闇の中で生まれし名
今章では、“夜”の名が動き出す。
少年が闇に溶け、ひとつの名が生まれる――。
一瞬のうちに、七歳の少年は消えた。
その場所に立っていたのは――影そのもの、“ニクス”。
学院を抜け出すことなど、息をするように容易かった。
高い壁も、見回りの兵士も、彼にとっては障害ではない。
彼は闇とひとつになり、貴族街の屋根を渡り歩く。
やがて、光と絶望を分ける境界――“下層区”に辿り着いた。
✦
世界は一変する。
花の香りに満ちた空気は、下水の悪臭へと変わり、
磨かれた大理石の道は、泥にまみれた細い路地へと姿を変える。
闇の中で、咳き込む声。
酔った衛兵が商人を脅して笑っている。
ここは、アルブライト侯爵やカシアン王子のような者たちが作り上げた世界だった。
ニクスは音もなく路地裏に降り立ち、
古びた木の扉を、一定のリズムで叩いた。
――コン、コン、コン……。
扉が軋みながら開き、片目の老人が姿を現す。
その目は鋭く、警戒と疲労の色を宿していた。
「来たか……」
低くかすれた声。
彼の名は、“リンク”。
かつて王国の諜報員として暗躍し、
今はこの下層区で情報の王として知られている男だった。
「情報を。」
ニクスの声は低く、魔術で変調されていた。
大人の男のような声色で。
リンクは頷き、羊皮紙を差し出した。
「アルブライト侯爵、ますます狂ってる。
港の古い倉庫を牢に変えたらしい。
新しい税に文句を言った者たちを、そこに閉じ込めてる。
……今夜だけで二十人はいる。明朝には“処理”されるだろう。」
ニクスは羊皮紙を広げ、粗い地図を睨む。
「見張りは?」
「雇われのチンピラさ。腕は立つが、頭は悪い。」
「……十分だ。」
その一言のあと、ニクスは小さな革袋を投げた。
中には、ひと月分の食費に相当する硬貨が入っている。
「助かる。」
リンクが言うより早く、ニクスの姿は闇の中へ溶けた。
◇
港の倉庫は、地図通りの場所にあった。
屋根の上から見下ろせば、四人の見張りが賭けをして酒を飲んでいる。
中にも、十人前後の気配。
――十分、予想通りだ。
ニクスは呼吸を整え、影を地面に流した。
まるで黒い霧のように滑るそれが、門へと伸びていく。
「影よ、彼らを眠らせろ。」
次の瞬間、足元の影が揺らぎ、
見張りたちが次々と膝を折った。
静寂。
風の音だけが残る。
✦
倉庫の中は暗く、湿気と血の匂いが混じっていた。
錆びた檻の中で、人々が震えている。
彼らの目は恐怖に満ち、希望を失いかけていた。
「……静かに。」
低い声が響き、影が鍵をなぞる。
カチリ、と音を立て、錠が外れた。
「北の路地へ走れ。合図があるまで止まるな。」
「た、助けてくれて……」
「言葉は後だ。」
ニクスは次の牢へと向かい、黒い霧で鎖を断つ。
その動きは冷徹で――それでいてどこか優しかった。
◇
やがて、警備兵たちが異変に気づく。
「侵入者だ!」
怒号。
松明の光が一斉に灯り、闇が赤く染まる。
しかし、その瞬間にはすでに彼は動いていた。
黒い影が床を這い、足元から兵を絡め取る。
次の瞬間、煙のように姿を消し、背後から無音で一人を倒した。
剣が振るわれるたび、闇が広がる。
目に見えぬ刃が空気を裂き、悲鳴が短く響いては消えた。
✦
全てが終わった時、倉庫には沈黙だけが残っていた。
檻は開かれ、囚人たちは外へ走り出す。
ニクスは最後に一度だけ振り返り、
壁の一角に手を伸ばした。
黒い霧が滲み、
そこに――“N”の形が刻まれる。
❖ それが、“影の名”の始まりだった。❖
ご読了ありがとうございます。
この章では、ノクティスが“ニクス”として動き出し、
そして初めての“名”が刻まれる瞬間を描きました。
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