4話:彼は普通に部活に行った。
『部活に行ってきます。朝ごはんは作っておきました。焼きおにぎりです。昼には帰ります。』
朝起きたら、ローテーブルに昨日とほとんど同じ書置きが置いてあった。
しかも、昨日の『フレンチトースト』の部分を消しゴムで消して書き直してある。
昨日は変に思わなかったけれど、陽太はなんで書置きを残すのだろうか。
「別に、LINEでいいのに。」
私はボソッと独り言を落としつつ、携帯を確認する。
母から『いつ帰ってくるの~?』とメッセージが来ていた。
昨日の夜中に送ってきたみたいだ。
既読をつけつつも無視をする。
ーー今は母と会いたくない。
二日見ていなかったLINEにはいくつかほかにもメッセージがたまっていることに気づく。
私は誰からメッセージが来ているのかも確認せずにスマートフォンをソファにうっちゃって、私はその上に寝転ぶ。
『一週間、僕に頂戴』
私の中で昨日言われた言葉が反芻する。
「あんな告白しといて、ほんとに部活には行くんだもんな。」
……一週間、すぐ終わっちゃうよ。
***
私は焼きおにぎりを食べた後、陽太の体操ジャージを着てこそこそと家まで帰る。
昨日からずっと陽太のTシャツに短パンだった。けれど、それで外に出る気にはなれなかった。
さすがに下着もつけずにTシャツ1枚は、そう思って長袖のジャージをクローゼットから拝借した。
昨日、いや一昨日からか、何もかも陽太に借りている。
服に、下着、それにベッドに、部屋、携帯の充電器に至るまで。
残りの人生、あと6日しかないとは言え、ずっと借りっぱなしは気が引ける。……それに、借り物の、それも男物の服で死にたくない。
かわいい私が三割減る。
そんな戯言はさておいても、自分の服と物が欲しい。
別に1週間引きこもってるつもりはないのだ。折角だからお出かけもしたい。
私は玄関の鍵をゆっくり開け、引き戸を少し持ち上げて音を立てないように開ける。
沓脱には、銀色のキャバサンダルが無造作に放り出してあった。
高校生の親としては美人な母親だけど、30代もリミットはすぐ。キャバからスナックに移って久しい。
……よくこのデザインをまだ履けてるな。
私は自分のサンダルとともに母親のサンダルをそろえる。
やっぱり居間で寝ている母親の様子を伺う。昨晩はかえってきてそのまま寝落ちたようで、キャバスーツを着たままうつ伏せで寝ていた。
私には気づかない。
「……ただいま」
私はこっそり声を掛けたあと、階段の隅を踏んでなるべく音を立てないように、二階の自室に上がる。
古いわが家は、陽太の家と違って階段を上がるたびに軽くきしむ。
押し入れから下着や服を引っ張りだして、持ってきたリュックに詰める。あと、自分名義の通帳とキャッシュカードもポケットに突っ込む。
他にも持っていきたいものはないかあたりを見回す。
ーー殺風景だ。
我ながら、全く飾り気のない部屋だ。
ところどころに錆が目立つパイプベッド、上にはせんべい布団が敷いてある。
古い合板製の文机は祖母のもので、私の勉強机になっている。
近くにある本箱は中学の技術の授業で作ったもので、二個並んでいる。一つは陽太が作ったものだ。中には教科書やノートが詰まっている。陽太のものはいらなさそうだったので、もらってきたのだ。
それだけだ。
それ以外に物がない。もちろん、押し入れの中のカラーボックスには衣類や中学までの教材なんかが履いている。でも。正直あまり無駄なものがない。
女の子の部屋にあるようなかわいい小物やおしゃれな柄物はない。茶色くて殺風景だ。
私はベッドにあおむけになる。
ーーこの味気ない部屋でずっと生きてきたんだな。
少し目をつぶって思い出す。
けれど、この部屋では私が独りでいる姿しか思い出せなかった。……そういえば誰も人を入れたことがない。陽太がうちに来る時も居間までしか上がってこないし、母も二階へはほとんど来ない。
この部屋に来るのも最後かと少し感傷に浸りたかったけれど、なんか覚めてしまった。自分の中で「独り」というものに複雑な感情があるようだ。
私は立ち上がってもう一度押し入れに顔を突っ込む。
なんとなく中学の時に使っていた段ボールを開く。一番上に入っているボロボロになった筆箱には東京スカイツリーのキーホルダーがついていた。
ーー陽太がくれた奴だ。
修学旅行に持っていけたお小遣いが少なく、自由行動で選んだ昼食場所がおしゃれなカフェだったがために、お土産を買うお金が無くなってしまった。陽太はそんな姿を見てか、ペアのキーホルダーの片割れをくれたのだ。少し恥ずかしかったけれど、嬉しくて筆箱につけて使っていたのだ。陽太が私との仲を疑われるような、形の残ることをしたのはこれが最初で最後だった。
私は、そのキーホルダーを筆箱からとって、リュックにつける。
ーーこの部屋にも思い出があった。
自分の頬がゆるむと同時に涙があふれそうになるのを感じて目をこする。
ーーああ、やっぱり私は幸せだなあ。
私はおもむろに立ち上がって、リュックを背負う。
持ち出す衣類で来た時よりも重くなっている。普段背負っている教科書よりは重くない。けれど、少しだけ重い足取りで部屋を後にする。
はやく立ち去りたい気持ちを抱えつつも階段を慎重に降りる。居間を覗くと母親はさっき見た通りうつ伏せでいびきをかいていた。
「……じゃあね。」
またこっそり声を掛けて家を出る。やっぱり母の反応はなかった。
私は目に焼き付けるよう、数秒間母の姿を眺める。
ーーやっぱり、40手前には見えない。
少し後ろ髪をひかれつつも、そのまま居間を後にして玄関から外に出た。
玄関脇の学習用植木鉢から伸びた朝顔は今年も花を咲かせている。
***
陽太の家にかえると、もう11時を超えていた。
家まで行って帰ってきただけなのにもう昼だ。
陽太のジャージとトランクスを脱いで、持ってきたショーツを履いてブラをつける。ブラなんて鬱陶しいだけだと思っていたけれど、久しぶりにつけてみると安心する。
その上からダボTを着る。『Fight like a Girl』とプリントされたこの服は、古着屋で見つけて以来気に入っていて、夏用部屋着として重宝している。ちなみに、税込み300円。
トランクスは見た目ではわからないけれど、たぶん時期的に汚してしまっている。
ーー返したくはないな。
そう思いつつも、来ていたジャージと一緒にまとめて洗面所の洗濯物カゴに放り込む。
捨てるにしても洗ってからにしようと思いなおしたのだ。
私はキッチンに戻って、乾してある食器を棚に戻す。
ーーお昼はそうめんかな。
私は冷蔵庫からそうめんを3把取り出して作業台の上に置く。
鍋に水を張って火にかける。
ーーまだ、ミョウガ生えてるかな。
勝手口から家を出て、敷地の隅に向かう。
ショウガとササの子供みたいなミョウガの葉っぱをかき分けて、地面を探る。
すでに花が咲いてしまって、食べられる部分が柔らかくなっているものばかりだ。
私はその中でもまだそこそこ食べられそうなものと、小指くらいのまだ花が咲いてないミョウガをつまんでキッチンに戻る。
とってきたミョウガと、冷蔵庫にあったネギをシンクで洗ってまな板にあげる。
ーーまだお湯は沸いてない。
私はミョウガとネギを刻んでタッパーに移す。醤油と酢、それから砂糖を耐熱皿に入れてレンジにかける。すぐに沸騰するので取り出して、さっきのタッパーのミョウガとネギにかける。タッパーは冷蔵庫に入れて、食べるまで冷やしておく。
タッパーの代わりに、冷蔵庫から卵と顆粒出汁を取り出す。
ーー卵焼きは出汁巻きが好きなのだ。まあ、お手軽レシピだけど。
卵を溶いて、水と顆粒出汁、塩を少し入れてもう一度混ぜる。
卵焼き器をシンク下の棚から取り出して火にかける。サラダ油をしいて、卵液を入れる。すぐに卵がぷくぷくとしてくるので、卵を寄せる。
それから一度ひっくり返して、残りの卵液を入れる。それから2、3回ひっくり返して、皿にのせる。
ーーうまく巻けた。
そうこうしているうちに、お湯が沸く。
ボウルとザルを取り出して、シンクの中に置く。
そうめんの帯をとって、3把まとめて鍋に入れてすぐに菜箸で混ぜる。
それから90秒、頭の中で数える。
終わったら、火を止めて、シンクのザルにひっくり返す。水道の水を最大で出して流す。
そうめんが十分冷えてくるまで洗って、皿に移す。
そうめんの上には製氷皿から氷をいくつかとって、上に散らす。
「……そういえば、飲み物は。」
私は独りごちつつ、そうめんとは反対側の手で麦茶のピッチャーを冷蔵庫から取り出して食卓に持っていく。
ちょうど、陽太が帰ってきたようで玄関のドアが開く音がする。
その足音を聞きながら、私は出汁巻きと冷蔵庫の薬味、それから箸をとって、食卓の端に置く。
「ただいまー。」
「おかえり。お昼勝手にそうめんにしちゃった。」
陽太は、キッチンまで入ってきて、水道で手を洗いつつ、水道水でのどを潤していた。
私は食器棚からお椀を出す。
「薬味こってるね。ミョウガまだあったんだ。」
「ほとんど終わりかけかな。柔らかくなってたから、そのままはおいしくないかと思って。」
陽太は手を洗い終わると、冷蔵庫からめんつゆを取り出して、私から食器棚を受け取って、水道水で割る。
私はつけ汁を陽太に任せて、麦茶用のグラスをもって、食卓につく。
麦茶を注いでいると陽太もすぐにきた。
「準備ありがと。じゃあ、いただきます。」
「こちらこそ、いただきます。」
準備をしたのは私だけど、完全に丹後家のものをもらっている。
私たちはズルズルとそうめんをすする。
「部活は順調?」
「まあね。明日で最後の練習。」
陽太は後輩の段級審査のリミットを告げる。
なんだか少し硬い返事だ。
「それよりさ、この薬味おいしいね。尤どうやって作ったの?」
「醤油とかをネギとミョウガにかけただけだよ。」
「そんな簡単なんだ。」
「うん、そうめんもそろそろ飽きてきたか思って、味変いるかなって。」
丹後家のそうめんはちゃんと揖保乃糸でおいしい。けれどお中元で何個も届くので飽きてくると陽太は時々愚痴をいう。
「もう二箱目だしね。けど、一箱目よりも細い奴だからおいしいね。」
「え、そうなの?」
「うん。黒い帯のが細いらしいよ。そうめんって、細いほどおいしいから。」
「へぇ、知らなかった。でもうちで買う激安よりはおいしいからなー。」
わが家は百均でしか見ない激安そうめんしか買わない。束にもなっていない奴で、だいたい二人で二食分になる。
私は出汁巻きに箸を伸ばす。
「あ、切ってなかったや。」
「大丈夫、大丈夫。」
陽太はそう言いながら出汁巻きに箸を伸ばして、箸で四等分にする。
「ありがと。」
私は、一切れとって口に入れる。
「そういやさ、家帰ったの?」
陽太は出汁巻きを頬張りながら言った。
「うん。服とか下着とか欲しくて、あと、お金も」
「……お母さんには会えた?」
陽太は言いにくそうにそう言う。
別に、今回の家出は親子喧嘩じゃないのだから、別に言いにくいことなんてない。
「いつも通り、昼寝してた。」
「話はしなかったの?」
「うん。疲れてるだろうし、……それに、」
私はそうめんをすすって、言葉を一旦切る。
陽太はつけ汁に薬味を追加している。
「それに、気まずくて。……ちょっとだけだね。」
私は「ちょっと」というところでジェスチャーをしておどける。
けれど、陽太は私の方を見てくれなかった。リモコンを操作してテレビの電源をつける。
「……まあ、僕も人のこと言えないけどね。」
ーーそれはそう思う。
とは言えずに私は話を変える。
「明日さ、どっかいかない?」
「何それ。」
陽太は私に向き直る。
私も少し居住まいを正す。
ーーちょっと戸惑う。
「いや、ほらさ、夏休みだし、どっか行きたいなって。ほら、陽太も練習、午前だけでしょ?」
「まあそうだね。」
「でしょ。ならさ、どっか行こうよ!やっぱさ夏だしさ。」
少し机に身を乗り出す。夏を強調しているけど、夏に夏らしい遊びなんてしたことない。でも、陽太とどこかに行って遊んで見たくなったのだ。ーーそのために通帳も持ってきたのだ。
陽太もあまり表情は変わってないけれど乗ってくると思う。
「いいよ。でも、どっかって?」
「どっかはどっかだよ。」
「そっか、どっかか。」
「うん、どっかだよ!海とか、山とか、遊園地とか、水族館とか。」
私は調子に乗っていろんな近くの観光地を挙げる。
陽太は苦笑しつつも、楽しそうだ。
「全部は無理だよ。」
「うん。行けるとこだけでいい!私行ってみたいとこいっぱいあるんだ~。」
陽太はそんな私を見て噴き出す。
「ふふ、楽しそうだね。」
「うん。とっても。」
私もつられて笑ってしまう。
「だって、わたし、そういうことしたことないんだもん。友達と遠出したり、家族で旅行行ったり。あー、旅行!お泊りとか無理かな?」
「いやー、それは難しいんじゃ……。」
「やっぱ、そうだよね。温泉旅館とか、泊まってみたかったな~。あ、でも、日帰り温泉とかなら……。高いディナーとかも行ってみないな~。」
私は矢継ぎ早にそんなことを言いつつスマホで、行ってみたいところを検索する。
行きたいところややりたいことが止めどなくあふれてきて話がまとまらない。
陽太は私の提案に茶々を入れながら、昼食を再開する。そんな彼を見て私も残りのそうめんに戻ろうとしたところで、陽太はこんなことを聞いてきた。
「尤はさ。ほんとに死ぬ気なんだね。」
その表情はとっても落ち着いているようでいて、怯えているようでもあった。
私のせいで彼をこうしてしまっている。そんなことは分かっている。
けれど、決意を鈍らせる気はない。
「もちろん。」
私は短く答えた。