第9話
名前を、三日考えた。
ノートに書いては消して、書いては消して、気づいたら一ページが埋まっていた。会議中にぼんやりしていたら鈴木さんに「桐島さん、意識どこか行ってますか」と言われた。
四日目の朝、起き抜けに思いついた。これだ、と思った。
その夜、夜街への道は今までで一番遠かった。
随分歩いた。石畳が見えた時、芽衣は小さく走った。大人が夜中に小走りしている姿は我ながらみっともないと思ったけど、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
何でも屋の引き戸を開けた。
朔がいた。帳簿も開いていない。棚の整理もしていない。ただ座って、入り口の方を向いていた。待っていた顔だった。
「遅かった」
「遠かったんです、今日は特に」
「知ってる」
芽衣は土間で靴を脱ぎながら、朔の顔を見た。いつもより少し、輪郭が透けている気がした。夜明けが近いわけじゃない。来られなくなるのが、近いんだと思った。
「朔さん」
「ん」
「今夜、名前を呼んでもいいですか」
朔が静かに芽衣を見た。
「決まったの」
「決まりました」
朔が黙って、こちらを見ていた。
「座って」
芽衣が向かいに座った。ふたりで向き合う。朔の目が、今夜は少し揺れていた。
「緊張してますか」
「してない」
「してますよ、目が泳いでる」
「泳いでない」
「泳いでます」
朔が黙った。
芽衣は少し笑って、それから息を整えた。真剣な顔になったら、朔も真剣な顔になった。
「朔さん」
「ん」
芽衣は膝の上に手を置いた。
「律、ってどうですか」
朔が黙った。
「り、つ」芽衣は続けた。
「筋道が通ってるとか、ちゃんとしてるって意味がある。朔さんって飄々としてるくせに、言うことは全部筋が通ってるから。それで」
「……律」
朔が静かに繰り返した。自分の名前を確かめるみたいに、もう一度。
「律」
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
朔が静かに言った。
「好きかもしれない」
「よかった」
芽衣は息を吸った。
「じゃあ、呼びます」
朔が、黙ってこちらを見た。
「律」
名前を呼んだ瞬間、空気が変わった。
比喩じゃない。本当に変わった。夜街の灯籠の光が一瞬強くなって、律の髪の毛先が青白く光って、それからすっと収まった。風が吹いた。鈴の音が、遠くから近くなって、また遠くなった。
律が目を伏せた。
芽衣は息を止めて待った。
「……聞こえた」
律が静かに言った。
「ちゃんと聞こえた」
「効きましたか」
「何かが変わった気がする」
顔を上げた。目の色がいつもより少し深くて、温かい。
「芽衣」
「なんですか」
「ありがとう」
律がありがとうと言うのを、芽衣は初めて聞いた。何百年も生きてきたくせに、言い慣れていない言葉だった。ぎこちなくて、でもそれが全部本物だった。
芽衣は目の奥が熱くなるのを感じた。泣きたいわけじゃない。でも泣きそうだった。
「泣きそうな顔してる」
律が言った。
「泣いてないです」
「泣いてる」
「泣いてません」
「可愛い」
「泣きそうな顔が可愛いんですか」
「あなただから」
もう言い返せなかった。
律が立ち上がって、手を差し伸べてきた。
「今夜、ここにいて」
芽衣は少し息を止めた。
「……鐘が鳴るまで?」
「それだけじゃなくて」律が静かに言った。
「俺の側に」
芽衣は律の手を取った。
二階の部屋に上がった。小さな窓を覗くと灯籠の光が見える。
律が後ろに立った。肩に手を置いて、髪をそっと除けた。うなじに唇が触れた。
「……っ」
「動かないで」
低い声だった。いつもより少し、掠れている。
芽衣は動けなかった。動けないまま、律の手が肩から腕へと滑った。ゆっくりと、急がずに。
「律」
名前を呼んだら、律が少し息を吸った。
「ん」
「好き」
「知ってる」
唇が重なった。
芽衣は額を朔の胸に預けた。心臓の音が聞こえた。人間より少しゆっくりとした、でも確かな音。
「……心臓、あるんですね」
「ある」
「妖魔にも」
律が静かに言った。
「あなたのせいで」
芽衣は顔を上げた。
「私のせいですか」
「あなたが来てから、うるさくなった」
「それは」
芽衣は少し笑った。
「私も同じです」
律が芽衣を引き寄せた。
窓の外で鈴が鳴っている。灯籠の光が揺れている。
「律」
「ん」
「これが最後じゃないですよね」
「最後にしない」
律が静かに言った。
「だから名前をもらった」
芽衣は目を閉じた。
律の体温が、いつもより少し高い気がした。人間に近づいている。律という名前が、少しずつ体に馴染んでいる。
律の手が、芽衣の髪をゆっくりと撫でた。繰り返し、繰り返し。
眠くなった。
夜街では眠れないはずなのに、今夜だけは、このまま眠ってしまいそうだった。
「朔さん」
「律」
「律」芽衣は言い直した。
「鐘が鳴ったら、起こしてくれますか」
「起こす」
「約束ですよ」
静かだった。
夜街の夜が、ゆっくりと流れていく。灯籠の光が揺れて、鈴の音が遠くなって、律の心臓の音だけが耳の近くにあった。
鐘が鳴った時、律が芽衣の肩をそっと揺らした。
「時間だ」
「……もう少し」
「もう少しはない」
「意地悪」
「ルールだから」
芽衣は起き上がった。律も起き上がった。目が合った。
律がもう一度、短く唇に触れた。
「また呼んでいいですか」
芽衣は言った。
「好きなだけ」
足元が薄くなる。灯籠が遠くなる。
律の顔が霞む直前、その目がちゃんとこちらを見ていた。
路地裏に戻った時、芽衣はしばらくその場に立っていた。
律の心臓の音が、まだ耳の奥に残っている気がした。
次に来られるかどうか、わからない。
でも律は最後にしない、と言った。
それを信じたかった。




