「わらわないでおくんなし」
彼女は目も覚める様な赫き着物を着て寺の軒先に立つてゐた。
偶偶用事で出掛けてゐた私は、寺に帰ると見知らぬ女が己の寺の前に佇んでゐるので酷く狼狽した。が、何と言ふことも無い、彼女は住職たる私に相談をしに来たのだと言ふ。私は彼女を待たせたことを深く詫び、寺の奥にある座敷へと案内した。
しかし、…彼女は誰であつたらうか。此んな小さな村で見たことの無い檀家が居る筈も無いのだが。
何処と無く落ち着かぬ気持を抱きつ自らも座敷に座ると、彼女は急くかのように口を開いた。
わらわれてゐるのです、と彼女は云つた。
わらわれてゐる。
そうです。わらわれてゐるのです。凡てに。
全て?
凡てです。わたしをわらつてゐるのです。
私もわらつてゐるのですか。
あなたもわらつてゐます。けれどもあなただけぢやないのです。畳も座布団も囲炉裏も鍋も灰も鈎も柱も天井も桟も襖も障子も板間も着物もくうきもわらつてゐるのです。ああ、うるさくないのですか。こんなにもわらつてゐるのに。
空耳でしやう。お気を確かに。
気は確かなのです。ただ、わらわれてゐるのがわかるだけなのです。
誰もわらつてなどおりませぬ。
いゝえわらつてゐるのです。
其は自意識過剰なのでは、
違ひます。ああ、あなたも信じては呉れないのですね。誰も信じては呉れない、二言目には病院へ行け、サナトリウムへ行けと、私は精神病では無ひと云ふのに!
どうか落ち着きなさい。
一体此が落ち着いていられるものでしやうか!わたしはくるつてなどおらぬ!凡てが、わたしをわらつてゐるだけじやないか!ほらあなたも、赤い口を開けて、呵呵大笑、
私は何も、
嘘おつしやい、なにゆえ気がつかないのです。あなたはそんなにわらつてゐるじやないか。
そんな、…
言ひ掛けて私は狼狽した。
私は笑つてゐたのだ、
大きく、赤く、口を開け、
彼の何とか云ふ仏像のやうに。
餓鬼を威嚇する面のやうに。
ならば、
私は思ふ。
わらわれる彼女はきつと餓鬼なのだ。
餓鬼ならばわらわれても仕方が無い。
仕方が無いやうです。私には如何にも出来ません。
私は云った。
さうですか。其では仕様が無いですね。
彼女は平静に戻つてゐた。
よござんす。さひなら。
さふ云ひ置くと、彼女は突然座敷から居なくなつた。
私は呆けて庭を見た。
小さな動物が二三匹松の木の周りを駆け回つてゐる。
追い出そうと庭に降りると動物は一斉に此方を見る。
嗚呼彼れは、……餓鬼ぢやあないか。
何とあさましい、おぞましい顔をして居るのだらう。
嫌悪感を抑えきれぬ私を見てにたにた嗤うと、餓鬼は皆彼女の顔をして云つた。
「わらわないでおくんなし」
めのまえがきゅうにくらくなった。