二十二 短いの、岡惚れる
妖人側居のこのご時世、物の怪を仕官させていることをおおっぴらにしている諸侯も少なくない。欲深い一部の者を除けば、俸給は魚だの油だのですむうえに、人並み以上の腕っ節はもちろんのこと、妖術の類を巧みに操る者も多い。一癖二癖ある気性にさえ目をつぶれば、人間の侍以上の働きが見込めるというわけだ。
小栞の場合は、元々仕えていた惣士らを免職して妖怪を召抱えたというのだから、些か度がすぎているといえよう。「小栞が化け物に乗っ取られた」などと、読売にものものしく書かれるのは、そう遠いことではあるまい。
ひと息に白い水――〈あわ雪〉名物の冷やし乳である――を飲み干した慶吾に、なにを思い出したのかお園が「あっ」と小さく叫んだ。
「頼んでいた薬がまだ届いていないんですよ。薬屋さん、どこかで迷っているかもしれないんで、あたし、ちょいとそこらを見てきます。申し訳ないですが慶吾様、少しの間、店をみていてもらえませんか?」
「そりゃあいけん。お安い御用じゃ、行ってきなされ」
「助かります。店じまいの札下げときますんで、お客さんいらしたら、すぐ戻ると言っといてください。間もなくお雪が買出しから戻ると思いますが」
何度も振り返りながら出かけるお園を見送って、慶吾は懐から汚らしい財布を取り出した。店の壁に掛けられた品書きを見渡す合間に、何度も財布の中を覗く。こうしてその日の夕餉を決めているひとときが、お雪と言葉を交わす次に慶吾が楽しみにしているときであった。
ほかにも、古くから伝わる酥や醍醐、看板料理である乳鍋など、この店の料理はどれも口に合う。もしも美玉が現れてよかったことを一つ挙げろといわれたなら、鎖国を解いて乳料理というものを封国に広めたことだと慶吾は思う。
そうこうするうち、店の裏の話し声に聞き覚えのある声音を聞きつけ、狸坊主は耳をそばだてた。
「二人のこと、お願いしますね。特にお父っつぁんは、腰が弱いのに無理をするたちだから……」
「任せときなって。薪割りだって溝さらいだって、なんだってしてやるよ」
「そんなことまでしてくれなくて大丈夫よ。商売に来るついでに様子を見てくれるだけでじゅうぶんなんだから」
温石を抱き込んだように胸が温かくなるお雪の声に、思わず口元を緩めた慶吾。しかし、聞き覚えのある男の声がそれに応えていて面白くない。口げんかで言い負かされた子どものように口を尖らせているのに、慶吾は気づいていなかった。
「しかし、いよいよ明日だよな。いつ戻ってこれるのか、はっきりしないのが心配だよ」
「弥助さんたら、いっつも人の心配ばかりなんだから。わたしなら平気よ。お地蔵様に、毎日手を合わせてるんだから。きっと異国でもうまくいくよう、守ってくださるわ」
そう、弥助だ。何度もお雪と親しげに言葉を交わしているのを見たことがあった。痩せてはいるが貧相というわけではなく、素朴だが親しみやすい顔立ちの、棒手振の男であった。主に野菜を売り歩くが、贔屓にしてもらっている「あわ雪」では、乳の入った樽だの鍋に使う肉だのを運び入れる手伝いも請け負っている。たしか、お雪より一つ二つ、年上だと聞いていた。
「へぇ、神様仏様ってのは、海のむこうまでついてきてくださるもんなのかい? あっちでのことはさ、やっぱり切支丹の神様にお願いするんじゃあないのかなあ」
「そうかしら? 神様仏様だからこそ、海を越えるくらい、どうってことないと思うけれど」
裏から仲睦まじく笑い合う声がすると、慶吾の唇はますます尖った。
「あら……」
裏口の戸を開けたお雪と、木桶に大根や鶏を乗せた弥助が裏口から現れる。二人は竃を覗き込んで久兵衛もお園もいないのを見ると、卓のほうへと目をやって、苦りきった顔の雲水がいることに気づいた。
「あら、慶吾様。おっ母さん、まさか慶吾様に留守居をさせて、どっかへ行っちまったんですか?」
「急ぎの用を思い出したそうで、店番を買って出ただけじゃ。すぐ戻ると」
通い慣れた様子で奥へ木桶を運び込む弥助を横目で睨みながら、慶吾は言う。
そんな化け狸の心中など露知らず、弥助は慶吾の目の前を横切り、表の戸に手を掛けて笑う。
「それじゃ、お雪ちゃん、気をつけてな」早く帰れと念ずる慶吾の気持ちとは裏腹に、開きかけた戸をまた閉めてお雪を振り返る棒手振の男。「仕入れがなきゃ、明日見送りに行けるんだがなぁ。あぁあ、残念だ」
「もう、大丈夫だって言ってるじゃない」
「ははは。お雪ちゃんの帰り、首を長くして待ってるから」
待ってるから――その先を言わずに弥助が店を出たのは、果たして化け狸の念であったか。
去ってゆく弥助のこざっぱりとした後姿が見えなくなるまで、お雪は微笑んで見送っていた。まだ、白粉に縁のなさそうな頬をかすかに朱に染め、目は心持ち潤んだように輝いているではないか。
あんな笑みを向けられたことがあったか。あんな、花が綻ぶような笑みを……。




