第3話
三度目になると、さすがに言い訳が思いつかなくなった。
偶然でも迷子でもない。ただ来たくて来ている。芽衣はそれを認めながら歩いた。夜の街は昼間とは別の顔をしている。古い建物が並ぶ路地に入ったら、甘い匂いにつられて足を止めた。
〈甘味処 とき〉
小さな暖簾が出ている。前回は気づかなかった店だった。引き戸の隙間から、あんこの香りが漏れている。
「お嬢さん、初めてかい」
中から声がした。
暖簾をくぐると、小柄な老婆がいた。白髪を丸くまとめて、割烹着姿。目が細くて、笑うとそのまま線になる。でも目の奥が、なんとなく人間じゃない光り方をしていた。
「あの、通りかかっただけで——」
「まあ座りなさい。今ちょうど善哉ができたところ」
断れる雰囲気じゃなかった。芽衣は引き寄せられるように椅子に座った。
出てきた善哉は、見た目の素朴さに反して驚くほど美味しかった。甘いのに重くなくて、体の芯から温まる感じがする。
「美味しい」
「でしょう」老婆は向かいに座って、目を細めた。
「あたしはおトキ。よろしくね」
「桐島芽衣です。あの、ここって——」
「朔のとこの子かい」
「え、あ、客ですけど」
「同じようなもんだよ」
にこにこしている。なんなんだろうこの人、と思いながら、芽衣は善哉を一口食べた。
「おトキさんは、朔さんと知り合いなんですか」
「長いよ。あの子がまだ素直だった頃から」
「素直だった頃、があるんですね」
「あったよ。その後はひどかったけどね」
ひどかった、の方が気になった。
「どんなふうに」
「人間に興味がなかった。文字通り、ひとっつもね」
おトキさんは湯呑みを両手で持った。
「迷い込んできた人間の話を聞いて、茶を出して、夜明けに送り返す。それだけを何百年も繰り返してた。楽しいとかそういう感情もあんまりなかったと思う」
芽衣は善哉を食べる手を止めた。
「それが、変わったんですか」
「さあ」おトキさんはとぼけた顔をした。
「あたしが知ってることを全部話したら、あの子に怒られるからね」
「教えてくれないんですか」
「自分で見つけなさいよ。その方が面白い」
意地悪だ。でも嫌いじゃない感じの意地悪だった。芽衣は苦笑して、また善哉を口に運んだ。
「……朔さん、変な人ですよね」
「変かい」
「距離感がわかんないというか。近いのか遠いのか」
「あの子はね」おトキさんが少し声を落とした。
「言葉が得意じゃないんだよ。何百年も生きてるくせに、肝心なことになると黙っちまう」
芽衣は額のことを思い出した。あの、あっという間の感触。
妖魔の話だから信じなくていい、と言っていた顔。
「……そういう生き物なんですかね」
「そういう生き物だね」おトキさんはにっこりした。
「だから、言葉以外を読んであげないといけない」
おトキさんの店を後にして何でも屋に寄った。
朔は帳簿らしきものを広げて何か書いていた。芽衣が入ってきても顔を上げない。
「おトキさんとこ行ってきました」
「善哉、美味しかったでしょ」
「美味しかったです。いろいろ話してくれて」
朔の手が一瞬止まった。
「……何を聞いたの」
「秘密です」
「そう」
また筆が動き始めた。芽衣は朔の斜め前に腰を下ろして、その横顔を眺めた。白い髪が垂れて、目元に影ができている。
「朔さんって、昔は人間に興味なかったんですか」
筆が、また止まった。
今度は少し長く止まった。
「おトキさんに聞いたの?」
「秘密です」
朔がこちらを見た。無表情だった。でも芽衣はもう、その無表情の中に何かがあることを知っていた。
「今は?」と聞いた。
「今も、興味ないですか」
朔は答えなかった。
答えない代わりに、すっと手を伸ばしてきた。芽衣の顎に触れて、少し上を向かせて——唇に、触れた。
前回の額より、ずっと近くて。
でも同じくらい短くて、あっという間に離れた。
「……どうしてキスするんですか」
「わかるでしょ」
朔は何事もなかったように帳簿に戻った。
耳が赤い。今度は見間違いじゃなかった。
芽衣はしばらく固まってから、自分の唇に触れた。心臓がうるさかった。こんなの、どうしろというんだ。
「……言葉で言ってください」
「それが一番難しい」
静かな声だった。
怒る気にもなれなくて、芽衣はため息をついた。朔の帳簿をのぞき込んだが文字が古くて読めない。
「何書いてるんですか」
「客の記録」
「私のことも書いてありますか」
「……さあ」
見せてくれなかった。でも朔の口元が、ほんの少し動いた気がした。
芽衣は黙って、その横顔をもう一度見た。
言葉以外を読んであげないといけない、とおトキさんは言っていた。
まだ全部はわからないけれど——嫌われてはいないんだと思う。たぶん。
帰り際、朔が出口まで送ってくれた。
石畳が途切れる手前で立ち止まって、芽衣が振り返ると、朔がいつもより少し近くに立っていた。
「始発まで時間あるけど」
「大丈夫です。お茶のおかげで全然眠くないので」
「そう」朔が静かに言った。
「無理はしないで」
「朔さんが言いますか、それ」
「俺が言うから意味がある」
芽衣は少し笑った。朔も口元だけで笑った。
出口をくぐって、路地裏に戻った。
芽衣は駅に向かって歩きながら、さっきの唇の感触をまだ考えていた。




