【第5章】
廃墟のビル群が絡み合うように立ち並ぶ薄曇りの中、あたしは慎重に瓦礫の陰から顔を出した。ここはデータセンターがある区画に近づいている。荒野だった風景は再びコンクリートとスチールの森に変わり、倒壊した橋梁や傾いたタワーが混沌とした迷路を作っている。
ポーチには重いポータブル端末とフィルター、エナジーセル、そして何より暗号解読に少し役立つキー断片データが入っている。あたしは次のステップに進むため、一度、周囲の安全を確保できるような拠点を探そうと考えた。
数日前まで、ただ廃墟を彷徨して部品を漁っていただけなのに、今ははっきりとした目的を抱いている。「protoCROW」――あたしと深く関わる言葉。人間がいなくなったあとも、この犬型生物を造り出したその理由が、データの中に埋まっている。戦術支援ユニットとしての計画だったなら、当時の世界は混乱か戦争状態だったのかもしれない。人間は何と戦っていたのか? あるいは、何から身を守ろうとしていたのか?
あたしは首のポーチを揺らし、周囲を観察する。そびえ立つビル群の一角に、ひび割れたガラスファサードが残る中層ビルがある。あそこに入り、少し高い階に登れば、全体の地形を俯瞰できるかもしれない。ドローンに見つかる危険もあるが、慎重に動けば大丈夫だろう。
崩れかけたエントランスからビル内部へ潜り込む。ロビーだったと思われる空間は、崩壊した天井や転がった家具で埋まっている。エレベーターは当然動かないが、階段らしき空洞がある。半ば崩落した階段を、一段一段、前脚で確かめながら上る。犬の身体での登攀はしんどいけど、筋肉は裏切らない。
3階相当の高さまで上がると、落下しそうな梁の上に出た。ここから隣のフロアへ渡れれば、小さな休憩スペースが確保できそうだ。慎重に跳び移る。前脚にグッと力を込め、筋肉を締めて、ドスッと反対側のコンクリ片へ着地する。少し粉塵が舞うが、崩れはしなかった。
視界が開ける破れた窓辺まで行き、外を見下ろす。遠方には細いタワー群がシルエットになっている。その中でも、ひときわ太く、上部に球体のような構造物が付いた塔がある。あれがデータセンターのメイン施設か? 昔拾った断片ファイルでは、データセンターは地下だけでなく、高層タワーにもコアノードを持っていたらしい。あの球体部分が「最終ノード」へアクセスするための中枢なのかもしれない。
視線を下に戻すと、広い通りだった場所に、2機ほどドローンがホバリングしながら巡回しているのが見えた。あたしがここで姿を晒せば気づかれるかもしれない。迅速にポーチからポータブル端末を取り出し、床に置いて電源を投入する。前に拾ったエナジーセルを端末へ接続し、最低限の給電を試みる。
カツッ、微かな振動を感じ、端末のパネルが薄暗く光る。完全には壊れていなかったみたい。OSが起動するのを待ち、インターフェースケーブルをあたしの小型コンピューティングモジュールに繋ぐ。メモリスティックとキー断片データを読み込み、暗号解読プログラムを走らせる。
以前の中継ポイントで手に入れた一部の鍵断片を使えば、protoCROWファイルのさらなる部分が読めるはず。
画面に文字列が走る。
“protoCROW: Tactical Bio-Canine Unit”
“Primary Function: Advanced reconnaissance, infiltration, enhanced combat support.”
“Genetic augmentation: muscle fiber density +40%, cognitive adaptation for mission parameters.”
“Psychological conditioning: loyalty to human command hierarchy.”
“Final node holds complete neural map and override codes.”
あたしは無意識に歯を食いしばる。あたしは戦闘支援生物として設計されていた。人間の命令に従い、偵察し、戦い、 infiltration(潜入)すら可能な存在。確かに、あたしがこうして廃墟を漁り、部品を修理し、ドローンを回避するスキルを持っているのも、こうした遺伝的・知識的素地があったからかもしれない。
しかし今、人間はいない。指揮官はいない。あたしは自由だ。だが、ファイルは最後に「Final node holds complete neural map and override codes」と言っている。最終ノードには、あたしの脳神経モデルと制御コードが格納されているらしい。それが意味することは、もしそこへアクセスできれば、あたしの本来の「プログラム」が完全に分かるということ。それが怖い気もするが、知りたい。
画面にはさらに位置情報のヒントが断片的に浮かぶ。
“Final node location: Central Data Tower, Level …”
数字部分が欠損しているが、タワーの上部セクションであることは確かだろう。
高い場所はドローンの警戒網が厚いかもしれない。それに、タワーへはどうやって近づく? まっすぐ行けば発見される。地下経由、または上層階を渡り歩く必要があるかもしれない。
あたしは端末をシャットダウンし、エナジーセルを外してポーチに戻す。ウロウロするドローンたちが下で旋回している。今はここで休んでいても、見つかるリスクが高い。もう少し安全なルートを探さないと。
ビル内をもう少し探索する。途中、崩れた机の下から耐候性の樹脂ボックスを発見する。中を歯でこじ開けると、古い光通信モジュールらしき部品が出てきた。高周波レーザーで情報を飛ばせるタイプかもしれない。ジャミング装置になるか、逆に使えばレーザーレンジファインダとして活用できるかもしれない。とりあえず拾っておく。
ここで、あたしは微かな金属摩擦音を聞いた。耳を澄ますと、ビル内部のどこかでドローンがホバリングするモーター音に似た低い振動がする。
「ここにもいたか……」
腐食した階段を下りるのは危険だ。別のフロアへ抜けるルートを探す。廊下を辿ると、スチール扉が開いている部屋がある。中はかつてのオフィスのようだが、壁の一部が崩れて隣の建物へ渡れる隙間が開いていた。向こう側はもう少し低い階層のようだ。
隣ビルへと慎重に渡り、足場を確かめる。床がミシッと鳴くが崩れはしない。そこからさらに狭い通路を進むと、半地下へ下りる階段跡が見えた。地形が複雑に歪んでいるおかげで、地下経路へ潜り込み、データタワーに接近する術があるかもしれない。
あたしは鼻を利かせながら、地下へと降りていく。地上の警備ドローンより地下の方が安全そうだが、代わりに暗闇と不明な生物、老朽化した構造物が待ち受けるかもしれない。
薄暗い地下空間は静かだが、時々配管から滴り落ちる水音がする。湿っぽいコンクリ臭が鼻先を刺激する。LEDライトを点け、先へ進む。周囲の壁にはかつての公的セクションを示す標識がある。
“→ Data Link Station 3”
もしこの先にデータリンクステーションが無事残っていれば、最終ノードへのネットワーク経路が判明するかもしれない。
あたしは希望を胸に、粘り強く通路を進む。
途中、鉄格子で閉ざされた扉を発見。扉の鍵は壊れていて、口に咥えた工具で数分格闘すると、ギギギッと開いた。そこには古いラックマウント型の通信機器が積み重なっている。電源は当然落ちているが、中にはまだ読み取れるメモリチップがあるかもしれない。
チップの山を鼻でどけると、一枚だけ比較的綺麗なインターフェースカードが出てきた。特殊な規格みたいだが、さっきのポータブル端末を起動すれば読み取れるかも。ポーチにしまい、先を急ぐ。
さらに進むと、地下トンネルが崩落している箇所に出た。瓦礫の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。崩落部分を乗り越えれば別の区画へ行けそうだが、狭い隙間を通る必要がある。がっしりした体躯が仇になるが、体を横に倒すようにして前脚を突っ込み、後脚で踏ん張りながらズリズリと進む。
途中で背中のポーチが引っかかるが、無理やり引き抜く。エナジーセルが壊れないかヒヤヒヤしたが、何とか通過に成功。
崩落を抜けると、やがて別の広い空間に出る。床面が不均衡で傾いている。斜めになった空間の向こうに、半壊のコントロールパネルが見えた。
そこへ近づき、首輪の工具でパネルを開く。内部は腐食し、ほとんど役立たずだが、わずかながら色付きのケーブルが絡んでいる。
このあたりで一旦落ち着いて、ポータブル端末を再び起動してみることにする。拾ったインターフェースカードを挿して、メモリスティックのデータをもう一度解析。
カード上のファームウェアに、データセンター内部マップの一部がキャッシュされていたらしい。画面には不完全な地図が表示される。
“Central Data Tower: Access from Basement Level 4 through vertical lift shaft.”
どうやら、タワーの地下4階相当の部分から、エレベーターシャフトを使えば上部フロアへ行けるかもしれない。もちろんエレベーターは動かないだろうが、シャフト内をよじ登れば、高層階へ至る経路になるはず。
つまり、最終ノードへの近道はタワーの地下深くにある。この廃墟都市は多層構造だ。あたしは下へ、さらに下へ潜り、シャフトを見つけ、そこから上へ登る。迂遠な話だが、ドローンに囲まれた地上ルートより安全かもしれない。
最終ノードが明らかになれば、あたしは自分が何に使われる予定だったのか、なぜ生き残ったのかを知ることができる。あたしは戦闘用に作られた兵器みたいな存在なのかもしれないけど、今や誰の命令にも従う必要はない。自由だ。それでも、過去を知りたいと思うのは、やっぱり自分という存在を確立したいからだろう。
頭上のコンクリがミシリと軋む音がする。長居は無用だ。あたしはポータブル端末とカードをしまい、再び地下トンネルを進む。
遠くから水が流れるような音が聞こえ、足元に湿り気が増える。もしかしたら昔の冷却パイプが破損し、地下水が溜まっているかもしれない。水は腐っている可能性が高いが、フィルターを使って何とか飲用に近い形に加工できるかもしれない。今はまだ余裕がないが、あとで水分補給できれば幸いだ。
しばらく進むと、トンネルの先で、かすかな緑色の光が揺れているのに気づく。生物発光? それとも何らかの機械的インジケータ?
あたしは鼻をひくつかせ、ゆっくり近づく。光源は壁際にこびりついた苔のような微生物群らしい。放射性か化学反応による生物発光かもしれないが、有害だと困る。避けて通る。
苔を回り込むと、下へ続く階段が再び現れた。崩れた看板には「Basement Level 2 →」の文字。あと2レベル下がれば、あのシャフトに繋がる階層に辿り着く可能性がある。
あたしは首を振り、尻尾をわずかに振って気合いを入れる。protoCROW……戦術支援ユニットとしての「あたし」は、今や過去から解放された自由な存在だ。でも、自由になった今こそ、過去を知ることはあたしの選択肢を増やす。最終ノードで全てが判明したら、たとえその内容が不都合でも、受け止めるつもりだ。
地下を進む間、思考が渦巻く。人間が消えた理由は何だったのか。もしあたしが計画通りに運用されていたら、人間に忠誠を誓い、その命令に従って戦い続けたのだろうか。人類が滅びた今、あたしは何のために生きるべきなのか。
答えは最終ノードにあるか、それともあたし自身が考え出すしかないのか。
微かな疲労を感じる脚を励ましながら、階段を降りる。地下2階、あと2つ下がれば目標の地下4階だ。途中で崩落や水没区画、さらには敵性ドローンとの遭遇もあるかもしれない。だが、あたしは進む。
胸板に詰まった強靭な筋肉と、鍛えられた四肢を信じて。
何より、あたしが自分の意思で歩いているという事実を頼りに、先へ進む。
――第5章、了。