序章׳ד:貴方の名前は。
ニホン――。
いよいよ分からなくなってしまった。
ここは俺の住んでいた世界なのか、それとも違うのか。
でも待てよ、普通にニホンで終わるか……? 普通ならもっと詳細な情報まで喋らないか? 新宿とか、渋谷とか、そもそも東京なのかも分からない。
「えっと、ニホンのどこ――」
そう言いかけて、それはダメだと気付く。
軽蔑の、怒りの、冷たい、でもどこか望んでいる二つの視線が俺を見ている。
それらは、何を望んでいるのだろう。
記憶ちゃんを失っているのかな?
その時、質問されていたことに気付く。
俺は緊迫した空気の中、それに答えた。
「そう、です」
それは本当だ。転移する前にコンビニに行っていたこと以外は何となくの生活くらいしか覚えてない。
だが、なぜかそれ以上喋れない。
どうしても別世界から来たような記憶はある、など言えない。
そう、この目はこの世界への無知を軽蔑するような目だ。
そしてその目は、俺が答えると共に元に戻っていって――。
「そうですか。良かったです」
二人とも元の雰囲気になって、最初に口を開いたのはミシュリーヌだった。
記憶喪失である――その事実で正解だったらしい。
しかしそれ以外なら、どうなっていたのだろうか。何が良かったのか。
俺が異世界転移してきたことを伝えるのは得策ではない、本能がそう告げる。
急に一つ不信感が芽生えた。
「どうしましたか、お料理冷めちゃいますよ」
ここでミシュリーヌは話題を逸らす。
いつの間にか俺の食べる手が止まっていたのだ。
「あ……ありがとう」
少し緊張がほぐれて、思わずタメ口できいてしまう。
その後慌てて「ございます!」と付け足すと、ミシュリーヌは笑った。
「大丈夫ですよ、タメ口でも。ほら、アニーはずっとタメ口じゃないですか。私は敬語なのが癖なんです」
「あ、そうなんです……そうなのか」
しかし実際タメ口にしようとすると敬語が混じってしまう。コミュニケーションになれていない所為か、それが普通なのかは分からないが、難しいものである。
先程の空気が戻ってきた。あの緊張した空気は何だったのだろうか。そう思っていると、アニーが訊いてきた。
「ところで、名前ちゃんは分かるの? 私ちゃんもそっちちゃんのこと知りたいな」
名前――上を見て思いだして、俺は言おうとする。
考えてみれば自己紹介なんて久しぶりである。
しかし……
あれ?
「何だっけ?」
俺は正直に言葉を発していた。
どうしても、思い出せない。
「そこまで記憶を失っているんですか……」
俺は途端に自分が怖くなってきた。
思い出す、思い出そうとする。
どんどん記憶が消えていく。思い出そうとするにつれ、それは感覚になっていく。
俺は転移前の記憶以外は全て文字と間隔に還元されていたことに気付いた。
先程はもう少し、思い出せたのに。
映像として、何も思い出せない――。
「御免、何も覚えてない。本当に」
俺は、どうしてしまったのだろう。
ひょっとしたら転移の時に失って、それを今まで持っていると錯覚していたのかもしれない。
「何も覚えてない、記憶喪失ちゃんか――。じゃあ、喪失のにっちゃんってどう? そう名乗れば……」
「いやなーーい!」
……思わず叫んでしまった。
しかしそれにしてはどうだろう? その名前……とも言えない名前は。
てか……それ名乗るって逆に思ったのか!
「ま、まあそうですね……名前なら、ルイ……なんてどうでしょう? 安直ですけど、似合っていると思います」
そこで出た提案に、少し俺は落ち着きを取り戻す。
ルイ……か。
なぜすぐに人間らしい名前を、しかも普通っぽい名前をすぐに思いついたか、それは分からない。
しかしその響きは心地良くて、アニーの人とは考えられない名前の後だからか、とても良い気がしてきた。
やはり最初から分かっていたことだが、ミシュリーヌはアニーとは思考回路が大違いである。数倍、いや数十倍の差がある気がする。
まあ、そう感じるのはアニーがレベル低い所為だからなんだが。
まあ取り敢えず。
「ありがとう。しばらく使わせてもらうな」
気持ちだけでも伝えておこう。
そう思った。
改めて、シチューが美味しい。
暖かくて、トロッとしてて、具との見事な調和がたまらない。
そして……。
「ミシュリーヌ! アニー!!」
空気をかき乱すように玄関のドアが開く。
突然大声でアホ毛を生やした黄土色の髪の少年が入ってきた。
年齢は大体同じくらい、顔は整っていて、温厚なイメージを受ける少年。
彼はミシュリーヌとアニーを見つけると、また叫んだ。
「今すぐI-8ダンジョンに行こう!」
「……え? どうしたのですか、ロラン」
何が起きたのか。アニーもミシュリーヌも把握できない。
そして当然俺も把握が出来なかった。
「グレゴが、先に行ってしまったんだ……」
グレゴ……彼女らの様子を見る限り、名前らしい。
だとしたら彼女らの仲間、即ち五人の中の一人だろう。となると恐らくこの黄土色の髪の彼も仲間……。
なら状況としては大体、仲間が危険な場所に一人で行ってしまった、ということか?
「嘘でしょう!? まだマチルダも帰ってきてないのに……」
「僕だって止めたよ! 止めたけど……グレゴが自分は今すぐいかなければいけないんだって……」
「意味が分からない!」
意味が分からないのは僕もだよ、とミシュリーヌの声に彼は応える。
そして彼はアニーの意見も仰ごうと視線を切り替えようとして、俺を見た。
「……君は、誰だ?」
警戒心が感じられる。
誰……俺はそれに応えられなかった。それは俺自身、誰か分からないからだ。
そんな中アニーが答える。
「この人ちゃんはルイ(仮)ちゃん。記憶を失った冒険者ちゃんだよ」
そうか、そう答えればいいのか。
俺は自分が何を考えていたのか分からなくなりながら、納得した。
まあ、冒険者ではないのだがここはスルーすることにしよう。
それよりも(仮)と普通に言葉で言っている時点でおかしい気がする……が、それは我慢しておくか。
するとロランは苦笑し、こう呟く。
「そうか……流石はミシュだね」
――ミシュ。ミシュリーヌ。
彼がどこまでこれだけで察したか分からない。しかしアニーのその情報だけでそう言えるとはこいつ、結構な察しの良さを持っているのかもしれない。
するとロランは微笑み掛けながら、
「宜しく、ルイ君」
そう手を差し伸べた。
俺は一瞬躊躇する。しかしここは、握手に応じるべきだろう。
そう手を出したその時、
「ロランちゃん! 早くして!!」
その握手を遮るようにアニーは呼びかけた。
そうだ、この三人は移動するのだ。
仲間のために、死地へ……。
――俺はどうするべきだろう。答えはぼやけてしまう。
「ルイ君。君はどうする?」
手を戻して平然とした顔でロランは訊いてきた。
拒む、断る。
咄嗟に出る案はそればかりだ。しかしそれをしたところでこの人達と離れてはいけない気がする。
折角最初に会ったのも何かの縁だ、はぐれてはいけない。
ならば、
「付いて行く」
ダンジョンに行く。
それだけでも命が保証されていないことが分かる。
そもそも俺はチート能力どころか何も出来ないのだから、行って邪魔になるだけかもしれない。
それでも付いて行く。なぜであろう。
それは、謎の運命的感覚だった。
「出来る限りアシストはするけど、生きて帰る保証はないよ?」
ロランが確認を取る。
俺は改めて確認して、自分に冷笑してしまう。
そして頷く。
するとロランはそれを見て、爽やかな口調でそう言った。
「分かったよ」
と。