表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/67

第19話 北畠親房の三男 顕能

☆ 北畠三兄弟と楠木三兄弟 ☆


 北畠親房の三人の息子。つい、楠木三兄弟と対比させたくなる。目覚ましい活躍の後に壮絶な討死をした嫡男(顕家⇔正行)。あまり目立っていない次男(顕信⇔正時)。父兄の後を受けて南朝を支えた三男(顕能⇔正儀)。('22/05/10)


 三男の北畠顕能は伊勢北畠家の祖。父、親房亡き後、従一位右大臣となって廟堂で帝を支えた。父に続いて准三后の地位を与えられたとも伝わる。幕府に対してはいわゆる強硬派で、和睦派の楠木正儀とはバチバチであったと考えられている。('22/05/10)



☆ 正儀の前に立ちふさがる顕能 ☆


 長慶天皇の後ろ楯となっていたのが北畠親房の三男、北畠顕能。この顕能が後期南朝を読み解く鍵。('20/08/09)


 突如、長慶天皇は学晶山栄山寺に出奔して行宮を構える。ここで北畠顕能は東宮傅(皇太子の教育係)に任じられたとされるが、この東宮は恐らく皇嗣熙成親王(後亀山天皇)ではなく帝の二の宮、憲明親王。つまり、長慶天皇は皇嗣を無視して自らの血統に譲位を考えていたんだろう。('20/08/09)


 たぶん画策したのは北畠顕能。内大臣四条隆俊も既に亡く、強硬派の失策も重なり、徐々に台頭する和睦派を牽制するためか。('20/08/09)


 正儀の南朝帰参がこの二年後。北畠顕能はまだ生きていた。見方によっては皇嗣熙成親王の践祚を求め、顕能と対決するために戻ったように見えなくもない。心酔する後村上天皇の遺言を守らんがためか。一年半後に顕能が亡くなる。そして後亀山天皇を即位させ、その功で参議に就任する?!('20/08/10)



☆ 北畠顕能は准三后だったのか ☆


 准三后は内親王や帝の母となった後宮や外戚などに与えられていた称号。北畠親房は外戚以外で准三后を与えられた初めて(?)の公卿と言われている。しかし、奥州に奉じられた後村上天皇が養父と見なして与えたという意味では大義名分はありそう。('20/10/20)


 問題は、その後に准三后となった二条良基や北畠顕能。('20/10/20)


 息子の北畠顕能も准三后だとすれば、その名分が気になる。 伊勢に居たから長慶天皇の養父という感じはしないし……。後世に伝わってない名分があったのか、もはや名分などどうでも良くなっていたのか……そもそも准三后になっていなかったのか。('20/10/24)


 南朝公家の日記とか残ってればいいんだけど。吉野や賀名生の行宮も燃えてるし、天野からも追われるように脱出してるし、合一で京に戻った公家も大量の日記とか持って帰る余裕もないから仕方ないけど。伊勢の北畠家が残ってたらなぁ。('20/10/24)


 北畠顕能が准三后となっていたのなら、その名分が気になる。 伊勢にいたので父の親房のように養父という感じはしない。実際に長慶天皇の肉親(叔父)だったんじゃないだろうか??……('20/11/14)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ