3話:「1週間、僕に頂戴」、彼の言葉は魔法だった。
昨日は、ほとんど介護されるように、風呂に入り、ご飯を食べさせられた。
一言、「ひとりでいたくない」と伝えたら、陽太は泊まることを許してくれた。その一言以外、昨日私は話すことができなかった。
私は陽太のベッドを借りて、陽太は彼の父親の部屋で寝た。
彼の父親は今日もかえって来ていない。
私は結局。一睡もできず、寝付けたのは日が差してきたころだった。
私がノロノロと夕飯を食べている間に、母に連絡もしてくれていた。
母は、
「ま~た家出~?悪いわね。よろしく~。」
と陽気に返しているのが、電話越しに漏れ聞こえていた。
出勤時間はとうに過ぎていたので、お店にいたのだろう。
陽太はいつも通り愛想のよさを発揮して、しばらく母と話していた。
夜中、陽太は何度か私を確認しに来た。声を掛けるわけでもなく、ただ静かにドアを開けて、私が布団の中にいることを確認するばかりだった。
彼もほとんど寝ていないのかもしれない。
本当に申し訳ないと思う。
私の目が覚める前に家を出たようで、リビングのローテーブルの上に書置きがあった。
『部活に行ってきます。朝ごはんは作っておきました。フレンチトーストです。昼には帰ります。』
冷蔵庫を見ると、きれいに盛り付けられたフレンチトーストが入れてあった。
いつの間に仕込みをしたのだろう。
もう昼過ぎで全然朝ごはんではないけれど、せっかく作ってもらったものなので口に入れる。
「おいしい。」
陽太は、教科書に載ってそうな料理がうまい。
涙が頬を伝う。
こんなにおいしいのに、なんでこんなにつらいんだろう。
陽太はこんなに優しいし、ご飯はこんなにおいしいのに、全然つらい。
何とか涙を拭いて、皿を洗って干す。
歯を磨こうと洗面所に行くと、昨日来ていたワンピースと下着が、乾燥まで終えて、畳んであった。
昨日のことが軽くフラシュバックして、うろたえる。
自分は今、Tシャツ一枚にトランクスという、休日のおじさんみたいな恰好をしている。下着は新品で、シャツは陽太の寝巻だ。
私は一瞬昨日の服に着替えようかと手を伸ばすけれど、隣に置いてあった、高校指定ジャージの短パンをはく。
「捨てよう。」
いくら、物に悪意がないとは言っても、耐え難い。
ブラは少し形が崩れてしまったし、ショーツは血と体液で汚れてしまっている。
ワンピースも二度と袖を通す気にはなれない。
ーー陽太には嫌なものを洗わさせてしまったな。
私はキッチンまで戻って、それらの服を燃えるゴミに突っ込む。
すると、吐き気を催してきて、トイレに駆け込む。
「ぉおぅ、うぇ。」
何とか間に合って、便器内に嘔吐する。
さっき食べたフレンチトーストが全部出たな。
「うぇ、ぅむ。」
もう一回はく。
フレンチトーストも出終わって、濁った胃液が出てきた。
のどが焼ける。
口がすっぱい。
トイレを流して、洗面所で口をゆすぐ。
タオルで口元をぬぐって鏡を見る。
ああ、こんな時でも私はかわいいなぁ。
寝起きで、男物のダル着を着てて、嘔吐直後で、それに。
「犯されたばっかり。」
それでも私は美しい。
均整の取れた顔に、細い顎、切れ長の目に、筋の通った鼻。
髪の毛がぼさぼさだけど全然悪くない。
なのに。
なのに、自分が、不潔で、不衛生で、汚らしくて、穢らわしい。
そんなものに思えて、鳥肌が立つ。
また、涙があふれだす。
昨日枯れるほど泣いたというのに、涙はまだ止まらない。
なにが悲しくて、なにが辛くて、なにに怒っていて、なにに後悔していて、なんで泣いているのか、もう、わからない。
どうせ私は、私のことが可哀想なだけなんだろう。
元カレを馬鹿で努力不足と馬鹿にしていたくせに、そんな奴に人生をめちゃくちゃにされたことが可哀想なのだ。
「最低。」
私は手近にあったスポーツタオルをとって、輪になるようにドアノブに結び付ける。それから、ドアに背を向けるようにして、跪きいてタオルを首にかけて、ゆっくり体重をかける。
するとすぐに膝が滑って床にあらまから突っ込む。
もう一度タオルを結びなおして、同じことをする。
すると今回はうまくいったようで、少しずつ目の前がぼんやり白くなって、少しずつ意識が遠のいていく。
ああ、これで消えられる。
***
「おい、尤!」
私は突然床に投げ出されて、意識を戻される。
「ごふっ、っあぅっ。」
私はせき込んで全然上を向くことができない。
「何やってんだよ。もう。」
陽太が私の背中をさすりながら、焦った声を出す。
やっとのことで、陽太の方を向くと、見たこともないような青い顔をしていた。
ごめん。
直後、私の首筋を一度撫でて、顔を両手で包む。
「ひ、なた」
私は何とか声を出して、陽太の名前を呼ぶ。
彼は、泣きそうな表情を見せた後、私を優しく抱き占める。
私の体はずいぶん冷えているようで、陽太はあったかくて気持ちいい
「よかった。」
優しい彼の言葉に、また涙が流れ出して、のどが震える。
「ごめっ、ごめん、ね」
ひどくしゃがれた声しか出ない。
彼は、私の背中をそっと撫でた。
「大丈夫、大丈夫だから。尤は悪くない。尤は、悪くないよ。」
「ごめん。」
次はちゃんと声が出た。少しかすれているけど、私の声だ
彼はそれからもしばらく私の体を抱きながら、「大丈夫、大丈夫」と背中をさすり続けた。
……それから、どれくらいたったのか。
私の意識がしっかりしてきて、体が熱くなるまで、抱きしめられていた。
「体は、変なところ無い?」
陽太は私をやっと離した。
それから、私の体中をべたべた触って確かめる。
私も手や腕を動かす。
なんとなく鈍い気がするが、ほぼいつも通りだ。
陽太は立ち上がって、笑顔で手を差し伸べる。
……たぶん、泣いたことが少し恥ずかしいんだろうな。
「ありがとう。」
私は、素直に手を取って、危なげなく立ち上がる。
彼は静かにドアからタオルをとって洗濯籠に投げ入れる。
まるで、あたしからそれを遠ざけたいようだった。
……もう特に、焦って死のうなんて思わないのに。
そう思ったものの、陽太の気持ちも理解できる。
陽太に手を引かれてリビングまで戻る。
時計を見ると起きてからほとんど時間がたっていない。
意識を失っていたのもわずかだったのだろう。
「ごめんね。」
私は、もう一度謝る。
「……尤が謝ることなんてないよ。」
陽太はそう言って、私をソファに座らせる。
横に座ってくれるかと思ったけれど、陽太はキッチンに向かった。
私は所在無げに首筋を撫でる。喉の下あたりに擦ったような傷ができている。
「これ、のみな」
陽太はグラスで水を飲みながら、もう一つのグラスを私にさしだす。
「ありがと。」
私はありがたく受け取って、両手で持って水を飲む。
軽くだけれど、手が震えてうまくつかめない。
「ほら。」
陽太は自分のグラスをローテーブルに置いて、私のグラスを支えてくれる。
やや硬いものを飲み込むように、ゆっくりと水を飲む。
「ごはっ、ふっ、ははぅ。」
3口飲んだところでむせる。
陽太はグラスを私から取り去って、自分のグラスの隣に置く。
やっと陽太は私の隣に腰を下ろす。
陽太の家でくつろぐいつもの並びだ。
せき込んでいる間、背中をさすってくれる。
動かす手が妙にこわばっている。
「ーー救急者、よぼっか。」
「やめて!」
私は大きな声をあげながら、おもむろに立ち上がる。
「ほら、体、ちゃんと動いてるよ。大丈夫。」
そのまま体を動かして言い訳をする。
「全然、変なとことかないし、手は、ちょっと、びっくりしているだけで。」
陽太はそんな私を心配そうに見つめる。
「でもさ、何かこの後障害残ったりとか。」
「大丈夫だって、ほら、ちゃんと水も飲めるし。」
私はテーブルに置いておいてあった水をもって飲む。
さっきよりもうまく飲めたけれど、口の端から水がこぼれる。
「ほら、大丈夫だったでしょ。」
そう言って、ローテーブルに空いたグラスを置こうとする。でも、水を飲み切ったと思って気が緩んだ。
ガシャン。
手から滑り落ちたグラスが、机の角にあったって割れる。
「あれ、なんで、。」
置けたと思ったのに。
私は割れたガラスを拾おうとしゃがんで破片に手を伸ばす。
「こら、やめなって。」
陽太は私の腕を持って、制動する。
「なんで、なんで私はこうなんだろうね。」
たまっていた言葉が、ぽつぽつと溢れ出す。
「なにも、うまくいかない。」
「ほんとに、何も。」
元カレには犯されるし、死のうと思っても死ねない。
それを取り繕うのもうまくいかない。
「尤、。」
陽太はガラスの破片の上に座り込んだ私を立ち上がらせようとする。
「私はさ、いらないんだよ。……お父さんは影も形もないし、母さんは、私がいなかったらこんなに働かなくてよかった。」
あんな、体壊すまで飲むような仕事し続けなくてよかった。
「でもさ、でも、私は進学したいし、いい生活ができるくらいお金稼げる仕事につきたいし。それに、それにそうなって、ちゃんとした人だって、あんな家から生まれたけど、あの子はちゃんとしてるって、そう思われるようにならないといけなくて……、」
陽太はどんな顔をしているのだろうか。
「でもやっぱりさ、そうやって生きるためには、それなりの投資が必要で、奨学金を借りたりしても、やっぱりお母さんの助けが必要で、大学までは、無理させることになる。」
「そんなね。そんな風に思ってっても、なんで、なんで私は、私だけはただ大学に入るためだけのために、こんなに、こんなに苦労する必要があるのかって腹がたつんだよ。」
「ねぇ、なんで、なんで私は大学に入るために、こんなに申し訳ないととか、そんな風に負い目を感じる必要があるのかな。」
私は、自分が勝手に盛り上がっているのに気付くけれど、全然止められなくなる。
陽太は何も言わない。ーーやっぱり彼の顔を見る勇気はない。
「でもさ、でもそんな不安とか負い目があっても、私だって、普通に学校生活もしたいし、みんなみたいに部活だってしたって思うし、……恋だってしたい。」
「勉強はみんなと同じようにできているけど、部活に入れなかった。ほらさ、うちの学校、進学校のくせに部活も盛んでしょ。だから、なんの部活にも入らない変な奴だって思われているじゃないかいつも不安なんだよ。実際、1年の時の付き合ってた何人かはそう思ってたんだと思うよ。」
「だからさ、私の、私の生活を知らない人となら、それなら、楽しい恋ができるかなって、そう、思ったんだよ。」
私の目から大粒の涙が垂れる。
「……でも、わたしが悪かったんだよ。間違ってたみたい。」
「私はね。あの男を馬鹿にしてたわけじゃないんだよ。」
「確かに、親に甘えてるなぁ、とは思ってたし、実際、勉強とかに意味を感じてないんだろうなって、おもってた。けどさ、けど、別にそれを馬鹿にして、アイツのことを嫌いになったわけじゃないんだよ。」
陽太は、私の涙を手でぬぐう。
「あたしはね。……羨ましかったんだよ。」
「勉強しなくても大学に行けて、親が学費や生活費どころか、車まで融通してくれる。私なんてさ、定期すら買ってもらえないんだよ。」
「それに、私は何かしてなきゃ生きてられないの。大学進学のために勉強をしなきゃいけない。かといって、したくないからと言って、勉強をしなかったら、働くしかなくなる。」
「何もしてなくても許されることなんてないんだよ。何かしてないと、生きている資格がない。」
私は、短パンの裾を強く握る。
「自分と、アイツの状況を比べると、羨ましくて、妬ましくて、どんどん嫌いになったの。」
「だからね。私は馬鹿にしてたわけじゃないんだよ。」
「ねえ、陽太、陽太はどう思う?私が悪いのかな。私は、犯されて当然なのかな。」
陽太は、私の手を上から包む。
「そんな訳ない。そんな訳あるはずがない、……尤は何も悪くない。」
私は、陽太の顔をやっと見れる。
「私は、私はやっぱり、死にたいよ。」
陽太は、一度眼を見開き、そのあと目を細める。
「多分、これからも、いいことなんてないんだよ。人生ずっと坂を転がり落ちてく感じでさ。どんどん、どんどんつらいことが増えて、楽しいことがなくなって、いいことがあったとしても、それは悪いことの前ぶりみたいな感じで……。」
「もう、死にたい。頑張ってもこんな結果になるなら、早く終わりにしたい。」
「ーーねえ、陽太、私、死んでもいいかな。」
私は、陽太の目を見つめてそういう。
「……っ、……ダメだよ。」
陽太は、のどを震わせながらそう言った。
「いいじゃん。もう。疲れっちゃた。」
「私はさ、陽太みたいに、何か打ち込んでることもないし、応援してくれる人もいない。」
「私ね。陽太の部活の試合、実は見入ったことあるんだよ。」
「知ってる。去年の冬季大会でしょ。」
「そう、1年生のくせに先輩に交じってAチーム入ってさ、ちゃんと、的に中ってて、そしたら他の部員に応援してもらえててさ。最後には拍手ももらってて。表彰もされててさ。」
「部長にはならなかったけど、後輩指導も頑張っててさ、陽太が後輩に慕われてるの学校にいたらよくわかるよ。」
「それがさ、私には自分のことみたいにうれしくて、ああ、努力ってするもんだなって思ったし、私も頑張ろうって、いつも思ってたんだよ。」
「でももう、無理なんだ。今はそれすら、遠い。どうしたら自分がそうなれるのかわからなくて、わからなくって、哀しいの。」
陽太は泣きそうな顔になってしまう。
ーーああ、私は陽太を傷つけてるんだろうな。
陽太の孤独も、陽太の苦しみもわかってるはずなのに。
母親がいなくて父親が疎遠で、部活で優秀過ぎて疎まれてて、後輩の前では背筋を伸ばしていて、助けを求める相手のいない彼の孤独をわかっているはずなのに。
私はそう思いながらも、続けてしまう。
「でも、もうダメだなんだ。ーー死にたい。」
私が言い切ると、陽太は一度唾をのんで口を開いた。
私は、陽太を傷つけながら、後悔しながら死ぬだと思った。
もう彼は私の支えになってくれないし、彼は私の相手にしてくれない。
そう思って、彼の言葉を待った。
「一週間、……一週間、僕に頂戴。そのあとはさ、一緒に死のうよ。」
彼はこの言葉を言ったとき、恐怖か、緊張か、唇が震えて、今にも消えそうな表情をしていた。
でもその怯えながらも私を思って出たこの言葉は、私の気持ちを大きく変えた。
一週間、僕に頂戴、これが私にとっての魔法だった。
この生きている苦しみがたった一週間で終わると思うとなぜか晴れやかな気持ちになった。
ゴールの見えない人生に、期限ができるだけで、こんなに変わると思わなかった。
ーーなにより、陽太のやさしさが私を勇気づけた。
「一緒に死のうよ。……尤一人じゃさみしいでしょ。」
「でもさ、後輩たちに悪いから、段級審査まではまって。それに、尤に整理することとか、思い残すことあるでしょ。そしたら一緒に死のうよ。」
そんなことをとっても真面目を言いながら、私を静かに抱きしめた。
陽太の暖かさに心がほどける。
一緒に死のう、そんな無茶苦茶なことを言いながらも、彼は後輩のことを気にしている。
ーーああ、陽太は優しいなぁ。
陽太あったかさにあてられてか、不謹慎で仄暗い話をしているのに、私は、なんだかおかしくなってきた。
私は陽太を死なせてはならないと決意する。これは私の問題だ。
陽太を傷つけるどころか、巻き込んでいる。
それは私の本意じゃない。
「陽太。私は一人で行く、一緒になんか死なない。」
私は陽太の提案をきっぱり拒否した。でも、私から出る言葉はさっきまでと打って変わって、湿っぽさや棘がなくなっている。
まあ、いくらか泣き声ではあるけど。
「でも、この一週間は陽太にあげる。約束する。」
急に、力強く話し始めた私に陽太は面食らった顔をした。
「いや、僕も、」
「だめ、これは私の問題、私の絶望に乗っからないで、私は私一人で終わる。」
私は陽太の言葉をさえぎって、宣言する。
「だから、最後の一週間付き合ってよ。私の最後を彩って。」
私の手に置かれていた陽太の手を握り返す。
それから、何かを言おうとする陽太の口を私の唇で塞いだ。
初めてのキスだった。
次回更新は2025/3/24 0:00予定です。
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