十一 長いの、跳ねる
追儺は終始無言のまま、髪を符に変じては鼬に貼るのを繰り返し、大鼬の長い胴体をくまなく紙片で覆ってしまった。今や雅寿丸は、大きな白い蓑虫である。
「なあ、これ……」
蓑の紙片を夜風にそよがせつつ上げられた声は、月下の岩山に空しく消えた。
さてその、雅寿丸曰く突っ転ばしの優男は、衣擦れの音も清らかに立ち上がった。翁面のまま月を仰ぎ、それから水鏡の月を臨むように俯き、ついでのように不恰好な大鼬にも顔を――面を向けた。何か妙なものを感じてまじまじと見つめてくる雅寿丸に応えることなく、低く呟く。それはどうやら、なにかの唄と思しい。
「音もなく 姿も見えぬ呪詛神 今こそ我が身へ負われゆくべし……」
老人のものではないにもかかわらず、翁面から発せられて少しも不自然ではない、典雅な調べの最後の余韻が消えたとき。雅寿丸の背後から、にわかに風が吹きはじめた。今までのそれとはまるで別物。勢いは甚だ強く、秋の夜風より大分冷たい。風は水たまりを挟んだ向かい側に立つ追儺に達すると、それより先へ吹き抜けることなく、跡形もなく消えてしまうのであった。その折に、巻き上げられた紙片が渦を巻き、追儺へ殺到する。紙片が追儺へ到達する間際、それらは再び一本の髪へと戻り、風になぶられるがままの白く長い髪に入り混じった。
突如駆け抜けた魔風に、やや鈍い雅寿丸もさすがに目を閉じた。長い爪を立てて岩肌をしかと掴み、背をたわませて尻に重心を置く。常ならば無意味にぶら下がっている尾も岩山に張りつかせ、全身で風に逆らう。
このちょっとした騒動のあと、雅寿丸に訪れたのは、久方ぶりの――。
「おう、これはすごい。体がいっぺんに軽くなったぞ。うはははは!」
雅寿丸は叫び、嬉しげに飛び跳ねた。大鼬の長大な体はことのほか軽快に、今こそ宙へと踊りあがった。くくく、くくく、と喉を鳴らしながら、跳躍のたびに狂おしく頭を右左にねじ曲げ、胴体はそれと反対側に捻って乱舞する。
正気の沙汰とはとても思えぬ鼬の挙動に、翁面の下では、追儺の鋭利な赤い目が、頭上の望月に劣らぬほど丸く見開かれていた。しくじったかと思い、そんなはずはないと思い直す。術は成功した。目の前で跳ね回る鼬がおかしいのは、己のせいではない……はずだ。
「うむ、本当にありがたい。仙狐といったか、一目見たときから只者ではないと思ったが、すごいものだなあ。あれほど難儀した瘴気とやらを、またたく間に霧散させるとは」
「消えたわけではないよ」と、ようやく落ち着いた雅寿丸に安堵し、面を外しつつ追儺。「呪の類いは狐にとって、いわばお家芸。呪詛返しはお手の物だけれど、そうすると恐らくぬしが、後味の悪い思いをすると思ってね」
「おれが?」
「そう。呪詛を返せば、風隼村の人々へと呪が返ってしまうのさ。呪う相手がいなければ、恨みの念は永劫に苦しみのたうつことになるだろうよ。あの瘴気を後生大事に背負い込んでいたぬしのことだ、たとえ己を呪った相手であっても、苦しんでほしくはないのだろう?」
少々意地の悪い目つきで見下ろせば、大鼬が慌てて何度も長い首を頷かせるのが見えた。
「それはもちろん。みな、おれにとって大切な人たちなんだ。よく飯を食わせてくれた隣のおかみさんやら、手習いで机を並べたやつら、侍ごっこをして剣の腕を競い合った仲間もいる。あの日のあと、運良く村を出ていて助かった村人が石や包丁を投げつけてくるのを目の当たりにして、おれは思った」
よく動く鼻先で、長い髭が垂れ下がる。今にもしおしおという音が聞こえてきそうで、俯いたために毛並みが乱れた後ろ頭がいよいよ気の毒そうに、追儺には見えた。
「村を出て、渡世狼士として必死にやれば、一人二人……頑張れば三人四人くらい、守れるだろう、ってな。いつか大妖怪になって戻ったら、次こそ村の守り神になれるかもしれん。だが、まずはやはり、この借りを返さんとな」覇気のない呟きから始まった雅寿丸の独白は次第に力を得て、終わりに差し掛かるころには高いところにある追儺の顔をしかと見据え、力強く結ばれた。「謹んで務めさせてもらうぞ、鳥獣判官付介錯人をな」
仙狐を自称する男はそんな大鼬を、首を傾げて見下ろした。鎌鼬風情が人を守るだなどとほざき、文字どおり仏心を呈するのを目の当たりにしたのを受け、さて怒ってみせようか虚仮にしてくれようかと思案する。思案せど思案せど、不思議と腹は立たず、仕方なしに口を開く。
「さて、だいぶ身軽になっただろう? もう、人の姿にもなれるはずだよ」
「うむ。たしかにこれなら、宙返りするのに不都合はなさそうだ。しかしなあ……おれはどうも、術の類いはからきしでなあ」
「なにも、代官やら姫御前やらに化けろといっているんじゃないよ。人への転変術など、術というほどのものでもないだろう」
気の進まぬ様子で髭を揺らす大鼬へ、月下の優男はため息混じりに言った。
追儺をはじめとする狐狸妖怪に、猫、狢、鼬らを加えた妖獣の類は、人を化かして当たり前。尼に坊主に遊女に侍。中でも、化けも化けたり変幻自在なのが狸族だ。人に化けるなど児戯に等しく、箪笥、茶釜に棺桶、屏風と、物にも変ずるその手腕。のみならず、一つ目小僧だ大入道だといったべつの物の怪にさえ化けるつわものがいるともいわれ、転変術に関しては狐より頭ひとつ抜きん出るとされている。
「鳥獣狼士は町や村では人心を乱さぬよう、極力人の姿でいなければならないはずだよ」
「う、うむ。鳥獣諸法度でそう定められている」
「それなら四の五のいわず、やらないと。小栞宿に行くならね」
「まあ、ほかならんおまえがそこまでいうのだから、やってはみるがなあ、笑うなよ?」
「人の姿のぬしがどれほど胴長であっても、決して笑わないと約束するよ」
「いや、胴は人並みだと思うが……うむ、よし、やるぞ」
腹を決めた大鼬、やおら四肢に力を込め、二度ほど首を上下させて拍子をとったあと、飛び上がった。例の「どろん」という怪音と共に、白い煙が立ち上る。それが晴れると、そこにはやはり、一人の男が立っていた。