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タミルちゃんは謝らない  作者: タカヤマキナ
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第1章 タミルちゃんは反省しない

心霊よろず相談所に勤めることになった霊感ゼロの女の子の話です。所長の増渕くんの得意ジャンルは口寄せとサイコメトリクス、って設定ですが、今回はまだそこまで出てきません。心霊譚とか怪談的要素より日常お仕事ストーリーとか恋愛の要素が強くなっていくかな、と予想してます。今のところ。

すごい上から態度の女の子と、絶対何でも受け入れるのらりくらりの手応えのない男の子との話を書きたい気分で思いついた話です。まだだいぶ初めの部分ですが、多分完結までは持ってけるかなと思いますのでもしよかったら引き続き読んでみて下さい。

『小説家になろう』では初めてお世話になりますが、今まで大手別サイト(『◯ブリ◯タ』)でいくつか小説を発表してます。筆名は同じでジャンルは見事に全部恋愛もの、R18も二編ほどあります。どんなもんかと関心持って頂けたらどうかちょっとだけのぞいて見て下さい。

すごい突飛な設定とかあり得ない非現実的なキャラクターより、どこにいてもおかしくない人間同士がちょっとしたきっかけで接触することで起こる化学変化みたいなものに興味があります。そんな話ばっかり書いてるんですが、そういうのもいいかな?と少しでも思って頂けたらすごく嬉しいです。

こちらの使い勝手が今ひとつわからないままなのでいろいろ最初は不手際もあるかと思いますが、どうか暇つぶしにでもお付き合い頂けたら感謝です。

「えーと、それで」

その日初めて来所された顧客の方。戸惑うように目線を部屋の中にあちこちやって、やがて所在なく改めて向かいに腰掛けるわたしの上に戻した。わたしは悠然と自分の膝の上で両手を軽く組む。

ここは申しわけ程度、最低限の設備を何とか整えた一応の事務所だ。どこからか中古を引き取ってきたに違いない座り心地の悪いソファセット、よく見るとそこここに傷のあるローテーブル。もしかしたらあいつ、これ粗大ごみ置き場から持ってきたんじゃないか?そんな疑念がよぎるけど。

まああの男、増渕に限って。法や条例に違反するようなことに手を出す筈はないか。そんな度胸も割り切りもない奴だ。逆にわたしが道端に置かれたそんなものに手を出そうもんなら、

「それ。…勝手に持ってったら駄目なやつじゃないですか。あとで問題になりますよ。タミさん、やめて下さいね」

とかやんわり窘めてくるに決まってるんだから。

わたしの対面に座るお客様が心を決めたようにおずおずと口を開いた。

「あの。…あなたが、ここの所長さんなんですか。すごい力があるって噂の。…友達のお姉さんの旦那さんの知り合いの人から評判を聞いて。調べて、ここまで…、来てみたんです、けど」

わたしは手持ち無沙汰に膝の上の手を組み替えながらその人の顔を見返した。若い女の人の年齢って個人差が大きいから見た目だけでわかりにくいけど、二十六歳のわたしよか多分上。三十前後かな、と当たりをつける。割にきっちりした折り目正しいジャケットとスカート姿なので勤め人だろうと推測しつつ、でも平日の昼日中にこんなところにやって来られる自由度を考えると会社員っていうよりフリーの業種か、もしかしたら主婦なのかも。って考えが頭をよぎる。依頼人の職種が何か重要な意味を持つかは正直話を聞いてみないとわからないけど。

彼女は眦を決してわたしをまっすぐ見返した。

「あの、話に聞いたところによると。確か、ここの所長さんは男性と…、お伺いした、んですけど。あの、あなたが…?」

「わたしが男かって、ですか。まさかまさか。…所長ならあっちです。今ね、キッチンでお茶淹れてますから。…ちょっと、遅いよ増渕。お客様待たせすぎだろ」

わたしは自分の座ってるソファの背に片肘を乗せ、ぐいと背中を反らしてそっちの方に顔を向けた。ぼそぼそと、「ちょっと待って」みたいな声が返ってくる。全く、はっきりしない男だ。

わたしは呆気に取られてる表情丸出しのお客様に向き直り、にっこり愛想よく営業用の笑みを浮かべてみせた。

「あの人が所長の増渕です。細かい話はあいつ…、彼に直接お話し頂くとして。大まかな説明は伺っときますよ。あ、わたしはここの助手の赤崎といいます。…どうもね、あいつの方がお茶淹れるの上手いんですよ。湯のみ先に温めてから六十度のお湯で、とか遠慮がちに言われちゃうとやっぱ、ね。手前でやんな、ってことに…、なりがち、ですよね?」


結局何が悪くてこんなことになったんだろう。わたしの性格?物ごとを見る目や他人に対する態度か。周りの人間がそう考えてることは薄々、なんとなくだけど自分でも承知してる。でも当の本人としては衆目の一致でそう思われるのも今いち納得いかない。わたしの性格がどうだって、あんな成り行きのこもごも誰だって承服しかねるでしょ。全部がぜんぶ、こっちが悪いばっかりとは思えない。そう、強いて言えば。悪いのは…、巡り合わせ?

「そんなことだから、あんたは。言うに事欠いて『巡り合わせ』って何よ。そりゃ、あたしだってタミが何もかも全部、全面的に悪いなんて言う気はないよ。職場の上司や環境だって問題があったんだろうなぁとは思うけど」

高校の時からの友人であり、わたしを結果的に今の事務所に紹介してくれた当人である奥野遥香は思わずこぼしたその本音に対して呆れた口調で最初は窘めた。

いよいよ次の職を見つけるのにも行き詰まって自分の部屋に引きこもりがちになりかけてたわたしを心配してわざわざ訪ねてきてくれた。そのこと自体はやっぱり有難い。口でなんて言ってもわたしの味方でいてくれるのかな。そう思ってついぽろっと吐き出しただけなのに、思い切り肩を竦められた。ちょっと心外だ。

「いや、これでも遠慮がちに表現したつもりなんだよ。ほんとのところは正直、あの人たちが変なんじゃないかってはっきり言ってやりたいんだけど。最初の会社の上司といいバイト先の社員といい…、挙句に喫茶店のマスターだって。社会ってこんなに変な人がどこにでもいるのがデフォルトなの?って思うとなんかだんだん、自分の方も悪かったのかなとか感覚がおかしくなってきてさ…。でも、客観的に言ったらやっぱり向こうが悪いんじゃないの?って気持ちは拭えないし。それを控えめに、巡り合わせと成り行きのせいにしてみたってだけじゃん」

彼女はわたしが冷蔵庫から出してきた買い置きのペットボトルのお茶の蓋をぱき、と開けながらため息混じりに応じた。

「まぁな、やっぱり引っかかるのはそこだよね。卒業して就職した最初の会社で上司とどうしても合わなかった、ってのはなくはないよね。ただまあ会社そのものがブラックってわけじゃないならこのご時世、石に齧りついてもなんとか続けられなかったのかとは今更言ってもだけどさ。上司やら周囲の環境なんか、何年もずっとそのままって訳じゃないでしょ。向こうもこっちも異動だってあるしさ…。でも問題はそれっていうより。なんだってその後のバイトも軒並みトラブル起こして辞める羽目になるの?一箇所ならともかく、二箇所三箇所となるとあんたの方にもなんかあるんだろと思われてもさ。辛抱が足りないとか」

わたしは憮然として自分のコーヒーを一口飲んだ。これもペットボトルの微糖のやつ。奥野がこぽこぽ、とお茶をグラスに注ぐ音が静かな室内で案外大きく響く。わたしたちは二人ともあまりアルコールは好まない。飲み会に行っても大抵ソフトドリンク、烏龍茶派だ。

「…辛抱の話は聞き飽きた。実家の両親からこってり聞かされてるから、毎日のように。うるさいんだよ、東京が無理なら帰ってこいって。神奈川からでも何処でも通勤できるし地元に就職すればいいとかさ」

奥野は素直に頷いた。

「それはまあご両親はそう言うよ。むしろ、なんでそうしないのさ。あんたがそんなに東京志向が強いって知らなかった。そりゃ神奈川でもだいぶ西の方で東京のどこでも大抵二時間はかかるって聞いてはいるけど。なんならそっちで仕事探せばいいじゃん。横浜とかさ」

「それが。…わたしにもいろいろ事情があってさ」

説明がちょっと難しいな。女友達に打ち明けるにも何だか微妙な問題をはらんではいる。わたしはコーヒーを再び口許に運びながら曖昧に言葉を濁した。


大学を出て新卒で何とか無事入社した会社はそこそこ世間で名が通ってて、特別ブラックってわけでもなかった。ただ歴史のある社風でそれなりに風通しが悪い。

配属された部署の部長にどういうわけか目をつけられた。セクハラってことではない。ただひたすら態度が悪い、反抗的だと言い募られて皆の前で吊し上げられた。何かというと呼びつけられてデスクの横に立たされてぐちぐち長々とお説教される。その上仕事が遅いと怒られ、挙句に終業後もそいつと二人で残され(初めてそれを言い渡された時はいよいよセクハラかと内心震え上がった。幸い彼はわたしに対してそういう意識は毛ほどもなかったらしく最後まで変なことはされずに済んだけど)、床に正座しろと言われたこともある。さすがにそれは拒絶した。

「正座すべき適切な理由がありません」

そういう物言いも可愛くなかったんだろう。逆上されてその後二時間もヒステリックに理不尽な説教が続いた。今思うと姑の嫁いびりみたいだった(ちなみにそいつは男性)。あのエネルギーは一体どこから来てたんだろう。

辞めたあとになって、後日同期の子が世間話的にわたしの部署の先輩に聞いたところによると、そいつの言い分は

「あいつの目が気に入らない。いつもこっちをじっと見返してて腹に何かある感じだ。陰険な奴だ」

とか、

「言いたいことがあるなら口で言えばいいのに、あの見透かすような目つきが苛々する。絶対あれは俺のことを内心で馬鹿にしてる」

って程度のことだったらしい。そんなこと言って、滅多にないことだけどたまにわたしが正座を拒否した時みたいに言い返すと半端なく逆上したくせに。黙ってても駄目、口を開いても駄目だったってことか。

「お前もさ。本当は内心でこいつ馬鹿なんじゃないの?とか思ってたんじゃないの。それが相手に伝わったんだろ。駄目だよそういうことは、思ってても態度に出しちゃあ」

その同期の男の子は過ぎたことだと思って笑って気軽に言ってのけたがこっちは憤懣やる方ない。

「全然そんなことない。いや、さすがに終わり頃にはさ。この人頭悪いのかな?とか。こんなことして何になると思ってんだろ、何の意味もないじゃんとか頭の中では考えたけど。断じて表情に出したつもりなんかないよ、そんなことしたら更に逆上されることわかってるもん。それに配属された最初の頃には誓って何にも考えてなかったよ。部長がどんな人かも知らないのに、馬鹿にした顔なんかするわけない。身に覚えないよ」

その子に言い募っても今更何もならないが。彼は面白そうにわたしの顔を横から覗き込んだ。

「じゃあ向こうの勝手な思い込みだな。わからなくもないよ、赤崎って目力強いだろ。目許がくっきりして大きいし。なんか、その目で真っ直ぐ見返されると俺でもちょっとどきっとするもん。それをさ、なんか見透かされてるみたいに受け取ったのかもな。自分でもなんか弱い部分っていうか、コンプレックスがあったんじゃないの。そこにお前の目線が向けられてるって思い始めたら止まらなくなっちゃったのかもな」

「そんなの知らないよ」

わたしは呆れた。ほとほと困り果てて人事に相談に行った時も、研修でお世話になった主任は首を傾げて

「配属の時はあの人直々に是非赤崎さんを欲しいって申し出があったくらいなんだよ。何かの行き違いじゃないかな。ちょっと、うちの部長からも話してもらってみようか」

と言ってくれたが、数日後には

「そっちの部長は君を手放す気はないらしいよ。何でも、鍛えれば絶対ものになるから任せて下さい、少し気持ちを入れ替えてもらわないといけないところはいくつかあるけど仕事上問題はないって。よかったね、悪い感情は持たれてないみたいだよ」

とにこにこ上機嫌で知らせて来られてがっくりした。どういうわけか部長は、わたしを手許に置いていびり倒すことに何らかの意義を見出してるらしい。

顔も見たくない、と思われてる方がまだしもよかった…。

職場の先輩も同期も関わりたくないとばかりに見て見ぬ振りで孤立した日々が続く中、思わぬ方向から決定的に心が折れる出来事が起きた。

わたしは幼少期(文字通り。最初の時は小学四年生)からどういうわけか痴漢に遭いやすく、通勤電車の中でのそれはもうほぼ日常になりつつあった。そうは言われても断じて慣れるもんじゃない。学生の時に一度思い切って手を掴んでこの人痴漢です、と声をあげたけど相手に自信たっぷりに絶対違う、冤罪だと断言されて埒があかなくなった。終いには駅員さんにも証拠とか目撃者がいないと立件は難しいかもね、すごい満員だったからもしかしたら思い違いかもよ?と遠慮がちに窘められる、って経験をしてからはもう何処かに訴える気は完全に失せた。以来両手を上に上げた状態で下半身を擦り付けてはあはあ言われても(まあ、そこまで身動きできないほど混んでる電車が悪いのかも。発情したからってわざととも言い切れないし)黙って無理やり途中下車して次の電車に乗り換える、って生活を続けていた。

そんな中でついに我慢できないほどの目に遭う羽目になり、ぽっきり心が折れた。しばらくその路線の電車を見るのもできないくらいで、当然電車には乗れない。それを押してまで会社に必死で通おうともそこではまた吊し上げと正座のねちねちな日々が待っている。そこまでしなきゃならないのか、と思ったらもう何も考えられなくなってわたしはついに会社を辞めた。入社後一年経って異動の時期になったのに、わたしも部長も配置換えされなかったのも決定打となった。人事は問題が起きてることを薄々は知ってる筈なのに。

わたしのバイト先のファミレスに顔を出して半分面白そうに後日談を教えてくれたその同期の男の子によると、部長は特段別の人を代わりのターゲットに定めるでもなく、その部署は今も何の問題もなく平和にやってるらしい。彼の神経に障る人間はわたし限定だったというわけだ。特別仕事のできない人ってわけでもなかったから、入社一年のわたし一人が辞めてことが収まるなら会社的にはそれでよかったってことなんだろうな。

ただ、わたしの元先輩が零してたところによると部長は未だに飲み会の席などでアルコールが入ると、それにつけてもあいつは可愛げがなかった、俺がつきっきりで一人前にしてやるって言ってたのに逃げ出しやがって、とねちねちと蒸し返すらしい。赤崎は辞めて正解だったよ、多分あのままいたら精神的に潰されてたよって同情してたって教えられても。今更わたしにとっては何の助けにもならない。


そんな訳でわたしは詰んだ。何と言っても電車に乗れないのには参った。あれから二年経つのでさすがに今では満員電車でさえなければ一応普通に乗れるけど、当時は特徴的なその車輌のデザインを目にするだけでも吐いてしまうくらい。

かと言って実家にしおしおと帰るのも憚られた。神奈川県ならいくらでも仕事あるだろ、と思う向きもあろうがわたしの生家のある場所は周囲にろくに何の店もなくて電車の駅に出るのも一時間に数本のバス頼り(そんなとこが神奈川にあるのか、と時たま疑われる。あるんだって!マジで、本当に)。そしてその周辺は夜に人通りが完全に途絶え、時折変な車やバイク、自転車がこっちを待ち伏せしてる。

携帯を出してこれ見よがしに大きな声で通話を始めるとすうっと消えてくくらいだからそんなに深刻に考える必要はないのかもしれないけど。何となく誰かこっちを認識してターゲットにしてるんじゃないか、とか思い始めるとすごく気持ち悪い。大学の途中で実家を出て遠距離通学をやめ、一人暮らしを始めたのもそれが原因だったくらいで正直あの物寂しい場所にもう住みたくないのだ。何回か親に迎えに来てはもらったけど、いつも毎回って訳にはいかない。疚しいこともないのに男の人につけられてるってことは何だか言えなかった。親もそんなこと知ったら嫌な気がするんじゃないかって思えて。無駄な心配かけるよりも、ここから自分が遠ざかった方が平和な解決法だって気がした。

そんな訳で実家周辺にトラウマがあるのでそこにはいよいよってことになるまで帰りたくはない。近辺に就職先だってそうそうないし。それで結局リハビリ的に、一人暮らししてるアパートから歩いて通える範囲を探してとりあえずファミレスのバイトから始めることにした。何もしない訳にはいかないし。とにかく生活費だけでも稼ぎたい。

そこでも店長にしっかり目をつけられた。今度は生意気な目つきだから、って理由ではなく(いや、ゼロじゃないのか?自分がどんな顔して見えてるのかだんだんよくわからなくなってくる。だって前の会社でも普通にしてるつもりだったから)、単に不器用で仕事の覚えが遅く、手際が悪かったから。わたしは態度がはきはきしてて意思が強く見えるらしく、当然何でもこなせるんだろうって言われることが多いんだけど残念なことに極端なぶきっちょだ。見掛け倒しのてきぱき詐欺、と学生時代はからかわれてた。

「四年制の大学出てるんでしょ。何でこの程度のこと飲み込めないの?」

と呆れたように言われるんだけど。一つのことに頭がいっちゃうと、後からいろいろ言われてももう全然入ってこないんだもん…。

人手不足だからすぐに馘にはならなかったけど、他のバイトたちの前で容赦なく叱り飛ばされ嫌味を言われる日々。その職場でわたしを庇ってくれたのはもう一人の社員の副店長だった。

「覚えはゆっくりでもいいよ。赤崎さんは一生懸命なのはわかってるから。少しずつ仕事に慣れていこうね」

と親切に言い、何かにつけて面倒を見てくれた。そのうちあまりの覚えの悪さに

「もしよかったら、閉店後少しいろいろ勉強しようか。一緒に付き合うからさ」

と申し出てくれたのはいいが。

そう、問題は店長じゃなくこの副店長の方だった。最初の何回かは居残り勉強も額面通りで、彼を信用して感謝していたわたしだったが。頃合いを見てかある日突然、他に誰もいない閉店後の厨房で不意に襲いかかってきた。

「赤崎さん、いいでしょ?君もちょっとはそんな気なくもないんでしょ。こんな深夜の店舗に、二人きりで残るくらいだからさ…。悪いようにはしないから。これからも店長から庇ってあげるよ?ね?」

とか言われて身体を弄られて、目の前がすうっと真っ暗になるほどぞーっとした。気がつくと厨房が滅茶苦茶になってて、副店長は何処か痛めたらしく倒れかかって呻いていた。わたしは真っ青になって店を飛び出した。

店からはがんがん電話がかかってきた。概ね店長からだったと思うが、副店長の声で留守電が何回か入っていた。

それによると、店長は店を無茶苦茶にしたわたしに弁償させると息巻いてるけど、そこは取り繕ってお咎めなしにしてあげるから。その代わりに言うことをちゃんと聞くように、そっちが悪かったんだから拒否はできないよねみたいなことが猫なで声で一方的に録音されてて閉口した。このままばっくれたら何かで訴えられるのかなと半分覚悟したけど結局そのまま音沙汰はなくなり、特別それ以上何かを要求されることもなく終わった。店長からも、副店長からも。

勿論未払いのその月のバイト料が振り込まれることはなかったけど。


そこまで話したところで奥野は軽くため息をついた(余談だが、電車の痴漢と実家の夜道の待ち伏せについては話していない。あくまでも職場のトラブルについてだけ)。

「うんまぁ…、そうね。確かに、話を聞く限りでは。それを我慢しろよとは軽々しく言えない気はするけど」

わたしはその台詞にちょっと力を得て肩を聳やかした。

「でしょ?だってさ、そのまま副店長の言うこと聞くべきだった?そんなこと絶対あり得ないでしょ。考えらんないよ、三十越えた妻子持ちのおっさんの言いなりになんか。何が悲しくて」

「妻子持ちでも独身でも関係ないでしょ。全然ないよそんなの。でも、いきなり大暴れで厨房ぶっ壊して飛び出るなんてさ。もっとやりようなかったのかな。その場はやんわりいなして丸く収めて、あとでちゃんと店長にこっそり相談するとか…。こっちが悪いわけでもないのにそんな辞め方。副店長は何のお咎めもなしじゃん。なんか、納得いかない…けど。無理か、タミにそんな大人の対応」

「どういう意味か」

わたしはやけくそでばりばりとポテチの袋をこじ開けた。上手く開かなくてぼろぼろと中身が溢れ、奥野が慌てて手を出してくる。

「全く、ぶきっちょで子どもみたいなんだから。そんな涼やかな大人の女みたいな顔してそのギャップ…、まあねぇ、あたしにはよくわかんないけど。職場なんて仕事する人間同士の場所でそんな理不尽な要求されたことないし。あんた何しろ外見が外見だから。美人は余計な心配が多くて大変だよな」

「そんなん関係ないよ。第一最初の職場の嫌がらせは男女問題の絡みじゃないし」

奥野に他意はないとわかってても思わず顔がぶすっとなる。そういうこと言われるってわかってるからあんまりこの手のことを大っぴらに言って回れない。痴漢やストーカーについて他人に話しづらいのも同様の理由だ。美人は大変ね、とか意味ありげに揶揄されるのはやっぱりきつい。そんなの全然関係ないと思うけど。

だいいち奥野だってわたしとタイプは違うけど清楚な美人といって差し支えない。だけど何となく男たちからするときちんとした感じのいい女の子といった彼女は変なちょっかいを出しづらいんじゃないかと漠然と思う。てことは、わたしはちゃんとしてない女に見えるってこと?自分の頭の中の考えに勝手に憮然となる。別に派手な格好も露出もしてないのに。どうしてこうなるんだろ。

「まあ起こっちゃったことはしょうがないでしょ、もうファミレスも辞めて久しいし。で、こないだまで勤めてた喫茶店は?お給料はほどほどだけどマスターはいい人そうって言ってたじゃん。何が問題だったのさ」

「ああ…、そっち」

わたしの目が図らずも泳ぐ。この文脈で最後にその話か。どう考えても狙ったオチにしか感じられないと思うけど。

どうも自分にはきちんとした組織は向かないんじゃないのか、って漠然とした反省からとにかく待遇より手当より落ち着いた職場を探そう。と思い近所の静かな住宅街の中の喫茶店の張り紙を見つけ深く考えずに飛び込んだ。結構年配のマスターがのんびりと経営してるその店はそれほど忙しくもなく、まぁ儲かっている様子でもなかったけどわたし一人のバイト代くらいは何とかなる様子。やっと安住の地を見つけた思いだった。フルタイムで入れて給料の安さに文句を言わないわたしにマスターは満足してるようだった。

「助かるよ、ちょうど学生バイトの子たちが卒業を機に相次いで辞めてさ。やっぱりフルタイムのバイトさんは有難いな。シフト組むのも大変でね、みんな授業やらサークルやら予定が細々あるから」

相変わらずぶきっちょだったが調理はほぼ全部マスターがやるし、わたしはせっせと皿洗いやウェイトレスの仕事、掃除など雑事全般をこなした。時々お皿やカップ落として割っちゃったけど。前のファミレスの店長みたいにがんがん怒られはしなかった。

「タミルちゃんは見かけによらずおっちょこちょいだね。そんなとこも可愛いからまぁいっか」

冗談に紛らわせてくれてそれは助かっていたんだけど。

「…だけど?なんか問題があったんだ、やっぱり」

「んん、…まあ」

わたしは視線を落として言葉を濁した。なんていうか、説明しづらい。そんなこと本当にあるの?って思われそう。わたしが聞く側の立場だったら冗談言ってんの?ってちょっと疑うかも。

現実って思いのほか馬鹿っぽいものだ。

勤めてしばらくの間は殆ど問題らしきものもなかった。さすがに賃金安いな、毎月ぎりぎりだとは心の底で思わなくはなかったけど。節約したり月によってはそれまでの貯金を切り崩して何とかやっていた。長い目で考えるとずっとここでやっていくのはきついってのはわかっていたけど。それより落ち着いた安定した生活を手放したくなくて何となくそこで居着いていた。

だが、わたしが職場に慣れていくにつれてマスターがじわじわとその本性を現し始めた。


例によって閉店後。何気ない表情で半分冗談に紛らわせるように彼は切り出してきた。

「ほんのちょっと、お願いなんだけど。…タミルちゃん、これ着てみてくれない?君に絶対似合うって思うんだよね。…ちょっと、見繕ってみたんだけど、さ」

彼が何でもない風を懸命に装ってさっと差し出してきた衣裳。…わたしは目が点になった。文字通り。

「あの。…何ですか、それ。…えーと」

「そ。婦人警官。いわゆるコスプレって奴かな。…あ、ミニスカポリスっていうよりはちゃんと、スカート丈は気を遣ってみたよ。あんまり短いのも変態っぽいもんね。割に本物の警察っぽい感じに近いのを探したんだよ。これならあんまりやらしくないかなと思ってさ」

「うーん…」

わたしは曖昧な声で唸った。本気で弱る。まあ普通に考えたらセクハラっちゃセクハラだけど。この喫茶店でお世話になるようになって半年近くなる。それなりにマスターとも気心が知れてきたと思ってたし、あまり無碍にはしたくない。やんわりと断る方法…。

問答無用で突っぱねたりしないと見て取った相手は少し力を得たように重ねて懇願してきた。

「とにかく、ちょっとこの服見てみてよ。別に、変なデザインじゃないよ。いや、タミルちゃんなら絶対ばっちり似合うから。きりっとして凛々しくて、綺麗だと思うなぁ。布地もしっかりしたのを用意したんだ。ぺなぺなの安っぽい奴じゃ申し訳ないと思って」

そう言われて思わず渡された服の布地を確認する。確かに。案外しっかりした造りだ。

まさかどっかで横流しされた本物を手に入れたんじゃないだろうな。そんな訳ないか。だいいち確か警察官の女性用の制服って実際にはスカートじゃないんじゃないかな。この手のものは法律とかで規制もあって一般の人の手に渡らないよう厳重に管理されてるはずだし。ただ、ちょっとした気紛れにしてはお金がかかってそうと感じたのと、さっと見たところあんまり変態っぽいデザインではなさそうだったので結局根負けしてロッカールームに引っ込んでそれを身につけた。マスターは目を輝かせてわたしを見つめ、写真を撮らせてくれるよう頼み込んできた。

「やっぱ似合うなぁ。見込んだ通りだ。…本当に、最高の被写体だなあ、タミルちゃんて。…僕一人で見てるのは勿体ないよ…」

以来、時折思い出したように様々な衣裳を着るように懇願されるのがお決まりとなった。

「タミちゃんは本当にスタイルがいいね。顔も綺麗だし…。何着ても映えるなあ。最高だよ、実際。…次は何着てもらおうかなぁ…」

「うーん…」

わたしは口許を曲げて思わず唸った。まだこれ、続けるんですか、って呆れた声の台詞を飲み込む。婦人警官から始まってスチュワーデス(当然それっぽい偽物。あれも実際の現物は航空会社から持ち出し絶対不可のご禁制の品の筈だ)、OLの制服、看護師。じわじわとやばい方向に行ってる気がして仕方ない。アニメキャラとかその手のコスプレは関心がないらしいけど。

これって、下手するといわゆるイメクラとか。ああいう風俗に近くないか?嬉しそうにいろんなポーズを取らせて写真撮って、うっとりと見惚れてるだけだから別に害があるって訳でもないんだけど…。

釈然としない居心地の悪さを感じながらも月に一度か二度、閉店後のことではあるし、身体を触られたりすることもなかったので大騒ぎするのもな、となあなあに続いていた。でもある日、我慢の限界値を軽々と突破する出来事は唐突に起こった。

その日マスターが異様に光る目で差し出してきた衣裳を手に取り、広げてみたわたしは思わず怯んで彼を見返した。口ごもりつつ抗弁する。

「いえあの。…これは、ちょっと」

いわゆるセーラー服。ブレザーとチェックのプリーツスカートじゃないんだ、とどうでもいいとこに意識が向くけど。マスターの年代だとやっぱりJKはセーラー服がツボなのかな。まさかJCじゃないよね?ロリならわたしは全然全く、ストライクゾーンじゃない気が。

マスターはちょっとこっちが引くほど目を爛々と輝かせて熱っぽい口調で説得してきた。興奮し過ぎて少しおかしかったのかも、今考えると。

「大丈夫だよ、タミちゃんなら。絶対似合うって、まだ女子高生でいけるよ。…ああまぁ、本物と比べちゃうと色っぽ過ぎるかな?胸もおっきいし、腰もくびれててセクシーだもんね。こんな女子高生そうそういないよなぁ」

「いやぁ…、無理、かな。これは」

曖昧な声を出し、何とか断る口実を探そうと更にその衣裳を検める。なんか、いつもよりマスターの浮かれたテンションの振り切れようも怖い気がするし。ざっと全体に視線を走らせて、ん?と眉を寄せる。思わず自分の身体に当ててみて、たまりかねて彼の方を見て問いかけた。

「なんか。…スカート、短くないですか。いつもより」

今までは本物をどっかから入手してんの?って思うくらいリアルな仕立てで、風俗店の衣裳みたいな感じはあまりなかった。でも。

このミニスカの丈はちょっと。わたしは半端なく顔を顰めた。ちょっと動いたらパンツ見えちゃう。

「え、でもこれは掛け値無しの本物だよ。ちゃんとブルセラショップで中古を買ってきたんだから…。今の高校生はこれくらい短いの着てるんだって。でさ、せっかくだから」

どんな脳内物質が分泌されてたのか、彼は上ずった目つきで浮き浮きと提案してきた。

「お願いなんだけど。…下着、取ってもらってもいいかな。上も下も。…あ、大丈夫、絶対変なことしたりしないよ。触りはしないからさ。…ん、でも、写真は撮らせてもらうけど。だってこんな綺麗なんだからさ。ちゃんと記録に残しておかないと。…どんなポーズがいいかな。ちょっとは見えちゃっても構わないよね。だって、悪戯したりはないんだからさ。本当、見るだけ。あと、撮るだけ…、だから。ね?」

いつになく呼吸の荒いマスターがじり、とにじり寄って来た瞬間わたしの喉の奥から抑えきれない悲鳴が漏れた。無理、もう絶対。…耐えられない。

こんなの限界を超えてる。

気がつくとセーラー服を彼の頭に被せ、思い切り横殴りに張り倒していた。そんなに腕力が強い方でもない筈なのにマスターの身体が横っ跳びに吹っ飛んだのは覚えてる。そう言えばファミレスの時も副店長は結構なダメージを受けてたみたいだったな、こういうのを火事場の馬鹿力っていうのかとどこか他人事みたいにぼんやり考えてた。

次に我に返った時にはとぼとぼとアパートへの道を一人歩いてた。両肩にずん、と現実がのしかかって、重い重いため息をつく。

あー、あ。…また、やっちゃった。


どうしよう。謝って、また明日から働かせて下さいって頭を下げるべきなのか。迷いはあるけど、そんな場面を想像したただけで顔が歪む。

だいいちマスターがそんな人だってわかったあと、何事もなかったように今まで通り一緒に働けるの?これまでのコスプレも正直どうかと思ったけど。いやらしいことはされなかったしただ写真を撮れば満足してるってだけならいいかと無理やり納得してた。でも。…下着、取って。…写真、なんて。

全身がぞわ、とした。本当にそれだけで済むとは限らないし。いや、もし触れられなくても。変なポーズ取らされたりとか。だって写らない、見せないんだったら下着取る意味なんかない。やっぱりそういう姿を見る気だった、としか…。

胸が悪くなって吐き気が込み上げてきた。気のいいおじさんみたいだと思ってた人が、自分に対してそんな気でいたなんて。知っちゃったらもう昨日までと同じように気軽に笑ってそばで働ける気がしない。それにここでこっちが頭を下げたりしたら、辞めさせられたら困るんだと思われて足元見られて、更に変な要求突きつけられないとも限らないかも…。

わたしはがっくりと肩を落とした。あーあ。居心地いいと思ってた職場もこれまでか。

いろいろ不審に感じつつ見ないふりしてきたけどもうそうもいかない。このまま続けても多分近いうちいつかは破綻する。あれをなかったことにして大目に見たりしたら、受け入れられたと思われてもっと変な方向に進みかねないもん。

この辺が潮時か。まあ、仕方ない。どっちにしろお給料ぎりぎりだったし。

大きく息をつき、背中をしゃっきり伸ばした。また明日から職探しだ…。


「うーん。…うーん、そうかぁ…」

皆まで話を聞き終わった奥野は頭を抱えて唸った。わたしは表情もなく素っ気なく肩を竦める。

「ね?無理でしょ、そこで仕事続けるなんてさ」

彼女は半端なく渋い顔を向けてきた。

「ないな。無理だね、下着つけずに超ミニスカのセーラー服かぁ。…きも。なんか、やな話聞いたわ…」

「五十半ばのちょい薄い中年のおっさんなんだよ。マジないでしょ?」

「いやそれは。…あんま関係ないでしょ。だってさ、二十代でイケメンだったらありなの?そんなこともなかろうよ」

何気ない付け足しにまともに返されて真面目に想像してみる。…確かに。

「うーん。そりゃそうだね。そっちの方が闇が深そうかも。…どん引きだな、それはそれで」

「だしょ?ビジュアルがよければいいってもんでもないよ」

奥野の至極真っ当な意見に深く頷く。どっちにしろあのマスターを思い出すだけでどうしようもなく胸が悪くなることは間違いないけど。

彼女は気分を変えようとするように二杯目の冷たいお茶をグラスに注ぎ、いきなりぐいと飲み干した。

「まぁ、認めるわ。あんたは引きが悪い、確かに。あたしでもその喫茶店は即辞めるしかないな。向こうが悪いとか自分に非はないとか言っても無意味だもんね。マスターが自分で所有してる店で働き続ける方策考えてもさ。どっちにしろもう顔突き合わせて仕事できないだろうし…。ま、でも、変なことされずに済んでまだよかったじゃん。最初にミニスカポリスの格好なんか受け入れた時点でもう駄目でしょ。本当に何もなくてよかったよ。そこで向こうが調子に乗ってたらさ…」

「ミニスカポリスじゃないよ、婦人警官だよ」

わたしだっていかにも風俗嬢が着るみたいなエッチなデザインの服だったら拒否したさ!と思ってそこは即座に否定したが奥野はにべもない。

「同じようなもんだよ。深夜の営業終了後の店舗でそんなもん着ろって言われて変だと思わなかったの?そこはやんわり冗談に紛らわせて上手いこと逃げてればさ…」

また出たやんわり。まあ、奥野みたいな人当たりと要領のいい奴ならそんな離れ業も苦にもならないんだろうけど。わたしは情けない声で呟いた。

「そんなことできるならさ。…苦労なんかないんだよ」

ちょっと哀れを催したのか、彼女の態度が目に見えて和らいだ。わたしのグラスにこぽこぽ、とお代わりのコーヒーを注いで元気づけるように明るい声を出す。

「ごめん、そうだよな。タミみたいな要領の悪い奴にそんな、器用な真似。それにまあ、マスターの本性がそれなら遅かれ早かれどっかで明らかにならざるを得なかったかも。…結局また、仕事を探すしかないってのは厳然たる事実だもんな。で、どうなの。手応えというか、当てはあるの」

「うぅ」

わたしは言葉を濁し、間を保たせるためにとりあえずグラスを口に運んだ。一口含んで気持ちを落ち着かせる。

とにかく、電車に乗れないのは不利だ(混んでなければ一応乗れるようになったのは今の事務所に来てからで、この話の時点ではまだ難しかった)。学生の頃から住んでいるこの部屋は割とのんびりした住宅街にあって、周囲に沢山オフィスがあるような環境じゃない。小さな営業所や事務所はそりゃちまちまとあるけど。

個人経営の事務所や店は少し怖いな、って気持ちが生じつつある。自分の引きの悪さを思うに、また変態か、ねちねち部下を苛めるタイプの人に当たったらどうしよう。ただでさえぶきっちょで手際が悪く目つきが生意気で(多分。本人としては自覚なし)、やんわりかわせない直情径行。また同じことの繰り返しにならないかな…。

黙り込んでしまったわたしをじっと観察するように見つめていたと思うと、ややあって奥野は落ち着いた口調で切り出した。

「あのさ。特に今のところ決まった当てがないならなんだけど。あたしのサークルの時の先輩がさ。身内の事務所で助手になってくれそうな人いないかな、って言ってるんだけど。そういうのはどうだろ?」


奥野の紹介で訪ねた事務所(兼住居)でわたしと向き合って腰かけた『所長』は、想像以上に頼りない印象だった。

「えーと、赤崎。…多美流さん、ですよね。はぁ、こういう字を書くんだ。知らなかった…」

俯いてわたしの持参した履歴書に一心不乱に目を通しつつ、ぼそぼそと後半独り言になりかける。でしょうね。わたしは言葉に出さず肩を窄めた。わたしとあなたは初対面でしょうが。なんで名前の漢字表記事前に知ってる筈があるのさ。

わたしにまだ碌な就職口の当てもないってはっきりわかったところで、奥野はその場でサークル時代の先輩にさっさと電話を入れてくれた。

「先輩本人は女の子で、その弟のやってる事務所なんだけどさ。大学出たあと普通に会社に就職してたんだけど、ちょっとした特技があって。それで口コミで依頼が引きも切らなくて、結局本業に差し支えるようになってやむなく独立したって経緯らしいんだよね」

「じゃあ、仕事としては成立してるんだ。依頼自体全然来なくて閑古鳥が鳴いてるって状況じゃなさそうだね」

そこは安堵する。どういう特技を活かしてる職種かはわからないけど、バイト代も払えないって訳でもなさそうだ。

奥野は何とも言えない苦笑いを浮かべた。

「うんまぁ。…でも、なんていうか。いろんなことを捌ききれない奴で。事務所の運営はひっちゃかめっちゃか、どうにも体を成してない状態らしいんだよね。誰か管理できそうなしっかりした人を入れないと無理だけど、暇そうな知り合いいない?って聞かれてて。主婦のパートでも何でもいいんだけどって。先輩は自分の仕事は大事だから辞める気は全然ないし、身内に手すきの人もいないから。誰か、信用できそうな人物がいれば紹介して欲しいって以前から言われてたんだ」

「よさそうな話に聞こえるけど」

主婦のパートでもいいってことはフルタイムの従業員を探してるんじゃないのかもしれないけど。この際贅沢は言ってらんない。住宅街の流行ってない喫茶店とどっちこっちの待遇でも構わない。わたしはちょっと居住まいを正して彼女に向き直った。

「どうなんだろ、わたしじゃ無理かね?てか、そういう話があるって最初から言わなかったのは何で?やっぱ、『しっかりした人』って条件がちょっと、問題か。…しっかりしてるとはお世辞にも言いづらいしな」

社会人になってからの立て続けのこもごもを思い出し、台詞の途中からなし崩しに口ごもる。そんなわたしの気後れを察したか、奥野は軽く眉を上げて素早く否定した。

「違う違う、そういう訳じゃないよ。むしろあんたには結構向きかも。つまりはさ、手先の器用さとか作業の素早さとかそつのなさは求められてないから。微妙な対人関係とか。繊細な心遣いとか。…向こうが欲しいのはそういう要素じゃないの」

「なるほど」

一瞬ほっとしちゃってからあれ、これってちょっと悪口?と微かな疑念がよぎる。時すでに遅し。それを大前提として当たり前のように話はさっさと進んでいく。

「はっきりものが言えて、押し出しが強くてがつんと自分の主張ができる人が必要ってことだから。もう絶対タミ向きでしょ。だから、能力的には問題ない。でも、そうね。職場環境というか。ボスになる当人についてはいろんな要素を孕んでなくもない。…人によってはいろいろ気になるところがあるかも。どっちかというとそこだよね、要確認事項は」

「先輩の弟さん、って人、が?」

意味ありげな含みのある表現にちょっと引く。

「何なの、結構癖のある人物ってこと?性格が偏ってるとか。言動がおかしいとか?」

今までの職場で遭遇した問題ないとは言えない面々の顔がちらつく。また人間関係ですり減るのもつらいな。ましてや多分、その事務所では上司になるその人と二人きりなんだろうし。

奥野は笑って気軽に否定した。

「そんなこともない。まあ、ちょっとした癖がないこともないけど。性格的には穏やかって言っていいと思う。温厚だし頭だって悪くない。気弱で押しに弱いのがやっぱりトラブルの元ってことかな。…あと、これは業務内容にも関係してくるんだけど。あんまりあんたとこの手の話したことないけど。タミって心霊関係とか。どう思う?」

「はにゃ?」

真剣に聞きいっていたところ、唐突に話が明後日の方向に上滑りして面喰らう。霊、なに?ここで。

奥野はふざけた訳ではないらしく、真面目な顔つきで真っ向からわたしに重ねて畳みかけた。

「霊とかそういうの、存在信じられる?そういう話自体に対してアレルギーとかはない?霊感なんて別になくても大丈夫なんだけど。ただ、その手の話が出るだけで駄目とかだったらきついかも。極端な話、霊がいようがいまいがどっちでもよくても、信じてなんかなくてもいる前提で話合わせられれば仕事的にはOK。どうかな、それは?」

「いやまぁ…、それは。必要ならそのくらいは全然、合わせるけど」

戸惑いつつも頷く。要は上司に話合わせてその場は取り繕えればいいんでしょ?

奥野は重々しく肯定した。

「そう。つまり、そこで『わたしはそんなの信じられません』とかむきになって主張始めてもしょうがないからね。所長も相談者も、それは『ある』前提で成立してるから…。じゃあ、そこは大人の態度で割り切って周りに合わせてよ。それくらいはあんたでもできるでしょ。見えないものを『ある』振りで押し通すっていう」

わたしはちょっと苦虫を噛み潰しつつ首を捻った。

「うーん、まぁ。別にそりゃ、やるけどさそのくらいは。こっちは食い詰めてる訳だし。てか、つまり何なの。その人の特技って。心霊とかそういうのが絡んでるってこと?霊感商法?」

彼女はさすがに苦笑した。軽く頭を横に振って否定する。

「それだと最初から詐欺じゃん。そういうんでもない、所長と顧客の間ではちゃんと需要と供給が成立してる訳だから。…奴は幼少期から相当な霊感持ちなんだよ。それで口コミで頼ってくる相談者が引きも切らないってわけ。何てったってせっかく就職した会社も続けられなくなるくらい次々と人が押し寄せててさ。とにかく当人はいろんな問題があってそういうの、無碍にはできないんだよね。全然捌ききれてないし、もうひっちゃかめっちゃからしいから。管理して、交通整理する人間が必要なんだって。あんたなら無理なものは無理、ってきっぱり言えるから、絶対適任だよ。どう?とりあえず、面接受けてみる?」


「…以前から気になってたんですけど」

本人の自宅兼用のマンションに事務所の看板を掲げた若き所長、増渕悠。名刺をもらったのでフルネームはわかった。しかしそれにしても目線がなかなか合わない。わたしの履歴書に完全にロックオンしっ放しでずっと俯いたままだ。もしかしてすごい人見知り?それで顧客の管理や事務所運営が上手くいかないってことなのかな。

でもその割に結構話す。目線はこっちに向けないけど話を止めるって気配でもない。意外にはっきりした声でわたしに問いかけてきた。

「タミルさんって名前。結構珍しいですけど、なんかそっちに縁があるんですか?インド南部とかスリランカとか。タミル族とかタミル語とかありますよね?古くは文明も栄えてて」

「あーそれですね。…たまに言われるんですけど」

わたしは憮然として腕を組んだ。面接受けてる身で態度でかい。行儀悪いな、と思うんだけど。この話題は苦手だ。

「もしかして、そちらから来た方の血を引いてる、とか。ご家族のルーツがそっちとか」

重ねて尋ねられ思わず首を縮める。

「全然です。もう丸っきり日本国内で完結してます、両親ともども。ハーフでもクォーターでも何でもないですね。わたしも長じてどうしてこの名前にしたのよ、って真っ向から訊いてみたんすけど」

ぼそぼそと弁解するように続ける。本当に新しい場所に行くたびこれをいちいち説明するのが面倒だ。子どもに理由もなく突飛な名前なんかつけるもんじゃない。

「なんか、うちの親はあんまり深い意図もなかったみたいで。『タミルちゃん』って可愛くない?くらいの乗りだったみたいです。それで、らしい漢字を探してきて当てて。せめて一応どういう意味の言葉かは調べるくらいすればいいのに。…小学校に入って自分の名前の由来を親に聞いてくるって宿題があるじゃないですか」

「ああ、ありますね。どこの学校でもあるんだ、やっぱり」

彼は初めて象のような優しさの滲む目を和らげて笑った。相槌に力を得てそのまま続ける。

「その時に、『タミル』ってどういう意味?って訊いたら、さぁ?って。なんか、可愛いでしょ、ってあっけらかんと言われて…。その時はとにかく漢字の意味を苦心惨憺並べ立ててしのいだんですけど。それにしても完全に当て字だから…。たくさんの美しさが流れるってどういう意味だよ!って結構毒づきましたね。しどろもどろに何とか発表したと思うけど、何言ったかもう覚えてない。あの宿題、何の意味があるんすかね。余計なお世話と思うけど」

話しながら唐突に思い出した。その時、あまりにも内容が薄いので、母が言った

「他に似た名前の子が周りにいないように珍しい名前を考えたのよ」

って台詞を付け加えて発表すると、いつも優しくにこにこしている担任の女の先生が、急に顔を強張らせて

「名前が珍しいとか他に似たものがないとかは、先生は重要なことだとは思いません」

と何故かきっぱりその場でみんなの前でわたしの言葉を即座に否定したのだが。あれはどういうことだったんだろう。

自分のお子さんの名前が例年名付けランキング一位の常連だったとか。それとも単にキラキラネーム撲滅派だったのかな。そりゃ、わたしの名前は今で言うキラキラってジャンルに分類されるのかもしれないけど。

でもわたしが自分でつけた訳じゃないし。子どもの立場からしても親の呑気な名付け方法にしょうがないなぁと思わないでもないけど。生まれて何年か生きてそれなりに馴染んでるし、親だって彼らなりに考えて張り切ってつけたものなんだろうから。あんな風に公衆の面前で全否定するくらいなら最初からあんな宿題、出さなければいいのに。と今更ながら不意に割り切れない思いを抱くわたしなのだった。十歳の子どもにはその場でなんの反応もできなかったから。

「…なるほど。僕はてっきり、そちらの地域の血がどこかで入ってる方なのかと。勝手にずっと思い込んでました」

彼の感心するような声の相槌に我に返る。ずっと?

「いえいえ…、全然。日本人の血筋だけですね。だって普通にジャパニーズな顔でしょ。髪も目も黒いし」

「よく知らないですけど。インド南方なら髪も目も黒いかも。すごくくっきりした印象的な目だから…。別にそれでもおかしくないな、と」

彼は顔を上げてまっすぐわたしを見た。そう言う当人の方は人の良さそうな、としか言いようのない穏やかな顔つき。目鼻立ちもぼんやりと柔和でお世辞にもインパクトがあるとは言い難い。真剣に目に焼き付けないと別の日に外で出くわしてもわからないかも。

てか。…改めて目を細めその顔をまじまじと観察する。わたし、この人のこと、知らないはず。…だよね?

さっきからずっと引っかかっていたことを思いきって口にする。

「あの、何となく、なんですけど。…何処かで既にお会いしてますか?もしかしたらわたし、うっかり記憶が飛んでるとか。だとしたら申し訳ないんですけど」

一応上司になるかもしれない相手なので失礼にならないよう気を遣いつつ探りを入れてみる。彼は少し慌てたように取りなす笑みを浮かべた。

「いえあの。僕の方は、あなたのこと知ってるんですけど。…赤崎さんは全然こっちを知らなくても不思議じゃないです。あまりお気になさらないで。…高校が一緒なんです。僕が赤崎さんの一年下で」

「へ」

ぽかんと彼を見返す。そう、だっけ?偶然?奥野はそんな話、してたっけ。確か大学のサークルの先輩の弟、って…。

そこまで考えて思い当たる。わたしと彼女は高校の同級生だ。大学は別れたが。こっちは外部の学校を受験して出ていった口だけど、奥野の方は高校が付属してた大学へ内部進学した。割とこじんまりして上品な、卒業後も同窓生同士の交流が密なことで有名な大学だ。わたしの方はもうちょっと大雑把でいろんな人が集まる、がちゃがちゃした環境の方が性に合うなと勝手に思って外へ出たんだけど。

「ああ…、もしかして、あなたも内部進学で大学へ?奥野やあなたのお姉さんがそうなら、増渕さん本人もそうでもおかしくない…、か」

奥野の口ぶりでは増渕氏本人とは自分も大学で少し面識があった、みたいな表現だったけど。あそこの大学に行ってたんなら付属から上がっててもおかしくない。割に居心地がいいのか、高校からそのまま進学する人の比率は高い。

案の定彼は生真面目な表情で頷いた。

「そうです。奥野さんと知り合ったのは大学に行ってからですけど。姉と仲がよくて、家に来たりとかもあったから、それで顔見知りに…。高校の時はお互いに存在を知らなくて。でも、赤崎さんのことは当時から知ってました、僕は。こっちが一方的になんですけど」

「う?そうですか」

何でだ?と訊くのも怖い気がするけど。

彼は涼やかな目をこちらに向けた。

「あなたは目立ってましたし。僕らの学年の連中も殆ど、赤崎さんのことは認識してたんじゃないかな。普通に有名でしたよ。…それに、生徒会メンバーだったじゃないですか、確か」

「ああ。まあ、書記だったけどね」

わたしは素直に頷いた。

「出る人がいないから、名前だけでいいからって泣きつかれてさ。高校の生徒会なんかそんなもんでしょ。みんなやりたがらない雑用だよね。まぁ、実際に選挙で通っちゃうと名前だけなんてその場の口約束で結局普通に仕事するしかないんだけど。…そう言えば、そんなんやってたなぁ」

ちょっと感慨深く思い出す。成り行きでしょうがないとは言え、我ながらよく引き受けたもんだ。当時はまだわたしもフットワーク軽いというか、小まめだったんだな。しかし、そうか。だったらこっちが覚えてない後輩に記憶されてても別におかしくはないのか。しつこいようだが高校の生徒会なんか本当に引き受け手の宛てにも困る雑用、縁の下の力持ちで華やかさなんかかけらもない代物だったけど。

増渕弟は落ち着いた声で淡々と続けた。

「だから、今回奥野さんから紹介されて名前聞いた時ああ、とすぐわかって。奥野さんが赤崎さんと友達だってことも知らなかったですから。彼女とは高校時代はお互い面識なかったし」

「なるほど」

わたしも頷いた。それで、向こうもこの人の高校時代については言及しなかったんだな。同じ高校の卒業生だってことは知ってたとしても、本人の認識としては大学時代の知り合いのカテゴリーに分類されてる確率が高い。

「それで。本題と言いますか。うちの仕事内容なんですけど…。奥野さんから少しは伺ってますか?」

不意に改まった声でてきぱきした話し方になる。ちょっとだけ所長らしい雰囲気を感じて思わず居住まいを正した。

「あ、はぁ。…なんか、奥歯にものの挟まったような物言いだったんですけど。行って直接話聞けばわかるって…。何だかスピリチュアル系みたいな。目に見えないものを相手にするっていうか」

要領を得ないのでちょっと自信なくごもごもすると、彼はおもむろに頷いた。

「まあ、スピリチュアルなんて格好いいもんじゃないですけど。一般的に言うとあるのかないのかあやふやなものを扱ってることは確かですね。別に赤崎さんがそれを信じる必要とかは特にないんですけど。いらっしゃるクライアントの方たちは真剣に信じてらっしゃる人が殆どですから。その人たちの前ではあまり無碍に否定しないよう、それだけ気をつけて頂ければ」

そこまで話したところで玄関チャイムがやや切羽詰まった感じに鳴り、わたしは不意を突かれて椅子の上で跳ねた。一回で終わらず反応を促すように何回も立て続けに鳴らされる感じがちょっと不穏だ。尤も当の増渕弟は静かに立ち上がり、平然とした様子でインターフォンの受話器を耳に当てた。どうやらこういう調子の呼び出しには慣れてる空気がある。

「…はい。…あ、片瀬様。…わかりますよ、勿論。今日はご予約頂いてましたか?…いえ、構いませんよ。大丈夫です。お気になさらず。…少々お待ち下さい」

受話器の向こうでせかせかとした、ややヒステリックな女性の声が微かに聞こえるような。全く動じずおっとりと請け合った増渕弟は受話器を置き、泰然とわたしの方を振り向いて声をかけた。

「ちょうどよかった。いつもいらっしゃってるクライアントの方が見えてます。どういうことをするのか、見学してもらうのがいいかも。口で説明するより百聞に如かずでしょう」

目に見えないものなのに?

と突っ込みをするのは控え、ただ頷いてソファから腰を浮かして彼が顧客の方を迎え入れるのを待つ。まだ採用も本決まりでないバイトの助手が、応接セットにどっかり座ってふんぞり返ってお客様をお迎えするのもどうかと(尤もこんな常識的な考えもそういつまでも保たなかったが、結局)。何かしきりに大きな声で言い募りながら増渕氏の先に立ってリビングに入ってきた顧客はわたしを見て不意に顔を強張らせ、固まった。

「…誰なの?この人」

その口調に漠然と違和感を感じる。三十代半ば過ぎと思しき女性。リラックスした緩めの服装、でもなかなかの美人。主婦か、何かフリーの仕事かな?接客業とか。こんな平日の午後だし。しかしその可愛らしいと言って差し支えない顔立ちに関わらず、まっすぐわたしに向けられたその目にはどういう訳かだいぶ険がある。

増渕氏はそういう口の利き方には慣れてるのか、あまり気にする風もなく落ち着いて説明した。

「今度新しく来てくれる助手の方です。今ちょうど面接してたところなんですよ。いや、僕もどうにもだらしなくて。なかなか事務処理や細々したところまで行き届かないんで…。あの、それで。この後なんですけど。彼女にも立ち会ってもらってもいいですか?そこでのことは絶対に他言しませんし、途中で口を挟むこともないようにしますから…。ただ、どういう依頼を受けてるのか一度今後の勉強のために見せて頂くのはどうでしょう。…無理ですか?」

彼女はきっぱりと顔を上げ、正面から彼に向き合った。何故か強い調子で言い放つ。

「絶対駄目。今日は…、悠さんと二人きりで呼び出せると思ってたのに。ていうか、その人には帰ってもらって。別に今日はまだ仕事始まってるって訳じゃないんでしょう?研修なら他の日にしてもらってよ」

増渕弟はさすがに弱った声を出した。

「いえあの。…まだ、面接の途中で。話も終わってないから、仕事の説明とか待遇とか。じゃあ、こっちの部屋で待ってもらいますから。片瀬さんは僕と一緒にそちらの部屋に行きましょう。お話はそこでお伺いしますから」

彼女はじり、と彼ににじり寄り、額が触れそうなほど接近した。わたしの方なんか目もくれず、増渕弟だけをじっと見据えてきっぱり断言する。

「いや。ドア一枚隔てたこっちで聞き耳立てられてたら、落ち着かないもん。…大体、終わるまで待たれても困るわ。どれくらい時間かかるかだってわかんないのに。…わたしとじっくり時間取ってくれるんでしょう?いつもそうしてるじゃない、二人きりで…」

わたしは唖然としつつどこか甘さを滲ませたその声を聞いていた。

何なのこれ。心霊絡みの依頼を受ける、って聞いてた筈だけど。自分のひと回り以上歳上の女性の怒涛の押しを当然のように受け止めていなすような無難な笑みを浮かべてる彼は、こんな言動には慣れっこって様子だ。霊能者、っていうより。…カウンセラー?いやむしろ、ホストとか?

増渕弟はそれでも若干困惑の色を滲ませながらわたしの方に目を向けた。

「すみません、赤崎さん。ちょっと、今日のところはこれで。…お待たせしても何ですし、今からどれくらいで終わるとも…。今後のことについては後ほどすぐご連絡しますので。それで、よろしいですか?」

「はぁ。…まあ」

殆ど彼の胸元に縋る勢いの彼女がわたしを見遣って、勝ち誇ったように目を細めた。何なんだ一体。

わたしが釈然としない表情で立ち上がると、ぴったりくっついたカップルが戸口まで連れ立って送り出してくれる。増渕弟はさすがに申し訳なさそうにクライアントをしがみつかせたまま頭を下げた。

「ばたばたしたところをお見せしてすみません。終わりましたらなるべく早くご連絡入れます。…明日から大丈夫ですか?その時にいろいろご説明します、改めて」

てことはこれ、採用決定なのか。業務内容の説明もなにも受けてないのに。彼の胸にくっついて勝ち誇った笑みを向けてる『クライアント』に何とも言えない違和感を覚えつつ曖昧に頷く。…大丈夫、この職場?

玄関から押し出されるように出たわたしの背中を掠めるようにバタン、と音を立ててドアが閉まった。かち、と中から施錠された音が響く。何故か甘えるような女の笑い声がドア越しに聞こえてきた。

…ちょっと、これ。本当にここに勤めるんで、選択としては間違ってないのかな…?


『就職決定おめでとう。明日から頑張ってね』

そんなLINEが奥野から送信されてることに気づきちょっと顔を顰めた。本決まりって決めつけてるな。まだ面談から帰って家に着いたばかりなのに。増渕弟からだって連絡もらってもいない。

今頃はあのクライアントと二人きりで一体何してるんだか知らないが。

『採用決まったって何でわかるの。それに、飛び入りでお客さんが来て面談途中で帰されちゃって。細かい説明結局なんも受けられなかったよ。このままあそこで仕事して大丈夫なのかどうかちょっとわからない』

そう返信すると、しばらくして通話のコールが鳴った。慌てて画面に目を走らせると、増渕某でなく奥野の名前が。…なんだ。

少し拍子抜けしつつ通話をタップする。時間を確認するとまだ午後三時過ぎ。普通の会社勤めの彼女はまだ仕事中のはずだけど。

『よ。…その様子だといろいろ戸惑ってるのかなと思ってさ。こっちからもフォローした方がいいのかなって』

案外親切な奴だ。わたしは感謝しながらも一応尋ねる。

「今まだ勤務中でしょ?大丈夫、こんな電話してて?」

『へーき。出先から帰社する途中だから。このくらいの話は…、で、どう。本人は特に問題ないでしょ?あんまり変な癖もないし』

「そう思ってたんだけど、途中までは」

思わず眉根に皺が寄る。客観的にいってこれってどうなんだろ、って常識がつい揺らぎそうになり、奥野に向かってさっきの状況をぼそぼそと説明した。色っぽい人妻みたいなのが突然押しかけて来て追い出された、って訴えたところで苦笑いを押し殺した声が耳に伝わる。

『うん、そういうところだよね。本人は困ってるんだかないんだか暖簾に腕押しなんだけど。とにかく顧客管理ができない奴らしいんだよ。今日のそれだってさ。いきなり訪ねてきたのをそのまま受けちゃうんでしょ?一応予約制になってる筈なんだけど。昼間だけに限らず夜間にもがんがん電話かかってくるし、突然押しかけて来る客もいたりとか。それをまた、昼夜問わずそのまま受けるから。もう全然休む暇もなくて、家族も心配してるらしいんだよね』

「うぇ」

わたしは喉の奥から変な声を出した。そうか。イレギュラーな突発的出来事と思ってたけど。あれってデフォルトだったのか。

『そうすると顧客の方もそういうもんだと思って、当然のようにいつでも自分の都合のいい時に押しかけて来るし。だから、ちゃんと予約を入れてない時は駄目、ってきっぱり断れる人が必要なんだって。本人に任せてるとなあなあになっちゃうから。まあ言うなればマネージャーみたいなもんだね。そういうの、できるでしょ、タミなら?」

「全然できるよそんなの」

わたしは憤然と答えた。

「てか、別に理不尽なことをしろって言われる訳じゃなし。普通じゃん、ちゃんと事前に連絡入れて予約を取ってから来てくださいなんて。勝手に押しかけていけばいつでも対応してもらえるって前例作ったりしたらもう収拾つかないよ。なんでそんなん受けちゃうのかね、あの人?」

奥野は電話の向こうで曖昧な声を出した、ようだ。

『まぁ、そういう性格だから。でも、採用は決まりでしょ?てか、あんたが嫌ってんじゃなければそのまま決定だからさ。悪い話じゃないよ、顧客も全員が全員癖があるって訳じゃないだろうし。何より所長本人がちょろいからね。うるさいことも言ってこないし、いくらでも自分のやりたいように仕事進められるからさ。待遇だって自分で決められるから、バイトとかパートなんて言わずにさっさと正社員になっといた方がいいよ。辞めるのはいつでもできるし。こんなに思うようにできる好条件の職場、多分そうそうないよ?』

笑い含みに言われてちょっと頭が混乱する。自分の思うように何でもできる職場…、って。どういうこと?

「何でそんな断言できるの?増渕さんだっていろいろ考えや意思があるでしょ。それに反したことしようとしてもさすがに反撥されると思うけど。いや正社員なんか必要ないから、ってきっぱり言われたら終わりじゃん」

予約管理して顧客が押し寄せないよう交通整理する。それって別にパートでも…、いやどうかな。わたしはスマホを顔に寄せたまま上目遣いに思案する。夜となく昼となく押しかけてくる色気たっぷりのクライアントたちを堰き止める方法か。普通に想像するより案外難物かも…。

わたしの脳内の算段に構わず奥野は自信に満ちた口振りであっさりと言ってのけた。

『いや絶対大丈夫。あんたの思うように何とでも采配できる筈だよ。だって、あれは絶対に断らない男だから。誰が相手でもどんな条件でも。基本的には余程のことがない限り言われるままに何でも引き受ける奴だからさ。…だからあんなことになってる訳だよ。あんたが自分の待遇も給料も、全部思うままに決めてもおそらく何も言わないと思うよ』


《続》


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