「ヤンデレ」「秋」「夜」
薄暗い部屋の中で、私はベッドに倒れ込んだ。スプリングが軋む音と共に、心地よい反発が帰ってくる。女の子らしいピンク一色のシーツに、顔を埋めた。長くてずるずるとした髪が、藻のように広がる。高い天井を無感情に眺めてから、私は左手の中の携帯電話を強く握った。機械は冷たいと言うが、長い間握り続けていたそれは、体温を吸い込んですっかり生温くなってしまっていた。
私が送ったメールはどこかで消えてしまったのか。そんなはずはない。私は携帯を顔の前に持ってきて、もう一度着信を確認した。メールも電話も無い。彼が私を無視していることは間違いなかった。携帯電話を開くと、ディスプレイの光が暗闇を裂いた。ぼんやりとした頭で文字を打ち込む。記念すべき、本日三十通目のメールだった。
それからも何通か送り続け、四十を回った辺りでようやく携帯が鳴った。「愛の孤独」というドラマのテーマに使われている曲だ。ということは、メールか。
「話がある。二十三時、例の公園によろしく」
例の公園というのは私の家の近くにある、噴水のある広い公園だった。桜が幾本も植えてあり、近所ではそれなりに有名な花見場所だ。私と彼も、行ったことがある。……初デートの、場所だった。
「よろしく」なんて他人行儀な言い方を彼がするとき、決まって良い話ではない。彼が単なる世間話のために私を呼んだのではないということは明らかだった。瞼が重い。念願の彼からのメールで小躍りしても良いはずなのに、私の曇天は晴れなかった。いわゆる女の勘、という奴に近いのかもしれない。
彼のために、目一杯のお洒落をする。黒ラインの赤いスカートにニーソックス。肌の見え具合を、全身鏡の前で何度も何度も確認する。ソックスを上げたり、下げたり。いくら繰り返しても満足出来るものには仕上がらなかった。いつまでも悩んでいたいのは本望だが、時間は有限だ。髪も、整えなきゃいけない。黒のセミロングは、いつも「手入れがいらなそうで良いね」と言われるけれど、そんなことはない。毛先のカール具合には気を使うし、朝決めた髪型が夜まで続くように気をかけなきゃいけない。かといって、固めてしまうのは良くない。髪を触られたときに、ごわごわした感触が残るからだ。夜まで髪型をキープ出来て、しかもふわふわ。そんな境界線を必死で見極めるのは、派手な髪型よりもよっぽど繊細で難しい作業かもしれなかった。
一通り身支度が終わると、彼から辛いことを言われたらどうしようという考えが頭を過ぎった。私は冷静でいられるだろうか。しばらく距離を置こう、とか言われようものなら、泣き叫んでしまうかもしれない。子供っぽいとは思うけれど。もし、まかり間違って、別れを切り出されたら、どうしよう。私は耐えられるだろうか。それ以上に、私は彼を許すことが出来るだろうか。きっと公園では、街灯が見える。噴水の音と、チリチリとした虫の声が聞こえる。そして彼の言葉が聞こえるのだ。「別れよう」。硬直する私。意識を失う私。そして……。
重い衝突音が聞こえて、我に還る。手に持っていた携帯電話を鏡に投げつけたらしい。飛び出したバッテリーが衝突の激しさを物語っている。それらに目をやったあと、私はようやく動悸の激しさに気がついた。肩を大きく上下させ、荒々しく呼吸する私が鏡の中に映る。全身が熱を持って、まるで運動した後のようだった。
アア、早く携帯を拾わないと。彼からメールが着ているかもしれないものね。大きく深呼吸をしてから、バッテリーとカバー、本体を拾う。バッテリーを本体に入れようと試みても、突然不器用になってしまって上手く行かない。失敗する度に焦り、イライラし、それがさらにミスを生む。何度か試したあと、私は怒り気味に携帯を投げつけた。
……そろそろ、出なくちゃ。乱れた息を整えて、公園に向かった。
秋の夜道はどうあっても風流なものだ。夏とのギャップに肌は悲鳴をあげるが、遠くの間で鈴を転がしたような虫の声にはつい耳を傾けてしまう。紅葉も良い。夜の闇に呑まれながらも、ほのかに主張する黄や赤は言葉にできない勇猛さを感じる。大好きな光景だった。
でも、それも彼の前では霞む。彼が側にいるだけで、私は秋にいる何者にも心を動かされなくなる。彼、彼、彼。それだけ。男性としては長めの、目に掛かりそうな黒髪が好きだ。細くて白い中性的な指が好きだ。羨ましいほどに赤く潤った唇が好きだ。彼が、大好きだ。
待ち合わせの公園につく。場所は指定されなかったけれど、おそらく噴水の前のベンチだろう。
街灯に照らされた時計は二十二時半を示していた。待ち合わせの三十分前。まあ妥当な時間だろう。
私が妥当だ、と言った時間は、彼にとってもそうだったらしい。彼の姿が見えたのはその五分後だった。小さな以心伝心に嬉しくなる。
彼の服は殆ど部屋着に近いもので、黒に赤いラインのジャージだった。彼は高校二年の時に部活を辞めて以来運動していないはずだから、寝間着に違いない。
ちょっと私の服装は場違いだったかもしれない。でも、いいだろう。彼のことを精一杯思った結果だ。
「……随分早いな」
私から二メートルも離れたところに立って、彼は言った。ベンチに座って待っていた私も、立ち上がる。
「大好きな人との待ち合わせだもの。早くくるよ」
あなたも同じでしょうと、目で問いかける。けれど、彼がそのサインを受け取った気配は無かった。
普段は見せないような重々しい顔をして、私を見た。何度も口を開こうとしては諦める。そしてついに決心が付いたのか、胸を震わせるような重低音を発した。
「単刀直入に言う。君が俺の恋人だと言いふらしているのは知っている。どういうつもりだ?」
彼の言い方は、まるで私と彼が恋人ではないかのような口振りだった。そんなはずは無い。
「私たちは恋人だよ」
「違う」
彼は即答した。目に怒りすら感じ取れた。……いったい、どうしたというのだろうか。
「忘れちゃったの? デート、したじゃない」
彼の目が、気持ち悪いものを見る目へと変化した。自覚の無い拒否に、胸が痛くなる。彼の口振りから嫌われたことは気づいていたが、それでも私たちは仲の良い恋人のはずだ。
「ねぇ、どうしたの? 私、気に触ることしちゃったかな?」
「……君とデートした記憶なんて無い」
私はうっかり笑ってしまった。本当に、記憶喪失だなんて言い出す気じゃないだろうか。
「したじゃない。ここで。だからあなたも、今日ここを指定したんでしょう?」
私の笑い方が気に障ったらしい。彼は二歩、後ろに下がった。二人の距離が広がるのを嫌って、私は逆に踏み込んだ。
「ねえ、答えてよ。私、嫌われることした? ねえ、答えて?」
「俺は君とデートなんてしたつもりは無い。確かに、ここで遊んだことは確かだが、恋人になったつもりは無い」
「毎日、メールした」
「君が一方的に送り付けていただけだろう。……最初の頃は確かに俺も返信したが、お前の送り方は少し異常だ」
「学校でも、何度も二人きりで話したじゃない。みんな、私があなたの彼女だって」
「それは君が周りに恋人だと嘘を付いたからだ。俺が否定するまで、みんな誤解していた」
「……嘘だよ」
「嘘じゃない」
手が震えていた。彼はまだ何か言っているようだったが、彼の言葉は私の耳に届く前にこぼれ落ちた。
彼と話した。デートした。電話もした。……電話は、出てくれなかったけれど。それでも、私は楽しかった。恋人だった。恋人だった……はず。
「何かの手違いで、君に勘違いをさせてしまったのだとしたら謝る。だから、もうやめてくれ」
「私たちは、恋人だよ」
努めて平生を装った。ただ、私たちは恋人だと、私は彼の彼女だと、何度も何度も口にした。彼を繋ぎ止めるためのその行為は逆効果だったらしい。彼は私が呟く度に顔を歪ませ、怒りなのか、恐怖なのかわからない強ばった表情を作った。ああ、端正な顔が台無しだ。
数歩、彼が私から距離を開ける。私はそれを詰める。それだけの行為が、なぜかとても滑稽に思えて、高笑いをしてしまった。夜空に対峙し、大口を開けて笑う。青白い夜を、声が洪水のように渡った。声の走った黒い痕が、空に残った。
「あはは。恋人じゃないなんて嘘ついて。私とそんなに別れたいの? ねえ?」
彼は青い顔をしていたが、返事をしなくてはならないと感じたのだろう。ゆっくりと唇を動かした。その艶やかな口が、私のもっとも望まない答えを紡ぎ出すことは容易に想像できた。彼の声が耳に届くよりも早く、私は目を見開いた。
「……ああ、別れてほしい」
その音が耳に届き、小耳骨を振るわせ、脳に届いたとき、スイッチが切られたように私の意識は暗転した。
どれくらいの時間が経ったかは認識できない。暗い視界に街灯の明かりが灯り始めた。まず見えたのは黒い色と赤い色。黒い色の方は、夜の闇にも負けない、くっきりとしたものだった。赤い色はそれを照らし出すようにして、そこら中にあった。先程の黒が溶け出した様な、濁った色だ。霞がかった世界はやがて輪郭を表し、私は目の前に彼が倒れているのを見た。
どのような経緯があったのかは知らないが、私は彼を押し倒し、顔をめちゃくちゃに引っ掻き回したようだ。その証拠に、私の付け爪はことごとく剥がれ落ち、爪と肉の間には赤くそまった皮膚が多量に詰まっている。……付け爪が乱暴に剥がれたからか、本物の爪が剥がれかけた指もあるようだ。痛みがそれを教えてくれた。
彼の顔にはミミズのように赤い血が這っている。その量から致命傷でないことは見て取れるが、顔中が血に塗れているのはなんだか面白い光景だ。血の下に、凍りついた表情があった。
「……ごめんね?」
悪びれもせずそういうと彼は我に返って私を突き飛ばした。起き上がる頃には、彼の影は遠くを走っていた。
闇に呑まれる彼を見て、私の頬はつり上がった。
――なあんだ。こんな簡単に、彼を束縛することができるのか。
私は彼の皮膚が詰まった指先を見て、ただただ笑い続けた。秋の風が、その笑い声を、彼のところまで届けてくれれば良いのに。そう、漠然と思った。