【第2章】
翌朝、灰色の空がわずかに明るんできた頃、あたし――そう、クロウは女みたいな性格だと自分で思ってるんだけど、まぁ犬だしあまり性別の意識はない。けど、そういえば昔拾ったデータで、犬にもオス、メスがあるって知ったっけ。人間は区別してたんだな。あたしは自分がそういう意識を持つことを悪くないと思ってる。だからあたしって言わせてもらうね。――あたしは工房を出発した。
背中には簡易ポーチ、首輪には工具と、昨夜手に入れたガイドレールの短縮版を細工して、ちょっとしたスタンバトンみたいな武器を仕込んである。溶接がヘタクソだったせいで見た目はガラクタだけど、一度くらいなら警備ドローンのセンサー類を叩き潰せそうな頑丈さはあるはず。
北西方向へと歩き出す。街を覆う建造物の骸骨群を抜け、低く響く風の音を聞きながら、瓦礫の道を慎重に進んでいく。足元にはひび割れたアスファルト、絡みつく雑草、コンクリ片。遠くに見えるのは、曲がった通信タワーが傾きかけたシルエット。あの向こうに、給水プラントの巨大なタンクがあるはずだ。
給水プラントは、かつて人間が都市生活を維持するために水をろ過し、配水していた設備らしい。もう今では動いてないだろうけど、内部には何かしらの機械部品や、稼働可能なポンプの一部が残っているかもしれない。純粋な水を得るのは難しいが、工業用の高純度フィルターや、冷却用の液体残渣が残っていれば、加工に使えるはずだ。
あたしは緩やかな坂を上がる。道中、廃棄された移動式販売車の残骸が横倒しになっている。何十年、何百年雨風に晒されてるか分からない。そばを通ると、中から小さな金属音がした。ピキピキ……何だ? 警戒して鼻をひくつかせると、そこにはバイオメカ的なネズミが数匹、車内で配線をかじっていた。
ネズミたちは半分金属化した奇妙な存在だ。腐食した有機組織に微小なナノマシンが溶け込み、生物と機械が雑然と融合したような連中。サイズは普通のネズミよりはやや大きいかも。噂では、昔この辺りで自己複製を繰り返すナノマシンが野生動物に感染し、それが何世代も経て奇形な群れを作り出したんだとか。
あたしはそいつらを刺激しないよう、静かに通り過ぎようとする。ネズミたちは無言で配線を齧り、金属の屑を吐き出している。目は赤く、ガラス玉のよう。おそらくこっちに興味はないらしい。
少しホッとして、さらに進むと、前方に巨大な丸いタンクと長大なパイプラインが見えてくる。給水プラントだ。タンクはもう半ば崩壊し、巨大な缶詰が斜めに突き刺さったような状態で、内部は空洞になっているだろう。パイプは地面に落ち、錆び、砕けている。
辺りは独特のにおいがする。金属酸化物の臭いに加え、水気を帯びた藻のようなものが残っているのか、湿り気を含んだ鉄の匂いが鼻先を刺激する。珍しいな、この世界で湿気を感じるなんて。上空を見ると、曇天の間から微かな光が漏れ、昨日より少し湿度があるのかもしれない。
慎重にタンクの側面に近づくと、錆びついたパネルが外れて内部が覗ける。中には基礎部分にからみついた配管がまだ残っている。下方へ続く梯子穴があり、人間が点検に使っていた縦穴のようだ。そこへ降りれば、ポンプルームにアクセスできるかもしれない。
「さて、どうするか……」
階下は暗い。中にドローンや奇妙な生物が巣を作っているかもしれない。だが、ここで何か使えるパーツが見つかれば、この先のデータセンター攻略に役立つだろう。あたしは首輪に仕込んだ簡易ライト――LEDと小さなセルバッテリーを細工したもの――を口元でカチリとスイッチ入れる。かすかな白い光が足元を照らす。
四つ足で慎重に降りる。梯子はもう使えないから、コンクリ壁の凹凸やパイプに爪を引っかけてゆっくりと下へ。犬の身体はこういう登攀に向いていないけど、重量と筋力がある分、踏ん張りは効く。ガリッ、ギシッ……時々崩れそうな破片が落ちる。呼吸を整え、ゆっくり下へ進むと、地上から5メートルほど降りたあたりに小さな通路が開けてきた。
通路には錆びたバルブや制御盤らしきものが並んでいる。水処理用のフィルターハウジングか、巨大なタービンの残骸か、とにかく機械の墓場みたいだ。ここで一番興味があるのは、昔のポンプかフィルターコンポーネント。汚れた液体から不純物を取り除く高性能メッシュフィルターが残ってれば、後で燃料精製や化学洗浄に使えるかもしれない。
鼻を利かせて奥へ進むと、水がしずくを落とす音がした。ポタ…ポタ…。床面に染みがある。水、いや、油か何か? 近づいて舐めたりはしない。危険だからな。ただ臭いを嗅ぐ限り、油っぽいというよりは変性した化学液体っぽい。飲料にはならないが、冷却材や潤滑用に使えるかも。
あたしはライトを照らしながら、細い隙間に差し込まれたフィルターカートリッジを発見する。筒状のステンレス製で、中は細かなメッシュ構造だ。バクテリアだか微粒子だかを除去する用途だったんだろう。ほとんど詰まっているけど、メッシュ自体は強固で、何とか再利用できそう。引き抜くには固いが、前脚と歯でぐいぐい押して、ようやく抜けた。
「よし、これで一つ収穫だ。」
ポーチに詰め込む。少し重いが、まぁ耐えられる。
さらに進むと、通路の奥に小さな保守室が見えた。扉は歪んで開いている。中には古い制御コンソールが倒れ、棚には何かのケースが並んでいる。ケースを開けてみると、サンプルボトルやテスター用機材が入っていた形跡があるが、すべて空だ。
コンソールには電源が入っている気配はない。ただ、ケースの奥からかすかな信号音が聞こえる。「ピ……ピ……」と低い周波数のビーコンみたいな音。おかしいな、こんな場所で何が信号を発してる?
ライトを振ると、壁際に小型の黒い箱状の装置が転がっている。カバーが割れ、ケーブルがむき出しになっているが、その内部で赤いLEDが微かに点滅している。バッテリー式のトラッキングビーコンのようだ。人間が残したものか、あるいは以前ここを探索した誰か――いや、何か――が仕掛けたのかも。
あたしはゆっくり近づき、鼻先で軽く押す。ビーコンは触れても害はなさそうだが、ひとまず持って帰って解析してもいいかもしれない。中には位置情報や、特定周波数での交信用コードが残っているかもしれないからな。首をひねり、工具で慎重にケーブルを外す。
ビーコンは意外と軽かった。ポーチにはもう余裕がないので、首輪の脇にある金属フックに引っ掛ける。カラカラと小さな音を立てるが、まぁ仕方ない。
さて、ここで時間をかけすぎてもいけない。このあたりは地上に戻ると、あのネズミや別の生物がいるかもしれないし、下手すりゃドローンがウロついてるかもしれない。それに、北西部のデータセンターはまだ遠い。早めにここを抜けて次の拠点を目指さなきゃならない。
あたしは引き返し、通路を慎重に戻る。上方から微かな光が射し込んでいる穴を見上げ、パイプに爪をかけてゆっくり登る。このとき、後ろ足が滑って一瞬ヒヤリとするが、なんとか地上に顔を出すことができた。
外の空気は乾いているが、さっきよりも風が吹き始めている。タンク周辺を抜け、パイプラインの残骸を踏み越えていくと、やがて平坦な更地が広がっている場所に出た。遠くには古い高架橋が半分崩れ、鉄筋がむき出しになっている。その向こうは街の外れだ。かつては輸送路だったんだろうが、今は通り抜けるのも大変そう。
データセンターはこのまま北西へ進んでいくと、低層ビルの群れを抜けた先の大規模建造物群に埋もれているはずだ。それは人間が巨大なサーバーファームやネットワークハブとして使っていた場所で、いまだに冷却システムの一部が動いているという噂もある。もしそれが本当なら、電力は何処から供給されている? 風力、太陽光、それとも小型核電池? いずれにせよ、手強い警備ドローンが巣食っている可能性は高い。
あたしは歩を進めながら、先ほど手に入れたビーコンを鼻先でチラと確認する。この小さな装置、何かの鍵になるかもしれない。もしかしたら特定の周波数でレスポンスすれば、隠されたデータベースを呼び出せるかもだし、あるいは古いセキュリティホールを突く手掛かりになるかもしれない。
途中、足元に朽ちたヘルメットのようなものが転がっているのに気づく。硬質樹脂でできていて、かつてパワードスーツ用の頭部装甲だった可能性がある。中を覗くと、簡易なHUD用のスクリーンと通信モジュールが組み込まれていたらしい形跡があるが、すべて壊れている。電源回路は死んでるな。スクリーンは微妙に剥がせそうだが、あまり有用じゃないかも。
しかし、よく見るとボイスコントロール用のマイクモジュールがかすかに残っている。旧世代の音声インターフェイスは興味深い。修理できれば、あたしの簡易ホログラムディスプレイを音声で操作することも将来的に可能かもしれない。前脚で器用にマイク部分をもぎ取って、ポーチに詰める。
周囲の景色が徐々に変わる。街並みはますます低くなり、空間が開けてくる。瓦礫が減り、代わりにコンクリートの塊や、浸食されたアスファルトの地面がむき出しだ。地表にヒビ割れが広がり、そこから奇妙な色の植物の芽が顔を出している。どこで栄養を得ているんだ? こんな不毛な土地で生きられるなんて不思議だ。
風に乗って、わずかながらケミカルな臭いが漂ってくる。工業廃液か、あるいは昔ここで起きた爆発事故の名残りなのか。あたしは鼻を潜めて先へ進む。
やがて、遠くに少しだけ高い建物が見えてくる。あそこが次の目印になるかな。データセンターはその先。あたしの知る限り、このあたりにはいくつかの倉庫群が点在しているらしい。多くは空っぽだろうけど、時々センサー付きのトラップが仕掛けられてたりするから油断はできない。
空は相変わらず重たい雲で覆われている。太陽の位置すらわからないが、たぶんもう正午近いんじゃないか。何となくそんな気がする。
歩き疲れたあたしは一旦休憩しようと、崩れかけた壁の陰に身を寄せる。首輪から取り出した小さな金属片に、昨夜集めたわずかな水滴を溜めておいた。それは正直、飲むには微妙だが、喉が渇くほどじゃないし、舐めてみると腐敗はしてない。微量の水分だけど、舌を湿らせる程度には役立つ。
「protoCROW……」
つぶやきが自然と口をついて出る。メモリスティックに記されていたファイル名が、あたしの脳裏にこびりついて離れない。人間が行った犬への改造実験。そのなれの果てがあたしだとしたら、何が目的だったんだろう。戦闘支援? 救助? 調査? それとも何か別の使命があったのか。
人間はなぜ消えた? 100年以上前に世界が変わったその理由を、あたしは断片的な噂と記録から知るだけ。病原体のパンデミック、資源戦争、気候変動、AI暴走説など諸説あるが、確かなことは何もわからない。あたしが見た夢のような映像――白衣を着た人間たちが笑い、データを解析していたあの光景――は現実にあったものなのか。
ポーチの中のフィルターやビーコン、そして首輪フックに揺れる小型装置をもう一度確認する。どれもすぐに使えるわけじゃないが、これらを組み合わせ、データセンターで解析すれば、もう少し深く世界を理解できるかもしれない。
軽く首を振って立ち上がる。目指すは、まだ遠い北西部。次の数時間で何が起きるかわからないが、少なくともあたしは「なぜここにいるのか」を確かめたい。その衝動が、足を一歩、また一歩と前へと運ばせる。
風は少し冷たく、耳元でかすかにヒュウと鳴る。
「行くぞ……」
呟いた声は空虚な世界で反響することなく、ただ大気に溶けた。あたしは孤独だ。でも目的がある。とても曖昧な目的だが、それは生きる理由として十分だと感じる。
荒れた大地を踏みしめ、次の目印へ向かう。目を凝らせば、遠方に傾いた高架橋の下に影が動いたような気がしたが、確証はない。もしかするとバイオメカの生物があちこちで蠢いているのかもしれないし、単なる風で揺れる金属片かもしれない。
今は余計なトラブルに巻き込まれたくない。あたしは慎重な足取りで、その場を離れる。
データセンターにたどり着くには、まだまだ時間が必要だ。その間に日が沈み、夜になる前に安全な寝床を探さないとな。次の休憩ポイントは、廃れた地下鉄駅があったはずだ。そこで一晩過ごし、夜明けとともに、さらに北西へ踏み出そう……そう考えながら、あたしは曇り空を見上げる。
この世界にあたし以外に知的生物は残っているんだろうか。ドローンたちはただのプログラムされた機械だ。ネズミや他のクリーチャーは本能と腐ったナノマシンの衝動で動いているだけに見える。あたしのように過去を探り、目的を持とうとする存在がいるとすれば、是非会ってみたいものだ。
まぁ、夢物語かもしれないが。
重いポーチの感触を確かめ、首輪に引っ掛けたビーコンが小さな規則的な揺れを刻むのを感じながら、あたしは前へ進む。とりあえず、今日はここまでだ。もっと先で、あのデータセンターで、答えに近づくために――。
――第2章、了。