第10話
夜街に行けなくなったのは、その三日後だった。
いつもの路地に行った。石畳が、ない。灯籠が、ない。甘い匂いも、鈴の音も、何もない。ただの古い路地裏で、猫が一匹、芽衣を見上げてどこかに行った。
わかっていた。わかっていたけど、その場で少しだけ泣いた。
誰も見ていない夜中の路地裏で、声も出さずに泣いて、それから帰った。
新しい仕事が始まった。
新規チームは少人数で、やることが山積みで、毎日くたくたになるくらい忙しかった。忙しいのに、不思議と嫌じゃなかった。自分で選んだことをやっている、という感覚が、ずっと胸の底にあった。
鈴木さんが差し入れを持ってきた。
「桐島さん、最近なんか顔が違いますよね。何かありました?」
「えっと、別に....」
「彼氏ですか」
「……まあ、そんなとこです」
鈴木さんが目を丸くした。芽衣は差し入れのチョコレートを口に入れて、パソコンに向き直った。
一週間が経った。
二週間が経った。
夜の路地裏を歩くたびに、石畳を探した。見つからなかった。当たり前だとわかっていても、毎回少しだけ探した。
おトキさんの善哉が食べたかった。リンの癖っ毛が見たかった。
律に、会いたかった。
三週間目の朝だった。
早出で会社に向かっていたら、見覚えのある路地の角に差し掛かった。夜街があった場所。今は何もない、ただの路地の角。
足が止まった。
なんとなく、立ち止まった。理由はない。ただ、止まった。
朝の光の中で、誰かが路地の奥に立っていた。
逆光で顔が見えない。でも白銀の髪が、朝の光を受けて光っていた。
芽衣は息を止めた。
その人が、こちらに歩いてきた。
着流しじゃなかった。薄い色のシャツに、黒いパンツ。裸足じゃなくて、靴を履いている。夜街でいる時とは違う格好。
「律」
名前を呼んだら、律が止まった。
三メートルくらいの距離で向き合った。
朝の路地裏で、会社員と元妖魔が向き合っていた。状況は相変わらずおかしいのに、全然おかしい気がしなかった。
「……出られたんですか」
「出られた」
「名前のおかげで?」
「縛りが緩んでた。あとは自分で決めるだけだった」
「いつから外にいたんですか」
「三日前から」
「三日前」
芽衣は少し目を見開いた。
「なんで来なかったんですか」
「来ていいのかわからなかった」
「来てください」
「突然すぎると思って」
「突然でもいいです」
「あなたの生活があるから」
「律」
呼んだら止まった。芽衣は一歩近づいた。
「来てください。いつでも」
律が少し目を伏せた。
「……外は、思ったより明るいな」
「昼間はもっと明るいですよ」
「眩しい」
「慣れます」
「人間が多い」
「慣れます」
「飯の値段が高い」
「それは慣れません、私も思ってます」
律が少し口元を緩めた。芽衣も笑った。
朝の路地裏で笑った。
笑い終わって、律が一歩近づいた。残りの距離を詰めて、芽衣の頬に手を添えた。
「寂しくなかった? 三週間」
「寂しかったです」
「そう」
「律は?」
「俺は」律が静かに言った。
「寂しかった」
芽衣は律の胸に額を預けた。体温が、前より少し高かった。人間に近づいている、と思った。
「おトキさんは? リンさんは?」
「元気。リンが餞別にくれた」
律がポケットから小さな鈴を出した。
「うるさいやつだけど、悪いやつじゃない」
「知ってます」
鈴を揺らしたら、夜街と同じ音がした。芽衣は目の奥が熱くなるのを感じた。
「おトキさんの善哉、また食べたかったな」
「おトキさんが言ってた。レシピを教えるって」
「え」
「作れるかどうかはわからないけど」
律がポケットに鈴を戻した。
「試してみる」
「律が善哉を作るんですか」
「何でも屋だから」
芽衣は笑った。律も笑った。
朝の光の中で笑う律を、初めて見た。夜の光の中で見るのと少し違う。でも同じくらい、目が離せなかった。
「ねえ」
芽衣は律を見上げた。
「これからどうするんですか、仕事とか」
「何でも屋をやる」
「人間界で?」
「迷ってる人間が多そうだから」
「確かに」
「私の家の近くに、空き店舗があります」
「下見に行く」
「今日?」
「今日」
「仕事があります」
「終わったら」
「夕方になりますよ」
「待つ」律がさらっと言った。
「何年でも待つつもりだったから」
芽衣は返事ができなかった。
返事の代わりに、律の手を取った。指を絡めた。律が少し目を見開いて、それからそのまま握り返した。
「……手、冷たいですね」
「そのうち温まる」
「そうですか」
「人間に近づいてるから」
芽衣は繋いだ手を見た。白くて細い手。
「律」
「ん」
「おかえり」
律が、芽衣の方を向いた。
律の目が、朝の光の中で初めて見る色をしていた。夜の色じゃなくて、もっと温かい色。
「ただいま」
それから、いつものように顔を寄せてきた。
芽衣は目を逸らさなかった。
朝の路地裏で、唇が重なった。通勤途中の人が横を通り過ぎた。完全に見られた。でも今は、そんなことどうでもよかった。
離れた時、律が少し困った顔をした。
「人間界、キスするのに場所を選ぶ必要があるんだな」
「あります、普通は」
「不便だな」
「夜街でも場所は考えないといけないでしょ。リンさんとかいましたし」
「あいつはどうせ隠れて見てた」
「最悪だ」芽衣は笑った。
芽衣は律の手を引いた。
「夕方、駅の南口で待っててください」
「わかった」
「迷子にならないでくださいよ、今度は私が探せないから」
「迷子にはならない」
「人間界、初めてでしょ」
「何百年も生きてる」
「関係ないと思いますけど」
律が少し笑った。
ふたりで朝の路地を歩いた。繋いだ手はまだ少し冷たかったけど、歩くうちに少しずつ温まってきた。
夜、芽衣の家に律が来た。
夜街じゃない。芽衣の、人間界の部屋に、律がいる。
お茶を出して、向かい合って座って、しばらく他愛もない話をした。律は人間界の事が色々珍しいようだ。そういうところがおかしくて、ふたりで笑った。
笑い終わって、静かになった。
律が芽衣を見ていた。
「なんですか」
「見てた」
「見てましたね」
「……綺麗だと思って」
芽衣は少し固まった。律はこういうことをさらっと言う。夜街の頃から変わらない。
「急に言わないでください」
「急じゃない。ずっと思ってた」
「それも言わないでください」
律が立ち上がった。芽衣の前に来て、かがみ込んで、顎を持ち上げた。
「律」
「ん」
「人間界ですよ、ここ」
「知ってる」
「夜街じゃないから——」
「関係ない」
唇が重なった。
夜街の時と同じで、でも全部違った。夜街では鈴の音があって、灯籠の光があって、夜明けの鐘があった。ここには何もない。ただ、律がいる。
「芽衣」
「ん」
「今夜、側にいていい?」
今夜は、鐘が鳴っても強制送還されない。朝になっても、律はここにいる。
「いてください」芽衣は静かに言った。
「朝になっても」
律が少し目を見開いた。それからゆっくり、芽衣の髪に触れた。
「……朝になっても、消えない」
「知ってます」
「夜街じゃないから」
「知ってます」
芽衣は律の手を取った。
「だからいてください」
律が引き寄せた。
部屋の灯りが、夜街の灯籠とは全然違う色をしていた。でも律の髪の毛先が青白く光って、その光が部屋の灯りに溶け込んだ。
朝の光が窓から差し込んできた時、律は起きていた。
芽衣が目を開けると、律がこちらを見ていた。
「起きてたんですか」
「朝が来るのを見たかった」
「人間界の朝」
律が窓の外を見た。
「夜街には朝がなかったから」
芽衣は律の横顔を見た。朝の光の中で、白銀の髪が金色に見えた。夜の律とも、昨日の朝の律とも違う。
「綺麗ですね」
「何が」
「律が」
律がこちらを向いた。少し目を見開いて、それから耳が赤くなった。
「……あなたに言われると困る」
「私はずっと言われてきたんですよ」
「それは——」律が少し黙った。
「悪かった」
「反省してるんですか」
「してない」
「してないんですね」
「また言うから」
芽衣は笑った。律も笑った。朝の光の中で笑う律を、昨日も見た。でも今日も、見ていたかった。
律が芽衣の額に口付けを落とした。こめかみに。頬に。
「律」
「ん」
「朝もするんですね」
「夜だけじゃない」
「人間界に慣れてきましたね」
「あなたがいるから」
律が静かに言った。
「どこでも同じ」
返事の代わりに、律の手を握った。昨日より、少し温かかった。
窓の外で、街が動き始めていた。人間界の朝が、普通に始まっていく。
夜街にはもう行けない。鐘も鳴らない。灯籠も光らない。
でも律がここにいる——。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




