【第4章】
朝なのか昼なのか、時間の感覚が曖昧になる頃、あたしは高架橋の下で寝ていた身体を起こした。灰色の空は変わらず重たく、やや薄い光が地面を照らしている。あたしは首のポーチを確かめ、昨晩のドローンとの死闘で入手したエナジーセルがしっかりと残っていることを確認する。背中の筋肉が少し張るが、これくらいなら大丈夫。
「よし、今日こそあのデータセンターに近づくわよ……」
静かに決意を口にする。protoCROW計画を解き明かすためには、あの暗号化ファイルをどうにかしないとダメ。そこにある高性能メインフレームを利用できれば、解析ツールを走らせられるかもしれない。
北西方向に目を凝らす。かつての物流ターミナルエリアを抜けた先には低層ビルが幾つか並んでいる。その先にデータセンター群があったと、わずかな断片情報から推測しているけど、確かな地図はない。ただ、遠方にそびえる何本かの塔、あれがおそらくデータセンター周辺の目印だろう。でかい通信アンテナや冷却塔が残っているはずだから。
地上をまっすぐ進むのは危険かもしれない。武装ドローンがうろついている可能性が高いし、あたしの足音や匂いで気づかれる確率も上がる。そこで、以前拾ったデータ断片によれば、この付近には昔の地下インフラが網目のように走っているらしい。地下配線ルームやメンテナンストンネルを使って忍び寄る方が得策だ。
鼻をひくつかせ、地面を注視する。くすんだアスファルトには亀裂が走り、その一部が陥没している箇所がある。近づくと、崩れた鉄板の下に空洞が見えた。そこには闇が広がっており、古いケーブルがぶら下がっている。
「ここから潜れそう。」
あたしはそっと前脚で鉄板を押しのけ、鼻先を突っ込む。地下へ続く穴は狭いが、あたしの体躯なら何とか通れそうだ。ただし毛並みに泥や錆びがつくのは避けられない。ため息をついて、上半身を押し込む。背中のポーチが引っかからないよう注意しながら、前脚で壁を押してズルズルと降りていく。
闇の中は冷たく湿った空気が漂っていた。地上の乾いた空気とは違う、古い土やコンクリの蒸れた臭いが鼻をくすぐる。LEDライトを口元のスイッチで点け、狭いトンネルを照らす。散乱するケーブル、錆びた配管、そして所々に打ち込み式のメタルボルトが残っている。ここは、かつての通信線や電力線を通していた技術者用のメンテナンスルートだろう。
少し奥へ進むと、わずかに拡張された空間がある。人間が整備用のツールを保管していたスペースかもしれない。壁際には金属棚が崩れ、ペラペラの合成シートが床に散らばる。その中に、妙に光沢の残った小型デバイスを発見した。
鼻先で軽く押してみる。カバーが外れ、中には小さなマイクロコントローラっぽい基板があるが、電源は死んでいる。あたしはそれをポーチに入れるか迷ったが、重量ばかり増やすより、今は必要なものを優先すべきだ。
もう少し進むと、床がわずかに傾斜し、下へ降りるスロープになっているのに気づく。地下施設は多層的で、もっと深いレベルまで延びているようだ。データセンターは巨大なネットワークの末端にあっただろうから、このトンネルを辿れば、そこへ繋がる中継ポイントに出る可能性もある。
ふと、頭上の配管が微かに振動しているような気がした。耳を立て、音を探る。遠くで機械的なパルス音が反響している。ドローンか? それともポンプの残骸がまだ動いているのか。とりあえず油断は禁物だ。
スロープを慎重に降りる。濡れたコンクリートは滑りやすく、何度か足を取られかける。途中で鋭い金属片が突き出していて、前脚の皮膚を軽く切ってしまった。痛みで顔をしかめるが、出血はわずか。すぐに舐めてやり過ごすしかない。
下層に達すると、より大きな空間が待っていた。高さ2メートル以上、幅5メートルほどのメンテナンストンネル。床には古いレールが敷かれていて、かつて点検用カートが走っていたのだろう。光を当てると、壁面には錆びた標識らしきものが残り、消えかけた文字が浮かび上がる。
“Central Data Archive Sub-Station →”
やった、当たりだ。この標識が示す方向に行けば、アーカイブ施設の一部にアクセスできるかもしれない。そうすれば、高性能な計算リソース……いや、全部生き残ってはいないだろうが、何らかの端末が見つかれば、暗号化ファイルの解読に役立つはず。
標識の指す方向へ歩みを進める。トンネルの先は真っ暗だが、時々天井に埋め込まれた古い光ファイバーが、かすかな光点を示している。生きてはいないが、蛍光塗料か何かが残っているのかもしれない。
やがて、巨大な金属扉に突き当たる。地震で歪んだようで、半分ほど開いている。その隙間から体を滑り込ませると、そこはもう少し広い機械室のような空間だった。天井には鎖で吊るされたケーブルホルダーが絡まり、床にはサーバーラックらしき金属製のフレームが倒れている。
近づいてみると、ラックの脇に半埋没した大型ストレージ装置の筐体が見えた。外装には擦れたロゴと、“Quantum Tape Archive”のような文字列が薄く残っている。量子テープ……昔の超大容量記憶媒体だとか聞いたことがあるが、電源とリーダー装置がなければただの箱だ。
しかし、この空間の中ほどで、まだ微弱な動作音が響いているのに気づく。小さなサーバーノードが半壊した壁面コンソールに埋め込まれ、そこから断続的な“ビーッ…ビーッ…”という信号が流れている。赤いLEDがわずかに点滅しているのが見える。
あたしは前脚でコンソールのガラス片を押しのけ、首輪の工具を使ってパネルをこじ開ける。内部には古びたCPUボードやメモリモジュールが詰め込まれているが、驚いたことに、一部の回路はまだ生きているようだ。おそらく長寿命電源や自己修復型ナノバッテリーが残留電力を供給しているんだろう。
首輪ポーチから、前に調整しておいたインターフェースケーブルを取り出し、基板の端子と接続する。このコンピューティングユニットにメモリスティックのデータを読ませ、暗号解読の糸口が得られないか試す。
接続してみると、コンソール上のLEDが緑色に変わる。ホログラムを出すには出力デバイスが不足しているが、あたしの小型コンピューティングモジュール(首輪に仕込んだ簡易表示装置)に信号を流せば、テキストデータくらいなら読める。
あたしは慎重にキーを送信する。無反応かと思いきや、コンソールが微弱な高周波音を発し、断片的な文字列が投影される。
“Accessing… /misc/canine_experiment/protoCROW … Key required … partial decryption attempt …”
やはり鍵がいる。でも、ここには暗号解析ツールが内蔵されている可能性が高い。古いAI管理システムがバックグラウンドで走っていれば、鍵なしでもある程度の破砕アタック(ブレーク)を試せるかもしれない。
「あたしに協力しなさいよ……」
小声でつぶやきながら、基板上のジャンパピンを工具でいじり、電源ラインを一瞬オンオフしてみる。すると、システムが再起動し、別のメニューが浮かび上がる。
“Legacy Subroutine: AI Maintenance Protocol #7. Attempting archived keys…”
数秒の沈黙、そして文字が揺らめき、部分的な解読結果が表示される。
“protoCROW: Genetically engineered canine … enhanced intelligence, physical strength … designated for tactical operations … data incomplete … refer to final node for full specs…”
断片的だけど、やはりあたしは戦術目的で造られた存在らしい。enhanced intelligence(強化知能)、physical strength(高い身体能力)……つまり、兵器か支援ユニットか。そのあたりはまだはっきりしない。ファイルは不完全で、「final node」を参照しろとある。「最終ノード」はきっとデータセンター本体にある完全アーカイブなのだろう。
ため息をつく。やっぱりここはただの中継地点。鍵の一部は手に入ったが、完全復号には本丸へ乗り込まなきゃダメか。
このサブステーションには他に使えそうなものがあるだろうか。あたしは空間をひと回りする。倒れたラックの下に、小型のポータブル端末が挟まっているのを発見する。引っ張り出してみると、液晶的なパネルとキーボードがあり、ユニバーサルな入出力ポートも付いている。電源は切れているが、エナジーセルで給電すれば起動するかもしれない。
「これは使えそう。」
あたしはポータブル端末をポーチへ収めようとするが、少し嵩張る。ポーチに無理やり押し込むと重くなるが、この端末があれば地上で動きながらでも解析が進められるかもしれない。価値はある。何とか詰め込む。
そのとき、壁の向こうからカツッ、カツッと金属を引っ掻くような音が聞こえた。ひゃっと耳を立てる。ドローンか、ネズミのようなバイオメカか、わからないが、誰かが近づいているかもしれない。この地下空間は狭い上に逃げ場が限られる。早く退散すべきか。
でも、あたしは最後にもう一度、コンソール基板を確認する。そこには部分的な鍵データがキャッシュされているっぽい。ツールを使ってそれをコピーしよう。キー断片を得れば、最終ノードでの解析が楽になるはず。
迅速にキー断片データを抜き取り、ケーブルを回収する。コツン、コツン、と近づく足音が響いてくる。ここから出たほうがいい。
金属扉のすき間からトンネルへ戻り、やってきたルートを逆走する。暗い通路をLEDライトで照らし、足音を消すように慎重に動く。もし敵が追ってくるなら、あたしはこの狭い場所で戦うことになる。それは不利だ。
地上へ出る出口までたどり着く頃には、背中がすっかり熱を帯びていた。首回りが火照る。狭い穴から再び地上へ這い上がると、灰色の光がまぶしく感じる。
「ふぅ……」
あたしは息を吐き、まわりを見回す。幸い、後を追う者はいないようだ。まだこのあたりにはドローンやクリーチャーがうろついているだろうけど、今は先を急ぐ。
今日の収穫は大きい。protoCROW計画が軍事的な意図で作られた犬型生物強化計画だったことをほぼ確認できた。あたしの存在理由が、ただの偶然の生存者ではなく、特定の目的で創られた生体兵器的なものだった可能性が高い。そして、最終ノードが全貌を握っている。
ポーチにはフィルターやエナジーセル、ポータブル端末などが詰まっている。これらをうまく組み合わせれば、最終ノードで暗号を解く際に優位に立てるかも。
あたしは舌で前脚の傷口をもう一度確かめ、首を振って砂埃を払う。次の目標は、データセンター本体へ近づくこと。それはきっと、いくつかの区画を抜け、高層建築の一部へ登っていく必要があるだろう。上層階に残された制御サーバーや大容量ストレージがあれば、すべての答えが手に入るかもしれない。
「protoCROW……」
その名をもう一度口に出す。あたしは、過去に束縛される必要はない。たとえ武器として作られた存在だったとしても、今この世界に人間はいない。決めるのはあたし自身だ。だが、謎を知ることは、自分を理解することにつながる。理解した上で、どう生きるか考えればいい。
空は依然として曇天、風が頬をかすめる。少し休みたいが、まだ安全とは言い難い。近くに小さな建物の残骸があり、そこは風除けになるかもしれない。少しだけそこで休憩してから、さらに北西へ向かうつもりだ。
あたしは重いポーチを揺らしながら、慎重な足取りで廃墟を進む。やがて小さな陥没跡を避け、倒れた鉄骨を乗り越え、瓦礫の陰に身を置く。呼吸を整え、今日入手したデータの断片を脳裏で反芻する。
確実に一歩ずつ、最終ノードへ近づいている。この荒廃した世界で、たった一匹のムキムキ女犬が、過去と未来を繋ぐための旅を続けている。よし、次はあのビル群へ挑む番だ。
――第4章、了。