その男、聖夜を駆ける
それから俺と田中はパーク内を連れ立って逍遥した。とある急転直下型のアトラクションで冷や水を頭から被るハメになったり、ちょっとした劇場でおっかなびっくりなショーを鑑賞したりしているうちに、気が付けば夕刻になっていた。辺りは薄暗くなり、夜の気配が其処彼処に充満している。
俺たちは今、古城のような建物が見える広場の隅のほうにある石段に腰を下ろしている。当の田中は自分が病身であることを忘れているのか、先ほどショップで買った白のトリミングのある赤いナイトキャップを頭から被っており、黒い炭酸飲料の入ったペットボトルを片手にすっかりエンジョイモードである。
国や宗派によりけりかもしれないが、本来この帽子を被っている人物は長い白髭を蓄えた恰幅の良い好々爺であり、田中のような破廉恥漢がその帽子を被るのは少々荷が重い。彼の老人の髭は清く立派な印象を受けるが、一方の田中の髭はジョリジョリの紙ヤスリであり、頬擦りをしようものなら瞬く間に鮮血が飛ぶだろう。彼の老人のモデルとされている人物もかつては同じ赤ん坊だったはずである。片や聖人、片や破廉恥漢。何が両者の明暗をここまで分けたのか、甚だ疑問でならない。
そんな俺の心中を他所に、田中は炭酸由来のゲップを盛大にかまし、頬を少し上気させながら古城の方を眺めている。おそらくまだ熱があるのだろう。どことなく呼気が荒い。どう見積もってもぶり返してぶっ倒れるパターンだ。後になって泣きついてきても俺は助けてやらない。
「さて、そろそろ”赤い糸”を刈りに行くか」
何やら物騒なことを言いながら田中は立ち上がり、臀部に付いた砂埃を手で払う。
田中いわく、赤い糸というのはカップルの間に繋がっている見えない糸のことで、彼らがカップルである限り必ず存在するのだという。それを惜しみない想像力と底無しの嫉妬と曇り無き眼で可視化し、彼らの間を通り抜けることによって断ち切るらしい。全くもって意味が分からない。
仮に切ったところでカップル解散に繋がるはずもなく、実に無益な営みである。しかし、先ほど最後まで見届けると言ってしまった手前、付き合うほかないのが口惜しい。このまま彼をここに打ち捨てて帰途に着くのも手だろう。だがそれはしない。この際認めよう。俺も田中に負けず劣らずの血潮滾る熱い漢なのだ。故に二言はあってはならない。
「注意点は一つだけ。手を繋いでいないカップルの糸を狙うのだ。手を繋いでいるカップルの間を無理矢理通ってみろ。最悪、ケガを負わせてしまうかもしれない。これは論外だ。いいか、カップルというものは往々にして手を繋ぐ生き物だ。ましてや今日のような日に手を繋がないカップルはカップルとは呼べない。付け入る余地がある。そこを断て」
童貞的観点からの一方的な言い分だ。しかし俺も田中と似たような境遇なので少しだけ、ほんの少しだけだが同じく童貞的観点を持つ者として納得し、胸を踊らせてしまっている。やっかみもあるのだろう。無性に悔しい。
「遅れを取るなよ」
田中が不敵に笑う。
斯くして、運命の赤い糸寸断作戦の火蓋が切って落とされた。
◇
通りに出るや否や田中は韋駄天の如く駆けていったので、あっという間に彼我の差が広がってしまった。辺りはすっかり暗くなっていた。通りの脇には街路樹が何本も生えており、どれも眩く光る電飾付きのコードで見るも無惨にぐるぐる巻きにされている。
田中は昼間に見せた臆病風などどこ吹く風といった手合いで尚も速度を上げる。俺も負けじと追い縋るが、さすがは田中。鴨川べりの等間隔カップルの間を颯爽と波縫いで走破しただけあって走力は中々のものだ。しかし、こちらとて意地がある。父親譲りのバイタルと母親譲りの機動性と祖父譲りの気骨と祖母譲りの包容力を以てして彼奴に追いつけないようではご先祖様に顔向けできない。
「艱難辛苦、何するものぞ」
俺はスタートダッシュの遅れを取り戻すためにギアを上げ、なんとか田中の数歩後ろに付いた。一方の田中はと言うとどうやら獲物を見つけたようで、俺が追い縋っているのを気にも留めず、近くのカップルに狙いを定めると一目散に間を走り抜けた。
「ちょっきん」
薄い時間の細切れの中で、あいつは確かにそうごちた。一陣の風が吹き抜ける。
しかし、一方の俺はというと、件の糸など全く見えていなかったーーそもそもありはしないのだが。あいつには見えているのだろうか。田中は次の標的を見つけたようで、早速刈り取るべくギアを上げる。
ダメだ、追いつけない。
俺は必死にもがくが、相変わらず糸は見えず、ただただ焦りだけが募っていく。気が付けば俺は立ち止まっていた。
俺に何が足りないと言うのか。信念か。矜持か。それとも覚悟か。否、そのどれでもない。田中は言った。惜しみない想像力と底無しの嫉妬と曇り無き眼を以て見出せと。自分で言うのもなんだが想像力に関しては、俺は誰にも負けないつもりだ。一家言あると言っても過言ではない。では嫉妬の心はどうだろうか。俺にはまだ嫉妬が足りないというのだろうか。曇り無き眼に関してはもはや意味が分からない。
少し離れたところにカップルがいるのが見えた。彼らは電飾に塗れた景色を眺め、時折顔を綻ばせながら睦言を交わしている。
彼らはこの後どこへ向かうのだろうか。パークを出て、ホテルにチェックインし、しかるのちにプレゼント交換。そしてシャワーで身を清めそのままベッドインするのか。
それともどちらかの家に直行して手作り料理やケーキやファーストフード店で買ったジューシーなチキンなどを頬張ってシャワーを浴びてキスしてベッドインして朝までオールナイトでギシアンギシアンするのか。
一方の俺はというと、この世全ての愛の眩しさに目を焼かれ、夜通し怨嗟の呪詛を紡ぎ出しながら疑心暗鬼疑心暗鬼するわけだ。
しかし、それはそれでいいのかもしれない。俺のような卑小な人間が誰かの人生の片棒を担ぐのはおこがましいのではないか。例えば結婚して子どもができたとする。しかし妻と子どもと向き合うことが出来ず、その結果妻の尻に敷かれ、子どもにクソ親父と罵られ、それでもなお汗水垂らして稼いだお金を妻や子どもに捧げることが俺にできるだろうか。まあそれもよっぽどのケースだろう。すぐに悲観的に物事を捉えてしまうのは俺の悪い癖だ。しかし、自分の時間が限りなく削られ、趣味の時間も惰眠を貪る時間も削られてなお伴侶や子のために腐心し、寄り添うことが俺にできるだろうか。今の俺には無理だ。自信が無い。誰かに寄り添うということは自分一人の時間を割き、捧げるということだ。そのリスクを負ってでも守りたいものが今の俺にはあるだろうか。これもまた自信がない。
彼らはそれを承知の上で仲睦まじくしているのだろうか。あるいはそんな未来のことはさておいて、取りあえず今を全力で楽しんでいるのかもしれない。まあ、大体はそんな感じなのだろう。彼らは己の時間を割き、資財を投じて今という時間を誰かと共有し、謳歌している。おそらくそれは付き合う付き合わないに関わらず、世を渡って行く上で必要な姿勢なのかもしれない。いきなり結婚を想定してしまう辺り俺もまだまだ未熟と言える。そもそも、俺は童貞だ。
人は一人では生きていけない。おそらくそれは真実なのだろう。しかし、孤独な時間もまた生きていく上で必要なものなのだと俺は信じている。今はただ、それが少し、ほんの少しだけ偏っているだけだ。
俺は今まで裏切りながら生きてきた。期待の包囲網を悉く一蹴し、打つべき布石を矢継ぎ早に打ち損じた挙句に完膚無きまで打ちのめされ意気消沈。幾度となく撤退を余儀無くされた。しかし、このままでは終われない。怠惰にかまけたのならば、どこかで挽回を期して奮起せねばならない。さもなくば野たれ死ぬより他に道は無し。とにかく時間が必要だ。焦る必要など無い。
だから、今はただ自分のために生きよう。
「生息子万歳!」
はははは。
気が付けば俺は笑っていた。くつくつと、腹の底から笑いがこみ上げる。今まで俺を縛り付けていた我執がベリベリと剥がれ落ちていくような心地がした。今までの俺は自分本位な欲求を一方的に満たそうとしていただけなのかもしれない。これからは異性に無謀な特攻はしかけない。ひたすら待つ。棚牡丹式に準じて天命を待つのみ。敢えて人事は尽くさない!
その時、前を通りかかる男女の二人組の間に赤くて細い何かが揺らめいているのが目に入った。間違いない。あれこそが運命の赤い糸だ。
次の瞬間、俺は走り出していた。骨が、肉が、赤い血潮が一瞬で沸き立つような感覚に陥り、束の間ではあるが全能感に支配される。
「ズバッ」
俺は馬車馬の如く彼らの間を走り抜け、赤い糸を断ち切った。
「吹っ切れたようだな」
いつの間にか田中が俺の横を並走していた。
「見ていたのか」
「まあな」
田中はふっと一笑し、何の意図があるのかはイマイチ分からないが頷いてみせた。
「夜は長いぞ」
「分かってる」
「一人で走れるか?」
「当たり前だ」
それは重畳と、田中は大きく口を開けて呵々大笑する。
「行くぞ」
田中の言葉を合図に俺たちは疾走した。田中が切り、俺が切る。俺が切り、田中が切る。俺たちは燦然と輝く街路に蠢く雑踏の中を縫うように駆け、バッタバッタと赤い糸を切り捨てた。
「愉快だな!」
ちょきん。
「全くだ!」
ズバッ。
見上げるは死屍累々、難攻不落、前人未到の最極地。今の俺たちならどこまでも行ける気がした。
しかし、そんなひと時は唐突に終わりを告げた。
「ゴホッ、カハッ!」
田中の咳が止まらなくなったのである。次第に走行速度が落ちていき、とうとう田中は立ち止まり、膝を突いてしまった。
俺は嫌な予感を覚え、走るのを止めて恐る恐る彼に近づく。
「おい、まさか……」
「ああ、どうやらここまでのようだ」
田中は気息奄々の様子で、自慢の大きな体はガタガタと胴震いしている。もはや目の焦点は定まっておらず、今にも眠ってしまいそうな勢いだ。
「おい、こんなところで寝たら死ぬぞ」
「はっ、雪山じゃあるまいし」
田中の体がぐらりとバランスを崩す。俺は慌てて彼を抱きとめ、大きな額に手を当てる。酷い熱だ。
辺りは相変わらずの喧噪で、道行く人々が俺たちを避けて前へ前へと自分の道を歩いていく。心配そうな顔をして俺たちの方を見る人もいたが、やがて皆自分の道へと戻っていった。
「今夜は冷えるなあ」
田中は消え入りそうな声で呟いた。吐く息はいつにも増して白く見え、まるで彼の魂が抜け出ていってしまうような心地がして途端に不安が胸を埋め尽くす。
「もういい、もう喋るな!」
周囲のイルミネーションが明滅し、どこからか軽快なメロディが流れてくる。
やがて一通り演奏が終わると、背後に聳える巨大なもみの木のてっぺんに鎮座する星形の光源が一層眩く輝いた。
田中は孤独に輝く星を見上げ、目を細める。
「メリークリスマス」
その言葉を最後に、俺たちの聖夜は幕を閉じた。