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鈍色キャロル  作者: 太郎
3/5

その男、恥を忍ばず

 一通り遠心力にブルンブルンと揺さぶられた後、田中はトイレに駆け込んで行った。あの病身であの刺激だ。こみ上げる嘔吐感に我慢ならなくなったのだろう。清掃員や他の利用者にしてみればいい迷惑だが、そのへんはあいつも上手くやるだろう。無闇に便器を汚すようなことはしないはずだ。もっとも、俺はここであいつを止め、連れて帰るべきなのだろうが、ここに来たのも俺を連れてきたのも全てはあいつの意思なのだ。多少流されてしまった感があるのは否めないが、俺はあいつの意思を尊重してやりたい。あいつの覚悟を道半ばで断念させてしまうのは野暮というものだ。何よりも落ちぶれていくあいつを拝むのは中々興がそそる。

 十分ほど経ってようやく田中がトイレから出てきた。足下が覚束ない様子で、げっそりとした面持ちでフラフラ歩いてくる。


「大丈夫か?」


「ああ、すまない。ちょっと楽になった。」


「それは何より」


「少し腹が減った。時間も時間だしメシにしよう」


 なるほど、近くのアナログ屋外時計は十二時半あたりを示している。というか、リバースしたてなのによく食べようなんて思えるな。


「無理はするなよ」


「案ずるな。俺は昔から風邪は食べて治してきた」


「とんだ傑物だよ、お前は」


 ぶらぶらと歩いていると、少し開けたところに巨大なサメがぶら下げられているのが目に入った。近くにある湾を模した池の水面に陽光が反射し、サメをゆらゆらと照らしている。


「あれはなんだろう」


俺が言うと田中はしたり顔で口を開いた。


「映画かなんかのワンシーンを再現したものだろう。昔見た映画にあんなシーンがあったな。もしかして見たことないのか。それは流石にダサい。あれしきは一般教養だぞ」


「なにぶん寡聞なもので」


とはいえ、すごく腹の立つ物言いだ。そんな俺の心の機微を捉えたのか、田中は慌てて提案をしてくる。


「そ、そうだ、そこの店で昼食を摂ろう。怒りに身を任せるのは精神衛生上、非常によろしくない。可哀想に。お腹を空かせているんだな、よしよし」


 そう言うと、田中はアメリカンテイストな趣を醸し出している木造っぽい店の中へと逃げるように入って行った。

 呆れながら店内に入ると、中は外見に劣らずアメリカンな装いで、つり下げられたシーリングファンが静かに回転していた。俺たちは空いている木製の椅子席に腰掛けてメニューを開き、少し逡巡した後に揃ってハンバーガーを頼んだ。普段からよくハンバーガーを食べているのでここまで来てわざわざハンバーガーというのも些か味気無いような気もするが、なかなか立派な店構えなので淡い期待を押しとどめることが出来ず、結局無難とも挑戦的とも取れる決断を余儀なくされたのである。

 出てきたハンバーガーは少々値が張ったが、しかし、その味は期待を見事に上回る程の美味で、嬉しいことにボリュームもまた申し分の無いものだった。溢れる肉汁にシャキシャキレタス。フカフカのバンズに酸味の効いた輪切りトマト。何よりパンチの効いた特製ソース。ありきたりなようでいて新鮮な食感が俺たちのハンバーガー観を見事に払拭してしまった。今まで食べて来たのはなんだったんだ?

 結局、割高なジュースで何度も口直しをしながら貪るように最後まで味わい尽くした。





 ハンバーガーを完食した俺たちはすぐに店の外へ出た。俺は伸びをし、田中は鳩尾辺りに手を当て、今にも死にそうな顔をして地面を見つめている。その目はまるで地の底のマントルを見透かすようで、どこか虚ろだ。


「言わんこっちゃない。無理して食べるから」


「食べる前はいけると思ってたんだ、食べる前は」


「往々にしてそういうものだよ」


 俺は田中に肩を貸してぶらぶらとその辺を適当に歩き、偶然見つけたベンチに彼を座らせ、近くの自販機でこれまた割高な飲料水を購入して手渡してようやく腰を落ち着けた。


「悪いな。手間をかけさせて」


「いや、いい。ただ、一つだけ教えてくれないか」


「……分かった」


 観念したのか田中は居住まいを正し、真っ直ぐ俺を見据える。


「田中、お前は何故此処に来た。病体を引きずって、挙げ句俺を巻き込んで、”今日という日”にお前は何を為す?」


 途端に空気が張りつめる。田中は思案顔になり、やや黙考した後、ようやく重い口を開いた。


「俺は、青春の落とし所を探している」


「何だって?」


青春の落とし所。そのあまりにも馬鹿げた響きに思わず声が裏返ってしまった。


「俺はこの二年間、何一つ成し遂げていない。課題に追われ、バイトに追われ、飲み会に溺れ、愛を追い求めれば悉く逃げられる。ずっと追われ通しだ。自分から追えたものなど何一つ無い。入学当時の浮き足立った俺はどこに行った。薔薇色のキャンパスライフに焦がれ、胸を躍らせていた俺はどこに行ったのだ。気づけば自分でもよく分からないことに没頭している始末だ」


自覚はあったのか。


「このままではあっという間に残りの二年が過ぎてしまう。ましてや来年は将来に向けて色々と準備をしていかなくてはならない年だ。皆忙しくなる。おそらく俺も例外ではないだろう。悲しいことに猶予はあまりない。刻一刻とリミットは迫って来ている。しかし、このまま流されて、社会の仕組みに取り込まれて、本当にそれでいいのか。このままでは手放してはならない本願までをも見失ってしまう気がするのだ」


田中はうなだれる。


「時々、そういったふわふわした葛藤に苛まれては何もかもがどうしようもなく億劫になって堪らなくなる。お前なら分かるだろう?」


「それは……」


 そう言われて途端に心許なくなってしまう自分が情けない。田中の言い分には少なからず共感してしまう部分がある。おそらく俺と田中はよく似ている。正直、共感なんてしたくはない。同族嫌悪と言われてしまえばもはやそれまでだが、認めたくない自分がいる。


「それと今日此処へ来たことと、何か関係はあるのか?」


「それは分からない。が、何かを掴める気がするんだ。”今日という日”に此処へ、単身で此処へ乗り込めば。しかし、出来なかった。”今日という日”に一人でいることに怯臆し、結局たまたま出くわしたお前を連れて来てしまった。とんだ軟弱者だよ、俺は。風邪に当てられただけで途端に心細くなっちまったんだ。ゴホッ」


 一通り話し終えた田中は項垂れ、すっかり意気消沈してしまっている。

 危うい。それが俺の率直な感想だ。危うさってものはいつ何時姿を見せるか分からない。奴らは常に其処彼処に気配を充満させて、何時でも寝首をかくべく臨戦態勢で機を伺っているのだ。俺が彼に対して具体的にしてやれることはおそらく何も無い。何も無いが、このまますっかり小さくなってしまった彼を此処へ捨て置くのは些か良心に響く。


「田中、顔を上げろ」


 田中は緩慢に顔を上げ、虚ろな双眸をこちらに向けた。もはや持ち前の壮健さは見る影も無く、砂漠のど真ん中で佇むペンギンのような哀愁を放っていて、正直、正視に堪えない。


「お前が抱えているものは伴うべくして伴ったお前の惰性の結晶だ。少し落ち着いて周りを見渡せばいくらでも道はあったはずだ。しかし、お前はそうしなかった。変わることを恐れたんだ。現状に甘んじ、ひたすら道化に徹し続けた。違うか」


 自分でも驚いた。田中は謂わば悪友だ。天敵とも言える。彼は決まって重要な局面で、ありとあらゆる誘惑の種を惜しみなく振り撒き、言葉巧みにこちらを籠絡しにかかる台風の目のような存在だ。おかげで前期試験では酷い目にあった。まあ、彼の甘言に翻弄されてしまう俺も俺だが。

 しかし、俺は今そんな彼を叱咤し、そして鼓舞しようとさえしている。俺は半ば自分に言い聞かせるように続ける。


「現実から目を背けるな、田中。今日ばかりはお前が為すことを最後まで見届けてやる。だから、立て!」


 しかしながら俺がやっていることと言えば病体をベンチに預けて休めている友人に鞭打って立たせようとしているぐらいのもので、客観的に見ればそれなりに鬼畜な所業と言えなくもない。しかし、なにぶんこの時の俺は熱かった。

 どうやら田中は俺の熱弁ぶりに意表を突かれたのか、呆気に取られている様子だ。もう一押し。


「ここだけの話だが」


 俺は周りを警戒するような素振りをして声を潜める。


「俺のサークルの菅原さんがお前のことを褒めていたぞ。男らしいってさ」


「なに!?」


 もちろん、これは嘘だ。菅原さんはそんなことを一言も言っていない。

 残念なことに田中には菅原さん本人にそれを確認する度胸も経験値も無い。せいぜい挙動不審になって菅原さんにチラチラと熱列視線を送るのが関の山で、あくまで希望的観測だが俺の企てが明るみに出ることは無いだろう。

 すまん、田中よ。そしてごめんなさい、菅原さん。

 その時、俺は確かに見た。田中の目の奥にゆらりと光が宿るのを。次の瞬間、田中は自分の両の頬を手のひらでパチンと景気よく打ち叩いた。


「頭隠さず尻隠さず」


 田中は悠々と立ち上がる。


「汚名挽回!名誉返上!」


 巨人は声高に吠えた。そして、近くをわしわしと歩いている鳩の群れの中心に勢いよく足を踏み入れる。

 バサバサバサッ。

 夥しい数の鳩が一斉に飛び立った。少々映画的な情景なのが何となく癇に触る。舞い上がる羽根と羽音にもみくちゃにされながら、田中は神妙な面持ちで言う。


「聞いてくれ。俺は今から恥を捨てる」


 その言葉のあまりの可笑しさに、俺は思わず吹き出してしまった。


「おい、田中」


 俺は彼の日頃の汚名に汚名を注ぐ活躍ぶりを思い出す。


「無いものを捨てても仕方がないだろう」

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