんな内実が伝わらないように気を使うつもりでいたのに。
あんまりにも今後も『先輩』扱いされるとこっちもうっかりそういう気になりそうでちょっと怖い。ただでさえこの子、ナチュラルに後輩感満載なんだもん。わたしの方は彼の高校時代のことは全く認識もないしイメージだってない筈なのに。
そしてその危惧通り、ほんの数ヶ月後には完全なる先輩・後輩関係に結果突入する羽目になるのだが。そんなことはこの時点でわたしには知るすべもない。
その依頼人、佐伯さんは快く新米助手のわたしの立会いを了承してくれた。その後次第にわかってきたことだが初日のあのお客さんみたいな方はむしろ少数派で、口寄せやサイコメトリクスの現場に助手の立会いも拒むようなクライアントはほとんどいなかった。
まぁ、所長と助手の立場は言うなれば医者と看護師みたいなものって思えば。病院に行って
「いえ、看護師さんに患部を見せたくはありません。診察室から出ていって下さい」
って言ってるのに近いだろう。
勿論増渕くんは現在でも必ずクライアントにわたしがその場に立ち会ってもいいかどうか確認するのを怠らないが。
「確かに医者の診察に似てはいますけど。同じって訳にはいきません。デリケートなケースもなくはないし。処置をする人間以外、最小限の人にしか内実を知られたくない人だっています。そこはやっぱり配慮が必要でしょう」
そう言われて頷く。わたしだって何がなんでも顧客の触れられたくない微妙な秘密を覗きたい訳じゃない。そういう個人的な関心はほぼない。
ただ、かと言って増渕くん一人で全部対処するのも問題がなくはない。てことは、その日の立会いで改めて明らかになった。
ちなみに、彼のご家族はともかく本人が助手を探してた本当の理由は、事務所のこもごもがコントロール不能で収拾がつかないって事実よりむしろこちらにあったらしい。
今回のクライアントの彼女は二十代後半、独身。なかなか美しい方ではある。この間のあの人みたいに変に増渕くんに対して距離感が近くもなく、ごく穏当な控えめな態度だ。
でも、彼女が呼び出す霊体は必ずしもそうではなかった。
どうやら若かりし頃、彼女の恋人は不慮の事故で生命を落としたらしく(そんなことって小説の中とかだけじゃなく実際にあるんだ、とつい考えてしまったが。思えば若くして亡くなる人が少数とはいえ存在する限り、その人と死に別れる恋人も一定数常にいる筈だ)何年も経過した今では霊体本人もやや落ち着きを見せ始め、安定した状態になりつつある過程だとのこと。
それで彼女は折に触れてここに来ては恋人の霊と交信して近況を報告したり、場合によっては日頃の悩みを相談したりするのだという。
「まあ、現在はそれが心の支えとなってることは否定できませんが。いつまでもそういう状態が続くのも健全とは言えないし悩ましいところですね。そういう接触も少しずつ間隔を空けていくのがいいってアドバイスしてはいたんですけど」
とは、後ほど改めての増渕くんの解説。
リビングから別室に移り、簡素な診察室風のそこで佐伯さんと向かい合って椅子にかけた増渕くんは周囲の状況を遮断するかのように目を閉じて呼吸を静め、しばし集中した。わたしたちが息を飲んで様子を伺っているとやがて彼がゆっくりと顔を上げ、まっすぐに彼女を見据えた。
表情というかなんというか、どこかが明らかにさっきまでの増渕くんと違っている。
でも、話し出した彼の口調はわたしの知ってる増渕くんのそれだった。ちょっと不思議。彼そっくりのお面を被った本人が喋ってるみたいな。落ち着いた平静な声色で、淡々と依頼人の恋人の状態を説明する。あなたのことを心配しています、この間話してくれたあのことはその後どうなったのか。報告を欲しがってる、と客観的な口振りで話したかと思うと不意に声が変化して
「そう言えば。最近職場で上司が変わったみたいだけど。あの人はどんな感じなんだ?お前とはちゃんと合うのか、上手くやっていけそうか?」
と完全に別人の喋り方になった。さすがにへぇ、と瞠目する。確かにこれ実際に目の当たりにすると。本当に誰かが彼の中に入ってるってなんだか信じられる。
依頼人の方はその声の主を知ってるから尚更そう感じるんだろう。目を潤ませて『霊が入った』状態の増渕くんとあれこれやり取りしてる。一度彼の口を借りて直接話し出すと霊体の方も止まらないみたいだ。最早増渕くんの通訳もなく、出番なく話は進んでいく。
よく知らないけど。漠然と思う。この状態、霊能者っていうより霊媒では…。
「そうだ、今回相談しようと思ってたことなんだけど」
不意に彼女が改まった口調で切り出した。霊体が入った状態の増渕くんは「うん?」と軽く声を出して話の先を促す。
「…そろそろ、親も歳だし。地元に帰ろうかな、と。今までどうせ戻っても仕事ないからって思ってたけど。結構条件のいい職場を紹介してもらえそうなの。なかなかない機会だからこれをきっかけと考えて」
彼女がそう切り出してからが大変。お前の出身地東京からすごく遠いじゃないか、もうこうやってここにも会いに来ないつもり?とか、実家に帰って向こうで結婚相手を探すつもりだろ、少なくともお前の親はそのつもりだぞとか。わあわあ騒がれて彼女も宥めるように
「向こうに帰ってもちゃんと会いにくるよ。命日には必ずお墓参りにも来るし、ここに来て話もするつもりだよ」
と告げるがおさまらない。
「そうは言っても今までみたいに頻繁じゃないだろ。そうやってどんどん俺から離れて、俺のこと忘れていくんだ。俺はお前のこと忘れないのに」
いやでも。…もうかなり年数も経ってるって話だし。そうやって切り替えていかないと、今後の人生もある訳だしさ、生きてる方は…。
霊体の恋人もそういう認識はあるみたいで、やがて自分が霊だからいけないんだ、と言い始めた。
「やっぱり、身体もないし。いつもそばにもいられない(そうかな。肉体がある方が逆にそういう自由が利かない気がするけど…)。お前を力一杯抱きしめることもできないし。…俺、もうここから出ないでこのままでいるよ。この人の身体を借りて、この人としてお前と暮らそう。そうすればずっと一緒にいられるよ」
「いえあの。…それは」
思わずあまりのことに口を差し挟む。いやさすがに。困るでしょ、いくら何でも。
彼が入った増渕くんはハイになったように爛々とした眼差しを彼女に向けた。
「この人が男でよかった。俺たち、また恋人同士になれるじゃん。それからこの人としてお前と結婚して、子どもを一緒に作って…」
多分絶対困ったことになる。わたしは見学者の立場も投げ打って彼に向かって言い募った。
「この人にもこの人の人生があるし。あなたをずっと中に入れておく訳にはいきませんよ。これは今だけ、あなたが佐伯さんとお話をするために身体を貸してるだけのことですから。…そろそろ返して下さい、それ」
増渕の中の彼はたじろぎもせず悠然とこっちを見返した。
「でも、この人は抵抗してないよ。普通生きてる人間の中に入って思い通りに動かそうとするともっと必死に足掻いてくるもんなんだけど」
やろうとしたことあるんだ。
「だから、案外それもいいと思ってるんじゃないかな。こいつと結婚して、このまま一緒に東京に住んで。この人だって幸せになれるじゃん。そんなに悪くないでしょ」
うーん。確かに彼女は美人だし。それは絶対関係ないとは言い切れない、けど。
それより何より多分、一番の要因は。わたしは内心で呻く。この人、思えば『断らない』男だった…。
それは奥野から聞いてもいたし、一緒にいて実感もしてたけど。密かに心底呆れる。こんな無茶苦茶なことも無碍には抵抗しないんだ。
これじゃ自分の身も守れないってことじゃん。わたしは胸の内で毒づく。馬鹿じゃないの?
新米助手なのに、とのためらいもかなぐり捨ててずいと前に出て、遠慮なく真っ向から話しかける。
「それで何もかも上手くいくと思ってるかもしれないけど。あなただって今、その身体の中にそいつの気配はちゃんと感じてるんでしょ?別に持ち主を追い出して身体を自分一人のものにできてる訳じゃないじゃん。そしたら。…その状態で彼女に触れたりしたら。そいつにも彼女に触られることになっちゃうよ。あなたたち、恋人を共有するんだよ。そんな状態で本当にいいの?」
ちょっと彼が不意を突かれた感触があり、わたしは力を得て話を畳みかける。
「それに。中にあなたも入ってるってわかってても、外見からするとそれは増渕そのものだし。彼女だってあなたといるって感じるよりも、増渕だって実感の方がより強いと思う。そんな状態で恋人同士になるって、実態としては彼女をそいつにあげちゃう感じになるよ。彼女があなたを思い出すより、むしろ増渕のことを好きになっちゃったりしたらどうすんの?そんなことが本当にあなたのしたいことなの?」
彼の目が怯んだ。そのタイミングを見逃さない。わたしは手加減なし、ありったけの力を込めて奴の背中を張り手でどやしつけた。不意打ちだったので大の男の身体(っていうほど大柄ではないけど)がたたらを踏み、よろめく。
それを見てふとこの場にそぐわないあらぬことを思う。わたし、ここ何年か、こうやって男の人をぶっ飛ばしてばっかいるなあ…。どういう巡り合わせだろ。
でも、思い切りためらいなくやっただけあって効果は覿面だった。一瞬で増渕の表情が自然な様子に戻り、根拠なくもああ、抜けたなってすぐにわかる。彼ははっと我に返って顔を引きしめ、目を閉じて素早く口の中で何かを呟いた、ように見えた。何をしたかは傍から見ててもわからない。
わたしは恐るおそる彼に話しかけた。
「…大丈夫?あの人、どうした?」
増渕はちょっと蒼ざめて見えないこともない顔で、でも落ち着いた口調でわたしの方を向いて答える。
「まだちゃんとここにいます。ちょっと、もう僕の身体に入れる気はしないので…。再度入れないように一応ロックかけました。口頭でお伝えできることはしますよ。何かまだ言いたいことありますか?」
どこにも目線を向けずに問いかけると独り言のようだ。しばらく黙りこみ、やがて顔を上げて彼女を見遣る。
「急なことなので気持ちの整理がつかない。もう少ししたらまた相談してほしい。自分には理沙を止める権利はないって頭ではわかってるんだけど…。そっちの時間ではもう八年経ったってことは知ってて、そろそろ自由にしてやらなきゃいけない。むしろこんなに長い間ずっと、俺のことを忘れずに会いに来てくれて…、こうして会話も交わせて。ここまでしてもらっておいてこれ以上…とは。思うんだけど」
不意に言葉が途切れる。じっと探るように目を閉じ、やがて口を開いた。
「…接触が切れました。帰っていったみたいですね。多分、自分が混乱しているって自覚はあって、これ以上今は話しても仕方ないって判断したんでしょう」
「また、話せますか?」
彼女は目を潤ませる。増渕は柔らかい口調で安心させるように話を続けた。
「大丈夫ですよ。でも、少し時間を置いた方がいいかもしれませんね。郷里に帰るにしても、もうすぐにって訳ではないんでしょう?」
彼女は深く頷いて答えた。
「はい。まだ、こういう話が出始めたってところで。向こうでの仕事だって本決まりってことではないし。…でも、どうなんでしょう。やっぱり彼はわたしにここに残って欲しいんですね。どこにいても繋がってるってこっちは思い込んでいたけど、彼から見たら東京の近くにいて欲しいっていうのは…。全然、考えてもみなかった。帰るのはやめた方がいいんでしょうか?」
増渕は静かに首を横に振った。
「ご自分の都合や考えで変更するなら問題ありませんが、彼のためってことなら絶対に残らない方がいいです。あなたたちはお互いに対する思いが強すぎるんです。ごく若い時に生木を引き裂かれるように別れる羽目になったので仕方ない面もあるんですが…。それでもあなたはこちらで八年の月日を何とか耐えた分だけ意識も変化してきてますけど。向こうは時間の経過が全然違いますから。特に現世に対する未練が並外れて強い分だけまだ生々しい気持ちや欲求がだいぶ残ってるんですね」
わたしは内心で密かにため息をついた。まあ、彼女の年齢からすると二十歳前後で死別してる訳で。そんな多感な年齢でぶち切れるように離ればなれになること考えたら。執着が強くなるのも仕方ないのかもしれないけど。
思わずぽろっと口から疑問が溢れる。
「そんなに佐伯さんに執着が残ってるならさ。いわゆる取り憑いたりとかはしないの?それに、住んでるところなんか死んでる者からしたら関係ないんじゃないの?郷里だろうが海外だろうがどこでもついてけばいいんじゃない。身体だってないし目に見えもしないし」
増渕は慌てず騒がずわたしの方を向いて答えた。
「そうですね。普通、これだけ執着が強いとそうなってもおかしくないと思うんですけど。佐伯さん、彼が亡くなって間もない頃に、どなたか霊能者の方に見てもらったことあります?」
彼女ははっと顔を上げた。
「あ、そうです。すごく弱ってた時のことで今まであまり思い出さなかったんですけど。…母がわたしの精神状態を心配してしばらく上京してついててくれたんです。その時に、郷里の友達だっていう霊感のある方を呼び寄せて彼の状態を見てもらったことがありますね。まだ混乱が酷くて自分の死を受け入れられてない、話ができない状態だって言われた覚えがあります」
増渕は頷き、生真面目な声で続けた。
「その時、その霊能者さんは多分、お母さんからはあなたを彼から守って欲しいと依頼されてたんだと思います。あなたにはそうは言えなかったんでしょうが…。連れていかれるような成り行きを恐れたんでしょうね。彼は取り乱してたし、パニックだったと思うので絶対ないとは言えない状態だったかも。…その方、かなり力のある人ですね。まだお母さんと付き合いが続いてるようなら、郷里に帰って心霊関係で迷いや悩みがあったらその人に相談するといいですよ」
同業者を褒めあげる増渕。
「その時に霊能者さんが施した術がまだ効果が残ってるんですね。彼が自分からは近づけないようにガードがあなたにかかってます。僕みたいな者が間に入って口寄せした場合は通路が開いて、それを媒介として会話ができるようになってます。でも直接一対一では交流できない。だからあなた側から正式な呼び出しがないと彼はあなたの前に出られないんです。ここにもう来ないつもりか、と怒ったのはそれでですね」
「はぁ…、そうなんですか」
彼女は今知った、という風で改めてしみじみと嘆息した。
「友達から増渕さんのことを聞いたとき、彼を呼び出してもらわなくちゃいけない!って何故かすごく強く思ったんです。何でかいつもそばにいてくれてる、近くで見守ってくれてるって気がしなかった…。そういうのってやっぱり感じるものなのかな」
彼は優しい、と言っていい目つきで彼女を見遣った。
「そうですね。霊感は基本誰にでもあるものですが。特別普段霊を感じない人でも、親しい間柄の相手の気配はちゃんとわかることが多いです。あなたの場合は霊感のある人に依頼してくれ、っていう彼の思いがそういう形で伝わったのかもしれません。彼の気持ちそのものはあなたを大切に考えてるし悪いものじゃありません。…でも」
彼女を励ますように少し屈んで目線を近づける。
「あまりに強い想いは時に成仏の妨げにもなります。彼とあなたもそろそろ少し距離を置いて、お互いの道を進む時がきてるのかもしれないですね。きっとあなたの後ろの人たちはそういう頃合いだと考え始めて背中を押してるんだと思います。でも彼の方はなかなか…、あなたのように八年間の経験も積んでいないし。時間の経過を感じていないっていうのはやっぱりネックです。突然の不慮の死では割によくある現象なんですが。…ちょっと、彼が落ち着いたら僕の方からも少し働きかけて見ましょう。何かいい方法が見つかるかもしれません」
増渕は不意に痛みを思い出したようにちょっと眉をしかめ、そっと自分の背中をさする。わたしは黙って肩を竦めた。
謝らなきゃいけないのかな。でも、あの時はあれしかやり方を思いつかなかった。
彼は気にしないで、というようにちらとわたしに目を走らせたあと、にっこりと笑みを浮かべて彼女に語りかけた。
「佐伯さんはあまり思い悩まずに、自分のやりたいように準備を進めてください。郷里に帰ることが決まったらまた連絡下さいね。彼がどうなったか、その時に経過をお知らせしますから。…あの人が落ち着いて、会いたくなった時には夢にでも出てきてくれて、二人で直接ゆっくり話せるようになれたらいいですね。いつかは」
「すいません。…ちょっと、思いっきり過ぎたかな」
彼女が帰ったあと、午後の予約まで外に昼を食べに出るほどの時間の余裕はなかった。取り急ぎデリバリーを頼んでからやっぱり少し背中を気にする様子の増渕に一応謝る。彼は笑って首を横に振った。
「いえ、全然。助かりました。前もって言っておけばよかったですね、様子がおかしかったら力一杯どやしつけて下さいって。…あれが一番手っ取り早く効果があります。除霊能力とかも要らないですし」
「あんな物理的な力でも意味があるんですね」
もっと霊が相手の仕事って微妙というか、繊細なものかと。半ば呆れてそう相槌を打つと彼はニュアンスを読み取ったらしく苦笑した。
「いや、たまにああいうことあるんですよ、僕。それでも除霊とかに較べると口寄せはまだいいんですけどね。割に悪意のある霊とか厄介な人は少ない方なんで。ちょっとやばそうだな、と思うのは遠くから見て、手に負えないって思ったら潔くもっと力のある霊能者にお願いするようにはしてるんですけど。…今回みたいに感情が入っちゃうと。計算が狂うんです」
「感情?」
鸚鵡返しに聞き返す。そうか、難しい件は自分で手がけないでちゃんとそっちに回せる知り合いがいるんだ。でも、ほんの少し様子を見ただけだけど。霊と表面的にやり取りするだけじゃなくかなり深い状況まで見えて、読み取れる能力があるみたいだった。
考えてみれば口寄せだけなら向こうが話しかけてくれた内容をそのまま伝えるだけでもある程度は成立するけど。サイコメトリクスは何にも話してくれない物体から情報を読み取る訳だから、そういう能力が高いのは当然なんだ。だったら、難しい霊を扱ったりするのと深く裏まで見通せる力とはまた別の問題なのかな。
彼はわたしの反射的な聞き返しに素直に頷いた。
「どうにもね。僕、甘いんでしょうね。油断してるとつい、同情しちゃうんですよ、霊に。この人も大変だったんだな、こんな事情があったらこうなるのも無理ないなぁとか…。無碍にはできないなとか考え始めると。なんか、相手にも伝わるみたいで。がんがん入ってきて、割と居座ろうとするんですよ、みんな。ただでさえ霊媒体質で中に入られやすいのに。基本は身体には入れないようにしようと頭では思ってるんですけどね」
霊媒体質…。なるほどね。
最初は客観的な口調で彼氏の言葉を伝えようとしてたのに、早い段階でするっと向こうの喋り方にとって代わられてた。思えばあの時に中に入られていたのか。
「でも、霊媒ってことは身体に入られて操られたりしないの?それで霊能者としてはちゃんとその場をコントロールできるんですか?」
霊能者と霊媒の違いについてはこの職場を紹介された時に、ざっとその手のことをネットでリサーチして少々知識を得てる。てか、そこで知ったことを元にわたしの仕事は降ろした霊を中に入れられる霊媒なのかな、とここに来る前に漠然と予想してたから。
それも素質が必要って書いてあったから、わたしにはまあ無理だろうなとは思ってたんだけど。
増渕は苦い笑みを微かに浮かべて肩を窄めた。
「一応最低限の防御はできます。能力的には。本気で追い出そうとすればちゃんとできる、と思ってやってるんですけど。それがさっきみたいにああ、気の毒だな、この人も可哀想だなとか感情が揺れちゃうと…。そこに付け込まれるってわかってるんですけどね。割に収拾がつかなくなります」
駄目じゃん。
わたしは遠慮なく表情に出して呆れた。なんかもう、表面を取り繕う気もしない。
「でもさ、さっきの人なんて。普通に考えたらいくらごく若い時に思いがけなく引き裂かれたっていっても。八年って相当長いじゃん。わたしたちで言うとまだ高校に入ったか入らないか、くらいか」
「僕は。…そうですね。先輩は高二だと思います、八年前」
生真面目に受け答える増渕。そうだろうよ。わたしの一年後輩って話だからな。わたしは委細かまわず話を続けた。
「そんな長い間新しい恋もせずずっと一人でさ。そろそろ彼女が気持ちを切り替えて心機一転、新しい場所でやり直したいって思っても全然無理ないと思うよ。むしろ遅いくらいでしょ。ここまでちゃんと偲んで、思い続けてもらって、この上何を求めるっていうの?尼さんにでもなってもらって一生弔って欲しいってのか」
そう口にしつつ、昔は女の人もそういうのを本気で周囲から求められる時代もあったんだろうなぁ。生きてるってだけで毎日気持ちだって動くし、新しいことに出会うこともあるから、庵を建てて彼を弔って生涯を終えました、って簡単に一言で片付けられない苦労があったとしか思えないけど…。時代によって価値観も違うんだろうけどね。少なくとも今は現代の日本だ。
増渕は何故か申し訳なさそうに肩を縮めた。なんか、その男になり代わってわたしに責められてる感覚だったのかもしれない。
「勿論、佐伯さん側から見たらそうとしか言えないんですけど。現に彼女の後ろの人たちは昔の恋人にこうやってたびたび会いに来ることに全くいい顔はしてなかったです。向こうからするともういい加減に彼女を自由にしてやってくれ、という感じなんですね」
まあそうだろうとしか。
「だから今回みたいな、そろそろ実家に彼女を帰らせて彼から遠ざけようって流れになる訳です。出身地は守護するもののホームでもあるので、今までより強力に彼女をバックアップできますし。そうすると彼はますます彼女に近づきにくくなりますよね。…なんか、気の毒じゃないですか。ただ彼女の近くにいたいだけ、害する気持ちなんか全然ないのに悪霊扱いで」
「うーん…」
曖昧な声を出す。そんな風に言われてもね…。
そこでピンポンの音が鳴り、ちょっとどきっとするがインターフォン越しに聞こえてきた声は頼んであったデリバリーのピザ屋の配達人だった。増渕が自分で出ていってそれを玄関口で受け取る。
午後の予約の時間までもう誰もこないといいけど、と思いつつリビングで向かいあってそれを各々頂く。彼は淡々とした声でピザを一切れ手にしたまま続きを口にした。
「さっきも言ったけど。彼の意識の方では時間の流れが全然違ってるんです。長いことただ混乱して状況が把握できないでいたせいもあるんでしょうけど…。それにしても、主観的に言うと半年か…、一年も経ってない感覚かな。八年経ってるって頭ではわかってるんですけどね。気持ちの整理がつく前にどんどん置いていかれてる感じです」
「あ…、そうなんだ」
ピザを飲み込み、口ごもる。まぁ確かに、そう考えると。少しは気の毒…、かも。
彼はやや遠い目で呟いた。
「そういうのがリアルな実感としてわかっちゃうと…、やっぱりね。なんかいい方法はないのかな、とか考え始めて、つい揺らいじゃうと。そういう弱い部分にぐいぐいつけこんでくる訳ですよ、向こうも。必死ですからね、そりゃ。自分の存在を認識してくれる人も、声を聞いてくれる相手もそうそういないし。こんなチャンス逃してなるか!って」
「よくあるんですか、こんなこと?」
内心げんなりして尋ねる。もしかしてわたし、彼の背中を思いっきり張り倒す要員として雇われたのか?
「そうですね、時たまなくはないです。口寄せだけのつもりでも、ちょっとやりたいことがあるから身体貸してくれとか。結構言葉巧みにね、ほんの一時間くらいとか、誰かの顔を見に行くだけとか…。依頼者が呼び出したいのと違う人がより言いたいことが強かったりするとがんがん割り込んできて勝手に喋り出したり。理不尽だなとか、納得できないとこっちも全然対抗して押し出せるんだせど。この人にも事情があるんだよなとか、少しくらいはいいかなとか思い始めちゃうと。すぐ向こうにばれちゃうんです。そうすると収拾がつかなくなる」
わたしはやや白い目で彼を見やった。
「下手に出て懇願されたりするともう、断れないんでしょ?」
増渕は珍しくちょっとむきになって反駁してきた。
「『断れない』んじゃない、『断らない』んです。自分がその気になればちゃんと…、コントロールは、できます。ちょっと、説得するのに時間かかったりとかはなくはないですけど」
「お客さん、びっくりしないの?目の前で霊が帰ろうとしなくなったりして」
少し痛いとこ突かれた、みたいに苦笑いを浮かべる。
「それはまぁ…。やっぱり、みんなちょっと慌てますね。何も頼まなくてもさっきの先輩みたいに背中をどやしてくれる人もいるけど、臨機応変に。おろおろして何もできないでずっとそのままってことも…。そんなこんなで、やっぱり事務所にもう一人誰かいてくれるといいなと。立ち会ってくれるに越したことないですけど、別室にいるにしてもお客さんが困った時に頼れる相手がいた方がいい、って思い始めたんです、最近」
結果、力ずくで追い出すんじゃん。わたしは黙って肩を竦めた。自分で断るのはできないけど、他人がどやしつけて無理やり身体から出すのはいいんだ。
まあ、そこが『断れない男』の真骨頂ってとこか。
彼は思いを巡らすように視線をさ迷わせ、手に持ったピザを一口齧った。
「とりあえず、あの彼氏は少し経ったら呼び出して話してみます。時間の感覚のせいもあるけど、とにかく気持ちの整理が全然進んでないのも気になるし。現実は現実としてそろそろ受け入れて、次の段階に進む準備を始めた方がいいとは思うんです。普通なら彼の後ろの人たちがもっと手助けしてくれそうなもんなんですけど。なんか、うまく機能してない感じですね。…何か理由があって守護の力が弱まってるのかな…」
わたしはさっさと次の一切れに手を伸ばし、生齧りの知識で遠慮なく突っ込んだ。
「それって浄霊ってやつですか?そもそも彼女に依頼された仕事の範疇を超えてるじゃないですか。報酬もなしにそこまでするの?いつもそんなにアフターフォローしてたら持ち出しじゃない?」
増渕は微妙な表情を浮かべ、ごもごもと言い訳した。
「それはまあ。…そこまで請求もできないし、僕が勝手に手がけることだから。でも、乗りかかった船というか。…彼だってこのままでいいわけないし。ちゃんと上にあがって、転生して、また幸せになってほしいじゃないですか。彼が前向きな態度を見せてくれたら、ちゃんと最後まで協力しようと思ってます、そこは」
わたしはでかいペットボトルから麦茶を注ぎながら容赦なく言い放った。
「それは構わないですけど。…それやる時、一人でしないようにね。ちゃんと立会いますから。勝手に夜中とか早朝の時間の空いた時に自分だけでちゃっちゃと片付けようとしないで。…ちょっと、信用できません。次の日の朝出勤してきたら既に失踪されてたりしたら。さすがに笑って済まされないよ」
数日そんな風に一緒に相談に立会ううち、なんとなくこっちもコツが飲み込めてきた。
最初はとにかくあ、ちょっとやばいかも、とふと嫌な感じが兆すとすかさずばん!と奴の背中に張り手を喰らわせる(そして、お客さんをびびらせる)、って方法一本槍だったのだが、一日に何度かそういう場面があるのでだんだん手のひらも痛くなってきた。増渕本人はともかく背中もなんだか可哀想な気がしてきたので(見せてくれとは言えないが、多分手のひら型の跡がついてたんじゃないかと思う)、できるだけ口頭で説得できるに越したことはないとばかり、直接話しかけて反応を見てからにすることに。
「どうしてそいつの中に入るの?あなたはどうして欲しいの。ただ漠然とその人に取り付いてもどうにもならないですよ」
とか、
「上に上がりたいならその人が方法を考えてくれるし。何か心残りがあるなら一緒に解消するやり方を考えましょう。多分何かいい道が見つかりますよ」
とか話しかけているうち、何となく解決に向かうことも増えてきた。霊の方も頭ごなしに悪霊扱いされるのは嫌なんだな。ってことは実感できたように思う。
「なんか、まるで僕が霊媒でタミさんが霊能者みたいですね」
ぼそっと呟くその呼び方に不意打ちをくらって奴を見遣る。…『タミさん』?なに、その距離感。
増渕はすぐにわたしの言外の意を汲み、慌てて言い訳する。
「あ、すみません。俺の周りの連中、割とみんなあなたのこと『タミちゃん先輩』とか、気安く呼んでたんで、陰で。どうも、それが頭にこびりついちゃって。…すごい、男どもに人気あったんですよ。実際」
そんなこと付け足されても。別に嬉しくもなんともない。
「タミちゃん先輩よりかはまだましかな、と。あとは略して『タミ先』とか」
「…男子高校生、しょうもないなぁ」
うんざりと呟く。そう言えば、生徒会の後輩もわたしのこと『タミさん先輩』って呼んでた気が。あれはここら辺に起源があったのか。知り合いでも何でもない連中に勝手に呼び名をつけられていたとは。
しかし卒業して何年も経ってからそんなこと知る羽目になるとはね。実に何の役にも立たない。
「でも、ここの事務所って、除霊は受けてないですよね。いわゆるお祓いとか」
増渕はちょっと身構えるように問いかけたわたしを見返し、用心深く答えた。
「浄霊はやりますけどね、成り行き次第で。霊本人が上がりたがってれば、どうして上手くいかないのかを診てアドバイスしたり、手助けしたりします。タミさん先輩もある程度はできるじゃないですか、望みを叶えることで気が済んで浄化していくって基本のやり方ですからね」
「うん、だから。…相談者が迷惑を被ってるやつを問答無用でどうにかするってのが除霊でしょ?それをやらないのはやっぱ、基本断れないたちだから?この霊にもこの人なりの事情があるんだなあ、とかそんな場でまさか共感しちゃったりとか」
奴は表面的な穏やかさを投げ打って半端なく渋い表情を浮かべてみせた。
「そういうことが実際にあった、って訳じゃないですけど。…ただ、可能性が絶対ないとは言えないですから。場合によっては依頼者に累が及ばないとは限らないですからね、リスクは犯せないです」
「なるほど」
わたしは素直に頷いた。確かに、自分一人のことじゃなくクライアントを危険に晒すかもしれないんだから。己の性格を知って危うきに近寄らない、って判断を下した訳だ。
「そういう依頼がきた時は、他の霊能者を紹介するって言ってたよね、以前に」
思い出してそう言うと、彼はちょっと表情を緩めて答えた。
「ええ、まあ。力のある、信頼できる人がいますから。その人なら間違いないから安心して紹介できますしね。僕がその人を手伝ってサポートに回ることもあるし。今度そういう機会があったら一緒に行きましょう。タミさんのこと、一度ちゃんと紹介しなきゃいけないし」
「うっ、大丈夫かな」
ちょっと怯む。その人が男か女か、若いか年配かも知らないけど。増渕に対して悪い影響を与えるやつ、と看破されたらどうしよう。悪霊退散!とか祓われちゃったりして。
彼はいつもの柔らかい、象のような優しい眼差しに戻ってわたしを見た。
「タミさんなら大丈夫ですよ。僕は確かに基本何でも断らないことが多いですけど。それは断らないでも大体何とかなるな、って目算があるからとか、断る必要がないくらい引きがいいからって理由だってあるんです、ちゃんと。タミさんにここにきてもらうことを決めたのだって、しっかり人物を見極めたつもりです。僕、こういう運は人よりいいんです。だから採用を断ったりする必然性がなかっただけなんですよ。今回は特にね」
わたしたちは少しずつお互いの存在に慣れていった。
向こうはそうでもないだろうが、わたしの方は何より増渕に対して気を遣う必要がないのがいい。いや実際、全く全然気を遣ってない訳じゃないですよ。一応相手の意思を推し量ったり、意図を先読みして仕事をしやすくしようと配慮はしてる。でもそういう業務上の気配り以外に、この人に変な風に思われないかとか機嫌を損ねられないかとか余計なことを考えることは基本ない。
何でかわからないけど、安心感がある。割にわたしのしたいようにして、ある程度言いたいことを言ってもこの人なら平気って感じられる。だから一緒にいて楽だ。
何でだろう。事務所のあるマンションの片隅のスペースに自転車を停め、エレベーターの前で箱が降りてくるのを待ちつつ首を捻る。やっぱり高校の後輩だから?
向こうは余程その頃の印象が強いのか、普段は『タミさん』と呼ぶ一方で(その距離感も正直だいぶ一足跳びだと思うけど!)時々うっかり『先輩』と口走ることがまだある。一体当時のどんなイメージがあいつの脳裏にこびりついてるのか、ちょっと知るのが怖い気もするが。
だから何となくその流れで、上司とか雇い主っていうより微妙に先輩後輩の空気になりつつあるのは拭えない。ただそうは言ってもわたしの方は高校生の頃の増渕のイメージなんか全然ないのに。単に向こうが先輩として立ててくれるから呑気にその扱いに乗っかってるだけか。
相変わらずわたしはぶきっちょだ。あいつの中に居座ろうとする霊を力ずくで思い切りはたき出したり、きっぱり真正面から説得して退出願ったりする分には特に問題にならないが、普通の事務所の内勤の女の子としては微妙。
訪問してくるお客様にまずお茶出しをしよう!という意識はあるのだが。増渕はあれでなかなか神経が細かく行き届いてるところがあり、2Lのペットボトルからざっぱりグラスに注いだお茶をどん、と出したりしない。緑茶はきちんと急須で、コーヒーは一杯ずつドリッパーで落とすのだ。最初キッチンに行ってお客様に飲み物を用意しようとした時は実際戸惑った。
「煎茶はこうやって一度お湯を湯呑みに入れて冷ましてから、急須に移すといいです。沸騰したてだと変な雑味が出るし。湯呑みもちょうどよく温まりますから」
そう手ずから教えてくれるのだが。
いざわたしの手で実行しようとすると当然の如く、お湯入りの湯呑みは容赦なく床に引き寄せられるようにばんばん落ちる。もう早くも二個割った。
大体わたしに熱い湯の入った器を持って、滞りなく急須に移せなんてミッション遂行できるわけないだろ。伊達にファミレスのバイトもろくに務まらなかった訳じゃないぜ。見兼ねた彼が見本にともう一度淹れて見せてくれたお茶を一口もらって飲むと、これが掛け値なしに美味しい。普通に雑に熱湯をじかに急須にぶち込んだ代物とはちゃんと違うのがわかる。わたしは少し感動して、苛々しかけてたのも忘れて彼に真っ直ぐな目を向けた。
「すごく美味しい。…ほんとだ、ちゃんと違うね」
増渕は何故か耳を赤くして
「…緑茶はこれからも僕が淹れます。タミさんに怪我とかあったら心配だし」
などとごもごも呟き、以後わたしは緑茶のお茶出し業務を免除される運びとなった。
コーヒーについてはやっぱり一杯ごと、少しずつお湯で蒸らしていくドリップは難物で、これも時間がある時は彼が自分ですることになったが。それじゃあまりにもわたしが手持ち無沙汰だし、本当は増渕が顧客から話を聞いてる間にわたしが飲み物を用意する方が流れが滞りないのは確かだ。それで結局、新しいマシンのコーヒーメーカーがキッチンに目出度く設置され、冷蔵庫にボトルのお茶も一応常備されるってことで落着した。初めてのお客様相手や時間に余裕のある時は彼がこだわりの美味しい飲み物を用意する。
その間ソファにふんぞり返ってるわたしがどう見えるかはもうあまり考えないことにした。どっちが所長さん?霊能者?と視線をさ迷わせる依頼者が真っ向から問いただしてこない時は、素知らぬふりでその日の依頼内容の聞き取りをしたりもする。普通のマンションを事務所にしてるからキッチンもそんなに離れてはいないし、お茶出し作業中の増渕の耳にも届いてるだろうから一石二鳥だ。
今日は朝いち、九時台の予約は入ってなかった筈だけど。確か十時に東浜様だよな、あの人ならまたお父さんの呼び出しかな。何度かきた人は仕事の予測がしやすい。いやまた、今度は実は先日亡くなった友人が…とか言い出す可能性はなくはないけど。どういう訳か身近な人が亡くなる率って人によってだいぶ偏りがあるみたいだ。わたしなんか友人も家族も、まだ誰一人亡くなっていない。お葬式もろくに出たことない。
「おはようございます」
一応ドアチャイムを押してから(ここは増渕の住居でもあるので。わたしが入っていった瞬間にプライベートの空間から公けの場になる訳だ、朝は)預かってる鍵でドアを開けて入っていく。玄関先でちょっとためらい、奥に向かって声をかけた。
「すいません、これ、干していい場所あります?」
その声を聞いて顔を出した増渕がぎょっとした表情を浮かべた。
「え。…タミさん、どうしたんですか?そんなに今日、すごい雨だったですか」
わたしは念のため外でひと通り水滴を払ったレインコートを注意深く脇に抱えて答えた。
「普通の雨ですよ。でも、自転車で来たから。コート着ててもやっぱ濡れちゃうんですよね、完全にはカバーできないや」
一瞬固まっていた彼がわたしの方に手を伸ばしてレインコートを受け取ろうとする。わたしは腕を引いて拒んだ。
「いや、こんなの持ったら。びしょびしょになっちゃうよ。ベランダに干そうと思ったけど、部屋の中を通る時に床に水滴が落ちちゃうね。ハンガー借りて、玄関のどっかに干そうかな?」
「大丈夫ですよ、多少床濡れても。拭きますから。ベランダへ持っていきます」
そう告げて有無を言わさずさっさとそれを取り上げた。うわ、せめて腕まくってくれ。わたしは仕方なくその背中を追って部屋に上がっていった。
適当なハンガーを手に取ってベランダへ通じる窓を開けながら、彼は空を見上げて顔を顰めた。
「結構降ってるじゃないですか。こんな日は普通に電車で来ればいいのに。ここは駅も近いし。…タミさんの家、◯◯でしたよね?」
わたしの家の最寄駅の名前を挙げた。わたしは素っ気なく肩を竦める。
「まあ、そうです。…乗る時はね、電車に」
外の物干しにレインコートを掛けて、窓を閉めてから彼はわたしを振り向いてじっと見つめた。
「たった四駅で、一本で来られるのに。…いつも自転車で来てたんですか?雨でも?」
「それは。…別に、いいじゃん。交通費申請してないよ、定期代とか」
「え、僕、加算しましたよ。交通費は全額支給のつもりだから」
きょとんとする彼の顔を見ずにわたしは自分のパソコンの前に座って短く答えた。
「自分で抜いときました。乗らないのはわかってたから」
「タミさん、タオル」
彼が引き出しから清潔そうなタオルを出して渡してくれる。わたしは戸惑って見上げた。
「え、平気だよ。一応レインコートのフード被ってたし。…そんなに濡れてる?」
「結構髪ぐしょぐしょです。拭いた方がいいですよ、水滴垂れてる」
わたしは慌ててそれを受け取った。キーボードに落ちたら洒落にならない。俯いて髪を拭いているわたしを、増渕は黙って立ったまま見下ろしていた。
やがて静かに口を開く。
「タミさん。…電車、嫌ですか?やっぱり」
「やっぱりって何よ」
不意を突かれて跳ねるように顔を上げた。自分の気持ちを防御するのが間に合わなくてつい声が尖る。
「何か…、知ってるの?モノだけじゃなくて人間の頭の中も読み取れるってわけ。わたしが考えてることなんか簡単に見抜けるんだ、口にしなくても?」
「落ち着いて、タミさん。…大丈夫だから。あなたの気持ちや感情の動きがなんとなく伝わってはくるけど。頭の中の考えや情景がありありと見えたりすることはありません。そんな風にプライバシーを盗み見たりはしないから。…怖がらないで」
宥めるような静かな声に我に返る。わたしは小さく息をつき、彼から目を逸らしてゆっくり深呼吸した。
慌てないで。怯えたはりねずみみたいに増渕を攻撃しても何にもならない。却って変に思われる。
確かに彼は何か具体的なことを口にしたわけじゃない。ただ電車は嫌いですか、と尋ねただけだ。だから普通にそんなことないよ、とか、混むのは嫌とか答えればよかった。
…混んだ、電車。
ぞーっと総毛立ち、我知らず両腕で自分を押さえる。やっぱり。…やばい、この話題。
何かを見透かされる。こいつには、…きっと。
彼が目の前にしゃがんだ気配がする。目線を合わせようとしてるんだろう。それがわかるだけに尚更顔を上げられない。
彼はわたしの反応に拘泥することなく、平坦な口調で語りかけてきた。
「あなたの後ろの色というか、揺らぎでわかるんです。タミさんの怯えとか、…恐怖とか。だけど当然思考までは読めないし。何があったか訊いたりもしません。あなたの口から何もかも説明させたりはしないです。そんな必要もないし」
わたしの肩の力が少しだけ抜けた。それを見て取って、増渕の声がやや力を得たように変化した。
彼は顔を上げないままのわたしをじっと覗き込んで話しかけている。声の向きでそれがわかった。
「あなたの身に何が起きたか具体的には知らないけど。…でも、多分僕ならタミさんの抱えてる問題を今より改善できると思います。電車にだって元通り乗れるようになるし、実家にも今より帰りやすくなる。あなたの生きづらさを少しでも解消するお手伝いをさせてくれたら…と、思うんですけど。それくらいなら。…駄目ですか?」
増渕は、ちゃんと落ち着いてまとまった時間を取りたいから、と言ってその場ではそこで話を切り上げた。
「普通のクライアントさんと同じようにきちんと予約を入れましょう。邪魔が入ったり何かで中断されないように」
そう言ってわたしのパソコンの予約スケジュール一覧を覗き込み、早い方がいいですよね、と小さな声で呟いて思案した。
「結構詰まってるな。急な話ですもんね。でも、一刻も早く何とかしたいから。…今日の終業後とかは無理ですか。何か予定ある?」
やや平静な態度を取り戻したわたしは頭を横に振った。
「それは特にないけど。…増渕くんこそ、そんなのいいの?残業になっちゃうよ。せっかく時間管理できるようになったとこなのに」
「大丈夫、そんなに時間かからないです。少し霊視してあなたの後ろの人たちと話するくらい。簡単な面談するだけですよ。一時間もあれば」
一時間はかかるんだ。普通の顧客の予約と変わらないじゃん。不意に思い立ち、わたしの口から疑問がそのまま飛び出した。
「それって、結局わたしが増渕くんに相談する形でしょ。あの、謝礼ってやっぱり発生するよね?難易度はどのクラス?それによって金額変わるから」
わたしが来る前、彼は謝礼の取り決めも例によっていい加減だった。なんて言っても断れない性格だから(あ、違った。本人の言によれば『断らない』だ)、何となく相手の言い値で相場が決まったりしてることもあったので、わたしがどやしつけて依頼の内容によって特A、A、B、Cと分類させてそれにより標準金額を明示したのだ。簡単なものに関しては却って以前より頼みやすくなったんじゃないかな、と自負しているが。それにホームページにざっくりした料金を掲げたことで敷居が低くなって新しくやってきたお客様も結構いるし。
彼はちょっと気が軽くなったように笑って、顔を上げたわたしの目の辺りを柔らかく見返した。
「タミさんからお金取ったりしませんよ。これはね、従業員の健康管理みたいなものです。それに、実際の顧客体験をするのもきっと勉強になるでしょう?だから、そうですね、研修だとでも思って。社員研修なら会社負担で問題ないですよね、普通?」
「さて、と」
普段クライアントと面談をする奥の部屋で増渕と向かい合って座る。こうしてると確かに医者の診察を受けにきたみたいだな。自分のデスクからくるっと半身こちらに向けた奴は何とも『先生』っぽい。
でも、机の上にパソコンはあるけどレントゲン写真だとか何かのデータ画像、カルテなんかは存在しない。所見はメモ書きみたいな形で彼が残したものを普段あとからわたしが整理するけど、今日は記録を残す気はないらしくパソコンは閉じたままだ。わたしはちょっと安心してクライアント用の椅子の上で居住まいを正した。
しかしそれにしてもこの椅子に自分が座る羽目になろうとはね。ここに来た時には想像もしなかった。
今までの人生のなかで霊を目撃したこともないし、霊感があるって感じた経験もない。だから心霊を扱う事務所に就職したってどこかこんなことは他人事だった。自分には見えないもののことで悩んだり困ったりしてる人たち。当人たちにとっては『ある』ものだって実感は伝わってきたから馬鹿馬鹿しいとは全然思わなかったけど。なんか、大変そうだねぇ、自分は感じない人でよかったくらいにしか思っていなかった。
ていうか、そうだよ。わたしは不意に改めて考える。ここに座らされて増渕に診てもらうってことは。わたしの抱えてる『問題』は、まさかの霊が絡んでるってこと?
今更ながら頭が混乱する。だって、電車に未だに乗れないでいる原因の話でしょ?それと霊と、なんの関係が…。
「タミさんはどうしてこれが霊絡みか、特に自覚とかはないと思うんですけど」
平静な声で淡々と切り出されて遠慮なく素直に頷く。
「うん」
「これは生まれつきの癖みたいなもので。全然あなたのせいじゃないことです。でも、タミさんは割に変な霊に目をつけられやすい素質なんです。有り体に言うと色情霊ですね。それもかなりたちの悪い、低級な奴です。そういうのから見ると暗闇の中の蛍光色の花みたいに目立って見えてるんです。どこにいても」
あまりに波のない声で当たり前みたいに言われて最初は全然頭に入ってこなかった。何拍かおいて、やっと意味が把握できた途端猛然と腹が立つ。わたしはいきなり彼に真正面から噛みついた。
「何が言いたいの?わたしに変な奴が近づいてくるのはわたし自身に理由があるってこと?わたしが好き好んで変な男を引き寄せてるってわけ?自分から無意識に誘ってるんだから、こんなこと自業自得なんだって言ってるの?…わたしが、ぜんぶ」
「落ち着いて。…泣かないで。そんなこと言ってません。言ったでしょ、タミさんのせいじゃないって。悪いのはそんな霊に取り憑かれ易くて自分の欲望に甘い生身の卑怯な男どもですよ。それは誰だってちゃんとわかる筈です。あなたが悪いことなんて一ミリもありません。…でも、誰が悪いかってことと、あなたに素因があるって話はまた別のことです」
静かに話しかけながらハンカチを渡してくれる。みっともないとこ見られた。少し気後れしつつそれを受け取り、そっと目の下を拭う。激昂しすぎたかな。却ってそこを突かれると弱いってこと、露見しちゃっただけかも。
もう少し自分を平静に保たなきゃ。
深呼吸して気持ちを落ち着かせ、もう一度話を聞く態勢を整える。わたしが何とか自分を取り戻したと見てとって、増渕は口調を和らげて再び丁寧に説明を始めた。
「特別理由はなくても、人にはいろんな癖というか性質があります。身体でいうと体質みたいなものですね。扁桃腺が腫れやすいとか、アトピー体質だとかはもって生まれたものでその人に責任はないでしょう?それと同じで、霊的な性質にも弱い部分や取り憑かれやすい相手に偏りがあったりします。タミさんの場合は残念ながら色情霊に取り憑かれた人間を惹きつける性質があるんですね。その手のものも実態は幅があって、前世の恋愛絡みや先祖の因縁を持ったみたいなしっかりした人間としての人格が備わってるものまでいろいろなんですが。…タミさんに引き寄せられるのは本当にお気の毒な話ですが、相当低級霊が多いです」
「はぁ」
さすがにがっくりする。なんか、しょぼいのに最悪な感じ。
「もとは人間の、ほぼ男性だった霊が殆どですが、それが人間だった時の理性や人格が取っ払われて性的な欲求ばかりが残滓みたいに残った連中ですね。ちょっと、ぞっとしない代物ではありますが。割に人が集まりやすいとこには普通にいます。…そして、そういうのに取り憑かれやすい、自分の欲求に負けやすい生きてる人間も残念ながらそれなりに存在してます。そいつらは背後に取り憑いてる低級霊の働きかけで最低の行為に及びやすくなってます。…タミさんだけでなく、女性が被害に遭う嫌な事件にはそういうのの影響が出てることも多いです」
わたしは心の底からうんざりした。…死んでからそんなのになる男。理性がもしなんかの拍子に戻ったら自分でも死にたくならないかな、みっともなさすぎて。ならないか。そんな客観的頭があったらもともとそんなもんに変化したりしないのかも。それに、もう死んでる、既に。充分。死に過ぎてるくらい。
「じゃあ何なの、そういう霊に取り憑かれなければ生きてる人間の方もそういう行為に及ばなくて済むかもしれないのに、ってこと?低級霊が取り憑かなきゃ、その連中も変なことしなくて済んだかもなの?」
彼はちょっと渋い表情を浮かべて肩を竦めた。
「それならまだいい気もしますが。取り憑く霊と取り憑かれる人間って、本質的に似てる面があるので。どっちがどっちに影響してるって言い難いですね。互いに引き寄せあって相乗してる感じです。だから一概に霊が悪くて人間は被害者だって言えない。もともとそういうことをしがちな連中だってことだと思います」
わたしはげんなりして相槌を打った。
「そうして、その手の男が死ぬとゆくゆくは色情霊になる、と」
「そう、多分。そういうサイクルでしょうね」
…最低。
彼は眉をひそめて手を膝の上で軽く組み、話を続けた。
「その手の連中はどこに行っても一定数いますし、完全に駆逐することは不可能です。だからこちらとしては自衛するしかないんですけど。問題はそこなんです。…女性に限らず、大抵の人は低級な霊や雑多な霊の影響を被らないようある程度跳ね返せるのが普通です。守護霊ってものがいますから。タミさんの場合は普通より低級霊を引き寄せやすい体質である上に、なんかこの守護する働きがあんまり上手く機能してないんですね。それで実生活上で影響が出やすくなってしまってるんです」
「わたしの守護霊。…いないの?」
さすがに初耳な事態に、背中をしゃっきり伸ばして彼に向き直る。喰い下がりながら顔が蒼ざめていくのが自分でもわかる。それって、やばくないか?よくわからないけど。
彼は安心させるように辛抱強くなだめる声をわたしにかけた。
「ちゃんといますよ。守護霊がいない人って存在しません。ただ、何らかの理由でそれが本領を発揮できないでいるとか、手足を縛られた状態になってることは稀にあります。…タミさんの場合は」
彼はわたしのどこを見るともなしに目をぐっと細めた。集中してる空気が伝わってくる。
「…なんていったらいいのかなぁ?あなたを守ろうという意識もあるし、数も充分います。…あ、普通、守護霊って一人じゃないですから。いろんな理由でその人を守ろうとする霊が集まって、緩やかな霊団を作ってるもんなんですけど。…手薄ってわけでもないんですよね。でもね、わちゃわちゃしてます。…なんて言うか、統制が取れてない。誰がリーダーシップを取ってるのか漠然としてて、みんなでおろおろしてる感じです。だから、機能してない。やる気はあるんですけどね、それぞれ」
何それ。
わたしは呆然として彼を見返した。
「そんな理由で守りが効いてないの?そんなことって、よくあるの?」
増渕はちょっと顔をしかめた。
「いや、あんまり見たことないです。普通主導的なメインの霊って自明な感じに決まってて。大体その人が全体をコントロールするんですけど。…なんだろう、この雰囲気?うーん、似たものの集団だからこうなるのかなぁ?…なんて言うか、その。…『ドジっ子の集団』?」
…わたしは半端なく憮然とした。思わず椅子の上で脚を高く組み、腕も胸の前で組んで顎を上げる。
「さっき、憑いてる霊と憑かれてる人間は似たもの同士だって言ってたよね?何か言いたいことある?」
「いえそんな。…タミさんがドジっ子だとか、別にそこを殊更強調したい訳じゃ。…うーん、まぁでも、これは見るからにちょっと手を貸して、何とかした方がいいのかな、と。かと言って全員を訓練するのも大変だし。…そうだな。この二人、かな。一応、中心は」
後半ぼそぼそと口の中で独り言のように呟く。やがておもむろに顔を上げ、きっぱりと宣言した。
「多分メインの霊らしき人を二人、こっちでしばらくお借りします。それで教育研修を受けてもらいますから、守りを固めるやり方とか、変な相手の目に留まらないようあなたを匿う方法とか。ちゃんとそういうのはあるんです、あなたの霊たちが知らないだけで。…本当にどうしていいかわからなかったみたいですね。なんか、すごい感激してお礼言ってますよ、口々に」
「あ。…そですか」
わたしは腕組みを解いて投げやりに背もたれに寄りかかった。まさかの、お間抜け集団だったとは。…わたしの守護霊。
彼はちょっと安堵の色を滲ませ、更に説明を続けた。
「そうするとしばらくあなたの後ろが手薄になりますから。こっちからその間、代わりの守りを送ります。代表者以外のみんなはその人のやり方を実地で見て、覚えて頂いて。何ヶ月かしたら大体様になってくるんじゃないかな。バックが落ち着いてきて機能するようになったら、タミさんの不安感もだいぶ薄らぎますよ。電車に乗ったり普通に夜道を歩いてももう大丈夫です。それに今は僕のつけた守りがちゃんといますしね、もう既にそこに」
そうは言っても。
わたしの言葉にならない躊躇が滲み出ていたのかもしれない。増渕はわたしを促すように先に静かに立ち上がった。
「もう遅いから、お家まで送りますよ。一緒に電車に乗ってみませんか。…乗ってみたらわかりますよ、今までと全然違ってるって。実地に試してみましょう、せっかくだから」
そんなに遅い時間帯ではない。多分、普通に仕事して残業してたらこのくらい。飲んで帰ってきたらもっと遅くなるよな。そう考えると不思議だ。わたし、以前は結構平気で夜道だって歩いてたんだよな。
最初に就職した会社に勤めてる頃は。
「…この路線」
ラッシュのピークは過ぎて、それほど激混みではない駅の入り口。切符の販売機の前に立って思わず言葉が口から溢れてきた。思ったほど拒否感は感じない。いつも使ってた馴染みの駅じゃないからとか、この時間に上り方向は混んでないってわかってるからとかいろいろ理由は考えられるけど。
以前は駅名の看板のデザインや鉄道会社のマークを見るだけで気分が悪くなって吐いたこともあったから。時間が経ったせいもなくはないだろうけど、何か変化はあったのかもしれない。
それとも。一緒に隣を歩く殆ど身長の変わらない相手と、肩を並べつつ考える。やっぱり、一人じゃないせいもあるのかな。ほっとする、安心できる気持ちがあるのは否定できない。
「卒業後、働いてた会社に通勤してた時。毎日乗ってた。反対方向だけど、当然。朝上り方向で、帰りが下り」
「うん」
増渕は短く相槌を打った。話さなくていいよとか、無理しないでとかも言わない。わたしが今、言いたいならそれでいいってことなのかもしれない。
階段を俯いて注意深く降りながら低い声でぼそぼそと打ち明ける。
「わたし、学生の時からなぜか痴漢とか遭いやすくて。…ああ、そっか。『なぜか』じゃないんだっけ、それは」
思わずちょっと笑う。彼は生真面目な顔で頷き、補足した。
「これからはぐんと減りますよ、そんな理不尽な目に遭うことも。夜道で待ち伏せされるとかも」
「ああ…、あれもか。そうなんだ」
ふと思い出す、実家近くの街灯のない道。夜道ですうっと追い抜いては物陰に停まってじっと待っている、車やバイクや自転車。ちょっと顔をしかめて首を振る。
あそこはやっぱり、今でも夜遅くひとりで歩く気にはならないな。さすがに。
「この路線って殺人的に混んでることで結構有名じゃない。あんまり知らないでつい、地名に惹かれて気に入った物件があったんで住んじゃったんだけどさ。…それで、身動きもろくにできないから、ラッシュ時は。当然のように痴漢が出るんだけど」
地下鉄の生温かい風。この空気、本当に久しぶりだ。わたしは何かを振り払うように首を振った。
「一度学生の時に訴え出て、冤罪扱いされたから。今でもわからないんだ、証拠ないですよね?って冷たく言い放ったあの人が本当に犯人じゃなかったのか。確信犯でしらを切ってたのか。…すっきりしない気持ちが拭えない」
彼は不快そうに顔を歪めた。
「うーん…。僕も正直なとこ、多分こうだったんじゃないか、程度のことしか言えないから。…半端なことは却って言わない方がいいのかな。でも、理不尽ですよね。こっちは被害者なのに。被害にあったなら確実な証拠出せとか言われて。そんなこと無理って思ったら、みんな黙って我慢するしかないなんて」
わたしは苦く諦めの笑みを浮かべた。
「電車で通勤しなくなって他人事になってから客観的に考えるようになると、本当にみんな冤罪のこと言い過ぎじゃない?としか思えない。なんでそれが訴えた女の人の方に向かうんだろうね。悪いのは実際に痴漢する奴なのに。そういうのが普通の男の人から見ても本物の敵だろうと思うんだけど。疑われるのは本当にやる奴がいるからじゃない?でも、女が黙って我慢してれば面倒もなく済むのにってみんな考えてるんだなあ、って思ってさ。多分本気で」
何故か増渕はもの凄く肩をすぼめて小さくなった。
「…すみません…」
「何で謝るの?痴漢したこととかあんの、ついふらふらと?」
さすがにこの冗談は彼を怒らせた。急に目を三角にして言い募る。
「本気でそう思ってるんじゃないですよね。…絶対やめて下さい、そんな。最低な、人間の屑みたいに」
「ごめんて。ふざけるにも程があった。全然そんな風に思ってない。増渕…、くんはそんな人じゃないよ。それはわかってる。でも、じゃあ、何ですみませんなの?謝る必要なくない?」
彼はわたしの方を見ずに、ホームから暗い線路を見下ろし低く呟いた。
「…なんか、情けなくなって。僕も一応…、男だし。何で世の中は女の人にもっと優しくないのかな、でも自分もその一員なんだよなって思うと。…なんか、嫌で。それが」
「いいよ、そんな風に考えなくて。増渕はまともなちゃんとした男の人じゃん。そういう人がいるって思えるだけでだいぶ救われるよ。女の子に変なことしてくるような人が世間では実はマジョリティなのかって思い始めてたとこだったから。何でもないごく普通の男の人の方が断然多いに決まってるよね、そりゃ」
フォローしといて何だけど。やっぱりここまで来たら嫌なこと吐き出してしまいたい。誰にも今まで話せなかったこと。自分の胸の中だけに閉じ込めて見ない振りをしてきたこと。
増渕には不快な話だろうな。こんなの、聞いた方が嫌な気持ちになるに決まってる。申し訳ないと思いながらも、許せ、と口の中で呟いて気を奮い起たせて話を継いだ。
「それで、もう何かあっても訴え出る気も失せて。いつも黙って何とかして逃げて、ドアが開いたら大声上げて降ります!って。それで遅刻するのもやだから、少し早めに出る習慣になってた。それにしても痴漢って全然途切れないな、みんな本当にこんなのよく我慢してられるな、って思いながら通勤してた。…けど」
ぷわ、と大きな警笛を鳴らして車輌が入ってきた。しばし沈黙が降り、静かに開いたドアから乗り込む。ちょっと周囲を伺うけど、この時間の上りはそんなに混んでないから、あまり他人に話を聞かれるほどのこともなさそうだ。ちゃんと声を抑えてさえいれば。
わたしは意を決して早口で打ち明けた。
「…ある日の朝なんだけど。なんか、気がついたら。…囲まれるようになってて、複数の男の人に。数えた訳じゃないから、何人だったのか。…身動きも出来なくて、手足や口も抑えられて。…何駅分だったか。抵抗も出来なくて。…声も、出せなかった、から。…どうやって、逃げたか。よく覚えて。…ないけど」
最初早口でも次第に途切れとぎれになる。でも、一番きついとこは抜けた。わたしは増渕の方を見やることもできなかったけど、とにかく話を終わらせようと急にてきぱきと片付けるように続けた。
「その日は、知らない駅で降りて。そのまま改札走って抜けて、だいぶ遠いファストフード店か何かに駆け込んで。トイレに入って結構長いことじっとしてたよ、誰か追ってくるんじゃないかって。今考えたらあの時トイレに行きたかった人が店内にいたら悪いことしたな。でも、なんも考えらんなかった。…そのままぷつんとなって。会社も辞めた。そっちもいろいろあったから。もう全然無理、保たないって思って。その日はタクシーで家に帰ったよ。それからこの路線に全然乗ってない。電車にどうしても乗る必要がある時はバスで、違う路線の駅まで出て。すごい遠回りでもそうするようにしてた。…だから、本当にそれ以来。この車輌」
しばらく二人とも口を利かなかった。やがて、電車の揺れる音に混じって彼がぼそりと呟くのが耳に届いた。
「…多分ですけど。それは偶然じゃなく、意図的に狙われたと思います。聞いたことあります、そういうこと常習にしてる人たちのスレッドとかがあるって。空想、ファンタジーだって建前で、情報交換するそうです。どの路線の何時頃の何両目にターゲットがいるとか」
わたしは思わず硬い表情の彼を見返した。
「…そうなの?」
「僕も実際に見たことはないから…。でも、そんな風に偶然そんな人たちが相談もせずに一箇所に集まるとは思えませんし。…大丈夫です、ちゃんと仕返ししておきますから。したことの報いは受けるのがこの世界の筋ってものです」
わたしは掛け値無しに仰天した。声を抑えるのも忘れて呆然と増渕に訊き返す。
「それは、犯人が誰だかわかってるってこと?どうしてわかるの?」
増渕は見たこともないほど厳しい表情で小さく吐くように言った。
「普通なら勿論無理ですけど。蛇の道は蛇です。…今、探ってみたらそいつらの痕跡がなくはないです。…連中の記憶や、あなたに対する執着の跡が微かに残ってるんです。未だに」
わたしはまじまじと彼の強張った横顔を見つめた。でも、そうか。これも一種のサイコメトリクスなのかな。
彼は厳しい顔つきを崩さず先を続けた。
「それはタミさんが受けた被害のタグみたいなもので。あなたにとっては嫌なものだから取ってしまおうかと。…でも、考えが変わりました。この筋道を辿ればそいつらに繋がれますから、今でも。これを使ってあなたの受けた痛みを返します。何倍にもなって戻っていけばいいんですが。…どういう形で終わったか、あなたも僕も知ることはないでしょう。でも、確実に何かの罰は受けることになるでしょうね。それが当然なんです。それだけのことをしたんだから。行きずりの他人を傷つけて、立ち直れなくしておいてのうのうと自分たちは普通に生活を送ってるなんて…。やっぱり、フェアじゃないですから。これでいいんです、結果的にはね」
「その『タグ』は、残るの?」
わたしはよくわからないなりにとりあえず尋ねる。自分から出た謎の紐のようなものが、不快な男たちとずっと先で繋がってる様子が頭の中に…。
彼は少し落ち着いたらしく目許を和らげてわたしを見やった。
「もう、切りました。イメージとしては、時限爆弾の紐の先を切って向こう側に火をつけてさようなら、みたいな感じです。あとはどうなるか、視界の外ですね。これでもう、その男たちのことは忘れて大丈夫です。きっと二度とばったり会うこともありませんよ」
「そうなの?でも、死んじゃう訳でもないんでしょう、いくら何でも?」
別に生きてて欲しいとも思わないが。
増渕は素っ気なく肩を竦めたかと思うと、不意に緊張が解けたかのように破顔した。
「それは。…さあ、知りませんが。でも、忘れないで下さいよ。あなたのバックも強化して、機能するようにしたんですから。これからは今までみたいに酷い目に遭うことはほとんどなくなりますよ。…後ろの人たちも、僕のバックも、それから僕自身も。みんなあなたのことを二度と傷つけたくないって思ってるんですから。タミさんが想像するよりも、…もっとずっと、本気で」
その日はそのままわたしの家の最寄駅で一緒に降りて、アパートの部屋の前まで増渕は送ってくれた。
駅まででいいよ、と恐縮するわたしにきっぱりと
「ここまで来たんだから、ちゃんと最後まで送ります。中途半端は気になるし。それに、たった四駅ですよ。散歩くらいの感覚ですから、正直なとこ」
と言ってしっかりドアの前までついて来た。上がってく?と訊くと、何故か耳を赤くして
「そんな図々しいことは…、ちょっと、さすがに。そこまでは。…あの、明日の朝はどうしましょう。迎えに来ましょうか?」
と話を逸らすように慌てて尋ねてきた。
変な反応するな。部屋に入れたって別になんかする訳じゃないだろ。単にお茶くらい出そうかな、と思っただけなんだし。
「迎え?そんな必要ある?だって、天気も大丈夫そうだよ。雨も殆ど上がったし」
普通に自転車で行くつもりになってた。そう言いかけて、今日はそれをそのまま事務所のマンションの駐輪場に置いてきてしまったことに気づいた。そっか、朝は雨の中レインコートで走って行ったのに。帰りはこうして電車で帰って来ちゃったから。
一瞬悩んだけど、さすがに朝から雇い主に部屋まで迎えに来てもらうなんて気がひける。どんだけお姫様待遇なんだ。
玄関前で顔をあげて彼を見返し、思い切って口にする。
「いいよ、平気。明日は自分一人で電車に乗ってみる、久々に。ラッシュと反対向きだから多分そんなに混み混みじゃないと思うし。増渕と一緒だったからってこともあるけど思ったより怖くなかった。…なんか、行けそうな気がする」
彼は包むような目でわたしを見つめ、ややあって頷いた。
「…守りの者たちは任せてくれ、って言ってます、口々に。それもいい経験かな。明日はじゃあ、もう少し時差出勤にしてみましょう。十時頃出社でいいですよ。それならだいぶ車輌も空くでしょ?」
「別にいいよ、いつも通り。九時からで」
そう言ったけど、向こうも頑として譲らない。
「それは慣れてから様子見て。いきなり無理するのはやめましょう。追い追いでいいですよ。大丈夫です、最初の予約は十時だし。それに間に合えば…。朝の準備や事務処理は僕がやっときますよ」
そう念押しして帰っていった。
…そして翌朝。普段よりゆっくり出勤したわたしは、ややのんびりした足取りで事務所のあるフロアの廊下を歩いていた。
昔馴染んでた駅の改札も、あの車輌のデザインも意外なほど何も感じなかった。見えなくても守りがちゃんとついてる、もう大丈夫だって気持ちがどっかにあるからかもしれない。でも単純なもんだよな、わたしも。
ポケットから事務所の(そして増渕の自宅の)鍵を取り出しながら苦笑いする。守りがつけられてようがバックが強化されようが、わたし自身には見えないし確かめようもないのに。増渕の言葉だけでそれを信じる気になるなんて。
もしかしたら気の持ちようが変化しただけだったりして。まあ、それだけでこんなに精神的に変われるならそれはそれですごいけど…。
「おはようございます〜」
玄関のピンポンを押して、インターフォンに向かって声をかけてから勝手に鍵を差し込んで回す。ドアノブに手をかけようとした瞬間、それがいきなり中からぐるりと回されて思わず熱いものに触れたように引っこめた。
ドアが内側に引かれて、顔を出した人物を見て我知らず目が点になる。当然増渕に決まってると思い込んでたわたしの脳はぐるぐると混乱した。
「あ、おはようです〜。今朝は遅かったのね。ゆっくり重役出勤?いいわね、融通のきく職場で」
二度ほど顔を合わせたことのある顧客の女性。確か、主婦の方じゃなかったっけ。
朝からきちんと化粧をして婉然と微笑む彼女と顔を向き合ってとりあえず笑顔を作る。お客さんなんだし、ちゃんと対応しなきゃ。
でも予約は昨日の時点で入ってなかった。わたしの代表番号にも連絡はなかったし。朝っぱらからいきなり訪ねてきたのか。
「今日は、口寄せですか?すみません、ご予約頂いてました?知らなかったのでこんな時間に…。行き届かなくて。申し訳ないです」
殊勝な口調でなるべく穏やかにそう言うと、彼女はにっこり明るく笑ってみせた。
「いいえぇ。予約なんかしてないわよ。昨夜ね、急に自由がきくことになったから。ちょっと思い立って先生に会いに来たのよ。あー、楽しかった。一晩中たっぷり二人きりでお話しできて」
呆然と佇むわたしにじゃあ、もう帰るわ、と軽く手を振ってみせて彼女は去っていった。見ればちゃんとお泊り用と思しき大きめのバッグを肩に掛けている。
確信犯じゃん!
わたしはつかつかと部屋に上がっていった。キッチンで洗い物をしている増渕の背中に尖った声をかける。
「…増渕所長。何ですか、朝からあれ?」
「あ、タミさん。どうでした、今朝?電車、大丈夫でしたか」
ゆっくり振り向いて穏やかな声をかけてくる奴に答えず、わたしは腰に両手を当ててはっきりした声で問い詰めた。
「ちゃんと答えて。…あの人、いつからここにいたんですか。今朝来たんじゃないんですよね?」
彼はちょっと肩を縮めて、手許に目線を落とした。水の音に紛れて答えが聴こえづらい。
「…ええと。夜中の十二時くらい、かな?」
「いきなり来たの?電話もなしで?」
奴は少し後ろめたそうにぼそぼそ呟いた。
「代表番号の電話はタミさんが持ってるし。僕の仕事用のは受付時間が終わったら電源切るようにしてるから…。なんか、お子さんのお泊り保育の日で。旦那さんが急に出張になったから来ちゃった、とかいきなり。…時間が時間だから。ひとりで帰すのも心配だし、電車もないし」
「十二時ならまだ何とかなるよ。大体そもそも一人でここまで来られたんなら帰れるでしょ、自分で」
遠慮なく呆れた声が出る。
「どうしても心配ならタクシー呼べばいいよ。これからはそうして下さい。…それで、これは仕事だったの、それとも遊びに来ただけ?プライベートで」
だったら何も言わないけど。増渕の勝手だし。
奴は疚しいことがあるのかないのか、なぜか必死でぶんぶんと首を横に振った。
「いえあの。…一応、口寄せで。あの人呼んでとか、次はこの人とか。それで、いい酒あったから持って来たとか言って。…なんか、夜更けまでだらだらと。最後は向こうはソファで寝たけど。…さすがになんか、眠れなかったです。こっちはあんまり」
でしょうね。
「道理で部屋の中、なんか酒臭いよ。換気して。…もうすぐ最初のお客さん来ちゃうでしょ」
二人でばたばたと部屋中の窓を開けたり、換気扇を回したりしながらわたしは胸の内でこっそりため息をついた。
…まったく。
ひとから頼まれると断れない(いや、断らない)男なんか何だか情けない、しゃきっとすればいいのにと内心で思ってた。それが昨日のことで急に見る目が変わって、すごく頼り甲斐がある、しっかり全部を見通して配慮してくれる力のある人なんだと見直しかけてたのに。
前言撤回。何なのもうこれ。グラスと酒瓶はキッチンのシンクに既に運ばれてたけどリビングの灰皿に積まれた口紅のしっかりついた吸い殻の山に顔をしかめる。押しかけて来られたら断れないのは結局変わらないんだな。それを少し水を入れたビニール袋に移して口をきゅっと閉めながら肩をすぼめた。
いくら向こうから来たからって、なに一晩中人妻と飲み明かしてんだよ!旦那から訴えられても知らないからな。
ちょっとだけふわっと浮き立ってた気持ちが虚しくしぼむ。乾き物の散らかった床を手早く掃除しつつ考えた。
やっぱりこいつ、全然頼れない。わたしがしっかりしなくちゃ…。
《続》