1話:夕飯の味噌汁を飲んでる時が1番幸せだった。
そろそろ彼の英雄譚を語る時がやってきた。
こんな大仰な文句を聞いたら、「僕はそんなかっこいいものでは無いよ……」と、「彼」は少しはにかんで嬉しそうにしながらも反論するに違いない。でも、その後冷静になって、自分のやったことは正しくなかったと少し後悔するだろう。「彼」はそんな素直さと優しさを持った男の子だった。
そんな風に「彼」のことを思い出しながら、買ってきたノートに私は向かう。
「彼」の死から4年たって、私と彼の起こした「事件」も風化が始まった。
そればかりか、私自信の彼の記憶もおぼろげになりつつある。
「彼」が私を守ってくれたおかげで、私は2年遅れて大学生になれたし、彼の残してくれた子供はもう3歳になった。
だけれど、私の幸せな生活が続くのに相反して、彼の声や笑った顔がどんどん遠ざかっているのを実感する。
だから私は「彼の英雄譚」を書き記しておこうと決意した。
***
まずは私たちの関係から記す必要があるだろう。
私、稲葉尤と彼、丹後陽太は家が近所の幼馴染だった。
私は母親だけの、彼は父親だけのシングル家庭で、親同士は年の離れた幼馴染だった。
彼の父親は私の母親を幼いころから知っている妹のように感じているようで、私が彼の家に出入りするのを黙認してくれていた。おかげで、私と彼が支えあって生きる土台を作ってくれていたと思う。
ただ、どちらも自分の親と折り合いが悪かった。
私は、思春期をこじらせて、お水で働く母親を軽蔑していたし、高卒の母親は大学進学を目指す私を理解してくれないと思っていた。
彼の父親は仕事ばかりでほとんど家に帰って来なかったし、彼も父親と積極的にコミュニケーションが取ろうとしていなかった。
けれど、私たちはお互いの親とはうまくいっていて、一人っ子同士、お互いの親との関係をとり持っていた。
例えば、私が高卒で働ける商業科ではなく、大学進学を目指す普通科に進学しようとしたときは随分助けてくれた。国立大学の学費や奨学金制度まで調べてくれて、母親にも分かるように説明してくれた。
私はお返しに、彼が高校の弓道部に入った時、自分のお小遣いだけでは胴着や道具の費用が捻出できなかった時、アシストした。もっとも、彼の家は貧乏ではなかったのですぐにお金は出て来たけれど。
また、親の不在をいいことに良く一緒に夕飯を食べたりもした。私と彼は、男女の関係ではなかったけれど、一人寂しくご飯を食べるよりはいいかと思っていた。正直なところ、陽太の家はそこそこ余裕があったので、助けてもらっていたんだと思う。だって、陽太の家でご飯を食べることが多かったし、私の家でなにか食べるときは陽太が何かしら持ってきてくれた。
不思議なもので、彼には彼女が、私には彼氏が別にいた時期もあった。けれど、その間も週に数回は、どちらかの家で、夕飯を一緒に食べることを続けていた。
「そういやさ、尤はさ、彼氏とは別れたの?」
あの日の前日も彼は私の名前を呼んで、そんなことを聞いて来た。
まだ8月の上旬で夏休み中だったけど、いつも通り私は彼の家で夕飯を食べていた。
「あの大学生の彼氏とはもう別れたつもり。」
私は食卓からテレビのチャンネルを変えながら答えた。彼の家で夕飯を食べる時は、リビングのテレビをいつも点けていた。
大学生の彼氏とは2か月くらい前に付き合って、1週間くらい前に分かれた。
けれど、向こうはまだ未練があるのか連絡してくる。
「何それ。」
「別れたつもりだけど、明日の一回だけあってくる。」
彼は「やめときなよ」と言って、味噌汁を飲んだ。
どういう意図かわからなかったので、何か言い訳をしようと思って口を開いたけれど、言葉が出てこなかった。
私はただ、別れて一週間もたつのにどんどん連絡を送ってくる元カレが鬱陶しいだけなのだ。
「迎えに行くよ。」
味噌汁に箸を入れたままそう言った。
「ありがと。」
手短に答えて、「場所と時間は終わったら連絡する。」と付け加えた。
「じゃあ、駅前のサイゼリヤで宿題してるよ。」
私は彼のその答えを聞いたあと、意図的に話を変える。
「そういや、部活はどうなの?」
彼は弓道部の2年生で、後輩指導の中核的な役割をしていると言っていた。お盆前には1年生の段級審査があって、そこで合格させないと試合に出せないからと頑張っていた。
噂では、弓道の腕前もなかなかだと聞いている。
でも、自分の練習と後輩の指導と両方をやるのは重荷になってるように思う。
「まあ、何とか週末の審査には間に合うかな。あと1週間なくて焦ってるけど、」
やっぱり、ストレスを感じているようで、歯切れの悪い返答だ。
「みんな手伝ってくれてる?」
後輩指導が一部の部員に偏っていて不満が出てるらしい。
特に2年生になって塾に通い始めた女子部員を中心に、後輩の指導や準備・片付けをしなくなりつつあり、また、部長や顧問が取り締まらないので、責任感の強い部員にしわ寄せが来ているみたいだ。
「やっと、やばい事に気づいてくれたかな。1年生が道場内で練習する時間も増やせたし。」
「それは良かったね。自分の練習は?」
「成績は維持できてるし大丈夫。今回の審査に自分は出ないしね。」
彼は既に初段をとっているので、今回は受けないと以前言っていたのを思い出した。
「じゃあその日は休み?」
「いや、応援だけは行って来ようかな。」
「そう、お弁当作る?」
彼が試合や審査の日、私はいつもお弁当を作っていた。
特に深い意味はなかったけれど、みんながお弁当を作ってもらえているのに、一人コンビニのパンを食べていたら可哀想かと思っていたのだ。
「まあ、自分が出るわけじゃないし、近くのマクドナルドに行ったりするからいいよ。審査の応援ってなんもすることないから暇なんだ。」
「そう、欲しくなったら言ってね。」
その晩の具体的なメニューは覚えてない。
けれど、私が翌日、元彼に会いに行くことと、彼の部活がそこそこ上手くいっていないことを話したのを覚えている。
その後は多分、たわいもない話をして、夜の9時には自分の家に帰ったんだと思う。
あの頃の私は親の愛を感じることは出来ていなかったし、彼もそうだったんだと思う。
けれど、付かず離れず、傍に彼がいて、安心して帰る場所があった。
それをぼんやりと、暖かく感じていて、普通の家庭に生まれることは出来なかったけれど、幸せな日常を送れていたんだと、今は思う。
そして、来て欲しくない明日がやってきた。