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載 異世界で食堂を開いて十七年、常連だった子どもたちが騎士団長と宰相補佐と聖女になって迎えに来ました 本編と番外編

王弟殿下は女将と晩酌する 〜臨時給仕の王弟殿下と、荒れた手に落とされる尊い口づけ 【異世界で食堂を開いて十七年、常連だった子どもたちが騎士団長と宰相補佐と聖女になって迎えに来ました 番外編】

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/06/30

異世界で食堂を開いて十七年、常連だった子どもたちが騎士団長と宰相補佐と聖女になって迎えに来ました 〜元看護師の女将は、王弟殿下に人生ごと大切にされます〜

https://ncode.syosetu.com/n4356mi/


番外編スピンオフです。

宿場町リーベルの夕暮れは、冷たい風とともに足早にやってくる。

日が落ちると同時に、街道を行き交っていた人々の足は、吸い込まれるように一つの店へと向かっていった。


『灯火食堂』

四十代半ばの女将、サヨ・ミルナーが十七年間守り続けてきた小さな食堂だ。


店内は、仕事を終えた日雇い労働者や、長旅の商人、近所の子どもたちで溢れかえり、喧騒と熱気に満ちていた。

かまどには勢いよく火が入り、大きな鍋から立ち上る湯気と、焦げた醤油、そして根菜の甘い匂いが混ざり合って、冷えた身体を芯から温めるように漂っている。


「はい、お待たせ。今日は冷えるから、スープの生姜を少し濃くしておいたわよ。しっかり温まってね」

「おお、女将さん、助かる! このスープを飲むと生き返るんだよな」

「こら、お酒より先にパンを食べなさい。胃が荒れるわよ。……そっちの席、顔色が悪いわね。今日は早めに帰って寝ること。分かった?」

「へーい、女将さんには敵わねえな」


サヨは、水仕事で少し荒れた手をエプロンで拭いながら、店中を忙しく動き回っていた。

客の顔色を見て、その日の体調に合わせた言葉と食事を出す。王宮を揺るがせたあの陰謀の嵐が過ぎ去っても、灯火食堂の日常は何一つ変わっていなかった。

常連客たちは、サヨの小言を嬉しそうに聞き流しながら、木の椀を傾けている。


カラン、と。

入り口のベルが鳴り、新しい客が入ってきた。


質素な旅用の外套を深く被り、目立たないように身をすくめている。だが、その隠しきれない長身と、広い肩幅、そして歩くたびに微かに漂う洗練された気配は、宿場町の埃っぽい空気にはどうしても馴染まなかった。


「いらっしゃいませ。……あら、今日は、お仕事帰りですか」


サヨが顔を上げ、少し驚きながらもいつものように微笑みかけた。


「ええ。少し、腹が空きまして」


外套のフードを下ろしたのは、王弟エリアスだった。

この国の政務と軍務の要を担う、泣く子も黙る権力者。だが、今日の彼は護衛の騎士すら連れず、本当にただ一人の「腹を空かせた客」として、この店にふらりとやってきたのだ。


その瞬間、入り口近くに座っていた数人の常連客の動きが、ピタリと止まった。


「おい、あの人……」

「馬鹿、黙って食え」

「でも、王弟殿下がどうしてこんな……」

「ここでは客だ。女将さんがそう扱ってるなら、俺たちもそうするんだよ」


常連たちは小声で言葉を交わすと、すぐさま何事もなかったかのように食事を再開した。

それが、灯火食堂の流儀だった。

過去がどうだろうと、身分が何だろうと関係ない。この扉をくぐった者はすべて、ただの腹を空かせた客なのだ。


「こちらへどうぞ。少し狭いけれど、一番温かい席よ」


サヨは、厨房の火の気が届くカウンターの隅へエリアスを案内した。


「ありがとうございます、サヨ殿」


エリアスは静かに腰を下ろし、出された薬草茶を両手で包み込んだ。

本当は、もう少しゆっくりと彼女の顔を見て、言葉を交わしたかった。王宮での激務の合間、冷たい石壁の執務室で思い出すのは、いつも彼女が鍋をかき混ぜる姿ばかりだったからだ。

だが、店は夕食時のピークを迎え、サヨは息をつく暇もなく厨房と客席を行き来している。


エリアスは、放置されていることを不快には思わなかった。

むしろ、この場所でサヨが誰に対しても分け隔てなく世話を焼き、母親のように微笑みかけている姿を見ているのが、たまらなく愛おしかった。

ただ、ほんの少しだけ。その温かい視線を、もう少しだけ独り占めしたいという、静かな独占欲が胸の奥で燻っていることも事実だった。


「お待たせいたしました」


灰色のワンピースに白いエプロン姿の給仕、シオンが、音もなくエリアスの隣へやってきた。

彼女は元・王弟直属の密偵であり、今は自分の意思でこの店の看板娘として働いている。


シオンは、厨房で忙しく立ち働くサヨの背中と、手持ち無沙汰に座っているエリアスの姿を、無機質な瞳で交互に観察した。

そして、ふと何かを計算したように小さく頷くと、エリアスに向かって極めて事務的な声で告げた。


「待機戦力を確認しました」

「……待機戦力?」


エリアスが不思議そうに首を傾げる。


「はい。手が空いている成人男性一名。配膳補助に投入可能です」


ブフォッ、と。

少し離れた席で常連客の相手をしていた元裏社会の用心棒、カイが、飲んでいたお茶を噴き出した。


サヨが慌てて厨房から顔を出す。


「シ、シオンちゃん! エリアス殿下に何を言っているの!」

「灯火食堂では、空腹者の前で手の空いた者が座っているのは非効率です。女将の負担を軽減するため、本人の同意を得て、人員を再配置します」


シオンは真顔で、サヨの制止を論理的に切り返した。


一瞬、店内の常連客たちの間に冷や汗が流れた。

王弟殿下を、配膳補助(つまり、給仕の下働き)に使うだと? 不敬罪で首が飛んでもおかしくない暴言だ。


だが、エリアスは一瞬だけ目を丸くすると、ふっと肩の力を抜いて、楽しそうに笑った。


「なるほど、それは理にかなっている。……では、女将。私は何をすればよろしいですか?」

「で、殿下!? だめですよ、そんな……!」

「私は今、ただの待機戦力だそうですから」


エリアスは上等な外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。

そして、袖を軽くまくり上げると、厨房のカウンターの前に静かに立った。


「熱い鍋を持つのは、私の仕事にしましょう。サヨ殿は、味の調整に専念してください」


そこからは、常連客たちが度肝を抜かれるような光景が繰り広げられた。

エリアスは、サヨの料理人としての領域(包丁や味付け)には一切踏み込まなかった。彼が引き受けたのは、熱い汁物が入った木盆を運ぶこと、空いた椀を下げること、そして客のコップに水を注ぐことだった。


軍務で鍛え上げられた長身の男が、狭い店内を音もなく滑るように移動する。

客が水を欲しがっている気配を察知すれば、呼ばれる前にコップを満たす。子どもがパンを落としそうになれば、床につく前にサッと受け止める。

その動きには一切の無駄がなく、驚くほど有能だった。


「お、おい……俺、さっき王弟殿下に水注いでもらったぞ……」

「一生分の運を使ったな、お前」

「ありがたく飲め。こぼしたら一族郎党の首が飛ぶぞ」


常連たちが小声で震えながら囁き合っていると、エリアスが空になった木盆を持って通りかかった。


「おかわりはいかがですか?」


極めて丁寧で、穏やかな王族の微笑み。


「……いただきます」


常連客は直立不動で、震える両手を差し出してコップを差し出した。

店内から、くすくすという忍び笑いが漏れる。


「殿下、うちの女将さんは働きすぎるんで、ちゃんと見張っててくだせえよ」

「そうそう、放っておくと重い鍋ごと背負って走り出しますからね」

「王弟殿下でも、女将さんを泣かせたら俺たちは黙ってませんぜ!」


常連たちが酒の勢いに任せて軽口を叩く。

すると、壁際に寄りかかっていたカイが、腕を組んだまま低く凄んだ。


「ここじゃ、王弟だろうが腹を空かせた客だ。……ただし、女将を泣かせたら俺が通さねえ」

「カイまで……!」


サヨが顔を真っ赤にして窘めるが、エリアスは不快に思うどころか、むしろ嬉しそうに目を細めた。


「それは頼もしい。私も、その条件に異論はありません」


王宮の権力闘争の中で生きてきた彼にとって、見返りも恐れもなく、ただ一人の女性を守るために団結しているこの食堂の空気は、ひどく温かく、心地よいものだった。


「サヨ殿、その大鍋はこちらへ」


忙しさの中、サヨが重い出汁の鍋をかまどから下ろそうとした瞬間、エリアスが自然に横から手を添え、軽々と持ち上げた。


「あ、大丈夫です。いつものことですから」

「大丈夫な人ほど、大丈夫ではない時があります」


エリアスの静かな言葉に、サヨは少しだけ言葉に詰まった。

彼女は、客の顔色の悪さや、子どもの小さな震えには誰よりも早く気づく。だが、前世からの癖で、自分自身の疲労や痛みにはひどく鈍感になっていた。


エリアスはそれを責めず、ただ静かに、重いものを彼女の代わりに持った。

彼の手の温もりが、サヨの強張った肩の力をふわりと抜いていく。


(ああ……)


私だって、誰かに頼ってもいいのだと。

彼の言葉と行動が、サヨの心に静かに染み込んでいった。



やがて、エリアスの有能な手伝いもあり、店はいつもより早く落ち着きを取り戻した。

サヨはカウンターの奥で、少し恐縮したように肩をすくめた。


「王弟殿下にお盆を運ばせるなんて、私、明日には不敬罪で捕まるんじゃないかしら」

「では、私が弁護します」

「殿下が原因なのに?」

「ええ。責任を持って」


エリアスが真顔で返すので、サヨは思わず吹き出してしまった。

笑いが収まると、サヨは少しだけはにかんで、素直な言葉を口にした。


「でも……助かりました。本当に」

「私は楽しかったですよ」

「楽しかった?」


サヨが不思議そうに首を傾げると、エリアスは翡翠の瞳を優しく細めた。


「あなたの一日の中に、少しだけ入れてもらえた気がしましたから」


その言葉に、サヨの顔がカッと熱くなった。

大人同士の、静かで、けれど確かな熱を帯びた距離感。サヨは慌てて布巾でカウンターを拭くふりをして、視線を逸らした。



宿場町に、夜の訪れを告げる鐘の音が響いた。


「女将さん、もう一杯だけ!」


まだ酒を飲んで居座ろうとする常連客の前に、カイが音もなく立ち塞がった。


「閉店だ」

「え、まだ鐘が鳴ったばっかりじゃねえか」

「閉店だ」


カイのドスの効いた声と、その奥で「任務完了」とばかりに無表情で皿を下げるシオンの姿を見て、常連客たちはすべてを察した。


「あー、はいはい。帰る帰る。女将さん、今日は早く休めよ!」

「殿下、女将さんを困らせちゃ駄目ですぜ!」

「でも、少しは困らせてもいいかもしれませんねえ」


ニヤニヤしながら帰っていく常連たちに、サヨは顔を真っ赤にして怒った。


「もう、あなたたち! 明日、朝ごはんに大根の端っこしか出さないわよ!」

「勘弁してくれー!」


笑い声とともに、最後の客が店を出て行った。

サヨはため息をつき、「さて、片付けと明日の仕込みを……」と振り返ったが、そこにはすでにシオンが立ち塞がっていた。


「女将の、本日の追加労働を禁止します」

「でも、片付けが」

「完了しています」

「明日の仕込みが」

「下処理済みです」

「……いつの間に」


サヨが呆然としていると、カイが肩をすくめた。


「たまには休め。あんたが倒れると、俺たち全員が困るんだよ」


カイとシオンは、サヨに反論の隙を与えず、さりげなく店の奥の小部屋へと下がっていった。

完全に気配を消すわけではない。護衛の距離にはいる。だが、サヨとエリアスの視界からは完全に外れ、「二人きり」の空間を作り出したのだ。


ランプの灯る静かな食堂に、サヨとエリアスだけが残された。

サヨは少し困ったように笑い、エリアスを見上げた。


「……働いてくださった方には、まかないを出さないといけませんね」

「それは、光栄です」


閉店後の灯火食堂に、二人分の椀と、静かな湯気が残された。



表の木戸にしっかりと鍵が下ろされ、宿場町リーベルの夜の冷気が外に締め出された店内。


喧騒と熱気に満ちていた客たちの声はとうに消え、灯火食堂には深い静けさが満ちていた。

天井の煤けた梁や、使い込まれた木のテーブル、椅子の背もたれには、昼間の賑わいの余熱がまだ微かに残っているような気がする。

厨房のかまどの火は細く絞られ、カウンターの上にはランプの柔らかな灯りだけが落ちていた。


「本当に、何もしなくていいのかしら……」


サヨは、エプロンを外した手持ち無沙汰な両手を膝の上で組みながら、そわそわと視線を泳がせた。

いつもなら、この時間は翌朝の仕込みと念入りな片付けに追われているはずなのだ。

けれど今夜は、給仕のシオンと用心棒のカイが「本日の追加労働を禁止します」と有無を言わさずサヨから布巾を奪い取り、あっという間にすべての作業を終わらせてしまった。厨房の奥の死角に二人のひそやかな気配を感じるが、決して表に出てこようとはしない。


「今夜は、そういう日なのでしょう」


向かいの席に座るエリアスが、穏やかな声で言った。

王宮では国の要として軍を率い、政務を取り仕切る王弟殿下。しかし今の彼は、少し袖をまくった平民の外套姿のまま、ただの一人の男としてサヨと同じテーブルを囲んでいた。


「誰かに片付けをすべて任せて、自分が座って休むなんて……なんだか、とても落ち着かないわ」

「十七年間、ずっと働き詰めだったのですから。たまには休まないと、彼らも安心できないのでしょう」


エリアスはふっと目を細め、サヨを気遣うように微笑んだ。

サヨは少しだけはにかんで立ち上がり、厨房の棚からいくつかの器を取り出した。


「……働いてくださった方には、まかないを出さないといけませんね」


テーブルに並べられたのは、ごく簡単な、灯火食堂らしい素朴なまかないだった。

大鍋の底に残っていた、余り野菜と鶏の骨から取ったスープ。

かまどの余熱で焼き直した、少し硬めの黒パン。

保存食の塩漬け肉を薄く切ったものと、チーズの端っこ。

そして、少し酸味のある安い果実酒が注がれた、二つの木のコップ。


「王弟殿下に出すには、ずいぶん質素ですけれど」


サヨが申し訳なさそうにコップを置くと、エリアスはゆっくりと首を横に振った。


「王宮の晩餐より、ずっと贅沢です」

「また、大げさな……」

「いいえ。これは、私のためにあなたが選んでくれた食卓ですから」


エリアスの真っ直ぐな言葉に、サヨは顔に小さな熱が集まるのを感じ、照れ隠しのように自分の席に座った。


エリアスは木の匙を取り、余り野菜のスープを一口飲んだ。

じんわりとした出汁の甘みが、軍務と政務で張り詰めていた彼の内臓を、ゆっくりと解きほぐしていく。

彼はほうっと静かな息を吐き、どこか懐かしむような視線をスープの表面に落とした。


「……昔も、あなたはそうでした。私が名乗らなくても、何も聞かず、ただ黙って温かい椀を置いてくれた」


十七年前、命を狙われ、泥と血にまみれて逃げ込んだ冬の夜のことだ。

サヨは記憶の糸をたぐり寄せようと眉を寄せるが、毎日数え切れないほどの客がやってきては去っていく食堂で、泥だらけの男の記憶を特定するのは至難の業だった。


「ごめんなさい。やっぱり、まだはっきりとは思い出せなくて……」

「構いません。私が覚えていれば十分です」


エリアスは優しく微笑み、果実酒のコップを傾けた。

過去の恩着せがましさなど微塵もない。覚えていなくても、今こうして向かい合って酒を飲めている事実だけで、彼は満たされているようだった。


「そうだ。今日は、もう一つ届け物がありました」


晩酌が少し落ち着いた頃、エリアスがふと外套の懐から、一通の小さな封筒を取り出した。


「届け物?」


サヨが受け取った封筒は、王宮の書状に使われるような上等な羊皮紙ではなかった。

王家の立派な紋章の封蝋も押されておらず、少しだけ不格好に赤い蝋が垂らされているだけだ。

表には、まだ少し硬く、けれど以前よりずっと落ち着いた丁寧な文字で、こう書かれていた。


『サヨさんへ』


その五文字を見た瞬間、サヨの胸がきゅっと鳴った。


「……ルカから?」

「ええ。本人は、まだ少し照れていましたが。どうしても、私から渡してほしいと」


エリアスの柔らかな視線に促され、サヨは震える指先でそっと封を切った。

便箋に並んでいたのは、王太子の家庭教師が教えるような堅苦しい挨拶や、建前めいた言葉ではない。一人の少年が自分の意思で紡いだ、まっすぐな言葉だった。



『サヨさんへ


今日は、王太子として、届いた嘆願書を読む練習をしました。

難しい言葉が多くて、まだ全部は分かりません。


でも、一通だけ、どうしても気になるものがありました。

北の村の孤児院からの手紙でした。

正式な書き方ではないから、後回しにされるところだったそうです。


でも、紙の端に、小さな字でこう書いてありました。

「ぼくが寒いと言うと、弟が泣いてしまいます」


それを読んだ時、僕は胸が痛くなりました。

その子は、自分が寒いことより、弟を安心させることを先に考えていたのだと思います。


だから僕は、この手紙を後回しにしないでほしいと言いました。

毛布と薪を送れるように、エリアス叔父上とユリウスに手伝ってもらいました。


大きなことは、まだできません。

でも、小さな声を「小さいから」と捨てない王太子にはなりたいです。

サヨさんが、僕の小さな声を聞いてくれたからです。


灯火食堂に帰った時は、またルカでいさせてください。

ちゃんと、帰ります。


ルカより』



サヨは最後まで手紙を読み終え、しばらく黙り込んだ。

声を上げて泣き崩れるようなことはしない。けれど、胸の奥底に溜まっていた熱いものが込み上げ、瞳の奥に静かに涙が滲んでいくのを感じた。


サヨは、便箋の端にある一文に、水仕事で荒れた指先をそっと添えた。


――『ぼくが寒いと言うと、弟が泣いてしまいます』


王宮という、すべてが完璧に管理された冷たい場所で。

かつては自分の身を守ることだけで精一杯だったあの子が。

正式な書式ではないからと見落とされそうになった、遠い村の子どもの「小さな声」を、自分の手で掬い上げたのだ。


「……この子、自分で見つけたのね」

「ええ」

「誰かに言われたからではなくて」

「はい。あの子が、自分で立ち止まりました」


サヨは、便箋を両手で包み込むようにして、自分の胸にそっと当てた。


「よかった……」


ぽろりと、サヨの頬をひとすじの涙が伝い落ちた。

ルカは王宮に戻って、完全無欠の強い王太子になったわけではない。まだ難しい言葉は分からないし、大人たちの助けも必要だ。

けれど彼は、確かに誰かの痛みに気づき、それを見過ごさない人間になり始めていた。


「あの子は、褒められたくてそうしたわけではありません。ただ、見過ごせなかったのでしょう」


エリアスの低い声が、静かな店内に響いた。


「それは……とても大事なことですね」

「はい。あの子はまだ幼い。ですが、小さな声を小さいまま捨てない王になろうとしている」

「……立派になりましたね」


サヨが誇らしげに微笑むと、エリアスは目を細め、深く頷いた。


「あなたが、あの子に帰る場所を与えてくださったからです」

「私は、ただスープを出しただけです」

「その“ただ”に、私も何度救われたか分かりません」


エリアスは、サヨの涙で濡れた頬をいとおしそうに見つめた。

サヨは少し照れくさそうに目元を拭い、困ったように笑った。


「今日は、泣かされてばかりですね」

「では、今度は少し笑っていただきたい」


エリアスはそう言うと、サヨの空になった木のコップを取り、自分の手で果実酒をとくとくと注いだ。


「まあ。王弟殿下にお酌されるなんて、贅沢ですね」

「今夜の私は、ただの配膳係ですから。お客様のコップを満たすのは当然の仕事です」


夕方の騒動を思い出し、サヨはたまらずふふっと笑い声をこぼした。


甘酸っぱい果実酒を一口飲むと、心がふわりと軽くなる。

けれど同時に、サヨの中にある小さな戸惑いが、静かに頭をもたげた。


「……困りましたね」

「何がです?」

「助けられるのに、まだ慣れていないみたいです」


サヨは、自分の節の太くなった指先を見つめた。


十七年間、この食堂で、ずっと人に食事を出してきた。

お腹を空かせた子ども、傷ついた旅人、疲れた労働者。

彼らの顔色を見て、休ませて、温めて、送り出す。それがサヨの日常であり、自分の存在価値だった。


けれど、自分が誰かに片付けを任せて休まされたり、重い鍋を代わりに持ってもらったり、こうして夜遅くに手紙を届けてもらったりすることに、彼女の心はまだ上手く追いついていなかった。


前世で、無価値だと切り捨てられ続けた後遺症が、まだ心のどこかに残っているのかもしれない。


エリアスは、そんなサヨの戸惑いを否定しなかった。

ただ、コップを置いて、静かな声で言った。


「では、少しずつ慣れてください」

「少しずつ?」

「ええ。あなたがルカにそうしたように。急がず、責めず、毎日少しずつ。……あなたが誰かに甘える練習を、私に手伝わせてください」


その言葉に、サヨは息を呑んだ。

自分が人にしてきたことを、今度は自分が受け取る番なのだと。焦らなくていい、完璧に受け入れられなくてもいいと、彼が待っていてくれるのだと気づいたからだ。


「……私は、あなたを王宮へ連れて行きたいと思ったことがあります」


エリアスが、不意に声のトーンを落とした。

サヨは少しだけ身構え、彼の翡翠の瞳を見つめ返した。


「ですが、それをしてしまえば、あなたからこの場所を奪うことになる。あなたを救ったつもりで、あなたを閉じ込めるところでした」


王宮の絶対的な権力。その気になれば、サヨをこの辺境の町から連れ去る理由など、いくらでもでっち上げられたはずだ。

だが彼は、自分のエゴで彼女の羽を折ることを良しとしなかった。


「私は、この灯火食堂ごと、あなたを大切にしたいのです」


王宮という権威の世界に彼女を引きずり込むのではなく。

彼女が十七年間かけて作り上げた、この優しくて温かい世界を、そのままの形で守り抜く。

それが、エリアスという大人の男が出した、究極の答えだった。


サヨは黙って彼の言葉を聞き、やがてゆっくりと自分の本心を口にした。


「……私は、この食堂が好きです」

「知っています」

「でも……こうして閉店後に、誰かとゆっくり飲むのも、嫌いじゃありません」


それは、サヨなりの精一杯の歩み寄りだった。

エリアスにとっては、それだけで十分すぎるほどの、確かな返事だった。


「では、今夜だけは、もう少しここにいても?」

「お仕事は?」

「明日の朝、ユリウスに叱られます」

「まあ」


サヨがくすりと笑うと、エリアスも小さく肩を揺らした。


「ですが、今夜くらいは、あなたを独り占めしたいと思っていたのです」


ストレートな言葉に、サヨの顔が今度こそカッと熱くなった。

少女のように慌てふためくことはしない。大人の女性として、その言葉の重みと熱をしっかりと受け止める。


「……王弟殿下が、そんなわがままを言っていいんですか」

「王弟としてではなく、一人の男としてお願いしています」

「ずるい言い方ですね」

「ええ。今夜は少しだけ、ずるくありたい」


静かなランプの灯りの下で、二人の視線が交差する。

言葉以上のものが、沈黙の中に熱を帯びて溶け合っていた。


サヨは照れ隠しのように、「……お皿、片付けますね」と立ち上がろうとした。


しかし、エリアスの大きな手が伸びてきて、サヨの荒れた手をそっと空中で捕まえた。


「っ……」


引き寄せられるわけではない。ただ、逃げられないように、けれど痛みを与えないように、優しく、確かに握られている。

サヨの胸が早鐘を打った。


彼に握られた自分の手は、決して美しいものではない。

十七年間の水仕事で肌は荒れ、包丁ダコができ、節は太く、手首のあたりには小さな火傷の跡も残っている。王宮の貴婦人たちが持つような、白くて滑らかな手とは程遠い。


サヨが恥ずかしさから手を引っ込めようとしたが、エリアスはそれを離さず、両手で大切そうに包み込んだ。


「この手が、多くの人を救ってきたのですね」


エリアスは、サヨの手のひらや指先に刻まれた小さな傷跡を、一つ一つ確認するように丁寧に見つめた。


「大げさです。ただ、料理を作ってきただけですから」

「その“ただ”を、十七年続けられる人は多くありません」


サヨは言葉に詰まった。


「私にとっては、王冠よりも尊い手です」


そして。

エリアスは目を伏せると、サヨの荒れた手の甲に、敬愛を込めて静かに口づけた。


柔らかな唇の感触が、肌に触れる。

それは強引な欲求ではなく、彼女の歩んできた十七年の歴史すべてに対する、最大限の敬意と愛情の表現だった。


手の甲から伝わる圧倒的な熱量に、サヨの目の奥が再びじわりと熱くなる。

サヨは泣きそうになりながら、少しだけ困ったように笑った。


「……本当に、ずるい方ですね」

「今夜だけは、お許しを」


エリアスは顔を上げ、深い碧眼でサヨを愛おしそうに見つめ返した。



その、甘く静かな大人の時間が流れる中。


厨房の奥、完全な死角となっている小部屋の暗がりで。

二つの影が、極小の声で言葉を交わしていた。


「独占時間、継続中です」

「実況するな」

「女将さんの心拍、やや上昇」

「だから実況するなっつってんだろ。野暮なことすんな」


シオンの無機質な報告を、カイが呆れたようにたしなめる。


完璧に気配を消しているつもりなのだろうが、この狭い食堂だ。静まり返った夜の店内では、わずかな衣擦れの音や気配すら伝わってくる。

サヨはそれに気づいていたが、あえて何も言わず、ふふっと小さく息を漏らした。

エリアスもまた、奥の気配に気づいているはずだが、咎めることなく少しだけ口角を上げている。


そんな過保護な常連たちに守られながら、サヨは照れ隠しのように言った。


「……明日の朝も早いんですからね。そろそろお帰りにならないと」

「朝も配膳係が必要じゃないですか?」


エリアスが、さらりと切り返してくる。


「王宮の方々が困るでしょう?」

「ユリウスが何とかします」

「ユリウス君を便利に使いすぎです」


サヨが呆れたように言うと、二人は顔を見合わせて、静かに笑い声をこぼした。


外では夜風がリーベルの通りを渡っている。

けれど、灯火食堂の中には、まだ小さな灯りとスープの匂いが残っている。


灯火食堂の灯りは、今夜も静かに揺れていた。

誰かを温めるためだけではなく、ようやくサヨ自身を温めるように。

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