Chapter:3 雨の街
弥刀矩はタツオに先に帰るように伝え、擦り切れたコートの前を留めると旧新宿区のごみごみした雑踏に足を向けた。路には忙しなく人々が往来しており、色とりどりに輝く電光看板にはいずれも中国語が表記されていた。核大戦以前この国は隣国の属国であったらしく、その影響が今なお根強く残っているのだという。
頭上に目を向ければ、こちらもネオンの光を放つ巨大な高層ビルが聳え立っている。今現在、この国の経済を牛耳るウェノド社の本社であり、日本復興の象徴とも呼ばれていた。
弥刀矩はポケットに両手を突っ込みながら、道角まで張り出した電光看板の群れを目で追った。『壳』の文字を探していると、ぱらぱらと雨が降り出した。雨はすぐに強さを増し、弥刀矩はたまらず近くのバーに寄ると、唯一つ空いていた座席に腰をおろした。安いセルエールを注文し、濡れた髪をまさぐりながら外に目をやる。雨足は薄汚れたガラスのドアを引っ切り無しに叩いており、複雑な水滴の模様を作り出していた。
「お前、殻の運び屋か」
隣に座っていた初老の男が、ふいに言った。
「そうだが」弥刀矩は運ばれてきたセルエールのグラスを口に運びながら頷いた。
「不思議に思わないか?」初老の男は続けた。「こんだけ、毎日毎日若者が殻に入れられて姿を消してるっていうのに、日本の人口は低下の兆しを見せない。どうしてだと思う」
「知っているのか?」
弥刀矩は身を乗り出した。
「五万」
間髪を入れずに、懐から電子クレジット端末を取り出して初老の男に渡した。男は自分の端末に弥刀矩のそれをスキャンし、50000クレジットきっかり入力した。現日本では政治的機構の代わりに経済体制が国の中枢となっており、金はデジタルデータという媒体のみで存在している。また国民籍を持っている者は財産の全てをこの端末1機で管理されている。
男は癖なのか鼻の横を掻くと、擦れ痰のからんだぼそぼそ声で話し始めた。
「昔、といっても数年前だが殻の養殖と管理、発行を執り行っている機関に所属していた。後のウェノド社だな」
「ウェノド社が?」
弥刀矩は驚いた。自分たちの雇い主は殻の悪用と情報漏洩を防ぐという目的で知らされていなかったのだ。
「小耳にはさんだ話だがな、殻から子供が生まれるらしい」
弥刀矩はごくりと唾を飲んだ。
殻の隙間から覗く胎児の姿が脳裏に浮かんだ。
「ウェノド社が産まれた子供を、こううまい具合に町に溶け込ませるらしい、そう聞いた」
「教えてくれ、一体何なんだ。殻って」
外では雨が降り続いている。
「駄目だこれ以上は話せねえ。そんなに知りたいってんなら、あそこを訪ねてみな」
男はガラスドアの向こう、刺すような雨に浮かぶウェノド社のビルを指差した。
「……わかった、ありがとう」
弥刀矩は決意を固めた。
産まれてこの方、自分の目の前にあったのは退廃的で濁ったこの風景だけだった。変えようという意志がなければ、何も変わらない。ただ見て見ぬふりをし続けてきた人生に、終止符を打つ時がきたのかもしれない。
弥刀矩はエールを飲み干すと、代金を払って店主から傘を借り、バーを出た。
雨は大地を溶かすほどに激しく降っていた。路に落ちた滴が弾けて飛び、道行く誰かの靴を濡らす。雨に烟る街に、電光看板の光が幻のごとくぼんやりと浮かんでいた。