第6話
その夜、夜街への道が少し遠かった。
いつもより随分歩いた気がする。息が切れているわけでもないのに、なんとなく体が重い。それでも石畳が見えた時、芽衣は小さく息をついた。まだ来られる。よかった。
何でも屋の引き戸を開けると、朔が帳簿から顔を上げた。一瞬、何かを確認するみたいな目をして、またすぐ帳簿に戻った。
「遅かった」
「道が遠くて」
「そう」
芽衣は座布団に座りながら、朔の横顔を見た。何か言いたそうで、でも言わない。いつものことだけど、今夜は少し違う気がした。
「朔さん、何か知ってますか」
「何を」
「今日、道が遠かった理由」
朔の筆が止まった。
止まったまま、動かない。
「……知ってます?」
「知ってる」
帳簿を閉じて、朔がこちらを向いた。
「迷いが薄れてきてる。だから道が遠くなった」
芽衣は少し黙った。
「それって、いいことですよね」
「あなたにとっては」
「朔さんにとっては」
答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「来られなくなったら、終わりなんですか」
「ルール上は、そう」
「ルール上は、ってことは例外がある?」
「ない」
「即答するじゃないですか」
「ない、と思ってた。今まで」
今まで、という言葉が引っかかった。芽衣は顔を上げた。朔はもう帳簿を開いていた。横顔しか見えない。
「今は?」
「考えてる」
それ以上は言わなかった。
おトキさんの店に寄ったのは、そのあとだった。
善哉を食べながら事情を話すと、おトキさんは湯呑みを置いてしばらく考えた。
「薄々そうじゃないかと思ってたよ」
「どうしたらいいんですかね」
「どうしたい?」
「来られなくなるのは」
芽衣は善哉を一口食べた。
「嫌です」
「朔に会えなくなるから?」
「それも、ありますけど」
正直に言うと、夜街が好きだった。おトキさんの善哉が好きだった。石畳が好きだった。朔の店の、あの落ち着く空気が好きだった。
そして、朔が好きだった。
認めるのに時間はかからなかった。もうとっくに知っていた。
ただ、朔のあのキスが何を意味するのか、まだわからなかった。好意なのか、妖魔の習慣なのか。それがわからないままでは、自分の気持ちをどこに置けばいいのかもわからなかった。
「好きなんだよ、あんたのことが」
おトキさんが静かに言った。
「朔は」
「……でも、はっきり言わないじゃないですか」
「言えないんだよ、あの子には」
おトキさんは目を細めた。
「あの子が誰かを好きになったの、あたしが知る限り初めてだよ」
芽衣は善哉を見つめた。
「それでも、何も言わないんですね」
「言葉が一番難しいんだろうよ、あの子には」
おトキさんが続けた。
「でもね、芽衣ちゃん。あの子なりに、ちゃんと伝えようとしてるんだよ」
芽衣は朔のキスを思い出した。
毎回意味を聞いても、はぐらかされてきた。でも——伝えようとしている、とおトキさんは言った。
そういうことか、と思った。言葉じゃないだけで、ちゃんと意味があったんだ。
胸の奥が、じわっと温かくなった。
帰り際、もう一度何でも屋に寄った。
朔は縁側に出ていた。夜空を見上げて、足を伸ばして、湯呑みを持っている。芽衣が隣に座ると、少し身を寄せてきた。無意識なのか、意識的なのか。
しばらくふたりで黙っていた。
「ねえ」
芽衣は夜空を見たまま言った。
「来られなくなったら、どうするつもりでしたか」
「……待ってた」
「どのくらい」
「ずっと」
芽衣はため息をついた。
「それは悲しいじゃないですか」
「そう?」
「そうですよ」
朔がこちらを向いた。近い。
「じゃあ、来られなくなる前に」
「来られなくなる前に?」
「言っておきたいことがある」
芽衣は息を止めた。
朔が口を開いた。
「——と、思ったけど」
「思ったけど?」
「やっぱり難しい」
芽衣は三秒固まって、それから朔の肩を叩いた。
「言ってください」
「うーん」
「うーんじゃないです」
「難しいんだよ、本当に」
「練習してくださいよ!」
「してる」
「どこでしてるんですか夜街で誰に」
「リンに」
リンに練習してるのか。芽衣は想像して、なんだかおかしくなった。笑いがこみあげてくる。
「リンさん、なんて言ってました」
「気持ち悪いって」
「そりゃそうですよ」
ふたりで少し笑った。朔が声を出して笑うのを、芽衣はまだ数えるほどしか聞いていない。
笑い終わって、静かになった。
朔が芽衣の手を取った。指を絡めるでもなく、ただ手の甲に自分の手を重ねて、そのまま動かない。
「……芽衣」
芽衣は動けなかった。
「来られなくなっても」
朔は夜空を見たまま言った。
「あなたが答えを出したとしても」
「うん」
「俺は——」
そこで止まった。
また止まった。
「朔さん」
「もう少し」
「もう少しって何秒ですか」
「うるさい」
「うるさくなりますよ」
朔が芽衣の方を向いた。少し困ったような、それでいて真剣な顔。こんな顔は初めて見た。
言葉の代わりに、額に口付けが落ちた。こめかみに。頬に。
「言葉で言ってください」
「……」
「キスより先に言葉です」
朔が止まった。
長い沈黙があった。
夜風が吹いた。
「好き」
小さかった。消え入りそうなくらい小さかったけど、確かに聞こえた。
芽衣は朔の顔を見た。耳が赤い。髪の毛先が青白く光っている。目が泳いでいる。こんなに動揺した朔を見るのは初めてで、なんだかおかしいような、泣きたくなるような、よくわからない気持ちになった。
「……もう一回言ってください」
「死ぬ」
「死なないでしょ妖魔なんだから」
「死ぬくらい恥ずかしい」
「私だって恥ずかしいです」
朔が観念したように、もう一度小さく言った。
「好き」
芽衣は朔の手を、今度は自分から握った。
「私も」
朔が少し目を見開いた。それからゆっくり、唇に触れた。
どのくらいそうしていたか、わからない。
遠くで鐘の音が鳴り始めた時、ふたりは同時に顔を上げた。
「時間だ」
朔が静かに言った。
「……もう少しいたかった」
「また来い」
「来られるかわかりません」
「来い」
朔が芽衣の額に口付けを落とした。
「待ってる」
足元の石畳が薄くなる。灯籠の光が遠くなる。朔の顔が霞んでいく。
芽衣は最後まで、朔から目を離さなかった。
路地裏に戻った後、芽衣はしばらくその場に立っていた。手のひらに、まだ朔の温もりが残っている気がした。
好き、という声が、まだ耳の奥に残っていた。
消え入りそうなくらい小さかったけど、確かに聞こえた。それだけで、十分だった。




