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タミルちゃんは謝らない  作者: タカヤマキナ
11/12

第11章 ゼロじゃない

タミさんの方の意識が一体どこで変化し始めたのか。今でも俺には知る由もない。

俺が全身の毛を逆立てて敵を威嚇する野良猫のように啓太を彼女の前から追い払ったあと、事務所には再び平穏な毎日が戻ってきた。彼女の交友関係に手を突っ込むつもりはないけど、啓太と二人で会ってることをまったく知らなくて結果あんな事態になったことは少し後悔していた。

事前に知ってたら何かできたのかってのは微妙なとこだけど。まさかあんな下心があるに決まってる奴とは会うなとかも言えないし。

でも、友達っていくら口では言っても向こうは完全にそうは思ってないくらいは忠告できたかも。夜遅い時間帯とか、人目の切れる場所で二人きりにならないよう気をつけてくれって口を酸っぱくして言うだけでも多少は役に立ったかもしれない。まぁ、大概うるさい奴だなとうんざりされて迷惑に思われるだけで終わったかもだけど。

そういうわけで彼女のプライベートにはどうせ関われないって割り切るのはもう止めた。大人の女性なんだから何かあっても自分でなんとかできるはずだって思うのも。誰かと会ったり好きなように行動するのを制限する気はないけど、普段どういう生活を送ってるかは少しは把握しておきたい。不穏な兆候があれば早めに忠告することもできるし。

今まではお休みの日に何してますか?と尋ねたり、終業後帰っていく彼女に夕食はどうしてるんですかと声をかけたりするのもなんとなく気が引けてできずにいた。でもあれ以来少しだけ彼女との距離も縮まった気がして、それくらいはいいかな、と思い始めた。

聞いた話によればタミさんは仕事以外にほとんど普段人に会ったりする習慣はないようだった。まあ、俺も他人のこと言えないけど。

奥野さんほか数人の友人とは半年や一年に一度くらい会うこともあるらしかったけど。学校を卒業してからは友達と時間帯も合わない(それは俺も身に覚えがある)。LINEやメールでのやり取りは思い出したようにぽつぽつあるけどね、とことも無げに説明する。孤独が好きってわけではなさそうだけど、ひとりが苦痛な感覚もないみたいだ。そこは実に無頓着だった。

俺の方はやや一人が気楽、に気持ちが寄ってるかも。でも、彼女と時間を過ごすのはそれとは全く別だった。お客さんのいる時もいない時も、最近始めた出張仕事に二人で出かける移動中の時間も気詰まりな感覚がない。向こうの言葉遣いは完全にタメ口以上、むしろ先輩が後輩に話すみたいな上から会話で(自業自得だろう。高校の後輩でした、なんて初回に打ち明けたから)下手するとあんた、お前呼ばわり。でも全然気にはならなかった。だって後輩だし、事実。高校の時に戻ったみたいで嬉しいくらいだ。いや当時は視界の端っこにも入れてなかったんだから。今の方が断然、較べものにならないくらいいい。

こんな風な暮らしがずっと続けばいいのにな、としか思ってなかった。彼女は誰のことも好きにならないって言い切ってるし、俺も彼女以外は目に入らない。こうしてそばにいて、彼女の安全に気を配って寄り添いつづける。それで充分満足で、その先のことなんか思い浮かびもしなかった。

そして保護者意識にエンジンがかかると、今度は彼女の健康面まで口を出したくなってくる。あの雑なものぐささ(悪口言ってるんじゃない。そういうところも可愛い、俺には)、手先の絶望的なぶきっちょさからしてきちんと自炊してるかどうかは怪しかったから、俺は思いきって仕事の後に簡単な夕食を作って一緒に食べていくよう誘うことにした。

お前なんかと顔突き合わせて飯食って何が楽しいんだよとか言われるかと思ったが(酷い。でも、言われかねない)、タミさんは少し嬉しそうにいいの?と大きな黒い瞳をさらに見開いた。全くもう、なんで時たまそんな可愛いんだよ。こっちが変な気起こさないようちょっとは気を使って欲しい。

案の定手伝いたがる彼女に冷や冷やしつつ何とか協力して料理を完成させる。二人で向かい合って他愛もないことを喋りながら食べる夕食は本当に美味しくて、楽しかった。

思えば長いことこんな幸せな食事はしたことがなかった気がする。時々はまた誘っていいですか、と思いきって尋ねると彼女は素直にこくんと頷いてくれた。

以来、間隔を空けつつ(気を緩めると毎日誘っちゃいそうなので)時折声をかけて一緒に夕食をとる習慣になった。

それで遅い時間になった時は有無を言わさず部屋まで送る。彼女があれだけ忌避していた電車にもう何の違和感も感じていないのを確認できて安堵した。電車の中でも夜道でも、タミさんのバックの者たちが俺の後ろの連中に習った通り、懸命に働いて彼女を守護するのに務めてるのを見て取り(意識してきちんと手順を踏めば身内でも霊視はできる)、そっと胸の内で笑みを溢した。

穏やかで平和で、何もかも上手く機能し始めていた。だから不満なんかなにもない。

このまま彼女が仕事のパートナーとしてずっとここにいてくれたらいいなぁ、としか思ってなかった。

だからか、彼女の意識がいつの間にか少しずつ変わってきていたのに気づくのが遅れた。

最初はちょっとした違和感。キッチンで並んで作業をしてる時など、どうかすると肩や腕が触れ合う。狭い場所だから仕方ないとはいえ、わぁ、すいませんと慌てて身を縮めて即引っ込める。そんな俺の反応に何故か微妙に片付かない顔をするタミさん。

そんな、謝ることないじゃん、と小さな声で呟く声が耳に届く。いやだってさ。

わざとじゃないのは向こうにもわかってもらえると思うけど。それでもどんなきっかけで変な空気になるかはわからない。何しろ普段から二人でいるのに慣れてるとはいえ実態は異性同士のパートナーなわけだし。気まずいことになったら後悔しても遅い。

何より俺が無害で安全で絶対に彼女におかしな気を起こさないって確信を持ってもらってるから俺たちはこうしてそばにいられるんだ。俺が見かけだけじゃなく実質的に男で、心の奥底ではタミさんのことを女性として見てて。しかも遅まきの初恋みたいな強い、激しい思いを押し隠してるなんて。

何かの拍子にうっかり伝わりでもしたら。男性恐怖症の彼女は怖気を奮って全力で走って逃げてしまうに違いない。

そんなことにならないように表面上は完全に清廉潔白、公正明大疚しいことなしに完璧に整えておく必要がある。軽く触れた指一本で俺の理性がぶっ飛んだりしたら目も当てられない。

そんなわけでまた偶然触れ合ったりしないよう慎重に充分な距離を置いた。つもりなのに、気づくとまた彼女の頭が肩に軽く触れてその温かさにずきんとなる。慌てて後退り離れる。そして作業に集中してるうちにまたふと手と手が…。

そんなことが繰り返されるうちに俺はほんの少し疑い始めた。…あの、タミさんて。パーソナルスペース最近狭まってないか?

ちょっと何かに気を取られると注意力なんかすぐ遠くにすっ飛ぶ彼女のことだからわざととは思わない。あえて触れるほど俺のそばに位置取りする理由も別にあるわけないし。

でも、餌付けされた野生動物がほんの少しずつ人間との距離を縮めてくるように、タミさんも俺との間に警戒心がなくなったことで(ん?最初からそんなんあったっけ?とここでちょっと混乱)かなり接近しても何とも感じなくなってるのかも。というより、うっかり頭をすり寄せられそうなほどそばに身体を寄せて真剣に不器用な手つきで包丁を握ってる様子を見ると(怖い)、むしろ体温を感じるほど近い方が落ち着く。といった様子に見えて、勘違いかもしれないけど愛しさに胸がいっぱいになる。

いたちとかりすとかが自然とそばにきて、くっつくでも離れるでもなくすぐそこで寛いでるみたい。なんて可愛らしい生き物なんだ。

思わず手を伸ばして髪を撫でてやりたくなり、必死で自分の手を抑えて理性を引っ張り戻す。

いやこれは、俺の存在をほぼ忘れるくらい油断してるからこそだから。野生動物だってそうだろ、多分。無心に何かに集中してるからってうっかり撫でたりしようもんなら。

ぴゅっ!と身を翻して森の奥に消えて、二度と姿を現さないに決まってる。タミさんもそれと同じだ。

心底から気を許して懐いてるなんて思い上がったら駄目。彼女は男が怖いんだから。下手なことしたらまた嫌なつらいこと思い出させる。それじゃ啓太のしたこととおんなじだ。

何度も自分にそう言い聞かせ、落ち着きを取り戻す。そう、俺さえしっかり自分を抑えていられれば。何の問題もないはず…。

なのに。タミさんから流れてくる空気がなんとも微妙なのだ。

部屋まで送るとき、ドアの前でそれじゃ、また明日。しっかり内側から鍵閉めて下さいね、と声をかけると半身入れた状態で振り向くその目つき。ちょっとそのまま間が空いてから、おやすみ、とぶっきらぼうに言い捨ててばたんとドアが閉まる。何だろ、あれ。

俺は首を捻りながら一人で帰り道をとぼとぼ歩く。なんか俺、気を悪くするようなことしたのかな。怒ってるまでいかないくらい。不機嫌。…うーん、不満?というより。

拗ねてる。…って状態に近い、かも。

キッチンで軽く触れて思わず飛びすさり、すみません、と思わず謝ったとき。彼女の背中に向けてそれじゃまた明日、おやすみなさいと声をかけたとき。似たような眼差しを最近割と向けられてるような。

あれはどういう意味かって。…ごく普通に解釈するなら。

なんで気づかないの?って。…言ってる、ような。気がする。けど…。

…何に?

さっぱりわからない。俺は肩を竦めた。彼女の表情は雄弁だ。それは間違いない。隠しきれない何かの感情がそこには溢れてる。

目で、口許で、声色で。言葉にならないものを最近、しきりに訴えかけられてる気はするんだけど。

惜しむらくは。その表情の表してる意味を解釈するスキルが俺にはない。

家に着いてから一人、バスタブに熱いお湯を張りながら。傍らで何するでもなく腕組みしてカランから溢れる奔流の動きをじっと眺め続ける。こうしてると何か思い浮かぶかも、って期待してるわけでもないけど。

ああももどかしげというか。焦ったそうにされることって何だろ。俺鈍いし、気が利かないとこあるから。

こんな時こそオーラが読めてたらよかったのに。切実な気持ちで考える。てか今までの人生でそんなもの読めて役に立ったことなんかほぼないけど。今この時こそ必要なのにこれじゃどうしようもない。

そろそろお湯が止まりそうなので、脱衣所で手早く服を脱ぎ捨てて洗濯機に放り込み、さっさと浴室へ戻る。熱めの湯に身体を沈めてひたすら考え続けた。

てか、思うにここまでの人生、なまじオーラなんか見えるからそれに頼り過ぎだったんじゃないか?ってことに今更気がつく。つまり他人の感情はそれで大体把握できるから、普通の人みたいに表情や声のニュアンスを読む訓練が疎かだったんじゃないかな。唯一の道具を取り上げられて丸腰になるともうお手上げ、素手じゃなんの推理もできない。って状態か…。

俺は顎までお湯に浸かってぶくぶく、とため息をついた。タミさんの性格からして、遠慮なんかせずに言いたいことがあったらはっきり口にしてくれそうなもんだけど。

よほど言いにくいことなのか。だったらこっちから何なんですか?とか迂闊に尋ねるわけにもいかないんだろうなぁ、やっぱり…。


もしかして、まさか、って思いもないでもなかった。彼女のあの訴えかけるような微妙な表情。何かを待つような目。

でもそんなことあるわけない。俺は浮き立ちかける感情を必死でかき消した。

俺なんかにタミさんみたいなひとがまさか。思い上がりにも程がある。そうだったらいいのにって希望的観測が俺の目にフィルターをかけてるだけだよ。まるで…、もっとこっちに来ていいよ、とか。自分はOKだよ、みたいな。

そんな風にこっちの都合のいい方に解釈して手でも伸ばそうもんなら。啓太の奴のしたことと同じじゃないか。あいつだってきっと何かを勝手に了承のサインと見て取ったに違いない(例えば、夜にひと気のない場所について来たとか)。そして致命的に、こっ酷く間違えた。二度と二人きりになってもらえないくらい。取り返しのつかないくらいに。

タミさんが何か言葉で言い表してさえくれたら。…俺だって、確信が持てて。思いきって飛べるのに。

ちらとでもそう考えたってことは自分なりに薄々は察してたんだろう。一度理性が吹っ飛びかけた。真夏の出張先で車の中。停めてあった車内がものすごく熱くなってて、シートベルトの金具でタミさんが軽く火傷しかけた。慌ててその手のひらを取り、何かで冷やさなきゃとの思いで必死で自分の手で包む。もっと冷たいものがあれば尚いいんだけど。ああ、さっき自販機で飲み物買っとけばよかったなぁ…。

気がつくと二人きりの車内で手をしっかり握りあって、間近に目を合わせてた。タミさんの、大きな黒々とした深い瞳。またあの訴えかけるような色。…吸い込まれそう。

惹きつけられる。…タミさんの、柔らかそうな。少し開いた小さな唇…。

はっと我に返った。駄目、絶対。慌てて手を放し彼女から後退って離れる。いかん、これじゃまじで啓太と同じだ。

危うくあんな風にタミさんを傷つけるところだった。危なかった。

尤もその日は彼女の瞳の色と柔らかな手のひらの感触の記憶で眠れない夜を過ごしたけど。この思い出を大切に抱いて、また明日から罪のない無害なパートナーとして頑張ろう。と決意を新たにする俺。

いま思えば彼女は既にやきもきともどかしい思いをしてたのかもしれないけど。


結局俺は押し流された。

その日の顧客の降霊の最中に、招ぶつもりのないイレギュラーな身内の霊がやってきた。駆け落ちして連絡が取れなくなり、そのまま亡くなった依頼者の母親。

相手を本気で好きになったわけでもなく、夫や娘の気を惹きたくて無謀な行動に出た結果無残に見放された気配が強い。普通に考えたら自業自得、自分のしたことは自分で引き受けるしかないと突き放されても仕方のない人かもしれないけど。

なにぶん上に乗っかられてる時は半分相手の霊に同化してるから。未浄化の霊の生々しい負の感情がそのまま自分の中に流れ込んでくる感覚は何度経験しても耐え難い。打ちのめされて、心が折れかける。自分が何だったのかも忘れそうだ。悪夢の中で自我を手放すように。…もう何もかも。どうでもいいや…。

無気力の中に引きずり込まれそうになった時、タミさんの微かな声が俺を呼んだ気がした。そうだ、タミさん。

俺ははっと自分を取り戻した。ずぶずぶの不快な他人の苦悩の沼に浸かりながら。こんなところで自分を見失うわけにいかない。タミさんをひとりにできない。俺がそばにいて、いつでも守らなきゃ。あんな危なっかしい人、誰かが絶対ついていないと。

彼女の声が言ってる。こいつは必要な奴なんだ、って。…事務所の顧客だけじゃなく、わたしにも。希望的観測の空耳かな。でも、確かに聞き間違いようのないあの涼やかなはっきりした声で…。

夢中で重たいものを振り切り、浮上した。ばん、と耳をはたかれるようなでかい音が脳内に響いてあっという間に自分の表面に出て来られた。慌ててがっちり出入り口を閉じ、厳重に鍵をかける。二度とあんな思いをする気にはなれない。

自分への哀れみの中でうずくまってる母親を掬い上げて保護部屋に入れる。ここでゆっくり自分を見つめて、客観的に全部を見直してくれたら。何年かかってもいいから少しでも前に進めたらそれでいい。

改めて視線をあげて視界に飛び込んできたきらきらした顔。こんな綺麗なひとの隣に俺はいつもいるんだな、とちょっと他人事みたいに考える。

がんがん痛む頭を振ってなんとか調子を取り戻し、降霊の続きを無事こなした。全て終わって顧客が帰ったあと彼女と二人きりで自然とさっきの話になる。

ざっとその時のこっちの状況を説明したあと、タミさんが俺を呼んでくれたのが聞こえたって思いきって切り出す。お礼をちゃんと言わなきゃ、と思ったから。あれがなかったらいつまでも他人の悲しみに同化して沈みっぱなしで、浮上するきっかけを失ってたかもしれない。

タミさんの声だからあそこまで届いた。この人じゃなきゃ駄目なんだ。

彼女はちょっとぶっきらぼうに、あんたが必要だって言ったのは本当だから。どう受け取られても構わないよ、みたいなことを言って俺の隣に座り込んだ。距離が近い。思いきったように顔を上げ、まっすぐに俺の目を覗き込んだ。この前と同じだ。お願いだから気づいて。そう訴えかけてる。…何に?

迷ってる余裕なんかなかった。そこにタミさんがいて俺を呼んでる。待ってる、じっと。

俺がもっと近くにいくのを。

そっと触れ合ったらもう理性なんか。体重をかけて抑えつけるように上から、深く思う存分貪った。…頭も身体もずきずき疼いて、熱い。全部の衝動を思いきりぶつけた。

息が続かなくなって身体を弾ませながらしっかりと抱き合う。いきなり最初から無茶苦茶だったかな。乱暴だったかも。ごめん、て思いでそっと彼女の滑らかな髪を味わうように撫でる。なんて言おう。何か言わなきゃ、タミさんに。いい加減な気持ちじゃなくて。僕は、…本気で。

君のこと。

そこまではよかった。幸福感でいっぱいだった。タミさんが先に口を切ったとき、俺はその言葉に凍りついてしまった。

「わたし。…言ってない。キスして、とか」

今考えたら声の調子やニュアンスは頭に入ってきてなかった。ただその言葉、内容だけ。

ショックを受けた脳内をそのフレーズが増殖するようにに埋めつくし、あっと言う間にそれに完全に捉われてしまった。

そうだ。彼女は言ってない。…キスして欲しいとか。そばに来てとか。

俺が勝手に思い込んだ。求められてもいないのに、思い上がって浮かれて勘違いして。

これじゃあいつと同じだ。啓太のことをぶん殴ってやりたい、最低だって考えてたのに。全くそれと同じことして。タミさんの気持ち確かめもせずに、あの傷つきやすい身体に触れてしまった…。

俺は何か口走ったのかもしれない。よく覚えてはいない。

ゆらり、と立ち上がって面談室に向かったのは記憶にある。気がついたらひとり呆然とデスクに座り込んでいた。

かなり時間が経っていたのかもしれない。もうリビングにタミさんの気配はなかった。

わたし、言ってない。その声が頭の中を満たしてぐるぐる回る。大昔の記憶とごっちゃになってわんわん鳴り、思わず耳を塞ぎたくなった。

『一緒に帰ろうなんて言ってない。増渕くんが勝手に待ってただけなの。行こ?』

そう言い捨てて立ち去る制服の背中。その子を囲んだ女子たちが遠ざかりながらちらちらとこっちを伺う。あるいは高校の時。

『手を握って欲しいなんて言ってないでしょ。ただ二人で出かけたくらいで、彼氏みたいに…。あたし、そんなつもりじゃ。簡単な奴って思わないでよ』

小さな唇からぽんぽん飛び出してくる棘の含まれた言葉。俺は怖気づき、後退って二度と彼女らに近づかなかった。あの時の彼女らの背後に立ち昇ってたのを確かに見た、好意的な、何かを待ち受けるようにゆらゆら揺れてた華やいだ浮き立つオーラ。

あれは一体何だったんだ?

でも、あんなことを言われたってことは。俯いて震える息をついた。俺はどうしようもなく読み違えたんだろう。今回はあの時よりもっと悪い。オーラすら確認できてない上に。相手はタミさん、男性が苦手で恐怖心に苛まれてるひと。好きとも言わずにいきなり唇を重ねた。のしかかるように、押しつけるように。理性も吹き飛んで。

どんなに怖い思いをさせたんだろう。それに思い至るとぞっとする。あの、啓太に同じことをされた時のタミさんの様子。ありありと脳裏に蘇る。これ以上ないくらい小さく身を縮めて、丸くなって。掠れた消え入りそうな声であたしは汚い、と呟いてた…。

耐えきれず呻く。大好きな人を傷つけた。もう俺は自分が信用できない。

これ以上彼女に近づいてはいけない。だって自分をコントロールできないような奴なんだから。手脚を縛りつけて、自由に動かさないよう今後は気をつけないと。

でないと彼女のそばにいられない。タミさんを見守り続けられない。

俺はあくまで彼女が嫌な思いをしないよう、いつも笑っていられるよう影ながらサポートするだけの存在なんだ。そこを間違えないように。しっかり距離を置いて適正な関係を保とう。

そこまで考えてやっとひと息ついた。のろのろと立ち上がる。かなり長いことそうしていたのか、全身がみしみしと痛い。

願わくば彼女があまり傷つき、損なわれていませんように。この世で何よりも大切なものをこの手で壊してしまうとこだった。本当に危なかった…。


俺の中ではそういう次第だったから、とにかく翌日からはタミさんと充分な距離を置くことに心を配った。

何しろ自分が信用できないから。また彼女の意図を読み違えてふらふらと変な気を起こしかねない。会話など接触は最小限に、手の届かない位置に自分を常に置いて。しばらくの間、もう大丈夫って自分で確信が持てるようになるまで。

タミさんは意外に変化がなかった。

淡々と仕事をこなして、俺とも普通に会話する。まるで何事もなかったかのように。強いて言うならいつもよりやや事務的というか、てきぱき度が過ぎるかも。ちょっと拍子抜けしたけど傷ついて打ちひしがれてる彼女を目にするよりずっといい。

彼女が例によって仕事優先のため、頭の中のプライベートな思考回路のスイッチをあれ以来切ってたことをのちの機会に知った。

そんな数日が過ぎて、先に我慢ならなくなったのはタミさんの方だった。

終業後お客さんのいなくなった事務所で、終わったら断らずに帰っていいですよと言い置いて面談室に引っ込もうとした俺を引き止める。恐れてたことがやってきた。彼女に背中を向けたまま俺は頭が真っ白になり、全身が硬く強張る。

そう、恐れてたのはこれだ。彼女に責められ、決定的な言葉を浴びせられる。もうこんなところでは働き続けられない。信用ならない男とは一緒に仕事なんかできない…。

そう言われるのが怖くて距離を置いて、隙を作らないよう、接触する時間を取らないようにしてた。話しかけられてそんな風に言い渡されたら。俺は彼女を失ってしまうんだ。

…そこまで考えてやっと、背後からかけられる思い詰めたような言葉の調子に気づいた。

どうやら向こうは向こうで俺が何故か怒ってると思い込んでるらしい。何でまた。俺に関して言えばあんなことになって浮かれこそすれ、腹を立てる要素なんかどこにもないはずだ。でも、頭を切り替えて必死に耳を傾けるとどうやら俺の態度が豹変したのが彼女のあの台詞からというのは認識されていて、そのことを頻りに弁解しているのだった。

「わたしが無神経だったかも。増渕にして欲しいって思ったから、それが口からそのまま出てたんじゃないかって気になって。わたしが頼んだからしてくれたって思いたくなかった。ただ確認したかっただけだったから、最初はなんで怒ってるのか全然わからなくて。…でも、もしかしたらわたしが増渕のこと責めたって受け取られたのかな、ってあとから気がついた。変な言い方してたんだったらごめん。でも、そんなつもりじゃなかった…、から」

語尾が震えるのを耳にしてやっと我に返った。タミさんは怒ってない。それどころか俺の方が機嫌を損ねたと思い込んで必死に説明してる。嫌いになったんならちゃんとそう言って、無視しないでと訴えかける声に慌ててすごい勢いで振り返る。

そんなわけない、君のこと嫌いになんか。何されたってどんなこと言われたってそれだけは絶対にないよ。

こっちはこっちでタミさんのことを傷つけた、自分は最低だって落ち込んで距離を置いてたって打ち明けたら彼女はやや呆れたようにそんなことない、だってわたし嫌そうじゃなかったでしょ?と訊いてくるんだけど。

それがちゃんとわかるような勘のいい人間だったら。こんな悩みなんかないんだよ…。

それに、嫌がってるかどうかは置いても啓太のことを散々に言っておいて奴のしたことと俺の行動ってあまり変わらなくないか?それって駄目じゃない?というようなことをぼそぼそと呟くと、彼女は心底弱り果てた表情を浮かべた。そしてなんとも言えない顔をして言いにくそうに、

「啓太と増渕は全然違うよ、わたしにとって。…同じじゃない」

と告白するのだった。

鈍い俺は一瞬意味が飲み込めなくて眉根を寄せる。それって、どっちがどっち?…ありが啓太で無しが俺。…ではないの?

そこもはっきり言ってくれないと。いまいち自信が…。

でも、真剣に脳味噌を集中させて彼女のしどろもどろなわかりにくい台詞を何とか解読していくと。どうやら啓太だったら嫌なことでも増渕ならいい、って。…言ってる、らしい。

「不公平で理屈が合わないって言われるかも。でも、平等に同じなんて無理。…わたしにとっては、増渕は。啓太とも他の誰とも違うの」

不意に心臓が胸一杯にぐわと膨れ上がった、気がした。身体の中全部動悸でばくばく鳴って。体内にほかに何も入ってないんじゃないかと思うくらい。

「平等なんかどうでもいいよ。誰でも同じなんてあり得ないし、それは当たり前のことだと。…あの、俺にはよくわからないけど、タミさんの言ってること。上手く頭に入らなくて。でも。…俺のこと。少しでも他の人と違うって、思ってくれるんなら」

気がつくと彼女に向き直った状態で間近に迫って急くように話しかけていた。両手がそわそわと伸びそうになり、何とか落ち着かせて抑え込む。

まだだってば。充分反省したんだろ。触れる前にはきちんと彼女に言葉で思いをはっきり伝える。どうしたいかちゃんと具体的に申し込む。曖昧に、うやむやに、なし崩しに勢いでするのはなし。そう自分に言い聞かせ、呼吸を整えて彼女の目を覗き込んだ。

何かを待つように少し仰向いて待ってるその黒い瞳がたまらなく可愛らしい。どくどく鳴る心音で自分の声が聞こえづらいけど。思いきって正面から切り出した。

「大好きです、タミさん。最初の頃からずっと、本気で。…他のどんな男にもあなたを渡したくなんかない、絶対に。…あの、それで。もし俺のこと、嫌じゃなければ。…タミさんのこと。今これから。抱きしめて、…キスしても。いいですか?」


それからは夢なんじゃないか、というくらいふわふわと幸福に包まれた甘い日々が続いた。

だって、信じられない。朝目が覚めて狭いベッドの中、自分の隣にぴったりと温かい柔らかな身体が一緒に寄り添ってることに気づくとそのたび心の底から驚く。あれは夢じゃなかったんだ。俺にだけ都合のいい、妄想から来てる幻覚なんじゃないかといつも疑ってしまうくらい。

現実とは思われない。天使が何故か俺をめがけて空からふわりと舞い降りて、このベッドに向こうから潜り込んできた。まるで俺の脳内の楽園、ファンタジーだ。

彼女は自分の部屋に帰ろうとしなかった。初めの頃はいくら何でも自堕落なんじゃないかとの反省からなるべく毎日帰宅しようと努力したみたいだけど。

たった一晩離れただけでも身を切られるように辛かった、ってことを互いに打ち明けあったあとはもう、無理しないことにした。仕事にきちんと集中するためにも、人目のない時間には浴びるようにお互いに浸りきって溺れよう。思うさま貪り尽くしていつかは気が済んで、二人とも少しは楽になれる日もくるかも。それまではこんな幸せを心ゆくまで味わおう、と一緒に決めた。

毎朝同じベッドから起きて、二人で朝食を作って向かいあって食べる。洗濯機を回したり部屋を片付けたり。タミさんが何か壊さないかな、怪我をしないかと冷や冷やしながらもやっぱり何をしていても笑みがこぼれるくらい楽しい。それからお客さんが来て、仕事。切り替えの得意なタミさんはまるでいつも通りの態度だ。お客様には丁寧で親切、俺にはちょっと突慳貪で雑。あそこまで見事に切り替えできない俺は時折ほんの少しだけ、タミさんの姿を目にしながら昨夜の記憶を蘇らせて身体を微かに疼かせる。それから慌ててそんな浮かれた気分を脳から追い出し…。

顧客がみんな帰って完全に二人きりになったら、やっとひと息つける。そうなるともうお互いそのことで頭がいっぱい、堪える余裕もない。まずは飢えを満たすのが先決。

一日顧客の前ではちらとも油断したところを見せないよう頑張り通したんだから。そのご褒美だって欲しい。

その時点ではベッドまではたどり着かず、ソファの上やリビングの床の上、面談室の椅子や机などとにかく手近な場所で。どうかすると食事を用意したり風呂に入る時までせずに保つこともあるけどまず眠る前、寝室まではもたない。キッチンや浴室で一度限界が来てしまう。場所を選ばず、したい時に縺れるように崩れてその場でした。

とにかく手早く満たしあったあとは少し落ち着いて、料理をしたり夕食を摂ったり細々と家事を済ませたり。ぶきっちょなタミさんを気遣いながら一緒にこなす雑事はままごとのような楽しさだ。それから入浴。慣れるまではそんなところに二人でいる、って事実だけで理性が吹き飛んでしまい、身体を洗ってるんだか汚してるんだか自分たちでも何してるのかわからないくらい滅茶苦茶なことに。

その後やや落ち着いてからはここは身体を洗うとこ、って自分に言い聞かせて少しは抑えられるようになった。まあ、どうせベッドに入ったらさっきシャワー浴びた意味が…ってくらいのことになる羽目になるんだが、結局は。

そして締めは寝室で。一日に消化しきれなかった欲情は次の日に持ち越さないとばかり、思うさま欲望をぶつけ合い、激しく求め、いろんなことを試す。ちょっと図々しいかなと迷うようなことや、こんなことして大丈夫かなと心配になるようなことも彼女は意外に柔軟に何でも受け入れてくれた。

恋人としての彼女は、こうなる前に俺が想像してたのと全然違っていた。

なんと言っても普段は基本つれなくて素っ気なくて態度は雑。いやそこが良さなんだけど。まだしたいんだ、どんだけだよとか。お前、そんなことしたいの?とか言われてもおかしくないかと。

まあ、ああ見えて彼女は無神経ではない。俺の気持ちを気遣ってくれる繊細さもちゃんと持ち合わせてる、ただ時々そこまで気が回らないだけで。だけど本来男性が苦手だし。性的な物事に拒否感も強い。だから、してもいいよと向こうから言ってくれてもそれは自分がしたいからじゃなくて俺のため、こっちは解消しないとつらい欲求を抱えてるだろうと慮ってくれたから(やっぱり、優しい)。

だから目をぎゅっと瞑って懸命に我慢するような、身体を強張らせるような反応を見せてもおかしくないと思ってた。嫌な思いさせないように優しく、そっとしなきゃいけないなと。

でも想定したより遥かにタミさんは感じやすく、甘く、蕩けるように受け入れてくれた。

思わず頭に血が上って夢中で彼女にしがみつき、もっと気持ちよくなってほしい、もっと俺のこと欲しいって求めさせたいって逸る気持ちで一杯になる。激しくすればするほど向こうもびくびく身体を震わせて歓んでくれるので、ついエスカレートしがちになるけど。嫌とか駄目とか彼女が思わず口走ることは無論あるが、本気で拒まれることは一度もなかった。

初めての時こそ緊張して身体を硬くしてたけど。俺も経験のない女の人とした覚えがなかったのでそこはかなり不安だった。よりによって人生で初めてこの手で触れる処女がタミさん。

痛い思いや恥ずかしい思いをさせて嫌な記憶が刷り込まれたらどうしよう。そう考えちゃうとこっちも緊張する。失敗は許されない。

幸い、時間をかけて充分蕩かせたこともあって酷く痛がらせもせず一応首尾よくいったとは思うけど。彼女も必死で頑張って応じてくれた。まあ、いきなり最初から口で延々と…、っていうのはびっくりさせたみたいで。ちょっとそこは悪かったかも。

引かれるまではいかなくてよかった。

それからはほぼ毎日(彼女の都合の悪い日以外)何度も交わるので、あっという間にお互いの身体に馴れた。タミさんは俺しか知らないからこれが普通と思ってただけだろうけど。

俺にとってはセックスってこういうものなんだ、と日々目を開かれる思いだった。今までしてきたことと全然違う。

今までは相手から求められたからする、って動機が普通だった。したくないわけじゃないけどしなければ頭がおかしくなりそうってほどでもない。

それ自体は自分で決めたことで不満を言う筋合いでもない。向こうの切実さに較べるとこっちには断るべき大した理由もない気がしたし。それにそんなつもりじゃなかったとか、自分はしたくなかったのにとか言われるリスクを避けることが優先ってこともあった。

だいいちタミさんと再会する前は、誰かに対してどうしてもこの人とどうにかなりたいって切実な思いを抱いたこともなかったから。そこは自分でもどうしようもない。

だからなのか、これまで経験した行為ではいろいろ何かと気を遣ってそっちで消耗することが多かった気がする。相手の求めてることは何なのかとか。これで正解なのかとか。自分がどうしたいってのは取り立ててないから、要求に応えることがメインだった。だから純粋に愉しむとか没頭するわけにいかず、終わると結構ぐったりしてしまう。身体そのものより脳が疲れる、って感じ。

よくないことはないけど、それなりに面倒なものだなって意識は正直あった。

なのに彼女とのことは全てがあまりにも別次元だ。同じジャンルの行為って思えないくらい体験としては隔絶してる。

タミさんの身体が目の前にあって、思うように触れられると思っただけで身体の奥からぶるぶるっと震えがくるくらい興奮する。まるで発情した犬だ。頭に血が上ったみたいになって、意識して気合を入れないとあっという間に理性なんか飛んでしまう。

どうどう、と自分を制御しながらも夢中になると完全に欲情に溺れてしまい、気づくと畏れ多くもタミさんに向かって不埒な真似を。

散々焦らしたり我慢できないほど責め立てて、切なさに堪えきれず色っぽく身悶える彼女にちゃんと口に出して要求してとか。どこがどんな状態か言ってごらんとかまるで変態。

思いを果たして満たされて、ひと息ついてから彼女を抱きしめて我に返り、自分の言動を思い出して青ざめる。お前ふざけんなよ、と切れられても仕方ないと身構えたけど。意外にもこれもすっかり満ち足りた様子のタミさんに

「わたしも、結構嫌いじゃない。…こういうの」

と耳を赤くして小さな声で打ち明けられ、愛しさと幸福で有頂天になった。

この人はどうしてか、俺のこと許容してくれる。理性がすっ飛んだ今この時まで自分でも気づく機会がなかったこんな変な性癖まで含めて。毎日をずっと一緒に過ごすうちに、付き合い始める前は現れてなかったいろんな新しい面や油断して出てきた性格もきっとあったと思うけど(タミさんに関していうと、恋人になってからの方がどういうわけか繊細できめ細やかで優しかった。こんな彼女を知ることがあろうとは)、増渕ってこんな奴とは思わなかったとか、思ってたのと違うとか文句を言われたりしなかった。

「なんか俺、人格変わったりしてない?緩んでつい変なとこ見せたりしてないかな」

その日の締めの行為が全て終わったあと、余韻でじんじんする身体をぴったりくっつけ合ってとりとめもなく話してる時にそんなことが浮かんで思いきって口にした。タミさんはまださっきの名残りが抜けきらない様子で大きな柔らかい胸を押しつけて(だから。…また変な気持ちになっちゃうって)、甘い声で応えた。

「そんなん全然気にならないよ。むしろ嬉しい。ふぅん、こういうとこあったんだ、意外だなあとか思ったりするけど。やっぱやたらと胸ばっか好きだよなぁとかさ」

「胸ばっかじゃないよ。…全部どこもかしこも好きだから、タミさんの」

俺は耳を真っ赤にして反論した。そりゃだって、こんな素敵なもの。目の前にあったらかっとなって、つい触ったり揉んだりいろいろするさ。指先や唇だって使いたいし、思いきり間に顔を埋めたり…。

でも、あくまでこれがタミさんのだからこそ。断じて大きさの問題じゃないって言ってるのに。全くもう、こんな論争になるんならタミさんがぺたんこな方がよかったのかも。でもこのふわふわのボリュームがタミさんと一体に感じられて、そうじゃない彼女はどうも上手く想像できない。…それに。

「絶対に胸だけなんてことないよ。…

* * * *

「…やっぱり俺、おかしいのかな。自分がこんな助平な奴だと思わなかった。好きな女の子にこんなことばっか…。いくらしても全然、飽き足らないし。そのうちタミさんに呆れられちゃうな」

彼女の滑らかな素肌を味わうように抱きしめながら思わず正直な不安を吐露すると、タミさんは明るく笑って俺の口許に軽く唇を押しつけた。

「そんなことない、絶対。そりゃ前の増渕のイメージからしたら、こんなわんこみたいにやたらとしたがる姿は全然想像もつかなかったし。意外なことは確かだけど」

わんこ。

ちょっと憮然となる俺に構わず浮き立つような声で彼女は言葉を続けた。

「でも、新しい増渕を知るのは楽しいよ。だんだん気を許してくれてるってことなのかなって思うと嬉しくもあるし…。それに、今までのところ、へぇとか意外とか思いつつも、案外違和感はないんだよね。新しく知った面もすぐに馴染めるんだよ。…思うに、実際に詳しく裏まで知らなくても増渕全体のことは付き合う前から既にざっくり把握できてるんじゃないかな、無意識に。それと矛盾するところはないような気がする。…多分ね、見えないところも全部含めて。既に丸ごと増渕って人物のことを受け入れてるんだと思う」

その言葉に胸を締めつけられて咄嗟に言葉も出ない俺をあやすように前髪をかき分けてくれ、彼女は柔らかな声で続けた。

「だから、今まで知られてない面をわたしの前で出すのを怖がる必要はないよ。どんな部分が後から出てきても安心してここにいていい。そこも含めてもう好きになってるんだから。…増渕のこと全部」


全身が締めつけられるようにぎりぎりと痛い。

精神的な苦しみは現実に物理的な痛みとして身体に感じるんだってことを初めて知った。胸も、肩や肘の関節も、腹の奥底も。ねじ上げられ、誰かの手で荒っぽく掴まれて捻られ、引っ張られてるみたいだ。全然終わりがないようにずっと永遠にそれが続く。

考えたら耐えられないから頭を空っぽにするよう努力する。でも何も考えずにいることもできない。ついタミさんのあの台詞を思い出し、また呻きが漏れるくらい身体と心の痛みに苛まれる。

幸せの絶頂で呟かれた甘い言葉。果たされなかった約束。

彼女は悪くない。確かにあんなことを実際に口にしてはいたけど。

…どんなわたしの知らない面が出てきても安心していい。怖がらないで。それも含めて全部増渕のこと好きだから。

そう言ってくれた時は真剣だったと思う。軽い気持ちで言い出したことじゃなかっただろう。ただ、俺の隠された面が彼女の想像を絶してただけ。あんなことをしてた奴だとはちらとも考えつかなかったんだろう。

タミさんみたいな潔癖で清潔な女の子にはどんなに衝撃だっただろう。俺のだらしなさ、不潔さに怖気を奮ったのは当然だ。ついこの間まで男性に指一本触れられることすら耐えられなかった子が、不特定多数の女性を相手が求めるがままに乱脈に受け入れてた男に抱かれてた。そのことを知った時のショックを想像すると…。

ただ、それを彼女に知られたことがわかった時はもう、自分の受けた打撃で一杯になってしまって、タミさんの気持ちを慮る余裕もなかった。ひたすら頭が真っ白になり、みっともなく弁解し、縋り食い下がった。…ような気が。

正直なところ、殆どの記憶が飛んでいる。あの時のことはもう、朧げな印象しかない。

ひとり横たわる冷たいベッドで物憂く考える。最近やっと少し、こうして頭が動くようにはなってきた。

まるでたった今目が覚めたみたいにのろのろと顔を上げる。今は何時なんだろう。漠然とした感じでは真夜中。眠ってたのか起きてたのかも判然としない。いやそもそも。

一体あれから何日経ってるんだろう?

昼間、お客さんに対応して口寄せや霊視をした途切れとぎれの記憶はある。だから普通に仕事はしてるんだと思う。離脱気味になる意識を叱咤してちゃんと集中しなくちゃ、と自分に言い聞かせたような気も。

でも、しっかりと頭全体を使うとどうしても自分の今ある状況を認識せずにはいられない。そうするともう精神がもたない。中途半端な上の空の状態で霊に接するのも危険が伴うし。だから脳内を分割するように、仕事に関する部分だけを機能させてそれ以外の場所を眠らせておくようにした。タミさんの言ってた『スイッチを切る』ってこういうことか、と初めて実感した。

だから何とか仕事はこなせてるんだと思う。やってきたクライアントにその場その場で対応するので精一杯で全体を見る余裕はないけど。予約の受付や調整、お客さんへの対応はタミさんがしてくれてるから多分ちゃんと回ってる筈だ。

彼女がいなかったら事務所を閉めるしかなかっただろう。この先ずっととは言わずとも、少なくとも今は。

俺は真っ暗な寝室の中で身じろぎもせずにじっと考える。考えたくはないんだけど、一度目が覚めるともう眠れない。起きていると脳が動く。それがたまらない。

この頭の中に何か適当なものを詰め込めればいいのに。西瓜とか。食パンとか。クッションでも枕でもいい、とにかく充分な嵩があって頭蓋骨の中身を一杯にできるもの。油断するといろんなことを鮮やかに思い出させたりしないもの。

タミさんに引導を渡されたあの日あの時の記憶がないのは救いだ。このまま二度と思い出さなくて構わない。あんな思いを脳内で何度も再生するなんて。とてもじゃないけど耐えられそうもないし。

でも、そうすると。俺のタミさんにまつわる記憶は幸せな、温かい、身体が熱くなるような切ないものばかりだ。それを今思い出したら絶対駄目だってどんなに自分に言い聞かせても。

馬鹿な脳は大切なものを取り出すような手つきで次々にそれらを目の前に広げてみせる。誇らしげに、見せびらかすように。

それはもう俺のものじゃないって悲鳴を上げても絶対に聞き入れようとしない。それを永遠に失ったことは恐らく今ひとつ理解できてないに違いない。

なんて間抜けでお気楽な脳味噌なんだ。

本気で腹を立てつつも、幸せそうな笑みを浮かべてアルバムのページをめくる手つきに引き寄せられるようにそこを覗き込まずにいられない。そしてその場面をありありと面前に蘇らせ、また思わず声に出して呻く。

狭いキッチンで俺に身を寄せるようにして危なっかしい手つきで包丁を握るタミさん。その髪から柔らかいシャンプーの匂い。

向かい合って他愛もないことを喋りながら摂る食事。明るい彼女の笑い声。わけもなく触れ合った手を取り合い、テーブル越しに見つめ合う。恋にのぼせた二人。多分他人が見たら馬鹿みたいな。

* * * *

何度満たしても、終わったあとに徒然に触れて愛おしく弄っているうちにまた火が点いたようになり、欲しがりだすあの反応。こんなの、恥ずかしい、と呟くように言いながら喉を震わせた。そんなことない。君だけじゃない、俺の方こそ。さっきの今なのにもう、こんなに…。

そう言い聞かせて再び覆い被さり、身体を重ねる。何度満たし合っても満足しない俺たち。ずっとこのまま結ばれたままでいられたらいいのに。何時間でも何日でも。そうしたら、いつかはこんな苦痛に思えるくらいの飢餓状態もなくなって穏やかな気持ちで静かに抱き合えるようになるのかな。

…不意に現実が目の前に戻ってきて悲鳴を上げそうになった。たった今の今まで、記憶にうっとりと溺れてたのに。

もう二度とあんなことはない。タミさんの、表面や手脚の先は冷んやりとして、中に、奥に近づくほどに熱くなるあの体温も。すべすべでうっとりするような、手のひらに吸いつく肌の感触も。甘い囁きも忙しない喘ぎも切れぎれの愛の言葉も。

もう絶対にこの身体で感じることはない。俺の手の届かないところへ遠ざかっていった。再び経験することは叶わないんだ。

獣の唸り声のようなものが喉の奥から押し出されてきて、抑えきれず毛布の端を口に押し込む。多分このままだと本気で大きな声で喚いてしまう。夜中に頭がおかしくなったかと思われるだろう、近所中に。

そんな理性も鬱陶しい。何もかも放り投げて分別も何もつかなくなりたかった。

内臓を誰かの手で鷲掴みにされてかき回されてるみたいだ。こんなに苦しいのならいっそ記憶なんかなくなった方が楽なのかも。いや、それより。

初めから彼女を手に入れたりしなければよかった。遠巻きに見ていた憧れの先輩。そんな人が同じ職場にやってきて、破茶滅茶で危なっかしいけど心が浮き立って毎日が楽しくて。それで充分幸せだったじゃないか。

あの時点で時間が止まっていればよかった。なまじ手を触れて、抱きしめて、知らなくていい喜びを知った。それでいて飽き足らないうちに無情に取り上げられて、もうこれで完全に終わり、二度となしってきっぱり言い渡されるくらいなら。

俺たちは気持ちを打ち明け合わない方がよかった。お互いの思いを確認して抱き合って何もかもを分かち合ったりしなくてもよかった。もともと俺には過ぎた存在で、身の程知らずだったんだ。それよりは分相応に、仕事のパートナーとして彼女を見守って、サポートして、悪い奴が寄りつかないように影ながら尽力する。それだってあの時の俺にとっては充分幸せだったのに。

その先の、頭のおかしくなるような幸福さえ味わわなければ。最初から何も知らなければこんな風に、喉を掴まれて誰かの素手で首ごともぎ取られるような酷い苦痛を感じなくて済んだはずなのに…。

気がつくと両目から涙らしきものが溢れ落ちていた。耳に溜まって鬱陶しい。泣いたのなんていつ以来だろう。ほとんど記憶にない。一度気がついてしまうとまた止まらなくなる。思いきり声を出してむせび泣きたい。でも、できない。

そんな風に悲しみになぎ倒されて身を任せてしまうと。きっともう二度と立ち上がれなくなりそうで。

喉の奥で震える嗚咽を必死に堪えるしかない。それだけが立っていられるために縋れるもの、最後の砦だとでもいうみたいに。

こんな拷問みたいな毎日もいつかは終わりが来るのかな。

悲しみと痛みで麻痺したようにじんと鳴ってる頭で朧げに考える。一日いちにちをなんとかやり過ごして月日を重ねて。何ヶ月、何年も経てばタミさんと一緒に過ごした全ての記憶も薄らいで。あれは俺のおかしくなった頭の作り出した妄想だったのかもしれない、タミさんが俺とあんな風に付き合ってくれたなんて偽の記憶かも。そう思って笑えてくる日も来るのかな。

早送りができるならそうしたいのに。一足跳びに歳を取りたい。あっという間に年老いて、何もかも遠く霞んで薄らいで。苦痛もなくなって遠くの山を見やるように、いつかそれだけが自分の生きてた証みたいに、まっすぐに目を向けて懐かしむことさえできるようになるのかな…。


「所長。…所長、あの。えーと。…聞こえてる?増渕」

少し苛つきの混じる呼びかけに我に返る。慌てて声のする方に振り向くと、ちょっと呆れた顔つきのタミさんがそれでも少し心配そうに俺を見守ってた。

ここは面談室。カーテンの開いた窓から差し込む光は真昼らしい明るさだ。多分そろそろ正午ってとこか。クライアントは今はいない。さっきまでここにいた依頼者とその内容を思い出す。確かお祖母さんの遺品の着物の霊視だったかな。ちょっと不安になる。思わずタミさんに尋ねた。

「俺、ちゃんと機能してました?途中で黙り込んだり不審な動きしてなかったですか」

彼女は肩を竦めて走り書きのメモらしきものを手許でまとめながら、つけつけとした口調で遠慮なく言った。

「一応ちゃんとやってましたよ。まあ感情が抜けたような感じっていうか。自動人形みたいってか。味も素っ気もない機械的な話しぶりでしたけどね。話してる内容に不自然なとこはなかったです。説明も丁寧だったしね」

「はあ…、そうですか」

とりあえず安堵。下を向いて胸を撫で下ろす情けない俺に、すっかり以前のさばさばした調子を取り戻したタミさんは更に容赦なく言葉を重ねた。

「でもね、なんていうか、以前みたいな親身な寄り添うような姿勢がないです。相手の反応を見てどこまで言うべきか、その場で判断するような匙加減もないしね。それが単に霊能力の確かさにとどまらないあなたのいいとこだと思うけど。お客さんはみんな、増渕のそういうところが好きで安心して来てくれるってことを…、まぁ、今どうこうは無理か。こうやってきちんと仕事してるだけでも大したもんかもね。あんまり厳しいことを言うタイミングでもないよね」

途中から独り言めいた調子になりふと黙る。その言葉に改めて、そうだ、俺はこの人に振られたんだなとしみじみとした実感が胸に迫った。

まさかこうやって一緒にいる時に普通に口の端に上る話題とは思わなかった。大抵こういう時って、え、わたしたちがこの間まで付き合ってたなんて、そんな事実ありました?って感じで何事もなかった振り、しらっと黙殺するのが一般的じゃないのか。

まあ、職場の同僚(しかも二人きりの)とどうにかなってその後捨てられた経験なんて後にも先にもこれで終わりだろうから。正解がどうかなんて永遠にわからなくてもいいんだけどさ。

タミさんは別に隠すことなんかない、といった顔つきで自然な話の流れのままに俺の方を見やった。やっぱりその表情はどことなく気遣わしげだ。

「所長、ちゃんと寝てます?ご飯食べれてる?」

「寝れるわけないよ。そこは…、ごめん。無理言わないで。俺も起きてたくて起きてるわけじゃないんだ」

その優しさについ甘えるように本音が。同時に、そんなに心配してくれるくらいなら戻ってきてくれたらいいのにと我儘な不満が胸の奥で湧き上がる。それとこれとは別だろうが、と自分に言い聞かせるが。

「よくあるよね、動物を捕獲するときに吹き矢みたいのでふっと麻酔を打ち込むやつ。ああいうので気づかないうちにすうっと気を失いたいなぁ。朝まで何にも考えずに気絶できたら身体も休まると思うけど」

「獣医さんの知り合いがいたらよかったんだけどね。今度伝手を探しておきますよ。動物用のだったら相当効くでしょうね。尤も世の中にはちゃんと人間向けの麻酔ってもんがあるんですよ、所長が知ってるかどうかわかんないですけど」

相変わらずの素っ気ない突慳貪な物言いに思わず苦笑う。一応丁寧語で喋るだけましなのか、本人のつもりとしては。ちなみにこういう口調の時だけ彼女は俺のことを『所長』と呼ぶ。付き合う前も最中もそうだった。ただ単に丁寧語に『増渕』という呼び捨てがマッチしないからだろう。名前にくんとかさんをつける呼称はオプションにないらしい。

そう言えば、一度も下の名前で呼んでもらうことはついになく終わったな。こんなことなら付き合ってくれって申し込んだ時に早めに頼んでおけばよかった。などと益体もないことが脳裏に浮かんでため息と共にそんな考えを追い払う。

ふと彼女が声のトーンを落とした。少し沈んだ調子で静かに話しかけてくる。

「その分だと食欲もあんまりないんでしょ。ちゃんと食べてるの、あれから?」

あれから。何日くらい経ってるのかも今ひとつ把握してないのに。

自分が何食べてるかなんて記憶してるわけない。俺は力なく頭を横に振った。

「よくわからない。…多分、適当に」

「しょうがない人だよね。お昼これから買いに行くけど何がいいですかって訊いてたんだよ、さっき。でもその様子だと別に何でもいいって言うよね。答え聞かなくてもわかる、もう」

図星だ。俺は無表情に肩をすぼめた。

「だって。何なら食べられるっていうものがないのに。どれでも同じだと思うから、本当に別に希望なんてないよ。その辺に置いといてくれたら。…多分、あとで食べる。あんまり気にしないで」

やっぱりあからさまに元気がないとこ見せると彼女だって放っとくわけにいかないだろうし。心配かけるだろうな、とわかってはいるけど。だからって目の前にじっと座り込まれてちゃんと食事を摂るかどうか見張られて仕方なく無理に食べるなんて。喉につかえて飲み込めそうもない。そんなのごめんだ。

タミさんはまとめ終わったメモの束を手にしてため息をつき、仕方ないと言わんばかりに肩をすぼめてみせた。

「そしたら。わたし、何か作ります。今日は午後の予約一時半からなんでちょっと間があるし。冷蔵庫チェックしますよ。どうせ買い置きもしてないんでしょ、その様子だと?」

やれやれ、買い出し行ってこなくちゃな、とぶつぶつ言いながら面談室を出ていく。俺は慌ててデスクから立ち上がり、その背を追った。

「いいよそんなこと。タミさんにさせるわけ…、もう」

別れたのに。恋人でも何でもないのに。思わずためらって脳裏に浮かんだ言葉を飲み込む。それを実際に口にすると。

なんだかどこからともなく生血が噴き出しそう。

塞がってない傷を庇うように黙り込む俺に構うことなく、彼女はさっさとキッチンに赴きためらわず冷蔵庫を開けた。ついこの間まで二人の共有の空間だった場所。勝手知ったるものの手馴れた様子で中に目線を走らせ在庫をチェックしていく。

「ぶきっちょだから怖がってるんでしょ。でも、これでだいぶ包丁にも火にも慣れたんだよ。最近家でも料理してる。だから、多分何とかなるよ。簡単なものならね」

「料理、してるんだ。家で。…気をつけてね」

思わず口ごもる。この可愛い繊細な手がまた絆創膏だらけなことに、と思うと。

自分の部屋で一人で料理しないで、と言いたい気持ちを何とか抑える。危ないこと、難しいことは俺が代わりにやるから。俺が居ない場所ではそんなことする必要はないよ。

力なく目線を逸らした。自分ながら過保護で理不尽かもって以前から思ってたけど。今は尚更そんなこと、口走るわけにはいかない。彼女が包丁で指を切ろうが熱い鍋の縁で火傷しようが俺には介入できない。もうそんな権利は全然ないんだ。

俺が胸をぎりぎりと締めつけられてることを知ってか知らずか、タミさんはむしろ明るい口調で俺を見返して明言した。

「だいじょぶだって。こう見えても結構上達したよ。一緒に作ってる時増渕、丁寧に教えてくれたじゃん。あれってすごく役に立ってる。それに、買ってきたものだと増渕、きっとあまり食べないんじゃないかな。でもわたしの作ったもの、まさか目の前で全部残したりしないでしょ?否が応でも少しは口に入れることになるじゃん」

それは…、そうかも。

タミさんが手を傷だらけにして俺のために作ってくれたものを食欲がないから、とか言って残すなんて。とてもじゃないけどそんな畏れ多いこと…。

絶句して佇む俺を尻目に彼女は冷蔵庫をぱたんと閉じて眉根を寄せ、真剣に考え込んだ。

「…んん、お昼だし。あんまり時間のかかるもんもなぁ。重すぎても駄目だし。…パスタとかにしようかな。乾麺はまだあるけど…、いくら何でも具材がないな。肉とか魚介類とかなま物は全滅だし」

近くのスーパー行ってきます、と言い捨てて俺の反応も見ずにさっさと事務所の雑費用の財布を掴むタミさん。考えるより早く身体が動いた。こんなの久しぶりだ。

俺は彼女の後について玄関に向かい、その背中に思いきって声をかけた。

「…俺も行くよ」


「いい天気ですねぇ。散歩するにはちょうどいい気候かも」

「うん」

のんびりした声を出して頭上に重なる木々の枝葉を見あげるタミさん。俺は素直に頷いた。

水路の両側に沿って続く遊歩道。並ぶのは紅葉した桜の木か。赤や黄色、茶色のカラフルな落ち葉が足許でかさかさと鳴る。もう秋もだいぶ深まってきた。今日は晴れて日差しが暖かいけど。

もう少ししたらあっという間に冬だ。タミさんと付き合い始めたのは夏の終わり、そろそろ秋の声が聴こえてくるあたりの時季だったかな。

こんなに短く終わってしまうなんて。始まった時には浮かれてふわふわしてて、どんな風に終わるかなんてさすがに思い浮かびもしなかった。

まさか冬になるまで保ちもしないとは。これから本格的に寒くなるっていうのに。あの夜ひとりきりになるとがらんと広い部屋、冷たいベッドでどうやって乗り切ろう。

いっそ温かい生き物でも飼おうか。例えば猫とか。想像するとすごく心を慰めてくれそうだけど。

客商売の事務所でもあるし。そこはなかなか難しいのかな…。

「増渕、本当にパスタでいい?トマトソースとクリームソース、どっちがいい?それとも和風とか。たらことかきのこバター醤油とか」

「そんなレパートリーあったっけ、今まで?」

俺は首を捻った。一緒に料理してた時は作ってないレシピも含まれてる気がするけど。

「本当に自分ちで作ってるんだ。偉いな、タミさんは。ちゃんと前向いて、しっかり生活してて。先に進んでる気がする」

思わずため息が漏れる。

「それに対して俺なんか…。立ち上がる気にもならなくて同じ場所でじっとしてるばっかりで。頭を持ち上げる気にもならないのに。なんか、較べると情けないな、実際」

口にしても仕方ないことがぽろぽろと溢れる。愚痴と言えば愚痴。彼女からしたらそんなこと言われても仕方ないと思うけど。

それに、これって。密かに内心で思う。自分は君のことが忘れられなくて立ち直れないけど、そっちはもう割り切って歩き出してるんだねと恨み言を言ってるのと同じ気ながする。正直な本音としてはそういううじうじした気持ちがないでもないし。

俺なんか料理はおろか、何を食べてるかも意識できない状態なのに。タミさんはきちんと自分を律して、地面を踏みしめてその脚で立って。目線はもう終わったことには向けられない。未来を、この先を見据えてる。

俺とのことは既に過去のことなんだろうな、彼女の中では。

「俺もそんな風にしゃきっとしなきゃ、ってわかってはいるんだけど。…タミさんみたいに格好よくはなれないや、なかなか」

自嘲気味にごまかして明るく聞こえるように言うと、彼女はちょっと視線を逸らして低く抑えた声で呟いた。

「わかんない。ごはん作ったり掃除したり、何かと動いてはいるけど。それが前向きで偉いのかどうかは…。なんか、身体動かしてる方が落ち着くから。手順や効率のことだけ考えてれば。ほかに何も思い浮かばないで済むし」

…。

俺は一瞬言葉もなかった。

そうだよな。終わった途端に割り切って先のこと、未来のこと見据えてなんか。動き出せるわけない。

俺のこと切り捨ててすっきり前進できて羨ましいなんて。そんな風に考えたことを心の中で反省する。そもそもこんな事態を招いたのは全部俺のせいなのに。まるでタミさんを責めるみたいなこと。

「…なんか。ごめん」

「え、何が」

唐突に謝る俺に彼女はさすがにきょとんとした目を向けた。ぱりぱりの乾いた落ち葉を踏み砕きながら、その音に紛れて俯いてぼそぼそと述懐する。

「何もかも俺が悪いのに。考えなしで、先のこと見通しもなくその場の流れだけで行動なんかして…、場当たり的で。結果的にタミさんを傷つけて。すごく気持ち悪い、嫌な思いしただろうなと思うと。…タミさんみたいな綺麗なひとを。なんか、汚したみたいなことになって」

「…あんまり、そのことは。ごめん、まだ。…考えたくないの。今は」

きっぱり遮られてがっくり凹む。まあ、そうだよな。

生理的に受け付けないんだろう。こんな話、もう目の前で持ち出されるのも拒絶したいよな。

胸の内では半泣きの思いながら何とかやっと声を出す。

「うん。…そうだよな。もうこの話は…。タミさんと再会する前だったし、こんなに好きな人が現れるなんて思いもよらなかった時期のことだった。だから自分だけのことだし誰かに迷惑かけてるわけじゃないってその時は思ってたけど」

こんな話聞きたくないって彼女が言ってるのに。そう思いつつも今伝えておきたい、って気持ちで急くような口調になる。言葉が止められない。

「思えば無責任だし。後先考えない傲慢な考え方だったんだなって…。終わってしまった過去のことでも後から知った相手にとって嫌な辛い仕打ちになるってこともあるんだってこと、今更わかってももう遅いけど。…もう思い出させたりしないようにする。二度とこのことは持ち出さないよ、タミさんの前では」

何故か彼女は更に強い声で切り返してきた。

「違う、そうじゃない。…今は、なの。考えたくないのは。やっぱり身体が受け付けない、どうしても。なんだかまだ生々し過ぎて…。わたしもどう消化していいかわかんないの。だからそのまま放置してある。でも、ずっと整理しないで放っとくつもりはないから」

真剣な表情でまっすぐ前を見て断言する彼女を横からそっと見やる。…どういうこと?

なんか、よく。意味が。

タミさんは俺の方を見ようとはしなかった。きりっとした目つきで前方を見据え、小さいけどはっきりした声で先を続ける。

「わたしは増渕って人間を知ってる。あのこと知らされた後でも、今こうして一緒にいてもやっぱりその確信は揺らがないの。あの日の前も後も増渕は変わらない…。でも、わたしの中で。あの話は上手くあんたのイメージと繋がらないの。どこをどういう風にしたら増渕の中に収まるのかわからない」

俺はどう反応していいかわからず言葉に詰まる。

でも、それが事実なんだとしたら。

「タミさんの持ってるイメージが本物と違ってた、ってことじゃない?ただ単に。俺のこといい奴だって目で見過ぎてた、現実はもっとしょうもなく最低で下らない男だったことがわかったってだけなんじゃないのかな」

彼女は何故か俺が酷いことを言ったみたいにぎっと怒った目で厳しく睨みつけた。

「そんなことない。わたしは間違ってなんかないよ。増渕はちゃんと増渕だもん、今も。…でも、多分わたしのまだ理解できてないことがある。そこを深く知らないとあんたとあの話の結びつきの本当のところはわからない。そこまでちゃんと知りたいの、いつかは。…ただ、今はまだ。それを考えたくない。頭も気持ちも受け入れられないの」

もうスーパーが目の前に見えてきた。何となく、このひと気のない遊歩道で済ませておかないといけない話なんだな、と漠然と思う。きっと買い物して帰って食事を作って、って日常に戻ったらまたこのことを蒸し返すことはできない。

すごく大切なことを言われてる気がするのに。

タミさんはまた怒りを収めて静かな口調に戻り、淡々と続けた。俺の印象は多分当たっていて、この話はここで終わらせてしまわないといけないらしい。

「お客さんたちの顔も人となりも知ってるし。あの人たちが…、ってリアルに考えちゃったら気持ちが砕けそう。だから、もっとわたしがしっかりして、落ち着いて強くなれたら。冷静に、過去のことなんだって割り切れるようになったら。改めてちゃんと増渕のこと、考えられるようになると思う。それまで…、もう少し待って。何ヶ月、何年かかるかわからないけど」

それは。

俺の脳の中で何かの光がちかちかする。あれ以来初めて、自分の中で灯った明るい何か。

闇の中の心細いマッチの火。今にも消えてしまいそうな。

自分の動きで消してしまうのが怖かったけど、そのままにしてもおけない。思いきって恐るおそる尋ねた。

「…これでもう、俺のことはタミさんの中で完全に終わったってことではない?ってこと、かな。…何かまだ、この先がある、かも…。しれない?」

彼女は気難しい、と言える表情を浮かべて重く頷いた。そうすると難問に悩む子どものようで妙に可愛らしい。と場違いな馬鹿なことを考えた。

「先はある。どういう形かはわからないけど。これで何もかも終わり、片がついたってわけにはいかない。まだいろんなことが手をつけられてなくてペンディングされた状態だから…。まあ、問題が整理されたからってわたしがまた増渕を受け入れられるって保証はない。やっぱり無理、ってなるかもしれないから。期待しないでって言ったのは変わらないかも。…ただ、この先絶対変化がないってことではない。そんな不確かなこと言われても待てないよっていうんなら。別にわたしが落ち着くまでじっと待ってる必要はないよ。誰か新しく好きなひとができたら遠慮なんかしないでそっちに行って構わないし」

「行くわけないでしょう、そんなの」

俺は縺れる口で前のめりに噛みつくように遮った。なんか、心臓が久々にどくんと沸騰するように鳴った。ここんところちゃんと機能してない脳は今ひとつ事態を理解できてない気がするけど。

すごく重要なことを今、言われたってことはわかる。俺は必死の思いで確かめるように問いかけた。

「好きな人なんかできるわけない、タミさんの他には。何年何十年経ったって…。あの、どうも俺、上手く頭が働いてないんですけど。期待しないでとは言ってるけど。とにかくこの先、ずっとずっと先のことかもしれないけど。待ち続けることさえできれば、…可能性は。ゼロじゃない、って意味に。…聞こえたんですけど」

逆上せて急に生きる気力を見出したかのように活性化する俺と対照的に、タミさんはちらと微かにこちらに眼差しを向けてから短くクールに答え、頷いた。

もうスーパーの入り口はほんのすぐそこまで来てる。

「ゼロじゃない、それは確か。でも、待てば必ずってことでもない。そんな中途半端な話でもよければ。…もう少し待って。わたし、絶対に増渕のこときちんと全部理解する。最終的にあんたのこと受け入れられるかどうかに関わらず。自分が本当に好きになった人のことを」


《続》


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