煙湯
ひとりで温泉に向かうことはあっても、そこで見ず知らずの人間と会話を交わすことはまず無い。それがその時だけは違った。
「どちらからいらしたんですか?」
湯煙の向こう側から姿を現したその男は、私より少し年配に思われた。露天でもないのに、風がどこからか吹いてきて、気が付いた時に男は私のすぐ隣にいた。
「東京から来ました。」
「そうですか、ご旅行で?」
ありきたりのやり取りだ。私はそうだと答え、この三連休で長野を周っていると伝えた。
「晩秋の一人旅か…同じですね。いや…。」
正確には同じではない、と独り言を呟く。
私は、それに対する質問はせず、この温泉のことを尋ねた。
「静かで、いい温泉でしょう。県外の方はほとんど知らないと思いますけど、何百年も続く歴史ある湯なんですよ。」
たしかに私も長野に来るまでこの温泉のことは知らなかった。長野新幹線の上田駅に近いホテルに宿を取ったものの、部屋のシャワーでは味気ないと思い、スマホの観光情報で探し当ててやって来た。
「そこから、どうやってここまで?」
レンタカーを借りていたので、それで、と答えた。男は二度、頷いて言った。
「ほとんどの方は車で来ますね。というか、車じゃないと来るのが難しい。」
では貴方も、と聞くと、いや私は…となぜか言葉を濁した。
先ほど脱衣所で時計を見た時に、既に午後十時をまわっていたはずだ。車でないなら、どうやってここに来たのだろう?
「送迎バスか何かが出ているんですか?」
男は笑って答えた。そんなものは、ありませんよ…。
そこで会話が途切れた。
「お仕事は何をされているんです?」
唐突に男が、再び口を開いた。浴場内を見渡すと他に誰もいない。何となく言い逃れが出来ない気がして、私は嘘のない答えを返した。
「印刷会社に勤めています。」
男はその答えには反応しなかった。
「印刷会社と言っても、最近はウェブの仕事…あ、ホームページの制作とか、そっちの方がメインになっていますね。紙の印刷物は、やっぱり減っています、今は…。」
あまり関心が無かったのか、男はそうですか、と言ったきり再び会話が途切れる。
「さっき正確には一人旅ではない、とおっしゃいましたけど、差し支えなければ、どのような…。」
あまり踏み込むべきではないと思ったが、上滑りの会話だと言葉が続かないことも感じていた。気まずければ先にあがってしまっても良かったのだが、なぜか逃げてはいけないような気もしていた。
というより、男の他に誰もいない空間に一人放り出されることに、どういう訳か恐怖を感じていたのだ。辺りに立ち込める煙と湯の温かさだけが、私を守ってくれているような気さえした。
「十年前に、妻とこの温泉に来ましてね…。」
予想された答えだった。男はその思い出とともにこの温泉を訪れたのだ。男は妻と、おそらくは別れているか、あるいは妻は既に亡くなっているかのどちらかだろう。
「それ以来、妻の行方が分からないんです。」
私はぎょっとして男の顔を見た。予想を裏切る答えだった。男は続ける。
「その時も今と同じ季節で、時間も同じくらい…閉館まで一時間を切るくらいの夜遅くでした。私は他に客の誰もいないこの浴場を独り占めし、大いにくつろいでから待ち合わせ場所のロビーに向かいました。それほど欲しい訳ではなかったけれどコーヒー牛乳を購入して一気に飲み干し、流れているテレビのニュースをぼうっと眺めていました。するとフロントの職員の男性が私に近寄ってきて、言ったんです。」
そろそろ閉館のお時間です…。
私は、妻がまだ戻ってきていないので彼女が来たらここを出ます、と答えました。それに対し職員は、怪訝な顔で私に返してきたのです。
「女湯には、もうどなたもいらっしゃいませんが…。」
それが妻との別れになるとは、予想もしていませんでした…。
「以来、私は毎年のようにここを訪れて、妻の痕跡を探しているというわけです。警察にも届けました。何か手掛かりが無いかと思い妻の友人や親類にもいろいろ話を聞き、駅前でビラ配りすらしました。でも妻は見つかりませんでした。犯罪に巻き込まれた形跡も無く、失踪する理由も心当たりがありません。妻と私は、とても上手くいっていたんです。だから余計に訳がわからない…。」
私は何と返したらよいか考えあぐね、ようやくにして一つだけ、聞いた。
「奥様の、その…遺留品とかは無かったのですか?」
男は首を振って答える。ホテルに旅行カバンはあったが、ここに来たときの持ち物は何も残って無かったという。
「ということは、先にあがった奥様が、一人でこの温泉を後にしたと…。」
「フロントの職員が妻の姿を見ていました。一人で浴場から戻ってきていったんソファーに座り、それから自販機の方に向かったところまでは確認できているのですが、その後はわからない。建物を出たのかどうかも、誰も目撃していない。」
天井から水滴が落下し、湯に撥ねて音をたてる。浴場には相変わらず男と私の他には誰もいない。脱衣所の方に視線をやるが、そこにも誰かがいる気配は全くない。
「そろそろ湯あたりしそうだ。私は先にあがります。あなたはどうしますか?」
閉館時間が近いのは知っていた。男の話を聞いていて思いのほか長湯してしまっており、私の方が湯あたりしそうな状況だったが、なぜか私はこの男と行動を共にすることに躊躇いがあった。同じタイミングで脱衣所に戻り、同じタイミングでロビーに向かい…それは、なぜかやってはいけないような気がした。
「もう少しだけ、湯につかっていきます。やわらかい湯ですね。体の芯まで温まってきました。」
男はそこで笑顔を見せた。でしょう…と言わんばかりの表情だった。
「では、良い一人旅を。私はこれで…。」
それじゃ…浴槽の中から、私も男に会釈をした。奥さんが見つかるといいですね、と言おうかと思ったが、それは心の中のつぶやきにとどめた。
体を流し脱衣所に戻ると、数人の男性がタオルで体をふいたりドライヤーで頭髪を乾燥させたりしていた。露天風呂の方にいたのだろうか。閉館時間は十五分後に迫っていた。私は辺りを見回し先ほどの男の姿を追ったが、既に立ち去っていたようだった。
ロビーに戻り、男の話していたコーヒー牛乳が気になり売店で購入する。腰に手を当てて一気飲みをした。瓶を返したところで「蛍の光」が流れ出し、本日の営業時間終了を知らせるアナウンスが館内に響く。
山国の深夜の空気は冷たい。私は小走りで駐車場に向かい、ポケットにあるはずのキーを探りながら、近くに立つ掲示板に何気なく視線をやった。
“情報求む。行方不明者”
その言葉の下に男性の写真があった。
山から下りて最初のコンビニの駐車場で、私は電話をかける。相手は上田駅に近いホテルにいるはずの妻だった。七コールほどで出てくれた。
「テレビを見ながら眠っちゃった。どうだった、温泉は…?」
私は心底ほっとした様子の声で答えたのだろう。妻は、どうしたの? と怪訝な様子で聞き返してきた。
大丈夫、すぐに戻るから…。
私はそう答えて電話を切った。エンジンを吹かし、その場を後にする。やがて私の車は国道に出た。沿道に街の灯が増え始める。信号に停止したところで私は後ろを振り返り、男の気配が無いことを確認すると、そこでようやく大きく息をついた。