7
その日、私は学校で行われた夏休みの補習から帰るところだった。
叔父の家は中心街から離れた農地にあった。最寄りのバス停までは未舗装の砂利道で、途中農業用水路を兼ねた幾つもの小川が道を分断している。叔父の家は、その中でも最も大きな小川にかけられたコンクリートの橋を越えた所にあった。私はバスを降り、いつものように砂利道を歩いていた。
暑い日だった。辺りの雑木林からは嵐のような蝉の声が響き、陽光は空ばかりでなく土や川面にも反射して顔を照らしつける。額の汗をぬぐい、うつむき加減に歩きながら息を切らせ……やがて見覚えのあるコンクリートの橋に辿り着いた私は、幽かな安堵と共に顔を上げた。
……と。
私は一人の少年が欄干にもたれて本を読んでいることに気がついた。
同い年くらいの少年だ。大きな黒地の傘を欄干に縛りつけて日陰を作り、本を読んでいる。そんなことをしても熱いだろうに、と私は思った。事実、半袖の白いシャツから覗く少年の細腕は傘に納まりきらず影からはみ出し、首筋はじっとりと汗ばんでいる。
奇妙な行動をとる男だ。
私はそれ以上気に留めることもなく、家への道を急いだ。
その時。
「ねえ、君が花村綾菜さん?」
不意に少年が私に声をかけてきた。
私は振り返った。どうして私の名前を知っている? 過去に会った事があっただろうか? 素早く記憶を検索したが、該当する項目は見当たらない。
すると少年は傘の下から顔を出し、意外そうに言った。
「あれ、当たり? 当てずっぽうで言っただけだったんだけど」
立ち上がり、汚れた背中を払う。
「僕は新塚健児。よろしく」
それが一人目の『ケンジ』との出会いだった。
「どうして私の名前を知ってるの?」
私は自分でもよくわからない苛立ちを抱えながら訊ねた。
「名前? それなら……ほら、ここに書いてある」
彼は手にした文庫本の表紙の裏をめくってみせた。しかし、私には表紙を見ただけで十分だった。
「それ……私の本よ」
今朝、学校に行く前に読んでいた本だ。それがどうして。
「うん、そうらしいね」
睨みつける私の視線を気にもとめず、彼は平然と答える。
「フィリップ・D・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』……凄いの読んでるね」
「どうして貴方が持っているの?」
健児は髪を掻き上げると暑そうに頭を掻いた。
「今日、君の家に親父と一緒に来たんだ。親父は君の叔父さんとまだ話をしてる。それで暇になってさ、何かないかなって思ってたんだけど……あの家は文化レベルが低いね、ろくな本がありやしない。それで探してるうちに君の小屋に辿り着いたんだ」
「中に入ったの?」
「真理への門は万民に開かれるべきだ。それに君の小屋、鍵が掛かってなかったよ?」
「……だからって!」
私は健児を睨みつけた。別に見られてまずいものがあるわけではないが、自分の内面を覗き見られたような嫌な気分だ。
「勝手に中に入ったの? しかも人の物まで勝手に取って……!」
「ほんの数十秒だよ。とても長くいる気にはなれなかった。君の部屋は暑すぎる。あれは人間の住むところじゃない」
健児が本当に嫌そうな顔をする。
「……いいのよ。私、人間じゃないから」
呟き、私は本を返すように言った。ついムキになってしまったが、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。
「人間じゃない、か……面白いことを言うね」
健児はしげしげと私の顔を眺めると、やがて笑い出した。
「何? ……何が可笑しいの?」
「いや、面白いこと言うなあって思ったから。ごめん、本は返すよ」
彼が本を差し出す。
「……うん」
私は本を受け取った。文庫本の表紙は少し熱っぽかった。
「ねえ、後で別の本を貸してくれないかな?」
「別に……いいけど」
私は曖昧に返事をした。できればこれ以上関わりたくはないのだが、初対面でデータ不足の相手に対しては、過剰な干渉を避ける為に当たり障りのないことを口にする癖が身についてしまっている。しかしそれとは別に、何故か彼のことを完全に拒絶する気は起きなかった。彼は欄干に取りつけた傘を苦労して外していた。
「それから、何処か涼しいところを知らないかな? ここは暑い」
健児は外した傘をくるりと回し、太陽を見て呟いた。
「これはいいアイディアだと思ったんだけどな」
「……そんなことしても無駄よ」
「そうみたいだね」
健児は苦笑した。
強い夏の陽射しの中、黒い傘を広げた彼の姿は奇妙だった。