表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/67

第40話 鎌倉の支配者、北条氏と長崎氏

☆ 北条祖先の平直方と頼朝祖先の源頼信 ☆


 源頼信が平直方の娘を娶り、屋敷を譲り受けたのが河内源氏と鎌倉の縁。頼朝が直方の子孫、北条頼政を後ろ楯に、鎌倉で幕府を開くのは必然だったということか?!('19/12/30)



☆ 地元の人が作ったのか?!なんちゃって淡河城 ☆


 先日たまたま道の駅に寄ったら、目の前にこんなものが……('20/03/09)※写真は割愛


 これ「おうご」と読みます。調べると、淡河氏は北条義時の弟、時房の子孫。こんなとこにも北条氏が居たんですね。('20/03/09)


 二層の城?が何とも言えぬ味を……表現に困りますね('20/03/09)



☆ 朝敵の北条時行が、いつの間にか南朝方! ☆


 私もてっきり南朝側から(誘ったん)だと思い込んでました。('21/08/27)


 ノーマークだったのでよくわかりませんが、(南朝側となったのが二度目の)北畠顕家上洛のときだとすれば、両方ありえますかね?!。背に腹はかえられぬ顕家が、吉野は説得するからと言って誘ったとも、逆に時行の申し出を渡りに舟と飛び乗ったとも……。('21/08/27)


 もしかすると北畠顕家が吉野に行ったのは、時行の為だったんじゃないかと想像が膨らみます。時行を(後醍醐天皇に)引き合わせて、赦免を受けるために……というのはどうでしょう、小説ネタに!('21/08/27)



☆ 真の権力者、北条氏の御内人筆頭、長崎氏 ☆


 1293年5月29日(正応6年4月22日)は、霜月騒動で権力を掌握した北条の内管領 平頼綱(長崎氏)が誅殺された日!ちなみに、その甥とも言われるのが長崎円喜。('20/05/29)


 平頼綱は、平清盛の系譜と詐称(?)していたようですが、幕府の中で清盛の子孫と称するメリットは何だろう。北条得宗家にとって代わろうとすることの正当性か。('20/04/05)


 (長崎氏の)家祖の平資盛は、平重盛の子で平清盛の孫。つまり清盛の子孫である平頼綱や長崎円喜が鎌倉幕府の実権を掌握していた……あ、でも、家系は詐称らしいですが。('20/05/29)


 箔を付けるためだったんでしょうねぇ!でも、代々、御内人だった頼綱が急に清盛の子孫だと声を上げるのも不自然。案外、本当だったりして(幕府の中では肩身が狭いから隠していたとか)。そう考えるのもロマンがあります。('20/05/29)


 今日の(NHK BS)太平記も、長崎円喜・高資親子の傲慢さがよく描かれていた。高資の資は、平資盛の資なんだよね!真偽は兎も角として、長崎一族は平清盛・重盛・資盛の子孫だとプライドを持ってたんでしょうね!('20/05/29)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ