表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜街の何でも屋  作者: メイコノノ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話

その夜、夜街への道が少し遠かった。


いつもより随分歩いた気がする。息が切れているわけでもないのに、なんとなく体が重い。それでも石畳が見えた時、芽衣は小さく息をついた。まだ来られる。よかった。

何でも屋の引き戸を開けると、朔が帳簿から顔を上げた。一瞬、何かを確認するみたいな目をして、またすぐ帳簿に戻った。


「遅かった」


「道が遠くて」


「そう」


芽衣は座布団に座りながら、朔の横顔を見た。何か言いたそうで、でも言わない。いつものことだけど、今夜は少し違う気がした。


「朔さん、何か知ってますか」


「何を」


「今日、道が遠かった理由」


朔の筆が止まった。


止まったまま、動かない。


「……知ってます?」


「知ってる」


帳簿を閉じて、朔がこちらを向いた。


「迷いが薄れてきてる。だから道が遠くなった」


芽衣は少し黙った。


「それって、いいことですよね」


「あなたにとっては」


「朔さんにとっては」


答えなかった。


答えないことが、答えだった。


「来られなくなったら、終わりなんですか」


「ルール上は、そう」


「ルール上は、ってことは例外がある?」


「ない」


「即答するじゃないですか」


「ない、と思ってた。今まで」


今まで、という言葉が引っかかった。芽衣は顔を上げた。朔はもう帳簿を開いていた。横顔しか見えない。


「今は?」


「考えてる」


それ以上は言わなかった。


おトキさんの店に寄ったのは、そのあとだった。

善哉を食べながら事情を話すと、おトキさんは湯呑みを置いてしばらく考えた。


「薄々そうじゃないかと思ってたよ」


「どうしたらいいんですかね」


「どうしたい?」


「来られなくなるのは」


芽衣は善哉を一口食べた。


「嫌です」


「朔に会えなくなるから?」


「それも、ありますけど」


正直に言うと、夜街が好きだった。おトキさんの善哉が好きだった。石畳が好きだった。朔の店の、あの落ち着く空気が好きだった。


そして、朔が好きだった。


認めるのに時間はかからなかった。もうとっくに知っていた。

ただ、朔のあのキスが何を意味するのか、まだわからなかった。好意なのか、妖魔の習慣なのか。それがわからないままでは、自分の気持ちをどこに置けばいいのかもわからなかった。


「好きなんだよ、あんたのことが」


おトキさんが静かに言った。


「朔は」


「……でも、はっきり言わないじゃないですか」


「言えないんだよ、あの子には」


おトキさんは目を細めた。


「あの子が誰かを好きになったの、あたしが知る限り初めてだよ」


芽衣は善哉を見つめた。


「それでも、何も言わないんですね」


「言葉が一番難しいんだろうよ、あの子には」


おトキさんが続けた。


「でもね、芽衣ちゃん。あの子なりに、ちゃんと伝えようとしてるんだよ」


芽衣は朔のキスを思い出した。

毎回意味を聞いても、はぐらかされてきた。でも——伝えようとしている、とおトキさんは言った。

そういうことか、と思った。言葉じゃないだけで、ちゃんと意味があったんだ。

胸の奥が、じわっと温かくなった。


帰り際、もう一度何でも屋に寄った。

朔は縁側に出ていた。夜空を見上げて、足を伸ばして、湯呑みを持っている。芽衣が隣に座ると、少し身を寄せてきた。無意識なのか、意識的なのか。

 しばらくふたりで黙っていた。


「ねえ」


芽衣は夜空を見たまま言った。


「来られなくなったら、どうするつもりでしたか」


「……待ってた」


「どのくらい」


「ずっと」


芽衣はため息をついた。


「それは悲しいじゃないですか」


「そう?」


「そうですよ」


朔がこちらを向いた。近い。


「じゃあ、来られなくなる前に」


「来られなくなる前に?」


「言っておきたいことがある」


芽衣は息を止めた。


朔が口を開いた。


「——と、思ったけど」


「思ったけど?」


「やっぱり難しい」


芽衣は三秒固まって、それから朔の肩を叩いた。


「言ってください」


「うーん」


「うーんじゃないです」


「難しいんだよ、本当に」


「練習してくださいよ!」


「してる」


「どこでしてるんですか夜街で誰に」


「リンに」


リンに練習してるのか。芽衣は想像して、なんだかおかしくなった。笑いがこみあげてくる。


「リンさん、なんて言ってました」


「気持ち悪いって」


「そりゃそうですよ」


ふたりで少し笑った。朔が声を出して笑うのを、芽衣はまだ数えるほどしか聞いていない。

笑い終わって、静かになった。

朔が芽衣の手を取った。指を絡めるでもなく、ただ手の甲に自分の手を重ねて、そのまま動かない。


「……芽衣」


芽衣は動けなかった。


「来られなくなっても」


朔は夜空を見たまま言った。


「あなたが答えを出したとしても」


「うん」


「俺は——」


そこで止まった。

また止まった。


「朔さん」


「もう少し」


「もう少しって何秒ですか」


「うるさい」


「うるさくなりますよ」


朔が芽衣の方を向いた。少し困ったような、それでいて真剣な顔。こんな顔は初めて見た。

言葉の代わりに、額に口付けが落ちた。こめかみに。頬に。


「言葉で言ってください」


「……」


「キスより先に言葉です」


朔が止まった。

長い沈黙があった。

夜風が吹いた。


「好き」


小さかった。消え入りそうなくらい小さかったけど、確かに聞こえた。

芽衣は朔の顔を見た。耳が赤い。髪の毛先が青白く光っている。目が泳いでいる。こんなに動揺した朔を見るのは初めてで、なんだかおかしいような、泣きたくなるような、よくわからない気持ちになった。


「……もう一回言ってください」


「死ぬ」


「死なないでしょ妖魔なんだから」


「死ぬくらい恥ずかしい」


「私だって恥ずかしいです」


朔が観念したように、もう一度小さく言った。


「好き」


芽衣は朔の手を、今度は自分から握った。


「私も」


朔が少し目を見開いた。それからゆっくり、唇に触れた。


どのくらいそうしていたか、わからない。

遠くで鐘の音が鳴り始めた時、ふたりは同時に顔を上げた。


「時間だ」


朔が静かに言った。


「……もう少しいたかった」


「また来い」


「来られるかわかりません」


「来い」


朔が芽衣の額に口付けを落とした。


「待ってる」


足元の石畳が薄くなる。灯籠の光が遠くなる。朔の顔が霞んでいく。

芽衣は最後まで、朔から目を離さなかった。


路地裏に戻った後、芽衣はしばらくその場に立っていた。手のひらに、まだ朔の温もりが残っている気がした。

好き、という声が、まだ耳の奥に残っていた。

消え入りそうなくらい小さかったけど、確かに聞こえた。それだけで、十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ