第4話
リンと初めて会ったのは、夜街の外れだった。
朔の店を出て、なんとなく商店街の奥まで歩いてみたら、石畳が途切れる手前の暗がりに誰かがしゃがんでいた。
「あ、人間だ」
顔を上げたのは、若い男だった。二十歳前後に見える。砂色の髪が癖っ毛でぼさぼさで、着物の裾がよれている。
「……耳、出てますよ」
「あー」リンは頭を押さえた。
「戻んないんだよね、疲れてると。俺、リン。狐」
「桐島芽衣です」
「知ってる。朔のとこの」
またその言い方だ。芽衣はため息をついた。
「客です」
「同じようなもんじゃん」
おトキさんと同じことを言う。芽衣は観念して隣にしゃがんだ。リンは石畳の隙間から草が生えているのをぼんやり眺めていた。
「何してるんですか」
「暇つぶし。夜街って夜明けまで時間あるし、やることなくなるんだよね」
「働けばいいじゃないですか」
「やだ」
清々しいくらい即答だった。
芽衣は苦笑して、同じように石畳を眺めた。夜の空気が少し冷たい。でも不快じゃない。
「ねえ」リンが横を向いた。
「夜街のこと、どのくらい知ってる?」
「あんまり。朔さんに少し聞いただけで」
「じゃあ教えてあげる。俺、暇だし」
リンの話は、思ったより核心を突いていた。
「夜街に迷い込める人間って、ふたつ条件があるんだよね」
「条件?」
「ひとつは、人生の岐路に立ってること。なんか迷ってる人間が、夜の路地に引き寄せられる」
「もうひとつは?」
「妖の気配を感じ取れる素質があること」
リンが芽衣を見た。
「芽衣ちゃん、夜街に来る前から、なんか変な気配を感じたりしなかった?」
芽衣は少し考えた。
「……たまに、路地とかで誰かに見られてる感じがすることはあったけど」
「それだよ」リンが頷いた。
「ほとんどの人間は妖の気配なんて感じない。感じ取れる素質がある人間だけが、夜街に引き寄せられる」
「じゃあ私、もともとそういう素質があったってことですか」
「そう。で、迷いもあった。だから迷い込んだ」
「迷いがなくなったら?」
「来られなくなる」リンはあっさり言った。
「夜街って、迷いで動いてるようなとこだから。答えが出た人間には見えなくなる」
芽衣は少し黙った。
「じゃあ私、何に迷ってるんでしょう」
「知らない。自分のことでしょ」
「そりゃそうですけど」
「でも」リンが草の茎をつまんだ。
「迷ってる自覚がない人の方が、たいてい長く来るよ。自分が何に迷ってるかわかってる人は、答えが出るのも早いから」
芽衣は仕事のことを思った。好きでもない仕事をやっていた、という朔の言葉。
好きなことが、わからない。
どこに向かいたいのかが、わからない。
それが迷い、と言えるのかどうかも、わからない。
「朔さんは」芽衣は口を開いた。
「こういうこと、全部知ってるんですよね」
「当然。あいつ、何百年もここにいるし」
「私がいつか来られなくなることも」
リンが少し間を置いた。
「……知ってるんじゃない」
「そっか」
芽衣は膝を抱えた。夜風が吹いて、遠くで鈴の音がした。
知っていて、それでも茶を出して、話を聞いて——それからあのキスは、いったい何なんだろう。
妖魔の挨拶なのか。からかっているのか。それとも——考えかけて、やめた。わからないから余計に、心臓に悪い。
「あのさ」リンが立ち上がった。
「俺から言えることは一個だけ」
「何ですか」
「朔があんなふうに人間と関わるの、見たことない。何百年も一緒にいるけど」
それだけ言って、リンはぼさぼさの頭を掻いた。
「まあ、俺の話だから。信じなくていいけど」
何でも屋に戻ると、朔は縁側に出て夜空を見ていた。
芽衣が隣に座っても、特に何も言わなかった。しばらくふたりで黙って、同じ方向を見ていた。
「リンさんと話してた」
「見てた」
「見てたなら来ればよかったじゃないですか」
「邪魔したくなかった」
芽衣は朔の横顔を見た。夜の光の中で、白い髪が淡く透けている。綺麗だと思う。思うたびに少し、困る。
「ねえ」
「ん」
「私がいつか来られなくなるって、知ってますよね」
朔が、空を見たまま答えなかった。
沈黙が答えだった。
「……それでも、追い返さなかったんですね。最初の夜」
「うん」
「なんで」
朔がこちらを向いた。いつもの、感情の読めない目。でも今夜は、その奥に何かが揺れている気がした。
答えの代わりに、すっと手が伸びてきた。芽衣の髪に触れて、耳にかけて——そのまま頬に手が添えられた。
顔が近い。
「朔さん」
「もう少し、黙って」
額に口付けが落ちた。それから、こめかみに。頬に。
最後に唇に触れて、今度は少しだけ長かった。
離れた時、朔の髪の毛先が青白く光っていた。本人は気づいていない。
「……これって」芽衣は声が少し掠れた。
「どういう意味なんですか」
「さあ」
「さあって」
「あなたはどう思う?」
朔が静かに聞き返した。からかっている顔じゃない。真剣な顔でもない。ただ、静かに待っている。
芽衣は答えられなかった。
好意なのか、妖魔の習慣なのか、それとも全然別の何かなのか。わからないから余計に、頭の中がぐるぐるする。
「……わかんないです」
「そう」
「朔さんは、わかってるんですか」
朔が少し間を置いた。
「わかってる」
「教えてくれないんですか」
「もう少ししたら」
「もう少しって、いつですか」
「あなたが準備できた時」
芽衣は言葉に詰まった。準備って何だ。何の準備だ。
その時、遠くで鐘の音が鳴り始めた。
低くて、ゆっくりとした鐘の音。
朔が静かに言った。
「時間だ」
「え、もう——」
言い終わる前に、足元の石畳が薄くなった。夜街の灯籠の光が遠くなる。朔の顔が、霞んでいく。
「また——」
声が途切れた。
気づいたら、路地裏に立っていた。
夜の空気が冷たい。灯籠も石畳も、何もない。ただの古い路地裏だった。
芽衣はしばらくその場に立っていた。朔の言葉が頭の中で繰り返されていた。
わかってる。
もう少ししたら。
あなたが準備できた時。
何の準備なのか、まだわからない。でも胸の奥が、妙にうるさかった。芽衣は歩き始めながら、自分の頬にそっと触れた。まだ、少し熱かった。




