その男、阿呆につき
それは十二月も下旬に差し掛かり、寒さもいよいよ佳境に入ろうとしていた頃のこと。俺と田中は大学の一限目の授業に出席するために学校に向かって歩いていた。ところが途中で一緒に歩いていた田中が急に歩道の真ん中で腹を抑えて蹲ってしまった。顔面蒼白といった感じで、額に玉のような汗を滲ませながら苦悶の表情を浮かべている。俺は心配になり、田中のそばに駆け寄る。
「おい、どうした」
「いや、なんてことはないんだ。ちょっとお腹が、イテテテテ」
「風邪か? 病院に行くのなら送ってやろう」
「いや、悪い。一人で行く」
「親友がお腹を痛めて苦しんでいるっていうのに指を咥えて見送れというのか?」
心にもないことを言ってしまった。本当はただサボりたいだけだ。特に”今日みたいな日”は。
「お前......」
田中は目を潤ませながら、さながら捨てられた子犬の如くつぶらな双眸をこちらに向けている。今にも飛びついてきそうな勢いだ。しかしながら彼は巨漢とも言うべき体躯を有しており、また、頬擦りでもされようものなら一瞬でこちらの頬を削ぎ落としてしまいかねないほどの凶器とも言うべき無精髭を蓄えている。絵面は最悪だ。これが可憐で溌剌とした見目麗しき乙女だったならばどんなに良いことだろう。特に今日みたいな日は。
「寄るな」
そう告げると、田中はシュンと肩を落とす。
「すまん、俺としたことが、少し冷静さを欠いていた」
断っておくが田中はとても情熱的な男で、いわゆる熱血漢というやつなのだが、平素から色々と面倒くさい。彼の都市伝説を挙げれば枚挙に暇が無い。河原町のゲーセンのパンチングマシンで一位を取っただの、三条大橋の上で食べかけのチキンを掲げて鳶に食べさせただの、鴨川のほとりに佇む等間隔カップルの間をグネグネと蛇行して走り抜けただの、古本市でキャリーケースに納まりきらないほどの桃色図書を購入しただの、マイ哺乳瓶を持っていて、毎朝粉ミルクを飲んでいるだの、嘘か真か分からない噂話が跋扈している。しかし、それらを聞いた誰もが口を揃えて言うだろう。それらはおそらく事実だ、と。それほど彼の奇抜な所業は目に余る。興に任せて破竹の勢いで阿呆の道を邁進する彼はもはや手の付けようのない荒馬と化し、その猪突猛進、迷妄醜態ぶりには多くの者が絶句し忌避するばかりである。もっとも、そこが彼の唯一の美点であり、また、数ある汚点のうちの一つとも言えるのであるが、そんな彼の口からよもや冷静などといった言葉が飛び出てくるなど誰が予想できただろうか。
さて、治療費やらなんやらが必要だということでお金を下ろすために近くのコンビニに入ることにした。レジの方に目をやると、大量のチキンが所狭しと並べられている。田中は中のトイレで用を足した後、近くに置かれているATMの筐体にそそくさと歩み寄り、カードを差し入れ、暗証番号を手際よく押して万札を数枚取り出した。
「ただの風邪だろ、どうしてそんなに下ろす必要がある」
「万が一ってこともある。中学の頃にそれで手痛い目に合い、母親にお金をわざわざ持ってきてもらうという失態を犯したことがある。あれほど屈辱的だったことはない」
「思春期かよ」
田中は伏し目がちになり、当時のことを思い出しているのか、巨体をわなわなと震わせている。余程苦い経験だったに違いない。俺もかつては反骨精神旺盛な青臭い小僧の端くれであった。田中の当時の心境は理解できなくもない。多感極まる複雑怪奇なお年頃特有の葛藤がそこにはあったのだろう。
「いいか、たくさん持っておいて損はないんだ。地獄の沙汰も金次第というだろう。何事も先立つものが必要だ。お前も万が一のために下ろしておけ」
何がいいのかよく分からないし、万に一つも俺がお金を下ろす必要はないのだが、万に一つを見事に引き当ててしまうのが世の常というものである。今までそういった憂き目に何度も遭遇してきた。田中の言い分に一理もあるとは思えないが、この際仕方ない。乗りかかった泥船だ。ここは一肌脱ぐとしようじゃないか。
俺も田中に次いでピポパと番号を打ち、万を四枚、つまり、諭吉を四人ばかり召還した。
「さて、行こうか」
田中はニヤリと不気味な笑みを浮かべて店の外へと歩みを進める。俺もそれに続く。
「で、どこの病院に行くんだ?」
しばらく歩き、駅の近くに来たところで俺は確認のために質問を投げかけた。
「ああ、少し離れたところにあってな。おっ、電車が来てるぞ、走れ!」
田中が叫ぶのと同時に俺たちは慌てて地下へと続く階段のところまで走り、二段飛ばしで駆け下りた。
「おい、風邪は大丈夫なのか?」
「ちょっと、ハアハア、息が苦しい......」
そりゃそうだ。恥を知れ、田中。
猛ダッシュの末、俺たちは改札を抜け、なんとか電車に滑り込んだ。荒い呼吸をなんとか沈め、近くの手頃な空席に腰掛ける。
「一応聞いておくが、遠いのか?」
「まあな。ここから二時間ほど行ったところにある」
「それはまた随分とかかるな。そこでなければいけないのか?」
「そうだ」
有無を言わさぬ田中の返事に俺は呆れて閉口する。
「俺、やっぱり授業に出るわ」
「ここまで来て何言ってんだよ。うっ、ゴホッゴホッ」
どうやら先ほどの全力疾走が祟ってしまったらしい。
「分かった分かった。着いて行ってやるから、落ち着けよ」
「……恩に着る」
田中は安心したように頷くと、目を瞑って黙ってしまった。どうやら一眠りするつもりらしい。
俺は脱力し、座席にもう一度深く腰掛けた。いつの間にか電車は地下から地上へと出ていたようで、窓の外では何軒もの家々が過っては消え、過っては消えを繰り返している。
四国の片田舎から京都に出てきて二年が経とうとしている。それなりに充実はしている。適当なサークルに入り、友達もたくさん出来て、健やかな日々を過ごせていると自負している。しかし、些か健やかすぎる。周囲を見渡せば男。講義で隣り合うも男、一緒に昼食を食べる相手も男。とにかく男男男。俺の生活に明らかに欠けてしまっているものが一つ。つまり、俺の生活は灰色一色で、絶望的に華がない。
人は距離感が大事だと聞く。家族であれ恋人であれ、付かず離れずの関係が理想的で、あまり近づきすぎると、返って気疲れしてしまい円満な人間関係の構築に支障を来すらしい。しかし、俺はそんなものでは到底満足できない。ただただ人肌が恋しい。白状しよう。俺は付かず離れずのあやふやな関係よりも、組んず解れつの極めて甘美で直接的な関係を所望している。俺だって男子の端くれ。大いにイチャイチャしたい。
この二年で色々と策を弄してきたが、悉く見えない力ともいうべき運命力に一網打尽にされ、幾度となく乗り上げた暗礁の上で涙した。依然、俺は純潔を保っている。いっそこのまま後生大事に墓まで持って行くというのも興がそそらなくもない。その先に待ち受けているもの。それを確かめてみるのもまた一興、魔法使いになれるのならば本望だ。
何回か乗り継ぎを繰り返し、俺たちはとうとう目的の駅に辿り着いた。電車から下車し、階段を登り、改札を抜ける。駅名はなんだったっけ。確かユニバ、ユニ......
忘れてしまった。
入り口の前には幅の広い道が続いている。脇には大きめの建物がいくつもあり、レストランやコンビニなどが軒を連ねている。そのまま進んで行くと広場に出た。そこには背の高い独特のフォルムを持ったゲートがあり、それを抜けてすぐのところに鎮座する大きな地球儀が霧を吹きながらクルクルと回っていて、テーマパークめいた様相を呈している。というか、まごう事なき正真正銘のテーマパークだ。地球儀の周囲には大文字で「UNIVERSAL」と書かれている。初めて訪れる場所だが俺はここを知っている。つい最近テレビの特集を見たばかりだ。
「なあ、ここってもしかして」
「ああ、そうだ」
田中は不敵な笑みを浮かべ、わざとらしくゴホゴホと咳き込みながら続ける。
「着いたぞ、病院に」
どこかで聴いたことのある映画のファンファーレが勇ましく鳴り響いた。