第1話
終電を逃したのは、完全に自分のせいだった。
芽衣は駅の改札前で盛大にため息をついて、とりあえず歩くことにした。タクシーを呼ぶには、少し頭を冷やしたかった。
それで、迷った。
よく知っているはずの道なのに、どこをどう曲がったのか、見覚えのない石畳の路地に出ていた。こんな路地があっただろうか。灯籠が並んでいる。昭和っぽい看板が出ている。なのに空気がどこか甘くて、かすかに鈴の音がする。
「……何ここ、こんなとこあったっけ」
つぶやいた直後、引き戸が開いた。
「迷子?」
声をかけてきたのは、着流しに裸足の男だった。白銀の髪が夜の空気に溶けて、輪郭が少し曖昧に見えた。顔立ちが整っている、というより、整いすぎていた。年齢がよくわからない。二十代にも、もっと上にも見える。切れ長の目が灰色がかった茶色で、感情が読めない。手に持った湯呑みを傾けながら、こちらを見ていた——値踏みでも同情でもなく、ただ、見ている。綺麗だとは思った。思ったけど、それより先に「胡散臭い」が来た。
「迷子じゃないです」
「……少し、考えごとをしてただけです」
「ふうん」
男は湯呑みに口をつけて、それから看板を顎でしゃくった。〈何でも屋 朔〉と書いてある。達筆なのか下手なのか判断できない字で。
「朔さん、っていうんですか」
「そう。桐島芽衣...さん」
「...っ!!!何で知ってるんですか!!」
「迷い込んできた人間の名前は、だいたいわかる」
芽衣は少し眉をひそめた。
「それは怖いですね」
「怖くない。害はないから」
「何でも屋って、何でもやるんですか」
「だいたいは」
「だいたい、ってことは、できないこともある」
「退屈なことはしない」
断言する顔に、なぜか笑いがこみあげてきた。こんな夜中に石畳の路地で着流しの男と話している。状況がすでにだいぶおかしい。
「あの、ここって——」
「夜街。夜の間だけある商店街」男はあっさり言った。
「朝になったら消えるから」
「……え?」
「お茶でも飲んでいけば。ここのお茶は、少しだけ気持ちが楽になる」
「怪しすぎるんですが」
「怪しいね」
否定しなかった。
芽衣は三秒考えて、店に入った。自分でも驚くくらい、自然に。
出てきたお茶を一口飲んだ。ほうじ茶の香りがして、体の芯から温まる感じがした。疲れていたはずなのに、するすると抜けていく。
「……なんか、入ってるんですか」
「少しだけ」
朔が平然と言った。
「眠らなくても体が持つ程度のやつ」
「怪しすぎます」
「でも飲んでる」
反論できなかった。美味しかったから。
朔と話しているうちに、遠くで鐘の音が鳴り始めた。
低くて、ゆっくりとした鐘の音。
「時間だ」朔が静かに言った。
「時間って、何の——」
言い終わる前に、朔の顔が、霞んでいく。
気づいたら、路地裏に立っていた。
灯籠も石畳も、何もない。ただの古い路地裏だった。
夢だったのかもしれない。でも体の芯はまだじんわり温かくて、それだけが確かだった。




