第7話
仕事で、初めて自分から手を挙げた。
新規事業の企画会議。誰も発言しない空気の中で、気づいたら手が上がっていた。自分でも驚いた。隣の鈴木さんが目を丸くしていた。
企画の内容は半分思いつきで、通るかどうかわからない。でも言いたかった。
それだけで、なんか、よかった。
夜街への道は、また少し遠くなっていた。
先週より遠い。芽衣はそれを自覚しながら石畳を歩いた。嬉しいような、寂しいような。両方が同時にある。
何でも屋の引き戸を開けると、朔がいなかった。
珍しい。芽衣は店の中を見回してから奥の台所へ向かった。朔が鍋の前に立っていた。今度は何を煮ているんだろう。
「いらっしゃい」
「何作ってるんですか今日は」
「飯」
「ご飯も作るんですね」
「食べる?」
「食べます」
当たり前みたいに返事をしてから、芽衣は自分に少し驚いた。すっかり慣れている。この場所に、この人に。
朔が作ったのは、野菜と何かよくわからない具材の入った汁物と、白いご飯だった。見た目は素朴だけど、一口食べたら体の奥から温まった。
「美味しい」
「よかった」
「朔さん、なんでもできるんですね」
「何でも屋だから」
「そりゃそうか」
向かい合って食べた。夜街の夜に、妖魔とご飯を食べている。状況は相変わらずおかしいのに、全然おかしい気がしなかった。
「今日、会議で手を挙げました」
「そう」
「新規事業の企画。思いつきみたいなやつ」
「通りそう?」
「わかんないです。でも言いたかったので」
朔が箸を置いて、こちらを見た。
「それでいい」
「え?」
「通るかどうかより、言いたいことが言えた方が重要でしょ」
芽衣は少し考えた。
「……そうですね」
「成長してる」
「上から目線ですね」
「事実を言っただけ」
いつもの返しだ。芽衣は笑った。朔も口元だけで笑った。
食後、縁側に出た。
並んで腰かけて、夜空を見ていた。朔が煙草を取り出したので、芽衣は少し驚いた。
「吸うんですか」
「たまに」
「妖魔も煙草吸うんですね」
「吸いたい気分の時がある」
「どんな時ですか」
「落ち着きたい時」
芽衣は朔の横顔を見た。
「今、落ち着きたい気分なんですか」
「少し」
「なんで」
「……あなたが来るから」
煙を吐きながらさらっと言う。前回「好き」と言ってから、朔は少し変わった気がした。言葉が、少しだけ素直になった。
芽衣は耳が熱くなるのを感じた。
「それ、嬉しいと思っていいですか」
「好きに思って」
「好きに思います」
朔が煙草を持ったまま、ちらっとこちらを見た。目が合った。
「今日、なんか顔が違う」
「違います?」
「いつもより、はっきりしてる」
芽衣は少し考えた。
「会議で手挙げたからですかね」
「かもね」
「褒めてます?」
「褒めてる」
また目が合った。朔が煙草を縁側の端に置いて、こちらに向き直った。距離が縮まる。
「ねえ」
「なに」
「さっき、成長してるって言いましたけど」
「言ったね」
「それって、来られなくなるのが近いってことですよね」
朔が黙った。
否定しなかった。
「……そっか」
芽衣は夜空を見た。
「でも、いいことですよね」
「あなたにとっては」
「また同じこと言う」
「だって俺にとっては——」
そこで止まった。
止まって、珍しく自分から続けた。
「嬉しくない」
静かな声だった。飄々とした朔が、初めてそういう顔をした。困ったような、それを認めたくないような、子どもみたいな顔。
芽衣はおかしくなった。笑いが出た。
「なんで笑うの」
「だって、そんな顔するんですね朔さんも」
「する」
「知らなかった」
「俺だって知らなかった」
朔が少し眉を寄せた。本当に、自分の感情を持て余している顔だった。
芽衣はその顔が好きだった。飄々として掴みどころがない朔より、こっちの方が、ずっと。
「じゃあ、来られなくなる前にたくさん来ます」
「……また迷いを増やすの?それ、本末転倒では」
「いいじゃないですか本末転倒で」
朔が少し目を細めた。
それから、声を出して笑った。
低くて短い笑い声。芽衣は少し驚いて、それからじわじわと嬉しくなった。
朔が芽衣の肩に手を置いた。そのまま引き寄せて、肩に額を乗せた。
重い、とは思わなかった。
「朔さん」
「ん」
「そっちから寄ってくるんですね」
「だめ?」
「全然」
朔の髪が頬に触れた。冷たくて、さらさらしていた。
芽衣は正面を向いたまま、静かに言った。
「ねえ、さっきの続き」
「さっきの?」
「嬉しくない、の続き」
朔が少し固まった。肩の上で、重みが変わった気がした。
「……続きはない」
「あります」
「ない」
長い沈黙があった。
夜風が吹いた。朔の髪の毛先が、青白く光った。
「来られなくなっても」
朔が静かに言った。
「なんとかする」
「なんとか、って」
「方法を探す。俺が外に出るとか」
「外に出られるんですか」
「わからない。でも考えてる」
芽衣は朔の顔を見た。横顔が真剣だった。飄々とした仮面の下に、ずっとこれがあったんだと思った。
「無理しなくていいですよ」
「したい」
「朔さんが?」
「俺が」
芽衣は少し黙った。
それから、朔の手を握った。
「じゃあ、一緒に考えます」
朔が顔を上げた。
いつもの目。でも今夜は、その奥がちゃんと揺れていた。
「……面倒な人間」
「どうも」
「嫌いじゃない」
「知ってます」
朔がゆっくり顔を近づけた。今夜は芽衣も目を逸らさなかった。
唇が重なった。
どのくらいそうしていたか、わからない。
気づいたら鐘の音が鳴っていた。
「……もう?」芽衣が顔を上げた。
「時間だ」
「早い」
「毎回そう言う」
朔が静かに笑った。
「また来い」
「来られたら」
「来い」
足元が薄くなる。灯籠が遠くなる。
朔の顔が霞む直前、その髪の毛先が青白く光っていた。
芽衣は路地裏に立ったまま、少し泣きそうになった。




