第5話
今夜の朔は、なぜか店の奥で何かを煮ていた。
大きな鍋から湯気が上がって、甘いような苦いような、正体不明の匂いが漂っている。芽衣は立ったまま、その背中を見た。
「何作ってるんですか」
「薬」
「誰の」
「妖の。最近、夜街の北側に住んでる河童が腹壊してるらしくて」
「河童、いるんですね」
「いるよ」
当たり前のように言う。芽衣はもう驚かないことにした。座布団に腰を下ろして、鍋をかき混ぜている朔の背中を眺めた。着流しの背中。帯の結び目。うなじに少し髪がかかっている。
見るところじゃない、と思って視線を外した。
「ねえ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「朔さんって、人の迷いを喰って生きてるって本当ですか」
鍋をかき混ぜる手が、一瞬止まった。
「誰から聞いた」
「リンさん」
「あいつ、口軽いな」
朔はため息をついた。
「本当だよ」
「じゃあ、私の迷いも喰ったんですか」
朔がこちらを振り返った。
「少し」
「どんな味でした」
一拍置いて、朔が言った。
「甘い」
それだけ言って、また鍋に向き直った。芽衣は返事ができなかった。
甘い、って何だ。どういう意味だ。聞き返したいけど聞き返せない。なんなんだこの人は。
「……もっとちゃんと説明してください」
「迷いの味は人によって違う。あなたのは甘い。それだけ」
「それだけって」
「しつこい」
「しつこくなりますよそりゃ」
朔が鍋から離れて、手を拭きながらこちらに来た。芽衣の横に腰を下ろす。近い。この人はいつも近い。
「怖い? 迷いを喰われるのが」
「……怖くはないですけど」
芽衣は少し考えた。
「なんか、見られてる感じがして恥ずかしいです」
「恥ずかしいんだ」
「当たり前じゃないですか。自分でもわかってないのに人に見られてるって——」
「可愛いと思ってる」
「え」
「あなたのこと」
さらっと言った。さらっと言って、朔は平然とした顔をしている。
芽衣は固まった。
「……今、何て言いましたか」
「聞こえたでしょ」
「聞こえましたけど確認したくて」
「可愛い、と思ってる」
二回言った。この人は二回言った。しかも顔色ひとつ変えずに。
芽衣の方が顔が熱い。完全に負けている。
「……そういうこと急に言わないでください」
「急じゃない。ずっと思ってた」
「それも言わないでください」
「どっちも言っちゃいけないの」
「そうです」
「難しいな」
全然難しそうじゃない顔で言う。朔は少し首を傾けて、芽衣の顔をまじまじと見た。
「耳、赤い」
「見ないでください」
「可愛い」
「だから——」
顎を持ち上げられた。
あ、と思った瞬間には唇が塞がれていた。今日は角度があった。ちゃんと、きちんと、唇と唇が重なっている。
長い。
前より、ずっと長い。
離れた時、芽衣は息を整えた。
「……これって」
芽衣は声が掠れた。
「好意、ですか。それとも妖魔には何か別の意味が——」
「どう思う?」
また聞き返された。朔は涼しい顔をしていた。乱れた様子が一切ない。
「わかんないから聞いてるんです」
「そう」
「そうって何ですか」
「あなたがわかった時に、俺も答える」
芽衣は言葉に詰まった。わかった時って何だ。どうしたらわかるんだ。
「朔さんって」
「うん」
「人の心臓を何だと思ってるんですか」
朔が少し考えてから、
「大事なもの、とは思ってる」
「思ってたらそんなことしないでください」
「矛盾してる?」
「してます」
朔は口元だけで笑った。そしてそのまま、また顔を寄せてきた。
「ちょっと待って」
「待たない」
「待ってください朔さん——」
今度は額に、こめかみに、それから唇に。
鍋がぐつぐつ言っていた。河童の薬が煮えている。
夜街のどこかで鈴が鳴っている。
芽衣は結局、抵抗するのをやめた。
やめながら、これは完全に慣れないな、と思った。何回やられても絶対に慣れない。好意なのか妖魔の習慣なのかもわからないのに、慣れないし、嫌じゃないのが一番困る。
遠くで鐘の音が鳴り始めた。夜明けを告げる鐘だった。
「あ、もう——」
「時間だ」朔が静かに言った。
足元の石畳が薄くなる。灯籠の光が遠くなる。
「朔さん」
「ん」
「次来た時、ちゃんと聞かせてください。キスの意味」
朔が少し目を細めた。
「あなたが答えを出したら」
「それより先に聞きます」
「頑固だな」
朔の声が遠くなった。夜街が、消えていく。
路地裏に戻った時、芽衣はしばらくその場に立って、考えた。
意味がわからない。わからないのに、嫌じゃない。それが余計に、頭の中をぐるぐるさせた。




