第三部:風岡夏純 21
怖さと心細さで心臓が早いリズムを刻む中でそんな仮説を思いつき、余計に自分を追い詰めそうになる。
微睡んでいたはずの意識はすっかり消し飛び、完全に目が冴えてしまった。
(参ったなぁ……)
すぐには寝付けそうにないが、起きてまた電気を点ける勇気もない。
このまま、また眠くなるのを待つしかないか。
そう思いながらスマホの明かりを消そうとして。
愛は気づいてしまった。
仰向けになった自分のすぐ横。机がある方向とは反対側に、それがいることに。
ベッドと密着する壁。その隙間へ立つようにして、 黒い影が浮かび上がっている。
「……」
手を伸ばせば、届くような距離。
油断してしまったせいもあって言葉も出せなくなりながら、愛は見開いた目だけをそちらへ向ける。
間近で見て、始めて気づく。
その影は、平面ではなかった。
ほんの僅かに膨らんでいる。
それでも、生きた人間ほどの厚みはなく、まるで巨大なべっこう飴のような見た目だった。
男か女かなんてわからない。
女のように丸みを帯びた体格にも見えるが、胸に膨らみがあるようには感じない。
身長は愛よりかは大きいかもしれないが、せいぜい百六十センチと言ったところか。
その影が、ぐぅぅ……っと 身を乗り出すようにして顔であろう部分を近づけてきた。
「…………」
逃げろと、本能が身体へ指示を出すも、何故か身体は固まったように動かない。
(いや……来ないで……)
お見舞いに来た知人が寝ている患者の様子を窺うかのように、影は腰を折り曲げる。
この影が何を考えているのかは不明だし、身動きが取れない以上、どうやって対処すべきなのかも判断できない。
そんな状況で、萎縮するように影を凝視していた愛の耳に、
“……ミツ……ケタ”
これまで聞いたこともない、おかしな声が入り込んできた。
その声は、耳からと言うよりも直接頭へ響いてきたと言い換えても良いだろう。
曖昧で現実味がなく、その言葉を把握した瞬間には本当に聞こえたのか戸惑ってしまいそうになる、不思議な声。
男女の区別もつけられず、むしろそのどちらでもないと思える声帯。
(何よ……何なのよこいつ……)
ジワリと浮かんでいた脂汗が、粒となって首筋を流れ落ちる。
自分はいったいどうなるのか。この影の目的と正体は何なのか。
何一つ理解できないまま、成り行きに身を任せるしかなかった身体に。
「――!」
突然、落下するような勢いで影が倒れこみ愛の身体と重なった。
瞬時に――ほとんど本能だろう――愛は息を止め、硬直した身体に力を込める。
(嫌……な、に…………?)
愛の上半身に重なった影には、柔らかい感触があった。
冷えきったジェルのような、身体にしっとりと吸い付くような感覚。
その見た目とは裏腹な性質に狼狽する暇もなく、愛は己の身に起き始めた異変に激しく同様する羽目に陥った。
身体の外側。皮膚から染み込むようにジワジワと影の冷気が浸透してくるのを自覚する。
思い込みとか、そんな気がするというレベルではない。
間違いなく確実に、自分の中へこの黒い影――と呼ぶのが正しいのかはもはや微妙だ――が浸透してきているのだ。
覆い被さる影が邪魔で、視界は見えない。
スポンジに染み込む冷水の如く、影の冷気は皮膚から肉へ広がり骨まで到達する。
「う……ぅ…………ぁ…………」
下半身にまで満遍なく満たされていく冷たい感触は、内臓も頭蓋骨の中にある脳までをも包み込み、やがて愛の肉体全てに広がり尽くしていった。
“……イ……ニエ……スベテ……クロ……メテ……”
身体の中で、自分以外の声がする。
誰のものかは、わからない。
男か女か、大人か子供か、何も判別できない。
「…………」
眼球も舌も、鼻も腕も脳も心臓も全てが黒く満たされた愛の意識は、まともな抵抗をする意志すら浮かぶ前に闇へと閉ざされる。
怖いと思っていたはずの感情。今日という日まで続いてきた人生の記憶、それらすらも冷気に包まれ。
愛は、その全てを深い闇の底へと溶け込ませていった。




