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レポート  作者: 篠森京夜
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 今でも何故あの時そのまま帰らなかったのかわからない。興味が湧いたというのは本当だ。彼は私が今までに見た人間の中のどのタイプにも当てはまらなかった。大胆なようでもあり、繊細なようでもある。幾つもの要素が絡まり、それらがまた新たな要素を作っていく……そんな感じだった。

 しかし、私は人間の観察者ではあるが、人間と関わるのを恐れていたはずだ。私が人間観察の中で積極性を示したのはこれが初めてのことだった。『第六感』とでも言うものだろうか? 私は彼を通じて人間を理解する為に必要な『何か』が得られることを感じ取っていたのかもしれない。

 それは真理というほどのものではなかっただろうが……今にして思えば、私にとってなくてはならないものだった。

「興味って? ……どういう風に?」

「私は人間の観察をしているの。貴方は今まで見たことのない、奇妙なタイプの人間だから観察しようと思ったの。それだけよ」

「それだけ?」

「ええ」

「……なるほど」

 健児は唇に指を当てて目を閉じると、笑みを浮かべた。

「なるほど!」

 彼はもう一度同じ事を呟いた。しかしその声には勢いとリズムがあった。そして再び開いた目には、感情の煌きが浮かんでいた。

「僕は栄えある君の実験対象か。それは光栄だね!」

 健児は笑いながら右手を胸に当てた。

「さあ、何から始める? 胸を開いて解剖かい? 脳を取り出すか? 何でも構わないよ?」

「私の観察は見つめるだけよ」

「それは……ちょっと悲しいね」

「そう?」

「そうなんだよ。お互いをよく理解しなければいけないね……見つめるだけじゃなくて」

「……そう?」

「…………そうなんだよ」

 彼は小さく笑った。

 そして、彼の瞳は再び泣き出しそうになった。

「そうなんだよ……厄介なことにね」

 彼は小さく笑い、私は笑わなかった。

 彼の腕が私の肩をつかみ、唇と唇が触れる。

 私は抵抗しなかった。


 初めて触れた異性の体は、私に様々なことを教えてくれた。他人の唇の感触や体温、男という存在が自分とは違った匂いをしていること。そしてそれが夏の草の匂いと似ているようで、少し違うこと……そんなことだ。

 健児は唇を重ねたまま、私をそっと草の上に横たえ、抱き締めた。やがてゆっくりと唇を離し、私の胸に顔を埋め、静かに泣き始める。私はその間、青い空を見つめていた。

 昨夜は低気圧が通過した為、空は綺麗に澄み渡っていた。連なる木々の上に広がるコバルトの空色は上空に向かうにつれて濃度と鮮やかさを増し、深く透き通った紺色へと変わる。上空からは薄いカーテンのような雲がたなびき、その下に大きな積乱雲が成長していく。

 ……何処までも……夏の空だった。


「ごめん」

 彼は起き上がって呟いた。

「別にいい」

 いい加減に私は答えた。

「……ありがとう」

「何が、ありがとうなの?」

「何だろうね。自分でもわからないよ」

 呟き、彼は私の額にキスをした。彼の目は涙で濡れていた。

 しかし表情としては泣いているようには見えなかった。

 不思議な男だ。私はそう思った。


「初めて会った君にこんなことしてすまないと思う」

 私が服の乱れを直していると、健児は低く呟いた。

「これからはこんな乱暴なことはしない……本当だ」

 健児は真剣な瞳で私を見つめた。

「僕がやったことは良くないことだとわかってる。初対面の人に……しかも君みたいな綺麗な女の子に……こんなことをするなんて、とても許されることじゃないって思ってる。責任を取るよ。それから、信じてくれないかもしれないけど僕は……」

「構わないわ」

 私は健児の言葉を遮った。

「私は何も気にしてない」

「……そう……」

 健児は少し安心した様子で呟き、

「でも、それはそれで嫌だなあ……」

「はっきりしないのね」

「……そんなものだよ」

 困ったように言った。男というものはこんなものなのだろうか?

 と、私はあることに気がついた。

「さっき、これからはって言ったけど……これから貴方ここにいるの?」

「多分夏の間はここにいると思うよ。親父次第だけどね」

「引っ越してくるの?」

「どうかな」

 彼はゴロリと草の上に寝転んだ。それからズボンのポケットからクシャクシャになったタバコの箱と小さなマッチ箱を取り出した。

「タバコ吸うの?」

「これでも苦労の多い人生を送ってまして。煙が嫌なら吸わないよ」

「構わないわ。観察対象に干渉はしないことにしているから」

「構わない……か、君はそればっかりだ。本心が見えない」

「人間じゃないから『本心』なんてないわ」

「……なるほどね」

 健児は器用に唇でタバコを取り出すと、マッチを擦って火をつけた。二、三回煙を吐き出し、その様子をじっと観察していた私の顔を見つめ返す。

「君はとても不思議な目をしている。まるで本当に人間じゃないみたいだ」

「どういう意味?」

「人間を『観察』するって、普通だったら冗談みたいだけど……君が言うと真実味がある。君の目は本当に心の中まで見通していそうだ」

 健児は私の瞳を覗き込み、囁いた。

「君は何者だい? 宇宙人かレプリカントかい? それともその他の何かか……」

「…………」

 私は戸惑っていた。ここまで私の本質に迫った者は初めてだった。一番触れられたくない所に鋭い刃物が突きつけられた気さえした。しかし健児は急に悪戯っぽく笑うと、勢いよく立ち上がった。

「別に構わないよ。君が誰でもね」

 健児は髪を掻き上げて後頭部を掻いた。

「そろそろ戻ろう。親父の話も終わってるだろ……『構わない』って悪くない言葉だね。そう思うよ」

 それから足元に置いてあった二冊の文庫本に気づき、拾い上げて苦笑した。

「結局、本は読めなかったね」

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