第8話
企画が、通った。
メールを見た瞬間、芽衣は自分の机の前でしばらく固まった。隣の鈴木さんが「桐島さん、どうしました?大丈夫ですか?」と声をかけてくるくらい、固まった。
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「何かあったんですか」
「企画、通った」
鈴木さんが目を丸くした。
「あの、先週の会議の? 思いつきって言ってたやつ?」
「思いつきじゃなかったみたいです」
自分で言って、少し笑えた。
夜街への道は、今夜も遠かった。
先週より、また遠い。石畳が見えた時、芽衣は小さく息をついた。まだ来られる。よかった。
何でも屋の引き戸を開けると、朔が棚の整理をしていた。こちらを見て、一瞬で何かを読んだ顔をした。
「顔が明るい」
「企画、通りました」
朔が棚から手を離して、こちらを向いた。
「そう」
「上司に呼ばれて、四月から新規チームに異動になるって」
「やりたい仕事になった」
「なりました」
芽衣は座布団に座った。
「なんか、実感がなくて」
朔が向かいに座った。いつもの距離。でも今夜は、その距離が少し違う気がした。朔の目が、何かを測っている。
「道、遠かった?」
「遠かったです」
「先週より?」
「だいぶ」
朔が少し目を伏せた。
「そっか」
「そっか、って」芽衣は朔の顔を見た。
「何か言いたそうですね」
「……言いたいことはある」
「言ってください」
「お茶、先に飲む?」
「飲まなくていいです。言ってください」
朔がため息をついた。観念した顔。芽衣は待った。
「たぶん」朔がゆっくり言った。
「あと数回で、来られなくなる」
わかっていた。わかっていたけど、言葉にされると重さが違った。
「数回って、何回ですか」
「三、四回か。もしかしたらもう少し少ないかもしれない」
「ぼんやりしてますね」
「ぼんやりしてる。俺にも正確にはわからない」
芽衣は膝の上で手を組んだ。
「朔さん、外に出る方法、考えてるって言ってましたよね」
「考えてる」
「進んでますか」
「……あまり」
「正直に言ってくれてありがとうございます」
「嘘をつく理由がない」
芽衣は朔の顔を見た。白銀の髪、灰色がかった茶色の目、いつもより少しだけ険しい眉。この顔を、もう数回しか見られないかもしれない。
そう思ったら、妙に冷静になった。
「ねえ、朔さん」
「ん」
「外に出るのって、夜街には戻れなくなるんですよね」
「……そう」
「それって、何百年もいた場所を捨てることじゃないですか」
「そう」朔はあっさり言った。
「したくないことはしない。したいからする」
「でも——」
「芽衣」
名前を呼ばれると、いつも言葉が止まる。
「俺が決めることだから、あなたが申し訳なく思う必要はない」
「思いますよそりゃ」
「思わなくていい」
「朔さんが思わなくていいって言っても思います」
「頑固だな」
「どっちがですか」
朔が少し口元を緩めた。
「……おトキさんに相談してみる。あの人、長く生きてるから知恵がある」
「私も一緒に行っていいですか」
「来ても何もできないよ」
「それでも」
朔がこちらを見た。
「……好きにして」
「好きにします」
おトキさんの店は、いつもより明るく見えた。
ふたりで暖簾をくぐると、おトキさんは一瞬で全部わかった顔をして、善哉をふたつ出した。
「来たね」
「相談があります」朔が言った。
「聞こえてたよ」
「筒抜けですね」
芽衣は善哉を受け取った。
「夜街って」
「狭いからね」
おトキさんは湯呑みを両手で持った。
「外に出る方法、ね」
「ある?」
「ないことはない」
おトキさんがゆっくり言った。
「ただし、条件がある」
朔が黙って続きを待った。
「夜廻りの妖魔が夜街の縛りを解くには——」
おトキさんが芽衣の方を見た。
「人間に、名前をもらうしかない」
「名前を、もらう?」
「朔って名前は、夜街でついた名前だろう」
おトキさんが朔を見た。
「人間の側から名前をもらえば、妖魔としての縛りが解ける。古い話だけど、そういう話が残ってる」
芽衣は朔を見た。朔はおトキさんを見ていた。
「確かな話?」
「確かじゃない。」
「やってみなきゃわからない、ってこと」
「そういうこと」
沈黙があった。
芽衣は善哉を一口食べた。甘くて、温かかった。
「私が、名前をつければいいんですか」
「つけるんじゃなくて、呼ぶんだよ」
おトキさんが言った。
「あんたが本気で呼べば、届く」
「本気で、って」
「好きな人の名前を呼ぶのに、説明が必要かい?」
芽衣は黙って朔を見た。
「……名前、考えます」芽衣は言った。
「朔じゃだめなの?」朔が言った。
「朔は夜街の名前でしょ。別の名前を考えます」
「俺の名前を、あなたが決めるの」
「嫌ですか」
朔が少し間を置いた。
「……嫌じゃない」
おトキさんが湯呑みに口をつけながら、目を細めた。何も言わなかった。でも肩が少し揺れていた。
帰り際、朔に引き止められた。
手首を掴まれて振り返ると、朔がいつもより近くに立っていた。
「なに」
「何でもない」
「何でもないのに引き止めるんですか」
「……名前、変なのはやめて」
芽衣は笑った。
「変なのって、たとえば」
「無駄に強そうな名前とか」
「つけませんよそんなの」
朔が心配しすぎて面白い。
「ちゃんと考えます。朔さんに似合う名前」
「似合う、か」
「似合うやつ、絶対あります」
朔が少し目を細めた。それから、芽衣の額に口付けを落とした。こめかみに。頬に。
唇に触れる前に、芽衣が先に言った。
「名前、決まったら呼びますから」
「今夜じゃないの」
「今夜じゃないです。ちゃんと考えたい」
朔が少しだけ、子どもみたいな顔をした。
「……早くして」
「せかさないでください」
「早く来られなくなりそうだから」
「わかってます。だから急ぎます」
朔が芽衣の手を取った。指を絡めて、少しだけ握った。それだけで何も言わなかった。
芽衣も何も言わなかった。
遠くで鐘の音が、鳴り始めた。
「時間だ」
朔が静かに言った。
「……もう少しいたかった」
「また来い」
朔が額に口付けを落とした。
「待ってる」
足元の石畳が薄くなる。灯籠の光が遠くなる。
繋いでいた手の温もりが、最後まで残っていた。
路地裏に戻った時、芽衣は手のひらをそっと握った。
名前を、考えなければ。
空を見上げたら、星がひとつ、流れた。




