「休日」「小説」「鴉」
八月の休日、男は傷ついた鴉を見た。黒々とした瞳を持つ、見事な鴉だ。陽炎を漂わせる熱されたアスファルトの上に、それはいた。羽を痛めた鴉は飛ぶことも叶わず、恨ましげに男を見遣 っていた。数多の蝉の呼び声が木霊する、真夏の昼だった。
この男、名を近衛修司という。文を書き生をなそうと努力をしているが、それが実ったことはない。文に詰まるとフラと散歩に出で、この度のように奇異なものを見つけて は気まぐれに立ち止まる。黒猫を見つければじゃらし、珍しき花を見つければ時も忘れて観察した。そんな近衛が今回目を付けたものが、この鴉だった。アスファルトの反射に焼かれ、熱を少しでも避けようとじたばたと動き回っている。それを見た近衛は、鴉を哀れに思った。
「いくら害鳥といえども、これはさすがに無視するに忍びない」
そう思った近衛は、鴉を連れて帰ることに決める。許可も無く害鳥を飼うことは認められていないが、その程度のことを気にする近衛ではなかった。近衛は丁寧に鴉を両手ですくいあげる。もう大人の鴉であるとはいえ、平気的な成人男性よりも逞しい近衛にかかれば運搬はたやすかった。
近衛の住むアパートは安価であること以外に取り柄の無い、酷く汚れた建物だった。塗装が剥がれ、錆びたトタンが剥き出しになっている。赤黒いそれに触れると、苦い鉄が手に服に見境無くまとわりつくので、近衛は慎重に階段を上った。一段上る度に、カン、カンと金属を打つ軽い音がする。鴉にはそれが毒なようで、鳴る度に身を震わせた。階段を上りきったその先に、男性女性を示す青と赤の絵が見えた。共用便所の案内である。
「近衛さんこんにちはぁ」
防音設備の乏しいここでは、足音さえも聞こえる。近衛の隣の部屋の男が、玄関から顔だけ出して挨拶をした。
「ああ、どうも」
近衛は男の独特なイントネーションが嫌いだった。どこかの地方の訛りかもわからなかったが、生理的な嫌悪に逆らえるほど、近衛は社会性のある人間ではない。
男の方はそんな近衛の様子に気付きもしないといった様子で、じっとりとした笑顔を浮かべた。
「どおしたの、それ」
男が鴉を見て言う。その表情にはあからさまな嫌悪が張り付いていた。
「……ちと、可哀想に思えて。怪我の治るまで保護してやろうと」
「まあ、構わんけどねぇ。夜に鳴かさないようたのんますよぉ?」
男は乱暴に扉を閉めた。心の狭い男だ、と近衛は毒づく。
男が消えた途端、太陽が音をもって地を焼いているのがわかった。やかましく鳴く蝉たちの合間に、光線が鉄を、皮膚を焼く音が聞こえる。近衛は密かに舌打ちをした。焼かれた皮膚がぬめりを帯びて流れ落ちる感触が、どうにも現実感を奪って気色が悪かった。
アパートに入るとまず、鴉の置き場所を探した。引っ越したときに大量に出た段ボールも全て破棄してしまっており、手頃なものがない。近衛はひとまず、タオルを敷いた
上に鴉を寝かせた。保護したつもりが茹でてしまっては元も子もないと、近衛は急いで冷房をいれる。激しい空聴音と共に、生ぬるい風が部屋を抜ける。直接的に部屋の空気を冷ます能力は低いが、循環を生み出すことで室温を下げることには役立っていた。
一息付いた近衛は鴉を見た。アスファルトよりは幾分か楽な、ようで、随分と落ち着き返っている。これはなかなか書きがいがありそうだと、近衛は思った。近衛の文は現実主義と称されるように、生々しいリアリティが特徴だった。鴉を書くのだって、可能な限り実物を目の前にしたい。今回、近衛が鴉を連れ帰った理由の半分は、文の役に立つだろうという打算的な動機だった。
段ボールを近くのスーパーから譲り受けた近衛は、ドッグフードを買った後にアパートに帰った。ドッグフードといっても別に犬を飼っている訳ではない。鴉の餌だ。栄養バランスに気を使っているドッグフードやキャットフードは、雑食の鴉にとってなかなか良い餌であることを、近衛は知っていた。
早速段ボールの底にタオルを敷き、そこを鴉の巣とする。細い棒などもほしいところだが、それが必要となる頃には保護の必要もなくなるだろうと踏んでいた。
ドッグフードを二、三やり、水を与え、その様子を観察する。害鳥などと呼ばれるが、その様子はなかなかに愛らしいものだ。口を開けて餌を待つ姿は親を待つ子供そのものであるし、そういった幼い様子は、どんな動物であっても心惹かれるところがある。近衛も、自身の頬が緩むのを感じた。
食事の終わった鴉を窓を見、その先の遥かな空を見た。その瞳に映るのが憧憬か、郷愁かは、近衛には想像もつかない。近衛もぼんやりと窓を見、そして網戸が壊れていたな、近いうちに直さなくてはなどとどうでも良いことを考えた。
鴉の近くにノートパソコンを寄せ、その様態、動作を事細かに描写する。波の打つまもなく整った羽。反射も許さぬほど深い漆黒の瞳。恐ろしいほどに鋭い爪や嘴は鷹のそれに似ていて、狙われた者の底冷えする様は想像するにたやすかった。怪我をした片翼は尖った針金か何かにひっけたのか、鋭利な切り傷があった。
手当をすべきかどうか近衛は迷ったが、消毒だけして放置することにする。小説家として一般教養の高い近衛にしても、さすがに鴉の手当の知識はなかった。
近衛に動物を飼う趣味はなかったが、いざ飼ってみると、なかなかどうして気に入ってしまった。一人暮らしの長い近衛にとって、家に自分以外の生き物がいる状況が懐かしく、暖かい感覚を思い出していた。
鴉と暮らしているうちに、近衛は一つ、思いついた。もともと近衛は鴉の描写をよりリアルにするために保護をしたのだ。だが、そうではなく、今の自分の状況を、小説に描いてはどうだろうか。売れない小説家がある日鴉を拾い、そして暖かさを思い出してゆく。オチをどうするか、近衛には少々思いもよらぬところであったが、リアリズムを好む近衛にとって良いテーマであるように思われた。
翌日から、近衛はさっそく執筆活動に勤しんだ。実物が目の前にいる上に、自分の今までの心情を書き連ねれば良いだけだったので、筆は乗りに乗った。一日で三万文字近くも書き上げ、推敲等を含めても、二週間で文庫本一冊ほどにもなった。しかし、その段階になっても、近衛にはオチを思いつくことができなかった。当然だ、近衛と鴉の物語はまだ進行途中であり、終わりなど見えていないのだから。
鴉と近衛はますます仲を深めていった。小説を書くこと意外に特別することの無い近衛は鴉に構いきりだったし、鴉もまた、翼の傷が癒えず、近衛に依存した。夜間は行動しないようで、近所の男から文句を言われることもなく、快適な生活を過ごしていた。
とはいえ、小説にはオチが要る。中途半端で終わることなど出来ない。近衛は頭を抱えていた。今から別の作品を書いていずれ完成させるという手段も思いついたが、一所懸命をよしとする近衛にとって、それは耐え難い選択だった。
そんな苦悩を抱えながら、近衛はある朝、いつもより早く起きた。昨晩は風が涼しく、窓を開けて眠った。風の通りを邪魔したくなかったのでカーテンを閉じずにいたので、朝日が近衛の目を覚ましたのだ。
近衛は窓の近くまでゆき、建物の隙間から漏れる日差しを見遣った。清々しい朝だ。瞳を刺す鋭い日差しも今は心地よく感じる。それはまぎれもなく、鴉のおかげだった。
以前の近衛であれば、こんな晴れやかな気持ちなどありえなかっただろう。近衛は自分の変容ぶりを驚き、同時にあの日鴉を拾ったことに感謝をした。これからもずっと共にいられたならば、小説もかけるような気さえした。愛玩動物を飼い寂しさを紛らわせる者どもの気持ちが理解できないと綴ったこともある彼だが、今なら理解できるきがした。
さて、鴉はもう目覚めているだろうか。少し早いが餌でもやるか、そう思って、近衛は鴉の住処たるダンボールへと近づいた。普段、近衛が近づくと餌だと思いはしゃぐ鴉が、今日はとても静かだった。まだ寝ているのかと考えダンボールを覗くが、そこに鴉の姿は無かった。
まさか、といやな想像が近衛の頭を過ぎるが、振り払う。ダンボールを出て、どこかで寝ているだけだろう。そう思って辺りを探すも、見当たらない。狭い部屋を一時間も搜索して、近衛はようやく鴉が逃げたのだという見解に至る。網戸が破れていると分かっていたのに、どうして窓を開けて寝たのか……。そう悔やんでも遅かった。薄情な鴉を呪いさえもした。
近衛は小説のラストに、鴉が死に、絶望する自分を描いた。なに、今の自分の感情とそう大差はない。リアルにこだわり続けた近衛には珍しく、とても情緒溢れる文章を描くことができた。
書き上げても、近衛の気持ちは静まることは無かった。薄情な鴉に裏切られた気持ち。また一人であるという苦悩。それらがぼんやりと渦巻き、近衛の胸中を支配した。
それでも時間はすぎる。忙しい世で、立ち止まっていることなど出来ない。近衛は家を出た。また、散歩をしに行くのだ。そうすればまた、何かに出会うかもしれない、そんな淡い期待を込めて。近衛は今日も、文を書き続ける。
近衛の三作目、「黒い鴉の小説家」は大ヒットし、近衛の名を世に知らしめることとなる。ため息を付きながら散歩をする近衛は、自分が一世を風靡する純文学作家になることを、まだ知らない。




