美少女にTSしたら世界は優しくなったけど、親友との距離感がバグった
美少女というものには、いくつか重要な要素がある。
顔。髪。スタイル。声。性格。
このあたりは当然として、個人的には胸部装甲の厚さについても軽視すべきではないと思っている。もちろん大きければいいという単純な話ではない。
全体のバランスだ。
小柄な身体に対して大きめに設定することで生まれる視覚的コントラスト。黒髪ロングならなお良い。クール系の顔立ちなら満点。そこへ期間限定、しかもイベント開始前の先行ピックアップという希少性まで加われば、もはや引かない理由を探す方が難しい。だから俺――佐々木悠斗は、その昼休み、己の判断に一点の曇りもないと思っていた。
「田中氏」
「……何」
「刮目せよ」
「嫌な予感しかしない」
「この完成された人類の理想形を!」
机を寄せ、スマホの画面を突き出す。そこでは、たった今召喚された少女が豪華なエフェクトを背負って微笑んでいた。
黒髪ロング。
身長百五十一センチ。
細身。
そして、明らかに制服の設計者が想定していなかったであろう胸。
URだった。
「……また課金したのか」
田中圭介は、感動するでもなく言った。
こいつには情緒というものがない。
「言葉を選びたまえ田中氏。課金ではない」
「じゃあ何」
「未来への投資だぜ」
「昨日、今月はもうしないって言ってた」
「昨日の俺と今日の俺を同一人物だと思わないでいただきたい」
「同一人物だろ」
「人は一日ごとに成長する生き物なんだぜ」
「退化してると思う」
「お前、最近言うようになったな?」
田中がわずかに口元を緩める。こいつは無表情だと言われるが、付き合いが長くなると意外と分かりやすい。
眉が二ミリ動けば疑っている。
口角が一ミリ上がれば笑っている。
返事が二秒遅れれば面倒くさがっている。
今のはたぶん笑っていた。
普通の高校生が見れば、何も変わっていないようにしか見えないだろう。というか、普通の高校生どころか、俺以外の人間にはだいたいそう見えている。
田中圭介。
身長百八十五センチくらい。
横幅もそれなり。
黒縁眼鏡。
猫背。
ついでに無口。
教室の後ろに立っているだけで、なぜか「これから誰か殴るのかな」という雰囲気を発生させる男である。実際にはコンビニで店員に箸を入れ忘れられても言えない。注文したラーメンが違っていても食う。レジで前の客に割り込まれても黙っている。つまり見た目だけなら中ボス、中身は村人Aだ。
一方の俺はといえば、身長百六十そこそこ。
痩せ型。
眼鏡。
短い黒髪。
顔については特筆すべき点なし。
キング・オブ・モブ。
卒業アルバムから俺の写真だけ消えていても、たぶん三日くらい誰も気づかない。
そんな俺たち二人は、教室の隅で毎日だいたい同じことをしている。
昼飯。
ゲーム。
アニメ。
たまにラノベ。
放課後は特に約束もしないまま一緒に帰り、休日は俺が田中の家に押しかける。
俺がゲームを持ち込み。
田中がハードを提供する。
実に理想的な共生関係である。
ちなみに女子との会話は、一人ならまだ何とかなる。二人になると急に難易度が上がり、三人以上はレイドボスだ。攻略法は知らないし、そもそも挑む予定もない。
「これ、田中氏も引こうぜ」
「石ない」
「買えばいい」
「お前みたいになるから嫌」
「なら俺のを貸してやろう」
「頼んでない」
「サポートに置いといたから、ありがたく使いたまえ」
「…………」
文句を言いつつ、こいつは俺のサポートをいつも借りる。
無課金の生きる知恵である。
「まったく。俺ほど計画的に課金している人間も――」
俺がさらにスマホを鼻先へ押しつけると、田中は俺の額に手を当てて、ぐいと押し戻した。
「近い」
「画面を見ろ画面を」
「佐々木」
「ん?」
横から声。
見ると、前の席の男子がプリントを差し出していた。
「これ後ろ回して」
「ああ、サンキュ」
受け取って田中へ渡す。
「ほい」
「ん」
それだけ。
別に仲が悪いわけじゃない。
話しかけられれば普通に答える。
授業で班を作れば普通に協力する。文化祭の準備だって、頼まれた仕事くらいはやる。
ただ、そこまでだ。
クラスの中心で騒いでいる連中と、俺たちとの間には壁がある。
誰かが作ったわけじゃない。
気づいたらそこにあった。
向こうもたぶん俺たちを嫌ってはいない。
俺たちも向こうを嫌ってはいない。
ただ、
――住んでる世界がちょっと違うよな。
くらいの認識。
俺はそれを不満に思ったことがなかった。
だって田中がいる。
二人いれば、昼休みに一人でスマホを眺めることもない。休日に誰とも喋らず終わることもない。俺たちは別に孤独ではなかった。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
◇◇◇
「田中氏、それ以上行くと壁と融合するぞ」
午後の休み時間。
自販機から戻る廊下で、田中がいつの間にか壁へ張りついていた。
「……いいんだよ」
「よくねえだろ。お前もう肩ぶつかってんじゃん」
バン、と背中を叩く。
「痛い」
「その身体で俺の攻撃が効くな」
「普通に痛い」
向こうから来た女子二人が、俺たちを追い越していく。
一人がちらっと田中を見る。
田中は目を伏せた。
なるほど。
「別にそこまで避けなくてもよくない?」
「……いいんだよ」
またそれだ。
「何がいいんだか」
俺は肩をすくめる。
田中は身体がでかい。
それだけで怖がられることがあるのは知っていた。でも中身を知っている俺からすれば、田中を怖がるという感覚がよく分からない。こいつ、知らない番号から電話が来ただけで出るかどうか五分悩む男だぞ。
「ほら戻るぞ」
「ん」
また背中を叩く。
今度は少し弱めに。
田中は何も言わなかった。
◇◇◇
教室に戻り、席へ座る。
さっき引いたキャラクターをもう一度開いた。
やはり強い。
何が強いって、全部強い。
黒髪。
小柄。
クール系。
巨乳。
属性の暴力である。
「いやあ、やっぱ完成されてるな」
「まだ見てるのか」
「田中氏には分からんのだ。この絶妙なバランスが」
「分からなくていい」
「身長百五十一ってところも分かってるんだよな。小柄なのにこの胸ですよ」
「聞いてない」
「拙者、こういうキャラには弱いのでござる」
「知ってる」
俺は満足してスマホを伏せた。
その時の俺はもちろん知らない。
知るわけがない。
だから今思い返しても、運が悪かったとしか言いようがない。
神様がいるなら性格が悪い。
悪魔なら仕事熱心だ。
――この三日後。
俺は、だいたいこいつになる。
◇◇◇
最初はただの風邪だと思った。
放課後。
帰り支度をしている時に、ぞくりと背中が震えた。
「寒っ」
外を見る。
六月。
寒いはずがない。
「佐々木?」
「ん?」
「顔、赤い」
「マジ?」
額へ手をやる。
自分ではよく分からない。
でも頭が少し重い。
「やべ。風邪引いたかもしれねえ」
「保健室行けば」
「もう帰るのに?」
「じゃあ早く帰れ」
「田中氏が冷たい」
「病人に優しくしてる」
「なるほど」
鞄を肩へ掛ける。
「イベント明日からだぞ」
「余裕だぜ。イベント開始までには完全復活するから安心したまえ田中氏」
「寝ろよ」
「ログインだけはする」
「寝ろ」
「デイリーだけ」
「寝ろ」
うるさい奴だ。
手を振って教室を出た。
そこまでは覚えている。
◇◇◇
帰宅してから熱を測ると、三十八度七分あった。
「うわ」
数字を見た瞬間、余計に身体が重くなった気がする。
母さんへメッセージを送る。
仕事中だったので返事はすぐには来ない。
薬。
水。
ベッド。
夕飯はいらない。
その程度で済むと思っていた。
翌朝。
三十九度を超えた。
そこから記憶が曖昧になった。
母さんの声。
病院。
白い天井。
医者。
検査。
また家。
眠る。
起きる。
水を飲む。
吐く。
眠る。
何日目か分からない。
夢なのか現実なのかも怪しかった。
身体中が痛かった。
骨の内側を直接掻き回されているような、気持ちの悪い痛み。
寝返りを打つ。
何かが頬に触れた。
邪魔だ。
払う。
指に細い何かが絡む。
髪?
俺の髪はこんなに長くない。
夢だと思った。
「……水」
自分で言った。
変な声がした。
知らない声だった。
でも熱で頭が動かなかった。
母さんが何か言っていた。
医者と電話していたような気もする。
スマホが震えた。
画面だけ見る。
田中。
『大丈夫か』
その下。
『病院行った?』
さらに一件。
文字を読むだけで頭が痛い。
返信しようとした。
親指が画面へ触れる。
いつもと感覚が違う。
指が細い。
いや。
そんなわけがない。
目を閉じた。
◇◇◇
次に見た時、田中からのメッセージは五件になっていた。
一番新しいものだけ読む。
『イベント始まったぞ。返事いらんから寝ろ』
「……なんだそれ」
笑ったつもりだった。
また知らない声が出た。
その時は、笑う余裕すらなかった。
画面を閉じる。
返事はできなかった。
どうしてできなかったのか。
その時の俺には分からなかった。
◇◇◇
目が覚めた時。
最初に感じたのは、静かだ、ということだった。
頭が痛くない。
身体も熱くない。
数日ぶりにまともに呼吸ができる。
「……治った?」
声。
俺は目を開けた。
今。
何か。
おかしかった。
「…………」
もう一度。
「あー」
知らない声がした。
高い。
というより、若い女の声だった。
俺はしばらく天井を見た。
「……は?」
やっぱり同じ。
喉へ手をやる。
その手が目に入った。
細い。
「…………は?」
手の甲。
指。
爪。
全部、俺の知っている俺の手と違う。
身体を起こそうとする。
その瞬間。
胸元で、
何かが、
動いた。
「…………」
止まる。
布団を見る。
布団の下。
明らかに今まで存在しなかった高さが二つある。
見なかったことにした。
できなかった。
ゆっくり布団を下げる。
「………………」
パジャマ。
その下。
胸。
どう見ても胸。
「いやいやいやいや」
声が高い。
「待て待て待て待て」
身体を見る。
腕が細い。
肩幅がおかしい。
腰。
脚。
全部違う。
「何これ」
ベッドから降りる。
足が床へ着く。
違和感。
床が近い。
「低っ」
俺の部屋なのに、机が高い。
棚も高い。
世界全体が微妙に大きくなっている。
いや。
俺が小さくなっている。
「……夢?」
頬をつねる。
「痛っ」
夢ではない。
足元に黒いものが落ちた。
何だと思った。
髪だった。
肩から。
俺の肩から、長い黒髪が垂れていた。
「…………」
ここまで来ると、逆に頭が冷えてくる。
パニックには処理能力の上限があるらしい。
声。
手。
身体。
身長。
髪。
これだけ重なると、
ああ、何かとんでもないことが起きているな、
という妙に冷静な領域へ到達する。
俺は眼鏡を探した。
枕元。
いつもの黒縁眼鏡。
それだけが見慣れていた。
「とりあえず……」
掛ける。
「うおっ」
視界が崩壊した。
全部ぼやける。
慌てて眼鏡を外す。
見える。
「…………」
見える。
裸眼なのに。
壁の時計。
本棚の背表紙。
机の上のペットボトル。
全部くっきり。
眼鏡を持ったまま、俺は立ち尽くした。
顔。
声。
身体。
髪。
身長。
視力。
なんだ。
何が残ってる。
俺の。
熱を出す前の俺の何が。
部屋の隅に姿見があった。
母さんが使っていた古いものを、何となく俺の部屋に置いていた。今までほとんど見たことがない。
服なんて着られればいい。
髪だって寝癖がなければいい。
顔なんて毎朝歯を磨く時に見るくらいだった。
その鏡が、
今だけは、
とてつもなく遠く感じた。
俺は一歩進む。
鏡の中で、
誰かが動いた。
止まる。
向こうも止まる。
黒髪。
長い。
小さい。
女。
「…………誰だよ」
少女も言った。
唇が俺の声に合わせて動いた。
俺が右手を上げる。
少女が左手を上げる。
頬へ触れる。
少女も触れる。
瞬きをする。
少女も瞬きをした。
当たり前だ。
鏡なんだから。
分かっている。
分かっているのに、
頭がそれを拒否した。
知らない顔だった。
細い輪郭。
少し切れ長の目。
白い肌。
長い黒髪。
俺が今まで見たこともないくらい整った少女が、俺の部屋にいる。
いや。
違う。
いるんじゃない。
俺だ。
「…………俺?」
鏡の少女も言った。
俺の声で。
いや。
もう俺の声ではない。
何がどうなったのか分からない。
どうしてこうなったのかも分からない。
ただ一つだけ。
嫌になるほどはっきり分かった。
十七年間。
毎日そこにあった俺の顔が。
どこにもなかった。
十分くらい。
いや、五分だったかもしれない。
俺は鏡の前に立ったまま、何もできなかった。
鏡の中の女も、当然何もしない。
俺が動かなければ動かない。
俺が瞬きをすれば瞬きをする。それだけの話なのに、その当たり前がやたら気味悪かった。
試しに右を向く。
向く。
左。
向く。
頬を引っ張る。
同じ顔が間抜けに伸びる。
「痛い」
痛い。
やっぱり俺だ。
鏡から離れてみる。
少女も遠ざかる。
近づく。
近づいてくる。
「……いや、何確認してんだ俺」
声に出してから、また少し落ち込んだ。
何度聞いても女の声だった。
それも妙に耳触りのいい声。
俺の脳内にある自分の声と、耳から入ってくる声が一致しない。
これが地味に気持ち悪い。
録音した自分の声を初めて聞いた時の違和感を、百倍くらい強くした感じだ。
俺はもう一度、鏡を見る。
怖い。
間違いなく怖い。
怖いのだが。
人間というのは恐ろしいもので、恐怖も一定時間続くと少しだけ慣れてくる。少なくとも、鏡の向こうに幽霊がいるわけではない。
俺だ。
認めたくないが俺だ。
そう思った瞬間。
脳の片隅で、非常によろしくない部分が活動を開始した。
「…………いや」
待て。
違う。
今はそういう場合ではない。
でも。
もう一度見る。
黒髪。
長い。
まっすぐ。
顔は――。
いや。
待て待て。
これは。
「…………強くない?」
言ってから口を押さえた。
何を言っているんだ俺は。
でも、今まで十七年間オタクをやってきた人間として、この評価だけは誤魔化せない。
鏡の中にいる女は、普通にかなり顔がいい。
顔面偏差値とかいう言葉は好きじゃない。俺が言われる側だったからだ。だが、それでも分かるものは分かる。
これは上位だ。
ゲームだったら最高レアリティで実装されても納得する。
輪郭は小さい。
目は少し切れ長。
鼻も高すぎず低すぎず。
口も小さい。
黒髪との相性も悪くない。
というか。
「…………これ、URだろ」
言ってしまった。
鏡の少女が同じことを言った。
途端に猛烈な自己嫌悪が襲ってくる。
「いや何査定してんだよ!」
鏡の中の女に怒鳴る。
相手も怒鳴る。
「俺だよ!」
当たり前である。
完全に一人芝居だ。
それでも止まらない。
目線が下がる。
パジャマ。
その下。
胸。
改めて見る。
「…………でか」
言った。
また言ってしまった。
でもでかい。
自分でも引くくらいでかい。
今まで俺はゲームやアニメで数多の巨乳キャラを見てきた。
そのたびに、
『このくらいがちょうどいい』
『いやこれはさすがに盛りすぎ』
『この身長でこのサイズは分かってる』
などと偉そうな評論を繰り返してきた。まさか、その評論対象に自分が追加される日が来るとは思わなかった。
俺は恐る恐る横を向いた。
横から見てもでかい。
「……いや待て」
黒髪。
小柄。
クール系。
巨乳。
脳内に一人のキャラクターが浮かぶ。
スマホ。
ベッドの上。
俺は急いで取りに行った。
画面を開く。
ゲーム。
キャラクター一覧。
昨日――いや、何日前だ?
熱を出す前に引いた、あの期間限定キャラ。
表示する。
鏡の前まで戻る。
スマホを見る。
鏡を見る。
スマホ。
鏡。
嫌な一致率だった。
「こういう意味じゃねえんだぜ……」
ゲーム画面の少女は、当然何も答えなかった。
◇◇◇
身長を測った。
百四十九・八センチ。
もう一度測った。
百四十九・八。
壁に背中をつけ、姿勢を伸ばす。
百四十九・九。
「頑張れよ!」
誰に言っているのか分からない。
せめて百五十に乗ってくれ。
俺は別に高身長だったわけではない。
男の頃だって百六十少々。
だが百五十を切るのは別問題だ。
「十センチ以上消えてんじゃねえか……」
体重計にも乗ってみた。
数字は大幅に減っていた。
そりゃそうだ。
身体そのものが小さくなっている。
腕も脚も細い。
肩幅もない。
ただ一部だけ重量配分を間違えている。
胸を見る。
見なかったことにする。
身体の確認は一旦終わり。
というか、これ以上確認すると精神が持たない。
そう思って部屋を出た。
そこで問題が起きた。
「……あれ」
洗面所。
棚の上。
いつも使っている予備の歯磨き粉。
手を伸ばす。
届かない。
もう一度伸ばす。
届かない。
爪先立ち。
あと少し。
「っ……」
指先が箱に触れる。
落ちた。
「痛っ!」
額に直撃した。
床へ転がった歯磨き粉を見下ろす。
いや。
正確には、以前より少し高い位置から見下ろせていない。
「…………なるほど」
小柄な女の子というものを、俺はこれまで属性としてしか認識していなかった。
可愛い。
守ってあげたくなる。
大きめの制服を着せると映える。
その程度。
現実は、
棚に届かない。
ということらしい。
「誰だよ小柄属性ありがたがってた奴」
俺である。
◇◇◇
髪も邪魔だった。
まず歯磨き中に落ちてくる。
「うざっ」
耳へ掛ける。
また落ちる。
「うざっ」
顔を洗う。
髪まで濡れる。
「うざっ!」
何だこれ。
黒髪ロング最高とか言った奴出てこい。
……出てきたところで鏡の中にしかいない。
仕方なく母さんが使っているヘアゴムを借りた。
結び方なんて知らない。
適当に後ろへまとめようとする。
できない。
「……何で?」
手が届かないわけではない。
構造が分からない。
輪を作る。
髪を通す。
もう一度。
途中で全部落ちる。
「何でだよ!」
三回目。
失敗。
四回目。
変な位置で結ばれた。
鏡を見る。
クール美少女が横から雑草を生やしていた。
外す。
やめた。
そのままでいい。
髪など邪魔なら切ればいい。
そう思った。
少しして、
鏡の中の黒髪を見た。
「…………いや」
これは。
これはちょっと。
切るのはもったいない気もする。
何を考えている。
俺は。
自分の髪だぞ。
でも綺麗なんだよな。
「……あとで考えよう」
問題を先送りした。
◇◇◇
最大の問題は胸だった。
いや。
最大と言ったが他にも問題は山ほどある。
ただ一番分かりやすかった。
歩く。
揺れる。
階段。
さらに揺れる。
一段降りる。
揺れる。
もう一段。
揺れる。
「やめろ!」
誰に怒ればいいのか分からない。
手で押さえた。
止まる。
しかし今度は、
自分の胸を両手で抱えて階段を降りているという、とてつもなく情けない状態になった。
「俺は何をしている……」
しかも重い。男の頃には存在しなかった重量が身体の前方についているせいで、立っているだけでも微妙に重心が前へ引かれる。姿勢を戻せば肩が張るし、階段では揺れるし、寝返りを打てば自分の身体なのに一拍遅れて何かがついてくる。ゲーム画面の向こうでは一枚絵で済んでいたものが、現実では二十四時間ずっと物理法則に従っている。
あの頃。
画面の向こうのキャラクターを見ながら、
「デカければデカいほど得だろ」
などと言っていた男がいた。
殴りたい。
俺だった。
この数時間で、過去の自分を殴りたい回数が急増している。スマホのキャラは、胸が重いとは言わない。髪を乾かすのに時間が掛かるとも言わない。
高い棚に手が届かないとも言わない。
絵だからだ。
当たり前だ。
鑑賞する身体と、
生活する身体は、
まったく別物だった。
◇◇◇
母さんが帰ってきたのは夕方だった。
玄関の鍵が開く音がする。
「ただいまー」
「……おかえり」
返事。
しばらく沈黙。
「悠斗?」
「俺」
廊下へ出る。
母さんが立っていた。
仕事用の鞄を持ったまま。
俺を見る。
何も言わない。
「何」
「……いや」
「言えよ」
「熱、下がった?」
「たぶん」
俺の額へ手を伸ばす。
途中で一瞬止まる。
それでも触れた。
「大丈夫そうね」
「うん」
「身体は?」
「大丈夫ではない」
「……そうよね」
それだけ。
母さんが靴を脱ぐ。
「先生から電話あったから。明日もう一回病院行こう」
「うん」
「詳しい話もあるって」
「……うん」
母さんは普通だった。
少なくとも普通にしようとしていた。
俺も普通に返した。
どちらも普通ではなかった。
◇◇◇
翌日。
病院で説明を受けた。
結論から言えば、
医者にもよく分からないらしい。
「過去に報告例がないわけではありません」
医師はそう言った。
世界中で数が少ない。
原因も分かっていない。
発症の仕組みも不明。
ただし俺の身体については、
「医学的には、完全に女性の身体になっています」
とのことだった。
「…………完全に?」
「はい」
嫌な断言だった。
「戻るんですか」
母さんが聞いた。
医師は少し間を置く。
「現時点では、何とも」
それが答えだった。
元に戻るかもしれない。
戻らないかもしれない。
何年後かもしれない。
明日かもしれない。
一生このままかもしれない。
分からない。
分からないことだけが分かった。
ただ、前例がある以上。
行政上の処理については最低限の制度が用意されていた。
学校。
戸籍。
制服。
更衣室。
体育。
そういう細かい話が続く。
途中から頭に入らなかった。
「なお、お名前についても、希望される場合には変更の手続きが――」
「悠斗でいいです」
俺は即答した。
担当者が少し驚く。
「現在のお名前のままで?」
「はい」
「分かりました」
それで話は終わった。
◇◇◇
病院からの帰り。
母さんの車。
信号待ち。
「名前、本当に変えなくていいの?」
「何で?」
「いや、その……」
「女っぽい名前の方がいいって?」
「そういう意味じゃないけど」
俺は窓を見る。
ガラスに女の顔が映っている。
まだ慣れない。
「悠斗でいい」
「そっか」
「……名前まで変えたら」
言いかける。
自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。
でも口から出た。
「本当に俺じゃなくなるみたいだろ」
母さんは何も言わなかった。
信号が青になる。
車が動き出した。
◇◇◇
「必要なもの買いに行くよ」
それは復学前日の夕方だった。
「必要なもの?」
「服とか」
「服ならあるだろ」
「男物しかないでしょ」
「着れる」
「サイズ合わないでしょ」
「着れることは着れる」
「下着も」
「…………」
俺は黙った。
母さんが勝った。
「通販じゃ駄目なのかよ」
「サイズ分からないでしょ」
「測ればいいだろ」
「誰が?」
「…………」
「ほら行くよ」
「嫌だ」
「行く」
「俺、病み上がり」
「もう平熱」
「精神が病み上がってない」
「知らない」
「母親が強い」
結局連れていかれた。
◇◇◇
女性用下着売り場という場所には、独特の結界がある。少なくとも男だった頃の俺にはあった。ゲームショップの十八禁コーナーなら入れる。
アニメショップの女性向けフロアも別に平気。
だが現実の女性用下着売り場は違う。男が一人で入ると即座に警報が鳴るような気がする。もちろん今の俺は見た目だけなら完全に女なので、誰も気にしない。それが逆に落ち着かなかった。
「何でそんな端歩いてるの」
「何となく」
「普通に歩きなさい」
「普通が分からん」
母さんは商品を見る。
俺は床を見る。
視界に色とりどりの何かが入る。
見ない。
俺は何も見ていない。
「悠斗」
「はい」
「こっち」
「嫌です」
「サイズ測るから」
「嫌です」
「必要だから」
「通販」
「無理」
「ネットにはあらゆる知恵が――」
「いいから来る」
連行された。
この辺の記憶はできれば消したい。
数字。
サイズ。
母さんと店員さんの真剣な会話。
俺だけが魂を抜かれている。
「このサイズだと少し種類少ないですね」
「そうなんですか」
「アンダーが細いので」
「…………」
聞こえない。
俺には何も聞こえない。
「肩紐は少し太めの方が楽だと思います」
「そうですね」
「…………」
ゲームでは。
大きい胸。
イコール。
正義。
だった。
現実では。
大きい胸。
イコール。
対応商品が減る。
肩への負担が増える。
俺は何を喜んでいたんだ。
過去十七年間の価値観が音を立てて崩れていく。
◇◇◇
買い物が終わった。
袋が増えた。
服。
下着。
学校用のもの。
生活用品。
どれも俺のもの。
その事実に、まだ現実感がない。
レジ。
母さんが財布を出す。
店員が商品を一つずつ通していく。
女性用の服。
下着。
俺の。
母さんの手が、一瞬止まった。
本当に一瞬だった。
財布からカードを出しかけて。
止まる。
すぐに動いた。
たぶん店員は気づかなかった。
俺は気づいた。
でも何も言わなかった。
◇◇◇
帰りの車。
夕方。
窓の外を店が流れていく。
「悠斗」
「ん?」
「…………」
「何?」
母さんは前を向いたまま。
しばらく黙った。
「……晩ご飯、何がいい?」
「何でも」
「それ一番困るやつ」
「じゃあカレー」
「昨日カレー」
「じゃあ唐揚げ」
「分かった」
会話は終わった。
俺もそれ以上聞かなかった。
母さんは助けてくれる。
病院にも連れていく。
手続きもしてくれる。
服も買ってくれる。
下着だって選んでくれる。
でも。
明日。
これを着て学校へ行くのは、
俺だった。
◇◇◇
翌朝。
母さんは先に仕事へ行った。
「何かあったらすぐ電話して」
「分かった」
「無理しなくていいから」
「分かったって」
「それと――」
「遅刻するぞ」
「……行ってきます」
「いってら」
玄関が閉まる。
静かになった。
家に一人。
自室へ戻る。
机の上に、女子用の制服が置いてある。
その横。
昨日買った下着。
ゲームなら、
衣装変更。
ワンタップ。
キャラクターが着替える。
現実では。
「俺が着るのか」
誰も答えない。
スマホが机の上にある。
画面をつける。
通知。
田中。
何件も溜まっていた。
『熱どう』
『まだ寝てる?』
『学校は先生から聞いた』
『無理すんなよ』
一番新しいメッセージ。
『復帰する日決まったら教えて』
「…………」
入力欄を開く。
『今日学校行く』
打つ。
送信ボタン。
指を置く。
押せない。
何でだ。
田中だぞ。
あいつに何を緊張する。
こいつなら絶対笑う。
いや、田中は笑わないか。
少なくとも、
『お前誰だよ』
くらいは言うかもしれない。
それなら楽だ。
いつも通りだ。
『今日学校行く』
文字を見る。
消す。
もう一度。
『今日から行く』
消す。
『学校行くわ』
消す。
「何やってんだよ俺」
スマホを伏せる。
制服を見る。
黒い髪が肩から落ちた。
手で払う。
また落ちる。
昨日買った下着がある。
制服がある。
身体がある。
全部現実。
母さんは助けてくれた。
医者も説明した。
学校も受け入れる準備をしている。
だから。
あとは俺が行くだけだ。
この身体で。
この声で。
この顔で。
教室へ。
田中のところへ。
俺はスマホをもう一度手に取った。
田中とのトーク画面。
結局、返信はしなかった。
今日会えばいい。
直接言えばいい。
いつも通り。
そう。
いつも通りだ。
何も問題ない。
俺は佐々木悠斗で。
田中は田中圭介だ。
それだけだ。
そう思い込まないと、
玄関を開けられる気がしなかった。
◇◇◇
玄関を開けるまでに、五分かかった。
靴を履く。
立つ。
ドアノブへ手を伸ばす。
止まる。
戻る。
スマホを見る。
時間を見る。
また立つ。
何やってんだ俺。
遅刻する。
分かっている。
分かっているのに、手が動かない。今まで学校へ行くのに、こんな覚悟が必要だったことは一度もない。学校なんて行きたくない日はあった。
眠い。
面倒。
体育がある。
小テストがある。
その程度。
でも今日は違う。
ドアの向こうへ出た瞬間から、
俺は、
女として見られる。
その言葉を頭に浮かべた瞬間、胃が痛くなった。
「いや」
違う。
俺は俺だ。
佐々木悠斗。
高校二年。
ソシャゲ廃人予備軍。
趣味は課金。
特技は爆死。
そして田中の友達。
何も変わってない。
「……行くか」
誰もいない玄関で言う。
ドアを開けた。
◇◇◇
外へ出て最初に思ったこと。
世界がでかい。
いや。
数日前から何度も感じている。
俺が小さくなっただけだ。
でも家の中より外の方が差が分かる。
自転車。
塀。
電柱。
通学路のガードレール。
全部ほんの少し高い。
そして人もでかい。
すれ違うサラリーマン。
犬の散歩をしているおばさん。
高校生。
全員、視線の位置が高い。
落ち着かない。
以前なら何とも思わなかった。というか、百六十センチしかなかった俺も別に高身長ではない。
それでも今とは違う。
十センチちょっと。
数字にすればそれだけ。
でも世界の見え方が変わるには十分だった。
さらに。
歩くと髪が揺れる。
風が吹けば顔に掛かる。
制服のスカートが脚に触れる。
胸元も落ち着かない。
「……学校着くまでで疲れるんだけど」
この身体、燃費が悪い。
俺は鞄の肩紐を持ち直した。
◇◇◇
校門が見えた。
そこで一度止まりたくなった。
止まらなかった。
止まったら、そのまま帰りそうだったからだ。
生徒が何人も校門を通っていく。
俺も混じる。
視線。
一つ。
二つ。
三つ。
見るな。
いや。
そりゃ見るだろ。
知らない女子が急にいる。
しかも制服はここのもの。
転校生かと思う。
普通だ。
分かる。
分かるけど。
男子二人組とすれ違う。
一人が俺を見る。
目が合う。
逸らす。
その数秒後。
視界の端でまたこちらを見る。
意味が分かるから嫌だった。可愛い女子が教室へ入ってきたら、俺だって見た。廊下ですれ違えば目で追った。見すぎたと思って逸らして、それでも気になればもう一度見る。そこに敵意なんてない。むしろ好意に近い。だから「見るな」と怒鳴ることもできないし、見ている側がどのくらい軽い気持ちなのかまで分かってしまう。自分がやっていたことを、今度は自分の身体で受け取っているだけだった。
「…………俺もやってたんだよな」
小声。
それが一番嫌だった。
◇◇◇
教室の前まで来た。
扉。
たった一枚。
ここを開ければ、田中がいる。
そう思うと少しだけ楽になった。
よし。
入る。
扉を開ける。
「おは――」
声が止まった。
俺ではない。
教室が。
十数人の視線が一斉にこちらへ向く。
無音。
最悪だ。
お願いだから何か喋ってくれ。
静かな方が怖い。
「……佐々木?」
誰かが言った。
男子だった。
「……おう」
その一言で、
教室が爆発した。
「え、マジで!?」
「本当に佐々木!?」
「うそ!」
「すご……」
「髪どうしたの!?」
「声まで違う!」
一気に人が来る。
「ちょ、待て待て」
逃げたい。
どこへ。
教室の中で。
「大丈夫だった?」
「入院してたの?」
「先生から聞いたけど、ほんとにそういうことあるんだね」
「身長めっちゃ縮んでない?」
「髪地毛?」
「触っていい?」
「待て待て待て!」
無理。
情報量が多い。
一人ずつ来い。
というか来るな。
女子三人以上はレイドボスだと言っただろ。
「佐々木」
低い声。
人垣の向こう。
田中。
いた。
当たり前だ。
いるに決まっている。
なのに。
見た瞬間。
少しだけ安心した。
俺は人の間を抜ける。
「よう」
なるべくいつも通り。
絶対にいつも通り。
声だけはどうにもならない。
なら口調だけでも。
「田中氏。ご覧の有様だぜ」
田中が俺を見る。
動かない。
「…………」
「おい」
「……佐々木?」
「だからそうだって」
「…………」
何だよ。
何か言え。
笑え。
馬鹿にしろ。
気持ち悪いとか言え。
お前そんなキャラじゃないけど、今日くらい頑張れ。
田中の手が少し上がった。
俺はそれを見る。
あ。
肩。
いつもなら、
たぶん叩く。
あいつだって俺の額を押し返す。
そういう距離だった。
でも。
手は途中で止まった。
宙に浮く。
一秒。
二秒。
そのまま下がる。
「……お、おう」
それだけ。
胸の奥。
妙なところが冷えた。
ああ。
そうか。
田中にも。
俺はもう、
女に見えるんだ。
◇◇◇
授業が始まれば、少しは落ち着くと思った。
甘かった。
休み時間になるたび人が来た。
「ほんとに体調もう大丈夫?」
「まあ大丈夫だぜ」
「ふふ」
女子が笑う。
「何」
「いや、佐々木さん、その見た目で『だぜ』って言うのかわいいなって」
「…………」
かわいい。
今。
俺が。
言われた?
「あ、ごめん。嫌だった?」
「……いや」
相手に悪気がない。
むしろ褒めている。
分かる。
「別に」
俺は笑った。
たぶん。
うまく笑えていたかは知らない。
女子はそのまま、
「でも喋るとちゃんと佐々木だね」
と言った。
「当たり前だろ」
「そりゃそうだけど」
笑う。
俺も少し笑う。
会話終了。
それだけ。
何も悪くない。
むしろいい子だ。
だからこそ。
あとに残った。
その見た目で。
だぜ。
かわいい。
俺の喋り方。
男だった頃から同じ。
誰も何も言わなかった。
変だとも。
面白いとも。
かわいいとも。
身体が変わっただけで、
意味まで変わる。
俺のものだったはずの口調まで、
今の見た目を通して見られる。
それが、
少し嫌だった。
◇◇◇
「髪、本当に綺麗だよね」
「え」
次の休み時間。
別の女子。
「つやつや。何使ってるの?」
「……シャンプー」
「それはみんな使う」
「知らねえよ」
「何もしてないの?」
「たぶん」
「いいなー」
そう言われた。
いいな。
羨ましがられた。
少し。
本当に少し。
嬉しかった。
生まれて初めてだった。
見た目を褒められた。
ゲームが上手い。
テストの点がまあまあ。
そういうのはある。
でも。
顔。
髪。
身体。
自分そのものを、
いいと思われる。
その感覚は知らなかった。
嬉しい。
と思った。
思ってから、
腹が立った。
何に。
自分に。
昨日まで。
いや。
身体が変わる前まで。
俺の髪は誰にも褒められなかった。
俺の顔なんて誰も見なかった。
今は違う。
そして、
その違いを俺自身が、
少し嬉しいと思っている。
「……最悪」
「え?」
「いや、何でもない」
女子が首を傾げる。
俺は笑って誤魔化した。
何が最悪なのか。
周囲なのか。
俺なのか。
分からなかった。
◇◇◇
田中は、
俺ほど話しかけられてはいなかった。
当たり前だ。
田中は何も変わっていない。
俺だけ変わった。
授業中。
田中は前を見ている。
休み時間。
俺の周りに人がいる。
田中はスマホを見る。
何度か話しかけようと思った。
できなかった。
俺のところに人がいた。
田中も来ない。
以前なら、
俺が勝手に田中の机へ行っていた。
でも今日は。
なぜか。
その数歩が遠い。
◇◇◇
昼休み。
ようやく。
俺は弁当を持った。
よし。
田中のところへ行く。
今日は人が多すぎた。
もういい。
疲れた。
いつもの場所。
いつもの二人。
それでいい。
立ち上がる。
「佐々木さん」
「ん?」
止められた。
女子三人。
ボス戦。
「今日、一緒に食べない?」
「…………」
来た。
一番困るやつ。
「えっと」
断る理由。
ない。
嫌いじゃない。
むしろさっきから親切にしてくれている。
断ったら、
何で?
となる。
どうする。
俺は田中を見る。
助けてくれ。
たぶん。
かなり分かりやすく見た。
田中。
気づく。
目が合う。
少し間。
田中が視線を逸らす。
「……行ってくれば?」
「…………」
え。
「……あ、そう」
口から勝手に出た。
「じゃ、行こ」
「うん」
女子たちに連れていかれる。
数歩。
振り返りたかった。
しなかった。
◇◇◇
「佐々木さんってゲーム好きなんだよね?」
「まあ」
「何やってるの?」
「色々」
「スマホの?」
「うん」
「へえー」
優しい。
話題も振ってくれる。
俺が答えれば笑う。
興味を持ってくれる。
悪くない。
全然悪くない。
なのに。
疲れる。
「髪、学校でもそのままにするの?」
「え?」
「体育とか大変じゃない?」
「ああ……」
「結んだ方がいいよ」
「できない」
「え?」
「いや、結び方分からん」
「じゃあ今度教えるよ」
「……助かる」
普通の会話。
ちゃんと会話できている。
以前の俺なら、
女子三人と昼飯を食べるなんて、
イベントCG扱いだったかもしれない。
現実は。
ただ緊張する。
笑うタイミング。
返事。
視線。
全部考える。
田中と話す時には一度も考えたことがない。
「佐々木さん?」
「ん?」
「聞いてた?」
「聞いてた聞いてた」
「絶対聞いてなかった」
笑う。
俺も笑う。
その瞬間。
視界の端。
田中。
いつもの席。
一人。
コンビニのパン。
スマホ。
食べている。
一人で。
俺が毎日いた場所。
そこだけ、
空いている。
俺。
あそこにいたかったんだけどな。
そんなことを思う。
自分からこっちに来たくせに。
いや。
来たかったわけじゃない。
でも断らなかった。
なら同じだ。
田中が顔を上げる。
こちらを見る。
目が合う。
と思った。
直前。
逸れた。
「…………」
「佐々木さん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「……何でもない」
俺は弁当へ視線を戻した。
味。
分からなかった。
◇◇◇
放課後。
廊下。
田中と並んで歩く。
いつもと同じ。
のはずだった。
「…………」
「…………」
会話がない。
いや。
田中は元々無口。
俺が喋る。
今日は俺も何を喋ればいいか分からない。
変だ。
昨日までなら。
いや。
数日前までなら。
ゲーム。
アニメ。
授業。
何でもよかった。
今日は、
沈黙が気になる。
「イベント」
「ん?」
「進んだ?」
「ああ」
「どこまで」
「三章」
「はや」
「お前寝てたし」
「なるほど」
会話。
少し戻る。
安心。
その瞬間。
肩が触れそうになる。
田中が、
半歩。
横へずれた。
見間違い。
たぶん。
廊下が狭かっただけ。
人が来た。
避けただけ。
そういうこと。
俺は何も言わなかった。
田中も何も言わない。
そのまま歩く。
半歩。
それだけ。
でも、
やけに遠かった。
◇◇◇
偶然。
最初はそう思った。
というか、そう思うことにした。
廊下は狭かった。
向こうから人も来ていた。
俺が今まで気にしていなかっただけで、田中は元からあんな歩き方だったのかもしれない。
そうだ。
きっとそうだ。
だから、
翌日も半歩空いていたことについては、
何も考えないことにした。
◇◇◇
「田中」
「……何」
「今日の数学、小テストあるってマジ?」
「ある」
「聞いてない」
「昨日言ってた」
「俺の記憶にはない」
「寝てたから」
「なるほど」
朝。
いつもの会話。
田中は普通だった。
少なくとも喋れば。
問題は、
俺から喋らないと、
会話が始まらなくなったことだった。
以前だって田中から話しかけることは多くない。
でもゼロではなかった。
『これ見た?』
『今日新しいの出てる』
『コンビニ寄る?』
その程度。
今は。
ない。
休み時間。
俺のところには人が来る。
「佐々木さん、この前言ってたやつ見た?」
「何」
「昨日のドラマ」
「見てない」
「えー」
女子。
「佐々木、今日体育見学?」
「先生と相談」
男子。
「髪結べるようになった?」
「一応」
「見せて」
「嫌だ」
女子。
俺の周りには前よりずっと人がいる。
田中の周りは、
変わらない。
ふと見る。
スマホ。
眼鏡。
いつもの顔。
田中は何も変わっていない。
変わったのは俺。
それだけ。
◇◇◇
三日。
四日。
学校へ戻ってから時間が経つ。
少しずつ。
身体の扱いにも慣れ始めた。
髪は一応まとめられるようになった。
クラスの女子が教えてくれた。
最初の五回くらいは失敗した。
六回目で、
「まあ外出できる」
という評価をもらった。
胸については、
慣れない。
これは無理。
階段だけは今でも嫌いだ。
更衣室にもまだ慣れない。体育の前は誰より先に着替えて、誰かが本格的に喋り始める前に外へ出る。誰も俺を気にしていないと分かっているのに、俺の方が気にしてしまう。
視線にも、
少し慣れた。
なくなったわけではない。
男子がこちらを見る。
目が合う。
逸らす。
前ほど毎回気にしなくなった。
たぶん人間は、
大抵のことに慣れる。
だから。
田中が俺から半歩離れることにも、
慣れるのかもしれない。
嫌だった。
その考えだけは。
◇◇◇
「佐々木さん、今日一緒に帰らない?」
「え?」
放課後。
女子二人から声を掛けられた。
「駅前寄ろうって話してて」
「あー……」
田中を見る。
鞄を持っている。
目が合う。
以前なら、
『行く?』
くらい言ったかもしれない。
今日は、
「……俺、先帰るから」
「え」
「用事あるし」
用事。
何だ。
聞こうとした。
「じゃ」
田中は行ってしまった。
「…………」
「佐々木さん?」
「……ああ」
「大丈夫?」
「大丈夫」
俺は笑った。
「行こうぜ」
「その『ぜ』いいよね」
「そこ拾うな」
女子が笑う。
俺も笑う。
普通に楽しかった。駅前をぶらついて、コンビニへ寄って、何を買うでもなく店を覗く。気を遣う相手ではある。それでも笑うところではちゃんと笑えた。帰り際、スマホを開いて田中とのトーク画面が目に入った。さっきまでの笑いが、そこで一度止まった。
◇◇◇
帰宅。
母さんはまだ仕事。
部屋。
静か。
ベッドへ座る。
スマホ。
ゲームを起動する。
イベント。
期間限定。
残り一週間。
以前なら。
休日は田中の家だった。
別に約束なんてしない。
金曜。
『明日どうする』
『行く』
『何時』
『昼くらい』
それだけ。
というか、場合によっては連絡すらしない。
昼過ぎ。
ピンポン。
『田中氏ー、開けろー』
『……連絡しろよ』
『したぜ』
『今来た』
『三十秒前に』
そんな感じ。
田中の部屋には俺の充電ケーブルまで置いてある。
漫画も何冊か。
ゲームのコントローラー。
俺が忘れたままのパーカー。
母さんが仕事の日。
家に一人でいるくらいなら、
田中のところへ行く。
そういう場所だった。
明日。
土曜日。
母さんは仕事。
いつもなら。
田中の家。
スマホ。
メッセージ。
入力。
『明日行くわ』
打つ。
消す。
『明日暇?』
違う。
何で暇かどうか聞くんだ。
今まで聞いたことない。
消す。
『今日行っていい?』
「…………」
まだ今日じゃない。
自分で笑いそうになった。
「何やってんだ俺」
スマホをベッドへ投げる。
◇◇◇
翌日。
十一時四十三分。
俺はまだ家にいた。
ゲーム。
イベント周回。
一人。
面白くない。
ゲームがつまらないわけではない。
一人でやっていることが、
妙に気になる。
ボス撃破。
報酬。
画面。
いつもなら横から田中が、
『それ弱くね』
とか言う。
『黙れ無課金』
『無課金でも持ってる』
『殺す』
そんな会話。
今日はない。
スマホ。
メッセージ。
田中。
入力。
『今日行っていい?』
指。
止まる。
消す。
もう一回。
『今日行っていい?』
送信。
送った。
送ってしまった。
心臓が変な音を立てる。
「いや」
何を緊張してる。
田中だぞ。
既読。
一分。
二分。
三分。
『いいけど』
それだけ。
普通。
なのに。
俺はその四文字をしばらく見ていた。
昔なら。
そもそも、
許可なんて取っていなかった。
◇◇◇
田中の家。
何百回来たか分からない。
いや。
さすがに百は盛った。
でも数えられないくらい来た。
門。
玄関。
インターホン。
押す。
ピンポーン。
変な感じ。
前はほとんど押さなかった。
鍵が開いていれば、
『お邪魔しまーす』
くらいで入ったこともある。
田中の母親も、
『悠斗くん、お菓子そこね』
程度。
親戚の家より気楽だった。
扉が開く。
「あら」
田中の母親。
俺を見る。
「こんにちは」
「……こんにちは」
微笑む。
「あら、圭介のお友達?」
「…………」
時間が止まった。
「え」
「クラスの子?」
「…………佐々木です」
「え?」
「佐々木悠斗です」
「…………」
田中の母親の顔。
俺の顔。
もう一度。
「……えっ」
気づいた。
「あっ」
「…………」
「ご、ごめんなさい! そうよね、聞いてたのに、私――」
「いや」
悪くない。
分かっている。
写真だって見せてもらっていないだろう。
こんな姿になっているとは思わない。
「大丈夫です」
「ほんとごめんね」
「大丈夫」
笑う。
たぶん。
「圭介、上にいるから」
「はい」
「……あ」
「何です?」
「悠斗くんで、いいのよね?」
「…………」
少しだけ。
助かった。
「はい」
「そっか」
田中の母親が笑う。
「じゃあ上がって」
「お邪魔します」
靴を脱ぐ。
廊下。
階段。
見慣れた家。
でも。
さっきの、
『圭介のお友達?』
が頭に残る。
俺はこの家を知っている。冷蔵庫の麦茶がどこにあるかも、トイレの電気が接触不良で二回押さないと点かないことも、階段の三段目が少し軋むことも、田中の父親が巨人ファンなのも知っている。親戚の家より勝手が分かる場所なのに、玄関を開けた人から見れば、俺は一瞬だけ「圭介の知らない女友達」だった。
階段。
三段目。
ぎし。
いつもの音。
余計に変だった。
◇◇◇
田中の部屋。
扉。
手が止まった。
これも。
いつもなら。
開ける。
『田中氏ィ!』
勝手に。
今は。
ノック。
コンコン。
「……入れば」
中から声。
「おう」
扉を開ける。
田中。
パソコン。
ゲーム機。
漫画。
大きいテレビ。
何も変わっていない。
ベッドの横。
俺が前に忘れたパーカーまである。
「…………」
「何」
「いや」
俺は部屋へ入る。
いつも座っていた場所。
床。
ローテーブルの横。
座ろうとして。
止まる。
スカート。
そうだった。
適当にあぐらをかけない。
座り直す。
膝を寄せる。
「…………面倒くせえ」
「何が」
「身体」
「……そう」
田中が一瞬こちらを見る。
すぐモニターへ戻る。
「イベント」
「やってる」
「どこまで行った?」
「全部」
「は?」
「お前遅い」
「病人に先行してマウント取るなよ!」
少し。
笑う。
田中も口元が少し動いた。
「……それ」
「ん?」
「久しぶり」
「何が」
「その顔」
「どういう意味?」
「笑ったってことだぜ」
「普通に笑ってる」
「俺以外には分かんねえんだよ」
「…………」
沈黙。
言ってから。
少し後悔した。
俺以外には。
前なら何も思わなかった。
今は。
その言葉が、
妙に重い。
◇◇◇
「編成見せろよ」
「何で」
「暇だから」
「自分の見れば」
「他人の編成を見るのが楽しいんだぜ」
「趣味悪い」
「知ってる」
田中のスマホを覗く。
近づく。
田中の肩が、
ほんの少し動いた。
気づかないふりをする。
画面。
「相変わらず防御寄りだな」
「死ななきゃ勝てる」
「時間かかるだろ」
「死ぬよりいい」
「老人的発想」
「うるさい」
田中の画面。
編成。
サポート枠。
知らないフレンドの、別のキャラ。
……前は。
俺のあいつが、定位置だった。
「……俺の、借りてないんだ」
「…………」
「……別に」
「編成変えただけ」
それだけ。
サポートを変えただけ。
ゲームだ。
よくある。
環境が変わった。
ボスとの相性。
理由なんていくらでもある。
でも。
聞けなかった。
俺も黙る。
◇◇◇
帰り。
「じゃ」
「おう」
玄関。
田中が見送りに来る。
以前なら来なかった。
俺が勝手に帰る。
『またな』
『ん』
それだけ。
今日は。
田中が玄関までいる。
親切。
なんだと思う。
「……なあ」
「何」
言いかける。
最近。
何で距離取ってる。
言おうとした。
「…………」
「佐々木?」
「……イベント」
「何」
「明日までだっけ?」
「来週」
「ああ」
何を聞いている。
「じゃあ」
「ん」
扉。
外。
閉まる。
聞けなかった。
◇◇◇
月曜日。
火曜日。
学校生活は、
さらに普通になっていった。
俺が女になったこと自体は、
もうクラスではニュースではなくなった。
人間の慣れは早い。
誰も朝から俺を囲まない。
女子とは普通に喋る。
男子も普通に話しかける。
その代わり。
以前とは違うことも、
普通になった。
「佐々木さん」
「ん?」
「放課後、ちょっといい?」
知らない男子。
いや。
顔は知っている。
三年。
「誰」
「三浦先輩」
隣の女子が小声で教える。
「有名だよ」
「何で」
「サッカー部。普通にかっこいいじゃん」
「そういうものか」
「佐々木さんマジでそういうの興味ないんだ」
ない。
というか。
少し前まで男だった。
イケメンランキングなど知るわけがない。
「放課後ね」
三浦先輩は笑って去った。
嫌な予感。
いや。
まさかな。
◇◇◇
まさかだった。
放課後。
校舎裏。
ベタ。
あまりにもベタ。
ゲームだったら選択肢が出る。
《告白される》
とか。
三浦先輩は、
少し困ったように俺を見た。
「あの」
「はい」
「佐々木……さん、でいいのかな」
「…………」
そこ。
ほんの一瞬。
詰まった。
佐々木。
さん。
「いいです」
「ごめん。変なこと聞いて」
「別に」
先輩は感じがよかった。
俺の事情を面白がっている感じもない。
それが逆に困る。
「単刀直入に言うけど」
「はい」
「俺、佐々木さんのこと好きなんだ」
「…………」
知ってた。
いや。
知らない。
でも流れがそうだった。
「一目惚れっていうのかな」
一目。
その言葉が妙に引っかかった。
「二年の、窓側の後ろの方の席だよね。休み時間、よくスマホ見てる」
「……俺のこと、見てたんですか」
一瞬だけ、胸の奥が浮いた。
「うん。復学した日に見かけて。それから何度か」
浮いたものが、そのまま元の場所へ落ちた。
「……そうですか」
「もしよかったら、今度どこか――」
「すみません」
早かった。
自分でも驚くくらい。
「あ」
「そういうの、今ちょっと考えられないです」
「……そっか」
三浦先輩は少し残念そうに笑った。
「ごめん。困らせた?」
「いや」
「じゃあ、忘れて」
「…………」
「返事ありがと」
それだけ。
先輩は帰った。
嫌な奴ではなかった。
むしろ。
ちゃんとしていた。
だから。
余計に困った。
好き。
一目惚れ。
俺。
少し。
ほんの少しだけ。
嬉しかった。
誰かから。
好きだと言われた。
人生で初めて。
今まで。
そんなことは一度もなかった。
誰かの恋愛対象に入ったことすら、
たぶんなかった。
それが。
今は。
ある。
俺は顔を上げ、校舎の窓に映った自分から目を逸らした。嬉しくなかった、と言えば嘘になる。そこが一番厄介だった。
三浦先輩は何も悪くない。
俺も、
たぶん悪くない。
ただ。
あの人が見たのは、
今の俺だけだ。
一目惚れ。
当然だ。
昔の俺なんて知らない。
眼鏡。
短い髪。
キング・オブ・モブ。
教室の隅で田中とゲームをしていた男。
知らない。
知るわけがない。
でも。
なら。
好きだと言われたのは、
誰なんだ。
俺か。
この身体か。
そんなことを考えて。
すぐにやめた。
三浦先輩に失礼だ。
好きになった理由なんて、
誰にも説明する義務はない。
見た目から始まる恋愛なんていくらでもある。
普通だ。
何もおかしくない。
おかしいのは。
俺の方だ。
校舎へ戻る。
窓ガラス。
そこに映る。
黒髪。
小さい身体。
整った顔。
少し前。
俺自身が鏡を見て、
『URだろ』
と言った顔。
そりゃ。
誰かが好きになることも、
あるのかもしれない。
それを理解できてしまう自分が、
また少し嫌だった。
◇◇◇
その日の帰り。
田中と並ぶ。
「…………」
「…………」
先輩のことは、
言わなかった。
言う理由もない。
田中も何も聞かない。
半歩。
今日も。
空いている。
前なら。
その半歩に、
何もなかった。
今は。
そこに何かある。
名前のない何か。
俺は一度。
その隙間を見た。
田中は前を向いている。
今日は、口を閉じなかった。
「田中」
「ん」
「最近さ」
「何」
「なんか変じゃね」
田中の足が、ほんの少し遅くなる。
「……別に」
「別にって」
「変わってない」
そこで会話が切れた。
聞けなかった時より、たぶん悪かった。今度はちゃんと聞いたのに、返ってこなかった。
半歩。
たったそれだけ。
なのに。
以前より。
ずっと遠くなっていた。
◇◇◇
三浦先輩に告白されたのは、火曜日だった。
水曜日。
何もなかった。
少なくとも、
俺以外の人間から見れば。
◇◇◇
木曜日。
「佐々木さん、これ先生に渡しといてくれる?」
「何で俺」
「職員室行くって言ってたじゃん」
「言ってねえよ」
「今言った」
「横暴だぜ」
「お願いお願い」
「……はいはい」
放課後。
クラスメイトからプリントの束を押しつけられる。
最近こういうことが増えた。
悪い意味ではない。
むしろ。
以前なら頼まれなかった。
誰かが職員室へ行く。
ついでにこれも。
ノート見せて。
昨日の宿題どこ。
一緒に購買行こう。
そういう、
普通のやつ。
俺はプリントを見る。
たぶん。
いいことなんだと思う。
以前より人と話している。
名前を呼ばれる。
頼られる。
誘われる。
それなのに。
時々、
すごく疲れる。
「佐々木?」
「ん?」
「ぼーっとしてる」
「腹減った」
「それいつもじゃん」
「成長期だからな」
「まだ伸びる気?」
「百五十に乗るまでは諦めない」
「そこなんだ」
笑われる。
俺も笑う。
普通。
全部、
普通だった。
◇◇◇
職員室へプリントを届ける。
戻る。
教室。
田中。
いない。
「田中は?」
近くにいた男子へ聞く。
「帰ったんじゃね?」
「……帰った?」
「さっき鞄持ってたよ」
「…………」
机。
空。
田中の席。
当然、
鞄もない。
胸の奥。
何かが、
切れた。
「佐々木?」
「悪い」
「え?」
鞄を掴む。
教室を出る。
廊下。
走る。
「ちょ、廊下走るなよ!」
誰かの声。
知らん。
◇◇◇
階段。
「っ……!」
揺れる。
邪魔。
今は本当に邪魔。
手で押さえる余裕もない。
「田中……!」
一階。
昇降口。
靴。
履く。
髪が顔へ掛かる。
「邪魔!」
払う。
外。
校門。
いた。
でかい。
後ろ姿。
見間違えるわけがない。
「おい!」
聞こえない。
「田中!」
止まった。
振り返る。
「…………佐々木?」
追いつく。
息。
苦しい。
「はっ……」
「何してんの」
「何じゃねえ……」
息を整える。
何を言う。
決めていなかった。
ただ追いかけた。
でも。
顔を見たら。
勝手に出た。
「最近なんなんだよ」
「……何が」
「何がじゃねえだろ」
「…………」
「俺のこと避けてるだろ」
田中の顔。
動かない。
「別に」
「別にじゃねえよ」
「…………」
「昼も。帰りも。家行った時も」
「…………」
「何なんだよ」
「……別に」
「だからそれやめろ!」
思ったより大きな声が出た。
田中が少し目を見開く。
俺も驚いた。
通り過ぎる生徒がこちらを見る。
どうでもいい。
「最近ずっとそうだろ」
「…………」
「俺が話しかけなきゃ喋らねえし」
「元からだろ」
「違う」
「…………」
「違うだろ」
田中は黙る。
「今日だって」
「……何」
「何で先帰った」
「用事」
「何の」
「…………」
「ないだろ」
「あるかもしれないだろ」
「じゃあ言えよ」
「何でお前に言わなきゃいけないんだよ」
何も言えなくなった。
俺たちの横を、部活帰りの二人組が通り過ぎる。笑い声が近づいて、遠ざかる。その間、田中も何も言わなかった。
俺は鞄の肩紐を握り直した。
「……そういう意味じゃ」
「じゃあどういう意味だよ」
「…………」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ何なんだよ!」
田中が俯く。
眼鏡。
レンズが光って、
目が見えない。
「……友達」
「何」
「増えたんだから」
「…………は?」
「そっちといればいいだろ」
何を言っている。
一瞬、
本当に分からなかった。
「……何それ」
「別に」
「また別にかよ」
「いいだろ」
「よくねえよ」
「何が」
「俺がそうしたいっていつ言ったんだよ」
「…………」
「なあ」
田中が顔を上げる。
「俺がいつ、田中じゃなくてあいつらといるって言った?」
「言ってない」
「じゃあ何で勝手に決めてんだよ」
「だって」
「だって何」
「……もういいだろ」
「よくねえって言ってんだろ!」
「じゃあどうしろってんだよ!」
田中が叫んだ。
初めてだった。
田中が。
俺に。
こんな声を出したのは。
周囲の音が一瞬、
遠くなった気がした。
田中自身も驚いている。
口を開けたまま、
止まっている。
「…………」
「…………」
先に目を逸らしたのは、
田中だった。
◇◇◇
「……分かんねえよ」
低い声。
さっきまでとは違う。
絞り出すような。
「何が」
「全部」
「…………」
「お前なのは分かってる」
田中は俺を見ない。
「…………」
「佐々木だって」
少し間。
「分かってる」
「じゃあ」
「でも」
止まる。
「でも?」
「…………」
田中の手が、
ぎゅっと鞄の持ち手を掴む。
「今まで通りでいいのか」
「…………」
「分かんねえ」
その言葉。
何度目だ。
分からない。
「何がだよ」
「……だから」
「分かんねえって言われても俺も分かんねえよ」
「お前は」
「何」
田中が初めて、
こっちを見る。
「変わっただろ」
「…………」
「見た目」
「知ってる」
「声も」
「聞けば分かる」
「身体も」
「毎日嫌ってほど分かってる」
「…………」
「で?」
田中が詰まる。
「俺が近くにいたら……」
止まる。
「何」
「…………お前も」
それ以上出ない。
俺は田中を見る。
でかい身体。
眼鏡。
猫背。
いつもより。
もっと縮こまって見える。
その瞬間。
一つ。
頭に浮かんだ。
廊下。
女子二人。
壁。
田中は。
自分から。
壁際へ寄った。
――ああ。
廊下の、
壁際か。
「……俺が」
「…………」
「俺が、お前を怖がるとでも思ってんのか」
田中は答えない。
「お前さ」
「…………」
「馬鹿だろ」
「…………」
「いや俺も人のこと言えねえけど」
さっきまであった怒りとは、
少し違う。
でも。
まだ腹は立っている。
かなり。
「俺、今まで何回お前の家行ったと思ってんだよ」
「…………」
「背中叩いた」
「痛かった」
「そこ今拾うな」
「…………」
「肩ぶつかったこともある」
「ある」
「お前のベッドで寝たこともある」
「勝手に」
「充電器も置いてる」
「お前が忘れた」
「パーカーも」
「それも忘れた」
「だから!」
「…………」
息を吸う。
「それ全部やってきた俺が」
田中を見る。
「身体変わったくらいで、急にお前怖がると思うのかよ」
「…………」
「俺だぞ」
「……でも」
「でもじゃねえ」
今度は俺が遮った。
「お前がどう見えるかとか」
「…………」
「俺が怖いかとか」
「…………」
「それ」
一歩。
近づく。
田中は動かない。
「俺が決めることだろ」
「…………」
「勝手に俺のためとか言って」
もう一歩。
距離。
半歩。
なくなる。
「勝手にいなくなんなよ」
「…………」
田中。
何も言わない。
俺も。
それ以上、
言えなかった。
◇◇◇
しばらく。
誰も喋らなかった。
風。
校庭。
部活の声。
遠くでボールが弾む音。
俺は、
ようやく気づいた。
走ってきたせいで、
めちゃくちゃ息が苦しい。
「……はあ」
田中が見る。
「何」
「いや」
「…………」
「お前、足遅い」
「は?」
「追いつくと思わなかった」
「殺すぞ」
少し。
いつもの調子が戻りそうになる。
でも。
完全には戻らない。
「…………」
「…………」
沈黙。
気まずい。
ものすごく。
田中が、
眼鏡を押し上げる。
「……明日」
「何」
「昼」
「…………おう」
それだけ返した。
◇◇◇
帰り道。
並んで歩いた。
会話。
ほとんどない。
でも。
田中は、
半歩離れなかった。
俺も。
気づかないふりをした。
◇◇◇
翌朝。
教室へ入る。
「おはよ」
「……おう」
田中。
いつもの席。
スマホ。
眼鏡。
いつもの顔。
昨日あれだけ喧嘩したのに、
何もなかったような顔をしている。
いや。
違う。
少し気まずそうだ。
俺には分かる。
眉。
ほんの少し。
口元。
固い。
たぶん。
めちゃくちゃ気まずい。
俺も同じだった。
席へ行く。
鞄を置く。
椅子。
机。
そこで。
気づいた。
田中の机。
俺の机。
間。
少し。
空いている。
前より、ほんの少しだけ。
机を見る。
田中を見る。
田中がこっちを見る。
すぐ。
目を逸らす。
俺は何も言わなかった。
椅子に座る。
机の脚。
足を掛ける。
引く。
ガッ。
「っ」
机が動く。
田中の机のすぐ隣。
元の距離。
田中が、
驚いた顔をする。
「……何」
「何が」
「いや」
「机ずれてた」
「…………」
「戻しただけ」
「…………そう」
俺はスマホを出す。
ゲーム。
起動。
「田中氏」
「……何」
その呼び方が、
自然と出た。
「イベント、今日までだぜ」
「知ってる」
「限定は?」
「出てない」
「雑魚だぜ」
「……うるさい」
田中の口元が、ほんの少し上がった。
スマホを見せる。
近づく。
肩。
ではなく。
髪。
長い黒髪が、
田中の腕へ触れた。
田中が、
一瞬。
固まる。
俺は気づいた。
田中を見る。
目が合う。
田中が逸らす。
俺は。
何も言わなかった。
気づかなかったことにした。
スマホを、
さらに田中の方へ寄せる。
「ほら、田中氏」
「……何」
画面。
黒髪。
小柄。
クール系。
巨乳。
「こいつだぜ」
「…………」
「引け」
「石ない」
「買え」
「嫌」
「未来への投資だぜ」
「もういい」
田中が、
少し笑った。
俺も。
笑った。
髪は長い。
声は高い。
身体は小さい。
胸は邪魔。
眼鏡もない。
鏡を見れば、
今でも時々。
知らない奴がいると思う。
何もかも。
身体が変わる前と同じではない。
それでも。
話していることだけは。
身体が変わる前と、
何も変わらなかった。
――終。




