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蛯名武五郎という人

作者: 海庵

 折角頂いた感想への返信も書かずに何かとは思うのだが、小文を書く。


 蛯名武五郎という騎手についてだ。彼は大正生まれで戦前から戦後にかけて活躍した騎手だ。リーディングジョッキーにもなり、ダービーを二勝しているように当時を代表する騎手の一人であり、競馬の歴史

に触れるならば名前を聞いた事のある人も多いだろう。

 ただ、当時の競馬の記録は残っていても当時の記憶というものはほとんど残されていない。現在のように記憶媒体もなく、様々の人が今のように記憶を残せる時代では無かった。蛯名武五郎の事を衆目に残るように書き残した人と言えば大川慶次郎や野平祐二のような僅かな競馬人だけだが、それも二十年、三十年前の話だ。

 彼らが一致して蛯名を評じて言う事は勝負に対する気迫の凄まじさだ。普段は快活で物事に拘らない人物であったが、競馬になると途端にどんな事をしてでも勝つ!という気迫が隣の枠からでも感じられて気負わされるほどであったという。

 蛯名について書き残している野平は、蛯名とは違いスマートな騎手であったために、自分もあれこれと知恵を絞り勝ちたいと必死になったが、あの気迫には到達出来なかったと憧れをもって回想している。


 もう一人、蛯名について記憶を残した人物の大川だが、私の記憶する限りではやはりメイジヒカリとセイユウについてだろう。

 メイジヒカリは顕彰馬にも選ばれているように(大川が熱弁を振るったという逸話もある)、春の皐月賞とダービーこそ怪我で棒に振ったものの菊花賞、翌年の天皇賞、そして第一回中山グランプリ(現・有馬記念)で一歳上のダイナナホウシユウ(皐月賞、菊花賞、天皇賞)、一歳下の三強ハクチカラ(ダービー、天皇賞、有馬記念、顕彰馬)、キタノオー(菊花賞、天皇賞)、ヘキラク(皐月賞、安田賞)を相手に圧勝した名馬だ。

 このメイジヒカリを蛯名は最も強いと確信していたようで、後に戦後初の三冠馬となるシンザンがダービーを勝ったころ、管理していた武田文吾に同じく二冠馬であり名声の高かったコダマとの評価の差を聞かれ、「コダマは剃刀の切れ味、シンザンは鉈の切れ味」とコダマの方を高く評価した際に、それを耳に挟んだ蛯名は「こっち(メイジヒカリ)は日本刀の切れ味」とメイジヒカリの方が強いとの意地を崩さなかった。無敗で皐月賞、ダービーの二冠を取り、運航を始めたばかりの新幹線の名に肖った命名でもあり、少年誌に特集を組まれ、当時圧倒的な人気を誇ったコダマよりも強いと言い切るのはメイジヒカリに対する自負と負けん気の強さだろう。

 ちなみにシンザンは鉈の切れ味というのは「あれは見る目が無かった。シンザンは剃刀の切れ味を持つ鉈だった」と後年武田が言っているように当時は誰もがコダマを高く評価しての言であったと認識していた。


 また、アラブの怪物として顕彰馬に選ばれているセイユウとの逸話が残る。アラブ種、日本では基本的にアングロアラブの事だが、アラブはサラブレッドの源流になった種の一つではあるが、競走能力では劣るものの耐久力に優れるため軍馬改良の名目で開催されていた日本競馬においても戦後しばらくは盛んであった。

 この中でセイユウはアラブ競走では無敵を誇り、サラブレッド競走に挑戦の場を移して七夕賞、福島記念といった重賞で勝利を治めると菊花賞トライアルのセントライト記念で菊花賞を勝つラプソデーを下すなどアラブとは思えない強さを見せつけた。アラブであるセイユウにはセントライト記念を勝ったと雖も菊花賞には出走出来ないため、一歳上の三強、ハクチカラ、キタノオー、ヘキラクなどが出走するオールカマー(その名通り出走条件の緩い初秋の名レースである)に挑戦する事となった。

 そして、オールカマーでは快調に逃げるセイユウに対して、二番人気のヘキラクと三番人気のハクチカラが中団から、一番人気のキタノオーが後方に控える型でレースは進んだ。三コーナーを迎えようとするところでセイユウに七夕賞などで騎乗経験のあった蛯名はヘキラクの鞍上からハクチカラの保田隆芳に対して


「おい、あのアラブはバケモンだ。行くぞ!」


 と、声を掛けたが蛯名の勝負師っぷり、蛯名の怖さを良く知る保田は正にセイユウを捕まえに行きたい自分の内心を利用した蛯名の一流のブラフと判断してグッと堪えた。しかし、その瞬間


「バカヤロー! ダービー馬がアラブに負けて良いと思ってんのかよ!」


 蛯名が怒号を上げてヘキラクに鞭を入れ、一気にハクチカラを交わしてセイユウを捕まえに行った。ヘキラク、ハクチカラ、キタノオーの実力は伯仲する中で真っ先に逃げる馬を捕まえに行くのは三頭の事だけを考えるなら不利な事だ。それを見た保田はあの蛯名が不利を承知で捕まえに行くほどあのアラブは化け物なのか!と僅かに蛯名に遅れてハクチカラに鞭を入れる。結果、ヘキラクとハクチカラに二頭掛かりで競られたセイユウは大金星を逃し、ヘキラクとハクチカラは先に仕掛けた分、後方のキタノオーに漁夫の利をさらわれる形となった。しかし、皐月賞馬ヘキラク、ダービー馬ハクチカラに競られてなおも抵抗して粘るセイユウに大川はもし、蛯名が負けるのを恐れて安全策を取り、不利を承知で勝つために仕掛けなければ全く違った結果になったかも知れないと述懐している。


 現在、騎手にそういう勝負師としての気迫、凄みを持つ人間はいないだろう。少なくとも、自分は最早ロートルと言っていい武豊からしか感じない。競馬に対して厳しい人間はいるが、自分を、勝利の為に、自分の100を120にしてでも勝つんだ! というものではない。あくまでも自分にも、他人にも、馬にも100を持つなら100の力を出せるように妥協せずに追い求める姿だ。

 そういった姿勢は素晴らしいが、勝つ事に対する恐ろしさは感じない。正しさではないが、勝負事には蛯名武五郎のような勝利への執念、気迫というものを持つ人間が現れる事も勝負事の面白さではないだろうか。

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