四十九 かわいいの四面楚歌、丸いの背水の陣
東雲色の小袖の裾を気にしつつ御殿の奥へと駆け込んできた花江。すぐ後ろからは、怒りに歯を鳴らす小鬼どもが追いついてくる。四方の襖が蹴破られ、花江はただ一人、悪玉妖怪の輪へと捕らえられてしまった。
その多くは血染め頭巾。名のとおり、殺した相手の血で染め上げたという赤黒い頭巾からは、吐き気を催す腐臭が漂ってくる。似たり寄ったりな衣――とさえ呼べぬ襤褸も同様、慶吾の言う「汚い振り」などという生やさしいものではなく、正真正銘の汚物であった。
青人と呼ばれる渡来妖怪は、見てくれは人とあまり変わらない。背丈は町で目にする舶来人ほどで、ほかの小鬼らよりは頭二つ分ほど大きい。青い色の肌をし、伸び放題の顎鬚には藻屑が絡まっている。両刃のまさかり鉞や湾曲した刀を手に、青人同士が寄り集まり、己の国の言葉で盛んに歌を口ずさんでいた。
花江は、南蛮鬼らに囲まれようと、慌てもしないし騒ぎもしない。逃げ惑いもせず、そこらの町娘のように震えて命乞いをするでもない。大きな目に愛らしい口元の小娘、こう見えて、小栞界隈の猫どもに「姐御」と呼び慕われる猫大将なのである。
「ふみゅ」
落ち着き払って一つ頷くや、履いていた白木の下駄を脱ぎ散らかす。次に、懐から出したたすきで袖を手早く纏め上げた。最後に威勢よく裾を絡げたその下は、唐紅の四分一袴。
金から緑へ、緑から金へと、打ち寄せる波の如くに色を変える大きな目。その瞳が引き絞られ、針のように細くなると――一斉に繰り出される曲刀や斧を、疾風の速さで掻い潜り、まず畳から高く跳び上がった。足の指からも伸ばした爪で柱を蹴って、さらに上へ。宙で体を捻ったかと思うと、今度は天地逆さまになって梁を蹴りつける。その動きたるや、江戸や上方で絵草子になる軽業師も、真っ青になって座を畳むこと請け合いである。
「あはは! 止まって見えるよ」
隼もかくやの恐るべき速さで天井から降ってきた花江は、口を開けて見上げる炭鉱鬼と家守小鬼の群へためらいもせず飛び込んだ。両手の爪を一尺ほども伸ばして刃となし、右へ左へ振るっては、有象無象の首の後ろへ突き立てる。
また、動きへ巧みに緩急をつけるので、南蛮鬼らの目には、三毛の小娘が現れたり消えたりするかに見える。まるで、妖術か手妻を見せられているようで、どれほどやっきになっても捕らえることができない。
「おのれ、ちょこまかと小賢しい」
誰もがあまりの速さに翻弄され、まともに切り結べる者など一人もいない。小娘と見て侮り、屋内へ誘い込まれたことが間違いであったと気づいたときには、もう遅い。
飼い猫十四年の花江にとって、壁、柱、梁に天井だけでなく、のろくさと――花江から見ればの話であるが――しか動けぬ間抜け妖怪そのものが、すべて足場に等しい。
「ニャニャニャニャ、ニャ!」
風変わりな気合と共に疾走し、四分一袴を畳に滑らせ、青人の股の下を潜り抜ける。待ち構えていた態で繰り出される一撃を、あり得ないほど体を捻って避け、頭上から襲い来る切先は、低く鋭い跳躍で懐に飛び込んで断つ。
渾身の力を込めて放つ一撃も、どれほど研ぎ澄まされた刃も、当たらなければ用をなさぬ。南蛮鬼らはそれを化け猫の――それも、なりたての小娘に、痛いほど思いさらされた。
三十六の慶吾は、逃げていた。後ろへ長く南蛮鬼どもの尾を引きながら、ひたすら御殿の周りを回っていたのである。しかし南蛮鬼らも見かけほど間抜けではなかったらしく、散々乞食坊主の後を追いまわしていた幾人かが、向きを転じて挟み撃ちをしようと企てたのだ。
「むう、ぬかったわい」
前から押し寄せてくる南蛮鬼の一群を目にし、慶吾は吹き飛びかけた菅笠を押さえて足を緩めた。群の後ろには、あの一丈を超える巨躯の赤鬼がいた。いっそう焦って周りを見渡せば、折りよく脇道が目に入る。再び足を速め、一も二もなく脇道へと飛び込んだ。
しかし、この道を見出したことは、折悪しくと思い直さなければならなくなった。慶吾は間もなく、どん詰まりへとはまり込んでしまったのである。
雲水は生垣から大きめな葉を選んで一枚毟り取り、指で何かを書きつけるような動きをしてから額に乗せる。そのままいつものとおり宙返りをすると――得意の地蔵姿へと転変した。
間を置かず、歯を剥いた大小の鬼どもが脇道を曲がり、突き当たりへと迫ってくる。
「おい、こんなところに地蔵なんざあったか?」
「いや、なかろう。あの狸坊主めが化けたに違いない。みなで粉々にしてくれるぞ」
せっかく冴え渡った変化術であったが、どうもあまり役に立たなかったようである。南蛮鬼どもは騙されてくれなかっただけでなく、化け狸が手も足も出ぬ地蔵であるのをいいことに、そのまま葬り去ろうとしているのだ。袋の鼠ならぬ、袋小路の狸である。
手に持った剣や鉈、まさかりなどが一切の手加減なく振り下ろされ、石の体にぶつかっては火花を散らす。さすがに石だけあって頑丈なため、たまに打たれたことによる痺れが走るものの、さほど痛手ではない。三十六の慶吾の心構えその二は、耐え忍びの段である。心を無に保ち、ただひたすら殴られるに身を任せた。
「埒が明かん。おいお前、それで早いとここの糞地蔵を叩き壊してやれ」
家守小鬼が呼ばわると、進み出てきたのは、あの赤鬼である。扇子でもいじるようにして人二人分の目方はあろうかという金棒をもてあそびながら、金壷眼で地蔵を見下ろした。
地蔵姿のまま、慶吾はすくみ上がった。あんなもので殴られた日には、生身であろうが石であろうがさして違いはあるまい。ただ、木っ端微塵に砕け散るだけであろう。
赤鬼が、毛むくじゃらの胸を反らして大きく息を吸い、頭上へ高々と金棒を振り上げた。腕や肩に力が漲り、瘤のように膨れ上がる。
おおおん。
という吠え声とともに渾身の力で金棒が振り下ろされた先に――地蔵はなかった。
思いの外の素早さで跳躍し、赤鬼の一撃を避けた慶吾は、土煙を上げて地面へとめり込んだ金棒の上へ着地した。そして、
「狸拳、発現ッ!」
と叫ぶなり、両手に握り拳を作って腰の左右に構えた。いつもの腹を突き出す姿勢はそのまま、さらに腰を落とす。取り囲む南蛮鬼らと慶吾は、どちらも身動き一つせぬまま睨み合った。
慶吾は襲い来る刃を紙一重でかわし、指へ拳骨を食らわせる。痛みに怯んだところへ、急所の眉間目掛けて容赦なく肘を打ち下ろす。あるいは、得物を振り上げたところへすかさず飛び込み、鳩尾へ拳を叩き入れる。足を狙われれば、手近な妖物へ足払いをかけ、すっ転んだ身代わりに一撃を食らわせたところで、顔面への膝蹴りをお見舞いする。蹴りが空を切っても、勢いを殺さず体を一回転させ、もう片方の足で必ず仕留めた。
ふだん見慣れた慶吾の腑抜け具合からは別人としか思えぬ、猛攻に次ぐ猛攻である。
狸一族の中でも喜左衛門一派にのみ伝わる「狸拳」は、一に逃げ、二に逃げ、三、四がなくて五に耐え忍び、それでだめならようやく反撃、という道が説かれる。逃げ回った数と耐え忍んだ数が多ければ多いほど、狸の操る狸拳は冴え渡り、威力を増すのであった。
小鬼どもがもれなく地に打ち伏したころ、ようやく赤鬼に金棒を引き抜く目処が立った。次こそは間違いなく叩き潰さんと、十五貫は下らぬ鉄塊を振り上げるまさにそのとき、慶吾が金棒を伝って一気に駆け上がり、赤鬼の喉へ、拳を真っ直ぐ三発打ち込んだ。
喉を潰され声すら上げぬまま、一丈の赤鬼が地響きを立てて倒れる。それを見届け、三十六の慶吾は真面目腐った顔つきで手を合わせ、一つ礼をしたのであった。




