第10章 断れない男
「ごめんなさいね、ご用事あるんでしょ?なるべく手短に済ますつもりだから。早めのお昼休みに出るところだったとか?」
彼女の名前は内野さんという。小柄で、可愛らしい雰囲気のふんわりとしたひとだ。話の端々からお子さんがいらっしゃることは知ってるけど、見た目からはとてもそうは思えない。ただそのあどけなくさえ思える外見とは裏腹な曲者の一面はこちらも既に承知してる。
なんといってもわたしがこの事務所に来た当初の頃、散々増渕を振り回してた夜討ち朝駆けメンバーの一人なのだ、実は。小さなお子さんがいる筈なのにどうやって夜抜けて来てたのかは正直あまり知りたくはない。わたしは用心深く、内心の怯みを察知されないよう無難に愛想よく答えた。
「いえ、大丈夫です。昼食を適当に買って戻るつもりで…。所長は事務所で事務処理がありますから。お昼を何か用意していかないと」
「なるほど。それであの部屋でお昼を済ませたあとは二人でゆっくり過ごすってわけね。普段よりちょっと長い休憩を。わたしが早めに切り上げたおかげね」
声の調子が柔らかくて棘がないので、その内容とのギャップが上手く飲み込めず全然頭に入ってこない。一拍おいて思わず顔をしかめたわたしに、彼女は悪気はないのよ、といった無邪気な表情で申し出た。
「ね。そうしたら、お昼を一緒に食べるのは無理でも。ちょっとその辺で軽くお茶なんてどう?それで話だけならいいでしょ。それとも、お仕事終わったあとに改めて約束した方がいい?」
正直それもぞっとしない。今日終わったあとこの人との約束があるなんて。そんな気分で仕事なんか手につきそうに思えない。
「いえ。…今でいいです。でも、あまり時間かけられないから。所長の食事時間が足りなくなってもいけないので」
嫌なことはさっさと済ませたい。でも、どこか喫茶店なんかに腰を落ち着けてこの人と向かい合って話すのも気が進まないし。なんとなく歯切れ悪く濁すわたしに苦笑して、彼女は一見さばさばとした様子で足早に並んで歩きながら受け答えた。
「そんなに引かなくて大丈夫よ。取って食いやしないから…。まあ、少しでも早く戻って悠くんの近くで過ごしたいわけね。せっかくのお昼休み、ちょっとでも何かしてもらえるかもって期待もあるのかな」
顧客の前での何とか取り繕った態度も吹っ飛びかけて反射的に彼女に向き直った。
「そんなこと」
彼女は平然と肩をすぼめてわたしの抗議をいなした。
「冗談よ。半分くらいは…。あ、お店に入るのが嫌ならさ。あの公園のベンチはどう?この時間は子どもたちも全然いないし。人に聞かれることもないわよ」
指差した方向に、いかにも住宅街の片隅に申し訳程度にある小さな空き地といった風情の公園が。滑り台と鉄棒、一つふたつ健康器具らしきもの。それから木製のベンチ。
植えてある木も疎らですかっとして、確かに立ち聞きされる恐れもなさそうだけど。てか、そこまで人の耳を憚るような話をこの人とするつもりなんか、こっちには全然ないが。
「…そういえば、ランチの予定はいいんですか?」
今更ながら思い出して弱々しく持ち出してみるけど。案の定あっさり片付けられた。
「あんなのさっさと引ける口実に決まってるじゃない。少し早めに昼休憩に入ったら、あなたたち早速嬉々として始めるのかな、と思ったからさ。…佳境に入ったとこで電話で邪魔してやろうと思ってたのに。ね、既にそういう関係なんでしょ?あなたと悠くん」
どういう反応を期待されてるのかわからない。とにかく話の内容は恐らくそっちなんだろう。あんまりいい気分ではない。申し訳程度に耳を傾けて、適当にごまかして切り上げよう。
ベンチにさっさと向かおうとするわたしを引き留めて、彼女は公園の片隅の自販機を指差す。
「あ、ね、喉渇いた。お水か何か買お?」
返事も聞かずにすたすたとそちらへ向かった。わたしはげんなりしつつその後を追う。
こんなことに費やす時間が勿体ないんだけど。早く帰って増渕と何かするためじゃない、あいつがお腹空かせてると思うと落ち着かないから。…ううん。
適当に自分も買った缶コーヒーを手に渋々彼女の腰掛けたベンチに近寄った。こんな何考えてるかわかんない人と早く離れて、増渕のそばに戻りたい。何もしなくていいから、ただ顔を見て安心したい…。
「で、どうなの?悠くん。あなたを満足させてくれるわけ、充分?」
早速そんな話題を持ち出してくる彼女にぴき、とこめかみが切れそうになる。あんたにそんなことなんの関係が…と口にしそうになり、待てよ、とふと思いとどまる。
思えば。この人、増渕のこと結構気に入ってたんじゃないかな。単に霊能者としてじゃなく、異性として。
思い出す、わたしがあの事務所にやって来たばかりの頃のあそこの状況。普通に降霊や霊視を期待してくるお客様ももちろんいたけど、この人や他の何人かの女性たちはなんというか。増渕を下の名前で呼んで憚らず(わたしなんか、未だに照れくさくて『悠』って口にもできてないのに!)隙あらばべたべた肩や腕に触ったり、しなだれかかったり。
そう、まるで。ホストとその客みたいだな、と感想を抱いた記憶が…。
ちょっと逆上しそうになり、どうどう、と自分を宥める。あれは過去のことだから。わたしが夜討ち朝駆け団を一掃して予約管理をきちんとするようになってからああいう空気はすっかりなくなった。この人みたいにあの時の『ホストクラブのお得意さん』たちも、その後も足は遠ざかることなく通い続けてる人が大半だけど、今ではみんな大人しくちゃんと予約を入れて時間も守ってくれてる。こちらがしっかり対応すれば向こうもマナーを守ってくれるんだ、ってわかったからもう過ぎた話は不問にすることにしたんだったっけ。
でも、ああいう態度を取ってたってことは当時、それなりに奴のことを憎からず思ってた可能性はある。単に歳下の男の子をおちょくってからかって暇潰ししてただけっていうより、もう少し強い感情がなくはなかったのかも。
この人も多分結婚してるんじゃないかと思うんだけど(旦那が、と口にしてるのを聞いたことがあるような気が)。そんな事実、誰か別の人をいいと感じるのを抑制するには案外役に立たないのかもしれないな。
そしたら増渕とこんなことになったわたしに何か一矢報いてやりたい、と思うのも無理ないかも。いやこっちからしたら何の借りもないし、単に無理筋としか思えないけど。人間の心の動きとして、そういうこともあるかもしれないなってのはわからなくないか。
「…職場でこんな、と思われるのはわかってます、けど。…仕事には絶対に差し支えないように。プライベートとはきっちり切り替えようと決めてはいます。お互いに」
考え考え、言葉を選ぶ。そんなこと言われてもこの人が納得するかどうかは未知数だけど。でも、しょうがない。納得できないって言い張られても。そうですか、すみませんって頭下げるくらいしか思いつかない。
だって。そもそも本質的には、顧客の人たちの許可を得なきゃいけない問題でもない。完全に私的な領域のことだし。クライアントさんの前でべたべたしたとかならそりゃ苦情もやむなしだけどさ…。
彼女はゆっくりと目を細めた。ベンチのすぐ隣、いつもより近い距離で見ると思ってたほど若く見えない。小皺も見当たらないし肌の艶もいいのに何故だろう。
もしかしたら、そこに浮かんでる海千山千としか表現のしようのない、あの表情のせい、かも…。
綺麗に塗った清楚な色合いのリップ。その口許から飛び出してくる言葉をどこか非現実なもののように遠い気分で聞いていた。
「…そうね。あんまりお行儀がいいとは言えない。若いから仕方ないのかな。ここにはここの流儀というか。ルールってものがあるのよ、ちゃんと。…そのうち自然とわかるようになるでしょ、と思って今まで静観してきたけど、わたしたちみんな。いつまで経っても気づかないみたいだから。…はっきり教えてあげようと思って」
胸がざわざわする。背筋もすうっと寒い。…何の話?
この人、何言ってるんだろう。ちょっと頭のねじ外れてるんじゃないの。それとも。
おかしいのは、わたしの方。…なのか?
不意に完全にそれまで忘れていた声が頭の中に響き渡る。増渕の口から出たのに本人のものじゃない。聞き慣れない、親切な人の声。
『思ってたのと違う、ってことがあったり。彼の今まで知らなかった面を知ることによって動揺したりとかいうことがあるかもしれないけど…』
今が。…もしかして、それ。か。
現実とは思われない。こんな時が本当に来るなんて。何の話か全然想像なんかついてないのに。それでも理性のどこかで、これから耳にすることがどんなことなのか漠然と予測できて、既に観念して頭を下げ目を閉じた。
わたしがこれまで知らずにきた増渕の一面…。
「彼を独り占めできるって当たり前に思い込んでるみたいだけど。何か勘違いしてるんじゃないのかな。既に悠くんの恋人にでもなったつもりなのかもしれないけど…。あの人は誰のものにもならないのよ。そういう人じゃないの、もともと」
やっぱり意味がわからない。
わたしは何かで濁って霞むような視界を見据えてぼんやりと顔を上げた。この人こそ何か思い違いしてるんじゃないのかな。だって、増渕ははっきりあの口でそう言ったのに。タミさんのこと大好きだって。こんな幸せでいいのかな、って…。
何度も。わたしを抱きしめながら。
なのに。どうしてあいつが、わたしのものじゃないって言うの?
彼女は勝ち誇ったようにわたしの霞んだ目を見据えて、ゆっくりと語りかけるように口を開いた。
「…彼は、みんなのものなのよ。誰かひとりが独占したり、彼を欲しい他の人を邪魔したりすることはマナー違反なの。誰でもあの人が欲しければ、ルールを守りさえするならいつでも抱いてもらえる。そうやってわたしたち、彼を分け合って平和にやってきたのよ。もうこの二年くらいの間。彼があの事務所を開いて間もない頃から」
「…どういうこと」
のろのろと、掠れた変な声が喉から漏れた。この人、何の話してるんだろう。なんかすごく気持ちの悪いこと。脳が表面で拒絶して言葉を弾き返してる。頭のどこでも受け入れられないくらい、不快な、嫌なこと…。
なのに彼女は爽やかといっていい表情であっけらかんと言い放った。
「だから、そのままの意味で。わたしたちクライアントは、常に何人かで連絡を取り合って、都合を調整して交替で彼に抱かれてたの。空気を読まない、そんなデリケートな事情に気づきもしないあなたがずかずかとやってきてわたしたちを追い払うまでは…。彼もわたしたちみんなも、それで充分満足してたのよ。なのにどうしてそれまで上手くいってたやり方を滅茶苦茶にして、自分勝手にあの場をかき乱すの?」
口を開く気もしない。ていうか、何をどう言っていいかわからない。この話をどう消化すればいいのかも。
死んだように固まって、ただ一刻も早くこの場が終わりさえすればいい、とどこか麻痺したような感覚でひたすら考えてるわたしに構うことなく、それまで溜めていた言葉を解き放つようにせいせいした顔つきで好き勝手に楽しげに彼女は話し続けた。
「わたしたち、彼のこととっても大切にしてるの。悠くんってすごく優しいから、誰かが彼のことを欲しい、ぎゅっと抱きしめて身体に触ってもらいたいって思って口に出して頼んだら絶対に拒まない。そのことがわかって…。わたしを含む何人かは、時々口寄せのついでに彼に抱いてもらう習慣になってた」
嫌だ。何も考えたくない。
じーんと大きな音が鳴ってる頭の中で、でもありありといくつかの場面が蘇る。
初めて事務所に面接に来た時。最後まで話が終わる前に押しかけてきた予約なしの客。あいつにべったりくっついて、帰っていくわたしを勝ち誇ったように睥睨してた。それから朝。出勤して鍵でドアを開けようとしたら、中から女の人が出てきたっけ。…あれは思えば、この人だったかも。今思い出した。
お酒の瓶が散らかっていて、部屋の中はアルコールくさかった。確か口紅のついた吸い殻が灰皿に残ってた。それからも朝、ビールやワインの空き缶や瓶が流しに入ってたり、お酒の匂いが消えずに残ってることはしばらく続いた。
わたしが、夜も事務所に張りついて押しかけてくる客を追い返すようになるまでは。
彼女は、噛んで含めるような、むしろ優しいといっていい声で話し続けていた。
「わたしも他の人たちもみんな、彼を独占したいってわけじゃなかった。旦那や彼氏のいる人が多かったし。それを壊して彼と一緒になりたいんじゃない。ただ、疲れたり、誰か他の人の体温がどうしても欲しいとき、何も訊かないで黙ってしっかり抱きしめてくれる相手がいてほしい。それ以上のことをこっちも求めない代わりに、彼もその場だけのことで他には何も求めてこない…。ただゆっくり話を聞いてくれて。女として扱って、丁寧に抱いてくれて。いつも、こっちから連絡する時だけ。その先なんてお互い全く考えもしない。それで完全に満足だった」
わたしに聞かせてる、って意識が薄れたように独白の調子になる。わたしはベンチの上で俯いてひたすら自分の膝を見つめてた。何だかそれが初めて目にする興味深いものみたいに。
「とにかく思い立った時や都合がつくとき、いきなり押しかけていっても絶対に嫌な顔はしないから。そういうやり方になってたけど、そのうち同じような人たちがかち合うようになって。…部屋に残る気配やなんかで薄々はお互いわかってた、自分の他にも同じことしてる人が何人かいるってことは。それ自体は特に気にはならなかったけど」
生真面目、といっていい口調で淡々と説明を続ける。
「わたしたちは彼と恋人同士になったり結婚したいわけじゃない。ただいつでも、切ない時やつらくてどうしようもない時は黙って拒まず受け入れて欲しいだけ…。自分の普段の生活があってこそのオアシスみたいなものだから。彼を二十四時間この先の人生もずっと、自分のものにしたいってわけじゃないから何人かで共有することは全然構わなかった。でも、ふらっと行った時にかち合うのは困る。二人一緒にダブっちゃうと、さすがに彼はセックスしてくれないから…。一度、二人いっぺんでいいよ?ってさり気なく提案してみたけど、滅相もないって感じで拒否られた。そういうのは受け入れられないみたい。結果、普通の飲み会みたいになっちゃったりとか」
二人の女の人と同時にするのはさすがに許容範囲外なんだ。と麻痺した頭の片隅でものすごく下らないことを考える。
こんな時なのに。
「それで、同じようなことしてるもの同士そういう機会に連絡先を交換して。同盟を組むことにしたの。最初は自分が彼のとこに行きたい時はその旨グループに伝えて、他のメンバーとぶつからないように調整するのが主な目的。それからだんだん規約というか、不文律が成立して」
不意に彼女の声がはっきりと耳の中に響く。わたしの方に顔を向けて喋ってるのかもしれない。
「誰も彼を独占しようとするのは許さない。恋人になって他のメンバーを排除しようとか、結婚して妻の座に収まろうとか。そうしたらわたしたちのオアシスがなくなっちゃう。みんな、悠くんがいてこそ精神が安定して平和な自分の生活が送れてる。彼の存在に救われてるのに…。だから、そういう変な気を起こす女が出てこないよう互いに監視する必要も生まれてきたの。あんなに素敵で何でも受け入れてくれる優しい人だから。本気で自分一人のものにしようと考え出す女がいてもおかしくないし」
明らかにこっちに向けて言ってる。わたしは反応を見せず、身体を固くしていた。
「そうなると、単に調整や情報交換のためってわけにはいかなくなって。彼に近づく女の気配がすると、何とかしてその人をこっちに取り込んで、グループに入れて管理する必要が出てきた。個人情報は彼から教えてもらえないから、張り込んだり後をつけたり、みんなで分担しながらもなかなか苦労したけど。最終的には顧客で彼のお世話になってる女の人は全員ちゃんと把握できてたと思うわ。多少の出入りがあるから、今は七人かな。多かった時は十人くらい、同時進行でいたけど」
思わず顔をしかめた。吐き気のような塊が反射的に込み上げる。…十人。
背中を丸め、頭を両手で抑え込む。それらしき顧客の具体的な顔が浮かばないよう必死で意識を散らした。具体的にイメージしたら駄目。そんな、リアルな実感を得たら。
何もかもばらばらに崩壊してしまいそう。
彼女はわたしの反応に興味なんかないかのように、容赦なく同じ調子で更に話を重ねた。
「それでわたしたちは安定したバランスを保ってた。誰にも何の不満もなかったのよ。あなたみたいな勘の悪い女の子があそこにやってくるまでは…。最初はわたしたちを一斉に排除して、自分が彼女の座に居座ろうとしてるんだと思った。でも、案外そういう気でもなさそうだってことがすぐにわかって。何てったって世話焼きの寮母のおばさんみたいな態度丸出しだったからね。色っぽい意図は全然ないのは一目瞭然だったから…。まあ、こうなってみると、無意識の領域では意外に下心があったのかな、って思わなくはないけど」
皮肉混じりに呟かれてもそんなことない、と反駁する気力もない。もうどう思われてもよかった。
「だからまあ、様子を見ることにしたのよ、ひとまず。確かにわたしたちはちょっと緩み過ぎの野放図な状態と言えなくはなかった。普通の、他の顧客の人たちがそういうだらしのない状況をよくは思ってなくて、あなたの仕切りをありがたいと思ってることも伝わってきたし…。とりあえず、ここは鳴りを潜めて、またそのうちほとぼりが冷めたら再開すればいい。そう考えてその場は新しいルールに従った。そしたらまさか、その隙を狙って。あなたと彼があんなことになるって…」
ふふ、と笑う声が実に嫌な感じだ。すごく自分たちのことが汚された気がする。でも。
もしかしたらわたしが知らなかっただけで。とっくにわたしたちは汚れてたのかも。たくさんの、不特定多数の女の人を抱いた手で。洗っても落ちないくらいに染みついた汚れ…。
頭がおかしくなりそう。
「悠くんにそれとなく探りを入れても、あんなことはもうない、ってきっぱり言われちゃうし。あなたの綺麗な顔とその素敵な身体に夢中で溺れてるのがひと目で見て取れるくらい。…でも、ちょっと若くて綺麗だからって、彼を独り占めして永遠に自分のものにしようなんて甘いのよ」
不意に噛んで含めて教えるように、甘く優しげな声でわたしに言い聞かせる調子に変わった。
「知ってるでしょ、彼はそういう人じゃないの。目が眩んでる今だけのことよ、あなただけなのは。散々して満足して、そのうち次第にあなたに飽きて。すっかり目が覚めたらまたわたしたちのこと、断りきれなくなるに決まってる。あの人は断るのがつらいのよ。断られた相手の気持ちを考えるといたたまれない人なんだから。…彼には彼のやり方や考えがある。あなたの都合でいいようにいつまでもコントロールしきれる男じゃないわ。彼は自由なのよ」
俯いて石のように固まってるのに、視界に映らない彼女がゆっくりと隣で両腕を組んだのがわかった。
「そうは言ってもわたしたちも鬼じゃない。いきなり彼と別れろなんて言わないわよ。なんてったって彼は自由なわけでわたしたちの奴隷でも何でもない。わたしたちは誰と彼を分け合うのも別に吝かじゃないし。その人が自分の立場さえしっかりわきまえてればね。つまり、自分が彼を求めたから相手してもらってるたくさんの女のうちの一人に過ぎないってこと。その事実に向き合ってそれを認めて、多くを望まない。わたしたちのメンバーの仲間になって、常に連絡を取り合う。それで仲間の誰かが彼を求めた時はちゃんと自分は引いて、場をきちんと提供する。あの部屋に泊まり込んで四六時中彼と一緒に過ごしたりせずに彼が一人になれる時間を作る。…それがしっかり守れるなら。わたしたちメンバーの八人目として、仲間に迎え入れてあげてもいいわ」
肩をぽんぽん、と叩かれて半端なく全身がぞっと総毛立つ。彼女はほとんど愉しむような口調で励ますように明るい声を出した。
「悪い話じゃないでしょ。ちょっとだけいろんなことから目を逸らして、気づかないふりをするだけよ。それだけで殆ど今まで通り、彼の押しつけがましい助手兼恋人みたいなものでいられるわ。ほかに彼氏を見つけてくれたら尚いいけど、それが無理なら悠くんの一番近くに普段からいることくらいは大目に見てあげてもいいし。わたしたちの邪魔さえしようとしなければね。まあ、なんて言っても他の人と同じにはできないわよね。実際に彼とは仕事のパートナーで、常日頃一緒に過ごす事実は変えようがないわけだし…。あ、そうだ」
何故かいいこと思いついた、みたいにぱっと声が華やぐ。
「考えてみたらさ。あなたがこのグループの管理、これからはしてくれたらいいんだけど?わたしも自分の家庭とか生活があるしさ。案外これで、細々と連絡が入ったりお知らせしなきゃならないことが起きたり、そこそこ手間なんだよね。…タミルさんなら立場的にぴったりだと思うな、幹事。どぉ?」
「…タミさん、どうしました?顔色悪くないですか、何だか?」
いつもと変わらない誠実さに溢れた心配そうな声。はっと我に返る。途中の記憶が完全に飛んでいた。どうやってここまで帰ってきたのか覚えていない。
とにかく手に提げていたものを差し出す。それが増渕の好きないつものお弁当屋さんの袋だと気づいた。いつの間に買い込んでたんだろう、こんなもの。あの公園のベンチに掛けるまでの経緯は何となく頭に残ってるから。話が終わったあとに買いに行ったとしか思えないけど。
自動人形のようにとにかく奴の昼ご飯を何とかしなきゃ、との思いで動いてたのに違いない。わたし、ちゃんとお金払ったんだろうな?
そこでぐ、と気を取り直した。わたしのここでの立場は増渕の助手だ。お給料もちゃんと充分頂いてる。午後の仕事が滞りなく順調に進む手助けをするのがとにかく優先。
「食べて。…これでよかった?勝手に決めちゃったけど」
そう言いつつ確認するために袋からお弁当の箱を取り出す。増渕が気に入って何度もリピートしてる唐揚げの入ったやつ。箱が一つしかないのを見て奴が不審げに眉を寄せる。
「タミさんの分は?まさかダイエット?全然必要ないし、そんなの。身体壊しちゃいますよ。半分ずつ分けよう」
「ううん、そうじゃない。…実は、行く途中で人に会って」
言い訳しながら内心で感心する。記憶も残らない自動操縦状態でも、自分に食欲がないことはちゃんと考慮できたんだな。オートマティックに二人分買っちゃいそうなもんだが。食べきらないに決まってるものを買い込まずに済んでよかった。でかした自分。
「すぐ済むから付き合って、って言われて。つい軽くランチを。…ごめんね、だから遅くなっちゃって。連絡入れればよかったね」
そう言いつつ時計にさっと目をやり時刻を確認する。思いの外時間が経過してなくて驚いた。まあ、ベンチに座って話しただけだし。でも、ものすごく時間が経っただいぶ昔のことみたいに思える。
あの話を聞く前と、それ以後。深い深い底の見えない谷を隔てたみたいに遠く、霞んで見える。
この部屋を出る前。午前中の何でもない時間。
増渕はまだ特別違和感を感じている様子じゃない。普通の声で自然に尋ねてくる。
「珍しいね。友達?せっかくの機会に、ゆっくりできなかったんじゃない?俺は何とでもなるから。もっと話してくればよかったのに」
わたしは曖昧な笑みを浮かべて首を横に振った。
「友達ってほどでも。…顔見知り。前の職場…、あの、喫茶店の時の。お客さんだった人。ちょっと世間話したくらい。近況報告とか」
ここのクライアントだよ、と言いそうになり慌てて話を作った。そうしたら必ず誰?って話になるし。関係ない人の名前を出してもぼろが出そうだし、まして正直にあの人の名前を持ち出したりしたら。
自分が決壊しそう。こんな風に普通の態度を維持できる自信がない。
わたしは増渕にお弁当の箱を手渡して、素早く身体を引いた。不審に思われないうちに距離を置いた方がいい。
午後の仕事の前にこの話を増渕としたくない。絶対に。そんなに長くは保ちそうにないけど、せめてそれくらいは。メンタルに影響を与えて今日の仕事を全部台無しにしたくないし。
最後のお客さんが帰ったら。その時どうするか考えよう。
「…ちょっと、頭くらっとするかも。熱は、…ないみたいだから。疲れかな。奥で休んでていい?少し横になって」
「え、大丈夫ですか、タミさん?」
慌てて手を伸ばしてわたしに触れようとする増渕。わたしは身を硬くして更に引っ込み、なんとか言葉を絞り出した。
「熱はないって。今は。…急に上がってきたりしたらすぐに言うから。お客さんにうつしたりしたら大ごとだし。…インフルとかだといけないから、はっきりするまで増渕もちょっと離れてて。案外すぐ楽になって元気になるかも」
そんな時はしばらくわたしの上に訪れそうもない。って、本当は心の底ではわかってるけど。
今すぐお医者さんに行った方が、とうろたえる奴に、熱も症状もないのにそんなことできないよと伝えてとにかく奥に引きこもった。寝室に入ってベッドが視界に入るとまた顔が半端なく歪む。とてもじゃないけど、ここに横になる気にはなれない。
多分、もう二度と、ここで眠ることはないのかもしれないな。あまり考えるとぱきんとどこかが折れてしまいそうだ。わたしはそこで何とか思考停止して、部屋の床にうずくまり膝を抱えて目を閉じた。
午後いちの予約のクライアントさんがくるまでに。何とか無難に仕事をこなせる程度まで、どうにか浮上しなきゃ…。
その日最後のお客様をドアまでお見送りしてからリビングに戻る。途端に両肩にずん、と何かの重みが感じられた。何かって、なんだろ。…それまで目を逸らして考えないようにしてた。現実?
「…タミさん」
キッチンから足早に増渕が出てきてせっかちに手を差し伸べる。コーヒーかなにかを淹れかけてたのを放ってきたらしい。
「今日やっぱ、様子おかしいです。体調悪いなら今から病院に行きましょう。まだやってるとこ、調べたら近所にあるから…。熱がないから平気ってことじゃないでしょ。とにかく診てもらって、何でもなければそれはそれだから」
大丈夫ですか、も気分どうですかもなんもなし。よほどわたしも普段通りの態度を保ててなかったんだろう。スイッチの切り替えったって、限界ってもんがある。記憶を消し去ったり意識を入れ替えたりできるわけじゃない。
「…増渕」
わたしは硬い表情で奴を真っ向から見据えた。なにかを感じたらしく、思わずたじろいだように踏み止まる。
何から切り出そう。どんな風に口にしたって壊滅的な結果しかないのは目に見えてる。気を遣ってもしょうがないのかもしれない。それ以上考えるまでもなく口から言葉が飛び出した。
「今日。…話を聞いたの。クライアントの内野さんから。…わたしが、ここに来るまでの話」
正確には、それは来た後も続いてた。そのことが否応なく脳裏に蘇る。部屋に残るアルコールの匂い、口紅のついた吸い殻。朝まで居座って悪気のない笑顔を向けてくる色っぽい顧客たち。
増渕の肩がびくん、と波打つ。一瞬で強張った顔と怯えて見開かれた目の色で、奴がすぐに話の内容を悟ったのを知った。
「タミさん。…それは」
奴の顔がじわ、と苦しげに歪んだ。
「あの。…なんて説明、していいか。…全部、終わったことなんです。既に。…二度と絶対誰とも。あんなことは、…タミさん以外とは。あなたに会う前…、再会する前までのことだったし」
再会したのはお前だけだ。といつもなら軽く言い返すこともできたのに。わたしの口から容赦なく出てきた言葉はこれ。
「前だけじゃないでしょ。わたしがここに来てからも、あった。…事務所に泊まり込んで夜押しかけてくる客を追い払うようになるまで」
苦い塊のようなものが喉の奥からせり上がってくる。すごく…、苦しい。
「思えば、余計なことしたんだね。増渕もお客さんたちも、それでなんの不満もなかったのに。…あんたのこと大好きな人たちを空気読まずに押しのけて。ただ単にみんなの邪魔になっただけだった」
「違う、タミさん。それは」
とにかく何か言い募ろうとする奴の目を真正面から見返す。絶望的な目の色にこんな場合なのに少し気の毒になった。でも、ここでなあなあに済ませてもしょうがない。
どうせ何もかも終わりなんだ。だったら、こいつにもちゃんと思い知ってもらいたい。
わたしがどんなに、心の底から傷ついたかを。
「…あの人。最大で一時期、同時に十人いたって言ってたよ。今現在は七人なんだって」
増渕は俯いて頭を抱え込んだ。多分、わたしの刺すような眼差しに耐えられなくなったんだろう。微かな呻くような呟きが漏れ聞こえた。
「人数、とかは。…よく。とにかく、その時どきで。…どうしても、一人でいたくない、とか。つらくてたまらないって、…言われたら。どうにも…、断れなくて。当時は…、好きなひとも、いなかったし。俺なんかでよかったら、としか。…思えなかった」
「好きな人がいなかったら何しても平気なの?」
俯いたままの奴の頭がまたびく、と震えた。叱られてるって受け取ってるのか。わたしは怒ってるわけじゃない。
怒るのは、その後のお互いの間をよりよくしていくためだけど。今のわたしはただ、やりどころのない感情の捌け口をこいつに見出してぶつけてるだけ。
この先なんて。もう、どこにもないんだ。
その事実が苛立たしくて、抜き身の刃で無抵抗の奴に尚も切りかかった。
「わたし、八人目にしてあげてもいいわよって言われたよ。ほかの七人とあんたを分け合うことに同意すれば大目に見てあげるって。そんなこと言われる気持ち」
あんたにわかる?って尋ねようとして。さすがに思いとどまった。
これ以上こいつを追い詰めて何になるんだろう。このままだと精神的に殺すまでやっちゃう。暴れ狂う自分を何とか抑えられる理性がちょっとでも残ってるうちに。
ここら辺で二人の距離を置いた方がいい。
「…顔、上げて。増渕」
何とか柔らかい声を出せた。怯えた色の奴の目を直視してしまい、やっぱりそんなこと言わなければよかったとは思ったけど。
自分にも言い含めるつもりでゆっくりと話しかける。
「明日からもちゃんと出勤はする。あんたがわたしと働くの、もう嫌だっていうんならそれは仕方ないけど。…わたしはここを辞めるつもりはない」
「うん」
震える声で頷く増渕。
「増渕のサポートをして、仕事が問題なくできるよう手助けを続けたい。それはちゃんと…、責任を持ちたいから。そういう意味であんたを一人にはしない、絶対に。…わたしにも生活があるしね」
あまりに思い詰めた増渕の様子につい、その場の空気を軽くしたい思いで付け足す。そんな普段通りの心の動きが戻ってきたことに気づいて少しだけ冷静になった。
そう、後ろを向いてても仕方ない。割れた皿はもう二度と元には戻らない。そこにしがみついて時間を虚しく過ごすより。
つらくても進める方向を見つけて、一歩ずつでも踏み出すしかない。
わたしはひと息ついて、思い立って寝室に向かった。一度に全部持ち出すのは無理だけど。
通勤しながらなら少しずつ持ち帰ればいい。とにかくここに置いてある山のような私物を何とかしなきゃな。
引き出しを開けて手早く着替えをまとめるわたしの背中に、増渕が締めつけられるような声をかけてきた。
「タミさん。…これで、何もかも終わりですか。もう絶対、二度と…、許しては、もらえないですか。どんなことしても?」
「許すとかそんな意識はない。わたしにべつになんかの権利があるわけじゃないし。あんたの行動は自由だよ。断れないものは仕方ないじゃん。自分でそれを引き受けるしかないよ。…受け入れられるかどうかなの。わたしの感情が、その事実を」
背中を向けたまま淡々と答えた。顔を見なければ案外思ったことがそのまま言える。全部いっぺんに持ち帰るのはやっぱ無理だな。その場にあった適当な袋に入るだけぶち込んだ。この部屋のどこかに持ってきた時の自分のバッグがあるはずだけど。今は悠長にそんなもの、あさってる気分じゃないし。
袋を抱えて寝室を出ようとすると、前に増渕が立ち塞がった。反射的に身構えるが、奴はわたしに手を伸ばして来ようとはしなかった。
そうだよな。力尽くで他人に何かをするような奴じゃない。思い通りにするために相手を押さえ込んだりしない。誠実でまっすぐで、生真面目な人間なんだ。
思えばそんなの嘘だよ、とかその人の口から出まかせだよ、とか言い張ったりしなかった。絶対に認めないってやり方もあったのかもしれないけど。わたしに嘘をつく気にはなれなかったんだ。
やっぱりこいつのこと好きだ、って思いが胸の内にじわりと蘇る。増渕の本質は何もかも知った後でも全然変わらない。でも。
続けることはできない。
増渕は意を決したようにわたしの目を見据えて口を開いた。
「タミさん。俺にはタミさんだけです。これからも、ずっと。タミさんが俺のこと嫌いになってもそれは変わらない。いつかもしかして離ればなれになって、二度と会えなくなっても。…タミさん以外の女性とは絶対に触れ合わない。そんなことしたいとも思わない」
息切れしたように言葉を継いだ。ほんの少し表情にも声にも必死さが募る。
「だから…、いつか、ほんの少しでも。俺のこと、また受け入れても構わないって思える日が来たら。…俺のこと思い出して、下さい。いつまでだって…、ずっと。ずっと…、待ってるから」
わたしはすっと身体をずらしてその傍らをすり抜けた。すれ違いざまに軽く指先でその腕を袖の上から弾く。これくらいが、今の精一杯。
「お前全然人の話聞いてないよね。言ったでしょ、ここを辞める気はないから。明日からも一緒に仕事だよ。今生の別れみたいな顔すんなって。…でも、あんたのとこに戻れる気は正直しない。だから、そのことは忘れて」
振り向かずにそのまま玄関に向かう。忘れずに会社のと自分の携帯、普段使いのバッグを拾い上げ回収する。自分の家の鍵、どこに入ってるかな。久しぶりだからバッグの底の方に落ちちゃってるだろうな…。
奴が追ってくる気があったかどうかはわからなかった。でも追いつかれないよう足早にドアに到達し、背中越しに一言残して玄関を出た。
「…そういう期待はしないで」
今でも高校時代のタミさんの姿が瞼の裏に鮮やかに蘇る。
その溌剌とした美しさは今と全く変わらない。いつも校内のどこで見かけても光を放っているように目立って、視線が思わず引き寄せられた。彼女と碌に口も聞いたことのない(そして、一回もその視界に入って記憶される機会も持たなかった)俺のみならず、その姿が現れると明らかにその場の男どもが微かにざわついた。
「やっぱ綺麗だなぁ、タミちゃん先輩…」
「彼氏いるんだろうなぁ。いないわけないよな、あんな美人で才女なんだし…」
周りの視線なんかとんで無頓着な平然とした態度で、友達と並んで喋りながら脇目もふらずに遠ざかる。膝上丈の制服のスカートから伸びたすんなりした脚。無造作にまとめて上げた真っ黒で艶々した髪が大人っぽくほつれて溢れる様子。
今思い出しても甘酸っぱい切なさで胸が締めつけられる。あんな素敵な女の子と自分に接点ができる日がいつかやってくるなんて。そんな自分にだけ都合のいい未来については夢見る気にさえなれなかった。
一度だけ、彼女の視界に入るチャンスがなくもなかった。友人に声をかけられて一緒に学園祭の有志の実行委員として参加したのだ。普段ならそういう面倒といえば面倒、前に出ると言えば前に出る機会は検討するまでもなくスルーしていたのに。思わず誘われるまま抵抗もせずに承諾してしまったのは、そいつが
「そう言えば、生徒会メンバーは全員実行委員として自動的に参加するんだよな。結構可愛い子多いから、ちょっとラッキーだよな。てかさ、あのタミちゃん先輩とだってちょっとくらい話せるかも。なんてったって、普段は全然接点ないもんなぁ。こんなチャンスでもなきゃ…」
と下心ありありで呟いてたのについ心が動いたからなのかもしれない。今思えば。
一緒に仕事してみて判明したのは、彼女は相当な『ドジっ子』だってことだった。
実行委員の仕事は力仕事や手作業が多い。立て看やゲートなどを作るため、腕まくりして金槌やペンキの刷毛を奮ってる委員の近くに彼女がひょこひょこと近づく。
「なんか、手伝えることある?」
今思えばあれは生徒会メンバーか彼女のクラスメイトだったのかも。恐らく普段のぶきっちょ振りを熟知しているらしきその人たちはびくっとなって、慌てて口々に言う。
「あ。ここは…。えーと、計算しなきゃいけないのが向こうに。残ってたかな。それと…、あと、名簿の入力。生徒会室にあるから、それをパソコンで」
「えー、またデスクワークかぁ」
膨れる彼女と裏腹にその場にほっとした空気が満ちる。どうやら相当な腕の『クラッシャー』らしいことはすぐに飲み込めた(そして、手作業や力仕事ではない事務処理能力には何ら問題はないことも)。そうやって手や身体を使う作業からは遠ざけられてるにも関わらず、いつもそこら中絆創膏だらけ。彼女の身近な人間は常にポケットに絆創膏の箱を突っ込んでるのが日常らしかった。
「タミちゃん先輩ってさ。すごいてきぱきして器用でスマートそうに見えるのに。…でも、このギャップがいいよなぁ。まさかのドジっ子かあ…」
俺の同級生の友人たちも目尻を下げる。とにかくよくも悪くも常に目立ってる。自然と彼女のいる周辺に目が惹きつけられるのだ。
そんなんで生徒会役員としては大丈夫なのか?と思っていると、人の仕切りは抜群に上手かった。とにかく決断が早く説得力がある。何かわからないことや判断に迷うことがあるとなんの役付でもない(実行委員としては。生徒会では確か書記だったと思う)彼女のところに何となくみんな相談に行く。彼女は迷いなく判断を下し、指示を出し、わからなかったり曖昧な箇所は責任者を特定して自ら足を運んで即詳細を確認した。困った顔でその場を濁したり中途半端な返事をしたりすることはまずない。自然と人が周りに集まり、皆彼女を頼りにするようになっていった。
「さすが生徒会役員。なんで会長にならなかったの?」
「推されたみたいなんだけど。書記じゃなきゃ立候補しない、って最後までごねきったんだってさ」
惚れ惚れと彼女に見とれる俺たち。事情通の誰かがぽつりと呟いた。
「すごい、成績もトップなんだろ。なんか噂だけど。彼女、大学は外部を受けるんじゃないかって」
「え、わざわざ?」
うちの高校は大学の附属で、エスカレーターって訳じゃないがかなり有利に内部進学できる。相当偏差値も高くて名の通った大学だから、当然上まで上がる気で高校を受験する奴がほとんどだ。よほど飽き足らないか、三年間いて校風が合わないとかじゃないと出て行くことはない。
「そしたら東大でも受けるのかな…」
「それじゃ絶対俺は無理。あーあ、タミちゃん先輩とのキャンパスライフは夢に終わるのかぁ。大学生同士なら今よりもっとチャンスありそうなのに、いろいろ」
いやお前にはどっちみち一生無理。当然俺にも。
彼女が事務所に来てから聞いたところによると、外部に進学したのに大して深い意味はなかった。東大でこそないけどかなりレベルの高い私学に進んだが
「何となく、規模がでかくて雑然としてて風通しがいい気がしたから。知らない人ばっかりのとこに行ってみたい気もあったし。あとは、合格実績を進路指導の先生が作りたかったんじゃないかな。受かったら内部の一番いい学部に推薦するって言われたけど。どうせなら面白そうだからそのままその大学に入ろうと思って」
とあっけらかんと説明してくれた。狭いコミュニティの中で常に他人に注目されて憧れの眼差しを向けられて。俺なんかには及びもつかない息苦しさがそこにはあったのかもしれない。大勢の中の一人として紛れることのできた大学生活の中で、思いきり開放感を満喫したようだ。
一年下の俺は彼女を追って自分も外に出たりはしなかった。
姉も内部進学したし、親は当然俺もそのまま進むだろうと決めつけてるってこともあったけど。何より彼女の行った大学は半端ないマンモス校で、そんなところに追いかけていっても都合よく再会できる気がしなかった。生徒の数がもっと少ない高校の時でさえ視界に入りもせず認識されもしなかったのに(しかも、一緒に学園祭の実行委員だってしたのに!)。大学の規模を考えるとその可能性は更に大幅に低くなる。
ていうか。彼女が外部に進学したってことを知って一瞬、そんなことをちらとでも検討しかけた自分が馬鹿馬鹿しかった。可能性どころの話じゃないだろ。あんな輝くような特別な女の子が俺の人生とリンクすることがあるかもって、想像するだけでどうかしてる。
そこはすっぱり諦めて切り替え、ややこじんまりと落ち着いた校風の附属の大学へ素直に進んだ。憧れの人との接点は完全になくなり、きっと何年も経ってからきらきらしててちょっと不器用な素敵な子がいたなぁ、と懐かしく思い出すこともあるのかなと漠然と考えたくらいだった。
一方で、中学生の頃くらいから次第に俺は霊感がある奴として無駄に評判が高まり始めていた。
ここには霊がいるかとか、自分に何か憑いてるかとかはまだいいけど。困るのは真剣に助けを必要としてるタイプの相談の方だった。明らかに実際に霊が影響してるって確信は持てても、それをどう解決していいかはわからない。心底困り果てて混乱してる俺を見かねて、高校の同級生だった間仲啓太が自分の霊感持ちの母親を紹介してくれて、やっとひと息つくことができた。
自分一人の感覚だけを頼りに手探りで何とかしようとするのは限界がある。相談したり見立てが間違ってないか確認してもらったり、最悪自分でどうしようもないものを最後は引き受けてくれる存在がいるって事実は本格的にありがたかった。
でも、今考えると。そうやって霊相談を前向きに受けられる体裁が整ったからこそ、ごく普通の仕事や生活からドロップアウトする布石になったんじゃないかと思えば思えるけど。相談を断らなくなったことで更に評判を呼んで、こっちから売り込みもしないのに常に何かしら持ち込まれてる状態は大学時代までずっと続いた。
もっと正確に言うと、社会人時代まで。というより、実際問題現在の状況もその地続きの結果なんだってことになる。
自分はタミさんなんかと違って取り立てて強い個性もない、平凡な人間だ。他人を周囲に惹きつける要素なんか本来特別何もない。だから霊相談を引き受けるようになって、口コミで次から次へと押し寄せてくる依頼が引きも切らず、結局新卒で入った会社も半年ほどでもう続けるのがきつくなり(尤もその時社内で相談を受けてた人も何人か、今現在も顧客として通ってくれてるわけだから。まるっきり無駄な社会人経験ではなかった、と思いたい)、見かねた姉や間仲さんの助言もあって独立して事務所を立ち上げるまでになったのも。単純に自分の霊感というか、能力が評価されてるんだと受け止めていた。現にそれくらいしかカラフルな要素も他人と違ってる特技もないし。
しかしそのうち、独立して一人で仕事をするようになって程なくして、自分が他の人たちと顕著に違っているある一面にはっきりと気づかざるを得なくなった。
俺は他人から真剣に懇願されるとどうも断れない。
掃除当番代わってとか、パン買ってきてとかそういうのは全然大丈夫、平気で断れる。俺が焼きそばパン買いに走らなくてもそいつが死ぬ目に遭うわけでもないってわかってるし。でも、もっと根源的な問題で相手が正面切って縋ってきたりするとこれがどうも難しい。思えば真っ当な人生を送ろうと思えば、仕事に差し支えるほど霊相談なんか受けずにきっぱり断ればよかったわけだ、ただ単に。自分にも生活がありますからと言えば通らないこともなかったろう。
それでも結果、こんなに時間や手間、精神力を持ってかれるくらいならいっそ謝礼をもらってそれで生活した方がいい、あんた一人くらいその収入でどうにかなるでしょと心身を心配した姉に説得されるほどの量の相談を受け続ける羽目になったのは、やっぱり口コミを頼りに何とならないか、と思い詰めてやってくる人たちを無碍にはできなかったから。どのみち断る気になれず本業が成立しなくなるくらいなら、それを職業にしてやってけるかどうかひとまず様子を見るのもいいかもしれない。
結果上手く行かなければ、自分一人の人生くらいまた何とかやり直せばいい。
そういうとなんだか格好いい決断きっぱり下したみたいだけど、要は押されて流されてやむなくこうならざるを得なかったわけで褒められたもんでもない。でも、それが仕事になればこっちも本腰を入れて向き合おうって気になれる。霊能力ってのも人間の他の様々なスキルと一緒で、常日頃使っていれば上達してくるし手応えも感じられた。顧客の皆さんもこっちが恐縮するほど感謝してくれる。人と接する職業だからあまり積極的でない自分にはどうかなと思ってたんだけど、心霊っていうある程度自信のある分野を通してなら初対面の相手でも落ち着いて対応することができる。
そんなわけで、口寄せとサイコメトリクスについては徐々に力もついてそれなりにやってけるんじゃないか、と思えるようになってきた。
ただ本当の問題はそれ以外、この断るのが極端に苦手な受け身の性格から派生した思わぬ事態から起こって、いつしか事務所を混乱と無秩序の状態に陥らせていた。
天地神明に誓うけど、俺は女性にもてたことなんかない。
まあそれは当然といえば当然。顔なんか特徴が薄くてほぼ印象に残らないらしいし地味極まりない。背だってどちらかといえば、てか普通に低いし。すらりとしたタミさんと並ぶと目線の高さがあまり違わない。並んでる俺は貧相で見劣りするだろうな、と気が引けるものを感じる時もある。
とにかく影が薄く押し出しが弱いから、集団の中にいたら目を惹くことはまずない。だけど、そんな中でも時折遠慮がちにそばに寄ってくる子がちらほらといた。
なにぶん中高生の右も左もわからない年頃の男のことだから、彼女たちと簡単に上手くいくってわけにはいかず苦い結果に終わったこともあり、どうも女の子たちに対しては自信も持てないままだった。だけど大学の時も社会人時代も、五月雨式に思い出したように不意に近づいてくる女の子たちはぽつりぽつりと出現し、間隔を空けつつも完全に途絶えることもなかった。
モテ要素なんか薬にしたいほどもないのに、よくわからない。男としての自信は今ひとつ頼りない状態のままだったからそこから順調に発展するとも限らず。結果その子たちとどうこうなる程でもなく、はっきりしないまま曖昧に終わることが多かった。
完全にその箍が外れたのはやっぱり事務所を開いてからだ。
俺はどうしても自分からは申し出ることができない。そのことはそれまでの経緯から既に自覚していた。
おそらくは中高生時代のいくつかの齟齬に由来してるんだが。女の子の方からそれとなく匂わされたり思わせぶりに誘われたりしてもまず絶対に動けない。気がつかないふりをしてスルーしてしまうのが普通だった。
だって、こんなに表情や仕草や言葉の響きがあからさまでも。いざこっちが前向きになると、そんなつもりじゃないとか勘違いしないでとか言われたらどうしたらいいんだ。現にごく若い頃にそういうことが何度かあり、以来すっかり怖気づいてしまった。
その点、相手がはっきりと言葉でこうしてほしいとか、お願いとか発言すればその意図を見誤ることはない。少なくともそれを発信したのは向こうだって事実は二人の間で共通に認識されてるから、言わば言質が取れてるっていうか。そんなつもりじゃなかった、とかあとから非難される謂れもないし。
だから余程女性から明言されでもしないとどうこうすることはない、というのが俺のそれまでの対処の仕方だった。当然それじゃ大した経験を積むまでいかない。でも、どうしてもこの人とどうにかなりたいと身悶えする思いを抱くような相手がいたわけでもないし。トラブルを招くより全然まし、とそこは割り切っていた。
いつの間にか、『はっきり申し出られなければしない』が『言葉にして頼まれたら断れない』になってたことに気づいたのはこの仕事を始めてからだった。
そもそもお願いだから抱いてほしい、と女性から縋られるなんてそれまでの人生の中でもまず滅多に起こるもんじゃなかった。だから自覚できずにいただけで。それに、そういうことを自分から切り出す女の人たちは悩み果てた末に思い詰めてやってくる霊相談と同じくらい切羽詰まって見えた。
思えば面談室で二人きりの空間だとはいえ、さほど深くは知らない男に向かってこのままじゃおかしくなりそうなんですとか、切なくてどうしていいかわからないとか訴えるしかないなんて。どれだけ深い闇や孤独を抱えてるんだろう。こうして思いきって口に出して求めるのもすごく勇気が要ったに違いない。そう思うととても退ける気にはならず、俺なんかでよかったら、とつい受け入れてしまった。
やがて、ひとりとは言わず二人、三人とぽつりぽつりとそういうことを求めてくる女性が現れ始めた。心霊相談の傍らではあるし、そう毎日続くわけでもなく時折思い出したようにってくらいの間隔だから問題ないかなと最初は思ってたけど。
気がつくと事務所を開けていない深夜や休日にも女性の顧客が訪れてチャイムを鳴らすようになっていた。それでもそれだけ切実なんだろう、今じゃなきゃいけないんだと思うとドアを開けないわけにはいかない。話を聞くだけの時や心霊絡みの訴えも無論あったけど、身体を求められることもなくはなかった。そうしてるうちにだんだん相談者たちを捌くことが難しくなり、俺は事務所をコントロールし切れなくなっていた。
やっぱり、こういうことを仕事にするならどこかで線引きというか。断るしかない局面があるって覚悟が最初からなきゃいけなかったんだと思う。
気がつけば顧客は女性ばかり。口コミがメインだったから同質の人が集まりやすいってこともあったかもしれないけど、俺は相手が必要ならいくらでも話を聞くし絶対に否定しない。とにかく何でも受け入れてくれると思われてたから女の人は安心感があって気楽だったんだと思う。断らない、排除しない、厳しいことを言わない。いつしか満たされない思いを抱いた女性たちの溜まり場みたいなことになっていた。
そんな状況に姉や間仲さんは遠慮なく眉をひそめてみせた。
「あんたね。こんな風に昼も夜もなく、前触れなく勝手に押しかけてくる人たちに全部いい顔して受け入れてたら絶対に続かないよ。しゃっきりしなよ、ちゃんと顧客管理しなって」
仕事が忙しい上に少し離れた場所で彼氏と同棲中の姉はそうそう訪ねてくるわけにもいかないようだったが、事務所やが軌道に乗ったかどうか気にかけて初期の頃は何度か顔を出してくれていた。俺が顧客たちを仕切りきれず徐々に事務所が混乱していく様を見てさすがに放っとけないと思ったらしい。
「そうは言うけど…。こんな仕事、依頼が途絶えず続いてこそだろ。お客さんを断ったりする余裕なんかないよ。そんなことして離れていかれたら、すぐ立ち行かなくなっちゃう」
そう、そういう不安も当然あった。こんな仕事が本当に成立するのかって。お客を一人でも逃したら、あっという間にそこからずるずるとみんないなくなるんじゃないかって恐怖。
「今はまだ沢山の人が絶えず押しかけてきてくれてるけど。それって俺が絶対断らないって安心感があるからだろ。ちゃんと営業時間内に来てくださいとか、そんなことは受けられませんとか言い出したら。…みんな、呆れてここから離れちゃうよ」
片付けているつもりでもそこはかとなく緩んだ空気が感じられるらしい室内を、顔をしかめて眺め回す姉貴。
「そんなことない、絶対。きちんとしてくれたらもっと来やすくなるのにと思ってるお客さんもいっぱいいるはずだよ。いい、あんたがなんでも受け入れて拒絶しないからお客さんが来てくれてるんじゃない。悠の売り物はその霊感でしょ。自分の本業も生活も成り立たなくなるくらい相談が押し寄せたのはそこが評価されたからよ。もっと自信持たなきゃ…。とにかくこの状況を何とかしないと。でも、顧客の交通整理してルールと料金体系を確立してそのアナウンスをして、なんて今のあんたには手に余るか。心霊相談だってそれなりに気力精神力使うしね」
「…確かに」
俺はどっと肩が重くなった。ここまでごちゃごちゃになっちゃうと。何から手をつけていいかわからない。
「お客さん自体は数いるんだから、それなりに儲けてんでしょ。ちなみにお代はちゃんと頂いてるよね?そこまでなあなあだったらちょっと本気で問題だよ。まあ、どうせ向こうの言い値なんだろうけど」
俺は情けなく肩を縮めた。そりゃ、頂いてはいるけど。
「言い値っていうか…、適正な値段の感覚もわかんないし。もともと口コミで来てくれてるお客さんが多いから。紹介してくれた人はこれくらいだって言ってたって、前の人から聞いた金額を。…まぁ、その辺は適当に」
ごにょごにょと誤魔化す。呆れ果てて突っ込む気も起こらなくなったらしく、姉は肩を竦めて淡々と返した。
「いろいろ自分からは要求しにくい面もあるだろうけど。そこはきっちりしないと職業として長く続けていくのは無理だよ。そういう、言いにくいことやはっきりさせづらいことを代わりにやってもらうためにも手伝ってくれる人を見つけた方がいいと思う。それくらいの余裕あるんでしょ?」
俺は首を捻った。自分一人やってければいいかと丼勘定になってはいるけど。まあ、それくらいは多分、何とか。
「でも、自分でやりにくいことを他人に任せるために人を雇うなんて。なんか、その人に悪くないか」
姉は軽く一笑に付した。
「マネジメントってそういうもんよ。自分のためなら言いにくいことも、他人のため、会社のためならはっきり言えるし要求できる。あんただって逆の立場になればそうなると思う。割に普通のことだから平気、立場がものを言わせるの。性格的にそういうことが得意そうな人を見つけられれば尚いいし…。あんたに探させない方がいいね。多分、最初に面接に来た人をそのまま採るか一番困窮してそうな人を選びそう。人物本位じゃなく」
そんなことない。とは、抗弁しきれないかも…。
力なく頷く俺に、知り合いの伝手をいくつか当たってみる、このご時世だから能力があるのに何らかの事情で仕事にあぶれてる人が絶対に見つかると思うからと言い残して姉貴は帰っていった。
姉は俺が顧客のうち何人かと関係を持ってることまでは知らないままだったとは思う(間仲さんの方はもしかしたら気づいていたかも。視点が普通の人とは違うし。でもそこまでプライベートなことを暴いたり口を差し挟んだりしないってことはきちんとわきまえてくれていた)。ただ、ここの空気によくないものを感じる勘は働いたらしく、すぐさま改善のために動いてくれた。そしてほんの数日後には、後輩の友人で良さそうな人が見つかったから連絡を取り合ってみてくれ、と報告が入った。
強制的に尻を叩かれる形で事務所の体裁を整理する成り行きになったけど、正直なところ俺はほっとしていた。
思えば当然だけど、初めて女性の顧客に抱いて下さい、と縋られた時に絶対に受け入れるべきじゃなかった。一回で済まない可能性のみならず(実際には本当に一度だけ、って人も何人かいたけど)、次に同じようなことを別の人に頼まれた時に断る根拠を失うって問題もあったし。
前のあの人を受け入れて、今回のこの人を断る理由って何だろう、と考え始めると頭が混乱して息苦しくなってくる。そうなるともう思考停止でまた言いなりになるしかない。そしてまた他の顧客が思い詰めた顔で切り出して…。と連鎖するように続いても、既に流れをどこで切っていいかわからなくなってしまっていた。
人数なんか数えてない。一体何人のクライアントを相手にしたのか、正確に知るのが怖かったから。だからタミさんの口から具体的な数が飛び出した時、ぶん殴られるほどのショックを受けた。まさかそんなことを把握してる人物がいたとは。それが本当に正しい数なのかは判断できない一方で、何となくそれくらいかなって漠然とした感触があり、その人の口から出まかせじゃないだろうと悲しく納得するしかなかった。
それに、彼女らは互いの存在を知っていて交流らしきものがあるようだってことは何となく伝わってきていた。夜中のピンポンが盛んになるにつけ、いきなりの訪問が被ることが何度かあったけど、そんな折に顔を合わせたもの同士が険悪な空気になることはなかった。
むしろ和気藹々と楽しげに盛り上がり、俺を肴にして酒を飲み交わす。昼間に事務所でばったりその手の人たちが行き合う時も何事か親密げにやり取りしてるのを見ると、彼女らはそれぞれ俺と個人的な深い仲になるつもりなんか毛ほどもなくて、ただその場だけの関わりで充分満足なんだな、って事実を改めて認識するほかなかった。
俺にそういうことを求めてくる女性たちは、思えば夫か恋人がいることが多かった。そこでは得られない何かを満たすのに俺がちょうどいいポジションにいたに過ぎない。だから皆独占欲などとは無縁、俺を平和に分け合うことで意思統一がなされていて友好的に団結できたんだと思う。
そういう意味では乱れた状態の中でもそれなりの秩序は保たれていて、顧客たちとのこういう関係を本気で維持しようと思えばそれも可能だったのかもしれない。でも俺は当然のことながらこんな経緯を後悔していたし、この状況を終わらせざるを得ないきっかけを探してた。
だって、こんなに何人もの女性が自分を求めても。誰一人心の底から俺を丸ごと欲しいとは思ってはくれない。その場だけ、ただひたすら話を聞いて欲しい、身体を満たして欲しいだけ。俺がどんな人間か(まぁ確かに大して興味深いとこなんか何一つないんだけど)、何を考えてるのか。向こうじゃなくてこっちが欲しているものは何なのか。
誰もそんなことに関心をもたない。こんな虚しいことってあるだろうか。
確かに被害者面をするのはフェアじゃない。俺だって男だから、勿論行為そのものから快感や歓びも得ていた。それに、自分の方だって彼女らのうちの特定の誰かに特別な思いを抱くことはなかった。こっちだって個別認識も曖昧で十把一絡げ、なのに向こうから真剣な気持ちを捧げられないからって不満を抱くのもおかしな話だ。辻褄が合わない。
そう自分に言い聞かせて納得はしていたけど。それでも回数を重ねる毎にこんなこと、一体なんの意味があるんだろうって思いの方が拭いがたく強くなっていくのをどうしようもなかった。
そんなわけで、初めてやってくる従業員の存在は希望の光でもあった。密室に外からの空気を持ち込んで、風通しをよくしてもらえたら。助手の手前があるから、と言えば今までよりいろんなことを断りやすくなるかもしれないし。
とにかく今のままがよくないことは俺も承知してる。こんな職場の雰囲気を変えるきっかけになってくれたら。
期待はそれだけだったし、勿論それで充分だったのに。伝え聞いたアシスタント候補の名前を耳にして、俺はひとり盛大にのけぞる羽目となった。
「ええと。…赤崎多美流、さん」
その名前は当然のことながら記憶してる。そのことを切り出そうかどうか少し迷う。高校の時のあなたのこと、覚えてますなんて。面接してる奴からいきなり言われたら普通引かないかな。怖がってうちに来るのは止めちゃうかも…。
彼女の印象は驚くほど変わらなかった。あの頃と同じ、生命力に満ち溢れた光輝く美しい生き物がここにいる。思えば社会人になったわけだから、きちんと化粧も施してるし服装も大人っぽい(だいいち制服じゃない、当然)。でも、それよりその活き活きと動いて強い光を放つ大きな黒い瞳。
そこから受けるイメージが強いせいなのか。くっきりとした顔立ちも滑らかな肌も黒々とした艶やかな髪をまとめて無造作に上げたあの髪型も全部そのまま。それでいて年相応、子どもっぽい感じは受けない。思えば高校生としては当時かなり大人っぽい女の子だったのかもしれない。可愛らしいドジっ子の一面やくるくる変わる賑やかな表情のせいもあって、あの頃はそんな風には思わなかったけど。
そして、どういうわけか性格というのか人間性もそのまま。普通もっと、大学も経て何度か転職もして世慣れるというか。よく言えば大人としての態度、悪くいうと表面を取り繕うとかもっと本性を覆い隠すとか。彼女のこと深く知る機会なんか当時だってなかったのにその頃のまま変わらないって俺にもわかるくらい。開けっぴろげで自分をガードすることを知らない独特の純粋さのせいで全部がそこに露わになってるのを見てちょっと驚く。
学生が学校の中で、こんな風に天真爛漫にありのままでいるのならわかるけど。社会に出てこれじゃ無防備じゃないのかな。言葉遣いや態度が整ってないって意味じゃない(少なくとも、その時は。面接の時点では)。きちんとした姿勢で丁寧な言葉を使ってる。なのに、彼女が『開いてる』ってわかる。表面に何も被せず、そこに柔らかな本質が晒されっぱなしだ。
これは、嗅覚の鋭い奴には目をつけられそうだな。心の中で密かに認識を新たにする。学校みたいな温室の中では温かく周りに見守られて問題も起こらなかったんだろうけど。たちの悪い連中から見るとその無防備さや隙がサイレンが鳴るように自分たちを惹きつけるように感じるだろう。
こんな人、とても放ってはおけないな。さっと履歴書に目を通す。別に職歴なんかどうでも名前を聞いた時点で速攻雇おうと決めていた。断じて彼女が美人だからじゃない(と思いたい)。手先が多少ぶきっちょでも頭は切れて行動力があって不測の事態にもきっぱり対処できる人だってちゃんとわかってるし。尤も何かを解決する時にはそこに集中するため、他の回路のスイッチを全部すっぱり切る必要がある特殊体質だってことは後日一緒に仕事するようになってから初めて知ったけど。
しかし、特に問題になることじゃないけど。結構不思議な職歴だ。新卒で入った会社はそれまでの順風満帆な彼女の人生を象徴するかのように、日本中誰もが知ってる有名な大企業。なのにそこを一年で退職して、そのあとは何故かファミレスのバイト。もしかしたら身体を壊すとか何かで、フルタイムの仕事に就けなかったのかな。そう思うとそこも半年ほどで辞め、今度はどういうわけか喫茶店のウェイトレスだ。
それぞれ辞めるに当たっては何か事情があったことを窺わせる。転職する時に次はそれ?って選択もちょっと首を捻るけど、きっとそこもきちんとした理由があるに違いない。多分こういう職歴になるのも、彼女のこの無防備なナイーブさというか、問題のある人間を惹きつけそうな特性から来てるんだろう。
その経緯を今ここで尋ねる気はない。恐らく彼女の方に主たる非がないことは何となく推察されるし。無理にここで訊かなくてもいつか気を許してくれたら、そんなことを話してくれる機会もあるかもしれない。
過ぎたことは今はともかく、この遍歴をここで止めて安定した暮らしを送るのが先決だろう。自分が必要があって探してた助手だけど、結果彼女を安心できる環境に置いてあげられることになれば尚いい。俺なら彼女を傷つけたり酷い目に遭わせることはまずないと思う。自分からこんな綺麗な輝く存在に深く関わるよう働きかける気なんか毛ほどもない。そんな度胸も覚悟もないし。恐らくつかず離れずの状態でそっと見守っていくことになるだろう。貴重な野生動物を保護するレンジャーみたいに。
と、確信してたのに。その時点では。
あらぬ方向に彷徨ってた思考を軌道修正しようと、再び履歴書に目線を落とす。意外なくらい繊細な字で書かれたその名前。ふと、言わずもがなの呟きが思わず口から溢れた。
「…多美流さん、って。こういう字を書くんだ。初めて知った…」
彼女が敏感にす、と片眉をあげたのが即わかって、あ、しまった、と思った。その言い方。
俺が以前から彼女のことを知ってたってことが伝わっちゃうな…。
少し悩んだけど、いずれわかることかもと思いきって説明することにした。何と言っても彼女をここに紹介してくれた奥野さんは俺の姉の後輩だし。同じ高校出身の人脈だって知られてから、彼女のことをこっちは既に見知ってて黙ってたのがあとからばれたりしたら。かえって薄気味悪く思われかねない。
「あの、実は。高校の一年後輩なんです。赤崎さんは僕のこと知らないと思いますけど。僕の方は存在を知ってて…。確か、生徒会メンバーでいらっしゃいましたよね」
慌ててそう説明すると、彼女は首をすくめた。
「よく覚えてますねぇ、そんなの」
何言ってんだか。俺の学年の男子であなたのこと記憶してない奴なんかいるのかな。この様子だと卒業した後は、奥野さんほか数名を除くと高校時代の知り合いとはほとんど交流もなかったに違いない(奥野さんはたまたま住んでる場所が自転車で行き来できるくらい近かったことが重要だったらしい。距離が交友関係に大きく影響した次第については後ほど知った)。高校の時に親しい友人がいなかったとは見た感じ全然思えないのに。なんとも無情で過去に拘泥しない彼女らしい。
そのぴんと来てない様子から、彼女が俺のことを全く記憶してないことも尋ねるまでもなく明らかだった。内心で肩をすぼめる。
まぁ、それは予測の範囲内だ。学園祭の実行委員で顔を合わせてた当時も、自分が彼女の視界に収まってその心に留まった手応えは全くなかった。俺があの場にいたことさえ知らないんだろうな。わかりきったことをあえて確かめて傷つきたくないので、そのことについて言及するのは止めた。
彼女の個性的な名前(美しさが多く流れてる、いい表記じゃないか)について由来を訊いたり思い出話を聞かせてもらったりしてるうちに、突然ドアチャイムが鳴らされて現実に返った。…ああ、そうか。
彼女にここに来てもらうことになったとしても。とにかくまずはこれをなんとかしないといけないんだよな…。
その日押しかけてきた常連の相談者は、部屋に入ってくるなり彼女の姿を目にして半端なく眉を上げた。度外れた美しさに何か不穏なものを感じたらしい。だからといって普段より更に見せつけるようにわざとべたべたされても。こんな場面をいきなり見られたことに凹みながらも、何とか誤魔化して彼女を無事戸口まで送り出した。
涼やかな後ろ姿がドアの外に消えるなり、顧客の片瀬さんは腕組みしてきっと顔を上げ、厳しい声で俺を問い詰めて睨みつけた。
「…どういうこと?説明して、悠さん。あれ誰なの。あなたの彼女?まさか、決まった恋人でも作るつもりなの。わたしたちじゃ不足ってわけ?」
てか。だとしたらどうしてそれを責められなきゃいけないのかわからないけど。自分たちと同じような立場の人ならいくら増えても微塵も動じないくせに。
でも、これも俺が自分で蒔いた種、自業自得なんだ。彼女にこんな状況を知られる前に早急にどうにかしなきゃならない。そのことを肚の中で改めて決意しつつ、表面では俺は力なく答えた。
「そんなんじゃありません。俺なんか全然、あんな人には。…吊り合うわけないし。彼女は新しくここに勤めてもらう人です。うちの姉が友達から紹介してもらった人材なんですよ…」
彼女は考えるより早く動き出した。てくらい、とにかく決断が早い。思えば実にタミさんらしい。後日の本人の弁によればペンディングとか保留しておくのが性格的に苦痛らしい(「あんまり長い間肚に溜めとけない」とのこと)。その後、折々の機会にもその尋常じゃない決断のスピードを俺は目の当たりにすることになる。自分自身に深く関わる事柄も含めて。
翌日には早速俺を携帯の販売店に引っ張って行き、事務所名義の携帯を二台契約させた。一つは自分が持つ代表番号、もう一つは俺が顧客と直接やり取りするための専用電話。そして俺がそれまで使っていた私用と仕事兼用のスマホの番号をすっぱり変えさせた。これで今まで夜となく昼となく連絡が入っていた電話に、仕事上の関係者(当然顧客含む)は誰もアクセスできなくなる。
「代表番号はHPにも載せますし、今までの顧客の方たちには直接メールでお知らせします。もし訊かれたら今後はそちらに予約の電話を入れてから来所するよう伝えて下さい。わたしが対応しますから。…どうしてもお客様と直にやり取りしたい時はそのあなた専用の業務電話なら番号を知らせていいです。あえて公開はしませんが。…それ、終業と同時に電源切るようお願いしますね。代表番号の方の留守電で対応しますから、時間外は。あと、プライベートの電話は仕事の知り合いには絶対使わないで。番号変えた意味なくなりますよ」
ドジっ子とは思えないてきぱきさに俺は感嘆しつつも、さすがに自分が情けなくなって身を縮めた。仕事始めの一日目で早くも片をつける鮮やかさ。俺なんか二年くらい、この状況をどうともできず硬直状態のままだったのに。
「…ありがとうございます。助かります」
恐れ入って頭を下げつつ、俺は自分のできることをしなきゃ、と気持ちを新たにした。一応それは彼女が面接に来たあの日から、既に始まってはいたが。
俺は以来はっきり言葉にしてせがまれても、顧客とセックスするのは止めた。
そう表現するときっぱりした態度みたいだけど。少し腰の引けた感じで遠慮がちに、これからは事務所に従業員もいるし、俺一人じゃないから。その手前、さすがにこんなことはもう続けられないと思う、と気弱に言い募るっていう情けなさではあった。
「そんな…、関係ないじゃない。そりゃ、面談室の外に他の人がいるのにするなんて。わたしだって落ち着かなくて嫌だけど。でも、彼女がいない時間帯なら問題ないじゃない?今まで不定休だったけど、これからは曜日をきっちり決めて休むんでしょ。そういう日にここに来ればいいよね。あとは助手の人の帰ったあとの夜中とか」
小さなお子さんも旦那さんもいるはずなのにどういうわけか時折深夜に平然とやって来る習慣のある内野さんはそう言って取り合わず、俺の弱々しい抵抗を切って捨てようとした。いやいや…、それじゃ今までとおんなじでしょ。
表面には出さないよう気をつけてはいたけど、内心では俺は焦りのあまり必死だった。彼女は既に動き出している。一刻の猶予だってないんだ。
あんな純粋で無垢な人が、男女のこんな乱れた状況を知ってショックを受けないはずがない。間違いなく俺は軽蔑される。そんなことにならないうちに、とにかく既成事実は根こそぎ消失しておかないと。
「そうは言っても。いない時間帯のことでも、何か痕跡とか気配が残ってて気づかれたらいけないし。職場でそんな違和感を感じたら不審に思われます。一応所長として示しだってつかないし…。リスクは犯せません」
内野さんは可愛らしいと言って差し支えない上目遣いでしばし考え込み、やがて折れた。
「仕方ないわね。とりあえず彼女の様子を見て、今後どうするか考えましょう。そのうち落ち着いてペースが掴めたら何か続ける方法が見つかるでしょうし…。じゃあ、しばらくそっちは間隔を置くとして。話しに来るだけならいいでしょ?お行儀の悪いことしないから」
甘い声でねじ込まれて渋々頷く。
「…まあ、話だけなら」
そう口約束はしても。いざ二人だけになると、どの人もなかなか話だけで納得せず
「別に、いいでしょ。助手さんだって気づかないわよ。しっかり片付けて何も残さなければ。…ね?」
と迫ってくるのには閉口した。それを必死で退けてまあまあ、と酒を勧めて誤魔化しながら、こんなのいつまでも保たないなと危惧を抱く。
深夜と休日、夜討ち朝駆けの酒盛り兼愚痴聞きはすぐに彼女に気づかれ、こんなことしてたら身体が休まらない、パフォーマンスも低下すると懇々と説教された。至極尤もなのでうなだれて大人しく頷きはするが、いざ夜中にチャイムを鳴らされるとやはり部屋に入れざるを得ない。そんな時間に女の人が外をうろうろしてるなんて物騒だし、放っておけない。そう言うと彼女は首を傾げた。
「そうは言っても。そんな時間でもどうやってかここまで来たんだから。帰ることだってできるでしょ、自分で」
まあそれはそうかも。
結局煮えきらない俺に業を煮やした彼女は事務所に自ら泊まり込み、夜討ち朝駆け団を実力で追い返す方式を選択した。その間俺は間仲さん宅に退避する羽目になったが、これであの女性たちから本格的に逃れられると思ったら意外なくらい心底ほっとした。残念な気持ちや惜しいと思うことはほとんどなかった。
いつの間にかそこから慰めを得ることは既になくなっていて、もう重荷に感じる方が多くなってたのかもしれない。
一か月以上事務所に詰め切りになってくれた彼女には悪いと思ったけど。これは本当に助かった。以来自分の部屋に戻ってからも、稀に深夜にチャイムが鳴る時でも心の負担なく気づかないふりでスルーできるようになった。
俺は自分の蒔いた種から彼女の力で解放された。
それはそれとして。もうその頃には俺はとっくに彼女の前に恋に落ちていた。
距離感を保ってつかず離れず、そっと遠巻きに見守るだけなんて自分に言い聞かせてたくせに。いや指一本触れてないし(当時。その時点では)気持ちを伝えるつもりはさらさらないから、これは希少野生動物に密かな恋心を抱いたレンジャーの精神状態なのかも。
こんな人が常にそばにいて、心が動かないなんてことあるわけない。今までの彼女の人生、通り過ぎたあとは黙殺されて爆死した男たちで死屍累々(死に過ぎ)の有様だったに違いない。
タミさんは美しいだけじゃなかった。
とにかく危なっかしい。自分に向けられる目線に対して無頓着もいいとこ。漠然と受けた印象からするとどうも霊的なバックグラウンドに多少の問題を抱えてる気配があって(とは言え本人の承諾を得ずに勝手にそれを観るわけにいかない。デリケートな内容を含みそうなのでそれはタイミングを伺うことにして、俺は自分のバックから信用できそうなのを一体ガードに送っておいた。余計なことなのはわかってたけど、正直気が気じゃなかったので)、案の定過去に異性絡みで傷を負った経験がある様子。根本のところで男性に恐怖心があり警戒する気持ちがあった。尤もその警戒心は結果一度も俺に対しては発令されなかったが。完全に安心しきっていられるのも意外に微妙な気分になるものだってよくわかった。
その一方で油断してるとけろりとそんなこと忘れて、また無防備に自分をさらけ出してる。ちょっとはガードしてよ、と内心冷や冷やするけど。どうも彼女の特性で、並行して同時に二つ以上のことを脳内で進行させるのが苦手らしく。何かに気をとられるとそれ以外のことはあっという間に全部お留守。あちこち開けっぴろげで警戒心なんかどっかへ置き忘れてしまう。これじゃ悪いのが寄ってくるわけだよ。
そう思ったけど本人に悪気はないし。自分でもどうしようもないところなんだ。だったら周りが気をつけるしかない。ここに来てくれてまだよかった、職を探してもっとずっと悪い奴の許に赴く羽目になったかもしれない。腹を括って何があってもこの人を手放さずガードし続けようと決めた。
タミさんの開けっぴろげさは悪いことばかりじゃなかった。裏心のなさ、取り繕いやごまかしのないストレートな性格は誰にも開示されて伝わるらしく、事務所に通ってくる顧客たちにはすぐに馴染み、愛された。
今までは俺に縋ってきたようなタイプのクライアントたちがここでは幅を利かせてきたけど。それ以外のお客さん、普通に霊視や降霊を頼みたい人たち(てか、完全に本来そっちがメインなはずだけど)は居心地の悪さを感じてたようだ。そんな雰囲気が一掃されて、明るくて気さくで積極的に声をかけてくるタミさんが来たことに安らぎを感じてくれたらしい。ほとんどが女性の顧客たちなのに、同性から反感を持たれたり距離を置かれることはまずなかった。
「いい子見つけてきたわね、よかったわ。これで悠先生もひと息つけるじゃない。すごくここの雰囲気も変わって落ち着いて。…赤崎さん、あんなに綺麗で可愛いひとだし。せっかくだからここのお嫁さんになってくれたらいいのにね。どう、勇気出して頼んでみたら?」
そんなことを言われることも一度や二度じゃなかった。俺は心底焦って冷や汗混じりに反論する。
「いえあの。…無理です、無理。俺なんか…、あんな、高嶺の花とは。吊り合わないし。問題外です。彼女もそんなこと全然、思ってもみないだろうし」
「そぉ?案外似合いじゃない?駄目元で言うだけ言ってみたらいいのに」
ご年配の婦人はおっとりと首を傾ける。外野なんてだいぶ無責任なものだなぁ。あっさり振られた上に気まずくなって警戒されたらどうしてくれるんだ。
そんな風に事務所の空気は見違えるように変わり、秩序正しく予約もきちんと守られるようになった。自分一人で考えて全部を回していかなきゃならなくて、気づかないうちにじわじわと追い詰められてた俺は、初めて本当に肩の荷が下りて息がつけた気がした。
何かあったら相談する相手がいて、できることは何でも積極的に引き受けてくれる。それがわかってるだけでこんなに救われるとは。今でも変化のないあのままだったら。いろんな意味で危なかったかも…。
彼女に心の底から感謝しつつもようやく事務所改革も片がついてきたし。今度はそろそろ懸案の問題に手をつけなきゃいけないな、と胸の内で俺は心の準備を始めていた。
俺がタミさんのことを好きになった日がいつなのか、実際にははっきりしてる。というか、好きだってことを自覚せざるを得なかった日。
あるすごい大雨の朝。レインコートを手にしてはいるが、そんなの着てた意味がないくらいずぶ濡れで事務所に出勤してきたタミさんを見て俺は言葉を失った。
雨の日も風の日も四駅先から自転車で通勤してたことを知らないでいた。何もこんな日に、と言いかけて気づく。
彼女はその話をそれ以上進めることを恐れていた。怯えのオーラが全身から立ち昇っているのがわかる。
刺激しないよう静かに電車は嫌ですかと尋ねると、ぶわ、と怒りが彼女を包む。なんていうか、効果みたいに彼女の周囲に感情の揺らぎが具体的な形を取って見えるのだ。だから読み取ろうとしなくても心の動きが伝わってしまう。
彼女の恐怖、怯え、怒り。そして悲しみ。
このまま放置しておける問題じゃない。不幸中の幸いというか、以前から俺が感じていた彼女の霊的な不調がこのことに繋がってるのがわかった。それなら、俺が関わることでちょっとは彼女の苦痛を軽減できるかもしれない。
俺はタミさんを宥め、落ち着かせて終業後にきちんと時間を取って腰を据え、顧客にするのと同じように面談することにした。片手間にちゃっちゃと済ませるようなことじゃない。
最初の怒りは反射的な精神的防御で、別に俺のことを本気で怒ったわけじゃなかった。その後はちゃんと気を取り直し、落ち着いて俺を信じて任せてくれた。それでも彼女のバックを霊視した俺が、その特性について説明しかけると再び背中の毛を逆立てた動物のように牙を剥く。
それは仕方ない。あなたは生来的に低級な色情霊を惹きつけやすい、なんて。本人の素質の問題だなんて言われたら、まるであなたに全部の責任がありますって告げられたみたいに感じるかもしれない。自分に嫌な情報を教える奴に当たり散らしたくなってもおかしくないかも。
でもそれは残念ながら事実だった。彼女がその手のものを引き寄せるのはとにかく目立つからだ。深海の底でカラフルな光と色を放つ鮮やかで美しい生物みたいに。夜の森でそっと花開く神秘的な珍しい蘭の花のように。
遠くからでもサイレンを鳴らした並みに目立ってる。ここに綺麗で魅力的で無防備なものがあるって。普通の人も勿論引き寄せられるけど、たちの悪いのや霊たちはさらに目敏い。こんなものは絶対に見逃さない。
普通、こんな風に目立たざるを得ないタイプの人は守護するものだってそれなりの経験を積んでもっと光を覆い隠す工夫をしてそうなもんだけど。そう思って彼女の背後を見て思わず頭がきりきり痛くなる。
そうか。ドジっ子のバックはやっぱりドジっ子で構成されてるんだ…。
守護するものは本人に似たものなのは当然知ってるけど。こんなに皆が皆、あっち向いたりこっち向いたりばたばたまとまらないのは珍しい。彼女の防御しない剥き出しの開けっぴろげさの理由がわかった気がした。それも彼女の『良さ』なのかもしれないけど。
いくら何でももう少し、ガードすることを覚えてもばちは当たらないだろう。それでタミさんの良さが減じるわけでもないし。闇の底でも昼間の太陽みたいに燦々と煌めく光を覆って、もっと普通の人の中に紛れて隠れられるようにできるはずだ。
とりあえず彼女のバックから二人ほど借りて俺の後ろで研修を受けさせ(現在はめでたく卒業して彼女のところできちんと機能してる)、代わりに俺の側から強力な奴を貸し出して周りを固めた。本人も自分が無防備で露わな状態なことは本能的に察してたはずで、それが故ない不安や怯えに繋がってたと思う。これじゃ生きづらかったろうな。もっと早く観てあげたらよかった。
でも、ある程度の信頼関係がないと手を突っ込めない領域の話ではあった。俺だって一応男だし。
もう大丈夫ってことを確認して欲しくて、その日は一緒に電車に乗ってみましょうと誘う。やっぱり怖い気持ちが残ってるようなら明日の朝は迎えに行ってもいい。しばらく送迎するくらいどうってことない。彼女の今までの苦しみに較べたら、そんなの。
自分で思ったより久しぶりの電車に恐怖感を覚えなかったんだろう。やや落ち着いた様子の彼女は、嫌なものを吐き出したいといったように、自分の受けた被害をぽつぽつと短い言葉で打ち明けた。途端にその時の状況が脳裏に展開されそうになり、意志の力でそれをばん!と閉じた。
だって、そんなの俺なんかに具体的に見て欲しくないに決まってる。もう終わったことだ、細かいことは知らなくていい。
彼女だってそんなことは望んでないだろう。
ただ、その話が出たときに彼女に当時の痕跡みたいなものがこびりついているのが見て取れた。実行犯の男たちの欲情の名残りと彼女への執着。慌てて剥がして汚いもののように捨てようとして思い直す。これを使って『返して』やれ。
そいつらの身許はわからないがこの先はそこまで繋がってるはず。だったらこれを伝って彼女の受けた被害を何倍にもして返してやることも出来ると思う。
そんなことはそれまでしたことがなかったけど、その時は出来るって確信が持てた。導火線に火を点けるように彼女の痛みや苦しみを乗せて、送り出してそのまま紐を切る。
これで終わった。もう彼女もこのことは完全に忘れていい。なかったことにすることはできないだろうけど。それでもこうして切り離したことで、これまでよりはその苦痛や屈辱の記憶も少しは遠く感じられるように変わっていくだろう。
尤も俺は忘れない。彼女のオーラを真っ黒に染め上げたあの絶望と恐怖の記憶。自分たちの身勝手な一瞬の欲望を満たすために、ここまで他人を傷つける権利なんか絶対誰にもないはずだ。相当下劣な低級霊をくっつけて生きてる連中なのは想像に難くないけど。霊からの影響なんて全然言い訳にはならない。恐らく自ら周りにその手のものを呼び寄せてるんだ。無意識のうちに。
そいつらが相応以上の報いを受けるところまで確認する気はない。でも、二度とこの人に誰も無断で手を触れることがないように。変な気を起こしたり、勝手なおかしな想像を巡らせたり、不快な目つきを向けられることさえ嫌だ。てか嫌って、正直過ぎるか。そう、俺が嫌なんだ。タミさんに変な男たちが目をつけて、寄ってくるだけでも耐えられない。そんな連中からこの人を隠して大切にくるんで守りたい。純粋で無垢で無防備なところにつけ込まれて汚されたくないんだ。
そういう意味では自分がそうしたくてするだけだけど。タミさんに二度とあんな思いをさせる気はない。そのためにできることは何でも、全部する覚悟はある。
そう思って並んで夜道を歩くタミさんを見やってふと気づいた。さっきまで彼女の周りにゆらゆら漂っていたうっすらとした気配が今は感じられない。
その時はっきりと知った。たった今、俺には彼女が発する感情の揺らぎやオーラを読み取る力がなくなったことを。
うーん、そう来たか。と内心唸る思いだった。これは正直初めて体験する事態だ。
自分自身の未来が見通せないように、身内の深い因縁や将来の展望が見えづらくなるように。そう、言わば自分自身の背中や頭の後ろは直に見て確認できないあの感じに近いかな。同じようにタミさんに関してもぱっと見で伝わってくる相手の情報がさっぱりなくなった。これは新鮮な感覚だ。
つまりはあまりに深い感情を相手に対して抱くと、精神的な距離が近くなり過ぎてその人は自分自身の領域、つまり身内の者に近いジャンルのものと見做されるらしい。血の繋がりが根拠じゃないんだ。初めて知った。
しかし思えばこういう風に誰かのことが突然読めなくなるのは初体験ってことは。俺は今まで女の子に深い特別な気持ちを抱いたことがなかったってことなんだ。改めてその事実を思い知らされてなんとも言えない気分になる。
言うなれば。タミさんが俺の本気の初恋、ってことか…。
そのことに思い至り、図らずも口を曲げる。てか俺、もうそろそろ二十五なんですけど。ここまで一体何してたんだろう。
これで彼女の感情の動きや気持ち、来し方行く末はかなり意図して集中しないと読み取れなくなった。家族とかと同じ扱いだ。でもまあ、悪い方に考えることはない。俺は気を取り直し、自分を元気づけた。
相手の情報がぱっと見で勝手に入ってくるって、実際にはあまり便利なものじゃない。むしろなまじその感情の動きがオーラって形で露わに視覚化されるとどうしてもそれに振り回される。
今までの経験から言えるのは人の内心の思いと表に出る言動とは必ずしも一致しないってこと。背後のオーラは全面好意、必死の受け入れサインを発してるのにそれに背中を押されるようについ近づくとそんなつもりはないと言われたり、肩すかしを食らったり。こっちはつい目に見える揺らぎや色合いに影響されて気を取られるけど、女の子はそれと相反することを言ったりしたりするもんなんだって身に染みて知ってる。
気持ちと矛盾する行動をとりがちなのは今思えばティーンエイジャー特有の現象だったのかもしれないけど。過去二度ほどそんなことがあったからもう、女の子たちの背後のオーラを信用するのはやめた。なんで気づかないのよ、みたいに苛々した感情が伝わってきたこともあったけどもう懲り懲りだ。
相手の言葉しか信じない。口に出したことが真実だ、と自分に言い聞かせることに決めた。
それでも否応なくゆらゆら立ち昇る他人のオーラは視界から完全に消えることはない。こっちの気持ちも揺らぐし、むしろ全然見えない方がよかったのに。とすら思うことが多かった。
だからタミさんのそれがすっかり見えなくなっても特に不便は感じなかった。普通の人たちはそんなのなしでちゃんと声や言葉のニュアンスとか表情を互いに読んで何とかやってるわけだし。自分も同じようにするだけだ。
尤もタミさんに限定して言うと、感情の動きや色合いと言動が矛盾を見せることはそれまでのところほぼなかった。笑っちゃうくらいそのまんま。不審げな時はくいと眉を上げ、バックにも疑うようなくすんだゆらゆらが立ち昇る。お客さんに褒められたり感謝されたりするとぱあっと表情が明るくなり後ろの色も華やかに広がる。不機嫌なときは…。
えーと、つまりは彼女の場合そのわかりやすい表情を読めばオーラなんか見えなくても誰でもその気持ちは把握できる。そんな能力は彼女の前にはほぼ無意味だ、もともと。
そんなわけで俺は特にそれを気に病みはしなかった。考えようによっては、必要が生じた時にうっかりつい彼女のことを勝手に見てしまうようなリスクもなくなるわけだし。言わなければ向こうにはわからないにしろ、個人的なことがぱっと反射的にこっちの脳に伝わってしまう時などやはり疚しい気持ちもある。最初から全然見えなければその方がフェアな気がする。
ただ、その後彼女との付き合いが続くうちに、表情に全てが出てるからわかりやすいってほど単純な人ではないってことがだんだん理解できてきた。
俺が本格的にタミさんって迷宮の中に取り込まれてそこで情けなくただひたすらうろうろするようになったのはそこから。裏心なくまっすぐで純粋で突拍子もない女の子、ってのがこんなにも度し難いとは。恋に落ちる前には知る由もなかった…。
彼女の気紛れ加減は普通じゃ測れない。
何しろ本人は気紛れに振舞ってるつもりなんか全然なし。いつも大真面目に物事に向き合ってるだけだ。ただ一度にひとつのことにしか集中できないだけ。だからそれ以外の全ての回路を切り、システムをダウンさせる。懸案事項以外のことはそこですっぱり切り捨てられてしまう。
そして問題に片がつき全ての作業が終了すると再び全部の部屋に明かりが点いて復旧する。その間のことは綺麗に飛んでるから、そういう時に何か言っても意図を読もうとしても取りつく島もなし。それでけろりとえ?わたし何か訊かれてましたっけ、みたいな無邪気な顔を向けられるから、微妙なやり取りはまず期待しても無駄。
それが仕事絡みオンリーならまだ、業務中はビジネスライクに徹されても気にしないとかこっちもペースを掴めるのに。
プライベートのことで謎の迷いに嵌まり込み、自分一人の中で勝手に思い詰めて、こっちが気づいた時にはもうどんどん変な方向に向かって遠ざかってたりする。そういう時は仕事中は余裕がないから変にてきぱき手早かったりするけど、あれは私的な悩みをペンディングするためにかっちりスイッチを切った時の癖みたいなものらしい。
「普通の状態でいるといろいろ頭にちらついて手も頭脳も止まっちゃうから。省エネ運転で雑念の電源は落とすの。そうすると仕事用の頭と身体だけでちゃんと作動するから」
平然とそんな無茶苦茶な説明をする彼女に心底面食らう。なんて器用な性能なんだ!むしろ。
俺みたいな凡人にはとても真似できない。
そして、どういうタイミングでそのバージョンが発動するのか余人にはさっぱり予測がつかない。悩んでるかな、と思うとごく普通の穏やかな表情で仕事の傍ら雑談などふっかけてきたり、今はなんの懸案もないはずだけど、と首を傾げるような時に自分だけに見える謎の迷路に入り込んだりしてる。
本人は自分を隠す意図なんかからきしないと思うんだけど。結果ものすごいわかりにくいことになってる。これはさすがにいつでも手に取るように気持ちが読めるって訳にはいかない。
こんな難物とは思わなかった。密かに頭をきりきりと悩ませる。
俺は彼女のことを口説き落としたいわけじゃない。全然、全くそんな気ゼロと言ったらそりゃ嘘になるけど。
自分のこと客観的に見る目だってちゃんと持ち合わせてる。俺なんかがタミさんから見て男として魅力的に映る可能性などまずない。顔は地味、性格も地味。気弱で押しに弱い。人間も霊も断れず、ちょっと隙を突かれるとばんばん入り込まれる。その度タミさんに頼る羽目になる。色気ありありの人妻クライアントたちを皆正常な本来の霊関係の依頼にきっぱり引き戻し、たちの悪い霊に理詰めで説得を試みて首尾よく行かなければ実力行使で俺の背中を引っ叩く。そしてやや同情的な呆れ声で嘆息される成り行きに。
「しっかりして下さいね。共感は悪いことじゃないですが同情は禁物です。割り切る必要がある時はすぱっといかないと。悲惨な目や悲しい目に遭った人は気の毒ですが、一人ひとりに深く寄り添ってたら身体と心がいくつあっても足りないですよ」
歯切れのいい言葉で言い含められて力なく頷く。自分は普段は情に厚く親切で面倒見のいい方なのに。いざとなるときっちり距離を置いてすっぱり切り捨てられるその無情。
とてもじゃないけど敵わない。向こうから見てもこんなはっきりしない無理強いも断れない優柔不断な男。恋愛の対象になり得るなんて夢にも思わないだろう。
ただでさえ男は苦手、恋愛なんかかけらも興味持ったことさえない子なのに。それを何とか振り向かせて誰より特別な相手になり、いつか恋人同士になんて。
正直なとこ俺の手には余る。もうこれは自己満足でも、これからもずっと仕事のパートナーとしてそばにい続けて、彼女を害するようなもの全てから守るべくひたすら人知れず見守るくらいしかできることはない。
完全なる縁の下の力持ち。頼まれもしない勝手ボランティアの見守り隊。感謝なんか受けたら駄目、見守り方が見え見えってことだから。彼女が気づかない程度にさり気なく、脅威な存在や雑魚どもを遠ざけられたら言うべくもない。生きてるのも死んでるのも含めて全て。
問題はタミさんだっていつかは誰かを好きになることだってあるかもしれないってことだな。俺は深夜の部屋で一人、寝づらい夜に耐えながらベッドの上で輾転反側しながら考える。
それが俺であることはまぁないけど。今まで誰も好きにならなかったからこれからもないって理屈はない。過去はなんの保証にもならない。だいいち自分がそうだ。この歳になるまで女の子を本気で特別に思うことなんかなかった。それが覆されるまで心構えする暇もないくらい、一瞬で全て変わった。タミさんにもそんな瞬間がいつか訪れるかも。
そしたら俺は、そいつとの仲を祝福してあげるしかないんだろうな。ちょっとそう想像しただけで物理的に胸の奥の骨がぎしぎし痛む。人間の感情には痛覚があるって初めて知った。
せめてそれが俺なんかと大して変わらないレベルのその辺の男なんかじゃなくて。これなら絶対敵わないな、って大人しく引っ込むしかないくらいハイスペックな遠い存在であることを祈るしかない…。
悪い予感はしていた。
間仲さんにタミさんを紹介するのは必須だが。いろいろこれから二人して面倒見てもらうことになるわけだし。ただそこから、あいつとの関わりが生じるのはいかにも問題がある。絶対変な気起こすに決まってるし。
予感的中。外で遊び歩いて休日は家に寄り付きもしないはずの啓太の奴がずかずかと上がり込んできて(てか、自分の家だけど)、彼女の上に留めた目が大きく見開いたのを見てああ、やっちゃった、と思った。不審に思われても間仲家にお邪魔せずに外でセッティングすればよかった…。
尤もその後の言動を見ると、間仲さんはむしろ自分の息子に彼女をゲットしてほしい意向があったらしい。それを知って俺は本気で憮然とした。自分ではそりゃ客観的に無理って判断してるけど。それでも心優しい間仲さんなら大丈夫よ、悠くん、思いきって勇気出してとか言って背中を押してくれるんじゃないかと思ってた。
それがまさかの、自分ちの嫁に彼女を勧誘しようなんて。公私混同もいいとこだ。いやまぁ、どこが公?って言われたら。全部プライベートの付き合いって言や、そりゃそうなんだけどさ。俺と違って彼女は心霊関係の依頼を本業にしてるわけじゃない。だからこういう交友関係も向こうからしたら単に私的なものだ。
そこで知り合った気に入りの女の子に息子の嫁に来ない?とか誘っても。別に無体なことをしてる訳じゃないけど。
「でも、彼女ぶきっちょですよ。うちの皿一枚とカップ二つ、湯のみ二つ割ってます既に。たった、えーと三ヶ月でですよ。いくら食器があっても足りません。それにまず間違いなく破片で手を切るので後片付けもさせられないし。絆創膏もいつも常備しておく必要があるし、気がつくと何かとすぐあちこち傷ができてるから。…怖くて熱いお茶も淹れさせられないし。料理なんかもっての他です。それに、そうだ、油断すると言葉遣いは割と雑になるし。考え方もあれで結構大雑把です。…普通に考えて、息子の嫁に欲しいタイプの人とは思えないですけど」
「…そういう割になんか嬉しそうな口調ね。やけに熱心に言い募るし」
やっぱり察しがいい。俺は余計な情報をこれ以上与えないよう口を噤んだ。
二人きりで話す機会があったときの会話。あれは、そうか、間仲家に居候させてもらってた頃のことだ。再会した初日には一目でタミさんの姿に舞い上がってはしゃいで話しかけてた啓太だったが、彼女が何となく引いてる空気を察したあとは(さすが、女の子に関しては勘が働く奴だ)気さくながらもきちんと距離をおいた友達のような態度に変わった。馴れ馴れしく砕けた軽い口調で、あわよくば行くよってアピールするのが有効な女の子だってこの世にはいるのかもしれないけど。少なくともそれはタミさんじゃない。
でも、異性であることを感じさせない気の置けない接し方で分をわきまえていたら、タミさんだってそれなりに応じざるを得ない。奴はお世話になってる間仲さんの息子でもあるし。身許はしっかりしてることは確かだ。
だから二人が友達として交流があることは何となく知ってはいたけど、反対したり介入することはできなかった。彼女だって子どもって訳じゃないし。危なっかしいとこはあるけど一応成人した大人の女性だ。信頼できる知り合いの息子で俺の友人な男とメールやLINEのやり取りするなとも言えないし。それじゃ独占欲にかられた束縛彼氏だ。
だいいち俺には何の権利もない。ちょっと面白くなく思いながらも、様子を窺うしかなかった。
二人が連絡を取り合うだけじゃなくて度々一緒に出かけてることは知らなかった。知りたくない気持ちが無意識にあったかもしれないけど。事前にわかってたら反対できたんだろうか。
それは今でもわからない。
ある晩遅く、自分の部屋でもうベッドに入ろうかなと寛いでだらだらしてた俺はいきなりのドアチャイムに我知らずため息をついた。やれやれ、また久しぶりにあれか。もう出ないって知ってるのに、何で今更。知らんぷりで黙殺していると一瞬の間があり、俺は不意に跳ね上がった。滅多にないことだが俺のプライベートの携帯が盛大に鳴ったのだ。
手に取って視線を走らせ、思わず全身がずきんと鳴る。…タミさんの、名前。
珍しく取り乱して上手く話せない彼女の様子が痛々しく、慌てて玄関のドアを開けに走った。パニックがおさまらずがくがく震える青い顔がそこにあった。
彼女はフラッシュバックを起こしかけて混乱していた。どうやら何か男からの無体な仕打ちを受けたらしい。俺は頭に血が上りそうになるのを必死に抑えた。
俺が一緒にパニックになったら駄目だ。今は何が起こったかを把握して。まず優先すべきはなにかを整理して、対応を考えないと。
途切れ途切れの話から、行きずりの男から何か被害を受けたわけではないことがわかった。友人と思ってた男と一緒にいて、そいつが急に豹変して襲いかかってきたらしい。抱きしめられてキスされた、と掠れた小さな声で打ち明けられてどんな風に受け止めていいかこっちも迷う。
不本意に男に接触されたことで以前の被害をありありと思い出したのがパニックの発端になったらしいが。そんなことを想起させるような不快なことを彼女にするなんて、と憤慨する反面、どうやら取り返しのつかない行為が行われるまでには及ばなかったらしいと半ば安堵する。必死で話しかけているうちに少しずつ落ち着きを取り戻してきた彼女がぽつぽつと打ち明けた状況を鑑みるに。
やっぱりこの話に出てくる相手の男、啓太の奴だな。密かに思いつつ胸の内で憤慨する。なんて野郎だ。この人が心の底では男性に恐怖心を抱いてて、異性なんか天から必要としてないことも知らないのか。
彼女からすると友達として会おうよ、デートなんかじゃないよと言われればちゃんとした家の知り合いの息子さんでもあるし、それ以上疑うのもなんだか悪い気がしたんだろう。友達と思って信用することに決めたらもう疑い深く相手の意図を探ったりしない。そういう素直な子どもみたいな単純さにつけ込むような真似を。
そんな考えに苛つきつつも、率直に認めればあいつは感じの悪いやつじゃない。さっぱりした態度で気は悪くないし、頭だってそれなりに切れるから会話も弾むだろう。全体的にそつがないから一緒に出かける分には確かに楽しいのかもしれない。車の運転も上手い、悔しいけど。
でも、別に好きだとか付き合ってくれとか言われて承諾の上で会ってた訳じゃないんだし。人目が切れたら同意も得ずいきなり抱きしめてキスしていいってことにはならない。大人同士の男女として、それはそういう戦略として世間では許容されてるのかもしれないが。
タミさんの脳ではそこまで対応不可能。友達だよって相手が宣言した事実があれば以降そいつはあくまでも友達、一度整理して分類の上箱にぶっ込んでしまいこんじゃえばもう見直さない。急に狼に変貌するのは予想できたでしょ、とか言われても。
普通の女の子にはできるのかもしれないけど。こういうちぐはぐな勘の悪いとこがある子だってことにつけ込まれた気がして、俺は目の前が真っ赤になるほどの怒りでいっぱいになった。
あの野郎、許さない。まじ殺す。てか少なくとも本気で思いきりぶん殴りたい。
それでも俺がここで理性を保てなければタミさんも動揺するって思いでひたすら外見を取り繕った。その後彼女を何とか落ち着かせて温かい風呂に入ってもらい、その日はそのまま部屋に泊めた。こんな時にひとりの部屋で眠るタミさんを想像したくなかった。
子どものようにあどけなく見えるすっぴんのタミさん。化粧はもともと濃くないから顔立ちはほとんど変わらないけど。
微かに目許に雀斑が浮いてるのがたまらなく可愛い。とか、こんな時に考えてる俺は変態気味だ。こんな思考を読まれたらどん引きされること間違いなしだな。そう思いつつ彼女をベッドに寝かしつけてそっと毛布で覆う。ふと、彼女がさっき打ち明けた事実を思い出してその柔らかそうな唇に目が吸い寄せられた。
『わたし。…初めて、だったのに』
弱々しい震える声のその呟き。耳に蘇ると切なさで胸が痛いほどぎゅうっと締めつけられた。
知らなければよかった。そんな形で彼女の初めてが奪われたこと。せめて大好きな人と経験してくれたのなら。まだ諦めもついたのに。
抱きしめてキスしたい、と初めて彼女に対してそんな猛然とした衝動がこみ上げてきた。獣みたいに肚の内で暴れる何かの塊を何とか抑え込む。そんなことしたら。
俺もあいつと同類だ。絶対そんな風に彼女に思われてはならない。俺だけはこの人を傷つけない、安心できる存在だって認めてもらわなきゃ。
せめて髪に触れたい、と伸ばしかけた手を迷ってからやっぱり止める。タミさんがこんな時に、自分の部屋に帰ってひとりで震えてつらい記憶に耐えるんじゃなくて。
どういう訳かわからないけど、俺のことを思い出してここに来てくれてよかった。単にひとりになりたくない、誰か空気みたいな害のないやつのそばにいたいってだけだったのかもしれないけど。
それでも俺は頭がおかしくなるほど嬉しかった。彼女の中で俺はこういう時に頼っても大丈夫な安心できる奴として分類されてる。そのことがすごく重要なんだって気がした。
この立場を手放してはいけない。いつでも駆け込める安全な避難所、彼女にとって絶対無害な存在。そう思われてこそこれからもずっとこの人のそばにいられる。
恋愛なんか全く必要としてないって断言した彼女のお墨付きももらったし。今後は徹底的にガードを固めて周りに群がる男たちを薙ぎ払い追い返せる。そうして自分はきちんとした距離を置きつつこの先もタミさんを守っていこう。
そう心に決めて、おやすみなさいを言ってベッドサイドから離れた。明かりを落とした寝室から出てそっとドアを閉め、リビングに向かう。
もう少しして彼女が眠ったら、あいつに連絡しておかなきゃいけないな。突然逃げ帰られて動揺してるだろうし無事は報告してやらないと。パニックになって探し回ってるかもしれないし。
尤もついでに散々吊るし上げて嫌味の一つや二つや五つもかましてやらないと気が済まない。二度と二人きりで彼女と会って欲しくない意向はきっちり伝えておくべきだな。
少し飲みたい気分だったけど彼女が同じ部屋にいるのに酔う訳にはいかない。カフェインはやばい気がするけどどうせ今夜は眠れそうにない。開き直った気分で俺はポットに残ったコーヒーを注ぐべくゆっくりした足取りでキッチンに向かった。
《続》