ピョートル師の若き頃 3
翌朝、一行は遅くまで寝ていて、十時頃に起きだした。
「これからの道中は、俺がついてってやるから、神官の呪いなんてのは関係なく眠れるぜ。俺が守護神カムチャダールの神像を持って行く。神像にかけてある魔術で、神官の魔術を遮断できるんだからよ。もう、おめえらが呪いに悩まされて眠れぬ夜を過ごすことはねえ。」
オーウェルが自信たっぷりに言う。
「よし!そうと決まれば、さっさと出発よ!トゥーラの足に呪いをかけた『セルゲイ』っていう神官に、今度こそ思い知らせてやろうじゃないの!」
こうして、一行は出発した。もちろん、馬車はオーウェルが直した物である。
その後、しばらくは一行は平穏に進んだ。進んでいくうちに、周囲の景色は、だんだんと森林が少なくなり、雪が降りしきるようになってくる。結局、その日は無事に宿場町にたどり着いた。宿場町は、国中を行き交う商人や傭兵たちでごったがえしており、活気があった。商人や傭兵たちが通るたびに、居酒屋から客寄せの女たちの甲高い声が聞こえる。
「もう二日ほどで聖カレオス寺院に着くわ。でも、いくら、守護神カムチャダールの神像に守られているからって言っても、あの神官が、私たちの着くのをおとなしく待ってるとは思えないけど…。」
リーザは不安だった。
「まあ、今のうちに骨休めをしとけ。後で、いやでも神官と対峙するんだから、その時にでも対抗策を考えればいいさ。とりあえず、ここはまだ、守護神カムチャダールのお力のおよぶ範囲内だから、お嬢ちゃんは何も心配しなくていいぜ。」
オーウェルが言う。その言葉に安堵したのか、リーザはピョートルやアリョールと一緒に、馬車の幌の中で毛布にくるまって、スースーと寝息をたて始めた。
(やれやれ…まだ、あどけない少女なのに、一人でつっぱっちまって…今まで、よっぽど苦労してきたんだな…。)
オーウェルは、リーザの寝顔をのぞきこみながら、自分も眠りについた。
どれくらい眠っただろうか…?ふいに、リーザが目を覚ますと、あたりは一面の雪と氷の世界だった。
(…寒い…底冷えがする…。)
思わず、リーザはひざをかかえて、うずくまってしまった。その時、ふいに念話でリーザに呼びかけてくる者があった。
(くっくっく…よく来たな、娘っ子。ここは、外界と隔絶された夢の世界『チンドウィン』…。安らかな夢の見られる亜空間だ。この世で、安眠をむさぼるほど、心地よいものはない。さあ、そなたも、リラックスして永遠の眠りにつくがいい…。)
念話と同時に、冷気によって、強烈な眠気が襲ってくる。だが、「ここで寝てはダメだ!」と、リーザの獣なみの第六感が告げている。昼間に馬車に揺られて疲れているにもかかわらず、リーザはあちこち走り回ったりして運動することで、必死で眠るまいとした。
(おやおや、ただの小娘かと思ったら、なかなかがんばるじゃないか。そうこなくては、我も面白くないぞえ…。)
(…あなたは誰?どうして、私にこんなことをするの…?)
(我は、このチンドウィンの領主、『サルウィン』だ。我は契約によって行動する神…。そなたたちのことは、神官『セルゲイ・ポベドノスツェフ』から聞かされ、彼との契約によって、この町で足止めすることになっておる。さあ、眠れ…眠りの世界は心地いいぞ…。)
「いや!私、こんな所で眠っていたくない!女神アリーナ、守護神カムチャダール、助けて!」
リーザは必死で女神アリーナや守護神カムチャダールに哀願したが、どの神も沈黙したままだった。
(無駄だ。無駄だ。我の力は、水に関係する天気を操る力…。天から降り注ぐ雨や雪を司るのが、我の力だ。守護神カムチャダールのように、多くの眷族を持ち、空と大地の恵みを司る神といえども、我には勝てぬ。大気中や地上を循環する水なくして、大地は草木を茂らせることはできぬからな…。神官セルゲイ・ポベドノスツェフは、我に両手の小指一本ずつを自ら切り落として、供物として捧げ、契約を結んだ。今どき、身体の一部を供物に捧げられるような、肝のすわった輩は、軍人の中にも、そうそう居らぬでのう……あれを見た時、我は、この男に全ての力を貸そうと思ったのじゃ。)
念話で話していくうちに、最初、死霊が化けてでたように、ぼうっとした印象だったサルウィンは、しだいに輪郭がはっきりし始め、真っ赤に光る両目と、耳まで裂けた口、鋭い爪のはえた指などが鮮明に見えるようになってきた。
(どうだ、小娘…?この勝負、わしの勝ちじゃ。貴様には、目的のために、体の一部を切り落とすようなマネはできまい…。)
セルゲイの哄笑が聞こえてきた。
(冗談じゃないわ。私の村の人なら、女神アリーナのために、身体の一部どころか、命だって捧げられる…。あなただけが偉いんじゃないわよ!)
リーザは腹の中で毒づいたが、どうなるもんでもない。そのうち、体の芯から冷えこんできて、ウトウトし始める。
(ふん…せいぜい、あがくがいいわ!少数民族による革命なんて、しょせん、夢物語だ!わしは、バイコヌール大学の大学院で神学を学んで三年になるが、神々の力の序列は、既に決まっておることに気づいた…。最高位に位置するのがキュリロス正教の唯一神『聖キュリロス』か、このチンドウィンの領主サルウィンだ。女神アリーナや守護神カムチャダールに至っては、せいぜい五番目ぐらいだぞ。うぬらの力など、その程度のものだ。せいぜい、このチンドウィンで凍死して果てるがいいわ!)
一方、ピョートルもまた、チンドウィンに飛ばされ、雪と氷の世界に閉じこめられていた。ただし、リーザとは別の亜空間にいて、念話も通じないため、完全に孤立していた。
(…うう、寒い…マジで凍死しそうだ…。こういう時、母校のサライ大学では、何をどうしろと習ったっけな…?)
俗に「専門バカ」という言葉があるが、ピョートルの場合は、まさにそれであった。ピョートルの得意分野は、あくまで精霊魔術である。同一次元に存在する精霊が起こす魔術に対しては、頭脳は練りに練られているが、異次元に存在する亜空間の神に対しては、完全に無防備だった。
そんな頭に、サルウィンの声が響きわたる。
(別の亜空間に、おまえの連れがいる。といっても、凍死寸前だ。ここは我の閉鎖空間だから、もう、おまえと連絡をとることもできまい…。おまえも覚悟を決めて、楽になれ。死ぬのは楽なことだぞ…。)
(ふざけるな!僕には、やらなければならない使命がある…。こんな所で死ぬわけには、いかないんだ!)
ピョートルは、どうすれば状況を打開できるか、必死で考えた。そうこうするうちに、ピョートルが大学院で師事していた教授の言葉が浮かんだ。
『よいか、ピョートル……亜空間に閉じこめられた際には、まず、己の味方になってくれる精霊を探すことだ。精霊は、どこにでも存在しているもの…。そのへんにある、机や本棚、おまえの持ってる教科書にも、精霊は存在している。もちろん、亜空間にも、物がある限り、精霊はいる。まずは精霊たちが何にやどっているかをつきとめ、その精霊たちに、自分を亜空間から脱出させてくれるように、お願いしてみることだ。』
(だが、亜空間の精霊には、その世界の固有の言葉がある。僕に、その言葉がわかるのか…?)
既に、寒さのあまり、ウトウトして眠くなってきている。ピョートルもリーザ同様に、あちこちを走り回ったりして眠気を覚まそうとしたが、無駄だった。自分の世界の精霊語で周囲の雪に話しかけたりしてみたものの、なしのつぶてである。
(頼む…!誰でもいいから、話を聞いてくれ…!僕は、ある少女を救いたいんだ!)
ピョートルは既に精霊語をかなぐり捨て、念話で話しかけることにした。
(無駄じゃ、無駄じゃ…青二才。この亜空間チンドウィンの精霊たちは、領主サルウィンに『服従の術』をかけられていて、領主サルウィン以外の者の言葉は聞かないようにできておるのじゃ。それゆえ、うぬがいくら話しかけようと無駄じゃ。うぬには、わしの研究の邪魔はさせん!)
セルゲイが念話で、声高に言い放つ。同時に、ピョートルの肩の傷が痛み出した。
(うぬには、凍死などという楽な死に方はさせぬ…。領主サルウィンを媒介した、わしの魔術で、苦しみぬいて死んでもらうぞ!)
そのまま、肩を食いちぎらんばかりに、ギリギリと傷に歯のような物がくいこんでいく。
「ぐああああ…!」
たまらず、ピョートルは声をあげる。
(ククク…どうだ?痛いか…?だが、まだまだ、これからが本番だ!この程度で音をあげていたら、とてもじゃないが、もたんぞ…。) やがて、指のほうにも、激痛が走る。
「ぎゃああああ…!」
よく見ると、左の人差し指の先端に、透明な針のような物が突き刺さっていた。
(ふっ…どうだ、わしのあみ出した、拷問のための黒魔術の味は…?領主サルウィンは、黒魔術を司る神……この針の魔術は、領主サルウィンの力を借りて、わしの思念を実体化したものだ!)
(何だと?君は、黒魔術を使うために、正体もわからない邪神の力を借りたというのか!?そんなことをしたら、魔術が失敗した時に、君の体で代価を払わなければならなくなるぞ…!)
(何とでも言え!わしは、魔術の研究に、全てをかけているのだ。死んだ妹、ナスターシャのためにな!)
「ナスターシャ」と聞いて、ピョートルには、思い当たる節があった。
(ナスターシャと言えば、『ナスターシャ・ポベドノスツェフ』のことか?もしや…君は、あの大反乱の際の貴族や役人の生き残りか!?)
あの大反乱とは…今から四年前に、反体制組織「正教救国同盟」の指導者であるウラジミル師、ユリウス師のもとで、ノヴゴロド地方で起きた農民反乱である。地方の貴族ノヴゴロド侯爵が、飢饉のために税を払えなかった農民をリンチしたことに端を発した反乱は、ウラジミル師やユリウス師を始めとする正教救国同盟の急進的な指導者たちによって、またたく間に近隣の地方に波及し、後に「ウラジミル・ユリウスの乱」と呼ばれるほどの大乱になった。多くの都市が反乱軍の手に落ち、反乱軍の占領地域では、貴族や役人や地主たちは人民裁判にかけられて処刑されていった。もっとも、半年後には、首都から派遣された国王の直属軍である外人傭兵部隊によって、反乱は鎮圧され、反乱に加わった農民たちは凄惨な復讐を受け、反乱の指導者たちは亡命するか、地下にもぐることになるが…。
その時に反乱軍に殺された、ノヴゴロド侯爵の娘で、ナスターシャという名前だけは、ピョートルも聞いたことがあった。
(確か、ナスターシャはノヴゴロド侯爵の養女だったはずだ。出身は…貴族につぐ、下級役人だったかと思うが…。)
(そうだ!冥土の土産に教えといてやろう!ナスターシャは、わしの最愛の妹だった。わしの父親は、わしら兄妹が幼い頃に病気で亡くなり、そのショックで母親は飲んだくれてしまい、生活は窮乏をきわめた。妹のナスターシャをノヴゴロド侯爵の養女にすることで、どうにか他の役人なみの生活ができるようになったのだ。だが、あの反乱で全てが崩れ去った…。ノヴゴロド侯爵家は、妹や母親も含めて皆殺しにされた。なお悪いことに、反乱軍の指揮官には、アリーナ族がかなりいたのじゃ。中でも、『ハルナ』という名前の女が、かなり指揮がうまくて、ハルナの部隊によって、侯爵軍はかなりの犠牲者を出した…。特に、美人だった妹は、ハルナ指揮下の反乱軍の部隊に捕えられ、凌辱されながら、なぶり殺しにされたのだ…。そのせいで、わしは天涯孤独になった。
あれ以来、わしは、妹を生き返らせるための研究に没頭した。同時に、反乱を起こした革命家どもや農民どもやアリーナ族どもに復讐してやろうと誓ったのだ。だが、反乱を起こした農民たちの首謀者はもとより、反乱軍を指揮した革命家どもは、いずこかに潜伏してしまい、いまだに捕まっておらぬ…。そやつらを捕まえるため、二度と反乱が起こらぬようにするためには、死んだ者を生き返らせる蘇生術と同時に、貴族たちの軍隊を不死の体にして、反乱軍の武器では死なぬような体にせねばならぬ…。それで、もう三十になっていたが、バイコヌール大学に入り、必死で魔術を学んだ。蘇生術である白魔術と同時に、呪詛に使う黒魔術も、ひそかに学んだ。黒魔術のほうは今、グリャーイ・ポーレの村の女子に使って実験しておる最中だ。それらの魔術によって、不死の軍隊を作りあげるのを夢見てな!
さあ、これがわしの計画じゃ!うぬは、この話を手土産に、あの世に行くがいい!)
セルゲイの顔つきが、一気に険しくなった。表情に憎悪の色が燃え上がる。同時に、ピョートルの背中に、カッターナイフで切り刻まれるような痛みが走った。
「ぐあああああっ…!」
(これは、ゴロツキが背中にいれずみをいれる際の痛みだ。まだまだ、拷問のバリエーションはあるぞ。次は、どれがいい?どんな苦しみ方をしたい?)
もはや、セルゲイの顔は、狂った喜びに歪んで見えた。復讐に燃え、一切の人間らしい感情を捨て去ったサディストのする表情……。それは、ピョートルを震え上がらせるのに充分だった。
(てめえ、バカか!?復讐なら、妹を生き返らせるだけで充分だろうが…。そのために、関係ない多くの人々を殺すのか?)
(何とでも言うがいい!誰に何と言われようが、わしの決意は変わらぬ…!)
一方、別の亜空間にいるリーザも、セルゲイの語る「ハルナ」の話を聞かされていた。
(まさか…ハルナと言えば、トゥーラの姉の…!)
(ふふふ…さすがに、察しがいいな。その通り。うぬが救おうとしている女子の、かなり年の離れた姉だ。わしが、ひそかに研究していた黒魔術で、あぶりだしたのだ。それにしても、ハルナのやつめ…実に巧妙に気配を消して隠れおった。反乱の後は、生まれ故郷の村であるグリャーイ・ポーレにも絶対に立ち寄らなかった。おかげで、わしは、あやつの残した魔術の残り香だけを頼りに、探すこと三年…思えば、長い年月だった。)
同時に、リーザには、セルゲイの出す憎悪の波動が伝わってきた。たった一人の最愛の家族を殺された、やり場のない恨み、つらみ、そして憎しみ…。
(どうだ?わしの、やり場のない苦しさは…。わしとて、こんな形の復讐が、どんなに無意味なことか、わかっている。こんなことをしても…妹は…可愛いナスターシャはかえってこない…。だが、うぬらのような、家族的なつながりを見ていると、むしょうにねたましくて、たまらなくなるのだ…。わしが失ってしまった、最愛の家族を持っているのだから…!わしのナスターシャを殺した、憎いアリーナ族のくせに…!)
話を聞いているうちに、リーザはセルゲイに同情してきた。同時に、それだからこそ、何が何でも、ここでセルゲイと勝負をつけ、セルゲイを現世の「業」という呪縛から解放してやらねばと思った。こうやって誰かを憎悪し続けて生きることほど、つらく苦しいことはないのだから。このままでは、セルゲイは復讐の鬼と化して、生きている限り、修羅道をはいずりまわらねばならない。
(でも、セルゲイを倒すには、セルゲイに闇の魔力を供給している領主サルウィンを切り離さねばならない。そして、領主サルウィンをセルゲイから切り離すのは、容易ではない…。黒魔術とは、契約した神に捧げた、いけにえの質や量に応じて、神がさずけてくださる力が、魔術の威力を決めるもの…。セルゲイが両手の小指を捧げたのなら、私たちは、それ以上の何かを捧げないと、領主サルウィンは私たちに味方してくださらない。)
だからと言って、今さらリーザたちが小指を差し出しても、「セルゲイの真似をするな!」と一蹴されるのがオチである。領主サルウィンは、誰かの真似をされるのを、極度に嫌う神なのだ。
そんなことを考えているうちに、だんだんウトウトして、眠くなってきた。
(くっ…私たちは、こんな所で死ぬのか?だとしたら、今までの私の辛く苦しい修行の日々は何だったのだろう…?長老様の孫娘だからというだけで、物心ついた時から『民族解放の指導者であれ!』と言われ続けて、武術や魔術を徹底的にたたきこまれてきた。特に、兄が死んで、私が長老様の家の跡継ぎにすえられると、『ルースラント王国の崩壊は間近い。既に革命の日は近い!』と称して、歴代の長老以上に英才教育を強制的に受けさせられた…。同世代の子供たちが広場で遊んでいる最中も、ひたすら剣や魔術の稽古…魔術理論の勉強だった…。他の子供たちの自由を、どれだけ、うらやましく思ったものか。でも、そこまでしても、友達一人さえ救えずに死のうとしている…。私の一生とは、何て意味の無いものだったのだろうか?)
既にリーザの意識は混濁し、闇に呑みこまれようとしていた。だが、そこに乱入してくる、別の意識があった。
(…リーザ…しっかりしろ!気をしっかり持て!)
ふいに、アリョールが念話で話しかけてきた。
(アリョール…あなた、亜空間に閉じこめられてたんじゃないの?)
まさか、領主サルウィンの魔力が及ばぬ者がいたとは…。リーザは驚いた。
(ははは…何だ、そのことか。俺たち遊牧民の神は、雨や日光を司る蒼天だ。蒼天とは、亜空間の上に君臨している存在…言い換えれば、宇宙だ。亜空間とは、地面に垂直に結界を張り巡らして、頭上に雲を発生させて雪を大量に降らせる世界だ。言い換えれば、ここは俺たちの住んでいたルースラントから遠く離れている、どこか別の地を結界で囲ってあるだけで、頭上はがら空きなのさ。領主サルウィンの念で操られる雲の中の電磁波が邪魔して、今まで頭上の蒼天に俺の念話が届かなかったが、さっき、ようやく届いた。亜空間なんて縦割りな壁は、宇宙という、どこまでも高い存在の前には、無に等しいんだよ!それより、今から、亜空間に衝撃をあたえて破壊するから、しっかりバリヤーはっとけよ!)
そう言うと、アリョールは、天に向かって叫んだ。
「雨を降らせ、日光をあまねく降り注がせる万物の母、蒼天よ!あなたの御力でもって、この地上の神の力で勝手に作られたる亜空間を、破壊されんことを、望みます!」
(承知した!)
蒼天の声が念話で響きわたる。同時に、宇宙の熱や放射線が、亜空間の結界に雨あられと降り注ぎ、亜空間内の雪を溶かし、同時に、亜空間と外部の通常空間を隔てている結界を壊してしまった。そして、外部の暖かくて乾いた空気が流れこんで、亜空間が消滅し、リーザたちは領主サルウィンの魔術が解けたのを知った。
(くっ…我の魔術を破るとは…しかも、娘っ子らのバリヤーには当たらないように、熱や放射線を我の結界に当ておって……貴様、何者だ!?)
「俺は、しがない一介の遊牧民さ。ただ、さっきの術は、下手に使うと味方にも危害が及ぶから、滅多に使わねえ。さっきの結界が、あまりに強固で、娘っ子たちの張るバリヤーが強力だから、使わせてもらったのさ。それより、リーザ、ピョートル、オーウェル、エルゾ、無事か?」
ちょうど、その時、聖カレオス寺院の方角から、空気を震わせるような、「ぐわああああ!!」という悲鳴が風にのって聞こえてきた。
「わっ…わしの左腕がああ…吹っ飛んでしまったあぁ…!」
言うまでもなく、セルゲイの悲鳴である。領主サルウィンを媒介した黒魔術が失敗したために、魔術返しが起こり、自らの左手を代価として支払わねばならなくなったのである。同時に、亜空間チンドウィンに縛りつけられていた精霊たちが、領主サルウィンに対して反抗し始めた。言うまでもなく、亜空間の消滅によって、精霊たちを亜空間に縛りつけていた呪術も消滅したのだ。雪や氷を形作っていた水の精霊たちは、津波となって領主サルウィンを飲みこもうと襲いかかってきた。
(我ラヲ、コノちんどうぃんニ縛リツケ、服従ヲ強イテ己ノ意ノママニ操ッテキタ、領主さるうぃんヨ!今コソ、我ラノ恨ミヲ思イ知レ!)
水の精霊たちは、念話でそう叫びながら、数十メートルの高さから領主サルウィンに向かってたたきつけてくる。(領主サルウィンは半人半神の神であるため、人間のように生身の肉体を持っていて、肉体が亜空間を使ってあちこちにテレポートして、水の精霊たちに『服従の術』をかけて支配しているのだ。だから、物理的なダメージを与えれば殺すこともできる。)
(ふん、しゃらくさい!)
領主サルウィンは水の精霊たちの攻撃をバリヤーであっさりと防いだ。
(我の『服従の術』を破ったつもりかもしれんが、貴様らの心の奥深くには、我の『服従の術』の残滓がかなり残っておる。それらをすべて吐き出さぬ限り、貴様らは我には勝てぬ!一生、我の奴隷のままだ!)
領主サルウィンは勝ち誇ったように言った。
(クソッ…ナラバ、モウ一度、クラッテミロ!)
水の精霊たちは、もう一度、津波を作ろうとしたが、仲間内から造反者が出始めた。
(コラッ…オマエタチ、何ヲシテイル?我ラガ結束セネバ、領主さるうぃんニハ勝テヌトイウノニ…!)
水の精霊たちの首領はそう呼びかけたが、造反者は増える一方だった。
(くっくっく…そうだ。我の『服従の術』には、『領主サルウィンに背けば、たちどころに死に、死後も転生できずに永遠にこの世をさまよう』という命令も含まれているのだ。貴様らの首領は『服従の術』の呪縛を断ち切ったようだが、精霊たちの中には、呪縛を断ち切れていない者も数多くいるからな。我が力を見せつけてやりさえすれば、下級の精霊など、こんなものだ!)
造反者はどんどん多くなり、しまいには、精霊どうしの闘いにまで発展した。
(グワッ…何ヲスルカ!?コノ領主さるうぃんノ狗ドモメガ!ギャアアアッ…!)
その言葉を最後に、精霊たちの首領は息絶えた。同時に、先ほどと同じように津波が盛り上がり、ピョートルたちのほうに向かってくる。
(どうだ、娘っ子?これが、我の力だ。先ほど、我の結界を破ったからといって、調子に乗るな!我はこの地上で最強の神だ!さあ、我が力を受けてみろ!)
そのまま、津波がピョートルたちを粉砕しようと襲いかかってくる。
一瞬、他の四人の視線が、「この場合の対処法がわかるだろう」みたいな感じで、大学で精霊魔術を専攻したピョートルのほうを向いた。
「ちょっと待てよ…。この精霊たちは、ルースラントから遠く離れた大陸の出身だ。僕には、彼らの生態系や、体の構造がよくわからないよ…。」
だが、状況が状況なので、ピョートルも迷ってばかりはいられなかった。
(よし、僕の魔術でどこまで呪術を解除できるかわからないけど、やってみよう。)
こうして、ピョートルは水の精霊に向き直った。言葉がわからないのなら、少し手間がかかるが、念話でイメージを創りあげて、そのイメージを精霊たちの視覚に投影させるしかなかった。
(待て!僕は、君たち精霊にかけられた『服従の術』を解く方法を知っている。その僕を殺してしまっていいのか?)
(ソンナ戯言、信用デキルカ!)
(嘘じゃない。僕の信奉している、医術と癒しの女神アムールなら、『服従の術』などの呪術を分解してしまうこともできる。このままでは、君たちは一生、領主サルウィンの駒として扱われることになるぞ。そして、最後には用済みとして始末される…。それでもいいのか?)
同時に、頭に白いスカーフをかぶって、やわらかそうな白いローブを身にまとった、いかにも女神らしい慈悲深そうな身なりをしている、女神アムールの画像が精霊たちの視覚に浮かび上がる。
(ナラバ、ソナタノ信奉シテイル女神あむーるハ、我ラニカケラレタ呪術ヲ、ドウヤッテ解除するツモリダ?)
ピョートルはしばらく口ごもったが、やがて代わりにリーザが念話で語った。
(ピョートルだけに任せてちゃダメよ。あなたたち自身の問題なんだから、あなたたちが自分の手で何とかしなきゃ…。私もアリーナ族のはしくれである以上、できる限りのことはするから。)
(ありーな族ダト?マサカ、オマエハ、コノ国ノ国王カラ、『魔女ノ民』ト呼バレテ忌ミ嫌ワレテイルヤツラカ?)
(そうよ。私たちの魔術は、キュリロス正教からは『異端』とされている、精霊を操る魔術…。なおかつ、私はアリーナ族の長老の直系の娘で、魔術の英才教育も受けているわ。だから、あなたたちにかけられた呪術の原理も、多少はわかるつもりよ。ここは、私たちに任せてみない?)
精霊たちは、ピョートルたちに襲いかかる津波を止めて、ザワザワと(いや、この場合、水の精霊だから、『ジャブジャブと』という表現のほうが適切かもしれないが)相談し始めた。
だが、相談する間もないほど短時間のうちに、領主サルウィンの怒りは爆発した。
(こら、貴様ら!敵への攻撃を怠るなら、即刻、呪術によって、貴様らの体を酸素と水素に分解してやるぞ。そうなれば、貴様らは精霊として存在し得ず、死んでしまう。それでもいいのか!)
その言葉に慄然とした水の精霊たちは、再び津波となってピョートルたちにおしよせてきた。
「…どうやら、言葉だけの説得は難しそうね。私たちの魔術を、『力』として、精霊たちに見せる必要がありそうだわ。」
リーザが言う。
「そういえば…確か、蒼天には、宇宙の熱を凝縮して操る力があったな。一気に高熱を浴びせかけて水が瞬時に蒸発しちまえば、『液体』あるいは『固体』という入れ物を失った精霊たちは、死に至る(ただし、常温でゆっくりと蒸発する場合には、水の精霊が死ぬことはない。)。高温にさらされて、体内の水分がなくなった動物が死ぬのと、同じ理屈だ。お嬢ちゃんのバリヤーで皆をガードしてる間に、熱で精霊の命の入れ物を瞬時に蒸発させて、何人か見せしめに殺すぐらいはできるかもしれない。たぶん、それだけの魔術を見せりゃ、こちらになびく精霊も出るかもしれないぜ。」
アリョールが言う。
「…どうやら、それしか手はなさそうね。アリョール、お願い。ただし、見せしめに殺すのは、最小限に抑えて。」
「了解!」
そう言い放つと、リーザはバリヤーを最大限に張り、アリョールは蒼天に祈りを捧げた。
「雨を降らせ、日光をあまねく降り注がせる万物の母、蒼天よ!あなたの御力でもって、眼前の津波に宇宙の熱を降り注がせ、蒸発させることを望みます!」
だが、蒼天からの返答は無かった。
「蒼天よ、どうなされたのですか?あなたにできないような課題ではないはず…。」
(…それが、私にはできないのだ。宇宙にも、星には水がある。この星の水の精霊は皆、私の眷族…。もし、自分の眷族を一人でも殺した場合には、私自身が眷族に背かれ、寝首をかかれかねない。私には、眷族を殺すようなマネはできぬ…。)
そのまま、蒼天は、すすり泣いてしまった(すすり泣いたといっても、もともと蒼天とは、蒼い大気のような茫漠とした存在である。大気が震えるような印象でしかない。)。
それを見て、さすがに楽観的なアリョールも、絶句してしまった。
(もう、いい!見ていられない。わしとて、この手だけは使いたくなかったが…蒼天がやらないなら、わしがやる!)
そう言うと、エルゾは全員の前に進み出た。
(精霊たちよ。わしは、魔法生物のエルゾじゃ。わしは諸君らと同じく、自分勝手な人間に、いいように使われ、それに飽き足らず、生体実験の材料にもされてきた…。だが、それを救ってくれたのが、ここにいる若者たちじゃ。)
精霊たちは再びザワザワと相談し始めた。もちろん、エルゾのような魔法生物を見るのが初めてだったからである。
(諸君らも、うすうす気づいているかと思うが、特異体質であるわしの体からは、あらゆる呪術に効く薬が作れる。わしの体液を、諸君らの体である『水』と混ぜあわせれば、領主サルウィンの呪術を解除できるぞ!)
精霊たちはザワザワと相談した末に、言った。
(ナラバ、最初ニ、オマエカラ叩キ潰シテヤル!我ラ全員ノ体液デアル『水』ト混ゼ合ワセルニハ、オマエ一人分ノ血ガ必要ダ!サア、前ニ出ロ!)
エルゾは言われるがままに、前に進み出た。
(さらばだ…リーザ、ピョートル、アリョール、オーウェル…。わずかな間だったが、おまえたちと知り合えて、一緒に旅ができて、実に楽しかったぞ。)
(ダメ…エルゾ、あなただけが犠牲になっちゃダメぇ…!)
リーザが念話で叫ぶ。
(わしを気づかってくれるのは嬉しい。だが、おまえたちの使命は、『トゥーラ』という女子を救うことではなかったか?わしは、そのために命を捧げるだけだ。決して、わしのことを、かわいそうだと思わないでほしい。わしは、女神アリーナの同族になった身だ。同族であるリーザやトゥーラのためには、いつでも死ぬ覚悟がある。)
そうこうしているうちに、エルゾの上に津波がごうごうと押し寄せてくる。
「いやあぁ…エルゾぉ…!」
リーザは泣きながら駆け出そうとするが、ピョートルがリーザを後ろから、はがいじめにする。
「ダメだ、リーザ…今、エルゾの所へ行ったら、君まで津波に呑まれてしまう。」
「でも…。」
リーザはジタバタもがいて、ピョートルにあらがった。
やがて、津波がエルゾにたたきつけ、エルゾの肉や骨が砕け散る、いやな音がする。だが、その瞬間、エルゾはリーザのほうを向いて、牙をむきだしてニッコリと笑ったような気がした。
それから、しばらく、津波はバラバラに砕け散ったエルゾの体をジャブジャブと洗っていたが、やがて念話で嬉しい叫び声をあげた。
(オオオッ…何トイウ効力ダ…!領主さるうぃんノ呪術ノ効果ガ、ドンドン消エテイクゾ!)
そして、水の精霊たちは領主サルウィンのほうに向き直ると、改めて叫んだ。
(今マデ我ラヲ呪術デ縛リツケテキタ悪辣ナル領主さるうぃんヨ!我ラハ最早、貴様ノ呪術カラ自由ニナッタ。今コソ、積年ノ恨ミヲ晴ラシテクレヨウゾ。クラエ!)
そのまま、精霊たちの津波は、先ほどの倍の高さから、領主サルウィンのもとに押し寄せる。
(ふん!我の呪術を解除したぐらいで、いい気になるな!『これだけの高さから押し寄せれば、バリヤーで防ぎきれない』だろうと思ったのだろうが、しょせん、津波は上から下に落ちるもの。我が津波より上に行けば、貴様ら水の精霊は、手も足も出まい。)
そう言うと、領主サルウィンは、二百メートルほど上空に舞い上がってしまった。その真下の地面を、津波が無意味にえぐる。
(馬鹿ナ…我ラノ渾身ノ一撃ヲカワシタダト…!?)
(残念だったな。我は、もう一度、他の大陸に赴き、そこに住まう水の精霊たちに『服従の術』をかけて、我の手下にして戻ってこようぞ。それまで、首を洗って待っておれ!)
そう言って、領主サルウィンが亜空間を使ってテレポートしようとした瞬間…。
いきなり空が曇り始め、ガラガラと雷がなったかと思うと、大粒の雨が領主サルウィンに向かって降り注ぎ始めた。同時に、大粒の雨粒が領主サルウィンの手足をグッと掴み、亜空間へテレポートするのを妨げる。領主サルウィンがテレポートに集中している一瞬の隙をついて発動させた、俗に言う、「テレポート封じ」の術である。言うまでもなく、オーウェルが守護神カムチャダールの力を借りて、雨水の精霊たちを呼んできたのである。
(何じゃ、この雨水は…まるで意思を持っているかのように、我を拘束しようとする…。ぐわっ…!)
雨水は領主サルウィンの肩を掴んで拘束するのみならず、鼻や口からも入ってきて、領主サルウィンを溺れさせようとする。
(…ぐうっ…この程度で我を殺せると思うてか!この雨水の精霊どもに、我の『服従の術』をかけさえすれば…。)
(そんなこと、この私がさせません!)
ふいに、女神アムールが現れて、きっぱりと言い放つ。
(この雨水の精霊たちには、私が特別に『抗魔術』の術をほどこしてあります。この術を事前にほどこしておけば、かけられる魔術に対するワクチンとなり、後からかけられる大抵の魔術ははねかえされてしまいます。あなたの『服従の術』も、かける前にワクチンではねかえされたら、効果がありませんよ。)
そのまま、雨水は領主サルウィンの鼻や口からゴボゴボと入り、溺死させていく。
(ぐがあぁ…この地上で最強の神の一人である我が、こんな下っ端の神ごときに負けるとは…!)
領主サルウィンは、断末魔の叫び声をあげながら、力尽きた。
さて、領主サルウィンが死んだ後、リーザは水の精霊たちを、もともと居た大陸に戻そうとしたが、精霊たちは頑として拒否した。
(領主さるうぃんニ味方シタ輩ハ、断ジテ許スコトハデキン。我ラモ、ソノ『せるげい』ナル神官ヲ倒スタメニ、断固トシテ、ツイテイクゾ。)
(ダメよ。あなたたちの故郷の大陸には、広大な砂漠があるでしょう?あなたたちの役目は、そこに住まう遊牧民たちに、水と植物を与えてあげることなのよ。)
(シカシ…。)
(心配しなくても、私たちには、天気を操れる守護神カムチャダールや蒼天がいるわ。それに、これだけの量の水が道を行進していけば、洪水になるし。だから、あなたたちは、故郷に帰ってあげて…。)
ついには、頑固な精霊たちも、リーザの説得に負けて、故郷に帰ることになった。精霊たちは、大きな川に飛びこんで海に出て、海をめぐりめぐって故郷の大陸に着くと、地下水として砂漠へ流れこみ、そこに暮らす遊牧民たちの渇きを潤した。
その日の夜(といっても既に夜明け間近だが)は、一行は領主サルウィンとの死闘の疲れを癒すために、ぐっすり眠った。もっとも、リーザは眠れず、ずっと馬車の幌の外ばかり見ていた。
「リーザ、寝ないと、体がもたないぞ。」
見るに見かねたピョートルが声をかける。
「だって…エルゾが…エルゾがあぁ…。」
リーザは泣き出した。そのまま、ピョートルに抱きついて、わんわんと号泣し始める。
「エルゾは…大学時代の兄さんを知ってる、数少ない友達の一人だった…。私の知らない、兄さんのいろいろな顔を知ってた。笑顔も泣き顔も…。それら全てが、念話で伝わってきてたのよぉ。私、もっとエルゾと語り合いたかった。もっともっと、私の知らない兄さんを知りたかった…。」
リーザは、ピョートルの服のすそを、ギュッと掴み、目から涙をボロボロこぼしながら泣きじゃくった。
「兄さんはね…私が物心ついた時から、『長老の跡取り』として英才教育を受けさせられていて、私と遊ぶような時間なんか無かった。それでも、兄さんは、空いた時間をやりくりしたり、適当に口実を作って修行をエスケープしたりして、私と遊んでくれたのよ。私、兄さんから、いろいろなことを教わった。友達を思いやる心…敵を憎まず、許す心…その他、数え切れないぐらい、いっぱい優しさをもらったわ…。
大学に入ってからも、兄さんは忙しかったにもかかわらず、月に一度は手紙をくれた。私は、長老の孫娘として英才教育を受けさせられてる間、兄さんの手紙がどんなに励みになったか、わからない…。私は、そんな兄さんが大好きで、学業を終えてグリャーイ・ポーレの村に帰ってきたら、真っ先に迎えに行こうと思ってたのに…。
なのに、兄さんは学業の途中で死んで、兄さんの友達のエルゾまで死んじゃうのは、なんでよぉ…!兄さんやエルゾが、何をしたってのよぉ…!」
リーザは声を殺して泣いた。
「リーザ…。」
ピョートルは何と言っていいか、わからなかった。
「あの水の精霊たちに故郷へ帰ってもらったのも、砂漠の遊牧民たちのためなんかじゃない。本当は、エルゾをむごたらしく殺したやつらと、一緒に旅をしたくなかったからよ!私って、本当はそのぐらいの度量の広さしかない人間なのよ!兄さんに教わった、『敵を憎まず、許す心』を持つことができない…。私はセルゲイを憎んでるし、今までも死力を尽くして戦ってきたわ。しかも、エルゾが死んだことで、敵に対する憎しみしか、心に浮かんでこないのよ。でも、そんな自分が嫌いなの。戦うたびに、心が憎悪で真っ黒に塗りつぶされるみたいで…いやなの。」
リーザは泣きながら、ピョートルの胸板をこぶしでドンドンとたたいた。
「待て。それは違うだろう。僕は、リーザの力があったればこそ、ここまで来れたんだ。『もう、絶望的だ』と思った時、いつも隣でリーザが奮闘していた…。それを見て、『ここでくじけちゃならない』と何度も自分に言い聞かせてきた。こんなに勇気も力もあるリーザが、優しい心を持ってないはずがない。『心が憎悪で真っ黒に塗りつぶされるみたいで、いやだ』と感じるのは、リーザが優しいからだよ。自分に自信がないやつは、敵を憎むことしかできず、そんな自分を省みる余裕すら無いものだ。だから、修羅道をはいずりまわるセルゲイと違って、リーザは必ず、いつかは敵を許す心を持てる。もっと自分に自信を持たないといけないな。」
ふいに、リーザの嗚咽が止まる。それと同時に、ピョートルはリーザをギュッと抱きしめた。
「僕では、リーザの兄さんの代わりにはなれないかもしれない。でも、僕は僕なりにリーザのことを、仲間として信頼している。それだけでいいじゃないか。」
「ピョートルウゥ…。」
リーザは再び泣きじゃくり始めた。
(やれやれ…一人でつっぱって、強気に見せかけていても、まだまだ子供なんだ。その分、僕がしっかりしないといけないな…。)
ピョートルはリーザが泣きやむまで、ずっと優しく抱きしめていた。
そして、翌日、一行は十時頃になって、ようやく起きだして出発した。リーザは、昨夜さんざん泣きはらして、くまのできた目をこすりながら、井戸端で朝食のパンを食べていた。本当は、寝不足で食欲がないのにもかかわらず、リーザは胃袋に無理やり詰めこむように、パンを食べた。
エルゾの死をのりこえたつもりだったが、なにぶん、まだ十二歳の子供である。実際のところ、まだまだふっきれるのには時間が足りなかった。だが、ピョートルに、やりきれない気持ちをぶつけたことで、少し心の中のモヤモヤが晴れたような気がした。
(私は長老様の跡取り娘として、『どんな辛い時でも、仲間の前で泣いてはならない』と教えられてきた。でも、泣いたほうがすっきりすることもあるんだ…。)
リーザは、冷たい井戸水で顔を洗うと、平手で頬をパーンとたたいて、気合を入れ直した。
「さあ、もう、エルゾのことはふっきれたわ。セルゲイのもとへ、レッツゴー!」
だが、その日の昼頃に、一行は周囲の景色の異変に気づいた。
「おい、このモミの木、さっきもなかったか?」
ピョートルが、馬車の幌の中から叫ぶ。道のわきに生い茂っている、大きなモミの木を、かれこれ三回は見たような気がするのだ。
「本当だ。もう、三回は見てる気がするぜ。」
アリョールが言う。いつの間にか、霧もでてきていた。
「道に迷ったのかもしれない。とりあえず、この木に印をつけておこう。」
ピョートルは馬車を停めると、自分の名前をでかでかと書いた手ぬぐいを、モミの木の枝に巻きつけた。
「これからは、こうやって目印をつけながら進むんだ。だんだん、霧も濃くなってきているし、下手したら迷子になる。」
こうして、一行は再び進み始めたが、一時間ほど進んだところで、またもや、先ほどのモミの木のもとに行き着いてしまった。
「どうなってるんだ?聖カレオス寺院への道は、これ一本しかないはずだ…。守護神カムチャダール、俺たちは、どうなってしまったんですか?」
オーウェルが叫ぶが、守護神カムチャダールからの返事はなかった。女神アムール、女神アリーナ、蒼天からの返事もない。
「どうなってんだ?今夜は野営するつもりだったから、食料と水はたっぷり用意しておいたが…こんなのが何日も続けば、僕たちが餓死しちゃうぜ。」
夕方になって、たき火を囲みながら、ピョートルが言う。食料と水は、一週間分しかない。つまり、一週間以内に、この森をぬけられなければ、餓死するということだ。
「ちょっと待って。守護神カムチャダールと連絡がとれないということは、守護神カムチャダールの力でピョートルを守れないということよ。このままだと、ピョートルは餓死どころか、一度でも眠れば、セルゲイに呪い殺されちゃうわ。」
リーザの言葉に、一同はギョッとする。確かに、その通りなのだ。
「…これは、ひょっとすると、セルゲイのしかけたワナかもしれないぜ。」
アリョールが言う。
「人里離れた田舎にある聖カレオス寺院へ行く道は、この道だけだ。なら、セルゲイがワナをしかけておく可能性は充分ある。おそらく、やつは、この道を何回もぐるぐる回らせて、俺たちが餓死するのを待つつもりだ。」
そして、その直後、アリョールの言葉を裏打ちするように、霧の中にセルゲイの巨大な頭が現れた。
「その通りだ。よくぞ気づいたな。ほめてやろう。」
セルゲイの頭は、勝ち誇ったように、いやらしく笑った。
「先ほどの宿場町では、よくぞ、領主サルウィンを倒したものだな。だが、いくら貴様らが強くても、この『濃霧の森』をぬけることはできぬ。これは、わしが研究してきた精霊魔術の集大成だ。まわりの霧の精霊たちは、人間のいる物質世界と、神のいる精神世界との境界を支配している。もちろん、霧の精霊たちは水を司るため、水の精霊を眷族に持つ蒼天も、彼らには逆らえぬ。
まあ、貴様らも、これだけの仲間と一緒に死ねるんなら、さびしくはなかろう。いいかげん、観念して、死の床につくが良い。」
だが、リーザはバイコヌール大学でやったように、ひそかにセルゲイの後ろから近づき、頭をロープで縛って締めつけようとしていた。だが、その直前に、セルゲイの頭はいきなり、スーッと消えていった。
「ふん!小娘…そう、何度も同じ手はくわぬぞ!」
頭は、捨てゼリフを残して消え去った。
「くそっ、逃げられたか。お嬢ちゃん、何とかして、セルゲイの気配を追えないか?」
オーウェルが叫ぶ。
「無理よ。今回は、まわりの霧の精霊たちが徹底的に邪魔して、気配をかくしてるのよ。私以上の術者でないと、とても無理!」
リーザは、なかばヤケになって言った。だが、ふいに、ピョートルが疑問を口にする。
「でも、この霧の精霊たち、なんでセルゲイの命令通りに行動してるんだ?普通、精霊ってのは、多かれ少なかれ、自我があるもんだぜ。しかも、気まぐれときている…。こんなに長時間にわたって、一人の術者に忠実に行動するなんて、ありえないよ。セルゲイは、領主サルウィンほどの魔術のキャパシティを持ってないんだから、『服従の術』なんて使えないだろうし…。」
「そう言われてみれば、そうね。これは、調べてみる必要がありそうだわ。」
とりあえず、リーザとピョートルは、精霊の言葉で話しかけてみることにした。
(霧の精霊さん…あなたたちは、どうしてセルゲイに味方するの?)
最初は何も答えてくれなかった精霊のうちの一人が、リーザとピョートルが念話で何度も話しかけることによって、次第に心を開くようになった。
(我々ハ、せるげいトハ主従関係ニナイカラ、本来ナラ、ヤツニ協力スル筋合イハアリマセン。ソレニ、アナタガタハ、動物ノ化身デアル女神ありーなヤ、水ヤ大地ノ精霊を眷族トスル守護神かむちゃだーるヤ蒼天ノ信徒デアル以上、本来ナラ我々ノ味方デス。ダガ、せるげいガ、彼ラヨリ高位ノ神ト契約シテイル以上、せるげいニ協力セザルヲ得ナイノデス…。)
(女神アリーナより高位の神だって?いったい、どんな神なんだ?)
ピョートルは不思議に思った。普通、精霊を操れるような高位の神といえば、領主サルウィンのレベルの神である。
(教えてくれ。どんな神なんだ?)
ピョートルは、つっこんで尋ねるが、精霊たちは、とたんに沈黙してしまった。
(オ許シクダサイ。ドンナ神ナノカヲ、シャベッテシマッタノガ、せるげいニバレタラ、私ハせるげいニ殺サレテシマイマス。我々ノ会話ナンテ、せるげいニハ筒抜ケナノデスカラ…グワッ!)
勇気を出してピョートルたちに真相を伝えようとした精霊の一人は、急に苦しみだしたかと思うと、パンッと乾いた音をたてて、生命の宿らない、ただの霧になってしまった。
それを見た他の精霊たちも、口をつぐんでしまう。
「セルゲイのやつ…今度は、どんな強力な神と契約したってのよぉ?」
「おそらく、キュリロス正教の唯一神『聖キュリロス』だ。リーザもアリョールもオーウェルも皆、キュリロス正教を信仰していない少数民族…なら、少数民族の神に対抗するために、聖キュリロスの力を借りるってのは、神学的にも理にかなっている。実際、これだけの精霊を支配できるだけの力を持っている神は、聖キュリロスしかいない。」
ピョートルが言う。だが、リーザたちは半信半疑だった。
「でも、聖キュリロスと言えば、この世で最強の神の一人よ…。おまけに、契約には、いけにえや供物ではなく、軍の将軍クラスの魔術のキャパシティを必要とするわ(将軍クラスになると、前線で戦わねばならないため、高度な攻撃魔術も使えるように、魔術のキャパシティを高める訓練も受けているのである。)。魔術のキャパシティの低い一介の神官が、そんなのとどうやって契約できるわけ?」
「わからないよ…。でも、今までの経緯からして、セルゲイの魔術のキャパシティは将軍クラスと見ていいんじゃないかな?トゥーラの体内での戦いといい、バイコヌール大学での戦いといい、やつは攻撃や呪いに関する魔術のエキスパートと見ていい。なおかつ、目的を達成するための意思は、ものすごく強固だ。常人には制御しきれない聖キュリロスも、やつなら制御できるかもしれない…。」
「…そうだとしたら、大変なことだわ。私たちは皆、聖キュリロスと戦った経験がないのよ。しかも、聖キュリロスは領主サルウィンと違って、純粋な精神体だから、雨粒で窒息させることもできない…。さすがに今度ばかりは、今まで通りには、いきそうにないわね。」
リーザが眉間にしわをよせながら言う。
「やれやれ…今度ばかりは、キュリロス正教をいくらか信じていて、ルーシ族である僕の出番だな。僕が聖キュリロスを説得してこよう。聖キュリロスは異教の神を信じている者たちを、ものすごく嫌うから、リーザたちが説得しようとしても相手にしてもらえないだろう…。でも、女神アリーナなどと違って、契約時に『血の契約』などの儀式や、供物を必要としない神だからな。異教の神を信じていない僕が命をかけて説得すれば、応じてくれるかもしれない。」
ピョートルが言う。こうして、ピョートルが聖キュリロスのいる精神世界へ行くことになった。ピョートルが呪文を唱えて印を組むと、ピョートルの魂は聖キュリロスのもとへ行った。
「誰じゃ?余に会いたがっている者は…。最近は、余に願い事をしに来る者が多いのぅ。」
灰色の精神世界で、たった一日の間にたてつづけに二人も客を迎えた聖キュリロスは、いささか大儀そうに言った。実際、聖キュリロスは、紫色のローブを着て白髪をなびかせた、誰の願いもかなえそうな、人の良さそうな爺さんだった(一人目の客は、言うまでもなく、セルゲイである。)。
「そなたは、余に何か願い事をしに来たのであろう。だが、願い事なら、余は、世界中に何千万人もいる我が信徒たちから、『願いをかなえてくれ』と言われ続けておる。中には、倍率が数倍の試験で、『うちの子を合格させてくれ』という願いが、受験生全員の親からよせられることもある…。だから、余は、願い事をしに来る者に、よほどの覚悟と自助努力がない限り、願い事をかなえないことにしておる。」
聖キュリロスは、ピシャリと言い放つ。
「…で、そなたは余に何をお願いしに来たのか?」
「はい…グリャーイ・ポーレの村に住まう、トゥーラという少女の足を治してほしいのです。彼女の傷は魔術によるものですが、その魔術をかけた、セルゲイ・ポベドノスツェフなる神官を助けるのを、おやめになっていただきたいのです。彼は、自分の肉親を殺されたのを逆恨みして、トゥーラに魔物を憑依させて殺そうとしております。ですから、濃霧の森の精霊に命じて、僕たちを聖カレオス寺院まで送り届けてほしいのです。」
「もう良い。そなたの言い分、よくわかった。だが、セルゲイのほうも、それなりの覚悟と自助努力をしておる。余にすがりつく際には、装着したばかりの不自由な義手の左手を使って、余の像を刻んだ(魔術で作る義手はあるが、この義手は装着してから一日目が、動かす際に、左肩の神経が最も痛いのである。)。しかも、そなたたちの信奉しているのは、女神アリーナなどの異教の神であろう。おまけに、そなた自身も、女神アリーナと『血の契約』を交わした身…余がどれだけ異教の神を嫌っているか、知らぬわけではあるまい。
だいたい、異教の神である女神アリーナや守護神カムチャダールは、文明を破壊して原始時代の無秩序の世に戻そうとたくらむ神だ。余は、文明の進歩や秩序を司る神…文明なくして、平和や秩序は守れぬ。ゆえに、そなたの如き、異教の神と契約を交わした輩の願いは聞きいれることはできぬ!」
聖キュリロスは、そっけなく言い放つ。だが、ピョートルは負けじと言い返す。
「確かに、僕は女神アリーナと『血の契約』を交わしました。ですが、それはすべて、博士論文を書き上げるために、アリーナ族の村に入らなければならなかったからです。博士論文のテーマは、『少数民族と神との関係』です。決して本心から女神アリーナを信奉していたわけではありません。」
聖キュリロスは、しばらく考えこんでから言った。
「ふむ…そなたの言い分はわかる。だが、余としても、異教の神と契約した者の願いを聞き入れてやるわけにはいかぬ。どうしたものかのう…。」
聖キュリロスは考えこんだ末に言った。
「よし!ならば、セルゲイと、思いの強さを競い合ってみるがいい。これからやることには、余は双方に一切、手を貸さぬ。すべて、自分たちで解決してみせよ!」
こうして、セルゲイまでもが聖キュリロスの精神世界に呼び出されて、課題を言い渡された。
「そなたたちには、余の簡単な聖像画(神や聖人を描いた絵画)を描いてもらう。聖像画は完成までに数日を要する。期間は一週間だ。うまくできたほうの願いを聞き入れようぞ。必要な物があれば、何でもやろう。」
そう言うと、聖キュリロスは精神世界から二人を出した。
「おかえりなさい、ピョートル…首尾はどうだった?」
精神世界から魂が戻ったピョートルに、リーザが尋ねる。ピョートルは、いきさつを簡単に説明した。
「聖像画なんて、完成まで数日はかかる。それまで眠らずに作業するなんて、僕には無理だ。」
「そんな悲観的なこと言わないで!私たちも手伝うから…『後悔』なんてのは、やった後でやるから、『後悔』なのよ!」
「でも、リーザは絵の心得なんて無いだろう?」
ピョートルが再び悲観的なことを言う。
「なら、俺が手伝うぜ。」
ふいに、オーウェルが口を挟む。
「俺たち狩猟民は、『動物がたくさん獲れますように』という願いをこめて、洞窟の壁に絵を描く習慣があるんだ。だから俺も、絵を描くことにかけちゃ、ちょいと自信があるぜ。まあ、さすがに、ルーシ族の神である聖キュリロスの絵なんか描くのは、これが初めてだけどな。」
「よし!あとは、ピョートルの覇気の問題よ。二日や三日眠らなくても、聖像画を描きあげられるかどうか…。私たちも手伝える所は手伝うし、ピョートルが仮眠をとっている際に、セルゲイが呪い殺そうとする波動をキャッチしたら、すぐにたたき起こすから!」
こうして、聖キュリロスから画材を渡され、聖像画製作がスタートした。だが、ほとんど故郷の村から出たことのないオーウェルは、ルーシ族の寺院にまつられている聖像画なんて見たこともない。おまけに、聖像画なんてのは、洞窟の壁に絵の具で絵を描くのとは勝手が違うのだ(なにしろ、聖像画の場合は、神の背後に光の輪を描かなくてはならない。写実的な絵しか描いたことのないオーウェルは、これが大の苦手だった。)。一方、ピョートルのほうは、不眠不休で描かねばならないので、疲れがたまって、とても描けたものではない。
その点では、大学の神学部で学んだ経験のあるセルゲイのほうが、うわてだった。神学部では、修行の一環として、イコン(神や聖人を板にレリーフにして描く絵画)を描く講義もあるのだ。聖キュリロスを始め、ありとあらゆる天使や聖人を描くことに興味があり、講義を熱心に受けて最高の評価を受けたセルゲイにとって、この程度は、おてのものだった。
(くっくっく…聖キュリロスのような、『キュリロス正教』という世界宗教における唯一神は、ある意味、扱いやすい。『あやつらが女神アリーナなどの異教の神の信者だ』と事前に吹きこんでおけば、わしに有利な課題を用意しておいてくださるのだからな。あのルーシ族の若僧が、女神アリーナと『血の契約』を交わしたのは、においでわかる。あやつからは、あの大反乱の指揮官の一人であるハルナと同じにおいがしたからな。
それに、いざとなれば、あの若僧を呪い殺すこともできる。あやつさえくたばれば、少数民族である他の連中の運命など、決まったも同然…。濃霧の森からぬけられず、遅かれ早かれ餓死だ。)
セルゲイは笑いが止まらなかった。左手の義手は、まだ使うたびに左肩の神経のつけねがズキズキ痛んだが、そんなことも気にならないぐらい、ウキウキしていた。
(可愛い妹、ナスターシャよ…おまえの霊前に、おまえを殺した反乱軍の指揮官の身内の首をそなえてやれる日も近い…。だから、もう、わしの夢に出てきて、わしを悩ませないでおくれ。おまえが夢に出てくるたびに、わしまで辛くなる…。)
そして、翌日(義手の装着から二日目)になると、いくらか、痛みもやわらいできた。
(よし。これなら、あの若僧には負けはせんぞ。)
セルゲイは、聖像画にありったけの情念をこめて描いた。
一方、ピョートルのほうは、描きあぐねていた。ピョートルとて、大学時代にイコンを描く修行をしてはいるが、興味のない分野だったため、あまり本気で修行したわけではなく、講義の評価は、何とかギリギリで単位が取れる程度だった(ピョートルとしては、聖キュリロスよりも、精霊を人間的に描くほうが、しょうに合っていたのである。)。おまけに三日目ともなると、疲れが出てきて、筆を握る手が震えるようになってきていた。
「ピョートル、少し仮眠をとったほうがいいんじゃない?手が震えてるわよ。」
リーザが言う。ピョートルは眠らないために、食物を絶って胃袋を空にしていて、水しか飲んでないため、頬がこけ始めていたのである。
「そうだな。少し仮眠をとるとしよう。」
だが、セルゲイは、その瞬間を見逃さず、ピョートルが眠って五分とたたないうちに、夢の中でなたを持ってピョートルに襲いかかってきた(セルゲイのほうは、常に魔術によるネットワークをはりめぐらせて、ピョートルが寝ているかどうか、監視しているのである。)。すかさず、リーザがピョートルを花瓶で殴って、たたき起こす。
「いてて…これじゃ、休憩も満足にできないな…。」
「そんな泣き言を言ってる時間も惜しいわ。さっさと描きましょ。」
リーザも率先して描き始める。
「とりあえず、聖キュリロス自身が、『自分をどう描いてほしいか』を考えるのよ。どんな神だって、自分を悪魔のような恐怖の対象としては見てほしくないはずよ。女神アリーナだって、ある程度は信者を畏怖させようとするけど、過度に畏怖させることは望まないわ。ピョートルも、キュリロス正教について学んだことがあるんなら、聖キュリロスが自分をどう描いてほしいか、何となくわかるでしょう?」
(あ…なるほど。僕は、何かとんでもない思い違いをしていたのかも…。
そういえば、聖キュリロスは、『余は、文明の進歩や秩序を司る神…文明なくして、平和や秩序は守れぬ』と言ってたっけ。僕が描きたいものは、『文明によってもたらされる平和』じゃないのかな…。文明の進歩による、理知と和…原始時代に押し戻す無秩序よりも、文明による平和こそが、僕の描きたい理想なんだ。)
リーザからの助言は、ピョートルに天啓に近い効果を与えた。実際、眠れないというギスギスした気持ちで描いた聖キュリロスは、見る者に慈愛よりも、恐怖を抱かせるような絵になっていた。
「そうよ…やっと、絵を描くことの意味がわかってきたみたいね。私も女神アリーナをスケッチしたことがあるから、ある程度なら手伝えるわ。忘れないでいてほしいけど、これはピョートルだけの作品ではなく、私たちの共同作品なのよ。私たちは皆、ピョートルと一蓮托生なんだから。」
こうして、ピョートルとオーウェルだけでなく、リーザも苦手な油絵に挑戦し始めた。同時に、アリョールは食事を作る係になった(もっとも、料理の心得のないアリョールの作る食事は、まずいと不評だったが。)。
さて、双方が絵を描き始めて五日目…セルゲイのほうは、確実に完成に近づきつつあった。ピョートルと違って睡眠時間をたっぷりとっているだけ、セルゲイには体力的に余裕があった。
(くっくっく…あの若僧は、もう四日も寝ていない計算になる。もう体力も限界に近かろう。)
そして、セルゲイは、聖キュリロスが「こう描いてほしい」と願うだけの描き方がわかっていた(この点は、大学時代に真面目に講義を受けたかどうかが如実に反映される。)。
(聖キュリロスは、『威厳』と『慈愛』を兼ね備えた姿を描いてほしいと思っていらっしゃる。)
セルゲイは、威厳と慈愛という、相反するような概念を絵に溶けこませるような描き方に秀でていた。だが、絵には、心の中に浮かんでいる感情が、じかに反映されるものである。心が闇に侵蝕されていれば、おのずから、それは絵に現れる。日を追って、セルゲイの絵には、「ピョートルたちを陥れてやりたい」という歪んだ欲望が、如実に現れ始めていた。
こうして、一週間後の勝負の日を迎えた。ピョートルとセルゲイは、聖像画を持って、聖キュリロスのいる精神世界へ行った。
「おぬしら、二人とも、よく描きあげたな。褒めてつかわす。特に、ピョートル…おぬし、やつれたうえに、目の下にくまができているではないか。大丈夫か?」
「大丈夫です!それより、早く聖像画をご覧になってください。」
ピョートルは、眠気と空腹で意識を失いそうなのを、なんとか踏みとどまって言った。
「よし。まずは、ピョートルの絵から見よう。」
聖キュリロスは、ピョートルの聖像画を手にとって、ながめた。
「ふふふ…荒削りじゃな。色の塗り方といい、使い方といい、まるで子供の描いた絵じゃ。そなたも大学でイコンの描き方を習ったくせに、こんな絵しか描けぬとは…。特に、光の輪が、てんで上手に描けておらぬ…。コンパスで円を描くのも満足にできぬのか?」
聖キュリロスは、侮蔑の笑みを浮かべて言った。
「良い所といえば、余の姿の輪郭が正確なことだけじゃ。そなたは初日だけしか満足に下絵を描いてなかったのか?50点!」
ピョートルは、ガックリとひざをつく。
(…たった50点かよ…。セルゲイは絶対に80点以上とるだろうに…。リーザ、アリョール、オーウェル、ごめんよ。僕に画才がないばっかりに…。)
だが、セルゲイの聖像画を見た途端、聖キュリロスは顔をこわばらせた。
「…何じゃ、これは…。そなたは、余を悪魔として描きたいのか?」
「…おっしゃる意味がよくわかりません…。私は、威厳と慈愛を前面に押し出して描いたのであって…。」
「『おっしゃる意味がわかりません』とは、余のセリフじゃ!そなたは、この絵を描くにあたって、何を考えておったのじゃ?ピョートルたちへの憎しみしか、意識してなかったのではないのか?そなたの絵では、威厳は『見る者を恐怖させる表情』、慈愛は『地獄への道は善意のじゅうたんで敷きつめられている』という格言の、善意のじゅうたんそのものじゃ!40点!」
「…なんとおっしゃいますか…?」
今度は、セルゲイがガックリとひざをつく番だった。
「この勝負、ピョートルの勝ちじゃ。よって、ピョートルの願い通り、濃霧の森を覆っている霧の精霊たちを、撤収させよう。さあ、ピョートル、セルゲイのもとへ行って、勝負をつけるがいい!」
「ありがとうございます!」
そう言うと、嬉しさのあまり、ピョートルはそのまま意識を失い、自分の体に戻ってしまった。
「見て。霧が晴れていくわ。」
リーザが馬車の幌の外を指差す。
「どうやら、セルゲイの魔術が破れたみたいね。ピョートルも自分の体に戻れたし、出発しましょ。早くセルゲイを倒さないと、魔物にとりつかれてるトゥーラの体力がもたないわ。」
「よし、出発だ。今度こそ、セルゲイの息の根を止めるぞ!」
アリョールが馬車を走らせる。
道中、目立った妨害もなく、馬車は、その日の夕方には、聖カレオス寺院に着いた。さすがに、廃寺らしく、門や外壁が、あちこち崩れており、雑草がおいしげっていた。
「セルゲイ、もう逃げられないわよ!おとなしく出てきなさい!」
リーザが、すっかり壊れてしまっている門から入り、声をはりあげる。オーウェルとアリョールは、疲れが出て動けないピョートルを守って、馬車の幌の中にいた。
だが、リーザが門の中に一歩踏み入れた途端、寺院の奥から巨大な魔術弾が何発も飛び出してきた。
「きゃっ…!」
リーザは、あわててバリヤーをはる。
ドオオォン…。ドオオォン…。ドオオォン…。
数発の魔術弾がバリヤーを揺るがす。
(くっ…あらかじめ、バリヤーをはる印を組んでたから良かったものの…あのまま直撃してたら、私はもちろん、ピョートルたちも吹っ飛んでるところだわ。)
リーザは改めてセルゲイの魔術のキャパシティの大きさを思い知った。
そうこうするうちに、セルゲイが、崩れかけた寺院の玄関から出てくる。
「道中、あれだけの妨害にあいながら、よくぞここまで来れたものだな。褒めてやろう。だが、ここが、うぬらの墓場だ。この寺院は、わしの庭のような場所だ。いくら、うぬらが強くても、わしの召喚する魔物から身を守りきれるかな?」
そう言うと、セルゲイは異世界から魔物を召喚するための印を組んだ。同時に、寺院の礼拝堂を中心にして小石で描かれた魔方陣の中央に、巨大なトカゲのような魔獣が召喚されてくる。
「これは、魔獣『パンテル』だ。こいつの体は硬いうろこで覆われていて、剣では傷を負わせることができない。魔術とて、たいていの魔術は、うろこではじき返してしまう。おまけに、口から火を噴くときている…。さあ、こいつを倒せるもんなら倒してみろ!」
そう言うと、セルゲイは印を組み、パンテルを操り始めた。パンテルはリーザのほうに向けて突進してくる。
「助太刀するぜ、お嬢ちゃん。」
リーザの危機を救うために、馬車の幌の中から、オーウェルが飛び出してくる。
「守護神カムチャダールよ、この魔獣を倒すために、大地の精霊の力を貸したまえ!」
オーウェルの言葉に呼応するかのように、パンテルの足元から、鋭くとがった岩が隆起して、パンテルを串刺しにしようとする。だが、岩はパンテルに当たっても、パンテルのうろこを傷つけることはできなかった。やがて、パンテルは巨大な火を噴く。
ゴオオオォッ…!
これはリーザがバリヤーで防ぐ。だが、炎とともに、突進してきたパンテルの巨体がリーザのバリヤーに激突する。
バシイィッ…!
「きゃああぁ…!」
リーザのバリヤーでは突進を防ぎきれず、バリヤーが破れる。そのまま、無防備なリーザに向かって、パンテルが突っこんでくる。
「まずい。守護神カムチャダールよ、お嬢ちゃんを…。」
オーウェルの呼びかけに応じて、巨大な岩がせりあがってリーザを持ち上げ、パンテルの突進コースからはずれさせる。だが、パンテルはそのまま、ピョートルとアリョールの乗った馬車に突進してくる。
「しまったッ。剣士さん、馬車を…。」
「おうッ。」
アリョールは馬首をめぐらして、パンテルの突進のコースを避ける。同時に、アリョールはオーウェルに向かって叫ぶ。
「オーウェル、今から魔術を使うから、リーザに当たらないように、しっかりバリヤーをはってくれ。」
「わかった。」
その直後、アリョールは蒼天に向かって叫んだ。
「雨を降らせ、日光をあまねく降り注がせる万物の母、蒼天よ!あなたの御力でもって、魔獣パンテルに宇宙の熱や放射線を凝縮して降り注いでください。」
(承知した!)
その直後、上空から熱や放射線の塊が、竜巻のように、ごうごうと不気味な音をたててパンテルに降り注ぎ、パンテルは「ギャオオォーン…!」という断末魔の悲鳴とともに消滅した(もちろん、アリョールはピョートルをバリヤーで守っている。)。
「あんまり俺らをなめてもらっちゃ困るな。おまえさんの庭なのは、寺院内部の、その魔方陣の中だけだ。さっきの魔獣パンテルのように、馬車を攻撃しようとして魔方陣から出てしまうと、おまえさんの結界は防御の役に立たなくなるってわけだ。」
アリョールがこともなげに言う。
「ふん…ならば、わしが結界から出なければいいだけの話ではないか。うぬらは、結界を越えて攻めこめないのだからな。この寺院の建物すべてが、わしの結界の中じゃ!さあ、どうやって攻めこむ?そうこうしているうちに、トゥーラという娘の傷は悪化する一方だぞ。ケガをしてから、だいぶ時間がたっておるから、あの娘は、もって明日の夕方までが限度だ。」
セルゲイは余裕たっぷりに言った。同時に、魔方陣の中心からは、魔獣パンテルが三匹も召喚されてくる。パンテルのうち、一匹は倒れているリーザのほうに向かい、一匹はオーウェルのほうに向かい、一方はアリョールの馬車のほうに向かってくる。
「どうじゃ!これだけの魔獣の攻撃を防ぎきれるもんなら、防いでみろ!」
だが、オーウェルは守護神カムチャダールに念じた。
「大地の恵みを司る守護神カムチャダールよ。地割れを起こして、この魔獣めらを地中に呑みこみたまえ!」
同時に、地面に幾筋もの地割れがはしり、三匹のパンテルは全て地割れに呑みこまれた。地割れはセルゲイのいる魔方陣のほうへも向かったが、セルゲイは印を組んで地割れを止める。
「ありがとう。助かったわ。オーウェル…。」
パンテルにバリヤーを破られた衝撃で地面にたたきつけられて、一瞬、意識を失っていたリーザが言う。
「しゃらくさい!チェルケス族の守護神ごときが、わしの召喚した魔王に勝てるものか!」
その言葉に、リーザは耳をそばだてる。
「…今…何て言ったの?『魔王』とか言わなかった?」
「そうじゃ。古より、この世に災いをもたらせし、異世界の魔王『ピット』じゃ。わしは、右足の小指を切り落として、魔王ピットと契約した。こいつの魔力は、小さな島なら一瞬で消し去るほどのものじゃ…。」
「何てことを…ピットのような大物と契約を結んだりして、ピットが負ければ、あなたの左手どころか、あなたの命で代価を支払わなければならなくなるのよ!」
「何とでも言うがいい!わしは、もう、ナスターシャを生き返らせる魔術の研究など、どうでもよくなった。うぬらを皆殺しにすることだけが、わしの望みじゃ!さあ、魔王ピットよ、降臨せよ!」
セルゲイが言い終わると同時に、魔方陣の中心から、巨大なヤギのような頭をした、真っ黒い魔王が現れる。魔王ピットは、体中が黒いヤギの毛のようなもので覆われており、手足は毛むくじゃらの人間のようだった。
「魔王ピットよ、よく降臨なされました。早速ですが、あちらの人間どもを片付けてくださいませ。」
「承知した。」
そう言うと、魔王ピットは、口から炎を吐いた。リーザがとっさにバリヤーをはるが、炎はバリヤーを溶かして、リーザに襲いかかる。
「守護神カムチャダールよ、お嬢ちゃんを守りたまえ!」
オーウェルの声とともに、リーザの前方に岩が隆起するが、炎は岩を溶かして溶岩にしながらリーザに襲いかかる。
「逃げろ、お嬢ちゃん!」
オーウェルが言い終わるよりも早く、リーザは風の精霊に働きかけて強風を起こし、強風に吹き飛ばされるようにして後方へ逃れた。
(まだ半分の力も出してなさそうなのに…なんて魔力なの…。)
リーザは改めて魔王ピットの強大さを思い知った。同時にアリョールが叫ぶ。
「バリヤーをしっかりはっとけ!」
その声に、リーザとオーウェルは必死でバリヤーをはる。
「雨を降らせ、日光をあまねく降り注がせる万物の母、蒼天よ!あなたの御力でもって、我らの眼前の魔王ピットに、ありったけの宇宙の熱や放射線を凝縮して降り注いでください。」
(承知した!)
そして、魔王ピットに、先ほどの魔獣パンテルに降り注がれた量の三倍もあろうかという量の熱や放射線が降り注がれる。リーザとオーウェルは、宇宙からの熱や放射線を防ぐために、前にも増して厚いバリヤーをはり続けた。
「くううぅ…バリヤーが重い…。」
そして、蒼天からの熱や放射線の放出が終わったとき、リーザとオーウェルは力を出し尽くして、フラフラになっていた。一方、魔王ピットはと言うと…防御に使った左手は消し飛んでいたが、その他に傷らしい傷は見当たらなかった。
「ククク…人間どもよ。さすがに、さっきの攻撃は効いたぞ。だが、我に致命傷を負わせるほどの傷ではなかったな。」
そう言うと、魔王ピットの左手は、付け根から再び生えた。
「くっ…あれだけの攻撃をくらって、消滅しないなんて…雨を降らせ、日光をあまねく降り注がせる万物の母、蒼天よ!あなたの御力でもって、再び宇宙の熱や放射線を凝縮して降り注いでください。」
(…無理だ。今の一撃で、私は力を使いすぎた。これ以上、力を使えば、私のほうが消滅してしまう…。)
「そんなぁ…。」
さすがのアリョールも、これには絶句してしまった。
一方、魔王ピットは次に炎を噴く態勢を整えている。
「皆…あの魔方陣から、遠くに逃げろ。あの手の魔王は、召喚された魔方陣の近くでしか、力をふるえないものだ…。逃げれば、追ってはこれないさ。」
今まで馬車の幌の中で死んだように眠っていたピョートルが、起きだしてきて言う。
「どうやら、ピョートルに何か考えがあるみたいね。ここは、ひとまず馬車に戻り、後方にバリヤーをはりつつ撤退よ!」
リーザが叫ぶ。こうして、四人は馬車に乗って、近くの峠まで撤退した。
「で、峠まで戻ってきたけど…この後、どうする気?」
リーザがピョートルに尋ねる。既に日はとっぷりと暮れて、夜になっていた。
「バイコヌール大学で衛兵たちと戦った際に、奪った白銀の剣があっただろう。ちゃんとなくさずに持ってるか?」
「うん。まあ、高値で売れそうだから、旅費の足しにと思って、一応、持ってたけど…。」
リーザが馬車の幌から、白銀の剣を取り出す。
「これは、『ヴィルヘルムの聖剣』さ。僕は大学で白魔術を多少は習ってるから、実物を見れば、わかる。五百年ばかり前に、サン・ジュスト師という魔道士が鍛え上げた、魔王ピットに傷を負わせるための剣だ。これで魔王ピットに斬りつければ、斬りおとされた部分を再生できなくなるし、心臓に突きたてれば、倒せる。」
「問題は、どうやって心臓に突きたてるか、ね。私たちのバリヤーじゃ、あいつの炎を防ぎきれないわ。あれは、炎なんてもんじゃないわよ。まるで灼熱の太陽の熱であぶられるみたいだったわ。」
「要は、魔王ピットを魔方陣から出せばいいんだ。魔王ピットが100%の力を出せるのは、魔方陣の中だけだからな。魔方陣から出て僕たちを追っかけてくれば、ヴィルヘルムの聖剣で倒すチャンスはある。」
「問題は、どうやって魔方陣の外に出すかよ。ほっとけば、明日の夕方には、トゥーラが、とりついた魔物にとり殺されるわ。セルゲイはそれまで魔王ピットを魔方陣の中で待たせとけば、事が済むんだから。」
一同は、そこで沈黙してしまった。確かに、魔王ピットをうまく魔方陣の外におびき出す方法なんて無いのである。
「ほら、そろそろ晩飯ができたから、食えや。『腹が減っては戦ができぬ』って言うだろう。まあ、晩飯って言っても、さっき捕ってきたイノシシの肉と、キノコの煮物だけだがな。」
オーウェルが鍋を持ってやってくる。
「そういえば、今日は朝食を食べたっきりだわ。どおりで、お腹がすくと思ったら…。オーウェル、ありがとう。」
リーザは鍋の中身をお椀に盛ると、ガツガツ食べた。
「ところで、魔王ピットを魔方陣の外におびき出す方法だけどな…あの魔王は、人肉を何よりも好むんだ。現に、セルゲイは自分の右足の小指を差し出しただろう。」
「よしてよ!『私たちの中から、いけにえを差し出す』なんて言うのなら、私は絶対にいやよ!」
ピョートルの言葉に、リーザは露骨に不快そうな顔をする。
「そう言うなよ。何も、僕たちの中から誰かを人身御供に差し出そうなんて言うんじゃない。以前、領主サルウィンを倒した際に、こんなこともあろうかと思って、オーウェルに頼んで、領主サルウィンの死体を守護神カムチャダールに保管してもらってたんだ。あいつは半人半神の体をしているから、今回のエサには、うってつけだぜ。僕が大学で習った限りでは、異世界の魔王なんてのは、普通の人間よりも半人半神のほうを好むからな。『神の体のほうが栄養素を吸収しやすい』という理由で…。」
ピョートルが言う。同時に、地割れがして、守護神カムチャダールが領主サルウィンの死体を出す。
「よし、そうと決まれば、早速、行動開始だ!今度こそ、セルゲイに思い知らせてやろうぜ!」
アリョールが叫ぶ。
「待て!僕たちは、この辺の地理に詳しくない。しかも、今は夜だ。魔王は夜目がきくから、今は僕たちが不利だ。夜明けを待って行動しよう。」
ピョートルが言う。こうして、その夜は、馬車の幌の中でゆっくり寝ることになった。
こうして、翌朝の七時頃、馬車は再び、聖カレオス寺院の前に現れた。
「何だ?しょうこりもなく、また来たのか…。魔王ピットよ、昨日と同じように、痛めつけてやってください。」
だが、魔王ピットの反応は、昨日と違った。鼻をヒクヒクさせ、口からよだれをツツーッと垂らしながら馬車を見つめていたかと思うと、馬車めがけて走り出す。それを見たピョートルは、馬首をめぐらして、反対方向へ全速力で馬車を走らせる。あっという間に、魔王ピットは魔方陣から出てしまった。
「…しまった!やつら、人肉でも用意してきたな。急いで呼び戻さねば…。」
セルゲイが魔王ピットを呼び戻そうと、両手で印を組もうとした瞬間…。
「あんたの相手は私よ。」
リーザが魔方陣の中に入って、中央にいるセルゲイの左側から斬りかかる(セルゲイが眼前の馬車にばかり気をとられていたので、リーザは安々と魔方陣の中に侵入できたのだ。)。セルゲイはあわてて、鋼鉄製の義手の左手で、剣を受ける。同時に、セルゲイは右手で足元の剣を拾うと、引き抜いた。
「へえ、多少は武術の心得があるみたいね。でも、剣を振るいながら魔術の印を組むのは、よほどの術者でないと無理よ。あんたにそれができる?」
リーザは余裕しゃくしゃくで言いながら、剣で斬りつける。
ガッ…キンッ…キンッ…。
既に十合ぐらいは打ち合っただろうか。ふだんから頭脳ばかり使って、運動をあまりしないセルゲイには、疲労の色が見え始めていた。
(こやつ…まだ子供のくせに、なんというパワーだ。一回打ち合うごとに、手がしびれるわい…。だが、まだまだ、足元が甘いッ。)
セルゲイはリーザに足払いをかけた。
「きゃっ…。」
不意打ちをくらったリーザは、しりもちをつく。
「子供にしては、よくやったが、まだまだだな。とどめだ。」
セルゲイはリーザに剣を振り下ろす。だが、リーザは地面を横に転がって、間一髪でかわす。同時に、リーザは腹筋の要領で起き上がり、セルゲイの足に斬りつける。
「くっ…!」
セルゲイは紙一重でかわす。
「やるじゃないの。」
起き上がったリーザは、再びセルゲイに斬りつける。
ガッキィン…。
「ふふふ…今までに、二人といない好敵手だ。小娘、うぬと戦えることを、神に感謝するぞ。」
セルゲイは不敵に笑った。
一方、こちらは、馬車を動かしているピョートルとアリョールとオーウェルのほう…。
「ダメだ。魔王に追いつかれるぞ!」
ピョートルが叫ぶ。それぐらい、魔王ピットの足は速かった。
「リーザが思う存分、セルゲイと戦えるように、僕らができるだけ魔王を魔方陣から離しておかないと…。」
だが、次の瞬間、馬車の幌は、後ろから伸びてきた魔王ピットの右腕によって破られる。もっとも、それはヴィルヘルムの聖剣を持っているアリョールに、攻撃のチャンスを与えたのだった。
「あんまり欲をかくと、後悔するぜ、でくのぼう!」
アリョールは、ヴィルヘルムの聖剣を一振りして、魔王ピットの右腕を斬りおとした。
「ぐがあああぁっ…!」
魔王ピットの悲鳴が響きわたる。もはや、昨日のように、損傷を受けた腕が再び生えてくることもなかった。
「まさか…その剣は…?」
「そうさ。てめえに傷を負わせることのできる、ヴィルヘルムの聖剣さ。」
魔王ピットはしばらく狼狽したが、すぐに立ち直り、言った。
「…ならば、その聖剣ごと、我が炎で焼き尽くしてくれようぞ。くらえ!」
ゴオオオォッ…!
魔王ピットは、特大の炎を噴いた。まるで馬車を覆いつくすような巨大で高温な炎である。
「なら、こちらも蒼天の熱と放射線の攻撃だ。どっちが強いか、勝負だ!」
アリョールは蒼天の力も借りて、分厚いバリヤーをはりながら、炎に対して、ありったけの宇宙の熱と放射線をぶつけた。魔王ピットの炎はバリヤーをつき破って、馬車の幌をチリチリと焦がしたが、ピョートルもアリョールもオーウェルも動じなかった。そうこうするうちに、魔王ピットの炎と、蒼天の熱と放射線が相殺されて、どちらにもダメージを与えることができなかった。だが、アリョールは力を出し尽くして、馬車の幌の中で、ぐったりして倒れていた。
「くっ…こうなれば、その半人半神の死体を直接奪ってやる!」
魔王ピットは、馬車の幌に無傷の左腕を伸ばしてくる。幌が破れるバリバリという音がして、魔王ピットの左腕が侵入してくるが、左腕は領主サルウィンの死体に届く前に、ヴィルヘルムの聖剣によって、斬りつけられる。
「ぐわっ…何だ?まだ、ザコが残っていたか。」
ヴィルヘルムの聖剣で魔王ピットの左腕を止めたのは、オーウェルだった。
「ルーシ族の兄さん、とりあえず、馬車を停めてくれ。ただでさえ、俺は剣がうまくねえのに、こう足場が悪くちゃ、なおさらだ…。」
こうして、ピョートルは馬車を停める。
「おい、魔王様よぉ…魔方陣から、こんなに離れちまっちゃあ、おめえの自慢の魔術も腕力も半減するって聞いたからなぁ…。ここなら、俺はおめえには負けねえぜ。」
オーウェルは聖剣をかまえながら言う。
「やかましい。ならば、もう一回、我が炎をくらってみろ!もう、そこの半人半神の死体を食うのは、やめだ。死体もろとも、貴様らを焼き尽くしてくれるわ。」
魔王ピットは再び炎を噴く。しかし、オーウェルは守護神カムチャダールの雷を、炎にぶつけてきた。
「バカめ!守護神カムチャダールの雷撃なぞ、我には痛くもかゆくもないわ。」
雷は、しだいに魔王ピットの炎に押されがちになる。
「くっ…力が半減しててこれか…?なんて威力だ…。」
あわや、オーウェルに炎が届こうかという時、ピョートルがバリヤーをはって、助けに入った。
「僕を見くびるな。僕だって、女神アリーナと『血の契約』をかわした身だ。女神アリーナの力を借りれば、こんな炎なんかに負けはしないぜ…。」
「ピョートル…おめえってやつは…。」
やがて、魔方陣から離れすぎたために魔力を補給できなくなった魔王ピットは、炎を噴きながら、徐々に後退していった。
「魔方陣まで退かせるものか。」
オーウェルは守護神カムチャダールの力で、魔王ピットの背後に地割れをはしらせた。
「くっ…おのれ…!だが、この程度で我に勝ったと思うな!」
そう叫ぶと、魔王ピットは背中に翼を生やして、地割れを飛び越えてしまった。
「しまった!ルーシ族の兄さん、馬車をすぐに出してくれ!」
「おうよ!」
オーウェルが地割れを元通りに修復すると、ピョートルはすぐにオーウェルを乗せて、魔方陣に向かって馬車を走らせた。
さて、魔方陣のある聖カレオス寺院では、相かわらずリーザとセルゲイとの死闘が続いていた。リーザとて、グリャーイ・ポーレの村の子供たちの間では負けたことがなかったが、セルゲイの義手の左手には、剣の達人のデータも魔術で入力されているので、身長差のあるリーザは、なかなかセルゲイに致命傷を与えられなかった。
だが、セルゲイのほうも、最初の一撃を義手で受け止めたために、義手が壊れてしまい、100%の性能を発揮できなくなっていたのだ。
(まずいわ…。早く決着をつけないと、ピョートルたちが、もちそうにない。)
リーザは焦っていた。
…キィン…ゴッ…カンッ…。
打ち合いは、既に数十合におよんでいる。セルゲイも重い義手の左手に振り回されて疲れているが、リーザにも疲れが見え始めていた。リーザにも疲れが見え始めたのを見計らったかのように、セルゲイが再び足払いをかけてくる。
「何度も同じ手はくわないわよ!」
リーザは跳躍して足払いをかわすと、空中から右足でセルゲイの腹にキックをくらわせた。
「ぐ…ぐおおっ…。」
セルゲイは悶絶する。リーザは、その隙を見逃さず、剣を振るってセルゲイの手から剣をたたき落とそうとするが、再び義手の左手にはばまれる。だが、キックのダメージにより、セルゲイの動きはにぶった。リーザはその隙を見逃さず、剣を持ってないほうの左手で印を組んで、セルゲイの左手に向けて魔術を解き放つ。
バシュウウゥッ…!
リーザの左手から放たれた一条の白い光は、見事にセルゲイの義手の左手を破壊した。同時に、義手の左手に握られていた剣が、地面に落ちる。
「おのれ…よくも…。」
セルゲイは地面に落ちた剣を拾おうとするが、その機会を見逃さず、リーザはセルゲイの首に剣を突き刺す。
「勝負あったわね。」
「ぐうおっ…!」
だが、その時、ピョートルから念話が届いた。
(リーザ、聞こえるか?僕だ。)
(ピョートル…どうしたの?まさか、魔王ピットに逃げられたとか?)
(その、まさかだ。やつは、空から魔方陣に向かっている。僕らも馬車を飛ばしているが、おそらく、やつが魔方陣に着くまでに、間に合わない。そこで、リーザ…君に頼みがある。魔王ピットが魔方陣に着く前に、魔方陣の中心の大きな石を、粉々に砕いてほしい。それが、この世界における、魔王ピットへの魔力の供給源になっているはずだ。石さえ破壊すれば、魔王ピットはこの世界にとどまれなくなり、異世界に戻されてしまう。)
だが、魔方陣の中心の大きな石は、セルゲイの体の下だった。
「…ごふっ…うぬとの死闘、実に楽しかったぞ。久しぶりに、血が騒いだ。だが、この石だけは、うぬらには渡さぬ。この石にわしの血を注げば、わしが魔王ピットを召喚した魔術は完璧になる。もう、誰にも、魔王ピットを異世界に呼び戻すことなどでき…ぬ…。こんなろくでもない国など…魔王ピットに…蹂躙されるがいい…。」
そこまで言うと、セルゲイは息をひきとった。リーザは、大きな石をセルゲイの体から引き離して破壊しようとしたが、剣で何回たたいても壊れない。そうこうするうちに、上空から、魔王ピットが飛来してきた。
(くっ…万事休すか…。)
リーザがなかば、あきらめかけた瞬間、峠に向かう一本道から、大地の精霊たちの手から手へとリレーで運ばれて、ヴィルヘルムの聖剣が現れた。
(お嬢ちゃん、それを使え。その聖剣なら、セルゲイの血を吸った石でも砕ける。守護神カムチャダールの最後の力で、大地の精霊たちに頼んで、道の上を運んでもらったのさ。おかげで、俺は魔力を使いすぎて、精霊魔術を使えなくなっちゃったけどな…。さあ、早く、その聖剣で、大きな石を砕いてくれ!)
オーウェルが念話で叫ぶ。リーザはヴィルヘルムの聖剣を抜くと、セルゲイの血を吸った大きな石に向かって、まっすぐに振り下ろした。
バキイィン…!
石は粉々に砕けた。同時に、魔王ピットは魔方陣の中心に吸いこまれ、異世界に戻されてしまった。
「…終わった。ついに終わったのね。」
リーザがヴィルヘルムの聖剣を持ったまま、ガクリとひざをつく。
「ああ、これで、トゥーラの傷も癒えるだろうな。」
ピョートルが言う。
同じ頃、グリャーイ・ポーレの村では、ここ十数日、意識不明だったトゥーラが、意識を取り戻したのだった。
「何?トゥーラが意識を取り戻しただと?」
長老は驚いた。同時に、トゥーラは語った。
「あたいは、ずっと夢を見ていた。傷口から入りこんできた病魔を相手に、リーザと、ピョートルが、ずっと奮闘してる夢だった。あたいはピョートルをずっとパシリにしてたのにな…。そのピョートルが命をかけて、あたいを救ってくれるなんて、皮肉なもんだ。」
数日後、グリャーイ・ポーレの村に帰還した四人は、村人たち全員から歓迎を受けた。
「ピョートル、よくやってくれた。皆、おまえに感謝しておるぞ。さあ、宴の用意もできておる。乾杯しようではないか。」
長老が言う。続いて、トゥーラが照れながら言った。
「あたいの命を救ってくれて、ありがとう。今まで、さんざん、ピョートルをパシリにしてた、あたいなんかのために、命がけで呪いを解いてくれたなんて…。どんなに感謝しても、しきれないぐらいだよ。」
その後、ピョートルとトゥーラは、しっかりと握手をかわして、互いの友情を確認しあった。村人たちは(特に子供たちは)、ピョートルをパシリにしてきたことを恥じ、次々に詫びを入れた。
それから半年後に、ピョートルは、セルゲイとの戦いの経験と、村人やアリョールやオーウェルの協力で、「少数民族と神との関係」というテーマで博士論文を書き上げて、学会で認められ、「師」の称号を授与されて、「ピョートル師」と呼ばれるようになった。さらに、その直後にルースラントで革命が起こった際には、リーザやトゥーラとともに、アリーナ族を指揮して、王党派や、反目しあう他の革命派(正教救国同盟など)と戦うことになるのだが、その話は、また後日に述べることにしよう。この話は、ここで終わることにする。