第2話
また来てしまった。
自分でも呆れるくらい、自然に足が向いていた。残業帰りの二十三時過ぎ、会社を出て歩いていたら、見覚えのある石畳の路地に立っていて、芽衣は盛大にため息をついた。
迷い込んだんじゃない。たぶん、来たかったんだと思う。
認めたくはないけれど。
「あ、また来た」
引き戸の前に朔がいた。今日も着流しで、裸足で、寒くないのかと毎回思う。こちらをちらっと見て、特に驚いた様子もなく湯呑みに口をつけた。
「偶然です」
「そう」
信じてないな、この人。芽衣は靴を脱いで店に上がりながら、努めて平静を装った。
「お茶、もらえますか」
「どうぞ」
店の中は相変わらず、なんとも言えない雑多さだった。棚に並んだ瓶や箱、正体不明の道具、隅に積まれた古い本。でも不思議と落ち着く。芽衣は座布団に腰を下ろして、出てきたお茶を両手で包んだ。
一口飲むと、疲れがするすると抜けていった。残業で凝り固まった肩が、じわじわとほぐれる感じがする。
「このお茶、毎日飲んでも大丈夫なんですか」
「んー....毎日は薦めない」
「なんでですか」
「体が慣れると効かなくなる」
朔が静かに言った。
「週に何回か、くらいがちょうどいい」
「……ちゃんと教えてくれてるんですね」
「当然」
「……今日、後輩に仕事取られました」
言うつもりじゃなかった。でも口が動いた。
「取られた」
「私がずっとやってたプロジェクト。急に上司が『鈴木に任せてみようと思って』って。鈴木さんは入社三年目で、愛嬌だけは一丁前で」
「あなたは何年目」
「五年です」
「そう」
朔はそれ以上何も言わず、自分も向かいに座って足を崩した。慰めるわけでもなく、ただ聞いている。それが逆に話しやすかった。
「悔しくないわけじゃないんですけど」
芽衣はお茶を一口飲んだ。
「なんか、悔しがる資格あるのかなって。私、そのプロジェクト、別に好きじゃなかったし」
「好きじゃない仕事をずっとやってたの」
「……そういう言い方しなくていいです」
「事実を言っただけ」
朔は静かにこちらを見ていた。責めている顔じゃない。ただ、見ている。その目が居心地悪くて、芽衣は視線を湯呑みに落とした。
「好きな仕事って、あるの」
「……わかんないです。考えたことなかった」
「そう」
またその一言だ。短くて、でもなぜか全部受け取られた気がする。芽衣は少しむっとした。
「朔さんは、この仕事好きなんですか。何でも屋」
「まあ」
「まあって何ですか」
「嫌いじゃない」
「それ好きって言わないですよね」
朔は少し考えてから、
「あなたが来るのは、嫌いじゃない」
さらっと言った。
芽衣は一瞬、返事ができなかった。
「……それ、お世辞ですか」
「お世辞を言う理由がない」
立ち上がった朔が、棚から何かの瓶を取り出しながら背中を向けた。耳が少し赤い気がした。気のせいかもしれない。
「もう一杯いる?」
「……いただきます」
芽衣が湯呑みを差し出すと、朔が隣に来てかがみ込んだ。距離が近い。この人、近い。
お茶を注いでいる横顔を見ていたら、朔がふっと顔を上げた。目が合った。
「なに」
「……なんでもないです」
「顔、近かった?」
「別に」
嘘だった。
朔は一秒こちらを見て、それからゆっくり顔を寄せた。
え、と思った瞬間、額に、唇の感触。
短くて、柔らかくて、あっという間に離れた。
「落ち込んでる時は、ここに触れると少し楽になる」
平然とした顔で言う。
「……それ本当ですか」
「妖魔の話だから、信じなくていい」
信じるかどうかより、心臓がうるさくて困った。芽衣は湯呑みを両手でしっかり持って、絶対に顔を見ないようにした。
「……出口って、どこですか」
「送っていく」朔が立ち上がった。
「始発まで時間あるけど、どうする」
「帰ります。仕事があるので」
「そう」
夜街の端まで並んで歩いた。石畳が途切れる手前で、朔が立ち止まった。
「ここを出たら、迷い込んだ路地に戻る」
「じゃあここで」芽衣は振り返った。
「また来てもいいですか」
朔が少し間を置いた。
「どうぞ」
口元が、ほんの少し動いた気がした。
気づいたら路地裏に立っていた。夜風が冷たかった。でも体の芯はまだ温かかった。
スマホで始発を調べた。
芽衣はため息をついて、駅に向かって歩き始めた。お茶のおかげで眠くはない。始発待ちは少し暇だった。




