第一種接近遭遇
「先輩、お先に失礼します」
夜も更けてきたな、と達也は思った。たった今もまた一人仕事を終えて帰っていったところだ。
お疲れ様、と半ば反射的に言葉を返し達也は眼鏡を外した。ボヤける視界の中、ポケットからハンカチを出してレンズを拭く。
疲れからか、達也はため息をついた。
今一度眼前のPCを睨む。画面には数字が踊っており、作りかけの資料の難航具合を物語っていた。点滅するカーソルがまるで急かしている様だと思った。
達也は口を笑みの形にゆがめて、入力を再開した。自嘲的であった。
時計を見ると21時過ぎであった。夜はこれからだ、まだまだやれると考えている辺り、一般的な感覚からは少しズレている。
「残業代が欲しい」
思わず呟くが聞く者はだれもいない。先ほど帰っていった後輩が達也の他に残っている者の最後だった。
達也とて他人より仕事が遅い訳ではない。むしろ他人よりもこなしている量は多いと言える。その理由は彼の仕事の仕方にあった。 昼間は外回りで営業活動を行い、会社に戻るのは18時過ぎ。同僚達が帰り支度を始める中で、残務処理や翌日の資料を作成しているためだ。
情報化の進んだ昨今とはいえ、達也の勤める中小企業規模ではそこまでインフラ構築に資金を投じていない。必然的に社内でしかこなせない仕事も増える。出先ではできない仕事を帰社後に行っているため、サービス残業も已む無しと考えている。
『人一倍やってようやく人並み』
達也が支えとする行動指針である。残業を自身に納得させるための理由付けとしても用いているのが仕様もないと思うが。むしろそうでないとやってられないと、達也はデータ入力を再開しながら考えた。
結局、達也が職場を出たのは日付が変わる直前であった。それすらも終電があるため仕方なくといった格好だった。
会社の戸締りをし、外に出ると雨だった。
鞄から折りたたみ傘を取り出し、駅へ向かう。辺りの飲み屋からは焼肉や鍋の香りが漂ってくるのに、達也の胃も刺激されたのか空腹を訴えてくる。
よくよく考えれば今日は何も食べていなかった。昨日の夕食から何も食べてないのだった。
「コンビニで何か買って帰るか」
自宅最寄の駅までは一時間ほど掛かる。平日の終電で運良く座ることのできた達也は発車とほぼ同時に寝入っていた。
最寄の駅名を告げる車内アナウンスで、浅い眠りを続けていた達也の意識が浮上する。
たくさんいた乗客たちも経過駅で下車したのか、他人の姿はまばらだった。もちろん、駅構内も同様である。
いまだに白熱灯を使う駅のロビーには木製の草臥れたベンチが置いてあり老人が一人座っているだけだ。他には人っ子一人いなかった。無人駅なので改札も機械が鎮座しているのみ。達也は見慣れた光景なのか、さっさと改札を出た。広いロビーに改札機通過の電子音がやけに響いた。
達也の自宅は駅から3キロほどの場所にある。
いつも徒歩で通う達也は途中のコンビニでお握りとサラダを買った達也はタバコに火をつけてゆったりと歩く。
周りは寝静まった民家が軒を連ねる住宅街で、人気のない通りを達也はゆっくりと歩いて帰宅する。
達也の自宅は築20年以上の安アパートである。木造2階建ての2階角部屋になる。6世帯が入居可能だが現在は一階に大家の娘が住む他は達也のみが住んでいる。
ぎしぎしと軋む外階段を上がり、一番奥の部屋の鍵を開けた。
昼間暖められたむわっとした室内に眉を顰めながら、達也は部屋を突っ切って奥に向かう。玄関扉は開け放ったまま反対側の窓を開け放った。
すぅっと冷涼な夜の風が部屋を通り抜けるのを確認しつつ、達也はスーツを脱いだ。
Tシャツとハーフパンツというラフな格好に着替え、PCを起動する。達也はテレビを見ない。普段はPCに取り込んだ音楽をBGMに夕食を食べ煙草を吸うのが常である。達也にとっての至福の時間であった。
あまり食欲が湧かなかった達也は、コンビニ出来合いのサラダを山羊のように食べながら流れるジャズに耳を傾けた。
座椅子に凭れながら煙草に火を点ける。目線はぼんやりと宙をさまようばかりである。ほぼ24時間ぶりの食事に身体が落ち着いたのか、いつしか達也の瞼は落ちていた。
「アヂッ!!」
しばらくして達也の叫びが聞こえたが、当然の帰結である。
その翌日は達也にとって実に二か月ぶりの休みであった。だらだらと昼過ぎまで惰眠を貪るのが、独身男性に多い贅沢な時間の過ごし方であることは今も昔も変わらない。だが、達也は7時には既に起き出して家事をしていた。
たまりにたまった洗濯物や部屋の掃除、食料品の買い出しなどを行っていると一日がいつの間にか終わっているのが達也の休日の過ごし方だ。
「次はいつ休みが取れるか分からないからなぁ…」
終日晴れの予想であったので、達也は窓の外に大量の洗濯物を干していた。朝から洗濯機はフル稼働で、すでに7回目の洗浄に入っていた。
洗濯が完了するまで達也はせっせと掃除やゴミ出しを行う。数少ない知り合いは「せっかくの休日なのに、忙しいね」と言うが、達也からすれば仕事に関連するストレスが無いだけ気分は大いに楽なものだった。何より達也は家事を嫌がるということをしない。それは彼の生まれた環境がそうであったからであり、性格的にも家事を楽しむ事ができる人間だったからである。
午前一杯を掛けて家事を大方終えた達也は、次なる目標として食料品の買い出しに着手する。財布をジーンズの尻に突っ込み、部屋の鍵と煙草を持って外に出た。
さすがに夏だけあって、自然豊かな田舎であっても暑いものは暑い。駅の近くに必ず一つはある商店街に着く頃には、上に着ていたベージュのTシャツは汗で濡れていた。
駅前のロータリーを抜け駅の北側にある商店街へと足を進める。曜日は平日ということもあってか若者の姿は少なく、年配の女性の姿が多い。あちらこちらの日陰や店内で世間話に花を咲かせる様子が散見された。例によって夫と思しき中年男性陣はベンチに腰かけ、あるいは喫煙所に集まりなんとなくくすんで見えるから不思議なものである。
ひさしのある喫煙所で一服していた達也の耳に涼やかな風鈴の音が聞こえた。チリンチリンと音のする方へ目を向けてみれば、大きく枝葉を広げる商店街のシンボルともなっている楠木の下に臨時であろうか、出店のような風情の喫茶店が営業していた。大樹の日陰に数席のテーブルが供えられており、涼しげな雰囲気に釣られるように達也はそちらに足を向けた。
「アイスコーヒーを一杯下さい」
昼間に若い男が一人で来るのが珍しいのか、女性の店主がついと目線を上げた。達也の視線と店主のそれが交わる。ハシバミ色の瞳は珍しいが、顔立ちは日本人特有のどちらかといえば平坦なつくりだ。まだ若い。20代に手が届くか否かといったところだろう。
「いらっしゃい。お砂糖とミルクは付けますか?」
「いえ、結構です。そのままブラックで」
達也の返答に首肯し、女性は慣れた手つきでコーヒーを作り始めた。水出しかと思っていたが、どうやら違うようだ。キンキンに冷えたグラスを冷凍庫から取り出し、さらに氷をガラガラと入れる。そこへ特に濃く抽出したエスプレッソコーヒーを少量熱いまま注ぐという手法であった。なるほど、冷蔵庫の部分が小さく冷凍庫が大きいのはそういう理由かと納得した。
彼女がコースターを取る為に横を向いた瞬間、今まで長い横髪に隠されていた耳が見え達也を驚かせた。彼女の耳は長く尖っており、まるで昔見たファンタジー映画に登場する妖精の一族のようであった。形状は美しいが人間ではない。
「珍しいですね」
「ハーフが、ですか?」
彼女は右手で耳を軽くなぶった。良く見れば帽子でその長い耳を折り畳むように隠していたようだ。横髪がバラけたときにしか見えないようにしていたということは何かしら隠していたい理由があるのかも知れない。そう思った達也は意図して声量を落とす。
「はい。驚いたもので失礼しました。ここで暮らして3年ほどになりますが、『隣人』とのハーフの方とは初めてお会いしたものですから」
「人間の人種混淆は進んでも、『隣人』とのハーフはまだまだ少ないですし無理ありません。この辺りでは特に少ないですし。さほど驚かれなかったようですが、普段から良く『隣人』達と会うのですか?」
彼女は小首を傾げながら、コーヒーを達也に手渡した。達也は驚いたが、言われてみれば叫んだわけでもなくあくまで日常会話程度の声量であった。なるほど。一口飲んでから達也は頷いた。
「まぁ、世間一般の方よりは多いかも知れません。二日に一度はお会いしますし。それに『隣人』達も協約で縛られていますから、そこまで人間離れした容姿の方は少ないですよ」
「気質は違うけれど?」
そう言った女性に達也は思わず笑った。そんな達也につられて彼女も笑った。
「そうですね。確かにその通り。『ああ、この人たちはこういう考え方をするんだ』と驚きの連続です。会話をする際にもそれぞれの種族別のNGワードの予習は欠かせませんし。なまじ外見的に似た種族の方ばかりなので、そういった小さな差異が余計に目につくのかも知れません」
「私は父がイラーサの者ですが、比較的、いえ相当ゆったりした性格でして。この星の当然の時間軸に生きていないので、母と一緒に矯正させるのに苦労しました。本人は『妻と娘に精神汚染されてしまった』と嘆いていましたが」
くすくすと口元に手をやり笑っている様子からして、彼女の父は地球の生活に合わせる事を不快と考えない人間のようだ。でなければ、異種族と交配しようとは考えないか、と達也は思った。同時に友人のイラーサ人が脳裏に浮かぶ。
「イラーサの方は僕にも知り合いがいますから分かります。四百年もの寿命があれば、ゆったりするのも致し方なしだと僕は思いますが、彼らからすればなんて忙しない人間たちだとなりますからね。感情もあまり起伏がないので、最初は会話に苦労したものです。付き合ってみればなんということはない、ただののんびり屋ですが」
「ふふふ。異種族を捕まえてのんびり屋と形容するあなたも十分に『隣人』気質になっていますね」
「これは一本取られました。仰る通りです」
そうしてしばらく二人で話していると、いつの間にか達矢の後ろに二人の子供が立っていた。見知らぬ男である自分がいることに気後れしているのだろうか。少年少女の視線は女性に集まっていたが、ちらちらと達也を見る視線も感じる。
達也は女性にどうぞと目配せをした。女性は軽く会釈を返して子供達に向き直った。
「姉ちゃん、いつもの!」
少年が手を上げてオーダーする。白いTシャツにジーンズというどことなく達也と似た格好の男の子だ。
「はい。弓香ちゃんもいつものでいい?」
「はい!」
二人は女性の問いかけに唱和して返事をする。学校の癖だろうか。女の子は手を上げていた。挙手だった。
いつもの、ねぇ。達也は思わず笑った。こういうのは良い。子供だとか大人だとか関係ない。
突発的な笑いの発作に身体を震わせている達也とにこにこと笑みを浮かべる女性を見比べていた最初の男の子は女性に顔を近づけて問うた。
「姉ちゃん、この男の人は姉ちゃんの彼氏?」
ビシっと女性が固まった。達也の耳には石化の音が聞こえるようだと思った。
「君、名前は?」
達也はフリーズしている女性に代わって少年に問うた。なんとなく中腰になり目線を合わせる。
「中島達矢だよ。兄ちゃんは?」
「へぇ。偶然だけど、僕も達也って言うんだ。湯野越達也。よろしく」
「変わった苗字だね。よろしく~。で、兄ちゃんは姉ちゃんの彼氏?」
達也と握手する少年の瞳の奥にちろり、と嫉妬の炎が見え隠れする。彼女が好きなのかな、と思った。もしかしたら憧れなのかも知れない。達也はまだ笑っていたが首を横に振った。
「残念ながら違う。彼女とは初めて会ったばかりだよ。話が合ってね、喋っていたんだ」
「そっか。ならいいや」
ストレートに安心したという気持ちを表情と言葉に出す達矢少年。
「私は弓香。千場弓香です!」
達矢君の後ろに立っていたピンクのワンピースを着た少女が勢い良く右手を上げながら存在をアピールしている。達也は同じく、手を差し出す。小さな女の子の手だった。
「達也です。宜しく」
「はい!宜しくお願いします!」
小さくても元気はいっぱいってやつか。達也は頷きながら小さな二人を見る。
少年少女はおそらく小学校の高学年ぐらいだろうか。中学校ではないだろう。ここは田舎なこともあり、市内の中学校は全て制服を採用していた。彼らは私服だし、中学生特有の背伸びした雰囲気がない。「いつもの」くらいは子供らしいアピールだろう。
「二人とも、はいどうぞ」
フリーズから復帰した女性が二人にソフトクリームを渡す。達矢君はチョコミント、弓香ちゃんはバニラだった。
「ありがとう」
「ありがとうございます!」
なんだろう、この弓香ちゃんの力の入り方は。語尾に必ずエクスクラメーションマークがついている気がする。
「二人は学校サボり?」
達也が問うと、少年が頭を振った。やれやれ、と肩をすくめて見せる。
「兄ちゃん、俺はともかくこの『いいんちょ』がサボりなんかする訳ないじゃん。見る目無いなぁ」
「ちょっと、達矢君!学校の外でそれはやめてって言ったよね!?」
「あら、弓香ちゃんは委員長なの?」
女性も初耳だったらしい。無論のこと初めて聞く達也も弓香ちゃんを見る。
「あう!?は、はい…。その、学級委員をしてます…」
なぜか恥ずかしげに俯きながら、弓香は頷く。顔は見えないが、耳が真っ赤だ。委員長をするのは何か恥ずかしいことだっただろうか。達也と女性は顔を見合わせる。
「いいんちょは皆から『いいんちょ』って呼ばれるのが恥ずかしいんだ。きっと『ゆうとうせい』だと思われるからじゃねぇの?」
「そこまで分かってるなら、なんで言うかなこの馬鹿達矢!」
「そんなの決まってるじゃん」
「何が!?」
「面白いから」
「このアホ達矢ぁ!」
「こういうのも夫婦漫才というのでしょうか」
ポロリと達也の口から疑問が溢れた。
「懐かしいですね~。かれこれ30年以上で……。聞こえましたか?」
達也はポーカーフェイスで首を振った。そうだ。イラーサと地球人のハーフならば加齢が遅いという遺伝的形質が発現しても不思議ではないではないか。例え見た目が10代後半であったとしても、実年齢は違う場合があるのだ。今まで『隣人』達と仕事をしてきて何度もあった事ではないか。それに達也は営業マンだ。表情筋は意のままに動かせる。
「いいえ、何も」
見事な営業スマイルだった。
彼らはまだしばらくはお茶を楽しむようだったが、達也は買い物の途中という事もあり軽く挨拶をして別れた。目指すは商店街のスーパーだ。
この町は人口40,000人程度の小さな町であり、大規模小売業者が出店するような商圏ではない。田舎であるが故に土地代が安いのはメリットの一つであるが、幹線道路や高速道路のインターから距離があり、さらに都心からの電車アクセスも悪いとなると大手は手を引く。一言で言ってしまえば、利便の悪い土地となる。
駅前にはどうやって経営が成り立っているのか分からない、一昔前のラインナップの商店街があり、そこを通り過ぎるとスーパーや服飾店など比較的若い住人をターゲットに据えた店舗が立ち並ぶ新市街地になる。達也は自身の趣味と言えるような趣味も無いので、新市街地も旧市街地も大して変りないと考えている。それでも何故自宅からより遠い新市街地へ行くのかと言えば、一ヵ所で全ての買い物が終わるからである。
マミーストアという名のスーパーは食料品から日用雑貨まで手広く扱っており、値段はそこまで安くもなく高くも無くという店だ。
達也は平均年齢の高そうな商店街を抜け、スーパーに入る。強烈な冷房が汗を急激に冷やしていく中で、達也は買い物かごを持ち店内を回る。肉が安かったので冷凍して保存する事にする。