女は彼に抱きつきあたしを見てわらった。まるで勝ち誇ったかのように……
あたしは今、あるところに向かっている。
目指しているのは、有名なところ。
ある種の人たちにとっては……
あたしは今日、彼に振られた。
もう生きていく気力もない。
あたしももう今年で30歳だ。
……なんでこうなるんだろう……
あたしは女子高・女子大出身のせいか、女として一番大事な時期を、男に免疫を持たずに過ごしてしまった。
それに加えて地味で引っ込み思案な性格。
好きなタイプの男を目の前にすると、どぎまぎして何も言えなくなってしまう。
それでも25歳の時、初めて彼氏ができた。
あたしの心は舞い上がった。
ああ、こんなあたしにも彼氏ができたんだって……
だけどこの男はろくでもなかった。
あたしの体目当てで、処女を奪われ、貢がされただけで終わった。
この男と別れた後、もう2度と男なんて好きになるものかと思っていたのだけれど、同じ会社に勤める今の彼に出会って考えが変わった。
前回の男と違い、彼はまじめな人で、あたしはうれしかった。
この人こそは、と思った。
……一緒になるんだ……
あたしは運命の人だと直感し、彼に尽くした。
……だが、ある時、ふと彼の後ろに別の人影がいるような気がした。
女のカンというやつ……
こんなまじめな彼が浮気しているのだろうか?……信じられなかった。
今日、ちょっとした予感から、彼との約束の2時間前に彼の部屋に押し掛けると、なんと彼はほかの女と抱き合っていたのである。
……どこの女よ……
そう思って、あたしは彼に続いてベッドから這い出してきた人を見て唖然とした。
同じ職場の同僚だったのだ。
しかも、あたしより年上で地味な女。
――ごめん……
彼は、あたしにあやまった。
そして言葉をもういちど繰り返した。
――ごめん……
その女は彼に抱きつき、あたしを見てわらった。まるで勝ち誇ったかのように。
あたしはその場にいたたまれず、彼の部屋を飛び出した。
女としての存在を、全否定されたように思えた。
涙が止まらなかった。
……あんな女に負けるなんて……
あたしは、最寄り駅から自分の家に向かわず、逆の方向の電車に乗って山に向かった。
道々、いろいろなことが心に去来した。
……あの時、ああすればよかったのか? こうすればよかったのか?
あたしのいけないところは、男の言うなりになってしまう。そして強く言い返せない弱さ……
自分を主張することにためらいを感じてしまう弱さ。
特に相手が好きな男の場合は……
下手なことを言ったら、たちまち嫌われてしまうという恐怖感があった。
なぜ、彼がベッドから這い出してきた時に、罵声を浴びせなかったのか?
なぜ、となりにいた女をビンタしなかったのか?
悪いのは相手の方ではないか。
なんであたしがおとなしく引き下がらなければいけないのか。
……でも……
そんな勇気を持てない自分は、所詮こうなるしかなかったのか……あきらめるしかないのか……
山の近くの駅で電車を降り、バスに乗って終点まで行き、そこからてくてく歩く。
たどり着いたのは、断崖絶壁の上。
はるか下には、渓谷に沿って流れる河が見える。
……あたしに飛び降りる勇気があるだろうか?
飛び降りる勇気があるのなら、何だってやれるはず。
……やっぱり引き返そう。あたしにはそんな勇気はない……
でも、引き返して何がある?
振られた彼と彼を寝取った女が待つ職場に負け犬として過ごす毎日……
……そんなことなら、いっそ……
崖の上に立ったあたしは、足に……そう……飛び降りる前にすること……
心臓が飛び出しそうな勢いで、動悸が高鳴っている。
……怖い。怖すぎる……
目がくらくらする。
ただでさえあたしは高所恐怖症なのだ。
あたしは深呼吸を繰り返す。
……いや、やはり、あたしには……
その時、何かがあたしの背中を押したような気がした。
ついに……あたしの足が地を離れた。
――きゃあーーーー!
まっさかさまに体が落ちていく。
その恐怖!!!!
目なんか開けてられない。
……谷底に叩きつけられて、体がバラバラになって、この世とおさらばするんだ……
――ああ、死ぬー! 死ぬー! 死ぬー! 死ぬうーーーー!
あたしは、絶叫して気を失った。
――☆☆☆☆――
……気づいた時、まわりを見渡すと、そこは天国ではなかった。
もとの崖の上。
近くから声が聞こえた。
――お客さん、大丈夫? バンジージャンプ初めてだったの? しばらく動かなかったから、軽く背中を押してあげたんだけど……悪かったかな?
なんて答えたのか覚えていない。
でも何だろう? この爽快感は!?
こんなに気分が晴れたのは、久しぶりだ。
まるで自分が生まれ変わったよう……
そして、なぜだかついさっきまで憂鬱な存在でしかなかったあの二人が、急に脅威の対象でなくなっているのを胸の内に発見した。
……怖くなんてない。あの二人をやっつけてやる……うふふ……
帰りの道、なぜかあたしは不敵な笑いが込み上げてくるのを抑えきれなかった。